スイス 八八年 初夏

気まずい空気の中、私を迎えに来たスーザンにアンドリューは少し車で待つよう頼むと、私を見つめた。

「いいね、カナ。君は今の自分から目を背けてはいけないよ」

「それはもうあなたを愛してはいけないということなの?」

 立っているのもやっとの思いでつぶやいた。

「そうじゃない」

 そう言ってアンドリューは私を抱き寄せた。

「ただカナに後悔をしてほしくないんだ」

「それなら私をこんな気持ちのまま行かせないで。アンドリュー、あなたを愛している。愛しているのよ」

 こみ上げた涙と一緒にアンドリューに強くしがみついた。でも、アンドリューは愛しているとは言ってくれない。私の思いの丈にこたえるように、ただ強く抱きしめ返すだけだった。彼の体は微かに震えていた。その震えをごまかすためか、アンドリューは私を一層強く抱きしめ、震える声で私の名を何度も呼んだ。

 アンドリューは泣いていた。私も彼の胸の中で泣き崩れた。私たちは何も言わず、何も言えず、ただじっと抱きしめ合っていた。このまま時が止まってしまえばいい。ずっとこのままでいられたら……。離れたくなかった。離したくなかった。でも、しばらくするとアンドリューは何かを吹っ切ったように小さく息をつき、

「カナ、僕は君を信じているよ」

 と最後に一言耳元でささやくと、私を彼の胸から引き離した。


 サン・ディエゴへ戻るといつもの生活がまた始まった。

 大学へ行き、宿題をし、レポートを書き、友人に会い、そして、アンドリューへ手紙を書く。それでも、アンドリューから届く手紙は著しく減っていた。

忙しいからかもしれない。兵役訓練に行っているからかもしれない。

寂しさや不安が募る自分を慰めるように、色々な言い訳を考えては自分に言い聞かせていた。

たまに届くアンドリューの手紙の最後には決まって必ず「お母さんの具合はどうだい? 元気になる事を祈っているよ」と書かれていた。母の勘違いで発した「ルイ」という名前のせいでアンドリューは傷ついたというのに、その母を気遣う彼の優しさ。私がアンドリューのことを母に打ち明けていなかったせいで、彼との関係が気まずくなってしまったというのに――そう。悪いのは私の方なのだ――、その文面を読む度に、まだ会ったことのないアンドリューから気にかけてもらえている母に、私は腹を立てていた。母を責めることで自分の非から目をそらそうとしていた。何をしてももうあとの祭りだというのに。

 その母の体調が思わしくないという知らせを父から受けた一月中旬、私は急遽、日本へ一時帰国した。病院へ駆けつけると、医師からはすぐにでも人工透析を始めなければ母の体はもたないと告げられた。それでも、母は最後まで人工透析に踏み切ることを拒み続けた(生活の自由を奪われること以上に、家族に負担がかかることが心苦しくて居た堪れないと言っていた)。だが、母の腎臓はもうぼろぼろだった。医師や私たちの説得により、母は泣く泣く承諾した。そして一月の終わり、母は人工透析を始めた。

毎週三回、四時間の透析。事前に説明は受けていても、思うように生活ができなくなってしまった事実に母はひどく落胆した。私はそんな母を心配して、大学を中途退学しようと考えた。でも母は、自分で決めたことなのだから最後までやり遂げてほしい、と私を説き伏せ、私も母の思いにこたえることにした。

程なくして私はサン・ディエゴへ戻った。私はアンドリューに言われた通り、母に言われた通り、学生として今出来ることを自分なりに精いっぱいやろうと心に決めた。それでも、外国人には難し過ぎるという科目を専攻してしまった私は、精いっぱい頑張ってみても、ときに辛くなりどうしようもなく落ち込んでしまう事もあった。そんなとき、アンドリューが連れて行ってくれたラホヤのソルダッド山へ車を走らせ、一人、星空を眺めては彼を思い、涙した。楽しかった日々が幻影となって現れては私を一層寂しい気持ちにさせるのに、それでも行くことをやめなかった。きっとあの大きな白い十字架に一抹の願いを託したかったからかもしれない。私たちが再び愛し合えるようになれることを。


 六月。サン・ディエゴはすっかり夏の季節を迎え、学生たちは長い夏季休暇に入った。私は自分の気持ちを抑えきれず、再びスイスへ旅立った。

 冬のときとは違い、六月のチューリッヒは清々しく気持ちのよい春を感じる季節。ゲートの前ではすでにアンドリューが待っていてくれた。

「アンドリュー!」

 半年ぶりに会うアンドリューに私は飛びついた。

「カナ。君っていう人は……」

 子供染みた私のはしゃぎ振りに苦笑しながらもアンドリューは私を抱きしめてくれた。でも、半年前とは明らかに違うアンドリューの抱擁。抱きしめ合っているのにアンドリューの心が感じられない。触れ合っているのになぜか遠い距離を感じてしまう。それでも、私は気づかない振りをして体を離すと微笑んだ。

「どうしても我慢出来なくて来ちゃったの」

 舌を出して笑った私をアンドリューは呆れたように見て笑った。

「とにかく家に行こう」

 私たちはアンドリューの家へ向かった。

 懐かしい町並み。懐かしい景色。懐かしいアンドリューの部屋。

何もかもがあのときのままだった。でも、私がここへ来たことは間違いだったとすぐに気づかされた。柔らかい微笑みも、優しい口づけも、激しい抱擁も、甘い言葉も、何一つ私に与えてくれないアンドリュー。私の心は気まずさと疎外感で押しつぶされそうだった。

「私がここへ来てアンドリューには迷惑だったみたいね」

 私はアンドリューのピアノを撫でながらぽつりと言った。彼の顔を見る勇気がなかった。つい半年前、このピアノの前で私たちは笑いながら一緒にジョー・コッカーの歌を歌った。あのときはあんなにも幸せに満ち足りていたのに。

「そんなことはないよ」

 アンドリューは私の後ろに立つと、優しく抱きしめてくれた。

「会えて嬉しいよ」

 そう言ってくれているのに、私たちの間にある溝はそのままだった。何かがずれてしまっていた。

 夜、私たちは町まで繰り出すと、一軒の賑わいを見せているレストランで食事をした。二人の中にある隙間を賑やかさにかこつけて、かき消したかったからかもしれない。周りの楽しい雰囲気に馴染んでしまえば、私たちも笑い合えると思ったからかもしれない。時折り目が会うと私たちは微笑みを交わし、当たり障りのない会話をしては相づちをうった。

「サン・ディエゴはどうだい?」

「もうすっかり向こうは夏よ」

「そうか。ゴードンたちとは会っているのかい?」

「ええ、この前彼の誕生パーティをみんなでやったわ」

「そうなんだ」

「アンドリューの仕事は?」

「もう随分慣れて順調だよ」

「そう。ブルースとお母さんは元気?」

「ああ、二人とも元気だよ」

「良かった。また二人に会いたいわ」

「そうだね」

 アンドリューは「そうしよう」とは言ってくれなかった。寂しい……。こんなにも近くに愛する人がいるのに、私の思いはアンドリューには届いていない。それでも私たちはベッドの中で求め合った。いき場のない寂しさと悲しみを、体を重ねることで忘れるかのように愛し合った。

「愛しているわ、アンドリュー」

「カナ、僕も愛している」

 その場しのぎのささやきでも私には嬉しかった。

「会いたかったわ」

 本当にどうしようもないぐらい会いたくて恋しかった。

「僕もだ。会いたかったよ」

 絡み合った指先に力を入れてアンドリューは言い、私たちは共に果てた。

虚しさだけを心の奥に残したまま。


 学生の私には夏休みでも社会人のアンドリューには仕事がある。翌日から彼は仕事へ出かけた。

「何かあったらオフィスに連絡するんだよ」

 部屋の鍵と会社の連絡先をテーブルに置いてアンドリューはそう言うと、

「お昼には一度戻ってくるからね」

 と、頬に口づけをして部屋をあとにした。

 シーンと静まり返った部屋。私はソファーに腰を下ろし、目を閉じた。目の奥に浮かび上がるアンドリューの姿。柔らかい笑顔で――愛している――と私に何度も言ってくれたアンドリューの姿。同時に目の奥が熱くなった。私はキッチンへ行き、アンドリューが多めに落としてくれたコーヒーをカップに注ぐと口にふくんだ。頬をつたう涙がコーヒーの味をしょっぱくさせる。窓にもたれるとひとしきり泣いた。

 十二時少し過ぎ、アンドリューは昼食をとるために戻って来た。私は冷蔵庫の有り合わせで料理を作り、テーブルへ並べた。静かな部屋で食べる静かな昼食。

「午前の仕事はどうだった?」

「相変わらず忙しいよ」

「そう、大変ね」

「カナは?」

「外へ散歩に出かけたわ」

「今日は気持ちの良い天気だからね」

 まるでリタイアした老夫婦のような単純で単調な会話。

 毎晩愛を重ねても、二人の行きつく先に同じ想いは感じられなかった。

 堪らなく苦しかった。堪らなく切なかった。

 それはアンドリューも同じだった。

「カナ。今夜、ちゃんと話し合おう」

 滞在最後の日、聞き覚えのある台詞をアンドリューは言った。

――ユキエ、ちゃんと話し合おう。

 あのときと同じ語調でアンドリューは言った。私はもう駄目だと思った。今度こそアンドリューから別れを告げられると感じていた。

その日、アンドリューはいつもより早めに仕事を切り上げて戻ってきた。その表情はどこか物悲しく、私を一層やり切れない気持ちにさせた。

「お帰りなさい。今日はどうだった?」

 ぎこちない微笑み。私は、コーヒーを入れるわね、と、逃げるようにすぐにキッチンへ隠れた。コーヒーの湧き上がる優しい音を聴きながら(でも、私のところだけ、ときが止まってしまったかのように)、私はじっとその場に立ちつくし、少しずつ落ちていくコーヒーをただぼんやりと眺めていた。

「カナ」

 いつの間に入って来たのか、アンドリューが後ろからそっと私を抱きしめた。

 懐かしい私の知っているアンドリューのぬくもり。私は何も言わずそのぬくもりにもたれて瞳を閉じた。今ここにいる私たちは半年前の愛に溢れている二人だ。そう思いたかった。

「カナ、話し合おう」

 だがアンドリューはそうつぶやいて私を現実へと連れ戻し、リビングのソファーへ座らせた。目の前に座っているアンドリューが私を見つめていることを、私は体全身で感じていた。でも、私は彼を見つめることが出来なかった。暖炉の薪がパチパチと小さな音をたてて燃えていた。

「カナ、僕を見て」

 アンドリューの言葉に仕方なく私は従った。

「カナ。君も気づいているね。僕たちは少しお互いに距離を置いたほうがいいんだよ」

「距離? どうして?」

 そう言うのがやっとだった。アンドリューは大きなため息をついた。

「君は何にも分かっていないんだね」

 アンドリューは落胆したように言う。

「前にも言ったはずだよ。僕には僕の、そして、カナにはカナの今やるべき事をすることが大切なんだって」

「だから大学で頑張って勉強しているんじゃない。少しでもあなたとちゃんと向き合いたいから頑張っているんじゃない」

 アンドリューの言うように一人で頑張っているのに。

私は涙が溢れ出ないように唇を強く噛み締めた。

「それに今は夏休みよ。休みに愛する人に会いに来てはいけないの?」

 私はただアンドリューの本心が知りたかった。どんな努力をすれば心が触れ合える二人に戻れるのか知りたかった。それなのに、感情に任せてアンドリューを傷つける言葉を私は吐いてしまった。

「それとも会いに来られたら、何かまずいことでもあるの?」

 アンドリューは顔をしかめて私を見ると一拍間をおき、

「ああ、そうだよ。僕は忙しいんだ。忙しい僕に会いに来るより、日本へ戻ったほうがカナのためにはよっぽどいいんだよ」

 と吐き捨てるように言った。

「それに僕のことを愛していると言ったって、結局、カナは自分の気持ちを満足させるためだけに、ここへ来ているだけじゃないか」

 いつも冷静で優しいアンドリューから聞かされる信じ難い台詞。嘘であってほしいと思った。

「そんなのはただの愛情の押し付けにしかならないよ」

「押し付け? あなたに会いに来ることが愛情の押し付けだと言うの?」

 今まで積み重ねてきた二人の愛の全てまでもが否定されたかのように聞こえた。

私は歯を食い縛り、両手を握り締めて瞳を閉じると、溢れ出ようとする絶望の涙を必死に堪えた。

「お互い本気で愛し合っているんだと思っていた」

 私はゆっくり目を開き、アンドリューを見ると心に反して冷笑した。

「なのにバカみたい。母にもあなたのことを打ち明けて、悲しませて、それでも本気だったから、私は全てを捨てる覚悟でいたのに」

一瞬アンドリューの瞳に悲しみとも慈しみとも取れる色が走った。でも、私はそれを無視して続けた。

「一人で思い上がっていただけだなんて。ホント、バカみたい」

 惨めだった。虚しかった。瞳から涙がこぼれ落ちた。

「今のままじゃ、カナの思いが僕には重すぎるんだ。重いんだよ!」

 私の心を打ち砕くように、アンドリューは強く冷たい口調で止めの台詞を険しく吐いた。

 私の愛が重い。

 私はもう何も言えなかった。何も言えなくなった。目の前に座っているアンドリューをただ茫然と見つめていた。私は彼から愛することを拒絶されてしまった。全身から血の気がひくような喪失感に襲われ、動けなくなった。

「僕だけを見るんじゃなくて、もっと他のものにも目を向けてほしいんだ。カナの人生、カナの家族、カナの将来、そういうことにも目を向けてほしいんだよ」

 アンドリューの口調は信じられないほど穏やかだった。

「もっと自分たちの人生を確立させて、もっと成長していかなければ、カナも僕も今のままじゃきっと駄目になってしまうよ」

 無表情の私にアンドリューはさらに続けた。

「カナ、君が僕を本当に愛しているのなら、お互いしばらく距離を置こう」

 終わった。全て終わってしまった。

 何の反応も見せない私にアンドリューは小さなため息をつき、最後にこうつけたした。

「五年。五年後にもう一度会おう。そのときお互いを思う気持ちがまだ少しでもあれば、そのときまた始めよう。心も体も成長した二人でやり直そう」

 それから柔らかく微笑んだ。

 アンドリューは優しい。本当にいつも優しい。

 私を傷つけまいとして、最後に一抹の希望を与えてくれた。でも、私には分かっていた。それが私に対するアンドリューからの最後の優しさだったと。

あのときも私は疑いもせずただそう信じていた。私はまだまだ子供だった。あのときも私はアンドリューの奥深い言葉の意味を理解することが出来なかった。

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