えんたんぐるめんと

鏡 大翔

えんたんぐるめんと

 「なあ、犬飼。お前にちょっと頼みがあるんだけど」

そう言いながら、ノックもせずにスーツの上から作業着の上着を羽織った男が研究室に入ってきた。

 今は昼休憩であるため、学校の教室二つ分はある広々とした広い研究室にはくたびれたスーツと白衣を纏った男──犬飼以外の研究員や職員はいない。

「なんだよ、平坂。見ての通り、僕は今昼休憩中だ。後にしてくれ」

「昼休憩中って言っても、どーせスマホでゲームしてるだけだろ。……ちょっと俺のコネクターの修理をしてほしんだよ。お礼にブラックコーヒー持ってきたから」

 そして平坂はチョーカーのような機械と缶コーヒーを犬飼に投げ渡す。

 それらを犬飼は危なっかしくキャッチして

「おい、コネクターは精密機械なんだから雑に扱うなよ。……で、修理ってどこか不具合でもあったのか?」

 平坂は缶コーヒーと一緒に買ってきたホットココアをちびちび飲みながら答えた。

「ああ、なんかテレパシー接続していないはずなのにうちの妻と勝手に接続ささるんだよ。もちろん妻は繋いでいないって言ってるし」

「……わかったよ。ちょっと見てみる。ただし、缶コーヒーでは割りに合わないからな。なにせ業者に頼めば普通にニ、三万はするんだからな。だから今度一杯奢れ。それで勘弁してやる」

 受け取った缶コーヒーを飲みながら犬飼はチョーカー型の機械──コネクターを専用の機材に接続する。そしてその機材がコネクターから読み取ったデータをパソコンで見ながらふと疑問に思ったことを口に出す。

「あれ? 平坂ってコーヒーダメだったっけ? 前はよくコーヒー飲んでた気がしたけど」

「ああ、なんか匂いが苦手で。最近は飲まないようにしているんだよ」

「ふーん、そうか。……そういえば、平坂が研究所の方に顔出すの珍しいな。お前の仕事は深海での調査が主だから、研究所なんて滅多に来ないのに」

「今日の午後、次回の深海調査のミーティングがあるんだよ。だからついでにお前のとこ寄って、俺のコネクターを見てもらおうと思ってな。なにせ犬飼の専門はテレパシーの研究だろ? 深海探索で使ってる社用のコネクターの調整もお前がしてるし」

「だからって私用のコネクター持って来んなよ。僕は便利屋じゃないんだぞ」

 そんな雑談に興じながらも平坂のコネクターの解析は進む。

 そして十分ほど経過した後。

「よし、とりあえず解析は終了だ。あとは不具合を起こしている箇所を再設定し直して……。いや、嘘だろ? あり得るのか? いや、あり得るのか。確かに理論上は可能だけれども、ミクロ世界でそんなこと起こりうるのか?」

 なにやら犬飼が難しい顔をしてぶつぶつ言い始めたのだ。

「どうした? そんなに深刻に壊れてんのか?」

「観測者は平坂か? とすると平坂の認識が更新されれば観測も再実行されるのか? ならば伝えないほうがいい? いやでも、おそらく…………」

 平坂が話しかけても、犬飼は自分の思考の迷宮に没頭していて返事すらしない。しかし、犬飼と付き合いが長い平坂はこんなときの彼の扱いを心得ている。

「戻ってこいっ!」

 その掛け声と共に強めに犬飼の頭を叩く平坂。

 すると、

「痛っ……。何すんだよ急に」

「疑問を自己完結させるのをやめろといつも言ってるだろ。どうした? そんなに俺のコネクターは致命的に破損しているのか?」

「…………」

 少し不安そうに平坂に対して、犬飼は少し押し黙った。

 そして、何かを覚悟したような表情で慎重に口を開く。

「いいか、平坂。これから順を追ってお前に僕の仮説を話す。きっと結果だけ言われても納得しないから一から説明するよ。……その前に一つ聞きたい。最近変な体験をしていないか? よく奇妙な夢をみるとか、デジャブを頻繁に感じるとか」

「あー、言われてみればあるな。昨日は俺が葬式に出て号泣している夢を見た。誰の葬式かは思い出せないけど……。あとはそうだな。ちょっと違うかもしれないけど、急にコーヒーが飲めなくなったな。なんかあの匂いが苦手になった」

「そうか、わかった。なら多分僕の仮説は正解だな。……順を追って話す。まずは僕らが日常的に使っている技術化されたテレパシーの原理についてだ」

 犬飼は白衣のポケットに入れた財布から二枚の硬貨を取り出し、それをテーブルに並べ、説明を続ける。

「平坂の仕事──海底探査でも用いられるテレパシー技術。その原理は知ってる?」

「知ってるわけねーだろ。あれって確か量子力学の分野だろ? 俺の専門は物理学じゃなくて生物学だよ」

「ならまずは量子もつれから説明するよ。……量子力学には量子もつれという現象がある。わかりやすく二枚の硬貨で例えるぞ」

 犬飼は二枚並べた硬貨のうち一枚を平坂に渡して説明を続ける。

「この二枚の硬貨が量子もつれの状態だと仮定する。そして片方を平坂が、もう片方を僕が保有する。平坂が硬貨の表を上にすると僕の硬貨は自動的に裏が上になるんだ。そしてこれは僕ら二人がどんなに離れていても瞬時に、誤差なく起こるんだよ」

「……? それがテレパシーとどう関係するんだ?」

「この量子もつれを利用すれば距離も時間も関係なく、瞬時に情報を伝達することができるんだよ。さっきの例で言えば、『平坂の硬貨は表を上にしている』という情報が瞬時に僕の硬貨に伝達されて、僕の硬貨は裏が上になったということだな。これを人間の脳同士でコネクターを介して行い、互いの五感情報を送受信するテレパシーの基本原理さ。そしてこの情報伝達システムの最大の利点は電磁波という不安定な媒体を用いていないため距離や地形、天候に左右されず通信が行える点にある」

「そう言えば、深海の調査が進んでいなかった要因の一つが、深海では電磁波が届かないことが挙げられるらしいからな。テレパシー技術のおかげで俺らは仕事をすることができてるってわけか」

 説明がひと段落したタイミングで、犬飼は缶コーヒーの残りを飲み干す。その表情にはコーヒー以外の何かの苦味を飲み下したような表情が張り付いていた。

「さて、ここからは応用編だ。……僕の研究分野ではないが、世の中にはこの量子もつれを利用してタイムトラベルしようとしている研究者がいるんだそうだ」

「タイムトラベル? タイムトラベルって『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のように?」

「ああ、そうだ。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』でもいいぞ。僕はあっちの方が好きだな。……じゃあ説明しようか。まあ、専門的な話をしてもわからないだろうから、これも例えで話そう」

 次に犬飼が取り出したのは、チョコが入っていたと思われる片手に収まるサイズの箱。

「一日目、単身赴任中のお父さんは娘に誕生日プレゼントを贈ろうと思い、ぬいぐるみを箱に詰めて娘に郵送した。そしてこのプレゼントが届くのは三日目だ」

 犬飼はチョコの空箱にどこから取り出したのかぬいぐるみのストラップを入れた。

「しかし、二日目になって娘は父親に電話してこう言った。『プレゼントはリボンがいい』と。普通、もう郵送してしまった箱の中身を変えることができないが、さっき言った量子もつれを利用すればぬいぐるみをリボンに変えることができる」

「……? すでにぬいぐるみを郵送したという過去を変えているからタイムトラベルか? でもさっき説明した量子もつれを使っても箱の中身は変更できないだろ?」

「いや、そうでもないよ。まず、ぬいぐるみとリボンを量子もつれの状態にする。その上で、手元にぬいぐるみがあるという観測結果を強引に出力すれば、箱の中身はリボンになるんだよ」

「……? ますますわからなくなったぞ?」

「まあ、いいよ。これについての具体的な説明をしだしたら小一時間あっても足りないから、ここでは量子もつれが過去改変を可能とするということだけ覚えておいてくれ。……ここまでは予備知識。ここからがやっと本題だ。結論から言えば、お前はテレパシーの基本原理である量子もつれを利用して、過去改変を行っていた」

「……は? なんだ? つまりあれか? 俺は過去改変能力者にでもなったって言うのか?」

 平坂は犬飼の言っていたことが信じられなかった。それこそ、実はお前は未来人だと言われるくらい信憑性がない。

 そして次に犬飼が言ったことはもっと信じられなかった。

 彼は言葉を選び、慎重に伝える。

「いいか、落ち着いて聞けよ。……お前の奥さんはもうすでに亡くなっていて、その過去をお前が改変したんだ」

 思考が凍結した。

 言語としては理解できるが、何を言っているのかわからなかった。

「テレパシーは脳同士を量子もつれの状態にする技術だ。それによって、お前は亡くなった奥さんの声を聞き、それが観測として現実──過去を書き換えたんだ。実際に平坂が亡くなった奥さんの声を聞いたかは重要じゃない。声を聞いたと平坂が観測したことが重要なんだ。お前がプレゼントの中身をすり替えたんだよ」

「いや、待て。そ、そんなはずはない。だって、今朝だって、美琴は、俺を、いや、え、嘘だろ、そんなはずはない。だって……」

「落ち着け、平坂。お前の奇妙な夢はその改変された過去の残滓だ。それにお前はコーヒーが好きだったはずだ。なのにいつのまにかコーヒーが嫌いになっていた。きっとこれも過去改変絡みだ。落ち着いて思い出せ。過去改変は完全じゃなかったんだ。なら思い出せる」

 平坂の首筋を気持ち悪い汗が伝う。

 心臓がうるさい。

 上手く息ができない。

 それでも、彼の脳には鮮烈に失われた記憶が再生された。

「……そうだ、去年のことだ。些細なことで喧嘩したんだ。俺が仕事にばかりかまけていたことが原因だったはずだ。あいつは──美琴は喧嘩の末に家を飛び出して、そして出先で交通事故に遭ったんだ。ああ、そうだよ。思い出した。美琴はコーヒーが好きなんだ。だから、コーヒーの匂いを嗅ぐたびにどうしようもない気持ちになって、いつのまにかコーヒーを飲めなくなったんだ」

 それは後悔だった。あるいは懺悔だった。

「こんなことになるなら、仕事ばかりじゃなくてもっと美琴と一緒にいるべきだった。もっとあいつと話すべきだった。だって、死んじまったら謝ることもできないんだからな」

 そして平坂は決断する。

 さっき犬飼は過去改変は完全じゃないと言った。ならばきっとこの奇跡はいつか終わる。

 彼女の笑顔をもう二度と見られなくなるのかもしれない。

 彼女の優しい声をもう二度と聞けないかもしれない。

 彼女にもう二度と「いってらっしゃい」も「おかえり」も言ってもらえないのかもしれない。

 彼女をもう二度と抱きしめられなくなるのかもしれない。

 そうと分かれば、することは自ずと決まった。

「……犬飼。深海探査部の部長に言っといてくれ。今日の午後のミーティングは出れないと。あ、あとしばらく休暇をもらうとも言っといてくれ」

「わかったよ、平坂。……僕は詩人じゃなくて研究者だから気の利いたことは何一つ言えない。だから最後に量子力学の話の続きをするよ」

 そう言って、犬飼は立ち上がり、平坂と一緒に研究室を出る。

 研究室を出た廊下には自動販売機がある。犬飼はそこでブラックコーヒーを買った。

「量子力学の世界では時間は存在せず、それは軽微な空間の変化の蓄積を人間が時間として漠然と認識しているに過ぎないらしい」

「……? つまりどういうことだよ」

 犬飼はブラックコーヒーを平坂に投げながら言った。

「時間とは永遠ではなく、無限の刹那によってできているってことだよ。……つまり一瞬一瞬を悔いなく全力で生きろという話だ」

 そして平坂は缶コーヒーを受け取り、全力で走り出した。

 

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