オーシャンサイド
週末、私たちはティファナからさらに百キロほど南に行ったところにあるエンセナーダへ一泊旅行に出かけた。
この旅行の計画が持ち上がったのは、アンドリューが遊びにやって来たクリスマスの夜だった。
夕食を軽く済ませたあと、みんなで暖炉の前に座ってエッグノッグを飲みながらくつろいでいると、話題はいつの間にかクリスマスからエンセナーダのブローホール(海の波力で自然に出来た穴に定期的に溜まった海水が、間欠泉のように噴き出す噴気孔)へと移り、ハビエルがその魅力――力強く噴き出す水しぶきは毎回その風光を変え、自然の織り成す美しさと驚異に、見る者の心を打つ壮観な場所――を語ってくれた。そのとき発したアンドリューの「そこへは行ったことがないから想像もできない」という言葉を耳にしたハビエルは目を丸くして驚き、あの素晴らしいブローホールを見ずにスイスへ帰国するなんてもったいない。絶対に見るべきだ、と切言し、急遽、「アンドリューとの思い出旅行」というかたちでエンセナーダ行きが決まったのだ。
天候にも恵まれ、ドライブは快適だった。
私は大好きなイザベルたちと一緒に旅行に行けることへの喜びはもちろんのこと、エンセナーダへの道程を、アンドリューと二人だけでドライブすることが出来ることに、この上ない幸せを感じていた。途中、ロブスターの食べ放題ができるレストランへ立ち寄り、私たちは――溶かしバターとライムをたっぷりつけながら――茹で上がったロブスターをこれでもかというほどたらふく食べた。
レストランを出て海沿いを三〇分ほど走ると、何台も車が停まっている――駐車場というにはあまりにも粗雑で管理すらされていないような――ただ広いだけの砂利が敷かれた敷地が現れた。
「さあ着いたよ。みんなここで降りて。あそこの岩場まで歩くんだ」
ハビエルの合図で私たちは車を停めた。敷地のすぐ横には土産物を売っている露店がずらりと並んでいる。そこを通り抜け、大勢の観光客が集まっている岩場まで歩いた。雲一つない青空と乾いた空気に漂う潮の香り。遠くにカモメが飛んでいた。
「カナ、もっと近づかないと良く見えないよ」
岩場からほどよい距離のところに立っていた私に、真面目な顔つきでハビエルが言うと、エスティも、そうだよ、そうだよ、と、うなずいた。
「本当? でも、危なくない?」
「全然平気だよ。さ、もっと近づいてごらん」
ハビエルに促され、アンドリューと私は崖の縁ギリギリまで近寄った。行ったり来たりと水面が揺れているのが見える。何の変化もない。すると数分後、何の前触れもなく、いきなり爆発音のような騒音が耳をつき、同時に数十メートルの水しぶきが空をめがけて噴き出した。
「キャーッ!」
そのあまりの突然さと激しさに、私は悲鳴を上げてアンドリューに抱きついた。噴き上がった水しぶきは雨のように私たちの頭上へと降り注いだ。
「忘れがたい思い出ができたわね」
水しぶきがおさまったころ、イザベルが笑いながら私たちにタオルを差し出した。エスティは手を叩いて、引っかかった、引っかかった、と、はしゃぎながら私たちの周りを駆けまわり、ハビエルはラネーレと一緒にお腹をかかえて笑っていた。顔を拭うと私は悔しそうに苦笑した。でも、アンドリューは違った。ハビエルの思惑にまんまと乗せられ体中濡れてしまっていたのに、全く気にした様子もなく、最高の土産話ができましたよ、と言って嬉しそうに笑ったのだ。それから私の方を向くと、
「カナの悲鳴もしっかりとここに響いたしね」
と言い、指を耳に入れてわざと痛そうな表情をすると(本当に鼓膜が破れるほど痛かったのかもしれないが)、みんなの笑いを一層誘った。
私たちはまるで本当の家族のように打ち解け合い、つかの間のときを楽しんでいた。
一九八七年一月一日。新しい年の始まり。
アンドリューと出会ってもうすぐ一年になろうとしていた。
この日は朝から忙しかった。朝の冷たい空気を感じる暇もないぐらい、時間の流れが早かった。
「カナ、私は何を手伝えばいいかしら?」
海老の下ごしらえをしている私の横に来ると、イザベルは言った。
「それじゃあ、昨日買ってきた野菜を洗ってください」
「あ、それはテンプラの野菜のことね?」
まだちゃんとした日本食を食べた事がないイザベルたちと、日本食が大好きなアンドリューのために、私は日本食を作ることにした。内輪だけのディナーのはずが、どうせ作るならパーティにしましょうよ、というイザベルの一言で、日本食パーティを開くことになった。パーティにはアンドリューの他にケイト夫妻とハビエルの弟家族も来ることになり、大がかりなパーティになってしまった。元々、私の母が病弱ということもあり、母のために料理を作るのが好きだった私にしてみれば、今回のパーティで料理を作ること自体、何の不安もなかった。ただみんなが私の作る日本食を気に入ってくれるかが問題なのだ。そして、今日、その私の腕が大いに試される。それも愛するアンドリューが私の手料理を食べに来る。それだけで緊張は頂点に達していた。
「カナ、アンドリューから電話だよお。アンドリュー、アンドリュー」
はしゃぎ回りながらエスティは歌うように叫んだ。
「ハイ、アンドリュー。新年おめでとう!」
電話口でエスティの声を聞いたアンドリューは笑っていた。
「やあ、カナ。新年おめでとう! エスティは相変わらず元気だね」
穏やかなアンドリューの声に今すぐにでも抱きしめられたい衝動にかられた。
「準備の方はどうだい? 順調に進んでいるかい?」
キッチンへ目をやると、所構わず無雑作に置かれた食材の山。朝から準備をしているのに、進んでいるようにはちっとも見えない。
「うん。まあまあかな」
そう言って、心の中で苦笑いした。
「そうか。今夜がとても楽しみだよ。それじゃあ夕方にね。愛しているよ、カナ」
「私も愛しているわ」
私は言って受話器を置き、時計を見た。一時を過ぎている。
早くやらなくちゃ。
キッチンへ戻り、イザベルが洗ってくれた野菜を切り始めた。
パーティの開始時間より三十分以上も早くやって来たアンドリューは、カナの作る姿を見ていたくて、と言って、私の横で微笑みながら立っていた。
「お願いだから向こうへ行ってラネーレたちの相手になってあげてよ」
柔らかい微笑みでじっと見つめられると恥ずかしくて緊張してしまう。
「なぜ? 僕だってカナの作る姿を目に焼き付けておきたいよ」
アンドリューは腕を組み、カウンターにほんの少し腰掛けるようにもたれると言った。
「こんなに料理が上手だったなんて。僕の知らないもう一人のカナがここにいるみたいだ」
「あら、人は見掛けによらないのよ」
私は笑ってこたえた。それから、巻き簾を広げて海苔を置き、酢飯を敷き詰め、アボカド、カニかま、きゅうりの順に置いた。アンドリューの視線を体いっぱいに感じる。
「アンドリュー。そんなに見つめられると緊張しちゃうから向こうへ行って、ね、お願い」
ひたすら見つめるアンドリューにしびれを切らし、手を止めて言った。
「分かったよ。それじゃあカナに嫌われる前に向こうでテーブルのセッティングでも手伝ってくるとするかな」
アンドリューは両手を上げて言い、後ろから軽く私を抱きしめて頬にキスをすると、リビングへ退散した。
日本食パーティは大盛況だった。
天ぷらも、鶏の照り焼きも、餃子のスープも、手巻き寿司もどれも好評で、みんな残さず食べてくれた。
箸の使い方が分からなくて困らないようにフォークとナイフも用意してあったが、みんなは一度ぐらいはと言って――ピンセットを持つように――箸を持つと「挟む」というよりは「突き刺す」といった感じで食べていた。
食後はイザベルが用意してくれたメキシカンの甘いケーキとミントティが振舞われた。でも、ケーキを食べたのは子供たちだけで、大人たちは、食べ過ぎた、と、口直しにミントティだけを飲み、十時過ぎにパーティは惜しまれるようにして終わりを告げた。
「今日は本当にありがとう。とっても美味しかったわ、カナ」
ケイト夫妻は新年の祝福と感謝のハグをして家路へとついた。
「カナ、今夜はありがとう。とても楽しかったよ」
アンドリューは言って頬に口づけをすると、車へ乗り込んだ。そして、エンジンをかけて窓を開けると、
「今度は二人だけで過そう」
と言って窓越しから私の手を握った。
私の滞在はもう一週間をきっていた。
夜空には新年を祝うように美しく輝いた満天の星が躍っていた。
サン・ディエゴでの四週間の滞在も残すところあと四日となった。
以前の寮生活とは違い、イザベル家で生活をしていると、アンドリューとのやり取りにも多少の不自由さが生じた。イザベルたちは特別なことがない限り、夜の九時には自分たちの部屋へと引きあげる。もちろん、それに合わせて私も部屋へ戻らなければいけないという訳ではないが、それ以降の電話は控えるようにする。出かけるときはどこへ行き、何時に戻るかを告げ、必要であればアンドリューが挨拶をする。家族と共に暮らすのであれば当たり前のマナー。でもそのせいか、アンドリューと会っていても時間を気にしてどこかに歯止めがかかっていた。
「ずっと一緒にいたいのに前よりも一緒にいる時間が少ない気がしてなんかつまんない」
九ヶ月ぶりのアンドリューの家で簡単な昼食を作りながら、私はポツリと本音を吐いた。
「でも、いい家族じゃないか。カナの事を本当の娘のように心配してくれて」
「分かっているわ」
「それに、あの家族のところでカナが生活するなら僕も安心してスイスへ戻れるよ」
そう思わない? アンドリューは私に体をもたれて言った。
そんなことは分かっていたし、それに、自分がどれほど恵まれているかも分かっていた。ただ、前のように一緒にいられないもどかしさに私はいじけていた。
アンドリューがもう一度私に寄り掛ってきた。
「ほら、カナ。そんな顔しない。今はこうして一緒にいられるんだから、ね?」
無言のままもくもくと料理を作る私をのぞきこみ、アンドリューはおどけて見せた。
「カナ、笑って」
私は仕方なく薄笑いをしてアンドリューをチラッと見た。
「ほら、もっと笑って」
アンドリューは言って私のわき腹をくすぐりだす。私は体をひねって抵抗してみたが、ついに我慢ができなくなり、とうとう笑い出した。
「よし。いい子だ」
まるで子供扱いだ。
「それじゃあ、発表するとしようかな」
アンドリューはわざと咳払いをして言った。
「実は今日から三日間、ずっと一緒にいられるように、イザベルにはちゃんと許可をもらってあるんだよ」
「どういうこと?」
言っている意味が分からなかった。
「いいかい?」
アンドリューは言うと、
「今日から三日間、カナがここに泊まりたければ泊まってもいいし、夜は向こうへ帰ってもいい。イザベルは僕たちを信用するから好きなように決めなさいって言ってくれたんだよ」
と続けた。
泊まってもいい?
信じられなかった。
「ホント? ホントにいいって言ったの?」
アンドリューは私を抱きしめると、
「本当だよ。僕たちはそれだけ信用されているってことだよ」
と言って、頭のてっぺんにキスをした。
嬉しかった。
その信頼を裏切らないように三日間を過そう。
アンドリューの胸の中で私はそう心に誓った。
アンドリューと過した最後の三日間はまるで夢を見ていたかのように、気がついたら終わっていた。
イザベルの許可のもと、三日間とも私はアンドリューのところで過した。ルームメイトのゴードンがいたら泊まることを躊躇したかもしれない。でも、冬休みを利用して彼はサン・フランシスコへ帰省していたので私はアンドリューと過すことを決めた。
一日目は一旦イザベルのところへ荷物を取りに戻った。
「分別のある行動」を取るようにとイザベルから念を押され、アンドリューも私も、約束します、と、共に誓った。その足で私たちはドライブに出かけた。
「どこへ向かっているの?」
車はフリーウエイ五号線を北へ進んでいた。
「もうすぐしたら分かると思うよ」
いつも以上にアンドリューは優しい笑顔を見せる。私も同じだった。一緒にいられるだけで、ただそれだけで幸せだった。しばらく走っているとラホヤの文字が見えてきた。
「ラホヤに向かっているの?」
「いや、もう少し遠いよ」
朝から晴天に恵まれていた空の色も少しずつ赤みを帯びていた。ラホヤを過ぎデルマーまで来ると、左の方向に海が現れた。いつの間にか私たちはオーシャンサイドの海岸まで来ていた。車は更に海沿いを走り、パシフィック通りの住宅街を北へと進んだ。そして、数ブロックを通り越したある角まで来ると、アンドリューはゆっくりと車を停めた。
「着いたよ。ここがどこだか分かるかい?」
左にはどこまでも続く広い海。長く突き出た桟橋も見える。右には……。
見覚えのある家が建っていた。
ここって、ひょっとして? 私は目を丸くしてアンドリューを見つめた。
「分かった? カナがいつか来てみたいって言っていた、あの場所だよ」
そこは前にアンドリューが借りてきてイザベルの家でみんなで観た映画、トップガンに出てきた撮影場所の一つだった。
「夕暮れどきに来るのが一番綺麗だって聞いたから、今日のこの天気のいい日にカナを連れて来たかったんだ」
――景色がステキね。いつか行ってみたいな。
私が映画の合間に何の気なしに言った一言をアンドリューは覚えていた。そして、それを叶えてくれた。何でそんなにアンドリューはいつもいつも優しいの? アンドリューの愛に私の心は苦しくなった。目の前に広がるオーシャンサイドの海よりも広く深いアンドリューの愛情に、私は感極まって涙した。
「カナは本当に感動屋さんだね」
「だって、アンドリューの心が嬉しいんだもの」
「僕もカナが喜んでくれて嬉しいよ」
目に焼き付けておきたいその景色も涙で潤んでよく見えない。私は何度も涙を拭った。車から降りると私たちは肩を組んだままただじっと立ち、太陽が海の中に沈んでいく様を無言で見続けていた。
二日目、秋から通っているパイロット養成学校へアンドリューは連れて行ってくれた。イザベルの家からさほど遠くないその学校で、アンドリューがどんな風に何を勉強しているのか、色々と教えてくれた。緯度、経度、高度計、航空図面。私には難しすぎて何一つ分かるものはなかったが、説明しているアンドリューの表情は、興奮と情熱できらきらと輝いていて、そんな彼を見ている私の気持ちまでもが同じように高ぶった。
「いつかカナを乗せてこの大空を飛んでみたいよ」
と言ったときも、
「スイスの景色を空の上からカナに見せてあげたいよ」
と言ったときも、アンドリューの心はもう既に空高く舞い上がっているようだった。
それから、私たちは保険事務所へ向かった。
「スイスへ戻る前に車を売らないといけないから色々と手続きが面倒なんだ」
すぐに済むから、と、アンドリューは私を暖房のきいた車内に残し、事務所へ入っていった。
「なんて話の分からない連中だ!」
しばらくして、うとうとし始めていた私の眠気を一気に吹き飛ばす勢いで、アンドリューは車に乗り込んだ。
「一体どうしたの?」
アンドリューは事務所の人たちと交わした内容を事細かく苛立ちながらも説明してくれた。でも、私が理解出来たのはその内の半分にも満たないほどだった。
改めて思い知らされるアンドリューとの英語力の差。アンドリューが腹を立てているのにそれを理解して、どう慰めてあげればいいのかが分からない。アンドリューのために言ってあげたい気の利いた単語が出てこない。私はそんな自分に苛立ちを覚えた。
「ごめんね。英語で何て言ってあげたらいいのか分からないの。どう表現したらいいのか分からないの。アンドリューの怒っている気持ちは痛いほど伝わるのに」
あとは「ごめんなさい」しか言えなかった。
「カナ、君が謝ることなんて何もないよ」
アンドリューの口調は依然としていらついていた。
「それに、母国語でない言葉で表現する事の難しさは僕にもよく分かるから、気にしなくてもいいんだよ」
「ホントにごめんね」
他の言葉を見つけられなかった。アンドリューは小さく息をつくと、
「カナ、君は『ごめんなさい』を言い過ぎるよ。そんなに簡単に『ごめんなさい』を言ってはいけないよ」
と、私を見て忠告した。アメリカでは謝ることが自分の非を認めることにつながるんだよ。だから気をつけないといけないよ、とアンドリューは教えてくれた。でも、語気を荒げるほど嫌な事を言われた彼を前にして、慰めの言葉一つさえも言えない自分が悔しくて、申し訳ないという思いは抗し難い事実。
「ごめんなさい」
言われたそばからまた謝ってしまった。そんな私を見るとアンドリューはフッと笑い、
「もういいよ。それもカナの良い所なんだからね」
と言って、
「でも、気をつけるんだよ」
と、頭を撫でた。
三日目、目が覚めるとアンドリューは規則正しい寝息をたてながら眠っていた。
イザベルの信頼を裏切らないように、ただそれだけを念頭に、私たちは広くて大きなアンドリューのベッドで寄り添ってこの二日間を過した。
イザベルの言う「分別のある行動」が、興味本位でメイクラブをしてはいけないということだとは分かっていた。でも、心から愛し合っている者同士が互いに惹かれ合い、求め合うことは愛するがゆえの結果で、それは「分別のある行動」にはならないのだろうか?
愛しているからこそ相手の全てを知り尽くしたい。
そう思うことのどこが悪いのか、私にはよく分からなかった。
アンドリューの穏やかな横顔をしばらく見つめると、私は彼のぬくもりを確かめるように広い胸に手を回した。それから、アンドリュー、と小さくささやいた。
「ううん」
アンドリューはゆっくりと私の方に体を向け、寝ぼけまなこのまま私を抱きしめた。
「おはよう」
大きな体にすっぽりと包まれながら、私はほとんど声にならない声で言った。
「ううん。起きたくないなあ。ずっとこうしていたいなあ」
甘えるような声でアンドリューは言う。
「それじゃあ今日はこのままずっとこうしてようか?」
アンドリューの胸に耳を押し当てて私は言った。私の言葉に反応するように、アンドリューの鼓動が速まるのを感じた。体温も徐々に上がっていくのが分かった。私は背中に手を回し、優しくアンドリューを抱きしめた。
「カナ」
アンドリューは体をおこし、覆うように私の上にのった。それから、いいのかい? と確かめるように訊いた。
「うん」
私は目を閉じてゆっくりとうなずいた。
「でも、イザベルとの約束は?」
「私たちが同じ思いで考えた末の行動なら、それは分別のある行動だと私は思うの」
私はこたえてアンドリューの頬に手を添えた。そして、
「そう思わない?」
と、アンドリューの頬を撫でて微笑んだ。手に残る少し伸びた彼の頬髭の感触。
「カナ、愛している」
アンドリューはゆっくり何度も唇をふさいでは、甘くささやいた。
「私も愛している」
私はアンドリューに全てをゆだねた。
カーテン越しに差し込む淡い朝の光が私たちを優しく照らし出していた。その霧のようにうすい光の中で、アンドリューは私の全感覚を刺激するように愛撫し始めた。二人の感情が抑えきれなくなった次の瞬間、一本の電話が部屋に漂う愛欲の空気を沈めるように大きく鳴り響いた。
「待ってアンドリュー、大切な電話かもしれないわ」
「すぐに止まるさ」
だが、電話は止むことを忘れたように鳴り続ける。鳴り止まない音にしびれを切らし、アンドリューは渋々と受話器を取った。
「ハロー? 父さん!」
それは一年以上も会っていないというアンドリューのお父さんからの電話だった。
「ああ分かったよ。楽しみにしているよ」
驚きと喜びの表情で電話を切ると、
「父が今月遊びにくることになったよ!」
とアンドリューは目を輝かせて言った。私たちは拍子抜けしたようにどちらともなく笑いだした。
「この抜群のタイミング。続きは今夜までおあずけだね」
アンドリューは私の頬にキスをすると、カーテンを開けた。
「ああ、いい天気だ」
「ホントね」
外は気持ち良く晴れていた。
夜はパシフィックビーチに程近いスイスレストランへ行き、本場よりはかなり劣るけどね、とアンドリューは言いながら、チーズフォンデュときのこのポタージュスープ、ミートボールのクリームソース煮を注文した。店内は小ぢんまりとした、一瞬山小屋を思い起こさせるようなログハウス風の造りになっていて、各テーブルに置かれたキャンドルの暖かい灯りが私たちの心をより一層和やかな気持ちにさせていた。
「これはね、この串に刺したパンをこうやってチーズにつけて食べるんだよ」
アンドリューは運ばれてきたチーズフォンデュの食べ方を実演して見せる。そして、
「でもね、鍋の中でパンが落ちてしまったら、その人は席に座っている誰かとキスをしなくちゃいけないんだ」
と言うと、鍋の中にパンを落とした。
「今のわざとでしょ」
笑って言った私の唇をアンドリューはやさしくふさぎ、
「見本をみせてあげないとね」
といたずらっぽく言うと、チーズのたっぷり絡まったパンを口に頬張った。
部屋へ戻るとシャワーを浴びた。先に浴びたアンドリューはリビングのソファーにくつろぎながらテレビを見ていた。濡れた髪をタオルで拭きながら私もアンドリューの横へ腰を下ろした。
「今夜が最後ね」
ストーリーも分からないアクションものの映画がテレビに映っていた。
「今度はいつどこで会えるのかしらね」
「僕はスイス、そしてカナはここでの大学生活が始まるからね」
アンドリューは私を抱き寄せて言った。
「それに僕は向こうへ戻ったら母の会社で働くことになるだろうから、当分は遊ぶ時間すら取れないだろうな」
いずれはアンドリューが会社を引き継ぐことで話が進んでいるようだった。
「でも、これで終わりじゃないよ、ね?」
私の知らないスイスでのアンドリュー。急に不安になった。
「当たり前じゃないか。何があっても頑張ろう、カナ」
アンドリューの声が、アンドリューの言葉が、耳から体全身へと浸透していく。
――僕は周りの人たちの言葉ではなく、カナを信じているから。だからカナも僕を信じていてほしい。
以前、私はアンドリューから愛するという事は相手を深く信頼することだと教えられた。何があってもアンドリューを信じよう。私は心の中で決意を新たにした。
「おいで、カナ。ベッドへ行こう」
アンドリューは立ち上がると私の手を取り、引き寄せた。リビングより少しひんやりとするアンドリューの部屋。デスクランプの暖かい光が私たちの影を映し出す。
「本当にいいんだね?」
向き合って立つと、アンドリューは訊いた。
「ええ」
私は短くうなずきアンドリューを見つめた。
「Ich liebe dich, Andrew」
それから静かに目を閉じた。
「カナ、君を離したくない」
私たちは唇を奪いあうように熱く激しく重ねあった。そして、壊れてしまうほどの勢いでベッドへと倒れこんだ。絡みあう舌。もつれあう指。触れあえることの喜びを私たちは感じていた。そんな私たちの燃えるような愛をあざ笑うかのように、部屋に響き渡る二度目の電話の音。
「Shit!」
息を荒げてアンドリューは吐き捨てるように叫んだ。汗ばんだ体にローブを羽織ると、勢いよく受話器を取った。
「ハロー!」
明らかに苛立っている声。私は薄明かりの中、時計を見た。十一時。一体誰からだろう。
「ゴードン、一体どうしたんだ?」
そのこたえをアンドリューの驚いた声で知った。
「警察へは? 分かった。すぐに迎えに行くよ」
警察? にわかに部屋の空気がざわめいた。
アンドリューと私はゴードンが待つサン・ディエゴ空港へと車を飛ばした。規則正しく流れていく街灯のオレンジ色の灯りが輝きを放っている。アンドリューは事の次第――リンドバーグ飛行場の駐車場に車を預けてサン・フランシスコへ帰省していたゴードンがいざ戻ってきてみると、停めてあったはずの彼の車は跡形もなく消えていた。防犯対策もきちんとされていた車だったのに、みごとに盗まれてしまっていた――を話してくれた。煌々と照らし出された駐車場の入り口まで来ると、その外れにゴードンがぽつんと一人、寂しそうに立っているのが見えた。
「二人とも邪魔しちゃったみたいですまなかったな。でも、本当に助かったよ」
ゴードンを乗せた私たちはそのままチップスへ向かった。
――本当よね。事件に巻き込まれたり、何か悪い事をしたりして警察のお世話にならない限り、縁のないところだものね。
車に揺られながら随分前に言っていたイザベルの言葉を私は思い出していた。まさかこんな形でチップスに戻ってくる事になるとは想像もしていなかった。正面玄関に車を停めると、私たちは急いでオフィスの中へ入った。
「スコット!」
見覚えのある顔に私は驚いた。
「やあ。えーっと、確か、カナ? だっけ?」
スコットも私のことを覚えていた。
「しばらくだね。で、こんなに遅くにどうしたんだい?」
この小さな予期せぬ偶然の再会のお陰で、ゴードンへの対応も融通を利かせてくれて、思いのほか全ての処理がすんなりと進んだ。
「すでにパトロール隊への連絡は済んでいるから今夜はもう引き上げてもいいよ」
三十分後、全ての書類にサインをしたゴードンにスコットは言うと、ファイルを閉じた。
「色々とありがとうございました」
疲労と落胆の色が隠せないゴードン。それでも、笑顔を見せて言った。彼のそんな表情を見て、私はいたたまれない気持ちになりアンドリューを見つめた。口元に微かに笑みを浮かべたアンドリューは優しく私の肩に腕を回した。
「さんざんだったね。でも、気を落とすんじゃないよ」
最後に力強くスコットは言い、ゴードンの手をしっかりと握った。
「はい。ありがとうございます」
ゴードンはもう一度微笑んでこたえた。アンドリューは励ますようにゴードンの肩に手をかけると、出口へと歩き出した。スコット、本当に色々とありがとう。私はスコットに礼を言い、彼らのあとに続いた。
家へ戻るともう二時近かった。三人ともくたくただった。
「二人とも本当にありがとう。悪いけど今日はこのままもう寝かせてもらうよ」
ゴードンは肩を落としながら二階へ上がっていった。静かに閉まるドアの音。
「カナ、君が一緒にいてくれたから今夜はホントに助かったよ」
リビングの灯りを消して部屋に入ると、アンドリューは言った。
「私のチップス見学も無駄じゃなかったわね」
Vサインをしてわざとおどけてみせた。でも、私の笑顔はあっという間に消えていく。「ゴードンの車、みつかるといいね」
みつかる可能性はゼロに近いと分かっていても、そう言わずにはいられなかった。ゴードンのあの悲しい表情が忘れられない。アンドリューも、ああ、そうだね、と小さくうなずいた。
「でも、朝の電話といい、さっきの電話といい、あまりにも間の悪いタイミングだったよね。正直これは神様がまだダメだよって言っているように感じちゃったわ」
洗面所で寝具に着替えて部屋へ戻ってくると私は言い、肩をすくめて苦笑した。
「そうかもしれないな。もう少しお互いが成長するまで待ちなさいっていうサインなのかもな」
アンドリューは私を抱きしめてそう言うと、頭上にキスをした。もっともゴードンのことを思えば、二人の感情に身をまかせることが得策でないことは当然のことだった。
「今まで待てたんだ。急ぐことはないさ。愛することに変わりはないんだから」
「そうよね」
私たちは心も体も安心しきって深い眠りへと落ちていった。
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