偽りの友情
ルイは月曜日から学校を四日も休んでいた。先週の土曜から寮の部屋にも顔を出していない。周りに聞いてもルイの消息は分からず、私たち――知美と私――はだんだん心配になってきていた。誰か一人でもルイの連絡先を知っていれば話は別だが、どういうわけか誰一人として彼の連絡先を知らなかった。思えばいつも当たり前のようにルイは寮に来ていたので、連絡先を聞く必要さえ思いつかなかったのだ。彼のことで唯一分かっていたことは、アメリカへ来てからずっと老夫婦のところでホームステイをしているという事だけだった。
「そうだ。放課後、アドミのオフィスへ行ってルイの連絡先、教えてもらえるか聞いてみるわ」
私は思いついたように知美に言った。
「そうか。事情を話せば教えてくれるかもしれないものね」
「でしょ?」
自分の思いつきにかなりの期待感を覚えつつ、ルイが無事でいてくれることを祈った。
午後の授業が終わると、私はすぐにアドミの事務所へ向かった。胸の高さほどのカウンターで隔てられた事務室には誰の姿も見えず、私はしばらく待合室に設けられたソファーに腰をおろして待った。壁に掛けられたコルクボードにはかつての生徒たちの写真が貼られていて、ボードの下に置かれたラックには数冊のアルバムがたて掛けられていた。カウンターの上には恐らく生徒たちが置いていったであろう、可愛らしいぬいぐるみや各国の置物などが所せましと並んでいて、事務所は静かで暖かい空気に包まれていた。
「わぁ、ケイト、若い。それに今よりも痩せているじゃない」
ラックから抜き取った一冊のアルバムに、かなり若いころのケイトの姿をみつけた。生徒たちと肩を組んで写っている写真。大きく口を開けてピザを食べようとしている写真。インディアンのように頭に羽をつけて仮装している写真。どれも楽しそうに写っていて、私は一人、微笑みながらページをめくっていった。そして、何枚かページをめくったとき、白黒の写真(それも他の写真に埋もれて半分以上、隠れてしまっていた)の中に、愛おしいアンドリューの姿が映っているのに気がついた。写真の中のアンドリューは、まだどことなく周りに馴染んでいないような、作り笑いをしているような、そんな印象を受ける表情をしていた。その彼と目が合い――ただの写真なのに――ドキドキして、自分の顔が赤くなったような気がした。
「お待たせしたわね」
私は目が離せなくなり、ただじっと写真のアンドリューと見つめ合っていた。
「そこのあなた、用事ではなかったの?」
「あ、すみません。はい。聞きたいことがあるんです」
私は自分が呼ばれていたことにやっと気がついた。
「何ですか? 私に分かる事かしら?」
ニコニコしながら受付の女性は言った。
「あの、あそこにあるアルバムの中の写真はもらえないんですか?」
頭ではルイの連絡先の事を考えながら、口からは違う質問が飛び出した。言葉を発した途端、頭から送られた信号が口もとに伝わっていなかったことはすぐに分かったが、時すでに遅し。口もとに手を当てても、言葉はもう既に相手の耳に到達していた。
「何かいいものでも見つけたのね?」
全て見透かされているような口調に、私は一気に恥ずかしくなり下を向いた。
「はい。そうなんです」
私は小さくこたえた。ルイを心配しつつも、アンドリューへの思いが勝ってしまっていた。
「一枚ぐらいならいいわよ。あ、でも、みんなにはナイショね」
「ありがとうございます!」
天にも昇るような笑顔(だったと確信できる)で私は礼を言い、アンドリューの写真を抜き取ると、もう一度受付の前に立った。
「あら、まだ何か?」
「はい、実は……」
私はルイが何の連絡もせず、四日も学校に来ていない事を説明し、心配なので連絡先を教えてもらいたいと頼んだ。
「それは心配ね。でも、規則で個人の情報は教えられないのよ」
予想はしていたが他に頼るところがない。
「もし教えてもらえないのでしたら、事務の方が直接彼のステイ先に連絡を取って、彼が無事かどうか聞く事は出来ないですか?」
私の言葉に受付の女性は少し考えると、
「それなら出来るわね」
と、にっこり笑った。
「良かった。ありがとうございます」
ホッとしてこたえると、彼女は早速連絡先を調べ始めてくれた。
「あなた、お名前は?」
しばらくして、受付の人が戻ってきた。
「カナです」
「カナ、あなたのお友だちのルイだけど、ホームステイ先の方に聞いても、彼らも何も知らないと言うのよ」
まさかそんなこたえが返ってくるとは思ってもみなかった。
「土曜日の朝にバイクで出かけたきり戻っていないんですって」
ルイ……。
私はルイがどこかで事故でも起こして動けなくなっているのではないか、と悪い想像をしてしまい、不安でたまらなくなった。
「カナ、大丈夫? ごめんなさいね。お役に立てなくて」
「いいえ、お時間取らせてしまって、すみませんでした」
微笑んでみたが、明らかに顔は引きつっていた。
「でも、何かあればここへも連絡が入るでしょうし、それが無いという事はきっと大丈夫よ」
「そうですよね」
私はできるだけ明るくこたえ、事務所をあとにした。階段を下りながら大きなため息を吐いた。神様、どうかルイをお守りください、どうかルイが無事でいてくれますように。
空を見上げて祈った。
夕方、心の奥に燻ぶる不安を取り除けないまま寮へ戻ると、部屋のドアは開いたままで知美の姿はなかった。机に荷物を置き上着を脱いだ。
「カナ、お帰り。どう? ルイのこと聞けた?」
背後から知美の大きな声が聞こえた。振り向くと、廊下を隔てた向かいの部屋から知美が顔を覗かせていた。
「知美、何でそんなところにいるの?」
それが私の口から出た開口一番の言葉だった。
私たちの寮は男女共同の寮で、各階、廊下を境に一方が女子部屋、もう一方が男子部屋に分かれていた。十九歳の私には、男女がいつでも容易に行き来することが出来る、このなんとも言えない部屋の配置環境に、最初はとても驚き戸惑った。でも、人間は様々な環境に順応するように出来ているようで、廊下でキスをしているカップルを見ても、ドアを開けっ放しで騒ぎ合っている男女の姿を見ても、日常のごくありふれた出来事と思えるようになっていた。
だが、しとやかで物腰の柔らかい知美が男子部屋から顔を覗かせている姿に、私は正直驚きを隠せなかった。それはまるで彼女が、獲物を狙う狼の潜む山中に迷い込んでしまった一匹の小さな子羊のようにも見える光景だった。小さいころに読んだ絵本の童話に出てくるような悲劇的なシーンを頭の中で思い巡らせながら、私は知美が急いで部屋へ戻ってくるだろうと思って待っていた。でも、そんな私の予想とは裏腹に、知美はにこにこしながら手招きして、こっちへおいでよ、と言う。拍子抜けしてしまうほど幸せそうな表情の知美。彼女の表情に釣られるように、私はドアの戸口まで歩み寄ってみた。
「カナに紹介したいの」
そう言って、知美の視線が一人の男性に向いた。
「彼、マーク。SDSUの学生」
栗毛でカールのかかった短い髪に、笑うと出来るエクボがどこか愛らしい。私が勝手に思い描いていた山中の狼には、似ても似つかない優しさを感じる笑顔だった。
「ハイ、マーク。知美のルームメイトのカナです。よろしく」
「やあ、カナ。目の前に住んでいるのに初めて会うね。よろしく」
マークはベッドにくつろいだまま、軽く手を上げて挨拶をすると、
「ルームメイトはまだ帰って来ないし、君もここに来て座れば?」
と、気さくに私も招いてくれた。私のすぐ横に立っていた知美は彼の言葉に嬉しそうに反応して、私の腕をつかむと、そうしなよ、ルイのことも聞きたいし、と引きとめようとする。もちろん、それも素直な知美の反応だということは分かったが、彼女のマークを見つめる目を見て、私は知美の片思いの相手が彼だと悟った。本音は二人でいたいはずに違いない。私は宿題があるからと言ってあえて断った。
「また今度ね、マーク」
一瞬、不服そうにも見える知美を尻目に、マークに手を振ると、私は部屋へと戻った。
でも、部屋へ戻って机に向かってみても出るのはため息ばかりで、問題集や教科書を開いてみてもてんでやる気が起きない。事務所でのやり取りが頭から放れなず、ルイが心配で勉強どころではなかった。
「ただいまあ」
しばらくして知美が戻ってきた。
「お帰り。楽しかった?」
私はやっとやり始めた宿題の手をとめて頭をもたげた。
「うん、とっても」
知美は嬉しそうな笑顔で言う。さっきの不服そうな彼女の表情を思い出し、私は心の中でフフッと微笑した。
「初めてあんなに長く話しちゃった」
知美はベッドに座ると、天井をあおいだ。嬉しい事や楽しい事があったとき、人はしばらくその余韻に浸っていたいものだ。私がアンドリューと楽しいひとときを過したときも、彼の表情や仕草の全て、彼の言った一言一句を心に刻んでおきたくて、一人、その余韻に浸っていた。知美もきっとそうしているのだろう。私は何も言わず、黙って宿題に目を落とした。
「この前、私が片思いしているって言ったの、覚えている?」
少し経って知美が不意に口を開いた。
「もちろん、覚えているよ。突然の告白だったもんね」
私は知美の目を見てこたえた。
「マークがその片思いの相手なんだ」
そうなんだ。私はうなずき、
「いつぐらいから好きだったの?」
と訊くと、知美ははにかみながら、廊下やエレベーターでよく一緒になり、目が合うと必ずマークから挨拶をしてくれたの、と楽しそうに話してくれた。
「なんか感じのいい人だなあって思っていたんだけど、いつだったか、大学の図書館へ行こうとして、途中で道が分からなくて困っていたときがあってね」
足をぶらぶらと動かしながら、くすっと思い出し笑いをしては目を閉じる知美。
「そのときたまたまマークが通りかかって、一緒に図書館まで連れて行ってくれたの。あのときからかなあ。意識するようになっちゃって」
そう言って私を見つめると、頬を赤らめて微笑んだ。
「それで今日、ドアが開いていたから思い切って自分から挨拶したの。そうしたら部屋に入れてくれたんだ」
本当に嬉しそうに知美は打ち明ける。
「そういうのって、ものすごく嬉しいよね」
好きな人の部屋へ行けるというのは、互いの中にあった壁を一つ越え、距離が少し近くなったような気持ちになり、とても嬉しくなる。私も初めてアンドリューの部屋へ行ったときのことを思い出し、そのときの感情が蘇えった。
「うん、ホントに嬉しかった。でも、マークはそんなこと、何とも思ってないんだろうけど」
「そんなの分からないよ。それに、これからもっと二人の距離が縮まるかもしれないじゃない」
三月に帰国する私たちには期限つきのような恋愛。たとえ二人の距離が縮まっても、先のことを考えると残酷にも思える。それでも私の言葉に知美はひとすじの希望の光を見たような響きで、ホントにそう思う、と言って目を輝かせた。
「だって本気なんでしょ?」
「うん。本気」
私の問いかけに、知美は深々とうなずいてこたえた。
「カナは? アンドリューのこと本気?」
二人とも帰国の話題には触れようとしない。
「うん。どうしようもなく好きで、苦しくて、おかしくなってしまうぐらい本気」
私はわざと大袈裟にこたえて知美を笑わせた。少しして二人の間に沈黙ができると、知美は深呼吸ともため息ともとれる息を吐き、
「好きになればなるほど、苦しみも辛さも増えるのにね。なのに何で人って誰かを好きになっちゃうんだろう」
としんみりとつぶやいた。
「でもさ」
私は言って、うろ覚えの言葉を口にした。
「It’s better to love than never to love at all」
「誰かを愛する方が誰も愛さないでいるよりはるかに勝る」
知美はそれを日本語で復唱する。そして、
「本当にその通りだね」
とつくづくと言った。
金曜日、いつものように寮を出て、いつものようにモンテズマ通りの信号を渡り、いつものようにALIへ向かって私は歩いていた。校舎のある路を右に曲がると、何人もの人が一箇所に集まり、楽しそうに笑っている光景が目に入った。その中に見馴れた黒い革のがっしりとしたジャケットを羽織り、壁にもたれて笑っているルイの姿があった。
「ルイ!」
ルイの無事な姿を見るやいなや嬉しくなり、私は走り出して彼の名を叫んでいた。声に気づいたルイは私の方に目をやると、手を振って笑った。
「ハイ、カナ! 元気だった?」
あまりにも単純であまりにも陽気なルイ。ルイの悪びれない軽すぎる態度に心配していた私はだんだんと腹が立ってきた。
「元気だったじゃないでしょ! 心配していたのに! 土曜日は待っていても来なかったし、学校もずっと休みだし、事務所の人に頼んでステイ先に連絡をとってもらっても、誰もあなたの行き先は分からないって言うし、何かあったんじゃないかと思って、私、本当に心配していたのよ! それなのに元気だったはないでしょう!」
水風船が突然破れて一気に水が噴き出したように、私は思っていたことを一度に全部吐き出した。私の声は怒りに震え、同時にルイの無事な姿に安堵して、瞳は涙で潤んだ。
「ごめん、カナ。まさかそんなに心配させているとは思わなかったよ」
もたれていた体を壁から離し、きちんと立つとルイは真顔で言った。
「本当にごめん」
彼のその姿を見て、私の怒りはすでにどこかへ消失してしまっていたのに、責める言葉しかみつからない。
「だって、ルイの誕生日に一緒にツーリングに行こうって言っていたじゃない。それなのにちっとも顔を見せないで、誕生日おめでとうも言えなくて……。一体どうしていたの?」
ルイは苦笑しながら左手でさっと髪をかき上げると、実は、英会話を教えてもらっているアメリカ人の女性とツーリングに行って来たんだ、とこたえた。その言葉にただのツーリングだけではなかったことがくみ取れた。おどけたりふざけたりしているときとは違い、目の前のルイが急に大人びて見え、妙な距離を感じた。以前にも増して英語が上達していた理由もようやく分かった。愛があれば言葉の壁など問題ではないと言うけれど、愛があるからこそ言葉も自然と覚えられるものなんだ。私の顔にゆっくりと笑みがひろがった。
「そっか。彼女が出来たのね。よかったじゃない」
私は心からルイを祝した。それじゃあ今が一番楽しいときよね。連絡ないのも仕方ないか。ルイの顔をのぞきこんでにっこり笑った。すると、ルイは、本当はカナとツーリングに行きたかったんだ、と憮然として言い、眉間に小さなしわを寄せると目をそらした。
「だけど、自分なりに色々と整理をしないといけないことがあってね……」
しばらく沈黙が続いたあと、ルイはもう一度、ごめん、と、すまなそうに謝った。下を向いたままのルイ。先ほどまで息巻いていた自分の態度を私はたちまち後悔した。
「いいのよ。私こそ言い過ぎちゃって……。ごめんなさい」
私の言葉に、いや、カナは悪くないよ、と、ルイは頭をもたげた。再び同じ沈黙が続く。
「それでルイの整理はすんだの?」
「したつもりだったけど、やっぱりちょっと難しそうだな」
どこか寂しげにも見える表情を浮かべたルイは壁にもたれてこたえた。いつまでも笑顔を見せないルイ。空気が重く感じた。
「でも、ルイが無事でほんとうに、ほんとうーに良かった」
ルイの両手をいきなり握り締めて上下に何度も揺すりながら、私は明るい口調で言った。暗く重たい空気を追いやりたかった。私のその行動に、ルイの顔にもようやく笑みがこぼれ落ちた。メルシー、カナ。私たちはしばし笑顔で見つめ合った。それから私はいつでも渡せるように持っていたプレゼント――合金でできたバイク型のキーチェーン――を鞄から出すとルイに渡した。一瞬、これ何? と、驚いたが、あなたの誕生日プレゼントよ、と告げると、すぐに目を輝かせ、今、開けてもいい? と言って、顔中いっぱいに笑みをつくると、いつもの無邪気なルイが現れた。
「Wow! すごく気に入ったよ!」
まじまじとそのキーチェーンを眺めたあと、ルイはジャケットのポケットから鍵を取り出し、すぐにそれをつけた。メルシー、カナ。ルイは嬉しそうにそう言って私を抱きしめると左右の頬に何度もキスをした。私は自分の心配や不安が取り越し苦労で終わり、いつもの元気なルイが目の前に戻って来てくれたことに感謝しながら、ルイの「フレンチ式あいさつ」を素直に受けていた。
ルイが無事で本当に良かった。
昼休み、私と同じクラスの智也が校舎の前でルイとふざけ合っていた。
智也は一九八五年二月、私より一年ほど早くアメリカの地に降り立ち、サン・ディエゴのダウンタウンにある、ELSという英語学校へ通い、そのあとALIへ転入した。身振り手振りや対応の仕方も普通の日本人よりもくだけていて、ここでの一年間という生活の成果が見て取れる。冗談を言って人を笑わすのが上手で外人慣れしている智也は、私が英語で話しかけても(知美同様)嫌な顔一つせず、とても話しやすい友人の一人だ。
「カナ! ちょっと来いよ」
昼食を大学のカフェテリアで済ませて戻って来た私を見ると、智也が呼び止めた。
「やあ、カナ。朝はありがとう」
智也の横にいたルイはそう言うと、鍵のついたキーチェーンをチャラチャラと振って見せる。
「なんかとっても楽しそうに見えたけど、何かあったの?」
ニコニコしている二人の輪に私も加わった。
「実はさ、今夜俺のとこでパーティやるんだけど、お前も来ない?」
「パーティ?」
「ああ。今回はELSがらみのパーティだけど、せっかくだからさ、ルイの生還もかねて、ルイとお前とあと何人かALIからも呼んでさ」
智也の「生還」という言葉に私はおかしくなり笑った。
「何笑ってんだよ」
智也は私の肩を軽く突いた。
「だって生還だなんて。なんか戦場とか危険なところから帰って来たみたいでおかしいよ」
私は言ってまた笑い出す。
「そうだよ。生きているか死んでいるか分からなくて心配していたんだから、俺らにとっては、ルイは生還したってことだよ」
智也はこたえて、
「な、ルイ。ホント無事でよかったな」
と、ルイの肩をドンと叩いてげらげらと笑った。
「もう、言わないでくれよ。みんなに心配かけて本当に悪いと思っているんだからさ」
ルイは言うと、首をすくめて苦笑した。
寮へ戻ると私はすぐさまアンドリューに連絡を入れ、ルイが無事に戻った事を伝えた。
「そうか。ツーリングに出かけていたんだ。でも、何もなくてホントに良かったね」
「ええ、本当に。ホストファミリーの人たちも消息を知らないと事務の人に言われたときは、悪い想像しちゃってものすごく心配だったもの」
私の顔にゆっくりと笑みがこぼれる。
「で、何も言わずに出かけてしまった理由は訊いたのかい?」
ええ。私は電話口で軽くうなずき、ルイなりに整理をしなければいけない事があったからだったとこたえた。短い沈黙のあと、アンドリューは、そうか。悩んだ末の結論か、と静かにつぶやいた。
「どういうこと?」
「ルイも分別のある男だって事だよ」
まあ女でないことは確かね。私の真面目な相づちに、アンドリューはふき出して笑いだした。
「何がおかしいの? ホントのことじゃない」
「ああ、カナの言う通り。ルイは全く男だ」
小馬鹿にしたようなアンドリューの言い方。私は口をとがらせて、理解出来ないからってばかにして、と怒った。
「その怒った声のトーンもなかなか素敵だよ、カナ。うん。すごくいいよ」
でも、私が本気で怒っていない事はアンドリューには最初からお見通しだった。
「もう、いいわよ。どうせ私には理解できないんだから」
受話器の向こうから響くアンドリューの笑い声。私もつられて笑いだした。
「そうそう、今夜パーティがあるの」
たっぷり十秒は笑い合ったあと、私はアンドリューを智也のパーティに誘った。でも、来週から始まるテストに備えて勉強をしなければいけないとアンドリューは残念そうに断った。
「そう。じゃあ週末も会えないね」
パーティに行かれないという事より、しばらく会えないという事に寂しさを覚えた。
「それは大丈夫。ちゃんと会えるさ」
私の落ち込みを吹き飛ばすようなアンドリューの明るい声。
「本当に?」
「ああ、本当だよ。その代わり、今夜は勉強に集中するよ」
それに、とアンドリューは続け、
「今日はルイの生還祝いも兼ねているんだろ?」
と確かめるように訊いた。
「ええ。生還祝いなんてちょっと大げさなんだけど」
笑ってこたえると、それならなおさら僕が行かない方がルイも喜ぶよ、とアンドリューが言った。
「あら、どうして? ルイもきっと歓迎してくれるはずよ」
受話器の向こうからアンドリューの小さな笑い声がこぼれる。
「そうかもしれないね。でも、とにかく今日は遠慮しておくよ」
「あ、そうよね。勉強しないと週末会えなくなっちゃうものね」
ああその通りさ。アンドリューは弾むようにこたえた。そして、
「ルイに会ったら、ありがとうって伝えてくれるかな?」
と、つけたした。
「ありがとう?」
私の反応にアンドリューはくすくす笑い、そう伝えてくれれば彼にはきっと分るよ、と言うと、カナは全く素敵だよ、と、更に私を理解不能にする一言を発した。
パーティは七時から始まることになっていた。私は智也の友人、昇の車に便乗してダウンタウンのはずれに建つ智也のマンションへ向かった。今でこそダウンタウンといったら「セレブな町」という代名詞がつくほど素晴らしい町へと変貌しているが、当時の治安はあまり良くなく、特に夜になると昼間の色とはガラッと一変し、不気味ささえも感じる暗いイメージの町だった。そんな町の外れに建つ十二階建ての五階に智也の借りている部屋はあった。部屋へ入ると、ルイはもうすでに到着していて、ダニーやスーザンたちの顔も見えた。私はALIメンバーに手を振り、ホストである智也を探した。だが、リビングにも開けっ放しになっているベッドルームにも智也の姿は見えない。私は最後にキッチンを覗いた。
「あら、カナさんじゃない」
一瞬、息を呑んだ。
「幸恵さん。こんばんは」
私の発した言葉がどこかぎこちなく聞こえる。
「あれ、お前たち、知り合いなの?」
智也はびっくりして言った。
「ええ、そうなの。前にカモンで集まったとき、友だちが彼女を連れてきて、それからの知り合いなのよ、ね?」
幸恵さんはこたえると、ニッコリ微笑んだ。あまりにも違う応対に私は困惑した。
「へえ、ELSの幸恵がALIのカナの知り合いなんて、世の中狭いねぇ」
「あら、私だってELSのあと、智也と同じでALIにも少しいたのよ」
幸恵さんは言ってグラスに飲み物を注ぐと、
「一年前にね」
と、私を見た。
「カナさん、この前はごめんなさいね。私、あなたにかなりきつい事を言ってしまって」
智也がいなくなったキッチンで、不意に幸恵さんがすまなそうに私に言った。
「本当に反省しているのよ。私のこと、許してくれる?」
想像もしていなかった幸恵さんからの謝罪の言葉。私はまるで狐につままれたような気持ちになった。
「いえ、私の方こそ幸恵さんに不愉快な思いをさせるような事を言ってしまって、本当にすみませんでした」
「そんな、気にしないで。ね、これからは仲良くしましょう」
幸恵さんは言い、私に軽くハグをした。予想外の展開に私はただその場に立ち尽くしているだけだった。
「あら? そういえば今日はアンドリューと一緒じゃないのね」
辺りを見渡すと、幸恵さんは言った。
「あ、はい。来週テストがあるので今日は家で勉強です」
「そう。家にいるんだ。来ていれば彼にも謝りたかったのに」
じゃあ、先に行くわね。幸恵さんは微笑み、リビングへ戻って行った。彼女の姿を目で追いながら、私は正直半信半疑だった。同時にこれからは仲良くなれるかもしれないという期待で胸が軽くなった。
「カナ! こっちよ」
リビングへ戻ると、スーザンが手を振っていた。近づくと、カナのために特等席をとっておいたよ、と、ルイは体を横にずらし、一人分の隙間を空けた。
「ええーっ、ルイの隣が特等席?」
冗談めいて言った私に、
「何か問題でも? マドモアゼル?」
とルイはにやけて言い返し、髪をかき上げてポーズをとった。今日のルイはいつも以上にノリがいい。きっと新しく出来た彼女のせいだ。愛は人を幸せにさせる。
「いえ、いえ、メルシー、ムッシュー」
ルイのおかしなポーズに笑いを堪えて言い、私は腰を下ろした。
「あっ、そういえば、アンドリューがあなたにありがとうって」
グラスをテーブルに置くと、私はアンドリューの言葉をルイに伝えた。
「アンドリュー?」
「ええ。スイス人の……」
私の言葉をさえぎるように、
「ああ、カナの彼氏でしょ」
と、ルイはあっさりその先を言い当てた。そうだけど、どうして彼氏って知っているのかしら。まだ紹介すらしていないのに。沈黙のままルイを見た。
「で、その彼がどうして僕にお礼を?」
素っ気なくとも聞こえるルイの言葉。私は事の経緯――ルイと連絡が取れず心配でそのことをアンドリューに話し、彼もずっと心配してくれていた――を淡々と話した。
「それで?」
「それで、あなたには色々と整理をすることがあったから、私に連絡することが出来なかったという事も話したわ。そうしたら、あなたにありがとうって伝えてほしいって」
私が言い終わると、ルイはソファーに深くもたれて目をとじた。
「ありがとう……か」
「そう言えばあなたにはきっと分かるってアンドリューは言ったんだけど」
ルイはゆっくりと目を開き、天井を見つめたまま、
「カナの彼氏はいい人だね」
と、微かに苦笑した。
「ルイ?」
私はルイをのぞきこんだ。ルイはゆっくり私を見つめ返すと急に真顔になった。そして、私の肩に腕を回して引き寄せると、でも、と言って、
「その整理したものが目の前にあると、崩れてしまいそうだよ」
と耳元で小さくつぶやいた。その瞬間、最後のヒントを得てようやく言葉が埋められたクロスワードパズルのように、私の頭の中には「ルイはカナが好き」、ととんでもない言葉が組み合わさった。
まさか。そんなことないよ。そんなことあるはずがない。だってルイは友だちだし、それに彼女だっているじゃない。思い違いよ、絶対。自分の自惚れた思いを頭からたたき出すように、私は何度も心の中で繰り返し言い続けた。
その光景を見ていた人がいた。
視線を感じて目を向けると、幸恵さんの冷たい目が鋭く光っていた。
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