1億円の猫

あべせい

1億円の猫



 猫を胸に抱きかかえたふだん着姿の男性が、住宅街の道を歩いている。

 猫は真っ白なふさふさとした毛に包まれているペルシャ猫。男性が行く目の前の電柱に、「子猫を探しています」という見出しの貼り紙がある。

「名前は『ミーちゃん』。散歩の途中、逃げ出して、行方がわかりません。首に金色の首輪をつけています。お心当たりのある方は、ご連絡をお願いします。些少ですが、謝礼をさせていただきます」

 貼り紙の中央には子猫の写真と、その下に大きな文字で電話番号が記してある。

 しかし、男は、貼り紙をすでに見たことがあるのか、無視して通り過ぎる。

 猫は男性に抱きかかえられながら、そんな男性の顔をギョロリとした目で不思議そうに見上げる。猫に首輪はない。

 と、スーツを着た若い女性が通りかかる。

「失礼ですが……」

 女性は猫と男性を見比べて話しかけた。

「はァ?……」

 男性は立ち止まって、女性を見る。どこかで見た顔だ。

「その猫ちゃん、箸元(はしもと)さんちの……」

「箸元? 箸元は私ですが……」

 男性は、改めて女性を見るが、どこで会ったのか思い出せない。

「失礼しました。わたし、家庭教師の苑川育実(そのかわいくみ)です。これから箸元さんのお宅にうかがうところなンです」

「娘の家庭教師の先生ですか。一度お会いしたいと思っていたのです。こちらこそ失礼しました。娘が待っているはずです」

「きょうは日曜日ですよね。それで……」

「先生のお話は家内からうかがっています」

「では、のちほど……」

 育実は箸元に丁寧に会釈をして行きかけたが、すぐに箸元に呼びとめられる。

「先生、この猫はうちのじゃありません。迷い猫で、3日間預かっていましたが、ようやく飼い主が見つかったので、これからお返しに行くところです」

 育実は箸元を振りかえって、

「そうだったンですか。2日前、お嬢さんが抱いておられたので、てっきり箸元さんの猫だと……」

「そういうわけです。失礼します」

 箸元はそう言って、再び育実とは反対方向に歩いて行く。

 箸元は考える。

 家内にいわれて先週から娘の家庭教師に来てもらっているが、おれの給料じゃタイヘンなのだ。娘が来年高校受験なら、まだ我慢もするが……。

 50メートルほど行ったところで、箸元は再び、路地から現れた30代前半の女性に呼びとめられた。

 女性はジーンズ地でできたブルゾンのジャンパーに、同じジーンズのパンツをはいている。

「なんでしょうか」

 箸元は猫を抱き直して、立ち止まった。

「わたし、ペット探偵社の秋池(あきいけ)と言いますが……」

「ペット探偵社?……この猫は違いますよ。少しこちらへ……」

 箸元は誤解されていると考え、探偵を道の端に招く。

「この猫は、貼り紙にある『ミーちゃん』じゃないです。似ていますが。あの貼り紙は2ヵ月も前に貼られたものです。この猫は、この先の……」

「待ってください。わたしはその猫を捜していたわけではありません。わたしが捜している猫は左右の目の色が違います」

「目の色が違う?」

 箸元には意味がわからない。

「わたしがお尋ねしたいのは、その猫はどちらで見つけられたのか、ということです。その猫も迷い猫だったンでしょう?」

「はい。3日前、うちの庭に来て、おなかをすかせて鳴いていました。それで、鰹節をまぶしたご飯をあげたら、そのまま居ついてしまって……」

「失礼ですが、お宅はどちらですか?」

 箸元は来た方向に向き直る。すると、さきほどの家庭教師の後ろ姿が見えた。

「よろしいですか。この先の道祖神がある角を左に曲がって、次の交差点を右に、さらに2本目を左……そうだ。あそこに行く黒いスーツの女性は、わたしの家に行くところです。あとについていけばわかります」

 探偵は背伸びして家庭教師のほうを見ながら、

「あの女性ですか。ありがとうございます」

 と言うと、駆けていった。

 箸元は、さらに30メートルほど歩き、「日向」の表札がかかる家の前へ。

 インターホンを押して、用件を話す。

「こちらの猫ちゃんが我が家に迷いこんできましたので、お届けにまいりました」

「エッ?」

 という声に続き、

「拙宅には猫はおりません。何かのお間違いでしょう」

 箸元は驚くが、間違いなら仕方ない。失礼を詫びて、辞去した。

 箸元は自宅に向かいながら考える。

「日向」さんちの猫だと言ったのはだれだ。日向さんとはつきあいがない。家庭の事情はわからない。家族構成すら知らない。昨日の土曜、中学2年の娘が外から帰るなり、「日向さんちの猫だよ」と言ったのだ。娘は「日向」さんの家庭の事情を知っているようだった。日向さんのご家族にともだちがいるのかも知れない。


 その夜、娘の美砂が箸元に、妙なことを言った。

 家庭教師の苑川育美が、迷い猫のことを根掘り葉掘り聞いたというのだ。美砂はすでに、迷い猫を「ミント」と名付けていた。

 どうしてミントにしたのか、と箸元が尋ねたところ、美砂は、

「猫のおなかを見ていたら、そんな気持ちになったの」

 と、わけのわからないことを言った。

 箸元が日向さんの家では猫を飼っていないと告げると、そんなはずはない。きょうも日向さんちで、猫と遊んで来たばかりだと言う。聞けば、日向というのは、この街が一面の水田地帯だった江戸の頃からある旧家で、美砂が言う日向家は本家。ほかに日向には分家が4家あり、箸元が昼間訪ねたのは分家の一つだった。

 なんでも、日向の本家は昔から「大日向(おおひゅうが)」と呼ばれ、分家は「小日向(こひゅうが)」と呼んで区別しているらしい。

「お父さん、よく聞いて。大日向家ではペルシャ猫が好きで血統書付きのペルシャ猫をつがいで飼っているのだけれど、この春、子猫を6匹産んで、そのうち5匹を欲しいひとにあげた、って話。だから、このミントがどこかにもらわれた5匹のうちの1匹なンだけれど、それがどこの家なのか、調べないとわからない」

 美砂はそう言って、抱いていたミントを床におろした。

 ミントは、お椀に入ったミルクをペロペロと小さな舌でなめている。

 箸元は美砂に対して、大日向家に行って、ペルシャ猫をあげた5つの家の名前と住所に尋ねてくるように命じた。

 その5軒の家はすぐに判明した。

 電話をかけて事情を話したところ、うち4軒の家ではもらわれたペルシャ猫が健在だった。そのなかの1軒の家では、電柱に貼り紙をして捜していたが、探偵の力で見つかったと聞かされた。電柱の「ミーちゃん」のことだ。

 残る一軒の家には電話がなかったため確認できなかったが、恐らく決まりだろう。箸元はそう考え、翌々日の祝日、猫を抱いて、娘の美砂と一緒にその家を訪ねた。

 箸元家から徒歩で20数分。

 辺りは畑が広がる静かな土地柄で、めざす家は敷地が建売住宅なら10数軒は建ちそうな広さがある。

 噂では老人のひとり住まい。手入れのされていない庭を、苔むした敷き石伝いに進むと、崩れかけた母屋が現れた。

 呼び鈴もインターホンもない。

 箸元が、引き戸になっているガラス戸を叩こうとすると、庭伝いに母屋の周りを見ていた美砂が、「お父さん、こっちこっち」

 と、ささやいて手招きする。

 箸元が娘についていくと、縁側があり、ガラス戸越しに居間が見えるのだが、なかで人影が動いている。

 何か怪しげな雰囲気だ。箸元は娘にならって、猫を抱いたままその場で姿勢を低くすると、目を凝らして居間の中の人物を見た。

「アッ……」

「そうよ。お父さん。あれは、苑川先生でしょ。服装はセーターにスカートだけど」

「眼鏡を外しているから、見違える……」

「あの先生、女子大生って聞いたけれど、そうじゃないのかな……」

 箸元もそんな気がしてきた。家庭教師を専門に派遣している会社に電話して、苑川育実に来てもらったのだが、学歴や職歴を聞いた覚えはない。

 その家の居間には介護用のベッドがあり、寝ている老人の頭だけが見える。

 育実は、居間にある茶箪笥や衣類箪笥の引き出しをあちこち探し回ったあと、居間を出ていった。

 間もなく玄関のガラス戸が開いて閉じ、カギをかける音がした。敷き石を踏む足音が徐々に遠ざかり、やがてパッタリと音がしなくなった。

「もう大丈夫だ」

 箸元はそう言ってから、何が大丈夫なンだ、と自分に問い掛けて苦笑した。

「お父さん。行きましょう」

 美砂は縁側にあがり、ガラス障子を開ける。

 ベッドに近寄り、老人に顔を近付けた。

「お父さん、早く……」

 美砂が外に突っ立っている箸元を手招きする。

 老人が何か言っているようだ。

 箸元は慌てて居間に入る。

「どうかされたンですか?」

 美砂が老人の口元に耳を近付けた。

 老人は、80才前後の男性だ。目はうつろで、口だけがパクパクと動いている。

「1億円の預金通帳!? それがどうしたンですか」

 美砂は老人のことばを復唱している。

 老人は震える手で和箪笥を指差す。

 箸元はつられるようにして、その箪笥を見た。

 真ん中の引き出しがわずかに開いている。慌てていて閉め忘れたようすだ。

 美砂は箪笥に近寄ると、閉じかけのその引き出しを力一杯引いた。

「アッ!」

 引き出しが畳の上に落ち、引き出しの中身がぶちまけられた。

 箸元は床に腰をおろし、ひっくり返っている引き出しを元に起こしてから、中身を一つづつ引き出しに戻した。

 その引き出しは通帳の保管場所だったらしく、床に散らばっているのは、銀行の預金通帳や郵便局の貯金通帳ばかり。

 美砂は箸元のそばにしゃがむと、次々に通帳を開いて覗いている。

「よしなさい」

 箸元は注意するが、迫力がない。彼自身も通帳の中身が気になる。

「お父さん。これ、どれもこれも、ゼロ、ゼロ、ゼロ、ゼロ。残額ゼロよ!」

 箸元は考える。

 大事なものなら、金庫に入れているはずだ。しかし、それなら、老人の言った1億円の預金通帳というのは何だ。ここに落ちている残額0円の20数枚の通帳に、かつては入金されていた合計金額なのか。

「お父さん……」

 美砂の声に振り返ると、老人はまだ箪笥の引き出しに向かって人差し指を力なく突き出している。

 箸元は不審に感じて立ちあがると、もう一度引き出しを見た。といっても、引き出しが引きぬかれた後の四角いスペースだけなのだが。

「アッ」

 思わず声が出た。

「どうしたの、お父さん」

 その四角いスペースの上面に、ぴったりと1冊の預金通帳が貼りついている。箸元はそれを引き剥がして通帳の中を見た。

「1のあとにゼロが……8個!」

「お父さん、1億円よ」

 美砂も昂奮している。

「預貯金の通帳の金額全部を、この1冊の通帳にまとめたのかも知れないな」

 箸元はそうつぶやくと、その通帳を持ってベッドに行き、老人の手に握らせると、そのまま彼の両手を布団のなかにいれてやった。

 老人は安心したのか、静かに目を閉じた。

 箸元が連れて来たミントがいつの間にか、老人の布団に入り、枕のそばで丸くなっている。

「ミントはやはり、こちらの飼い猫だったンだな。さァ、帰るか」

 箸元がその居間を出ようとすると、美砂が言う。

「お父さん。通帳があっても印鑑がないと引き出せないでしょう?」

 中学2年生にもなると、いろいろと気が回るらしい。

「しかし、印鑑だけがあっても引き出せない。だから、老人は安心しているのか……」

 そのとき、箸元にピンとひらめくものがあった。

 縁側から庭におりた美砂が、居間を振りかえって言う。

「あんなに弱っているのに、食事やトイレはどうするの?」

「介護ヘルパーを頼んでいるのだろう」

 箸元はそう答えてから、腕時計を見た。そろそろ正午だ。

 そのとき、玄関のほうからバイクのエンジン音が聞こえた。

 同時に、女性の声で、

「いつも、ご苦労さま。ここでいただくわね」

「ありがとうございます」

 女性の声を送られて、バイクが去っていく。

 まもなく、玄関の戸が開き、声の主が入ってくる。

 玄関のやりとりを庭の植木の間から見ていた美砂が、

「お父さん、タイヘン。いまのひと……」

「あの老人を世話しているヘルパーだろう」

「じゃなくて、苑川先生なの」

「エッ……」

 箸元の思考が一瞬停止した。

 ガラス戸越しに足音がして、ひとが居間に入ってくる。

 箸元と美砂は咄嗟に、庭の植え込みの間に身を屈めた。

 2人とも、見られてはまずい、いや、見ていたと気付かれてはまずい、そんな気がした。

「しばらくようすを見ていよう」

 箸元は娘の手前、悪事をとりつくろう必要を感じてそう言った。

 苑川育実は出て行ったときと同じセーターとパンツの服装で居間に入ってきた。

「研一さん、お弁当が届いたわよ。おなかがすいたでしょ」

 育実は老人に声をかけると、ベッドのそばに丸椅子を引き寄せて腰掛けた。

 さらに、ベッドに備えつけのテーブルに、ポリ袋に包まれた弁当と味噌汁の容器を取り出すと、スプーンを使って老人に食べさせている。

「研一さん。わたし、銀行のATMコーナーに行ってきたの。研一さんの大好きなアンパンを買うのにお金がいるでしょ。枕の下に銀行のキャッシュカードがあったから、それで。でもね、お金を引き降ろすには、暗唱番号が必要なの。だから、研一さんの生年月日を入れてみた。けど、ダメなの……ね、聞いてる?」

 すると、研一老人の布団にもぐりこんでいたミントが顔を上げ、「ミャー」と返事した。

 弁当のおかずに焼き魚でもあるのか、育実が持っている弁当ににじり寄っている。

「あら、この猫いつ帰ってきたの。果代さんが捜している猫はこれじゃないのかな? シッ、あっち行きなさい。わたしが猫嫌い、って知らないの。このバカ猫!」

 ミントは育実に頭を小突かれて、サッとその場から逃げた。

「待ってよ。研一さん、探偵さんに猫がいなくなったって騒いだの、いつだったっけ?……10日前……」

 それを聞いて、美砂がつぶやく。

「ミントはうちに来る前、1週間近くも、どっかでノラをしていたのね。かわいそうに」

 箸元も、ミントがその間、どんな生活をしていたのか、ふと考えた。

 研一老人は猫がいなくなったと言って騒いだ。探偵の秋池果代に猫探しを依頼した。電柱に張ってあった迷い猫は、大日向さんからもらわれていった5軒のうちの1軒で、5軒の家に順番に電話で確かめたとき、20日ほど前に秋池探偵が見つけたと教えられた。

 苑川先生が秋池探偵を知ったのは、彼女が迷い猫を発見したという噂を聞いて、研一老人に紹介したのかもしれない。寝たきり老人がペット探偵社とかけあうのは、無理な話だからだ。

 秋池探偵が探している猫は、「左右の目の色が違う」。秋池探偵は、確かにそう言った。

 しかし、ミントの目の色は左右とも同じだ。土台、目の色が右と左で違う猫なんて、いるのだろうか?

 もしそうだったら、猫をあげた大日向さんも、気がついて、そのことを美砂に教えただろう。第一、そんな珍しい子猫だったら、他人にあげないで、自分ちで飼っているンじゃないのか。

 そこへ、

「育実さん」

 秋池探偵だ。

「果代さん、どうして……」

 秋池探偵は下の名前が「果代」というらしい。

 彼女はいつの間に。苑川に気を取られて注意が散漫になっていたようだ。箸元は、さらに姿勢を低くした。

「育実さん、きょうまで10日間、目の色が違うペルシャ猫を探したけれど、見つからなかったわ。申し訳ないけれど、この捜索はきょうで一旦中止します」

「そう、残念だけど……」

「副業の介護ヘルパーの仕事も、たまにしないとお給料がもらえなくなる、本業のペット探偵の仕事がいつもあればいいンだけれど……」

「そうね。わたしは、家庭教師が副業だけど、最近は副業のほうが実入りがいいみたい……」

「それで、ね。きょう来たのは、言いにくいンだけれど、迷い猫の捜索料をいただきたいの……」

「失敗しても、とるの」

「そりゃ、10日間もかかりきりだったンだもの。最初に言ったはずよ。成功報酬は10万円。失敗した場合は、成功報酬の3割って……」

「3万円も?」

 果代は申し訳なさそうに頷く。

 すると、育実は、老人を揺さぶり、

「研一さん、猫探しの探偵さんが来たの。猫は見つからなかったけれど、費用はいただきたい、って。わかる? 研一さん」

 と、言った。

 いきなり、老人の野太い声が、

「ミコは帰っとる」

「エッ!」

 育実と果代が同時に驚いたが、庭の箸元と美砂も驚いた。

「ってことは、ここに連れてきたミントがミコなの?」

 育実は不思議そうに言う。

 そのとき、美砂の足元で「ミャー」と鳴いた。

 ミントがそばに来ていた。美砂が思わずミントを抱き上げた。

「でも、あの猫の目は右も左も同じだったわ。飼っていたペルシャ猫は、左右の目の色が違っているのじゃない」

 育実のことばに、果代がハタと膝を叩いた。

「お爺さん、わざとウソの手がかりをわたしに寄越したのね。そうでしょッ」

 果代は老人の顔の上に覆い被さるようにして言った。

 研一老人は、「ウゥゥゥ」と言って布団を頭から被った。

「果代さん、なんのことよ」

「育実さん、こういうことよ。10日前、この部屋で、このお爺さんがわたしに猫探しを頼んだときのこと、覚えている?」

「覚えているけど……」

「お爺さんは『うちのミコがいなくなった。あいつはおれの全財産だ。とられたら、どうするンだ』と言って、育実さんの襟首を掴んで騒いだンでしょ」

 と果代。

 果代は探偵するだけに推理が好きらしい。

「そうだけど……」

「お爺さんの全財産、って何? この家と土地は財産だけれど不動産だから、滅多なことでは盗まれたりしないわ。となると、あとは……」

「引き出しの預貯金は全部カラ……」

 育実の口が滑る。

「だけど、まだ隠し口座があるのよ」

 と、果代。

「ふだんの生活費は、いつも小汚い財布に、3万円ばかし入っているわ」

「ATMで使うキャッシュカードは?」

「あるけど……」

 育実は、シマッタと言いたげに口を手で押さえた。

「育実さん、隠さなくてもそれくらい察しがつくわ。あなた、この研一さんのキャッシュカードを見つけたけれど、引き出せなかった。そうでしょッ。暗唱番号がわからなくて……」

「研一さんが教えてくれないンだもの」

「そりゃ、そうでしょ。あなた、研一さんのヘルパーをやってどれくらい?」

「1ヵ月だけど……」

「1ヵ月で信用しろって無理よ。そのキャッシュカードの口座には、研一さんの全財産が入っているのかも知れない。だから、滅多なことでは教えられない」

「それと猫とどんな関係があるのよ」

 と、育実。

「あなた、鈍いのね」

 果代は容赦ない。

「大きなお世話よ。鈍いから、バカな中2の家庭教師をやっているの。本当は来年受験の中3を担当したいの。そのほうが、ずっとお金がいいのよ」

 これには美砂がカチンときた。

「お父さん、きょう限り、苑川先生はお払い箱にしてッ。絶対よ!」

「あァ、わかった」

 思いがけないところで、家庭教師の費用が浮いた。箸元はホッとした。

「いなくなった猫に、暗唱番号につながる何かがあるンじゃない。それをあなたに見つけられたら、全財産を引き出されてしまう。暗証番号は、生年月日や所番地のような、簡単に推測される番号は使えなくなっている。でも、老人だから、ふだんあまり使わない暗唱番号を覚えるのは難しい。難しいくらいの番号のほうが安心なンだけれど……」

「だったら、何かにメモしておけばいいでしょう」

 育実が割って入る。

「日記やメモ用紙か何かに書いて、あなたに見つけられたら?」

「そうか。他人に絶対に気付かれないところにメモする……」

 美砂が「アッ」と悲鳴に近い声をあげた。

 居間の2人が庭のほうを見た。

「お父さん。ミントよ。わたしがどうして、この猫にミントって名前を付けたのか、言ってなかったでしょ。これ、これなのよ」

 植え込みに父親と一緒にしゃがんでいた美砂は、抱いているミントの体を仰向けにした。

 さらに柔らかいピンク色をしたミントの腹部を示す。そこに、黒いシミのようなものが見える。

「これ、ここにマジックペンで書いた文字が『ミント』って読めたの。でも、これって、本当は数字、数字だったのね。よく考えてみたら、飼い猫の名前をわざわざその猫の体に書く人っていない。最初の『ミ』と思ったのは、漢数字の『三』、『ン』と思ったのは、漢数字の「二」。その次に、丸くにじんでいるのがあるでしょ。これは書き損じかと思ったのだけれど、これは算用数字の「〇」。そして、最後の『ト』と見えたのは、漢数字の……」

「美砂。そこまでにしておけ。ほら……」

 顔を上げると、苑川先生が興味津々の顔つきで、美砂を見下ろしている。

「3、2、0、そして最後の数字はナニ? 美砂ちゃんだって、1億円は欲しいでしょッ」

                 (了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

1億円の猫 あべせい @abesei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る