フィアンセ

日本では大学に入るまでの入試勉強に誰もが身を削る思いで取り組み、入学と同時に辛かった勉強からは開放され、大学時代の数年間はサークルに入ったり、バイトに精を出したりと、思い思いに楽しむ。

 一方、アメリカはその逆で、大学は誰もが容易に入ることの出来る「広き門」。その代わり、入ってからが大変なのだ。試験の成績はもちろんの事、授業を二、三回休んだだけで、来学期また来なさい、と、クラスを辞めさせられ単位が取れなくなる。学業を真剣に取り組んでいない学生は、何年経っても卒業出来ない厳しい大学生活なのだ。それにも関わらず、毎週末、アンドリューは時間をやり繰りして、私との過す時間を大切にしてくれていた。そうして週末にはアンドリューに会えるということが、私の頭のシステムに組み込まれ始めた矢先、智也のパーティで大学に通っているという彼の友人から、試験前の勉強がどれだけ大変かという話を聞かされた。英語がネイティブでない外国人にとっては語学の壁もあり、なおのこと努力が必要だとも言っていた。私はその話を聞き、アンドリューがどれほど無理をして、毎回時間をつくろうとしていたのかが推察でき、胸が痛くなった。今度は私がアンドリューのために心を遣う番だと思った。

 土曜日、いつもより早く目が覚めた私は、いつもより早くアンドリューに電話をかけた。

「おはよう、アンドリュー」

「おはよう。昨日のパーティは楽しめたかい?」

 どことなく張りのない声。勉強の疲れが出ているようにも聞こえる。

「うん。とっても」

 私はわざと元気よくこたえた。

「だって、パーティに来ていた幸恵さんと仲良くなれたんだもの」

 一層弾んだ声で言った。

「ユキエも来ていたの?」

 アンドリューの声が一気に不安気なトーンに変わる。

「ええ。でも、幸恵さん、とっても優しくしてくれて、それに私に謝ってくれたのよ」

「あのユキエが?」

 今度は驚きのトーンに変わった。

「うん。あなたが来てればあなたにも謝りたかったって」

「それを聞いて安心したよ」

 受話器の向こうでホッとしたのが分かるぐらい、アンドリューの声が穏やかになった。

「ねぇ、アンドリュー」

 少し間を置き、私は切り出した。

「お願いがあるの」

「何だい?」

 足を組みなおして座るアンドリューの姿が目に浮かぶ。

「この週末は会うのをやめましょう」

「えっ?」

 意図することが分からず、困惑気味にアンドリューが言った。

「どうして?」

「あなたには試験勉強に打ち込んでもらいたいから」

 私は明るくこたえた。

「カナ、でも、それじゃあ、しばらく会えなくなってしまうよ」

「ええ、分かっている。でも、試験勉強はちゃんとしなくちゃ。アンドリューは大学生なんだもの」

 私は言って、手に持っていたアンドリューの写真を見つめた。そして、

「私にはもう一人のあなたがここにいるから大丈夫よ」

 と、写真の彼にそっと触れた。

「もう一人の僕?」

「そう。一年前のちょっと作り笑いをしているアンドリュー」

 私はALIの事務室でその写真をみつけ、もらった事を話した。

「私、この人にも恋しちゃったみたいなの」

 私はくすっと笑った。

「だから少しぐらい会えなくても大丈夫。我慢出来るもの」

「ありがとう、カナ。君は最高だよ」

 アンドリューの嬉そうな声に、自分の提案が間違っていなかったと安堵した。

「それじゃあアンドリュー、試験勉強しっかり頑張って、良い結果を出してね」

「ああ、頑張るよ。試験が終わる金曜日には必ず会おう、カナ」

「ええ、楽しみにしているわ」

 受話器を置いた瞬間、にぶい痛みが胸を突いた。これで良かったんだ。会えないのは寂しいけど、アンドリューのためにはこれで良かったんだ。胸に走る痛みを抑えこむように、私は心の中で何度も自分に言い聞かせた。


 二月十四日。誰もが知っているセント・バレンタインデー。

アメリカでは男女を問わず、日ごろの感謝や友情、愛情などを相手に伝えるために心を込めて贈り物をする。贈る物は人それぞれだが、日本のように「義理チョコ」などは間違ってもない。この日は一日中、愛に溢れている日だ。そして、この良き日、五日間続いたアンドリューのテストもようやく終わる。夜はどこかで食事をしよう。アンドリューの言葉を胸に、私は約束の時間が待ちどうしくてたまらなかった。

「わっ、すごい! まさに愛を表現しているって感じだあ」

 寮のカフェテリアのドアを開けると、敦子はびっくりして言った。カフェテリアの中はどのテーブルにも赤いクロスがかけられ、中央には小さなブーケが飾られ、壁にはハート型に切り抜かれた色とりどりの紙が、あちらこちらに可愛らしく貼られていた。

「わっ、今朝のお料理は色もカラフルじゃない! あっ、デザートまでバレンタインだ。ハート型のチョコレートケーキがあるよ。わあ美味しそう。食べよう、食べよう」

敦子は興奮気味で言い、私も知美も彼女につられ、チョコレートでたっぷりとコーティングされたケーキをトレーにのせた。

「ところで知美は今日、マークに何か渡すの?」

 いつもより少し豪華な朝食をテーブルに置くと、私は訊いた。

「うん。カードとこの前買ったTシャツ」

 この前の日曜日、私たちは智也に頼み、彼の車でダウンタウンのホルトン・プラザへ連れて行ってもらった。

「あれは、マークへのプレゼントだったんだ」

「うん。彼に似合いそうだったから」

 あのとき、知美は真っ先にマークへの贈り物を買っていた。

「カナは?」

「私は……、アンドリューが使っているコロン」

 私はアンドリューの使っているコロンの香りが大好きだった。

「代わり映えしないとは思ったけど、他にこれといったものが思いつかなくて」

「いいじゃない。自分のお気に入りをプレゼントでもらったら嬉しいと思うよ」

「ホント? ホントにそう思う?」

 すでに持っているものを贈られて喜んでくれるか心配だったが、知美の言葉に少し気持ちが楽になった。

「愛がある人たちはいいわねえ。私にはプレゼントをあげる人すらいないもの」

 敦子はトンと両ひじをテーブルにつき、ハート型のチョコレートケーキを頬張った。

「あら、分からないわよ。敦子のシークレット・アドマイヤーがプレゼントくれるかもしれないじゃない」

 私が身を乗り出して言うと、敦子は口に入れたケーキをプッとふき出し、

「ない。ない。ない。そんなこと、間違ってもないわ」

 と慌てたように手を振ってこたえた。そのあまりにも大袈裟な反応に私と知美は目を見合わすと、二人してゲラゲラと笑いだした。

ALIにもバレンタインデーの勢力は押し寄せていた。休み時間や授業前にプレゼントを渡したり、告白したりしている人たちもいて、いつになく忙しない光景が目に映る。

放課後、外に出ると、ロベルトが私に、彼氏がいるのは分かっているけど、僕、カナが好きだよ、と、照れながら可愛いピエロの置物と自作の詩(スペイン語で書かれてあったので全く理解は出来なかったが、愛と自然をテーマに書いたと言っていた)をくれた。予期せぬ告白で驚いたが、私は快く受け取り、お礼のしるしにと、キャンディーの詰め合わせ(昼休みにブックストアへ立ち寄ったときに自分用に買っておいた)をプレゼントした。そこへルイがにこにこしながら近づいてきた。ロベルトからもらっちゃった。私は手の中の置物をルイに見せた。へえ、可愛い置物だね。ルイはそう言って、ジャケットから鍵を取り出すと、今日は持ってきていないけど、今度渡すからね、カナ、と、軽く頬にキスをして、早々とバイクで帰って行った。

――ルイはカナが好き――

 あの組み合わさった言葉が思い過ごしであったと言えるぐらい、ルイの態度はあれ以来普通で、私は内心ホッとしていた。

あれはやっぱり私の大きな勘違いだったんだ。良かった。

思い出してくすっと笑った。


 寮へ戻ると、花束を持った何人かの男子学生がロビーのソファーに座っていた。エレベーターが開くたびに彼らの視線はそちらへと向けられる。きっと告白するために意中の人が降りてくるのを待っているのだろう。うまくいくといいですね。心の中で彼らにエールを送りながら、私はエレベーターに乗り込んだ。

ドアを開けると先に帰ったはずの知美の姿はなかった。きっと今ごろ、知美はマークに告白しているのかもしれないな。知美、ガンバレ。ドアを閉める前にマークの部屋に目をやり、私は小さくガッツポーズをした。時計を見ると、アンドリューとの約束の時間までまだたっぷりと二時間以上もある。

「シャワーを浴びて用意しちゃおうっと」

 荷物を置くと私はシャワーを浴びた。シャワーを終えたころには、暖房を入れた部屋も暖まり、私は大きめのバスタオルを巻いたまま椅子に座ると、髪を乾かし始めた。そのとき、ドアをノックする音がした。

「こんな時間に誰かしら?」

 私はドライヤーを切るとドアに向かい、

「誰?」

 と言ってドアを半分開いた。

「アンドリュー!」

 そこにアンドリューが立っていた。でも、アンドリューの顔にはいつもの柔らかい笑顔がない。約束の時間にはあまりにも早すぎるアンドリューの迎えに、私の心に不安がよぎった。

「入ってもいいかな?」

 アンドリューは言い、部屋に入るとドアを閉めた。

「あっ、ごめんなさい、こんな格好で。着替えてくるからちょっと待ってね」

 私は慌ててクローゼットから服を取り出し浴室へ行こうとした。

「カナ……」

 するとアンドリューはいきなり私を後ろから抱きしめ、

「ごめん」

 と言ってその場にじっと立ちつくした。

「どうしたの? 何かあったの?」

私はアンドリューの息づかいを首筋に感じながらそれ以上は何も言わず、ただじっと彼の言葉を待った。

「カナと楽しい週末を過そうと思っていたんだ」

 ようやく口を開くと、アンドリューはポツリと言った。

「それなのに、これからロスまで行かなくちゃいけないんだ」

「ロスへ?」

 私はアンドリューの方へ体を向きなおし、彼を見つめた。十一日ぶりに会うアンドリュー。その瞬間、ロスの事などどうでもいい事のように思えた。目の前に立っているアンドリューの事だけで胸がいっぱいになった。

「会えなくて、とっても寂しかった……」

瞳に映る愛おしいアンドリューの姿に私の心は苦しくなるほど嬉しくて、ただ一心に抱きしめた。

「僕もだよ」

 私たちはそれ以上何も言わず、しばらく抱き合ったままでいた。手に持っていたはずの洋服は床に散らばっていた。


「アンドリュー、どうしてロスに行かなくてはいけないの?」

 高ぶった気持ちが少し落ち着いたころ、私は訊いた。アンドリューはゆっくりと私から体を離すと、

「スイスから母が来るんだ」

 と言った。

「スイスから?」

 私たちはベッドに腰を下ろした。

「正確には会議を終えたニューヨークからだけどね」

「ニューヨークで会議?」

 一体何をされている人なのだろう。想像も出来ない。

「僕の母はスイスで会社を経営しているから、アメリカへは業務提携や視察を兼ねてたまに出張に来るんだ」

 アンドリューは言い、

「その会議が終わり、次はロスで視察があるから一緒に来てほしい、とさっき連絡があったんだ」

 と続けた。

「どのくらいロスにいるの?」

 二、三日ぐらいだよ。そういうこたえを予想して私は訊いた。

「視察はオフィスが開く月曜からだから、週末の観光も含めて早くても一週間、長ければ十日以上は向こうにいることになると思うんだ」

「そんなに長いの」

 あまりの長さに耳を疑った。

「でも、学校は?」

「事情を話して休ませてもらうよ」

 せっかくこの日を待ちわびていたのに。私の胸は悲しさで締め付けられた。

「そう……」

 吐息に混ざって殆ど聞こえないほどの私の声。

「それじゃあ、早く行ってあげないと、お母さんきっと待っているわね」

 アンドリューの目を見たら泣き出してしまいそうで、窓の外に目をやった。

「カナ、ごめん。本当にごめんよ」

 アンドリューは私を横から抱きしめると、首筋に顔を押し当てて謝った。私は黙ったまま彼の温もりを感じていた。微かに漂うシャンプーの香り。濡れた髪に優しく触れるアンドリューの温かい手。アンドリューは小さく、カナ、と私の名を何度もつぶやき、首筋に何度も唇をあてた。

「ああっ」

 突然電気のようなしびれが体中に走った。私の正常な感覚や思考が失われそうになり、タオル一枚で覆われた体は急に熱くなった。

――カナはボーイフレンドとは寝たくないの? カナにもそのうち分かるよ。

 ルイの言葉が頭に蘇る。アンドリューは私をベッドに優しく押し倒すと、目に、頬に、唇に、そっと口づけをした。

「アンドリュー、もうすぐ知美が戻ってくるわ。洋服を着なくちゃ」

 私の言葉に説得力はなかった。このまま成り行きに任せたい気持ちと、その誘惑を押しやりたい気持ちの狭間で私の息は一層荒くなった。

「カナ、愛している」

 熱い吐息と共にささやくと、アンドリューはタオルに手を掛け外そうとした。

「やめて、アンドリュー」

 私は急に不安になった。一九歳の私には怖かった。その先を知ることが。

「アンドリュー、お願い、やめて!」

 すがるような私の言葉に、

「あっ、ごめん。こんなつもりじゃなかったんだ」

 と、アンドリューは我に返り、私から体を離し起き上がった。それから大きく息をつくと、こんなやり方でカナを傷つけるなんて。カナを大切にしたいのに、と言い、くそっ!と、自分を責めるように罵倒した。アンドリューの口から聞く初めての「卑俗語」。いつも冷静で落ち着いているアンドリューの心情がその一言で伝わった。

「ごめんなさい。私が子供なの」

 私は起き上がり、椅子にかかっていたセーターを羽織ると謝った。

「No! 悪いのは僕のほうだ。カナじゃない」

 アンドリューは私の前に立つと、再び大きく息を吐き、

「焦らずゆっくり行こうと言ったのは僕だったのにね」

 と言って、柔らかい微笑みを浮かべた。そして、

「本当にごめん」

 と、もう一度謝った。


がらんとした部屋。私は服を着て椅子に座った。濡れていた髪はもうとっくに乾いていた。後ろ髪を引かれる思いでアンドリューの手を離し、私は彼を見送った。

「気をつけて。お母さんと楽しんできてね」

「ありがとう。ここへ戻ったら真っ先にカナのところへ来るからね」

 アンドリューは言ってジャケットの内ポケットに仕舞っておいた箱――奇麗にラッピングされた――を手に取ると、はい、と私に差し出した。バレンタインデーの贈り物だ。開いてみると、スイスのチョコレートボンボン――長方形の箱の中に銀色と金色の包装紙に綺麗に巻かれて納まっている(一見、洒落たシガレットにも見えた)――と小さな香水のボトルが入っていた。アンドリューは箱の中から一つチョコレートを取り出すと、これは僕の大好きなチョコで、中には甘い液が入っているから気をつけて食べるんだよ、と言って、ほら、こんな具合に、とやって見せた。

「これは?」

 香水のボトルを手に取り、透けて見える琥珀色の液体を眺めた。

「きっと、カナに合うと思って」

 アンドリューはボトルの蓋を開け、ほんの一、二滴、指につけると、ポンポンポンと私の首筋につけた。たちまち爽やかなフローラルの香りが鼻をくすぐる。

「うーん、いい香り。なんか大人の匂いがする感じ」

 ボトルには「エスティローダ・ビューティフル」と書かれていた。

「はい、これは私から」

私は言って、机の上の包みをアンドリューに渡した。アンドリューは、何かな、と嬉しそうにリボンをほどき、包装紙を開けると目を丸くして驚いた。

「僕の愛用のコロンじゃないか! もうなくなりそうだったから、買おうと思っていたんだよ」

「よかったあ。ありふれた物だからずいぶん迷ったの。でも、やっぱりあなたにはこの香りが一番だもの」

カナ、ありがとう。本当に嬉しいよ。アンドリューはコロンを大事そうにジャケットにしまうと、私を優しく抱きしめた。それから、

「うーん、さては、カナは僕の気持ちが読めるんだな」

 と茶目っ気たっぷりに言うと、顔をくしゃくしゃにして笑った。

「そうよ。あなたのことなら何でもわかっちゃうんだから」

 私も負けない笑顔をつくった。

「それじゃあ、カナ、そろそろ行くよ」

「うん。気をつけてね」

「ああ、ありがとう」

アンドリューはもう一度私をしっかり抱きしめると、エレベーターホールへと歩きだした。何度も振り向くアンドリューに私の寂しさが伝わらぬよう、私は精一杯の笑顔で彼を見送った。


 木曜日、教室へ入ると智也が右手を頬にあて顔をしかめていた。

「おはよう、智也。どうしたの? そんなしかめ面して」

「おう、おはよう。ちょっと歯が痛くてさ」

 智也は言って苦笑する。

「大丈夫? 歯医者へ行って診てもらったら?」

 私は智也の隣に座った。

「でもさ、アメリカの歯医者って高いって聞いたし、ちょっと怖くないか?」

「あっ、それに歯の治療は確か保険でカバー出来ないんだっけ?」

「そうなんだよ。だから治療費が高くなったらバカらしいし、それに日本に帰れば行きつけの歯医者はいるし、保険もきくからさ。だから俺、今度の日曜に一旦日本に帰ることにしたわ」

 歯を診てもらうだけのために日本へ戻ると智也は言う。私には考えられないことだった。それも智也はまるで、ちょっとそこまで、とでも言うような軽いノリで言った。

「一旦帰るって、歯のためだけに?」

「あら、歯は大切よ、カナさん」

 智也は言い、目をパチパチさせてにんまりと笑った。

「なんか飛行機代のほうが高くつきそうね」

 まあな、と背伸びをしながら智也はこたえ、

「でも、俺、しばらく向こうにいようと思ってさ」

 智也は真面目な顔つきで言った。

「それじゃあ、三月の卒業式には出られないんだね」

 あと一ヵ月もすれば卒業式。

「まあそういうことになるかな」

 あと一ヵ月。私は智也との会話をよそに、アンドリューとの別れを思って急に寂しくなった。アンドリューはロスへ行ったきり、もう一週間も音信不通になっている。もちろん、私の部屋には電話がないのでそれも仕方のないことだった。

「あれ、ひょっとして俺がいなくなると寂しいわけ?」

 私のうかない表情を見て智也は冗談ぶって言った。

「そうね、とっても。ああ、寂しくて死にそうだわ」

 心に芽生えた寂しさを紛らわそうと、私もいたずらっぽくこたえた。二人の笑いがおさまると智也は、

「だからさ、明日もう一度この前のメンバーで集まってどこかへ行かないか?」

 と言って私を見ると、

「今度いつ会えるか分からないしさ」

 と、私の寂しさを呼び覚ます呪文を口にした。


 金曜日、智也のお別れ会は彼のリクエストで「カモン」で行われた。

「これから日本に戻るのになんでまたカモンなわけ?」

 智也の意表をついた言葉に驚かされるばかりだ。

「バカだな。日本食って言っても、ここで食べる料理と日本のとはやっぱりどこか違うんだぜ。俺にはサン・ディエゴの味なんだよ」

 智也は言って、大好物の「カモン特製天津チャーハン」を美味しそうに口に入れては、「ああ、歯がいてえ」を連発していた。

 アンドリューに初めてカモンへ連れて来てもらったときは、カウンター前のテーブル席だった。でも、今日は奥にある畳の部屋で、智也を含めた八人がテーブルを囲んだ。もちろん、その中には幸恵さんも明さんもいる。智也の隣には一人美味しそうに熱燗を飲んでいるルイの姿もあった。

「あんまり飲むと帰れなくなるから気をつけてよ、ルイ」

 私は飲むピッチが早いルイに言った。

「カナも飲みなよ。アツカンって美味しいねえ」

 多少酔いが回ったようなしゃべりのルイ。

「私はまだ一九歳だから飲めないよ」

「ああそうだっけ?」

「それより今日は智也のお別れ会なんだから、彼に勧めてあげなきゃ、ね?」

 私は言って、

「はい、どうぞ」

 と、お酌をした。

「お、サンキュー」

 智也は美味しそうに口にふくんだ。

「そういえば今日、アンドリューをダウンタウンで見かけたよ」

 しばらくして、明さんが不意に口を開いた。一番端に座っていた私にもはっきり聞こえるほどの大きな声。突然耳に飛び込んできた彼の名に、私は一瞬、戸惑った。

アンドリューがダウンタウンに?

「あ、そうそう。綺麗な女性と一緒に楽しそうに歩いていたよね」

 幸恵さんはパンと手を叩いて相づちを打つと、

「金髪美人っていう感じで、線が細くてね。何度かアンドリューの腕をつかんだり、二人で笑い合ったりして、すごく楽しそうだったわよね」

 と、そのときの様子を続けた。周りにいた彼女の友人たちは、へえ、と、興味深げに聞いている。グラスを持っていた自分の手から血の気が引いていく気がした。アンドリューが女性と一緒に? 私は平静を装うように残りのお茶を口に含んだ。

「でもさ、あの彼女って、案外アンドリューのフィアンセだったりして」

 明さんはなおも続けて言うと、片膝を立てて好奇心たっぷりの表情でビールを啜った。フィアンセ? 彼の言葉に反応するように、背中に冷たいものが走るのを感じた。

「ああ、可能性はあるよね。だってここに来ている外人なんて、大抵みんな国に彼女や彼氏がいて、ここでは羽を伸ばして遊ぼうっていう感じだもんねえ」

 幸恵さんの友人という和美さんは、それが普通でしょ、という口調で加えた。

「そうだったわ。私も随分まえにアンドリューにはフィアンセがいるって聞いたことがあったわ!」

 短い沈黙のあと、幸恵さんは思い出したように語尾を強めて言い、カナさんにはショックかもしれないけどね、と、嫌味にも聞こえる口調でつけたすと、冷やかに笑った。私の手は氷のように冷たかった。

「みんな、何の話をしているの?」

 キョトンとした顔でルイはみんなを見ると言った。日本語の分からないルイには状況が見えていない。ねえ、何なの、カナ? ルイは私をのぞきこんだ。

「好きになっても本気になったらバカを見るっていう話よ」

 脇から幸恵さんがさらっと言った。

「どうして?」

 首をかしげるルイに、

「みんな国に帰れば恋人がいるって事さ。あのアンドリューにもね」

 と明さんがこたえた。

「アンドリューに? 冗談だろ」

 ルイは驚きと疑いの目で明さんを見た。彼は、さあね、と、肩をすくめて言葉を濁す。

「でも、大丈夫だよ、カナ。僕がいるさ」

 くるっと私の方を振り向くと、ルイは私の肩に腕を回して微笑んだ。

 ルイは慰めるつもりで言ってくれたのかもしれない。でも、私の心には響かなかった。私は事の次第が飲み込めず、「フィアンセ」という言葉にただただショックを受け、何も言えずにその場に座っていた。肩を抱いていたルイには私の体が震えていたのを感じていたにちがいない。

アンドリューがサン・ディエゴに戻っている。フィアンセと一緒に歩いていた。

でも、どうして電話をしてくれないの? 戻ったら連絡をくれるって言っていたのに。

「どうしたのカナさん? 大丈夫?」

 茫然としている私を見て幸恵さんは言った。そして、

「まさか、アンドリューが本気であなたと付き合っているなんて思ってないわよねえ?」

 だって、と言ってビールを口に含むと、

「あなた、もうすぐ日本に帰るんじゃない。そんな人に本気になるバカはいないわよ」

 と言い放ち、勝ち誇ったように失笑した。


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