スイス 八七年 冬

十月、大学からの帰り道、私は郵便局へ立ちよりアンドリューに小包を送った。

 もうすぐアンドリューの二十四回目の誕生日がやってくる。

 春に日本の大学を卒業した私は九月からグロスモント・カレッジへ通っていた。

 心理学に興味を持ち、最初に取った「スピーチ」のクラスでその初歩を学んだ私は、「スピーチ・コミュニケーション」を専攻すれば心理学が学べると、ただ単純に(調べもせずに)信じ、即座にそれを専攻科目にしてしまった。しかし、現実はそう甘くはなかった。実際に心理学を学んだのは最初の一クラスのみで、あとは議論、討論、パネル・ディスカッションなど、ネイティブでない私には地獄のように恐ろしく辛いクラスばかりだった。毎回授業についていくのがやっとで、アンドリューはよく時間を作って私と会ってくれていたなあと、度々彼の凄さを思い知らされた。そんなとんでもなく難しい科目を専攻してしまった事を除いては、私のアメリカ生活はとても刺激的で快適だった。

 家で課題のレポートを仕上げていると、智也から久しぶりに電話があった。昨年の九月からシティカレッジへ通っている智也からは、毎回忘れたころに電話がかかってきた。

「よお、カナ。元気か? 大学はどうだ?」

 相変わらず弾むように元気な声。唯一日本人の男性として頼りになる、兄貴のような智也。

「ホント、いっつも忘れたころに電話がくるよね」

「っていうか、お前だって電話くれないじゃないか」

「あっ、そうか」

 二人でけらけらと笑い出した。

「どうだ、たまには食事でもするか?」

 本当に兄貴のような口ぶり。

うん、いいよ、とこたえた翌日、私たちは一年半ぶりに「T.G.I.Friday‘s」で会うことになった。レストランの駐車場に入ったとき、既に智也が窓際の席に座っているのが見えた。

「ごめんね、待った?」

 先に席について美味しそうにタバコを燻らせている智也の顔は、以前にも増して黒々と日焼けをしていた。

「智也、随分色、黒くなったね」

「お前も元気そうじゃん」

 気のおけない友人との久しぶりの再会。日焼けした表情の下に見える二年前よりも大人びた顔立ち。いい男になったな。席に着きながらふと、そう思った。

「最後に会ってからもう一年以上も経っているなんて信じられないね」

「この前会ったのは日本だったもんな」

 それが今、こうしてまた顔を向き合わせている。それもサン・ディエゴで。アンドリューもルイもスーザンも知美も、もう誰一人いなくなったサン・ディエゴの空の下で。

 確実に時は流れている。私はしみじみと感じた。

「まだみんなとは連絡とっているのか?」

 智也も同じように時の流れを感じているのだろうか。

「アンドリューとはどうなんだ?」

アンドリューのいなくなったサン・ディエゴに彼を知っている人がまだいる。私にとっては大きな慰めだった。

「遠距離恋愛、なんとか続いているよ」

 私はこたえて微笑んだ。

「そうか。頑張っているんだ。お前らホント、すごいよ」

 本当に褒めてくれていると分かる響きで智也は言う。私は、ありがとう、と言って目を細めた。

「ルイからは手紙やたまに電話もかかってくるわ。最近はもっぱらルイの新しい彼女の話題で持ち切りだけどね」

グラタン皿に盛り付けられた熱々のアップルパイをフォークで切り分け、その上にクリームをたっぷりのせると、私は口に運んだ。

「へえ。じゃあカナからは卒業できたんだ」

 智也は言って笑い、運ばれてきたコーヒーをひと口飲む。

「そうよね。そんな事もあったわね」

智也の言葉に私はあの夜――ルイから激しくキスをされた夜――を思い出した。それも今となっては昔の記憶。私たちはあれ以来、本当によき友人になれた。

「あとスーザンとも手紙のやり取りをしているし、ロベルトからもたまに手紙が届くのよ」

 思えば日本の友人たちよりも連絡を取る回数が多い異国の友人たち。

「そういえば、お前のルームメイトだった知美は? 彼女は元気か?」

 突然、智也が言った。智也の口から知美の名が出るとは以外だった。

「随分前に一度だけホルトン・プラザに連れて行ってもらったときに会っただけなのに、よく知美のこと覚えていたね。なんかちょっとびっくり」

「いや、俺も忘れてたんだよ実は。それがさ、去年の夏ごろだったかな? 偶然彼女とホルトン・プラザでばったり出くわしたんだよ」

 知美がここに? 私は驚いて智也をまじまじと見た。

「それで?」

「それで、確か君はカナとルームメイトだった子だよねって挨拶してさ」

「彼女は一人でいたの?」

「いや、栗毛の外人男と一緒だった。楽しそうに肩組んでいたよ」

 マークだ。マークに会いに行ったんだ。知美の幸せそうな顔が目に浮かんだ。

「なんだ。連絡取ってないのか?」

 呆れたように智也は言った。

「日本に戻ってから何回か会ったけど、そのあとはバタバタしちゃって。だからここへ来る前に連絡したのよ。でも、引っ越したみたいでつながらなかったの」

 知美は元気にしているのだろうか? 今、どこで何をしているのだろうか? 

無性に知美に会いたくなった。

「他には何か言ってた?」

「俺も詳しくは聞かなかったけど、彼女、国際線のスチュワーデスを目指しているんだって言ってたよ」

 線の細い綺麗な知美にはぴったりの職だ。

「へえ、そうなんだ。みんなそれぞれに道をみつけ始めているんだね」

 私は言って、知美とマークが今もどこかで幸せにいてくれることを願った。


 秋の感謝祭が終わると同時に町も店も見渡す限り、どこもかしこもクリスマス一色と化す十二月。今年も大きくどっしりとしたもみの木を家族総出で買いに出かけた。

家に戻ると、ハビエルは暖炉に火をともし、イザベルはクリスマスミュージックをかけ、私たちはポップコーンを糸に通し、ツリーの周りに巻いた。去年と同じ家族行事。でも、去年一緒にクリスマスツリーを飾ったアンドリューはどこにもいない。それでも、私の心は晴れやかだった。

「カナ、なんだかとっても浮かれた感じね。またスイスに行くことでも考えているんでしょう?」

 喜怒哀楽の激しい私には隠し事が出来ない。

「だって一年ぶりの再会ですよ。それも憧れのスイスで」

 なんの根拠もなく私は両親に、英語漬けになりたいから一年半は日本へ戻らない、と啖呵を切り、サン・ディエゴへ戻って来た。それを言い訳に私はこの冬スイスへ行くことを決めた。

小さいころからの憧れの国、スイス。

素晴らしい山景。美味しいチーズに美味しいミルク。アルプスの少女ハイジ。

 どんなに御託を並べても、本当のところこたえは一つだった。

 アンドリューに会いたい。ただそれだけだった。

 アンドリューにスイス行きを告げた十一月、受話器の向こう側で私以上に歓喜し、私以上に狂喜してくれた。

「本当に来てくれるんだね! 本当なんだね!」

 いつもの冷静さを完全に失っているアンドリューの声。

「カナ、君は最高だよ!」

 アンドリューの声に私と同じ深さの愛を感じた。心で感じあえる私たちの愛。離れていても幸せと感じられる瞬間だった。


 十二月三十日、午前九時半。私はチューリッヒ国際空港へ降り立った。

 ゲートへと続く長い廊下を歩いていると、その先に一年ぶりに会うアンドリューが満面の笑みを浮かべて立っていた。彼の横には手を振って笑顔をふりまくスーザンとジュリアの姿も見えた。

「カナ、会いたかったよ!」

 ゲートを出た瞬間、アンドリューは熱く激しく私を抱きしめた。

「アンドリュー!」

 こみ上がる感情の先にこぼれ落ちる彼の名前。その一言に全ての思いがこめられていた。その一言で十分だった。私は目を閉じてアンドリューの背中に腕をまわした。

「カナ、私たちも忘れないでよ」

 二人の絡み合った抱擁を解くようにスーザンは言った。

「スーザン! ジュリア!」

 私たちは力いっぱい抱きしめ合った。

 サン・ディエゴにいたころと比べると、みんなの風姿も風格もずっと凛として大人びて見えた。変わらずにあるのは輝きに満ちたみんなの明るい笑顔。

「みんなステキになったね」

 私は体を離すとみんなの顔をかわるがわるに見て言った。

「カナだって」

 スーザンが言うと、私たち四人はまるでしめしを合わせたように、グループ・ハグだ、と一斉に言い、輪を作るように抱き合うと、声を出して笑った。

「スイスへようこそ、カナ!」

「ありがとう、みんな!」

 空港の外へ出ると欧州中部の気候らしく、透明感を感じさせる爽やかな軽い空気が頬を滑る。空の色は日本ともサン・ディエゴとも違う、まさにスカイブルー。雲は頭上にはなく、遠くの空に帯をなすようにかかっていた。

「これがスイスなのね」

 体いっぱいに深呼吸をして、私は味わうように言った。

「そう。僕の育ったところだよ」

「私たちの、でしょ」

 アンドリューの言葉にジュリアはすかさず言い返すと、アンドリューの肩を軽く叩いて、まったく、と、呆れたように笑った。

アンドリューの――新しく購入した――真っ赤なBMWに乗り込むと、私たちは近くのカフェへ向かった。車窓に映る美しい風景に目を留めるのを忘れてしまうほど、私たちは思い出話に盛り上がった。会話の途中、アンドリューと私は何度も見つめ合い、その度ごとに柔らかい微笑みを交わし合った。

「カナ、ここにいる間、本当はずっとアンドリューといたいでしょうけど、せっかくスイスに来たんだから、私のところにも泊まってほしいのよ」

 スーザンの誘いにアンドリューは私を見つめると無言のまま、そうしていいよ、とにこやかに相づちをうつ。私も微笑んで小さくうなずいた。

「スーザン、ありがとう。じゃあ是非そうさせてもらうわ」

「よかった。嬉しいわ」

 それじゃあ、と言ってスーザンは後部座席から身を乗り出し、アンドリューの肩に手をおくと、

「いつならあなたのカナをお借りしてもよろしいのかしら?」

 といたずらっぽく笑って訊いた。

「そうだな、明日から四泊五日で山の方へ旅行に行く予定を立てているんだ」

 アンドリューは私を見つめて弾むような声で言った。

――カナがスイスにいる間は仕事を休んでずっと一緒にいるよ。

 スイス行きを告げたとき、アンドリューはそう言っていた。

 そんな計画を立ててくれていたんだ。明日からの旅行を思い、胸がわくわく躍った。

「そのあとは僕の……」

「ちょっと、それじゃあ何日もないじゃない」

 スーザンが口を割った。

「ごめん、ごめん。それじゃあ今日と、カナが帰る前の二日間ではどう?」

「たったの三日間だけ?」

 二人の会話をジュリアと私は笑いながら聞いていた。

「Take it or leave it, Baby : のるかそるかだぜ、ベイビー」

 歌うようにアンドリューは言うと、私にウインクをなげた。屋根の先がツンととんがった小さな教会が私たちの横を通り過ぎる。

「仕方ないわね、まったく」

 呆れ顔でスーザンはこたえてシートにもたれた。

「僕の勝ちだね」

 アンドリューは親指を立てて、バックミラー越しにスーザンに笑って言った。

「愛する二人の間には入れないってことね」

 そういうことさ、と言ってアンドリューは私の手を握ると優しく微笑んだ。私は肩をすくめて笑い返した。


 翌日、アンドリューと私は四泊五日の小旅行へと出かけた。

 十二月を締めくくる最後の日にふさわしく晴れ渡る青い空。アンドリューの車に揺られながら私は自分の幸せな現状にとことん酔いしれていた。

「どこへ向かっているの?」

 まるで物語の中にでも入りこんだような、可愛らしい家々がどこまでも立ち並ぶ。のんびりと日向ぼっこをしている牛たちが時々姿を現す。スイスにいることを――アンドリューやスーザンたちに会ったときよりも――妙に実感させられる風景がどこまでも続く。

「兄が働いている山へ向かっているんだ」

 アンドリューはにこやかにこたえた。

「山で働いているの?」

 私の記憶の引き出しには山での仕事といえば「山小屋」という言葉しか入っていない。

「雪山で遭難したり、怪我で動けなくなったりした人たちを助けるレスキュー隊で働いているんだ」

首をかしげた私にアンドリューは言い、

「季節限定の仕事だけど、雪山でレスキューをするっていう事はかなりのスキーの技術がなければなれない、誇りある仕事なんだよ」

と続け、アクセルを踏み込んだ。道路は徐々に勾配を増している。

「だから、僕は兄を尊敬しているんだ」

 私を見つめると誇らしげにアンドリューはつけたし、穏やかに微笑んだ。

 サン・ディエゴでは見たことのない――兄弟愛を大切にしている――アンドリューの表情。新しい彼の一面を知った私はなお一層、アンドリューを愛おしく思った。

「その兄にカナを紹介したいんだ」

 車はきついカーブに差しかかった。アンドリューはギアをローに入れてゆっくりと曲がった。そして、照れ笑いをすると、

「山男だからちょっと変わっているけどね」

 と言い添えてラジオをつけた。

Unchain my heart. Baby let me go. Unchain my heart. Cause you don’t love me no more

スピーカーからジョー・コッカーの痺れるようなハスキーな歌声が流れてきた。車窓には寒々とした山々と絶え間なく続く緑の大地が映っていた。

「会うのが楽しみ」

リズムに合わせて私はこたえた。


 車はひたすら山道を走りぬけていた。車窓に映る山々も、薄っすら雪化粧をした景色へと移っていた。出発してから一時間半ほど南へ走るとようやく小さな町が姿を現した。そこは「ヴァルベラ」というひっそりとした静かな町だった。

「カナ、着いたよ。あそこの建物の二階に僕の部屋があるんだ」

 スイスの家らしく三角屋根が可愛らしい白い――少し大きめの一軒家にも見える――共同住宅の二階がアンドリューの持ち家だった。階段を上り、玄関を入ると木材の良い香りが部屋中に漂っていた。天井や壁、家具も全て同一のオーク材が使用されていて、表面に浮き出た節目や規則正しく流れる板目は、まるでステンシルで描かれたような綺麗な模様を描いていた。

「わあ、ステキ。それに木のいい香り」

 窓ぎわに立つと私は深く息を吸いこんだ。目の前にはどこまでも続く真っ白な山々とスカイブルー色の空。「スイス」といったら誰もが真っ先に想い描くような、見れば誰もが「あ、スイスでしょ」と分かるような壮大な景色。

「ねえ、アンドリュー。あの山はなんていう山なの?」

 私は言って振り向くと、アンドリューはすぐ後ろに立っていた。そして、私をすくうように抱きしめると、体をぴったりと重ね合わせ、レンツェルハイデの山だよ、と優しく耳元でささやいた。

 背中に感じるアンドリューの広い胸。アンドリューの元へ戻ってきた。いつも優しく常に冷静で思慮深いアンドリューの腕の中に。

「会いたかった……」

私はアンドリューの腕にしがみつき、彼を見上げてつぶやいた。アンドリューの息が首筋に吸いつくようにかかり、一年前のあの熱い愛欲が呼び起こされる。私はアンドリューの両腕にもう一度しっかりとしがみついた。

「カナ……。一年は長かったよ」

「ただいま、アンドリュー」

 一年ぶりのアンドリューの熱い吐息、愛のこもった口づけ、優しい愛撫。アンドリューは私を抱き上げるとそのまま寝室へ入り、それから私たちは一年前に果たせなかった互いの全てを知り尽くした。ときに激しく、ときに甘く、絡み合っては息をつき、もつれ合ってはあえぎ、愛しあえることの喜びを全身で感じていた。そして、止まることを忘れたメリーゴーランドのように、私たちは何度も何度も愛しあった。


 その日の夜、アンドリューのお兄さんに会うために――疲れきった体に鞭をうち――私たちは町の中にある一軒の小さなパブへ向かった。店内は新年を祝うためのきらびやかな飾りつけが、壁や天井などそこら中に吊るされていた。

「まだ兄は来ていないから先に何かを飲んでいよう」

 アンドリューは言って、キルシュを注文した。

これなら甘いからカナでも飲めると思うよ、と、渡されたキルシュ――サクランボから出来ている――は、アルコール度数は高いが口当たりがよくてとても美味しかった。

 小さな細目のグラスに注がれた二杯目のキルシュを飲んでいると、日に焼けた三人組みの男性が楽しそうに店内に入って来るのが見えた。

「ヘイ、アンドリュー!」

 その中の一人が手を挙げてアンドリューに近づくと、がっしりと抱きついた。

「兄さん。彼女が恋人のカナだよ」

 しっかりと数秒間抱き合ったあと、アンドリューは私の肩に腕を回して言い、そして、

「カナ、彼が兄のブルース、自慢の兄だよ」

と、「自慢」という言葉に力を込めてお兄さんを紹介してくれた。

線はアンドリューよりも少し細く、身長はアンドリューよりも少し高めのブルースは(アンドリューとは対照的に)見るからにワイルドな雰囲気を持っていた。シティボーイというよりは、飾り気の一切ない――アンドリューが言っていた通りの――山男といった感じだ。でも、アンドリューを見つめるブルースの瞳には、弟に対する愛情の色がしっかりと現れていた。

「やあ、カナ。今日は君に会えるのを楽しみにしていたよ」

「私もです」

 レスキュー隊という職業のせいか、握り締められたブルースの手からはがっしりとした筋肉と少し乾いた皮膚の感触が伝わった。さっぱりとした性格のブルースは私に気さくに話しかけ、私たちはすぐに打ち解けた。連れの二人もアンドリューを良く知る友人たちで、いつの間にか私は彼ら――あまり英語が話せない――とも(お酒の力も手伝って)意気投合して大いに盛り上がった。

 時刻は十一時五十九分になった。

「スリー、ツー、ワン、ハッピーニューイヤー!」

 一九八八年一月一日。 新しい年の幕開け。

「カナ、新年おめでとう!」

「新年おめでとう、アンドリュー」

 私たちはひとしきり見つめ合うと新年の口づけを交わした。


 アンドリューの腕の中で目覚めた翌日、近くのレストランへブランチを食べに出掛けた。

はち切れんばかりに張り詰めた大きなソーセージとパンケーキのように分厚いハッシュドポテト、ザワークラウトと焼きたてのパン。バターはもちろん新鮮なミルクから作られた無塩バター(その味はバターとは思えないほどさっぱりしていて、気をつけないと食べ過ぎてしまうほど美味しかった)。時間をかけてゆっくりと食したあとは、コーヒーにスイスチョコレート。申し分のない贅沢なブランチだった。

 夜は新年を迎えたパブでブルースたちと再び会い、冬の定番の飲み物だよ、と、みんなから勧められ、私は初めてアイリッシュコーヒーを飲んだ。たっぷりと浮かんだホイップクリームの下に、アイリッシュウイスキーの混ざった熱々のコーヒーが入っていて、ほろ苦いコーヒーと甘いクリームが口の中で混ざり合い、何とも言えない絶妙な美味しさだった。

 酒に酔い、激しい愛に酔った次の日、アンドリューは朝のコーヒーを入れながら、

「今日はショッピングデーにしよう!」

と浮かれた声で言い、

「それで食料を調達してカナに美味しいものでも作ってもらえると嬉しいんだけどなあ」

 と、今度は甘えるような目つきで私の横に座った。

「アンドリューは何が食べたいのかな?」

 私は甘えてくるアンドリューの頭を撫でてふざけて言った。アンドリューはそのまま顔を私の胸の中に埋めると、うーん、まずはカナかな、と言って私を見上げ、ゆっくりと唇をふさいだ。柔らかいアンドリューの唇。絡める舌に微かに残るコーヒーの苦味。私たちはそのまま朝日の降り注ぐ窓辺のソファーでたくさん愛しあった。

 

ダシもみりんもない、醤油と砂糖と白ワインだけで作った日本食もどきの食事を、それでもアンドリューは美味しいと言って食べてくれた翌日、二人で朝食の支度をしていると、アンドリューのお母さんから電話がかかってきた。ドイツ語で話しているので内容は皆目見当もつかなかったが、アンドリューは時々私の方を見ては微笑み、受話器の向こうのお母さんにうなずいて相づちをうっていた。

「母がカナによろしくって。今度の水曜日に会えるのを楽しみにしているってさ」

 電話を切るとアンドリューは笑って言った。

 水曜日? 私は何を言っているのか分からなかった。

「ああ、まだ言ってなかったね。水曜日、母に会ってもらいたいんだ」

「お母さんに?」

 コーヒーを注いでいた手が止まる。

「そうだよ」

 にっこり微笑んでアンドリューはうなずいた。

「母がカナに是非会いたいって言っているんだ」

 私も微笑んでみたが、嬉しさと同時に不安が脳裏をかすめ、中途半端な笑顔になった。

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。僕たちのことを喜んでくれているんだから」

「ほんと?」

「本当さ。でなきゃわざわざこんな所まで連絡なんてしてこないさ」

 アンドリューはこたえて、手際よくテーブルをセッティングすると、

「それに、僕がどれだけカナを本気で愛しているか、母には伝えてあるしね」

 と耳元でささやき、キッチンに姿を消した。

本気。その言葉が胸を打つほど嬉しかった。でもそのとき、私は母にアンドリューの存在をまだ「大切な友人」としてしか話していなかった。親元を離れて外国で暮らしていること自体、心配の種なのに、その上、愛している人が日本人でないと知ったら……。ここ数年で体調が悪化していた母に、それ以上の心配をかけさせたくなかった。それでも、母かアンドリューかと言われたら、私は迷うことなくアンドリューを選ぶと分かっていた。ダニーの家でドアの前を横切っていくアンドリューを見たあの瞬間から、私は彼に運命を感じていた。あの瞬間から、私は疑う余地なくアンドリューを愛していた。アンドリューは私の全てだった。私の命だった。どのみち子供は親から巣立つものだ。私には――たとえ親を捨ててでも――アンドリューを選ぶ覚悟は出来ていた。

「カナだって僕たちのことはもうお母さんに話しているんだろ?」

 アンドリューに嘘はつきたくなかった。愛する事は信頼することだと教えてくれたアンドリューには。私は首を横に振った。

「ごめんなさい。まだ大切な友人としてしか話していないの」

 アンドリューは平静を装っていたが、私の言葉に傷ついたことは明らかだった。眉間が微かに動いたのを私は見逃さなかった。

「誤解しないでね。母、このところ体調がよくないの。だから手の届かないところにいる娘のことで心配させたくなかったから、まだちゃんとは言っていないだけよ」

「お母さんの具合、そんなに悪いのかい?」

 傷ついた気持ちをよそに心配な表情を浮かべるアンドリュー。

「お医者様の話だと、心臓と腎臓が悪いんですって」

「そうなのか」

 アンドリューはそう言うと、早くよくなるといいね、と言い、

「この話はまた今度話そう、いいね?」

 と、穏やかな笑顔を見せた。でも、その笑顔の裏には紛れもなく落胆の色も見えていた。

 青く晴れ渡ったその日の午後、何事もなかったかのように、私たちはレンツェルハイデのロートホルン山へケーブルカーで登った。そこで働いているブルースたちに再会して、雪山を背にみんなで記念写真を撮った。どこまでも広がる雪山のあるてっぺんに、木でできた十字架がぽつんと寂しく立っているのが見えた。

私はその十字架を見つめながら祈った。この幸せがいつまでも続きますようにと。


 ヴァルベラ滞在最後の日、雪がちらつく中、私たちは家から十分ほど歩いたところにある小さなカフェに立ち寄り、冷え切った体をアイリッシュコーヒーで温めた。

「時の経つのって本当に早いのね」

「カナを待っていた一年は長かったけど、カナがここへ来てもう六日も経つんだね」

 あと四日で私はサン・ディエゴへ戻る。

「十日間の旅行なんて本当にあっという間」

 楽しいときほど時間の流れが速いというのは本当だと思った。

「せめてカナを見送れたら良かったのにな」

 私がスイスを発つ当日、アンドリューは三週間の兵役訓練を受けるために家を留守にすることになっていた。だから最後の二日間をスーザンのところで過ごすと決めたことは最良の決断だった。訓練や仕事で忙しい彼にこれ以上の負担はかけさせたくなかった。

「仕方ないじゃない。訓練は義務なんだもの」

 コーヒーを二つ置いたらそれだけでいっぱいになってしまう程小さなテーブルを挟んで座っているアンドリューと私。あまりに小さなテーブルに、肉質のよいがっしりとしたアンドリューの太股は納まりきらず、私の両足は彼の太股の間にすっぽりとはまってしまっていた。

「でも、今年の夏休みにはまたここへ来られるようにするわ」

 私は言ってコーヒーをひと口喉の奥に流しいれた。

「それに、アンドリューは社会人で私は学生。時間の取れる方が都合をつければいい事だもの」

「でも、カナのお母さんは? 具合が悪いのに戻らないで大丈夫なのかい?」

「そうね……」

私は道路に薄っすらと積もり始めた雪を見ながら母を思い出していた。


 夜は近くのレストランで本場のフォンデュを食べた。すっかり雪で覆われた町が見渡せる窓際の席で、サラダとしっかりとした赤ワインも頼んだ。

「サン・ディエゴで食べたのも美味しかったけど、やっぱり本場の方が断然美味しいわ」

濃厚なチーズに負けないフルボディのメルローを口にふくむと私は言った。

「うん。本当だ」

 たっぷりチーズを絡めたパンを頬張りながら、アンドリューはうなずいた。

 それから私たちは色々な話をした。

 アンドリューの仕事の話。私の大学での話。兵役の話。イザベルたちの話。休みの日は何時に起きて、何をするか。それから家族の話。

 私はこのとき初めてアンドリューの両親が離婚していることを聞かされた。両親は別々の会社を経営していて、アンドリューは考えぬいた末にお母さんの会社を引き継ぐ決心をしたと話してくれた。

「母親っていうのは自分の子供たちの前でどんなに強がってみせても、やっぱり女性なんだよ。誰かに頼りたいって思うものなんだろうな。夫婦仲が悪ければ、子供に頼りたくなるのは当然のことだけどね」 

 思慮深く洞察力に富んだアンドリューらしい台詞。

「カナの両親の仲はどうなんだい?」

 グラスに残る最後のワインを喉に流しこむとアンドリューは言った。

「ごくごく普通じゃないかしら」

 私は言い、

「でも、アンドリューが言うように、私の母もとても甘えたがるところがあって、父よりも私を頼りにするのよね」

 と続けて苦笑した。

「それじゃあカナはグロスモントを卒業したら、やっぱり日本へ戻るんだね」

 問いかけというよりは自分を納得させているような口調でアンドリューは寂しそうに言った。

「アンドリュー、あなたが私の事を本気でいてくれるように、私も本気であなたを愛しているのよ。あなたか親かと聞かれたら、私は迷わずにあなたを選ぶわ」

 私はまっすぐにアンドリューを見つめてきっぱりと言った。アンドリューの悲しげな表情がフッと和らぐ。

「それを聞けて嬉しいよ。でも、病気のお母さんを残して僕との人生を歩んでしまってもいいのかい?」

 テーブル越しにアンドリューは私の手を握り、プロポーズともとれる言葉を発した。私はアンドリューの手を握り返すと、大きくうなずいた。同時に母の笑顔が脳裏をかすめ、いくばくかのためらいも感じていた。


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