狐のお宿

三毛狐

第1話

 出会い頭に腹を抱えて笑ったのはこちらであるが、招待した自宅を笑われたのでどっちもどっちであろう。老木の洞である。我が家はそうとしか言えない面構えをしている。しかし、入口は狭く奥は広いので、見た目以上に暖かく居住性に優れているのだ。一冬を越せる木の実を仕舞えるだけの床もある。自慢の我が家だ。何々、この野垂れ損ないめ、酒を遣せだと。鼻の利く奴め。とっておきをくれてやろう。意外と部屋数のある我が家を案内する。そしてヒゲをピンと張りながら自慢を開陳する。我が家の良い所はいくらでもあるが、これはその最たるものだ。部屋の奥の窪みに、旨そうな香りの立つ汁が溜まっている。醗酵した樹液だ。半身浴できてしまえそうなその凹みに、今でもじわじわと滲み出ている。つまり、湧き水ならぬ、湧き酒なのだ。毎晩ペロペロと舐めても無くなるものではない。お、あんたいける口だね。さっそくガブガブ呑んで、ケタケタ笑ってやがる。ひっくり返りやがって。おい、あまり動くな。あんたのそれは。わぷっ。けほっけほっ。ああもう、尻尾が多すぎるんだよ。顔に押し付けてくるな。間違えて吸い込んだじゃないか。銀色の燐光を散らす毛の向こうからケタケタ笑い声が聞こえる。雌狐め、わざとか。もふっとした毛溜りを、ぐいっと除けて、酒を呑む。うまい。この山は水源が豊富で、しかも、我が家の近くには大きな川の最初の一滴が沸いている。つまりは源流だ。綺麗な水を吸ってこの樹液としているのだ。旨くない訳がない。ところで、何であんな道端で倒れていた?ここは食が細るほど、貧相な山じゃないぞ。どこから来た?え、判らない?記憶喪失?それは悪い事を聞いたな、すまなかっ……っぷはっ、だから尻尾を顔に押し付けるな。話の最中だ。ケタケタ笑いやがって。まぁいい、行く先がないなら、記憶が戻るまでここに居るといい。でもタダじゃないからな。ちゃんと働いて貰う。雪が降る前に木の実の貯蔵を倍に増やさないといけない。自分の食い扶持は自分で稼ぐんだ。何だその面倒そうな変な声は。手伝ってやるから、しっかりしろ。




 こうして私達は暫し同居の身となった。食料の貯蔵は意外と溜り、ふた冬でも2匹分を賄える程になった。食料が十二分で、酒がある。ならば呑むしかない。今日も朝から私達は呑んだくれていた。9本の尾を持つ奇妙な銀毛の雌狐と私は酒部屋に揃って篭っている。樹液は枯れず、私達の舌を滑らかに回し続けた。クマと蜂蜜の一気飲みで山の権利を賭けて戦ったとかいう与太話には大いに笑わせて貰った。そんな事があるわけないじゃないか、ははは。クマと山の特徴から、まるで足元のこの山の出来事のようにも聞こえる。話が上手いなあ。あのクマは山神でもう数百年は居座っているときくぞ。尾が複数ある狐も初めてみたが、事実ならとんでもない老狐だ。毛艶と良い、身体能力と良い、せいぜい私と同じか少し若いくらいだろうに。それでもこれだけ語れるのは、旅のお陰だろうか。私には無い経験を多く積んでいそうだ。私は長いことこの洞に1匹で暮らしてきたから、話を作るような器用な事はできない。せいぜい語られた物語へ素直な反応を返すぐらいだ。狙い通りの反応だったのかは知らないが、それなりに満足したようで、彼女は次から次によくしゃべった。私が良い聴衆足りえたのであれば十全である。




 雪が降る前からあまり外へ出なくなっていた。だから今年の降り始めには気が付かなかった。空気の違いに外を見て、積もった雪に気が付いた程だ。すぐに引っ込み、暖かい我が家で酒をかっ喰らう。木の実をコリコリと齧り、相棒と時間を潰した。思えば2匹分の体温だからだろう。例年よりも、暖かい時間を過ごしたと思う。記憶はいつ戻るのだろうか。春までは忘れたままでいて欲しい。隙間風を喜べるのは夏だけだから。それまではこの家を暖めて欲しかった。




 やがて春が来て、夏が来た。




 あっという間だった。私は相棒へと、記憶の具合を久しぶりに訊いた。相棒は失った記憶をまだ思い出していないのだと云う。私はほっとした。相棒はいつものようにケタケタ笑っている。酒が旨くて記憶が戻りそうにないなどとほざいている。しかたがない。記憶が戻るまでは、当分、二匹で暮らそう。失った記憶を取り戻せていないのだから、仕方が無い。私は今日も滾々と湧き出る酒精を舌で愉しみ、やたら何でも覚えている相棒の浮世話に付き合う。どれもこれも新鮮な話で、私は大いに驚き、相棒はいちいち腹を抱えて笑った。それを観て、気が付けば私も笑っていた。

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狐のお宿 三毛狐 @mikefox

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