チップス

土曜日、悲しさと寂しさで心の中がいっぱいの私の気持ちをあざ笑うかのように、朝から青空が広がっていた。知美は朝食をとるためにカフェテリアへ向かったが、食欲のない私はそのまま部屋に残った。食欲だけでなく、何もする気が起きなかった。

 昨夜、智也のお別れ会は十一時過ぎにお開きになった。

 幸恵さんたちの思いがけない私への仕打ちに、智也もルイも冗談を言ったり、はしゃいだり、彼らなりに私を気遣ってくれた。でも、かえってそれが私を苦しくさせた。

「なんか智也のお別れ会じゃなくなっちゃったね。ごめんね」

 会計を済ませみんなが席を立ったとき、私は智也に謝った。

「気にするなって。もともと幸恵は気が強いから、何でも自分の思い通りじゃないと気が済まないんだよ」

 事情を知っている智也はそう言って笑うと、ルイの方に体を向けた。

「ルイ、お前、ちゃんと帰れるか?」

「もう全然平気だよ。それより僕がカナを送ってくから、彼女のことは心配しないでいいよ」

 そのころにはすっかり酔いも醒めていたルイは、私を心配して寮まで送ると言ってくれた。

「バイクだとちょっと寒いけど、寮まではここからそんなに遠くないし、それに気持ちも少しは落ち着くと思うよ」

「ありがとう、ルイ」

 私は笑って言ったつもりだったが、顔はこわばり、まるで感覚がなかった。でも、そんな私の落ち込みに、わざと気づかない振りをするかのように、

「カナと初めてのツーリングだね」

 と言ってルイは微笑むと、バイクにまたがった。

「智也にもう一回さよならを言ってくるからちょっと待ってね」

 私の言葉にルイは親指を立ててOKと合図をし、ヘルメットを深くかぶった。

「今度いつ会えるか分からないけど元気でね、智也」

「お前もな。あんまりくよくよすんなよ。お前らなら大丈夫だからよ」

 智也らしい励まし方で肩をドンと叩く。

「ありがとう」

 その瞬間、思わず泣きそうになった。

「日本に戻ったら絶対に連絡しろよ。そしたらまた会おうぜ」

「うん。今度会うときは日本だね」

 私は言い、ルイのバイクに乗った。

「しっかりつかまっているんだよ、カナ!」

 ルイは豪快にエンジンをかけ、大声で叫んだ。バイクは重たい音をたてながら走り出した。

「智也、元気でね! 色々ありがとう!」

「カナ、お前も頑張れよ!」

 友人との別れの寂しさとアンドリューのことへの切ない思いとで、しだいに涙が溢れてきた。でも、ルイが言っていたように、風を切って走るバイクに乗っていると、夜の冷たい、氷のように冷たい風が顔にあたり、涙もすぐに乾いてしまう。気持ちも少し落ち着けた。

 どのくらい経ったのだろう。

 朝食に出かけた知美はまだ戻っていない。一人にはあまりにも広過ぎる寮の部屋で、私は膝を抱えたままベッドの上に座ると空を見た。空を見ていると、幸恵さんたちの冷たい言葉が吹き荒れる嵐のように頭の中に押し寄せてきた。悲しみはどんどん大きくなる。私は唇を噛み締め、ただじっと空をみつめた。

どうして幸恵さんはあんなに冷たいことを言うの? 仲良くしようって言ってくれたのに。

 空は歪み、だんだんと霞む。そして、ついに一滴の涙が頬をつたってこぼれ落ちた。

――ここへ戻ったら真っ先にカナのところへ来るからね。

アンドリュー、どこにいるの? どうして連絡くれないの? 会いたい……。

たまらなく辛くなり、私は膝に顔を埋めると、声を殺して泣いた。


 日曜日、目が覚めると目の奥が沁みるように痛かった。昨日涙が枯れるほど泣いたせいかもしれない。窓からは暖かな日差しが差し込んでいる。横になったまま手をかざして空を見上げると、昨日と同じ青空が広がっていた。

「おはよう、カナ。起きた?」

 声の方に目を移すと、洋服を着て立っている知美がいた。

「おはよう。今、何時?」

 私は目をこすりながらゆっくりと起き上がった。

「もう十時過ぎだよ。どこか具合でも悪いの?」

もうそんな時間になっていたんだ。

「なんか昨日からずっと様子が変だけど、ほんとに大丈夫?」

 心配そうに知美は言うと、ベッドの端に腰掛けた。

「うん大丈夫。ただ夕べ夜中に目が覚めて、それからなかなか眠れなくて」

 嘘をついた。

 バレンタインデーの日に勇気を持って告白した知美の思いは、完全にとまではいかなかったがマークは受け入れてくれた。あれ以来、廊下を隔てたマークの部屋を、毎日のように行き来しては幸せな時間を過している知美に、陰を落とすような話はしたくなかった。

「今日はマークと何かするの?」

「うん。マークの友だちとティファナに行くんだ」

そうなんだ。私はなんとか微笑んだ。

「カナも一緒に行かない? 敦子たちも今から誘うから」

 本当に幸せそうな知美。

「ありがとう。でも、やめておくわ。私、これからアンドリューに電話をする約束なの」

 また嘘をついた。

「そっか。そっちの方が楽しいよね」

 知美は言ってにっこり笑い、じゃあ、行ってくるね、と、部屋を出た。

 急に静けさが襲ってくる。幸せな余韻に浸るときには心地良い静けさも、今は寂しさを強調させる以外の何物でもない。私はベッドから出るとラジオをつけて静寂をかき消した。


 夜、時計を見ると十時をとうに回っていた。アンドリューは今日も戻って来なかった。今日こそはアンドリューは戻ってくる、と確信にも似た思いで一日を過していた私の失望はいうまでもない。ティファナに行ったきりまだ戻っていない知美を待たず、私はベッドへ入ると、体を丸めて枕に顔を埋めた。しばらくして、ドアの開く音がした。

「知美?」

「あ、ごめん。起こしちゃった?」

「ううん、うとうとし始めたとこ」

 知美は机のライトをつけた。

「ティファナは楽しかった?」

 なんて無粋な質問。マークと一緒ならば楽しくないはずがない。

「もう最高だった」

ベッドに入ると、知美はティファナでの出来事――ソンブレロをかぶって一緒に写真を撮った事。マリアッチの演奏が聴けるレストランで食事をした事(マークが知美のためにベサメムーチョをリクエストしてくれたと言っていた)。そして、マルガリータとピナコラーダを初めて飲んで、その美味しさに感動した事――を嬉しそうに話してくれた。

「私、告白してよかった」

天井を見ながら知美は感慨深く言う。

「だって、彼女になれなくても、友だち以上には扱ってくれているもの」

「良かったね」

 私は心から言った。すると、知美は、

「でも、カナとアンドリューが羨ましい……」

 と、しんみりと本音をはいた。

 私は一週間以上もアンドリューに会えず、声も聞けず、その上、幸恵さんからは恋人の存在を聞かされ、動揺を隠せない自分の情けなさがたまらず卑屈になっていた。そんな心境の中では知美の素直な言葉でさえも嫌味に聞こえてしまう。

「そんな事……」

 言いかけたとき、ドアを小さくノックする音が聞こえた。私たちはうるさいと誰かに注意されたと思い、ひそひそ声で話しを続けた。すると二度目のノックの音。

「嫌だあ。こんな遅くに誰だろう」

 知美の言葉に私はもしかしたらと思い、

「私が出るわ」

 と言って、セーターを羽織るとドアを開けた。

「カナ、ただいま」

 疲れきった表情のアンドリューが目の前に立っていた。

「遅くなってごめん。でも、戻ったら真っ先にカナに会いに来る約束だったから」

 いつもの柔らかい笑顔でアンドリューは言った。

「アンドリュー」

 名前を呼ぶのと同時に、私はアンドリューの大きな胸の中へ飛び込んでいた。私を包みこむ大きな胸。何もかも忘れさせてくれる暖かいアンドリューの胸。今までの卑屈になっていた自分がどこかへ消えていくのを感じた。

「カナ、会いたかったよ」

 私の頭に顔を埋めて言うと、しっかりと私を抱きしめた。

「僕の車へ行こう。いいかい?」

 耳元でささやき、そっとドアを閉めた。


 ロビーにも駐車場にもモンテズマ通りにも人影はどこにもない。いるのはアンドリューと私の二人だけだった。

「八日ぶりだね、カナ。元気にしていたかい?」

 車の暖房をつけるとアンドリューは言った。言いたいことはたくさんあったはずなのに、うまく言葉がまとまらない。

「遅くに来たから迷惑だったかな?」

 駄々をこねた子供のように私は何度も首を横に振った。

「八日も連絡出来なかったから怒っている?」

「違うの」

 かろうじて小さくつぶやいた。あんなに会いたかったのに。こうして会いに来てくれたのに。私はただ黙ったまま、外気との温度差でくもり始めた窓を見ていた。

「何かあったんだね?」

 アンドリューは優しく言うと、辛抱強く、私が口を開くのを待っていた。

「アンドリューは今日、ロスから戻って来たの?」

 ポツリと言った。

「そうだよ。なぜ?」

「八日間、アンドリューはずっとロスにいたのよね?」

 なぜか遠回しな言い方しか出来ない。

「カナ、何があったか話してごらん。本当は他に聞きたいことがあるんだよね?」

 アンドリューは私の肩に腕を回して引き寄せた。

「僕がいなかった間に何があったんだい?」

 真実を知りたいのに、それを知るのが恐ろしく怖かった。私は小さく息をつき、アンドリューのがっしりとした太股に手を置いた。

「二十一日の金曜日に智也のお別れ会をカモンでやったの。そこで幸恵さんと明さんがあなたをダウンタウンで見かけたって……」

 もう一度小さく息をついた。

「それに、アンドリューには……」

言ったその先につまる。

「ちゃんと言ってごらん」

 私の手を優しく握り締めてアンドリューは言った。私は下を向くと目を閉じたまま続けた。

「幸恵さんがアンドリューにはフィアンセがいるって。ダウンタウンで見かけた人がその彼女だって」

 私はそのままアンドリューが何かを言ってくれるのをじっと待った。アンドリューは首を横にふると、呆れたようにフッと小さな息を吐き、

「また、ユキエか」

 と言って苦笑した。そして、

「カナに謝って、仲良くなろうと言ったはずのユキエから僕は、君がルイと肩を組んで恋人のように仲良くしていたと聞かされたよ」

 と、つけたした。

「私が?」

 あまりの驚きにアンドリューから体を離して彼を見つめた。

「そう。君とルイは恋人のようだったそうだよ」

 ニッコリ笑ってこたえると、私を再び抱き寄せた。

「いつ聞いたの?」

「智也の家でパーティがあった次の日だったかな。わざわざ電話で教えてくれたよ」

 もう二週間も前の話だ。

「なんでそのときに何も言ってくれなかったの?」

「だって僕はそんなこと、これっぽっちも信じていなかったからね」

 柔らかい笑顔でアンドリューはきっぱりと言った。

「本当に?」

「本当さ。僕は周りの人たちの言葉ではなく、カナを信じているから」

 私はアンドリューの言葉に自分の愚かさを恥じた。

「だからカナも、ユキエたちが何を言っても、僕を信じていてほしい。いいね?」

「ごめんなさい。本当にごめんなさい」

 私は周りの言葉に惑わされて、愛する人を信じきれていなかった。

「だけどユキエたちの演技もそうとう真に迫っていたんだろうね」

アンドリューは私を見つめて穏やかな微笑みを浮かべて言い、

「彼女の口ぶりが目に浮かぶよ」

 と続けると、作戦は失敗に終わったけどね、と、ウインクをして笑った。

 私はアンドリューの思慮深さと、相手の心を見抜く洞察力に救われた。そして、うろたえる事なく私を信じてくれた、アンドリューの寛容さに尊敬の念を抱いた。私は愛するという事は相手を深く信頼することだと教えられた。


 私は「天邪鬼」で「喜怒哀楽」が激しいとても単純な人間のようだ。翌日からは気力も食欲も戻り、一日中とても気分が良かった。心配していたアンドリューの件も全て幸恵さんたちの仕組んだ嫌がらせと分かり、前にも増してアンドリューへの信頼が深まり、幸せな気持ちで顔の筋肉は緩みっぱなしだった。そんな日常の生活に戻った木曜日の夕方、良枝が久しぶりに私のところへ遊びに来た。

「ハロー、カナ。今日は朗報を持ってきたわよ」

 良枝は言うと、イザベルからの伝言よ、と言って咳払いをし、

「チップスのアポが取れたの。急だけど明日の放課後、ALIまで迎えに行くわね」

 とイザベルの口調を真似て言った。

「ええ? 本当にアポを取ってくれちゃったのお?」

 嬉しい反面、子供染みた夢だけに、忘れてくれていれば良かったのにと思った。

「そうよ。ちゃんと覚えていてくれたのよ」

 その場限りの建て前を言う人が多い中、イザベルは本当に約束を守ってくれた。その事はとても嬉しかった。でも……。

「何暗い顔してんのよ。嬉しくないの? 明日、念願のチップスに行けるんだよ」

「そ、そうだよね」

明日、チップスに行けるのかあ。考えると急にわくわくと胸が騒ぎだした。

「なんか緊張してくる。だって本物の警察署に行くんだよ」

「悪いこともしてないのにね」

 くすくす笑って良枝は言った。

「良枝たちも行くでしょ?」

 普通では経験できない警察署の見学に、行かないわけがないと高をくくって訊いた。でも、良枝は、冗談でしょ、と言って、

「行くわけないじゃん。私たちは全く興味ないもん。カナ一人で行くんだよ」

 とさらっと言って流した。

「へえ、カナはチップスにはまってたんだ」

 その日の夜、アンドリューにチップス見学の話をした。

「だって、憧れのカリフォルニアで、二人の警官がものすごく格好よく白バイに乗って、次々と事件を解決していくのよ。高校生の女の子には刺激的だったのよ」

 どう言い訳してみても、精神年齢の低さを感じてしまう。

「要するに私は子供だっていう事よ。現実離れしたものに憧れてしまうんだから」

「僕は何も悪いなんて言ってないよ。ただ素直に驚いただけだよ」

 アンドリューは言って笑った。

「いいのよ、いいのよ。分かっているもの。私はまだまだ子供なのよ」

 受話器の向こうで、アンドリューはいよいよ声をあげて笑った。

「そんな事ないよ。別に気にする事ないさ。警察署もきっと楽しいところだよ。それに、そういう一面を持つカナもすごくいいよ。うん、可愛いよ」

「もう、バカにして。言わなきゃよかった」

 私の言葉にアンドリューは、本当だよ。可愛いよ、と笑いを堪えてもう一度言った。

「笑いながら可愛いなんて言われても、説得力ないもん」

 そう言ったあと、私もなぜがおかしくなり、アンドリューにつられて笑い出した。


 金曜日、朝から空には厚い雲がかかっていた。私は曇りや雨の日が嫌いだ。太陽の日差しが見えないと気持ちまでも憂鬱になる。特にサン・ディエゴには似つかわしくない天気だ。しかもチップス見学当日に曇りだなんて。一人で行くという事だけでも不安なのに、曇り空が私の心を一層重くさせた。

「カナ! やっと出てきたわね」

 授業が終わり外へ出ると、声が響いてきた。目をやると、駐車場の隅にイザベル親子と一緒にいる良枝と敦子の姿が見えた。私は小走りで駆け寄り、イザベルたちにハグで挨拶をした。カナがなかなか出てこないから呼びに行こうと思っていたのよ。敦子が言って、ねえ、とラネーレを見て笑う。

「だってなかなか授業が終わらなかったんだもの」

 私の言い訳を待って(事実だから言い訳ではないのだが)、イザベルが微笑みながら、

「さあ、遅くなるといけないから、そろそろ行きましょうか」

 と時計を見て言った。私はもう一度良枝たちを誘ってみたが、用事があるからいいわ(きっとそれこそ言い訳だろうと思ったが)、と、断られた。

「ほら、いってらっしゃい」

 敦子は言って、イザベルのフォルクスワーゲンバスのドアを開いた。私はラネーレたちの後に続いて後部座席に乗り込んだ。

 カリフォルニア・ハイウエイ・パトロール、通称「チップス」はハイウエイ八号線を西へ走り、五号線を北へさらに進んだ、パシフィックハイウエイ沿いに建っていた。平屋建ての大きなオフィスの前には、ドラマに出てくるお馴染みのパトカーや白バイが数台停まっていた。

「今、事務所に行って係りの人に確認を取るから、あなたたちはここで待っていてね」

 入り口の前でイザベルは言うと、中へ入って行った。

「どうしてここに来たかったの?」

 少し経ってラネーレが訊いた。

「日本でね、チップスのドラマが放送されていて、私、それが大好きだったの。そうしたらあなたのお母さんがわざわざここに連絡をしてくれて、見学できるアポを取ってくれたのよ」

「ふうーん」

ラネーレはこたえたが、理解はしていない様子だった。しばらくして、イザベルが一人の男性警官と一緒に私たちのところへ戻って来た。

「やあ、はじめまして。スコットです」

 差し出された手を握り返しながら、爽やかな笑顔で真面目そうな人だな、と、私は心の中で彼の第一印象を勝手に分析していた。

「日本でチップスが流行っているのは僕も聞いたことがあるよ。君もファンなんだって?」

 私の歩調に合わせて歩き出したスコットがそう言って私に微笑んだ。その言葉に別に何の深い意味はなく、彼はごくありのままを述べただけだ。でも、スコットの「ファン」という言葉に、自分がいかにも成長できていない幼稚な子供のように思えてきて、顔から火が出るほど恥ずかしくなり下を向いた。

「まずこれが実際パトロールで使用する車だよ」

車の前まで来ると、スコットはドアを開けた。

「運転席に乗ってみるかい?」

 スコットの思いがけない言葉に、ほんの少し前まで面映い気持ちでいっぱいだった自分が一気に消え失せた。私はどうにも単純すぎる人間のようだ。

「いいんですか?」

「もちろん。さあ、どうぞ」

 スコットは言い、私は喜色満面で言われた通りに乗ってみた。これが無線機、これが警棒、これがサイレンアンプ。スコットは一つひとつ丁寧に説明をする。イザベルたちも興味津々といった感じで車内をのぞきこみ、スコットの説明を一生懸命に聞いていた。

「それじゃあ、次は君の大好きなチップスの白バイを見ようか」

 パトカーのドアをしっかりと閉め、すぐ奥に停まっている白バイのところへ私たちを案内した。テレビで見たのと同じバイクだ。当たり前だがかっこいい。まじまじと見る。

「あ、カワサキって書いてある」

 私はバイクの横に書かれた文字を読んで驚いた。

「そう。カワサキのバイクは性能がとても優れているから使用しているんだ」

 日本製のバイクということに誇らしい気持ちになった。スコットはサイレンを作動させるスイッチボタンの押し方や、点灯の仕方で意味が変わる追跡灯など、実演しながら説明をして私たちの興味をさらにかき立てた。オフィスの中も見てみようか。一通りのサイトツアーが済んだあと、スコットはオフィスの中もざっと案内してくれた。一時間の見学はあっという間に終わってしまった。


「今日は本当にありがとうございました」

 帰りの車中で私はイザベルに礼を言った。

「気にしないで。私たちだってとても楽しめたもの。お礼を言うのは私たちのほうよ」

 バックミラー越しにイザベルは微笑んだ。

「私、本当はちょっと恥ずかしかったんです」

「どうして?」

 イザベルは驚いて後ろを振り向いた。

「だって、ドラマと現実は違うのに警察署を見たいだなんて。なんか子供みたいで」

 するとイザベルは優しい眼差しで、

「そういう子供の心を忘れないという事は大切よ。それに、カナのそういう思いがあったからこそ、こうして私たちはまた会えて、楽しい時間を過せたのだから、神様に感謝しなくちゃ」

 と言い、にこやかに笑った。そういう物の見方もあるのか、と私は思った。

「そうですね。私も最初は恥ずかしかったけど、今日、見学出来て本当によかったです。普通ではなかなか警察署なんて縁のない所ですから」

「本当よね。事件に巻き込まれたり、何か悪い事をしたりして警察のお世話にならない限り、縁のないところだものね」

 イザベルは言うと、二人で笑った。

「イザベル、実は私、またここへ戻って来たいと思っているんです」

私たちはモンテズマ通りまで戻ってきていた。もうすぐ寮に着く。

「サン・ディエゴはいいところだものね」

 ええ。本当に。

「でも、そういう事ではなくて、勉強をするために戻って来たいんです」

アンドリューと出会っていなければ、ひょっとしたら私は今回の短期留学だけで満足していたかもしれない。でも、私は出会ってしまった。心の底から大切と思えるアンドリューに。それと同時に自分の英語力の限界を思い知らされてしまった。もっと勉強しなければアンドリューに追いつけない。

「それは素晴らしいわ、カナ!」

「でも、その間、どこに住んだらいいのかが分からなくて。どこか適当なところを知っていますか? モーテルとかもっと安い寮とか」

 滞在する場所によっては自分の夢も夢で終わってしまう。どんな情報でも知りたかった。

「カナが本当に戻ってくるつもりなら、私たちのところへいらっしゃい」

 思いがけないイザベルからの誘いだった。

「本当にいいんですか?」

「当たり前じゃない。カナも私にとってはヨシエやアツコと同じで大切な娘ですもの」

 まだ数回しか会っていない私を「娘」と言ってくれたことに、私は泣きたくなるほど感激した。

「ありがとうございます!」

 私は言ってラネーレ――いつの間にか私の膝に座っていた――を思いきり抱きしめた。

「アハハ、くすぐったいよ」

 ラネーレは体をくねって笑った。

「まだはっきりいつとは言えないですが、分かったら連絡してもいいですか?」

 鏡に映ったイザベルの瞳を見て訊いた。

「もちろん。いつでも連絡してね。待っているわ」

 私はまだ誰にも話していなかった新しい夢の第一歩を、イザベルの一言で現実のものとして進めていこうと、秘かに心に誓った。

 部屋へ戻ると、時刻はちょうど夕食の時間と重なり、知美の姿はなく、暖房の暖かさだけが私を迎えてくれた。明日、カナがチップスから戻ったら映画に行こう。六時ごろ迎えに行くからね。夕べ、アンドリューは映画に誘ってくれた。時計を見るとまもなく約束の時間になる。私は急いで荷物を置き、身だしなみを整えた。

 アンドリューの柔らかい微笑みはまるで魔力でもあるように、私の心を平穏と幸福で満たしてくれる。例えばそれは、暖かい暖炉の光に包まれた家族が寄り添い合い、微笑みを分かち合っているときのような、そんな感じにも似ている。でも逆に、アンドリューに会うまでの時間は緊張と興奮の連続で、心臓は激しく鼓動し、振動で体は揺れ、まるで心臓が全身を支配しているかのようになる。

 しばらくして、ドアをたたく音がした。開くと、アンドリューはいつものように腕を広げて(すっぽりと包みこんでしまう勢いで)私をしっかりと抱きしめた。

「ハイ、カナ。会いたかったよ」

「私もよ」

 私はアンドリューのがっしりとした体にもたれた。

「チップスはどうだった?」

「すっごく良かった。色々説明もしてくれて、パトカーの中にも乗せてくれたのよ」

 興奮して私はこたえた。

「イザベルや子供たちも興味津々で、一緒になって説明に耳を傾けちゃってね。それに、私以上に色んな質問をして、どっちが見学に来ていたか分からなかったほどよ」

 アンドリューに言わせる隙を与えない勢いで続けた。

「一時間の見学なんてあっという間に終わっちゃって、本当はもっといたかったぐらいだわ」

「カナの話しぶりでどれだけ楽しめたのかがよく分かるよ」

 息をついた私を見て、微笑みながらアンドリューは言った。

「楽しめてよかったね」

 アンドリューの微笑みには本当に魔力があるのかもしれない。柔らかい微笑みで見つめられると、安心して吸い込まれそうになる。

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