第5話

 それからどれくらいの時間が経ったでしょう。ふいに、かわせみの隣で風を切る音が聞こえました。かわせみはその音の出所に向きました。そこには、また別のかわせみが、平行するように飛んでいました。そのかわせみ、彼とでもいいましょうか、の翼の色は、特別美しいものではありませんでした。羽根は所々ごわごわと逆立って、あちこちに傷も見られます。しかしくちばしは実に立派なものでした。ぎらぎらと黒光りした、その大きく尖ったくちばしは、まるで丹念に削られた黒曜石のようです。厳しい山の環境を生き抜いてきたかわせみのようでした。

「やあ、あんた一体全体どうしたんだい。こんな夜中にさ」

 彼は野太い鳴き声でそういいました。周囲は月の光も呑み込むほどの深い夜でした。

「放っておいてくれないか」

 かわせみはただそれだけ返しました。しゃがれたその鳴き声は闇に溶けていきます。それでも彼は、意に介さずといった具合に続けました。

「そうはいかない。なんたって君、泣いてるじゃないか」

 かわせみはそう言われてはじめて、眦に涙が溜まっているのに気がつきました。涙や彼の言葉を振り払うように、かわせみは大きく頭を振りました。

「泣いてるから、ひとりにしてほしいんだろ」

「泣いてるのに、ひとりにしておくわけにはいかないだろ」

 かわせみは何も言い返しませんでした。これ以上続けても無駄だろうと思いましたし、なにしろ涙が零れてしまいそうでしたから。かわせみは黙って前を向きました。彼もそれにならいます。しかし、間もなくかわせみの視界が大きく傾きました。水平線がずれていき、しまいには融けていきます。それにあわせて身体の感覚も無くなっていきました。それはまるで、深い洞穴へと落ちていくような感覚です。かわせみが気を失う前最後に残っていたのは、何か冷たいものが頬を伝ったその余韻でした。

 かわせみが目を覚ました世界は朝でした。あの冷たく硬直した星空はなく、冬のやわらかな陽差しが暖かく降り注いでおります。

「起きたか。君、随分と疲れていたらしいね。飯もまともに食ってないと見た」

 彼の声でした。かわせみが姿勢を上げると、彼が目の前に魚を数匹並べていました。

「腹空いてるんだろ? 食べな」

「いい。僕は必要な分しかお魚を食べないって決めてるんだ」

「ならなおさら全部食っちまった方がいい。そうしないとまた倒れちまうぞ? 奪ってきた命に感謝をするっていうのはつまり、元気に生きることなんだ」

 かわせみはまた何も言い返せませんでした。昨晩から彼に言いくるめられてばかりです。かわせみは小さな声で「ありがとう」といい、魚を一匹ずつ大事に頂きました。皆食べきってしまうと、かわせみの身体にも多少活力が戻ったようでした。

「そしたら僕はもう行くよ。助けてくれてどうもありがとう」

「俺もついていくさ。君がどこにいくかは知らないけど」

 深々と頭を下げたかわせみに、彼はさも当たり前のようにそういいました。かわせみの旅に、道連れが一羽増えました。

 それから、彼はあの夜と同じようにかわせみと並んで飛びました。かわせみが食べれば彼も食べますし、かわせみが寝れば彼も寝ます。彼はずっとかわせみの側におりました。しかし、彼はその間、かわせみに何も訊きませんでした。どこに向かっているのかも、あの夜泣いた理由も。それはかわせみにとって意外なことでした。彼はただ、かわせみの隣にいることを目的としているようでした。

「どうして君は、僕に何も訊かないの?」

 彼と共に旅を進めて三日目の夜です。かわせみは川辺の岩屋で彼に訊ねました。もう随分上流の方まで来ていて、目的地であるさざんかの群生地まではあと一日といったところです。

「君がいいたければいえばいい。いいたくなければいわなければいい。無理に引き出した言葉なんてほとんど嘘みたいなものだろ。そんなものに価値はないさ。俺はただ、君がいいたくなったときにすぐいえるように側にいるだけだ」

 彼はきっぱりとそう言い切りました。その割り切った考え方は、厳しい環境で生き抜いてきた彼らしいと、かわせみは思いました。同時に、自分は兄について彼に打ち明けたいのだろうか、とも考えました。かわせみは、どっちもあるのだろうと感じました。いいたいし、いいたくない。どっちもある。かわせみは困ってしまって、ふいに空を見上げました。もうすっかり分厚い雲が空一面を覆ってしまっていて、よだかの星は見えません。やっぱりかわせみは、悲しかったのです。

 それから堰が切れたかのように、かわせみは彼に全てを打ち明けました。自分にはよだかの兄がいたこと。兄はとても優しかったこと。その優しい兄が、星になってしまったこと。兄には死んでほしくなんてなかったこと。そして、そんな兄の支えになれなかった自分が一番ふがいないこと。彼は黙ってそれを聞いておりました。そして、かわせみが話し終わるとひとこと、「もうじき晴れるさ」とだけ呟きました。

 次の日の朝、彼はすみかに帰るといいました。かわせみは大変驚きました。てっきり最後までついてきてくれると思っていたのです。そしてなによりも、大切な友人となった彼と別れるのがさみしかったのでした。

「君にもう俺は必要ないさ。君はもう前を向いてるじゃないか」

 彼はかわせみを慰めるように、優しい口調でいいました。

「僕はまだ、悲しいままだよ」

 それに対し、かわせみはすねるようにそういいました。そう聞いた彼はまた笑いました。かわせみに助言をしてやるときの、決まった表情です。

「それでいい。君はそれでいいんだ。泣いたまま前を向けばいい」

 彼は大きく翼を広げて飛び上がりました。かわせみの頭上を滞空したまま、「それにね」と付け加えます。

「それにね、俺には恋鳥がいるんだ。きっとさみしがってる」

 そういって彼は飛んでいきました。かわせみは、めじろのことを思い出しました。

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