出会い
フランス人 ルイ
ALIには様々な国から英語を学びに来ている人たちがいた。コースも一週間から六ヶ月コースと多種多様に揃っていたので、中には旅行の思い出作りに、四、五日間だけクラスを取っているの、と、アルゼンチンから来ていた五十代半ばの夫婦もいた。一人ひとりの英語のレベルは別として、言葉を発する度に互いの母国語の語調や音韻が反映されてしまうせいか、英語で話しているはずなのに英語として聞き取れないことも多々あった。
「タラン、タラン、カナ」
授業中に後ろから話しかけてくるアラブ人のモハメッド。
「タラン、カナ。 ブリーズ」
何が足らんの? 何がブリーズなの? 全く変な事言って。
私は誰かが変な日本語でも教えたのだろうと気にもせず、問題集に目を落としていた。
「カナ、カナ、ブリーズ!」
何の反応も見せない私にモハメッドはついに私の腕をつかみ、体を後ろへ回そうする。
もう何だっていうの、授業中なのに。仕方なく私は後ろを振り向いた。するとモハメッドは、やっと振り向いてくれたか、というようなホッとした表情で「Good」と言うと、問題集の分からないところを教えてほしいと頼んできた。
あはは、今の英語だったんだ。
そんな母国語なまりの英語を通して意志の疎通をはかろうとしているのだから、文法やリスニングが多少(いや、かなり)おかしいのは自明の理。それでも、不思議と相手が何を言わんとしているのかがその場の雰囲気や表情で理解でき、最後まで会話が終わっていなくても、笑って「そうそう」と納得してしまう。毎日が面白い発見の連続だった。
そんな生徒たちの中に、日本人から一際注目されている人がいた。その人はフランスから来ていた二十三歳のルイ。いつも笑顔を絶やさず、誰とでも気さくに話す彼の態度に誰もが好感を持ち、彼の周りには男女を問わず、いつもたくさんの友人が集まっていた。ルイの話す英語は聞いているとフランス語独特の、あの鼻に抜ける感じの、なんとも言えない情緒的で美しい音韻を持っていた。今のは英語? それともフランス語? と困惑してしまう程、とにかくその響きがとても心地良いものだった。体型も目鼻立ちも全て完璧なまでに整っているルイ。私たち日本人の間で、そんな彼の呼び名は別名「神様」だった。
私のクラスより二つ下のクラスにいたルイとは学校ではこれといって接点はなかったが、私のルームメイトの知美と彼が同じクラスだった事もあり、学校が終わるとよく私たちの部屋へ宿題をしに来ていた。
コン、コン、コン、といつものようにドアをノックしては顔を覗かせるルイ。
「ハロー、カナ。元気?」
「ハイ、ルイ。いらっしゃい」
黒い革のがっしりとしたジャケットにジーンズ姿がよく似合う。
「知美はまだだけど、たぶんもうすぐ戻ってくると思うよ」
「OK」
綺麗にベッドメイキングされた知美のベッドの上にジャケットを羽織ったままルイは座ると、何も言わずに私を見る。
「あれ? 今日は宿題ないの?」
いつも持っている問題集が見当たらない。
「ノン」
「そう」
微妙な間の沈黙。ルイはただニコニコしながら何を言うでもなく私を見ている。会話につまった私はさりげなくルイから目をそらすと、テーブルの上に置いてあったお菓子――母が日本から送ってくれた――を取り、ルイに差し出した。
「これ、日本のお菓子。お母さんが送ってくれたの。食べてみる?」
日本のお菓子は初めて食べるよ、美味しいね、と言いながら知美のいないベッドの上に座ったままのルイ。十分、十五分が過ぎた。さっきと同じ間が出来る。
「じゃあ、またね」
「えっ? 知美を待たなくてもいいの?」
「いいんだ。じゃあね」
ルイはジャケットの袖をまくり、時間を見てそう言うと、おもむろに部屋を出て行った。
毎日のように通い続けるルイの行動に私は最初、ルイはよっぽど知美を好きなのだろうと思った。女の私から見ても知美は線が細くしとやかで美しい。それに加えて愛嬌もあり話しやすい。私が英語で受けこたえしても嫌な顔一つせず、英語で返事をしてくれる優しい知美。そんな知美に好意を抱いても不思議ではない。でも、その知美がいないと分かっても部屋を訪れてはしばらくすると帰って行くルイ。そんなルイの不可解な行動に、多少疑問は感じたが、取りとめのない会話をしては宿題をかたづけたり、日本にいる友人たちへ手紙を書いたりして私はその場をやり過ごしていた。そのあいだ、時折できる「微妙な間の沈黙」も、いつの間にか気にならなくなり、むしろそれを心地よく感じながら静かな時の流れを楽しんでいた。そんなルイの奇妙な訪問が一週間以上続いたある日、糸が切れた凧のようにルイは突然現れなくなった。そして、そんなルイの奇妙な行動の理由が分かったのは随分あとになってからの事だった。
アンドリューとの劇的な再会を果たした翌日の日曜日、朝からとても良い天気に恵まれていた。
「今日は朝からいい天気だね。気分も浮かれちゃうなぁ」
知美は大きく背伸びをすると、化粧を始めた。
「今日ね、貴美子たちとスワップミートへ行くんだけど、カナも一緒に行かない?」
「スワップミートってここからかなり遠いんじゃない? 確かスィートウォーターロードの通りだったっけ?」
ホームステイをしていたとき、一度だけみんなで連れて行ってもらった事がある。
「うん。少し遠いのよね。でも、バスで行けるって言うし、それなら行ってみようって事になって。途中で乗り換えしなくちゃいけないんだけど、それもおもしろそうじゃない?」
「ホント。日本と違ってなんかスリル感じるね」
私は言って窓を開けた。気持ちのよい冷たい空気が頬にあたる。
スワップミートは毎週土・日に行われる、言わばフリーマーケット。フリーマーケットといっても業者も多く出店するので良質な品がかなりのお値打ち価格で販売され、毎週多くの人たちで賑わいをみせるマーケットだ。マーケットの広さも相当なもので、ゆっくり見ていては見終わらない。
そのフリーマーケットに知美が一緒に行こうと誘ってくれた。普通なら、これも経験、と快く受けただろう。でも、前日、アンドリューに電話をする約束をしていた私の頭の中は朝からその事しか考えられず、正直スワップミートどころではなかった。
「そっか、スワップミートか。行きたかったな」
少し肌寒くなった私は窓を閉めた。
「行けないの? 何か用事でもあるの?」
アイシャドーを塗っていた手をとめ、知美が振り向いた。
「うん、ちょっとかたづけないといけない用があって、どうしてもここにいなくちゃいけないんだ」
かたづけないといけない? なんだかやりたくない用事を仕方なくやるような響き。嬉しい用事なのにそんな言い方をしたりして。ちょっと後ろめたさを感じた。
「そっか。それじゃあカナの分まで私がショッピングしてきてあげるわ」
「それは、それは、ありがとうございます」
準備は出来たのお? ドア越しに貴美子の声が聞こえる。
「じゃあ行ってくるね」
「あ、下まで見送るよ」
アンドリューの番号が書いてある手帳と財布を持つと、私は知美たちとエレベーターに乗り込んだ。
みんなを見送ったあと、リクリエーションルーム脇の公衆電話のところへ行き、そこにある長椅子に私は一人、腰を下ろした。あとは受話器を取ってアンドリューに書いてもらった番号にかけるだけ。そうすればあの暖かい声をまた聞く事が出来る。でも、緊張のせいか、なかなか受話器を取る事が出来ずにいた。緊張というよりは、あまりに嬉しい事が自分の身に起ったのでそれを素直に受け入れられず、アンドリューの態度は単なる建前だったのではないか、ひょっとしたら昨日の事は全て夢で、電話なんかしたら逆に迷惑がられてしまうのではないか、と疑心暗鬼になっていたのかもしれない。私はなかなか行動に移せず、しばらく座っていることしか出来なかった。天井が高いなあ。ここは日が当たって暖かいなあ。そんなどうでもいい事ばかりを考えていた。すると、誰かの視線を感じた。入り口の方に目をやると、顔を出してこちらの様子をうかがっているルイがいた。目と目が合うとルイは軽く微笑み、私の隣に座った。
「やあカナ、ここで何をやっているの? 今日は一人?」
ルイはまっすぐに私を見つめると微笑んで言った。あまりに完璧に整ったルイの顔立ちに私はドキッとしてしまい、思わず目をそらした。
「今日、知美はスワップミートへ行っていて、部屋にはいないよ」
私は言って振り向くと、
「いいんだ。カナに会いに来たんだ」
と、直球でこたえが返ってきた。私はどう受け答えしてよいか戸惑ってしまった。でも、そんな私の態度を悟られまいと、とりあえずその場を取り繕うかのようにつとめて自然に振舞った。
「それはどうもありがとう。で、どう? ルイは元気?」
「バッチリだよ。メルシー」
満面の笑みを浮かべてルイはこたえる。
「カナは?」
「とっても元気よ。メルシー」
私の「メルシー」にルイはすかさず反応した。
「違うよ。こうだよ、カナ。メルシー」
鼻で息を抜きながら、喉の奥の方で「R」の音を出している……ように聞こえる。真似してみるがなかなかその音がでない。
「Mer-ci?」
「Me-r-ci」
「Me-rci?」
「違う、違う。『Me-r-ci』だよ」
「ああっ、もう駄目。降参するわ」
両手を上げた私を見て、ルイはくすくすと笑った。
それから私たちは互いのアメリカへ来た理由を話し始めた。
ルイは前からずっとアメリカへ来てみたくて独学で英語を勉強した事、アメリカへ来たらツーリングをして色んな州を回ってみたいと思っていて、だからサン・ディエゴへ来たときに真っ先にバイクを買い、通学もそのバイクが大いに役立っている事、そして、十二歳年の離れた弟が一人いて、両親は随分前に離婚をし、それからはお母さんとおばあちゃん、弟の四人で一緒にパリで暮らしている事などを、あの響きのよいフランス語なまりの英語で淡々と話してくれた。
私は父方の曾祖母の育ての父親がイギリス人であった事、母方の曽祖父はサン・フランシスコで約五十年間ストロベリー農場を経営し、その後、戦争で全てを没収され、終戦後、日本へ帰国した事、その曽祖父の息子、つまり母の父親は結婚してパラオ島へ渡り、母はそこで生まれ、戦争が始まる四歳までその島で住んでいた事、(そんな家族の中で育った私のDNAの中には英語を話して暮らす事が、ごく当たり前のように組み込まれていたからなのか)小さいころからアメリカへ行きたいという思いが強くあり、英語で色々な国の人たちと交流をとりたかったからこの留学を決めた事などを話した。そんな会話に花が咲いている中、一番衝撃的だったのはルイの話してくれた、フランスでは愛情表現にどれだけ「セックス」が重要視されているかという事だった(あくまでもルイの意見であって、真のほどは定かではないが)。二十四時間の内、互いに求め合い愛し合う時間はその内のごくわずかな時間だけにも関わらず、精神的な愛情よりも、いかに上手に相手をベッドで愛せるか、それが一番大切なんだ、とルイは言った。そのため、フランスではかなり若い年齢でバージンを失う者が多く、当のルイは十二歳のとき、十歳年上の女性と初めて経験を持ったと話してくれた。
「十二歳? ルイは十二歳で初体験をしたの?」
十二歳なんてまだ子供じゃない。
「うん、そうだよ。フランスではそんなに驚くことでもないよ。日本ではどうなの? カナはまだなの?」
「他の人たちのことなんて分からないけど、もちろん、私はまだよ」
まだまだ精神的にも子供な私が日本のセックス事情など知るよしもない。考えることすらしたこともなかった。
「どうして? カナはしてみたくないの?」
メイクラブ(セックスより愛し合うという意味を大切にしたこの表現を私はあえて使いたい)というものを、とても神聖なものとして捉えていたそのころの私には、上手になるために色々な人たちと付き合い、その度に体の関係を持ち、そして、その時間がその人と過す上で一番大切だ、というルイの理論を理解する事が出来なかった。
「結婚するときまで待ちたいもの」
「じゃあ、ボーイフレンドは? ボーイフレンドとは寝たくないの?」
私の言葉にびっくりした様子でルイは言った。
「だってそれって『メイクラブ』じゃなくてただの『セックス』じゃない。私そんなの嫌だもの」
眉毛を上げて、当たり前の行為なのになぜ、とかなり驚いたような表情をするルイ。「大和なでしこ」のような女性に憧れ、まだまだ人を愛する経験の浅かった私には、ルイの言う「その度に体の関係を持つ」という行為がメイクラブではなく、ただの性欲を満たすだけのセックスにしか思えなかった。
「それじゃあカナはプラトニックラブの方が大切だと思うの?」
私は、そう、と、うなずき、
「だって本当に誰かを愛しているなら、他の事は関係ないじゃない」
とこたえた。私は、一緒にいて幸福感を得られる心の触れ合い、精神的な愛である「プラトニックラブ」こそが一番大切だと思っていた。そのときはそう信じていた。
「それも大切だけど、でも、セックスはもっと大切だよ」
「どうして?」
理解出来ない自分に苛立ちすら感じる。
「私には理解出来ないわ」
「だってベッドの中でならその人の事を本当に知ることが出来るじゃないか」
本当に知るって? やはり私には分からない。
「カナもいつかそう思えるときが来るよ」
ルイは笑いながら言った。私は二人の意見がどこまでいっても混ざり合うことのない、水と油のように思えた。
「十人十色」、このときこの意味を身に沁みて納得出来た。
ルイはそのあとも色々な話しをしてくれた。旅行が好きな事。田舎が好きな事。パリでは毎朝、近所のパン屋で焼きたてのクロワッサンを買って食べる事。でも、時折ルイは、
「もっと上手に英語が話せたら、僕の思いをもっとちゃんとカナに伝えられるのにな」
と申し訳なさそうに言う。私も同じであった。日本の短大では英語を専攻し、クラスの中ではトップにいた私でさえ、いざアメリカへ来てみたら思うようにしゃべれず、思いを伝える事すら容易な事ではないとつくづく実感させられてしまった。単語力のなさ、表現力のなさ、そして、英語を間違ってもいいからとにかく話そうという度胸のなさ。日本にいたときの十分の一の力も出せていないのではないか、と落ち込んでしまうことも多々あり、ルイの気持ちは痛いほどよく理解出来た。
「いいのよ、ルイ。あなたの気持ち良く分かるわ。だって私も同じだもの」
ルイはそんな私の一言が嬉しかったのか、屈託のない笑顔で言った。
「メルシー、カナ」
私の発音出来なかった「メルシー」をわざと強調して。
「ルイの意地悪」
冗談っぽく口をとがらせ、私はくすっと笑った。でも、ルイの「メルシー」はとても綺麗な響きだった。
リクリエーションルームでビリヤードをしていた寮生たちがゲームを終え、私たちの横を通ってロビーの方へと歩いて行った。その姿を見ながら私は、もうそろそろお昼の時間なのかしら、遅くなる前に電話をしなくちゃ、とそんな事を考えていた。
「カナ、これからバイクでどこかへ行かない? ビーチに行ってお昼でも食べようよ。それか映画っていうのもいいよね。どう?」
突然ルイが言った。
「ああごめんね、今日はちょっと無理なの。私これから友だちに電話をかけるのよ」
そう。早くかけないとアンドリューはきっと待ってくれているはずだ。
「僕の知っている人?」
「さあ、それは分からないけど」
私がこたえると、ルイは少し考えて、
「ひょっとしてダニーの家でカナが一緒にいた人?」
と何かを思い出したように言った。どの人のこと? 私は首をかしげてルイを見た。
「スイス人の彼だよ」
「えっ、どうして分かったの? ルイは彼の友だちなの?」
ルイの口から出た「スイス人」という言葉に反応して、私の顔はほころんだ。
「違うよ。でも、分かるさ」
「どうして?」
私の問いかけにルイは小さく苦笑して、
「どうしてもさ」
と言い、ゆっくりと席を立った。
「もう帰るの?」
「うん、帰るよ」
私に背を向けたままルイは歩きだした。
「今日は色々と話せて本当に楽しかった。ありがとう、ルイ」
「じゃあまた明日、学校で」
一瞬私の方を振り向き、口だけに笑みをつくるとルイは帰って行った。私はルイの後ろ姿をドア越しに見送りながら、彼の誘いを無下に断ってしまった事を少し申し訳なく思い、明日、学校で会ったら今度バイクに乗せてもらうように頼んでみよう、と心の中で思った。
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