危険な依頼2

「はぁっ、はぁっ……まさかこんなに降るなんて」


 1歩先すら満足に見えない濃霧に包まれた山をざあざあと雨が濡らす。細い杉の下に駆け込んだルイスは、荷物を降ろして上着を脱ぐ。


 冒険者の身体は様々な『天恵スキル』によって強化されているためそう簡単にはへこたれないが、彼らの死因として低体温症は珍しくない。魔物というわかりやすい脅威にばかりに気を取られて自然を侮ると痛い目を見る。魔物は斬り伏せてしまえばどうとでもなるが、雨が降るのはどうしようもないのだ。


「探知系の天恵は持ってないし……こんな中で迂闊に動けば────」


 崖下に滑落し、血の海に沈む己の姿を想像するルイス。物語に出てくる勇者は山すら軽々飛び越えたと聞くが、彼は一般冒険者である。そんな芸当はできない。ため息をついたルイスの鼻を、強い雨の匂いがくすぐる。


 ルイスが諦めて木の根に腰かけたその時だった。ちゃりん、ちゃりん、と金物が当たる音が、霧の向こうから聞こえ始めた。


「鎧の音……! 冒険者か!」


 こんな山奥で鎧を着るのは冒険者くらいである。ルイスは立ち上がり、声を上げる。


「おーい! 誰かいるのかー!」


 返事は無く、だが鎧の音は確実にこちらへ近づいてくる。落ち葉を踏みしめる足音と共に姿を現したそれは、ルイスの想像よりずっと小さな影だった。


 フードをすっぽり被ったマント姿の白い少女は、半開きの目でルイスを見つめる。……カウンターで居眠りを決め込んでいた新人受付嬢のレティシアである。レティシアの前髪についていた雫が弾ける。

 

「なっ!? レティシア? なんでこんなところに」


「いいからついてきたまえ。ここはじき


 そう言いながら霧の向こうへ歩き去ろうとするレティシアをルイスは慌てて追いかける。


「ま、待ってくれ! 無くなるってどういう意味だ!」


「君、この辺りの木々を見たまえ。そして鼻から深く息をすいたまえ」


 ルイスはレティシアを追いかけながら木々を探る。さっき雨宿りに使ったような細い杉が立ち並び、息を吸えば雨の匂いで肺が満たされる。

 この濃霧の中にありながら全てが見えているかのように歩くレティシア。その小さい影がひょこひょこと上下するたびに、ちゃりん、ちゃりん、と金物が鳴る。


「この辺りはね、実は比較的”若い”人工林なのだよ。そしてこの強い雨の臭い、いや、正確には土の臭いなのだが」


「おい待て! 迂闊に動くと危険だぞ!」


 ルイスを無視してすたすたと歩くレティシア。


「そしてあの依頼。随分と報酬が良かったね。相場よりもかなり良い。これは何故かわかるかね?」


 レティシアの落ち着いた声に、ルイスは汗を滲ませる。何か、何かとんでもないことを見落としていて、今自分が立っているこの場所が、だんだんと死の淵に塗り変えられていくような悪寒がルイスを襲う。


「需要に対して供給が減れば単価が上がる。この山で取れる薬草は供給不足で、だから報酬があんなに良かったのだよ。では、何故供給不足に陥っていたのか」


「……長雨だな」


 この土地この季節では珍しく、最近はしょっちゅう雨が降っていた。冒険者に変人多しと言えど、好き好んで雨の山に赴く者はそう多くない。だから、この山で薬草を取る依頼はあまり受注されていなかったのだ。


「ところで君、今日の日付は?」


「4の月の2日だな……それがどうかしたのか?」


「4月と言えば何を思い浮かべる?」


「なんだ藪から棒に……そうだな、ミモザの花、種まき、春祭り……後は、雪解……け……」


 突然2人を地響きが襲い、木の裂ける音が斜面を下ってくる。


「雪解け水と雨水で、この山はとっくの昔にになっている。この山はだね、今日この日に限って、死の山なのだよ」


「逃げるぞ!」


 ルイスが投げ捨てた籠から薬草がこぼれる。彼はレティシアを小脇に抱えて一気に斜面を走り出す。


「しかもここはまだ根の張りが浅い若い森。そして土の匂いは地すべりの前兆の1つだ。まぁ私はこれに少々懐疑的なのだが……用心に越したことはない」


「喋ると舌嚙むぞ!」


「右に曲がりたまえ、崖に落ちるぞ」


 目の前に突然現れた崖を間一髪で躱すルイス。


「お前この霧の中で目が見えるのか!?」


「まさか。前に通ったことがあるだけだ」


◆◇◆


 レティシアの指示通りに何とか麓にたどり着いたルイスが、雨の草むらに大の字に倒れ込む。霧に包まれた山を見上げるレティシア。


「はあっ! はあっ!」


「さすがは金級、麓まであっという間だったな。だが、すぐにここを離れた方がいい」


「え─────?」


 微かに響き始めた地鳴りがだんだんと大きくなり、ルイスは思わず飛び上がって山から後ずさる。無言で手を差し出すレティシアを抱き上げ、走り出すルイス。


 次の瞬間、木々を薙ぎ倒しながら轟音と共に斜面を下る岩と土砂の濁流がルイス達の背後に飛び上がる。レティシアを庇うように前方へ飛び込むルイス。さっきまで走っていた所へ大岩が突き刺さり、重い音と泥と水飛沫が辺りに飛び散る。振り返れば、青々としていた山肌が大きく抉れ、泥と岩が渾然と積もっていた。


 泥にまみれ、目を見開いて、呆然とその様を見つめるルイス。その足元にカラカラと転がってきたのは、さっき彼が山で投げ捨てたあの籠だった。

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