離脱

二〇〇八年二月。

 まだ夜が明けぬ早朝、ハビエルに起こされた私は寝ぼけまなこで荷造りを始めた。

「もう、ハビエル、そういう事は昨日のうちにちゃんと言っておいてよ」

「すまないね、カナ。でも、どうしても私が出席しないといけない重要な会議が入ってしまってジュネーブには行かれないんだ。カナならスイスへ行ったこともあるし適任だろ。だから私の代わりに頼むよ」

ハビエルの代わりに――一週間の予定で――業務提携を結んだ企業の国際企業会議に出席するため、私は急遽スイスのジュネーブへ行く事になった。

アンドリューの住むスイス。懐かしさが胸の中を駆け抜けた。

「あのね、ハビエル。スイスって言っても私が行ったのはチューリッヒよ。地理分かって言っているの?」

 私はハビエルの的外れな理由に呆れて苦笑した。ハビエルは肩をすくめて両手を広げると、でも、同じ国だろ、とこたえて笑った。

 二年前、思い出のたっぷりと詰まった両親の家をついに売却し、私はイザベルに言われた通り――心の傷を癒すため――サン・ディエゴへ戻ってきた。戻ってみると、私の新たな門出を祝福してくれるかのように、イザベルたちはサン・ディエゴ近郊の(以前よりも更に立派な)家へ越していた。アンドリューとの思い出が沁みこんだ前の家に戻らずに済んだのは、私には救いだった。それからしばらくの間、私は自分を労わるように毎日のんびりと過ごした。私には必要な心の充電期間だった。

 朝はゆっくりと目覚め、裏庭にある色とりどりの花に囲まれた(まるでおとぎ話に出てくるような)白いブランコに座り、淹れ立てのコーヒーを飲みながら読書にふけり、昼は近くのカフェへ行き、作りたてのベーグル・サンドイッチと野菜たっぷりのスープで昼食。午後は家の周りを一時間以上かけてジョギングし、たまに足をのばしてはショッピングを楽しんだ。

 ほとんど毎日同じことの繰り返しではあったが、高台に建てられたイザベルの家の周りには自然も多く、空気がすばらしく新鮮で、私自身、日に日に浄化されていくのを実感していた。そうして少しずつ私は元気を取り戻した。そんな私にハビエルは、新しく立ち上げた自分の会社で働いてみないか、と言ってくれた。丁度良い機会だった。

それからというもの、私はハビエルの仕事――電子部品製造業のビジネス――を手伝い、各国各地へ製品を売り込みに飛び回っていた。自分を強く押して売り込むということ自体、私の性分には合わない。でも、大学でスピーチを専攻していたことがそれを可能にさせた。

「ああ、カナ、間に合わなくなるよ。とにかく空港まで送るから急いでくれ」

 何とも慌しく荷造りをし、私は急かされるままハビエルの車に乗り込んだ。

「せめてものお詫びに、往復ともビジネスクラスで席は取ってあるからね」

 ターミナル前のカーブサイドで私を降ろし、窓越しにハビエルはそう言うと、行ってらっしゃいのハグもなく、車を走らせ消え去った。

「もうどうせならファーストクラスにしなさいよ。まったく」

 席についた私はハビエルの慌てぶりを思い出して、くすっと笑った。

 当日のチケット変更の関係で、ロサンゼルスからの乗り継ぎ時間に余裕がないことを事前に告げられていた私は、飛行機を降りるやいなや、空港内を走らされることになった。そして、なんとか搭乗時刻ぎりぎりで、ニューヨーク便に乗り継ぐことができた。

「あんなに朝から走らせるなんて、四十代の私にはきつくてぐったりだわ」

プレミアムシートのゆったりとした座席にどっぷりと腰を落ちつかせ、私は汗を拭った。

窓に目をやると、綿毛のようなふわふわとした雲が眼下に広がっている。私はそのどこまでも果てしなく続く雲のジュータンを見下ろしながら、これから向かうスイスに思いを馳せた。

最後にスイスへ行ってから今年でちょうど二十年か。もうそんなに経ったんだ。

 私の心は相変わらず全然成長できていないのにね……。

「アンドリュー」

もう随分口にしていなかった彼の名を小さくつぶやいた。

「お飲み物は何になさいますか?」

 私の馳せた思いを掻き消すフライトアテンダントの声。

「そうね、赤ワインをお願いするわ」

 微笑んでこたえた。

「カナ?」

 突然耳に入る日本語の響き。私は流すようにしか見なかった声の主を今一度、凝視した。

「知美?」

 目の前には二十二年前の初々しい少女の面影を今も残している知美が、驚きを隠せない様子で私を見つめていた。

「信じられない。夢見たい! ホントにカナなのね!」

「私こそ信じられないわ! 突然連絡が途絶えちゃったからずっと心配していたのよ!」

 懐かしい友との感動の再会。抱擁した腕に力が入る。二十二年の時空を超え、私たちは二十代のあのころに戻っていた。

 知美は自分の責務を済ませると、何気ない様子で私の横に立ち、私たちはしばらく懐かしい話で盛り上がった。

「本当に久しぶりね。もう二十二年か……」

「あのあと、カナはどうしていたの?」

 私はALIから戻った一年後にグロスモント・カレッジに入学したことを話した。

「でも、サン・ディエゴへ行く前、私、知美に連絡したのよ」

「ごめんね。カナには色々と助けてもらっていたのに全然連絡しなくて」

 引っ越した理由を言わない知美。私もあえてそれには触れなかった。何気に彼女のしなやか指に目を移すと、左の薬指に光る指輪が目に入った。

「知美、結婚したのね」

「うん。もうすぐ十年になるの」

「相手はひょっとしてマーク?」

 知美はひっそり微笑むと、首を横にふった。

「カナに言われたように、私、あれからマークに会いに行ったの。それでね、しばらくは付き合っていたのよ、私たち。マークからUCLAへ転入する話を聞いたときも、追いかけてロスまで行って。二年ぐらいかな? 一緒に住んでもいたのよ」

 若いからこそ出来た、今思えば大胆な行動よね、と言って、知美は思い出したようにふふっと笑った。ちょうど私がグロスモントに通っていたころだ。

「でも、やっぱりうまくいかなくてね。目的もなくただマークと一緒にいたいだけじゃ彼には重すぎたのよね」

 自分の昔を言われているようで心が痛む。

「私、国際線のフライトアテンダントになりたいっていう夢があったのに、そのときはマークに夢中で、夢を二の次にしちゃっていたのよね。今思えばそれが別れる原因だったのかな」

 そう話す知美の顔には後悔の色はまったくなかった。

「そのあと、それじゃいけないって悟って、ロスにあるフライトアテンダント養成学校へ行ったの。で、そのときに知り合った人とめでたくゴールインしたっていうわけ」

 淡々と語る知美は今までの経験をしっかり自分の自信へとつなげていた。

 すごいと思った。その点、私はずるい。アンドリューに会いに行くかで迷う前に、私は自分を守るために逃げた。向き合う努力すらしなかった。

「それで今、こうして夢を形にしているのよ」

 幸せに満ち足りた知美の輝かしい笑顔。

「本当に幸せそうで良かった。私も嬉しいわ」

 私は心からそう言った。

「ありがとう。カナは? 今はどうしているの?」

「私? 私も色々とあってね。両親が他界して今はイザベルたちと一緒に暮らしているの」

 元気だったころの両親を知る知美は、信じられないというような困惑した表情を浮かべた。

「それは大変だったでしょうね」

――本当に大変だったね。よく頑張ったね。僕はそんな強くなったカナを誇りに思うよ。

 知美の言葉がアンドリューの言葉と重なった。同時に目の奥がざわめきだす。

 私は急いで目を閉じた。

「アンドリューとはその後どうなったの?」

 知美は私が目を開けるのを待って訊いた。

 それは互いの失っていた時間を埋め尽くすために通らなくては進めない通過点だった。

 でも、私はまだ誰にもアンドリューとの別れるに至ったいきさつを話していなかった。もし話せばきっと誰もが、それはカナのせいじゃない、自分を責めることはない、と言って私の過ちを許してくれるだろう。でも、私は自分を許せない。絶対に許さない。だから誰にも話したくなかった。誰にも知られたくなかった。それなのに知美には話せると思った。エルコンの寮でマークとアンドリューのことで語り合った知美になら話せると思った。この偶然の再会が私をそういう気持ちにさせてくれた。

「私もアンドリューに会いにサン・ディエゴへ行ったり、彼がスイスへ帰国してからはスイスへ会いに行ったりしていたの。彼のお母さんやお兄さんにも紹介してもらったりして、本当なら今ごろは結婚して幸せになっていたかもしれないわ。でもね……」

 言葉に詰まった。アンドリューの私を突き放すような冷たい言葉が走馬灯のように耳に響き渡った。

――ああ、そうだよ。僕は忙しいんだ。忙しい僕に会いに来るより日本へ戻ったほうがカナのためにはよっぽどいいんだよ。

――僕のことを愛していると言ったって、結局、カナは自分の気持ちを満足させるために、ここへ来ているだけじゃないか。

――そんなのはただの愛情の押し付けにしかならないよ。

――今のままじゃ、カナの思いが僕には重すぎるんだ。重いんだよ。

――カナ、君が僕を本当に愛しているのなら、お互いしばらく距離を置こう

目を閉じても無駄な抵抗だった。溢れ出した涙は止まる術を知らない滝のように流れ落ちた。

「カナ……」

 知美はかがみ込むと私の手を取りしっかりと握り締めた。

「私もアンドリュー以外には目を向けられなくて、親を捨ててでも彼と一緒になる気でいたの。でも、彼はそんな私に娘としてやるべき事をまずやらないといけないって、かなりきつい言葉で言われてね。だけど私はまだまだ子供だったのよ。彼の真意を理解出来ず、五年後に会おうと言ってくれた彼の言葉も信じきれず、私は会わずに逃げたの。知美のように向き合わずに逃げたの。最低の事をしてしまったのよ。アンドリューは私を信じて待っていてくれたのに」

 言った途端、鋭い刃で突き刺されたような激痛が私の胸に走った。二十年も経つのに、あのときの苦しみは私の心の隅でしっかりと二十年間変わらずに生きていた。

「カナ、あなたにとってアンドリューは本当に大切な人だったのね。それに、アンドリューも本当にカナを愛してくれていたのね。自分のことよりもカナや、カナのご両親のことを考えてくれていたんだもの」

 私は瞳を閉じたまま何度もうなずいた。

知美は握っていた私の手を優しく摩ると言った。

「今でもこんなにアンドリューのことを思っているのに、このまま彼に会いに行かないでいいの? 今更会ったところで二人がやり直せるかは分からない。だってお互いにもう二十年という人生のレールを歩んでしまっているんだもの。それに会いに行くことでカナにとっては辛い現実が待っているかもしれない。でもね、カナ。二十年前のカナが今のカナをこれからも縛り続けて悲しませるのなら、もう見切りをつけなくちゃ。ちゃんとアンドリューと会って、向き合わなくちゃ。アンドリューと向き合って、言いたいことをちゃんと言ってこなくちゃ」

 私も心の中で何度も同じことを考えた。でも、その度ごとにもう一人のずるい私が言い訳をする。今更アンドリューがお前なんかに会いたいと思うか、どうせ迷惑がられるだけだと。良くも悪くも、結果を知るのを恐れて、そうやっていつも先回りをして私は自分で諦めていた。でも、本当は、そんないくじのない自分を追い払い、現実と向き合う勇気を与えてくれる人が私には必要だったのだ。そして、偶然と片付けてしまうにはあまりにも驚嘆に値する知美との再会。

――いや、ひょっとしたら、神様のいたずらだったのかもしれない。

 アンドリューの言った通り、これは神様の仕業かもしれない。

 私は知美を待っていたんだ。知美に背中を押してもらえるのをずっと待っていたんだ。

 知美の言ってくれた言葉が私の心に深く根付いた苦しみのいばらを溶かし始めた。

「自分の気持ちに臆病にならないで、カナ。他人に嘘はつけても自分に嘘はつけないのよ。自分の気持ちと正直に向き合わなくちゃ」

 知美は言って優しく微笑むと、私の腕をつかんだ。

「覚えている? この言葉、カナが昔、私に言ってくれたのよ。私、この言葉で前に進めたの。自分の愛を後悔したくなかったから」

 愛を後悔しない。

 とても重みのある言葉だ。

 自分の愛を後悔するということは、自分の愛そのものを否定することになる。私のアンドリューに対する愛は本物だった。アンドリューもそうだった。私たちはかつて本気で愛し合った。アンドリューは私の全てだった。私の命だった。

 二十年経った今だからこそ、分かり合えることもあるかもしれない。二人の間に何の始まりがなくても、向き合う事で許し合えるかもしれない。互いを痛めつける言葉でなじり合ってしまったあのころを「若さ故の過ち」だったねと、微笑み合えるかもしれない。

 逃げないで向き合ってみよう。愛を後悔しないためにも、もう一度、アンドリューと向き合ってみよう。先の見えない不安を思うより、彼の言葉をもう一度信じてみよう。

 五年後という約束の年から十五年経った今、知美の言葉で私はようやく自分を見据えることが出来た。自分を許さないと言っていた、過ちのシコリが消えていくのを感じた。

「知美、ニューヨークへ着いてからでも行き先を変更することはできる?」

 私は涙を拭うと訊いた。

「カナ!」

 私のこれからしようとしている行動を心から祝福するように、知美は私を力強く抱きしめると、二十二年前と変わらぬ友情に満ちた微笑みで私を見つめた。

「行き先は?」

「ジュネーブからチューリッヒに」

 言うのと同時に胸の鼓動が高まり出した。まるでアンドリューに会うときの、あの青かった昔の私に戻ったかのように。

「大丈夫。私に任せて」

 知美はそう言ってウインクをなげた。

 ハビエルは怒るだろうなあ。

 でも、私はもう後悔したくない。これ以上自分の気持ちに嘘をつきたくない。

 アンドリュー、アンドリュー、アンドリュー。

 私は彼の名を何度も心の中で叫び続けた。

 I love you, Andrew……

 私の封印した愛が今やっと息を吹き返した。




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