真実
人は本当に大切なものを失ったとき、一体どのように悲しむのだろう。人の感情は今までの経験をもとに作られる。でも、私はアンドリューから別れを告げられたとき、どう反応すればよいのか分からなかった。私の人生の中でアンドリューとの別れほど、絶望に満ち、途方に暮れた、辛く悲しい出来事はなかった。私の中の思考回路が完全に破壊されてしまったかのように、私は泣くべきか、怒鳴るべきか、発狂すべきか、叱咤すべきか、罵倒すべきか、全く分からなかった。ただ呆然とベッドへ行くとそのまま倒れこみ、シーツに顔を埋めた。こみ上げてくる感情と胸が張り裂けそうな感覚に襲われ、吐きそうになった。涙が少しにじみ出ると、いつしかそれは嗚咽に変わり、静かな部屋に響き渡った。
しばらくして、玄関が閉まる音がした。アンドリューは私を残したまま部屋を出て行った。私はそのまま泣き崩れ、気づいたときには白々と夜が明けていた。
一九八八年六月、私はアンドリューを失った。
サン・ディエゴへ戻ると私は自分を叩き壊すかのように色々なことに溺れた。嫌いなタバコを飲み、浴びるほど酒に酔いつぶれ、男に走った。最愛の人を失った悲しみを、最低の方法で記憶の奥底へ追いやろうとした。自分の人生を壊したかった。もうどうでもよかった。そんなことをしてみても何一つ変わらないのに。どうもがいてみても私の愛は変えられないのに。それでも行き場の失った愛を痛めつけることで、私は自分をなんとかごまかして生きていた。ただ機械的に生きていた。大学を卒業すること。その思いだけにしがみついて、それだけのために生きていた。
そんな私の正気を失い、乱れ果てた生活を心配して、智也はよく連絡をくれた。スイスでの事は一切口にせず、智也らしい優しさで私を慰めてくれた。
よお、元気か?
全く毎日暑いよなあ。
今度ビーチにでも行こうぜ。
日焼けした方が痩せて見えるしな。
ごく普通の会話に、私の膿んだ気持ちも楽になった。そして、電話を切るときには決まって言ってくれた。
「何かあったらいつでも連絡しろよ。俺たち友だちだろ」
その優しさに崩れ落ちそうになる。優しかったアンドリューの記憶が、鍵をかけた心の底から一気に飛び出してこないように、私は車を走らせタバコを燻らせた。
私、何やっているんだろう。このままじゃ駄目になっちゃう。
気がつくと五号線を北に、ラホヤへ続く道を走っていた。
「アンドリュー」
私の心がつぶやく前に、彼の名を記憶している私の口もとが、彼の名を呼んでいた。
アンドリュー。
もう一度小さくつぶやいた。その瞬間、堰を切ったようにアンドリューへの変わらぬ愛が私の涸れ果てた心に押し寄せた。私は車を止め、声を上げて泣きじゃくった。
アンドリューと別れて二年半が過ぎた。
私は無事に大学を卒業した。
一九九〇年秋、私はたくさんの思い出の詰まったサン・ディエゴを離れ、日本へ帰国した。
日本では何もかもが変わっていた。行き交う人の波の多さ。重くのしかかるような気だるい空気。そこかしこに現れた真新しい高層ビル。私だけが歩みの鈍いカメのように、時の速さについて行けなかった。だが、時々体がだるいと言って寝込む母にとっては、私の帰国は大いに彼女を安堵させ喜ばせた。
その年の冬、アンドリューからクリスマスカードが届いた。
二年半ぶりに見る懐かしい癖のある字。私はゆっくりと封を開けカードを取り出した。
アンドリュー。心が震えた。
親愛なるカナ、
もしもカナが無事に大学を卒業していれば(カナのことだ。きっと卒業しているだろう)今年の冬は日本に帰国していると思い、このカードを書いた。
カナ、これから始まる日本での生活を楽しんでほしい。今しか出来ない色々なことに挑戦してほしい。
メリー・クリスマス。
カナの来年が益々よい年になるように。
ご両親にもよろしく。
アンドリュー。
一九九〇年。
とても簡素で簡略的な愛のないカード。私はカードを封に納め、アンドリューからもらった手紙――たくさんの愛に溢れた――と一緒に箱の中へ閉まった。
なぜ今になってこんなカードを送ってくるの?
愛されていないことを突きつけられているようでやりきれない気持ちになった。
翌年、私は社会人として働きだした。
働いてみて初めて分かる仕事の難しさと責任の重さ。毎日が忙しなく、季節は駆け足で過ぎていき、瞬く間に一年が終わる。その年の冬もまた、アンドリューからカードが届いた。
二人の間に愛があるころ、アンドリューの手紙は私を心の底から幸せな気持ちにさせてくれた。でも、年に一度届くようになった彼からの単純なカードに、私の心は正直苦しかった。愛のないアンドリューからのカードは私をあの辛く悲しい絶望の記憶へとリンクする。変わらずに彼を愛し続けている私の心に深く鋭い杭をうちつける。お前の愛はどうせ報われないさと、知らしめるかのように。そっとこのままにしておいてほしいのに。
決まり事のように翌年の冬、アンドリューから再びカードが届いた。
親愛なるカナ、
一年の経つのは本当に早いものだね。それとも大人になり、時の流れを速く感じるようになったということなのだろうか。
元気でやっていますか?
来年は二人にとってきっと素晴らしい年になる。そう信じています。
メリー・クリスマス。
愛をこめて。
アンドリュー。
一九九二年。
何年ぶりだろう。アンドリューが「愛をこめて」と書いてくれたのは。
私はその箇所を何度も何度も読み返した。そして、思い知らされる。今もなお、胸が熱くなるほどアンドリューを愛しているということに。彼を忘れようとわざと粋がって強がってみても、心の中までは装う事は出来ない。少しでも心がアンドリューを求めたら、私の体はそれに素直に反応して、寂しくなり切なくなる。どんなに愛してみても彼はもう手の届かないところにいってしまっているのに。
――五年。五年後にもう一度会おう。そのときお互いを思う気持ちがまだ少しでもあれば、そのときまた始めよう。心も体も成長した二人でやり直そう。
一九九三年、六月。もうすぐその五年後が訪れようとしていた。でも、私はアンドリューの最後の偽りの言葉を鵜呑みにするほど愚かな女ではない。そう自分に言い聞かせた。
あれは彼の優しさから出た私への最後の言葉。会いに行けばまたそこで傷つくのは自分。私たちはもうそれぞれの人生を歩み始めてしまっている。だいたい私の愛が重いと言って拒絶したのはアンドリューの方。今更会って何が始まるというの? 会いたいと思っているのなら、アンドリューが日本へくるべきなのよ。だいたい彼は遠距離恋愛なんて最初から信じていなかったのだから。
私は有りとあらゆる言い訳を並べ立て、自分が傷つかないように防護した。
約束の六月、私は日本に留まり仕事に打ち込んだ。仕事だけが私の逃げ場所だった。もちろん、アンドリューが日本へ来ることもなかった。
その年の冬、アンドリューから届いたカードにはたった一言「メリー・クリスマス」と書かれていただけだった。そして、翌年届いたカードには、アンドリュー以外の名が連名で記されていた。
元気かい、カナ。
君の家族と君にとってよい年になることを願っているよ。
メリー・クリスマス。
アンドリュー&マリア。
目の前が真っ暗になった。
私たちは別れたのだ。アンドリューに新しい恋人が出来ても不思議ではない。ただ、連名で綴られたカードを見て、私は言いようのない悲しみに襲われた。そして、その年を最後にアンドリューからの連絡は途絶えた。
それから六年の歳月が過ぎた。
その間、真剣に愛をぶつけてくれる男性とも何度か付き合った。
この人なら私を先に進ませくれるかもしれない。この人なら私を幸せにしてくれるかもしれない。そう思って付き合ってみた。でも、私は愛することよりも、ただ愛されることを求めていただけだった。どんなに愛したつもりでも、アンドリューを忘れさせてくれる人はいなかった。アンドリュー以上に愛してくれる人はいなかった。私の愛は八八年の夏を越えることが出来なかった。
二〇〇〇年十二月、最愛の母が天国へと旅立った。何の前触れもなく、入院して十日目で息をひき取った。
カナ、何もしてあげられなくてごめんね。
抱き寄せた私の耳元で最後にそういい残して母は逝ってしまった。
自分の命よりも大切な人を私は二人も失った。私は信じていた神様を憎んだ。母は何一つ悪い事はしていないのに、最後まで病気と闘って息絶えた。必死に祈ったのに、必死にすがったのに、神様は私の祈りを聞いてはくれなかった。
絶望に満ち、途方に暮れた、辛く悲しい喪失感。それはアンドリューを失ったときと同じだった。そんな私の心の傷が癒えぬまま、二年後の二〇〇二年初夏、父も母のもとへと逝ってしまった。脳梗塞だった。私はとうとう一人ぼっちになった。
悲嘆の中、私は仕事を辞めた。何もする気が起きなかった。誰にも会う気になれなかった。生気の失せた無気力な日々。台所、居間、庭先、どこを見ても楽しく笑う両親の姿が蘇り、私を一層寂しくさせた。
一人で住むにはあまりにも広く、寂し過ぎる家。その寂しさと孤独に耐え切れなくなった私は家を売り、新たな一歩を踏み出す決心をした。決断を下した午後、一通の手紙が郵便受けに無雑作に投げ込まれていた。差出人を見た。癖のある字。アンドリューからだった。八年ぶりの手紙だった。でも、私は封を切り、その八年ぶりの手紙と向き合う勇気を出せなかった。
お願い。もうこれ以上、絶望に追い込まないで。もうこれ以上、悲しみを背負わせないで。
私はその手紙を箱の中へ閉じ込めた。愛の溢れる箱の中へ。
家を売る決断を下してから瞬く間に三年という月日が経過した。
家を売るための準備は想像以上に困難なことだった。何十年も人生を共にした家の中には、何十年もの積み重なった様々な思い出の品がある。全てを整理するのには、私の心はまだ癒されていなかった。そんなとき、信じられないような奇跡が起こった。
「カナ、元気? あなた一人で大丈夫なの?」
イザベルからの電話だった。
帰国後も、私はイザベルと連絡を取り合っていた。毎年遊びにも行っていた。でも父の死後、私は孤独の殻に閉じこもり、一切の連絡を絶っていた。そんな私を心配して、イザベルが初めて国際電話をかけてくれた。
「イザベル」
彼女の名を呼ぶと同時に涙が溢れ出した。ずっと一人で堪えていた寂しさと悲しみが、形となって瞳から流れ出た。
「Oh, Kana」
受話器の向こうでイザベルは共に泣いてくれた。そして、
「待っていなさい。すぐにあなたに会いに行くから」
と力強く言って、私を勇気づけてくれた。
あんなに憎んでいた神様に私は無意識に感謝をしていた。
最愛の母を失っても、第二の母のように慕うイザベルが日本に来てくれる。淀んだ心に射す小さなひとすじの光り。私は嬉しくて微かに微笑んだ。笑うことなんてもうずっと忘れていたのに、私の唇には笑みが現れていた。そして、信じ難いほどの早さでイザベルは私を悲しみと孤独のどつぼから救い出しに来てくれた。
「イザベル!」
「カナ!」
抱きしめられた瞬間、堪えきれず泣き崩れた。イザベルは何も言わず、ただ優しく背中を擦りながら私を受け止めてくれていた。
暖かいぬくもり。忘れかけていた。人から愛されることの幸福を。
翌日から、イザベルのてきぱきとした行動力のお陰で家の中は少しずつ片付けられていった。全ての物に思いを馳せてしまう私がしていては、何年かかっても終わらせられない両親の遺品を手際よく、でも、私の心を傷つけない程度の速さで。
「せっかく日本へ来てくれたんですから、明日、三渓園という日本庭園に行ってみませんか? そのあと、中華街で美味しい食事をして、新年をお祝いするの」
二〇〇五年の大晦日、だいぶ片付け終わった部屋を見渡して私は言った。
三渓園はかつて父が働いていた日本庭園。私がまだよちよち歩きをしていたころ、散歩がてら父に会いによく母と通った。その懐かしい思い出の場所にイザベルを連れて行きたかった。悲しみに浸るためではなく、私の人生をやり直すために。これから始まる新しい門出を、私はその庭園からスタートさせたかった。娘と言ってくれるイザベルと一緒に。
二〇〇六年元旦。
刺すように冷たい朝の空気を肌と肺に浸み込ませながら、私たちは三渓園の庭を散策した。鶴翔閣の前を通りかけたとき、美しい琴の音色が私たちの耳に響いてきた。その音に誘われて進んでみると、「元日箏曲演奏会――琴とギターの新しい調べ」と、書かれた看板が入口に立てかけられていた。中へ入ると日本間は既に大勢の人たちで埋め尽くされていた。奥に設けられた八畳ほどの畳のステージでは、三人の筝曲者と一人のギタリストが、ポップな曲から日本の伝統的な曲まで、幅広いジャンルの曲を奏でていた。
イザベルは初めて聴くという日本の絃楽器の音色と、それを奏でていた着物姿の美しい日本女性に感激して、しきりにカメラのシャッターを押していた。それは心に残る、本当に素晴らしい演奏会だった。
昼は待春軒で三渓そばと抹茶を味わい、夜は中華街で飲茶をたらふく食べた。
笑う、おどける、首をかしげる、困る、驚く、泣く。
イザベルが日本へ来てから久しぶりに感じる人間らしい感覚に、私は生きていることを実感していた。本当に有り難かった。
両親の遺品の整理が一通り済んだ一月初旬、私に不変の愛を示し、私に生きる勇気を与えてくれたイザベルは、サン・ディエゴへ戻って行った。
「家を売ったらしばらく私たちのところへいらっしゃい。何年いてもいい覚悟でいらっしゃい。いいわね。あなたは私たちの大切な家族の一員なのよ。その事だけは決して忘れないでね」
私はアンドリューと別れて以来、初めて喜悦の涙を流した。
イザベルのいなくなったひっそりと静まり返った家。でも、不思議と私の心は安らぎを覚えていた。私は手付かずになっていた自分の部屋の整理を始めることにした。一つ一つ振り分けながら、必要な物だけをダンボールへと詰めていく。単純な作業だが、途中何度も手が止まり、懐かしいころへタイムスリップしては一人、笑みをこぼした。
小学校時代からの色あせた年賀状。
中学時代のスクラップブック。
卒業文集。
卒業アルバム。
記憶の引き出しに大切にしまっておいた過去の回想にふける至幸の時間。心が暖かく穏やかになった。そして、私は最後まで置き去りにされていた青色の箱に手を伸ばした。
愛に溢れた手紙たちが詰まった愛の箱。
私は深くため息をつき、そっと蓋を開けた。癖のある字。アンドリューからだとすぐに分かる何通もの手紙。空で言えてしまうほど、何度も読み返した愛のある手紙。その中に無造作に入れられた、不相応な五枚のクリスマスカードと未開封の手紙。私の心が鈍く痛んだ。でも、私は人生をやり直す勇気をイザベルからもらった。もう大丈夫。
私はまだ読んでいない手紙と向き合う覚悟を決めた。アンドリューを、彼を今なお思う心のチャプターを閉じるために。
私は封を切るとゆっくり便箋を開いた。
親愛なるカナ。
この手紙をカナはどんな気持ちで読んでくれるのだろうか。
八年ぶりに受け取る僕の手紙を、カナは果たして読んでくれるのだろうか。
そんな不安な思いを胸に、それでも書かずにはいられない僕の心情を、カナが理解してくれることを祈りつつ書いている。
つい先週、僕は仕事でパリへ行った。そのとき、ふと立ち寄ったレストランでとても懐かしい人と再会した。
誰だと思う?
あのやさしくておもしろいルイだよ。
声をかけられたとき、一瞬、誰だか分からなくて、彼に申し訳ないことをした。本当に偶然だった。いや、ひょっとしたら、神様のいたずらだったのかもしれない。僕がカナと向き合うために、神様がルイを引き合わせてくれたのかもしれない。
カナ、君は今でもルイと連絡を取り合っているそうだね。カナの良き友人として、ルイがカナの人生の中にいてくれることに、僕は正直嬉しかった。
カナ、ルイから聞いたよ。ご両親を最後まで面倒みて、看取ってあげたそうだね。本当に大変だったね。よく頑張ったね。僕はそんな強くなったカナを誇りに思うよ。
今はまだ悲しくて仕方ないかもしれない。でも、娘としての責任を果たしたんだ。後悔はないはずだと僕は確信できる。
時が必ずカナの心を癒してくれる。だから自分に負けないでほしい。
カナ、八年経った今、僕は君に謝らなければいけないことがある。
八八年の六月、カナが僕に会いに来てくれたとき、僕はカナにひどい事を言ってしまった。カナから僕たちのことをまだお母さんに話していないと聞かされたとき、僕はカナに、僕ではなく君はお母さんを選んでいる、とひどいことを言ってしまったね。親思いで優しいカナだからこそ、僕は愛おしいと思っていたのに。自分より人のことを真っ先に考えるカナだからこそ、大切にしたいと思っていたのに。
でも、だからこそあのとき、僕たちの舞い上がった感情だけで二人の人生を決めてしまってはいけないと思ったんだ。娘としての責任を果たしていないまま、カナが僕との生活を始めてしまったら、カナは、いや、僕たちはあとで必ず後悔すると思ったんだ。
だから、僕はカナに娘としてやるべきことをまず先にしてもらいたかった。僕たちの愛が確かなものであれば、多少の会えない時間などは問題ではない。そのあとで僕たちのことを考えていけばいいことなんだと思ったんだ。僕たちにならそれが出来ると信じていたんだ。でも、僕のそんな思いをきちんとカナに伝えず、しばらく距離を置くためにわざとカナにきついことを言ってしまった。クリスマスカードも同じだ。わざと素っ気なく書いてしまった。だけど、五年後に会おうと言った約束の年の一年前、僕は逸る気持ちを堪え切れず、「愛をこめて」とカナに書いた。僕の気持ちは変わらない。そう伝えたかったんだ。
約束の夏、自信に満ちたカナに会えるのを僕は楽しみに待っていた。必ず会いに来てくれる、そう信じていたんだ。でも、カナは来なかった。いや、僕がカナを来られないようにさせてしまったんだ。僕の配慮ない態度や言葉がカナを苦しめてしまったんだ。
それに気づいたとき、僕は自分の愚かさを呪った。
後悔しても、あのままカナを僕のものにしてしまえば良かったんだ。誰に責められようと、僕はカナを引き止めていれば良かったんだ。
でも、僕はどうしようもない臆病者だ。
カナが来ないと分かったとき、僕は自分からカナに会いにいく勇気が出せなかった。怖かったんだ。ひょっとしたら、僕を忘れて他の誰かと一緒にいるかもしれない。僕のことなんてもう愛していないと言われてしまうかもしれない。そんなカナと向き合うことになるかもしれないと考えたら怖くて、それを受け入れる自信が僕には持てなかった。だから、カナが会いに来ないのがその証拠なんだと自分に言い聞かせ、君に会いに行くことさえ拒んでしまった。それからの僕はカナを忘れようと自分を痛めつけた。でも、結局自分が惨めになるだけで、無意味なことだと気づかされたよ。本当に僕は大馬鹿者だ。
今さらそんな昔のことを蒸し返して何になるの? そうカナは罵倒するかもしれない。
でも、カナ、どうかお願いだ。あんな軽薄で大人気なかった愚かな僕を許してほしい。
本当にすまなかった。
カナ、あれからもう八年だね。
きっとカナの横には僕以上の愛でカナを愛し、カナの今の悲しみを共に背負ってくれている人がいるんだろうね。きっと幸せなんだろうね。幸せであってほしい……。
僕にとってカナは何よりも誰よりも大切な人だ。
だからこそ、カナがいつまでも幸せでいてくれることが僕の心からの願いだ。
いつまでも変わらぬ愛をこめて。
アンドリュー。
二〇〇二年九月。
手紙を持つ手が震えていた。
アンドリューは私のためにわざと冷たく演じていた。私のためを思って、私たちの将来を思って、あえてきつい態度を取っていた。私はアンドリューの思慮深さと、相手の心を見抜く洞察力を知っていたはずなのに。愛するという事は相手を深く信頼することだと彼から教えられたのに。何があってもアンドリューを信じようと心に決めていたのに。それなのに私は彼の言葉に秘められた真実を理解しようともしなかった。冷たさの中に託されたアンドリューの思いを、アンドリューの愛を、感じようともしなかった。
もう遅い。自分のせいだ。会いにいくのが怖かった。アンドリューを信じきれていなかった。傷つきたくなかった。だから御託を並べて私は自分を防護した。自分の粗忽な決断で私はアンドリューを失った。自分の命よりも大切なアンドリューを。
私は事切れたようにその場に倒れこみ、体を丸め慟哭した。
悔やんでも悔やみきれない過ち。
私は自分を一生許さない。
神様、どうか私に罰を。
泣き叫ぶ声が部屋中にとどろいた。それはまるで私の過ちを嘲笑っているかのようにも聞こえ、私の心を重い咎の鎖で縛りつけた。
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