失望
翌日、五日間の熱く甘い時間を過したヴァルベラの別宅をあとに、リヒタスヴィルにあるアンドリューの家へ向かった。ヴァルベラの三角屋根の家とは違い、その家は積み木のブロックのような四角い三階建てのコンクリート造りで、最上階の一角が彼の家だった。広い玄関にゆったりとしたリビング、アップライトピアノが置かれたゲストルームとアンドリューのベッドルーム、細長く適度に広いダイニングキッチン。部屋全体はサン・ディエゴのときと同じようにモノトーンでまとめられ、所々に飾られたインテリアは物静かで落ち着いたアンドリューを象徴しているかのようだった。
荷物を置くと――新婚旅行から戻った夫婦のように――まずはスーパーへ買い出しに出かけ、必要な食材や調味料を揃えた。朝は僕が作るよ。じゃあ私はお昼ね。次の日は一緒に作ろう。そうやって代わる代わる料理を作っては夫婦の真似ごとをして幸せに浸っていた。時間を調整してはスーザンやジュリアと合流し、ラッパーズヴィルのバーへ繰り出したり、ニーダードルフ通りを散策しては、そこで見つけたコーヒーショップやレストランで楽しい会話に花を咲かせ、美味しい食事にしたつづみを打ったりした。オーバードルフ通りにあるグロスミュンスター大聖堂へ行ったときは、みんなで一緒に記念写真を撮ったり、ジュエリー店に立ち寄ったときは、小さなダイヤのついた金の指輪をアンドリューがプレゼントしてくれたりもした。夜は互いの愛を確かめ合うように甘い香りを漂わせて愛しあい、抱きしめ合って眠った。それはまるでもうすぐやって来る別れを惜しんであらゆる感覚器官を研ぎ澄まし、二人の体と心に互いの全てを沁みこませているかのような、そんな激しい愛し方だった。
水曜日、私は朝から心持ち緊張していた。夕方、アンドリューのお母さんに会いに行くことになっていたからだ。彼のお母さんに会うだけだ。他に深い意味がある訳ではない。そう自分に言い聞かせても、心拍数は確実にいつも以上に上がっているのが分かった。
「カナ、今日は朝からそわそわしているね。そんなに心配?」
私は努めて普通にしていたつもりなのに、アンドリューの洞察力にはお手上げだ。
「お母さんに気に入られなかったらどうしよう。そんなこと考えていたらどきどきしちゃって」
そう言って握りしめた私の手は緊張で冷たかった。
「ちょっとおいで」
アンドリューは手招きをして私を呼ぶと、ゲストルームに置いてあるピアノの前に座った。
「アンドリュー、ピアノ弾けるの?」
私は目を見開いて訊いた。ピアノが置いてあってもまさか彼にピアノが弾けるとは思ってもみなかった。――アンドリューとピアノ――この組み合わせがどうしてもピンと来なかった。
「しばらく弾いてないからどうかな?」
笑顔で言うと蓋を開いた。それから鍵盤にそっと手をのせ、軽やかな手つきでジャズを弾き始めた。
「わあ、すてき」
私は目を閉じてアンドリューの奏でる曲に聞き入った。それは彼の好きなジョン・コルトレインの曲だった。バラード調のその曲は緊張で高まった私の心をゆっくりと優しく解いていった。テンポは更にスローになり、曲の終わりに近づいた。私は目を開けてアンドリューの流れる指先を目で追いながら深く息を吐いた。酔いしれちゃったわ。そう言ってアンドリューに微笑んだ次の瞬間、彼はいきなり鍵盤を強くたたいて私にウインクを投げた。そして、聞き慣れた曲を弾き始めると、曲に合わせて歌い出した。
Unchain my heart. Baby let me go. Unchain my heart. Cause you don’t love me no more
それは車の中で何度となく流れていたジョー・コッカーの曲だった。
ヴァルベラに向かうときも、リヒタスヴィルに戻ってくるときも、スーザンたちとラッパーズヴィルに行くときも、ラジオからジョー・コッカーの痺れる歌声が流れていた。楽しい思い出が蘇る。いつの間にか私もアンドリューに合わせて一緒に歌い出していた。私の緊張は完全にどこかへ消えていた。
アンドリューのお母さんはオーバーリーデンという町から少し山の方へ入った立派な一軒家に住んでいた。今ではロンというパートナーの彼もいた。家へ向かう途中、私たちは花屋に立ち寄り花束を買った。
重厚な装飾入りの木製扉をアンドリューがノックすると、中から見るからに気品高い雰囲気を持つ、素敵な女性が満面の笑みを浮かべて現れた。
「やあ、母さん。約束通りカナを連れてきたよ」
アンドリューはにこやかに言い、買ってきた花束を渡した。
「まあ、カナ、よくいらしたわね。待っていたのよ。さあ、中へ入ってちょうだい」
流暢な英語で私を歓迎してくれた。
部屋の中はキングウッドともレッドウッドとも取れる色合いの家具でダイニングもリビングも統一されていた。壁のいたる所には大小の油彩画が飾られ、天井はモールディングで覆われていて、豪華なシャンデリアの光りが部屋全体を優しく照らし出し、暖炉にくべられたモミの薪が、暖かい炎と共に芳しい香りを放っていた。
「初めてのスイスはどう? アンドリューはちゃんと楽しませてくれているのかしら?」
お母さんは言って、生ハムやサラミ、フレッシュチーズがのった大皿をテーブルの中央に置くと、私を見て微笑んだ。
「はい。色々なところへ連れて行ってくれるので毎日がとても楽しいです」
私はこたえてアンドリューの腕にそっと触れた。アンドリューは私の手を優しく握ると、自分の手に絡ませた。
「それじゃあ、みんなでカナを歓迎しよう」
四人のグラスにワインを注ぐとロンはスッと立ち上がり、乾杯の音頭をとった。
ヨーロッパ人は酒に強いと聞いたことはあるが、アンドリュー同様、お母さんもロンもめっぽう強くて、四人でワインを六本も空けた。生ハムやチーズなどの肴も初めて食べる味のものばかりだったが、どれも新鮮で美味しく、会話も弾んだ。途中、何か腹持ちのよいものが食べたいと唐突にアンドリューが言い、私はキッチンをかりてトマトとパプリカ、生ハムを使った即席パスタを作った。
「まあとっても美味しいわ。カナはお料理が上手なのね」
お母さんのその一言で火がついたように、アンドリューはサン・ディエゴでの日本食パーティの話を自慢気に話しだした。食材から料理のメニュー、味付けに至るまで事細かく説明する。そして最後に、
「カナの料理は本当にどれも美味しくて、僕は幸せ者だよ」
と、ほろ酔い気分と分かるトロンとした表情で私の肩を抱いて言った。
「きっとお母様がしっかりとあなたにお教えになったのでしょうね」
お母さんが言うと、アンドリューは私の肩を抱いたまま、うん、うん、と嬉しそうにうなずいた。
「見様見真似です。母は体が弱い分、私が代って作る方が多かったので、自然と覚えてしまったということもあるんでしょうけどね」
私はありのままを話しただけだったが、みんなの顔に同情にも似た表情が浮かんだ。
「それじゃあお母様は今、カナがいなくてお一人で大変ね」
「その分きっと父が助けてくれている、そう信じるしかないですね」
私はこたえて明るく笑った。それでも依然として漂う沈んだ空気。
「あ、母さん。そう言えばカナに写真を見せるって言っていたよね?」
益々重くなった空気をアンドリューが押し流してくれた。
「そうそう。ちょっと待っていてね」
お母さんは言って奥の部屋へと消えた。すると、これをカナに見せたかったの、と、大きな箱を両手で抱えて戻ってきた。
「アンドリューの小さいときの写真なのよ」
蓋を開けて懐かしそうにお母さんは言い、私の前に置いた。どの写真を見てもアンドリューは柔らかい、暖かみのある笑顔を振りまいていた。子供なのに落ち着いていて、品格さえ感じる写真の中のアンドリュー。愛情をたっぷりと受けて育ったことがひしひしと感じられた。箱の中にはブルースの小さいころの写真もたくさんあり、兄弟仲良く写っている姿にほのぼのとした気持ちになった。
「どれでも好きなものを持っていってね」
お母さんはおもむろにそう言うと、
「あなたにこの子の写真を持っていてもらいたいの」
と、アンドリューと同じ柔らかい微笑みを顔中いっぱいに浮かべて私を見つめた。
私は彼女の優しい言葉に胸が痛くなるほど感激した。私はアンドリューを見つめ、二人で微笑み合った。愛する人の親から好かれることの喜びを私は深く噛み締めていた。
翌朝、私たちは目が覚めてもしばらく抱き合ったまま、なかなか起きられなかった。やっと起きたときは十時近かった。窓を開けると爽やかな軽い風が雪山の香りと一緒に部屋の中に入ってくる。私は思い切り背伸びをしてベッドを整えた。
「昨日は飲み過ぎちゃったわね」
洗って乾かしておいたカップをテーブルに置いて私が言うと、アンドリューはあくびをしながら、そうだね、と相づちをうち、
「でも、楽しかったよ」
と、弾むような声でモーニングコーヒーを注いだ。それから私たちは夕べお母さんが帰り際に持たせてくれたサラダ――生ハムとチーズを添えた――とパンで遅めの朝食をとった。
「今夜からスーザンのところで寝ることになるのね」
食事が終わり、リビングのソファーに腰を下ろすと、私はため息まじりで言った。
スイスでの滞在も残り二日というのに、その最後の時間を私はスーザンの家で過ごすことになっていた。アンドリューの兵役訓練初日が私のスイスを発つ当日と重なっていたし、自分の家に是非泊ってほしいと言ってくれたスーザンの誘いを断ってまで彼と一緒に過ごす事は、自分の我を押し通すようでそんな我儘な事は出来ないと、彼女の誘いを快く受けたのは私なのだから、今さら臍を噛んでも仕方のないことだった。
「でも、夕方まで一緒にいられるよ」
それでもやっぱり寂しさは募る。私はもう一度ため息をついた。
「そうだ、カナ。日本のお母さんに電話をかけてみないかい?」
思い立ったようにアンドリューは言った。
「でも、国際電話は高いし……」
不意をつかれた私は言葉を濁した。
「僕と一緒にいる事がお母さんに分かってしまうとまずいの?」
アンドリューの顔に一瞬悲しげな表情が走る。
「そんなことあるわけないでしょ。それに、あなたのところでお世話になる事は、母には知らせてあるもの」
私はできるだけ明るい口調で言い返した。
「それじゃあ、かけよう」
にっこり笑うとアンドリューは受話器を持ち、私が番号を言うのを待っていた。
「0081‐45‐59……」
私の言った番号を復唱しながらアンドリューはボタンを押す。そして、受話器を耳にあてて私を見つめた。受話器から微かにもれる呼び出し音。
「ハロー、カナのお母さんですか?」
アンドリューは簡単な単語を並べてゆっくりと言った。すると、笑っていたアンドリューの顔から少しずつ笑顔が消えていく。
「いいえ、違います。僕はアンドリューです」
アンドリューは言って、私に受話器を渡した。
「もしもし、お母さん? カナよ」
アンドリューは失望したような表情で私を見ていた。私は一体何があったのか不安になった。
「カナ、元気なの? 今のはルイでしょ? あなたフランスにも行ったのね」
電話の向こうでアンドリューをルイと勘違いして喜んでいる母がいた。
「違うよ、お母さん。今のはルイじゃなくてアンドリューだよ。私フランスには行ってないし、行かないもん。ここはスイスだよ」
私は「ルイ」、「アンドリュー」、「フランス」、「スイス」という箇所を意図的にゆっくりと強調して言った。たとえ日本語で話していても、それならアンドリューにも聞き取れるはずだ。
「あらそうだったの。ルイの声だと思ったわ。アンドリューにもよろしく言ってね」
母はあっけらかんと言って笑った。
「母があなたによろしくって」
私の言葉にアンドリューは薄笑いを浮かべて受話器に顔を近づけると、ドウイタシマシテ、と、片言の日本語で母にこたえた。私は手短にスイスでの生活を母に話して電話を切り、アンドリューの方に顔を向けた。数秒間、じっと私を見ていたアンドリューはフッと鼻で笑うと、がっかりした口調で訊いた。
「なぜカナのお母さんは外人の声を聞いて真っ先にルイの名前を呼んだんだい?」
それから急に怖い顔つきになると、
「カナ、ルイとは一体どうなっているんだ?」
と荒々しい口調でなじるように言った。
「ルイとはただの友だちよ」
そうこたえてもアンドリューは口を閉じたまま、ただじっと私を見ているだけだった。それだけのこたえでは明らかに不十分だった。
「私が日本にいたとき、ルイが何度か電話をくれて、その一本を母が受けたの。でも、母は英語が全く分からないでしょ。だから次に彼が電話をくれたとき、私が二人のために通訳をしてあげたの。それだけのことよ」
私はありのままを正直に淡々と話した。
「ただの友だちが何でそんなに何度もカナに電話をかけてくると思うんだい?」
「どういう意味?」
「君に気があるからに決まっているだろ」
私は一瞬、自分の耳を疑った。アンドリューには包み隠さず何でも話していたのに、ルイとの友情関係を頭から否定されたような冷たい彼の言葉。ちゃんと説明すれば寛大な心でいつも理解を示してくれるアンドリューが、なぜそこまで怒るのかが私には分からなかった。
「何を言っているの? ルイには一緒に住んでいる恋人だっているのよ」
アンドリューは苛立った表情で私を見続けていた。彼の苛立ちに私の心も乱れた。
「もしも私とルイの間に何かあるのなら、私は今、スイスではなくフランスにいるわ」
それでもアンドリューの苦々しい表情は変わらなかった。
「私を信じてくれないの?」
私の心は救いようのない悲しみに襲われた。
「そんなことじゃない。僕の言いたいことはそんなことじゃないんだ!」
アンドリューは突然吐き捨てるように言うと、首を横に振り、頭を抱えて下を向いた。それからほんの少し間をおくと、大きく息をついて静かに口を開いた。
「カナはお母さんにルイの事は話せても、僕たちの事はまだ話していなかった。カナが本気で僕を愛してくれているのなら、真っ先に話すべきことじゃなかったのかい?」
アンドリューは膝に肘をつき、下を向いたまま私を見ようとしない。
「僕か親かと聞かれたら、君は迷わずに僕を選ぶと言ったよね?」
そう。私は本気でそう思っていた。何もかも捨てる覚悟は出来ていた。
「でも、親に話せていないという事は本気ではないということなんだよ。カナはお母さんを悲しませたくないからだと言ったけど、カナはもうその時点で僕ではなく、お母さんを選んでいるんだよ」
アンドリューはゆっくり頭をもたげると私を見つめた。彼の悲痛に満ちた表情に私は何も言えずにいた。ただアンドリューの悲しみを私の溢れ出した涙が受け止めているだけだった。
「そうじゃないとは言ってくれないんだね」
ぞっとするほど寂しい響きでアンドリューは言った。
「もう一度母に電話をさせて。今きちんと母に話すから。あなたを本気で愛していることを、あなたと将来をここで一緒に、このスイスで一緒に暮らしていくことを母にきちんと伝えるから」
涙を拭って言うと、私は受話器をとった。
今、それをしなければ私はアンドリューを失ってしまう。私をたくさんの愛で包んでくれたアンドリューを完全に失ってしまう。私の愛を彼に伝えるにはこの方法しかない。
でも、アンドリューは私から受話器を取り上げると、
「それはダメだ」
ときっぱりと言った。
「なぜ?」
「なぜだって? カナのお母さんは心臓が悪いんだよ。そんな状態で話せるわけはないだろ。もっと冷静になってくれないか」
アンドリューは呆れ返ったような表情で受話器を置いた。そして、
「僕たちは少し焦りすぎたんだ。もう少し時間をかけてお互いを見据えないといけなかったんだよ」
と言い、深く息をつくと椅子にもたれた。二人の間にしばらく重い沈黙が続いた。
「それはどういうことなの?」
私は怯えながら口を開いた。そして、すがるようにアンドリューを見つめた。
「カナも僕も今するべき事をしなくてはいけないってことだよ」
するべき事? アンドリューを愛する以外、何をすればいいというの?
私はソファーに膝を立てると顔を埋めた。
「僕には仕事がある。そして、カナにもやるべき事があるはずだよ。それをまず大切にしよう。それから僕たちの事を考えていけばいいことなんだ」
アンドリューの声は完全に落ち着きを取り戻していた。でも、私の心は不安と恐れで押しつぶされそうだった。息をするのもやっとだった。
あのときの私はアンドリューの奥深い言葉の意味をきちんと理解出来るほど大人ではなかった。彼の思いがけない言葉に動揺し、その場の状況だけしか見えていなかった。二人の間に突然涌いて出た距離感に私はただ、電話をかける前までの幸せに満ち足りた私たちに戻りたいと、願うことで精いっぱいだった。
たった一本の電話が二人の間に果てしない溝を作り出してしまった。
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