第3話 羅生門
第三章 羅生門
〈1〉
ウロボロスマーケティングはバレンシア朱雀にあるウロボロスエンターテイメントの本社ビルの中に事務所を構えている。
社長のロゼッタ・ヴァネッリ率いるマーケティングはエンタ社長カン・へウォンの子飼いでエンタ本社内に事務所がある事から分かるように、現在のウロボロスエンターテイメントの稼ぎ頭となっている。
『うちの団体の権利というか……私の立場はどうなるんだ?』
「契約書にある通り社長という事になります。ウロボロスエンターテイメント傘下企業という事にはなりますが」
企画3課のソ・ミニョンはサイクロンの社長ジェーンとオンラインで交渉を進めている。
ロビンにサイクロンでプロレスをさせるという企画を進めてきたのはミニョンだ。
ロビンの性自認を考慮、業界内での評判、実際のスキルなど可能な限りのデータを集め、
へウォンを納得させるだけの企画を作り上げたのだ。
『サイクロンは私が立ち上げた会社なんだ。確かに資金は拠出金に頼ってたけど』
ジェーンはハンサムといっても良い顔立ちの女性人気の高いレスラーだ。
キャリアもあり元々堂々としていたのだが、長年の貧乏暮らしで気が弱くなっているらしい。
「金額の交渉には応じません。二千万で不服であれば拠出金を出した役員と直接交渉します」
ミニョンが言うと画面の向こうのジェーンがグロッキー寸前の表情を見せる。
ウロボロスが買収してからの方が経営も生活も良くなるのだからもっと景気の良い顔をして欲しいものだ。
『十分な額だってのは分かってるんだ。でも愛着があって』
「社長さんは皆さんそう仰います。ですが従業員の皆さんは我々による買収を好意的に受け取っているのではありませんか?」
残酷な言葉である事は理解している。だが、サイクロンも新たな門下生を迎える余裕もないまま自然消滅的に解散する事は避けたいはずだ。
企業の再生とは経営者を甘やかす事ではない。経営者に痛みを強い、企業の利益を最大化する事にこそが経営改善の要だとミニョンは考えている。
『サインは直接会ってからでいいんだよな』
「考える時間も必要であると考えます。お互いに」
別の団体を買収しても良いのだと言外に臭わせる。
実際ある程度の規模と経営力のある候補が他にない訳ではないのだが、最大の目的である華麗な技術の持ち主となると意外な事にこの弱小団体に人材が集中しているのだ。
――まぁ脳筋に違いはないんだろうけど――
『分かったよ。うちの連中からは文句は出ないと思うし』
「それでは調印の日にお会いしましょう」
ミニョンは通信を切る。完璧だ。
サイクロンを買収、経営陣を送り込んで経営を改善しつつロビンにトレーニングをつけさせる。
最悪ロビンが技能を会得しさえすればいいのだがそこまで教えてやるほどお人よしではない。
――それでも事業の予算規模は二億ヘル――
まずはレスラーたちの宿舎を用意し、ジムとリングを確保する。
レスラーたちの意識を変えるトレーナーも送り込み、スポーツメーカーとタイアップさせる。
スポンサーをつけ収益を黒字化する所まで行くのがプロジェクトの目的だ。
ミニョンは契約書を作成すると決裁の為に上座で端末を操作している企画3課課長のアンドリュー・レイトンの元に向かう。
企画3課は現在UMSのサポートチームとして動いている。
G&Tにルートルを用意する資金を出させたのも、ホウライで一芝居打たせたのも企画3課だ。
――この件が上手く行けば私も主任くらいにはなれるかな――
ミニョンは週末に内覧に行った2LDKのマンションを思い浮かべる。
不動産は裏切らない。蘇利耶ヴァルハラのドルが暴落しようと、グロリー騰蛇のグローが暴落しようと、ヨークスター太陰のイースが暴落しようと不動産は揺らがない。
バレンシア朱雀のマンションなら資産としても十分価値があるし、他所の通貨が暴落した時に買いあさる為の担保にもなる。
――南欧風のソファーを置いてタペストリーをかけて――
プロジェクトが成功すれば金一封も夢ではない。少しくらいいい家具を買ってもいいだろう。
「課長、サイクロンが買収に応じました」
ミニョンはアンドリューに向かって言う。この先も企画を立て、遂行し、いつかは企画3課のトップに立って見せるのだ。
「契約は10月16日か……まだ暑い日が続くが元気にやってくれ」
課長のサインの入った契約書がミニョンの手に戻される。
どことなく他人事だ。
「元気にって。電車とバスで三日くらいですよ」
「帰って来なくていい」
アンドリューが前髪を撫でつけながら言う。
「は?」
何を言われているのか分からない。帰って来なくていいとはどういう事だろうか。
「お前の企画書だ。経営陣を送り込んで経営を刷新すると書いてあるだろう? 現状でサイクロンを良く知っていて、経営改善策についてもアイデアのある人間がお前以外に誰がいる?」
アンドリューの言葉にミニョンの頭は漂白される。
――あれ、マンション買おうって家具を買おうって思ってたんじゃ無かったっけ――
「私はあくまで企画部の人間ですよ。直接経営に携わるなんて」
外部のコンサルティングに頼めよ。外注しろよ。ケチ臭いな。
「サイクロンは企画3課が預かる。ソ主任頑張れよ」
主任という言葉を強調してアンドリューが言う。
部下が一人もいないのに主任になってどうするというのか。
給料は上がるだろう。
――キュウリがヘチマになるようなド田舎で――
給料が上がるはずなのに目尻に涙が浮いてくる。
「あの……」
――マンションは会社まで歩いて10分の好立地なんです――
あの物件を他人に横からさらわれるのを指を咥えて待っていなきゃならないなんて。
「社長からの正式な辞令だ」
アンドリューが端末の画面とヴァネッリ社長のサインを見せる。
――クソ! 嵌めやがったなアンドリュー!――
これは栄転ではない。左遷と言うのだ。
――辞めてやる! こんな会社辞めて……辞めて……――
マンションを買うのも大企業に勤めていればこそだ。
この安定を手放す事などできない。
――必ず戻って来てやる! このバレンシア朱雀に! この本社に!――
自分の居場所は週末に稲刈りに駆り出される田舎にあるのではない、毎日新しいビジネスとファッションが発信される洗練された都会にあるのだ。
※※※
ファビオはバスチエに呼ばれてUMSのランナーキャリアの傍に停車していたキャンピングカーに向かう。
カメラが回っていないというだけで内密の話という事は分かる。
話の内容はランナバウト企画からの脱落だろう。
――まだランナーに乗り始めて一か月にもならないってのに――
確かにオリガとロビンとイェジを認めざるを得ない。
しかし、どんな人間だって始めたばかりで能力を発揮できる訳ではない。
努力で補えるものもあるはずだ。イェジとの練習に使った缶の上に立つトレーニングは続けているし、流水明鏡剣の108の型も既に覚えている。
型を洗練させていけば大きな武器になるはずだし、同時期にランナーに乗り始めた人間にそうそう劣るとは思えない。
――考えたくはないが俺はルカ・フェラーリの弟でもあるんだ――
レッドスター026を改装したスターラプトルを駆るルカをカーニバルライダーとして認めないファンはいないだろう。
その実力の半分でもあるなら自分はライダーとして成功できるはずだ。
そして半分を努力で埋めたならルカにも勝てるはずだ。
――母さんを、俺を捨てたルカにも――
その勝利が家族を捨てたという犠牲に成り立っている事を思い知らせるために。
「ファビオ、呼び出して悪かったな」
スーツ姿のバスチエの隣には黒づくめのフードの男が座っている。
「いいえ。お話はランナバウトの事ですよね」
「あ……ああ。一応社の方では企画は続行だ。オリガは知っての通りだしロビンは出向で事実上お前とイェジの一騎打ちになる」
バスチエは言葉を選んでいる。
企画継続のために延命させられるに過ぎない。
だがあと二か月のトレーニングでイェジを追い越せるのだとしたら。
「で、だ。今のお前を見ている限り、イェジを倒せるとは思えない」
バスチエが言い淀む。
大器晩成なのだと言い張っても人間は今の自分しか見てくれない事も知っている。
ファンが長身で顔立ちの整った自分に熱狂するように。
――中年になって顔も体型も崩れれば――
多くのファンはファビオを忘れていくだろう。そういうものだ。
人に過去はない。あるのは今だけだ。
「あと二か月あります」
「二か月では埋まらないし、二か月も君が負け続けるなんて企画がコンテンツとして成立するとは思えない」
黒フードの男が言う。マスクのせいで年齢不詳だがファビオとそう変わらないだろう。
「僕はUMSの専属マイスター。オルソン・カロルだ」
「専属マイスター?」
マイスターがここに居るという事は……
――新型機を作ってくれるとは思えないが――
「機体をチューンナップする事はできる。でも、それを君が乗りこなせるかどうかは別問題だ。ヴァンピールはそこそこのライダーが乗れるように操縦性を重視して設計されている。よりランナバウト仕様に近づけるなら高度な操縦技術が要求される。それは今の君には不可能だ」
――この男は不可能と言ったのか――
「俺にはできる! 新型機があればイェジに劣りはしない」
「このチューンには条件があってだな……」
バスチエが言い淀む。言いにくいような事なのか。
「ピーキーなチューンにすればそれ相応の反応速度が求められる。短距離走のトレーニングで選手の身体にロープをつけて車で引っ張るというものがある。身体がスピードを覚えれば身体のリミッターが外れてその速度で走れるようになる。ランナバウトにも似たような技術がある」
オルソンが端末の画面を表示する。
「君の体にNMを注入して君の脳に一時的に端末を作る。この端末が機体とリンクする事で従来の脳波操作とは比較にならない速度で情報処理ができるはずだ。この加速状態なら君は現在のレベルを遥かに超えた能力を発揮する事ができるだろう。脳がそれを覚えたら君の能力が底上げされると思ってもいい」
それが事実なら一気にイェジに追いつく事ができる。
「ただし、この技術はWRAでは非公認。公式戦では違法行為、つまり反則になる。君がイェジに勝つまでの措置だ」
バスチエが渋い表情と声で言う。
「やります。底上げされている間に技術を磨いてあいつらに追いついて見せます」
どんな目標を立ててもまずはライダーにならない事には話にならないのだ。
バスチエが端末で契約書を表示させる。
と、それを制したオルソンが端末の画面を表示させる。
画面にはU字型の黄金の角飾りのついた黒と金のランナーの姿がある。
「君専用のカスタムヴァンピール「羅生門」だ」
両肩は金をあしらった黒のスレートを重ねたような装甲。
足の付け根をガードする腰についた前面の装甲には「羅生門」という文字が描かれている。
武器は流水明鏡剣で使っているより長い長短の二刀流。
――これは……――
ルカへの思い、強くなりたいという渇望、それらを具現化したような。
――ヴァンピール羅生門――
NMで強化された自分とこの機体なら。
――イェジに勝利できる――
否、この羅生門と共に企画を生きぬき……
――俺は本物のライダーに、カーニバルライダーになるんだ!―
ファビオはバスチエの差し出した同意書にサインする。
これからNMの手術を受けるが恐れはない。あるのは羅生門を駆るという高揚感だけだ。
――待っていろ! ルカ・フェラーリ――
〈2〉
物流倉庫のバイトを終えたハンナは古いビルの駐車場を改装したジムを訪れている。
ジムといっても元掃除用具室の更衣室と折り畳み式のリング、筋トレ用のダンベルや縄跳びが置いてあるくらいだ。
いつもはバイト上がりのレスラーたちで賑やかなジムだが、雰囲気がどことなく張りつめている。
「ヒルダ、何かあったの?」
ハンナは一番仲の良い同期のヒルダに尋ねる。
「社長が売却の書類にサインして全員契約更新になったんだ」
「更新ならいいじゃん」
資本がレスラーしかないというような会社なのだ。レスラーをクビにしたらサイクロンには何の価値もないだろう。
「条件が厳しいらしいんだ」
「条件ったってあたしらが居なかったらこの会社どうにもならないじゃん?」
ハンナは29才、サイクロンのベテランで最高の技術を持っているという自負がある。
ヒルダは同期で28才、一緒に悪役のマスクレスラーコンビで売っている。
「まあ面接から戻ってきた連中を見てみなって」
ハンナの三つ下のキャサリンがげっそりした様子で端末に目を落としている。
「面接って上の事務所? 大企業はやる事が大層だわ」
物流倉庫のバイトもオンラインで申し込んでその日に行くだけだ。
「次ハンナさんだって」
どこかやつれた様子のスジンが階段を降りてくる。
大企業の買収というのは詐欺に近い事だったのだろうか。
ハンナは訝しみながら事務所に向かう。
軋むドアを開けると社長と事務のドロシーの他に見慣れない二人の姿がある。
グレーのスーツに身を包んだ細身のキャリアウーマン然とした女性。
もう一人はサングラスをしてアロハシャツを着た筋肉質の巨漢。
「社長、この人たちは?」
ハンナが言うとジェーンが二人に目を向ける。
「ウロボロスマーケティング企画3課のソ・ミニョンです」
笑顔で白く細い手が差し出される。悪い人間では無さそうだ。
「はぁ、どうも」
ミニョンには場の空気を垢ぬけさせるような力がある。
見慣れた事務所のはずなのにアウェイの気分になるのは何故だろう。
「あなたたちのコーディネーターを担当する女神貯筋のユージーン・ブラッドよ」
サングラスの筋肉質の巨漢が立ち上がる。
身長は185センチは超えているだろう。金色のしめ縄のように太い三つ編みが揺れる。
ブラッドの差し出した手をハンナは恐る恐る握る。
「そんな顔をしなくても女になんてこれっぽちも興味がないから気にしなくて大丈夫よ」
このガチムチオネェは何者なのか。
「女神貯金は芸能界では有名な体型コンサルタントでスタイリストよ。信用してもらって大丈夫です」
ミニョンは信用しろというが、そのミニョンとも今会ったばかりだ。
「あなたなら三か月で16キロは落とせるわね。元がいいからかなりのものになるわ」
ブラッドが端末を操作するとビキニ姿の見事なプロポーションの女性が姿を現す。
「Addras社のウェアが似合いそうね。まずは他の子たちと一緒にダイエット企画になるわね。これで体脂肪率は何%くらい」
ミニョンがさも当たり前のような口調で言う。
「それでも17%ね。モデルならもっと絞らせるけど逆に筋肉が目立ちすぎるから」
「なるほどね。あくまでカジュアルにね」
「そういうオーダーじゃなかった?」
ミニョンとブラッドが勝手に話を進める。
「あの、何の話をしているんですか?」
ハンナが言うとミニョンが端末に体脂肪率を入力する。
「あなたの次の契約更新の条件です。体脂肪率が17%以上になったら再契約はありません。他の条件についても目を通しておいて下さい」
「何でそんな血反吐を吐きそうなダイエットをしなきゃならないんです?」
ハンナはレスラーだしガリガリのレスラーなど見た事がない。
「あなたはサイクロンの商品だからです。ウロボロスマーケティングは買収と経営改善の為に二億ヘルの予算を計上しました。いわばこれは借金です。これを完済し黒字化させて本社に還元する事が我々の目的となります」
「それとダイエットがどう関係するんだ?」
ハンナには話が全然見えてこない。
「まずはあなたたちに日常的に飲んでもらう事になるプロテイン、あなたたちが着用するウェア、トレーニング機材、全てをスポンサーに供出させるためにあなたたちを広告塔にします」
ミニョンの言わんとしている事はなんとなくは分かるが理解が追いつかない。
少なくともプロテインの代わりに生卵を飲む事はしなくても良くなるのだろうか。
「あなたたちの知名度と人気が出てくればスポンサー側が名乗りを上げます。また、そうなるように仕向けて行くのです。ここから大きな広告収入へとつなげていきます」
ミニョンの考えている事は途方もなさ過ぎて頭が追いつかない。
「三か月後ウロボロスマーケティングのプロモーションでランナバウトグランプリで前座を行います。客が席を立たなければ会場だけで100万人の大観衆、オンラインであればその十倍です」
ランナバウトの前座など想像もつかない。そもそもランナバウトのフィールドのような巨大な場所にリングを置いたらあまりにさみしすぎないだろうか。
――そこで観客を熱狂させろと言っているのか――
大勢の人間が見る。当然プロレスファンが相手という訳でもない。
プロレスラーはちょっとぽっちゃりしているくらいがちょうどいいなどという興行先のおじさんたちを相手にする訳ではない。
サイクロンに足りない若い子、特に十代の子供たちが憧れるようなステージパフォーマンスをしなければならないのだ。
そう考えればダイエットをしろ、スタイリッシュなウェアを着ろという話も理解できる。
――サイクロンは大舞台に立つのか――
そしてウロボロスはそれを用意した。
そこで醜態を晒せばサイクロンは本当に再起不能になるだろう。
――でも私には技術がある――
誰と組んでも最高の舞台にする自信がある。
自信がなかったのはこれまでのリングスーツがきつくなりすぎたボディラインだ。
だがそこは女神貯筋のブラッドが面倒をみてくれると言う。
「我々としては悪い条件ではないと考えていますが?」
ミニョンは淡々としている奥に煮えたぎるものを感じる。
それが燻っていたハンナの心の奥にあったものを呼び覚ます。
「私は最高のステージをするだけですから」
ハンナは契約書にサインする。これが悪魔の契約であってもフリーターなのかレスラーなのか分からないような生活よりマシである事は間違いないのだ。
※※※
ファビオの動きがいい。
アナベルは教習をしながらそれに違和感を感じた。
あくまでデータ上の人間であるが道路を歩いていて人が飛び出しても踏んでしまう事がなくなっている。
――違うんだ――
ファビオは歩行者や自転車が飛び出すのを見て躱している。
オリガやロビンやイェジ、当然アナベルであればランナーが手足になって意識が行き届いているから、人間が普通に道を歩く時と同じように反応して回避するまでもなく自然に避けられる。
――何かしたのか?――
教習のカリキュラムとしては障害物を避け、咄嗟の飛び出しに対応できれば一応は合格だ。
競技用ランナーで公道に出る事は警備出動以外ではまず許されないが、後は座学をパスすれば普通のランナーであれば公道に出る事もできる。
「クリアですよね! 教官!」
ファビオの明るい声が響く。遠くから見ているファンたちが邪魔にならないように手を叩いてエールを送る。
ランナー免許取得のチェックシートの項目は全てクリアしたのだから免許をやらないと言う訳にも行かない。
スーパーライセンス保持者のアナベルには仮免許を出す権限がある。
主観的に怪しい部分はあるが、何度もチェック項目をクリアしているのだから規定通り仮免許を出さないという事はできない。
「私に出せるのは仮免許だけだ。無茶はするな」
アナベルは憮然としてランナーキャリアに戻る。
クルーの差し出したアイスミルクティーを口にしながらナイトライダーを見上げる。
――どうにも不自然なんだ――
アナベルが仏頂面をしているとバスチエが歩み寄ってきた。
「アナベル、浮かない顔だな」
「浮いて欲しいのか?」
「厄介な生徒が手を離れただろう」
それはそうだ。移動生活で教習所に通えないからアナベルが面倒をみていたが、本来は教習所の教官がやるような事をさせられていたのだ。
「ファビオだが動きにどうにも違和感が……」
何度もファビオの動きを脳裏でトレースする。
意識は操縦に集中していて足元にはない。
突然足元にボールを追いかけた子供が出てくる。
ハッとなって……
――間に合わない?――
アナベルであっても間に合わない。普段から足回りにも自然と気を配っているから急な飛び出しにも対応できるが、ファビオは操縦と前方に意識が向いていて足元がおろそかだ。
そこでランナーの側から危険信号が出る。
しかしそこからあわてて機体を制御しようとしても間に合う訳がない。
「バスチエ、あんた何か仕組んだだろう?」
「先に謝っておくがこうするしか無かったんだ」
バスチエが重いものを抱えた様子で言う。
「ファビオはNMのドーピングをしてるし、近々ランナーの方にも手を入れる」
「どうしてそんな事を」
アナベルは言う。そんな事をすればファビオはどの道公式戦には出られない。
表沙汰になればスキャンダルだ。
「オリガにはグリフォンがあるしロビンのランナーはエンタから金が出る。だがイェジのランナーには本社から金は出ない。人気次第でG&Tがランナーの新造費用を出すそうだが、今の注目度じゃそこまでの広告費は出ない」
アナベルはバスチエの苦渋の選択を理解する。
UMSにとってイェジもまた欠かせないライダーだ。
そもそも天衣星辰剣のチームでアナベルとロビンが剣を振らないのだから後継者としてもイェジは外せないし、イェジを追い出したとしてクリスチャンに剣を振れと言われたのでは時間と労力の無駄だ。
オーレリアンも引退を仄めかせているし、補欠二名と考えるならクリスチャン、アナベル、オリガ、ロビン、イェジという布陣が理想的なのだ。
ここからイェジが欠けたのでは万が一誰かがKOを食らって機体のフレームに大ダメージが残ったらチームは詰んでしまう事になる。
「エンタがイェジの分まで出してくれりゃあね」
「マイスターが無名のオルソンだ。今のままじゃ役員会が納得しない」
ロビンと新型機だけでも幾度も会議が開かれ、その都度紛糾したという話は聞いている。
ランナバウトに興味の薄い経営陣とUMSの意識と認識の間には大きな溝があるし、あと一人イェジを追加して欲しいと言ったところで欲張るなと言われるのが関の山だ。
――だから自力でスポンサーつけろって話なんだろうけど――
企業が清廉潔白であるとは思わない。
しかし今回のやり方はアナベルは好きにはなれなかった。
※※※
サイクロンの本拠地が一夜にしてロワーヌ天后の辺境から地方都市サントミシェルに移動した。
サントミシェルには電車の特急が停まり、高速バスもやって来る。
スジンは企画3課の買ったサイクロン本社ビルを訪れている。
一階はスポーツジムでこれは一般の客にも解放されている。機材は使い放題、プールもついていてプロテインバーまで使い放題だ。
二階がリングのある練習場で贅沢な事にリングは二面あり順番待ちの必要がない。
三階は女神貯筋プロデュースの筋肉食堂になっていて一般客も入る事ができる。
四階は宿舎。五階は社長室兼事務所とミーティングルームになっている。
新築ではないが突貫工事でリフォームがされておりとてもおしゃれで清潔な建物だ。
「こんな御大層な建物なんていらないのに」
ミーティングルームに連れてこられたジェーンがぼやく。
「これから毎日カメラが回るんです。薄汚くてしみったれたトレーニング施設やくたびれたアラサー女性を連日見せられて十代の女の子が憧れますか?」
ミニョンの言葉にスジンは100%同意する。貧しい生活をしていると心まで貧しくなる。
「それで改まって話ってのは?」
元副代表のアグネスが上座のミニョンとブラッドに尋ねる。
「契約の時に一人一人面接したように、これからはビジュアルを強化していきます。そこであなたたちに食生活を徹底してもらう必要があります」
ミニョンが言うとブラッドが端末を操作して映像を表示させる。
「改めて言うような話じゃないけど、炭水化物を取るとインシュリンが分泌されてカロリーが脂肪として蓄積される事は分かるわよね?」
女神貯筋のセミナーなどでも使われているのだろう、口から入った料理がインシュリンを浴びて脂肪になるアニメーションが表示される。
「そこであなたたちには食事をジムのプロテインバーと三階の筋肉食堂に限定してもらいます」
「おい、うちには息子がいるんだ。子供に部屋で食うなとは言えないだろ」
唯一の子持ちのハンナが言う。
「お子さんには好きなだけ食べさせればいいじゃないですか」
ブラッドが何をバカなと鼻で笑う。親子で楽しく食卓を囲むという事は想定されないらしい。
――まぁごはん作らなくても食堂で食べ放題だしね――
「一覧表見てたんだけど酒は飲めるんだな?」
ヒルダが端末を指さして言う。確かに食堂にはアルコールのメニューもある。
「蒸留酒には糖質がないから飲んでも構わないわ。でも糖質のあるつまみと一緒に食べれば全てのカロリーが脂肪に跳ね返る事だけは忘れないでちょうだい。ダイエットの肝は脂肪細胞をいかに動かさないかに尽きるのよ」
ブラッドが説明する。酒が飲めるのはありがたい話だが、残念ながらビールはメニューにはない。
肉は好きなだけ食べてよい事になっているのだが、米も麺も無いというのはスジンの食生活からすると修行僧の食べる精進料理のように見える。
――今まで少ないおかずでどれだけごはんを食べられるか考えて生きて来たのに――
ごはんの存在とはこれほどまでに大きなものだったのか。
「興行に行って食事に誘われたらどうするんだ? 地方だとそっちがメインの客も多いんだが」
ジェーンが言う。確かに地方興行では飲み会がつきものだし、筋肉質のホステスと勘違いしている地元有力者というのも少なくない。
「これからのサイクロンに飲み会は不要です。サイン会やファンミーティングは行いますが興行が終わったら基本的に直帰です」
ミニョンが業界の風習を一刀両断する。
スジンとしても興行の後の飲み会は可能であれば遠慮したいものだったから無くなるのはありがたい。
「何かレスラーってよりタレントみたいだな」
気に入らないといった様子でジェーンが言う。
「私はタレントだと思っていますが、アスリートだと考えても結構です。全力でステージなり競技をしたその足で飲みに行くタレントやアスリートがいますか? それをしないのは何故だと思いますか? タレントもアスリートも身体が資本です。その資本を損なうなら商品価値はありません」
ミニョンは厨房で中華包丁を振るう料理人のようだと思う。
これまでのサイクロンのあり方がバッサバッサと切り刻まれていく。
「でも他団体との付き合いが……」
「必要ありません。酒で作った人脈は利用されて終わりですが、その労力を自分磨きに使えば人脈は向こうからやってきます。頭を下げるか、頭を下げられるか、そのどちらが営業的にプラスになるか考えてください」
ミニョンの言う通りだ。ミニョンのプランに従えばサイクロンは旧態然としたプロレスから脱皮できる。
自分たちがモデルのようになれば他団体は嫉妬はできても挑む事はできなくなるだろう。
――これが世界一のメディア企業の仕事の仕方かぁ――
スジンはミニョンに憧れる。こんな風にスーツをカッコよく着て、誰が決めたか分からないルールとも暗黙の了解ともつかないものを切り捨てて行ったらさぞかし爽快だろう。
「ジムは一般客も利用するんだな」
ヒルダが確認するようにしていう。
「フィットネスチェーンとの業務提携です。機材とノウハウを提供させてこちらは場所を提供する。そしてこれは皆さんの次のステップへ向けた布石でもあります」
ミニョンが一旦言葉を切る。
「皆さんはレスラーを引退した後の事を考えていますか? 焼肉屋でもやろうと漠然と考えているなら少なくとも私は投資しません。皆さんはこれから観衆を魅了する筋肉のプロです。その選手が引退してジムのトレーナーをするならその事業には連続性があり、投資に対するリターンがあると私は考えます。現段階では企画レベルですが、皆さんには引退後の業務としてスポーツジム事業での活躍も考えて欲しいと思っています」
さすが月給払いの大企業だ。レスラーを引退してもジムのトレーナーで雇ってもらえる。
しかも何だか厚待遇っぽい雰囲気がある。
「ただし、それが事業として成功するのは皆さんの知名度と好感度が高ければこそです。もちろんこれは案の一つで他にもスタントや映画やドラマのアクション指導といった業種も考えつきます」
ついこの間までレスラー生活はお先真っ暗だった。
しかし引退後はアクション指導やスタントの仕事で食うに困らないかも知れないのだ。
「私はこの事業、サイクロンの再生に賭けています。それは皆さんの協力なしに成しえるものではありません。そしてこれは相互的互恵関係に基づくものであると考えています」
こんな人がゴロゴロしているなんてウロボロスの企画3課という所はすごい所に違いない。
――この人について行こう――
多少苦しい事もあるかも知れないが、試練を乗り切ればこれまでの泥臭い生活とはおさらばできるかも知れないのだ。
「それじゃあ体脂肪を減らす意味は分かったわね。今日からゴリゴリしごいて行くわよ」
ブラッドが上腕二頭筋を膨らませて言う。
――もうコンビニで働く必要はない――
スジンは過ぎ去った日々を走馬灯のように思い出す。
ボロボロの練習場に筋トレ機材と言えばダンベルくらいしかない。
リングの設営から撤去まで自分たちでやっていた手作り感満載の興行。
いつもワゴンですし詰めの移動でひどい時には丸二日という事もあった。
しかしそれも今は昔。
専業の、プロのレスラーとして生きていくのだ。
〈3〉
がらんとした深夜の人気のないUMSのランナーキャリアは田舎の体育館を思わせる。
オルソンはパーカーのポケットに手を突っ込んだままバスケットコートほどの床を歩いて一機のヴァンピールの足元に立つ。
ヴァンピールは量産機としてはまずまず優秀な方だろう。
乗りこなせないライダーがいるならそのライダーの方が悪い。
良くも悪くも普通自動車のようなランナーなのだ。
――単純にパワーとスピードを上げても――
恐らくファビオはそれについて行けない。動体視力や反射神経が向上してもそれは現状のヴァンピールをより良く乗りこなせるという事にすぎない。
とはいえカウルだけ厳めしいものに変えても意味がない。
――ファビオが乗らなくても強力なランナーを作るとしたら?――
我ながら新しいアプローチだ。
ファビオが操縦している体裁を取るし、実際本人もそう錯覚するだろうが、実際にはシステムがランナバウトをリードする。
オルソンはキャリアの端末を起動する。
試しに流水明鏡剣108の型をスキャンしてインストールしてみる。
データ上のヴァンピールが流水明鏡剣の舞を舞う。
――プログラム上は再現可能か――
108の型をインストールしてしまえばファビオは実際に操作をしなくてもその型を想起するだけでいい。
身体を動かすようにランナーを操縦しなくても技が出るようにしておけば技から技へ繋げる速度が速くなるだろう。
このシステムであればライダーの適性がゼロであってもリズムゲームのノリでランナーを操縦する事ができるようになるだろう。
――動きの種類は限定的になるけど――
ファビオが危うい動きをしたとしてもシステム側は受け付けない。彼自身の戦い方はできないという事だ。
とはいえファビオはドーピングを行ってさえランナーを一応操縦できるようになったというレベルで、プレイスタイルについて考える次元に至っていない。
――そう考えると三人の才能というのは贅沢なんだよな――
オリガは圧倒的なランナーとの相性を示し、ほとんど初見で魂の共鳴を果たしている。
ロビンもランナーとの相性がいいし最初からレスリングの片鱗はあった。
イェジはライダーとしての才覚はもちろん天衣星辰剣の継承者としてのステップを確実に昇っている。
――ああそうか――
この三つの天性に勝ててこそ一流のマイスターというものではないだろうか。
ファビオという人間は介するもののこれは最高までカスタムされたヴァンピールと天才の乗ったヴァンピールの戦いなのだ。
オルソンはヴァンピールの設計図に次々にチェックを入れ、マーカーを引いていく。
流水明鏡剣108の型を極めたシステム、ライダーを乗っ取るシステムこそを羅生門と呼ぶべきものだろう。
ヴァンピールの設計は基礎のフレームのレベルから可能な限り市販で流用可能なパーツを使いながら強化していく。
下手なランナーを新造するより高くつくかもしれない。
しかし、換装によって連日パワーアップする機体にランナーファンは飛びつくはずだ。
と、キャリアのドアの開く音が響いた。
オルソンは部屋の電気とディスプレイのスイッチを切って椅子の下にもぐりこむ。
――こんな時間にキャリアに人が来るなんて――
握りしめた手と額に汗が滲む。悪い事をしていた訳ではないし、純粋にマイスターの仕事をしていたのだから誰にはばかる事もないのだが、人を見ると生きている事がはばかられるのだ。
――帰れ帰れ帰れ――
作業も続けなければいけない。納品までの時間もあるのだから、朝までに基本的な所は仕上げてバスチエにパーツの発注書を出すくらいの所までは進めた方がいい。
「誰もいないね」
イェジの声が無人のキャリアに響く。
――何だイェジか――
オルソンは隠れて損をしたと思う。夜に現れて食事を奪おうとする食い意地の張った強盗だ。
「ヴァンピール、見える? 外で写真を撮ってきたよ」
イェジが端末のディスプレイをヴァンピールのマスクに向ける。
端末は既にヴァンピールの一部になっているのだからそんな事をせずともデータは同期しているし、イェジの動きは逐一モニタリングされている。
「オルソンの言ってた朝市はまだやってなくて、コクピットだけで少し走って来たよ」
イェジの平和すぎる言葉にオルソンは頬が緩むのを感じる。
とはいえ、用がなくてもランナーと共に、コクピットで過ごしてしまうというのはやはり機械との相性がいいからだろう。
――好きこそものの上手なれとは良く言ったものだ――
「イェジ、一々見せなくてもヴァンピールには見えてる」
ディスプレイのスイッチをオンにしてオルソンは言う。
「オルソンまた隠れてたの?」
「君だから出てきたんだ。初対面の人間だったら出ていけないだろう」
イェジは自閉症を子供のかくれんぼとでも思っているのだろうか。
「オルソンは食事も作らないで何してたの?」
「僕は食事を作る為にルートルにいるんじゃない。ヴァンピールの改修指揮の為に色々と見てたんだ」
「ヴァンピールの改修ってそんな事できるの?」
「君のじゃない。ファビオを君に勝たせるように言われてプランを練ってる」
オルソンの言葉にイェジが驚いた表情を浮かべる。
「ファビオって今日やっと路上免許出た所じゃない」
「それでも普通の人よりは早いよ。君がおかしいんだ」
オルソンの言葉にイェジが照れたように頭を掻く。
「とにかく、僕はマイスターとして君の操るヴァンピールに勝たなきゃならない」
「何でランナーでそう野蛮な事を考えるかなぁ」
「君もランナーに乗れば人格が変わるだろう」
オルソンは指摘する。イェジもランナーに乗っている時は好戦的だ。
「それはヴァンピールが戦いたい、勝ちたいって言うからさ」
「そういう風にプログラミングされてないけどね」
イェジは情緒的、観念的にヴァンピールを動かしている。
――ダンスなりの積み重ねがあっての事なんだろうけど――
そういう意味ではイェジの動きは予測不能、いい言い方をすれば変幻自在だろう。
対して羅生門の動きは基本的に108通りをベースにしたものになる。
――マイスターとしてはイェジの機体を作った方が面白いんだろうけど――
何の実績もない今、新規で図面を引いた所で相手にされることは無いだろう。
まずは目の前の罪のない少女を打倒する事を考えなくてはならないのだ。
「オルソンがファビオの機体をいじってさ、それでファビオが勝ったとしてファビオは強くなったって言えるの?」
「いや。僕の作ったシステムが君を倒したってだけだ」
「何のためにそんな事をするの?」
――イェジに事実をありのままに説明した所で悩むだけだろう――
「それは僕がマイスターだって事を証明する為だよ」
嘘はついていない。ファビオのヴァンピール羅生門でイェジのヴァンピールを破ったならバスチエの期待以上の働きをした事になるだろう。
オルソンの目線でもファビオの乗ったヴァンピールでイェジに勝つのは並大抵の事ではない。
「私が勝ったら私のヴァンピールをもっと強くしてくれる?」
「さぁ。会社が何て言うかだよ。僕はこれでも勤め人だからね」
ヴァンピール羅生門が敗れたならG&Tはイェジを正規ライダーと認めるだろうし予算もつけるだろう。
――G&Tのロゴって赤なんだよなぁ――
赤のロゴはやはり白いカウルにこそ映えるだろう。
イェジのヴァンピールを改装するなら……。
考えかけたオルソンは思考を停止させる。考えすぎたらファビオの羅生門の事を考えられなくなる。
やりたい事をやる為にはやりたくない事を優先しなくてはならないものなのだ。
※※※
『オン・ユア・マーク』
二機のヴァンピールがセリカ勾陳州のフィールドで対峙している。
一機は大幅に外装が変わっておりかつての量産機の面影はない。
互いに剣の柄を握っているが、その先には不可視光のビームが出ている。
そのビームの模擬剣がカウルに当たる事でダメージ判定されるのだ。
セルジュは改造されたヴァンピール羅生門の禍々しいまでの姿を違和感なく受け入れている自分に驚いている。
――ファビオが乗っているからか――
イェジが乗っていたなら禍々しいヴァンピールには違和感があっただろう。
ファビオはランナバウト企画が始まってからすっかり変わってしまったと思う。
――そのなれの果てと言えば言い方がきついか――
元々そういう人間だったのか、ランナーという機械に酔わされたのかセルジュには分からない。
『ゲットセット……GO!』
スピーカー越しのバスチエの声が響いて羅生門がフィギュアスケートの選手が滑るように滑らかな動きでヴァンピールに向かっていく。
――昨日今日免許を取った人間の動きとは思えない――
羅生門が右手の長剣を振るう。ヴァンピールが飛びのくと羅生門は回転しながら左の短剣を振るう。
ヴァンピールが身体を屈めて羅生門の短剣を跳ね上げるが、流れるような動きで長剣が振り下ろされる。
ヴァンピールが剣で弾きながら間合いを取ろうとするが追撃する羅生門の動きに追いつかない。
当たり判定を知らせるブザーがフィールドに響く。
――信じられん――
流水明鏡剣の型を覚えたからと言って一朝一夕で達人になれる訳ではないだろう。
それでは剣術家の立場がないというものだ。
『勝者ヴァンピール羅生門、ファビオ・フェラーリ』
「これで良かったのかな」
いつの間にか並んでいたドヒョンが言う。
「ファビオはライダーになりたかったんだろう? 願ったり叶ったりじゃないのか」
セルジュは答える。相手は初心者に近いとはいえ剣才に溢れたイェジなのだ。
「セルジュはファビオがライダーになって本当にいいと思ってる?」
ドヒョンの言葉にセルジュは溜息をつく。
「そんな訳ないだろう。挫折すると思っていたから応援もしたんだ」
タレントもライダーもできるなどという化け物はアナベルで十分だ。
ファビオは挫折してアイドルに打ち込めばこそ大成できたと思う。
中堅どころのライダーになれたとしても、アイドルを続ける以上の成功はないだろう。
「だろ? 確かに今イェジ倒して驚いてるけどさ。あのヴァンピール……羅生門だっけ、あれがすごい性能って事なんじゃないか」
「ファビオは願った通りの事ができて喜んでるはずだ。水を差す事はないんじゃないか?」
このままファビオがライダーになると言うなら止めはしない。中途半端な気持ちでアイドルをやられるなら周りが迷惑というものだ。
「イェジに勝ててもさ、アナベルさんとかには手も足も出ないんじゃない?」
「イェジはロビンの相手ばっかりでファビオの二刀流は初見だしな。ファビオは何とか二人に追いつこうとして必死に見てたしその差もあるだろうな」
考えようによってはアイドルに憧れた人が長じて自分も芸能人になってしまったようなものだと思う。
しかし、同格のアイドルになるかと言うと話は別だ。
一時的に人気で凌ぐ事があっても、実力で追い越す事はおろか並ぶ事もできないだろう。
それが人の才というものだ。
「ファビオを止めた方がいいんじゃないか? このままじゃ良くない気がするんだ」
「剣を見切られて負けたファビオじゃなくて勝って調子に乗ってるファビオをか?」
あれだけ執念を見せていたファビオなのだ。勝っている所で止めろと言われて止める訳がないだろう。
「勝ってるうちだからだよ。負けてランナーにしがみつくようになったらアイドルに戻ってくる事もできなくなる」
ドヒョンの言わんとしている事は分かる。この間ランナーを乗りこなせずにもがいていたファビオからはタレントとしてのオーラが出ていなかった。
オーラがあったとするなら妄執とも言うべき負のオーラだ。
素人やファンはすぐには気づかないだろうが、時間が経過すればファンの数は目減りして行くだろう。
「勝ってるうちに止めらせられればか」
相手がイェジとはいえ勝ちは勝ちなのだし、それも花道と言えない事もないだろう。
――止めてやるのが情けというものか――
言って聞くとは思えないがそれはいずれ理解してくれればいい事なのかも知れなかった。
※※※
イェジはハンガーのヴァンピールのコクピットでシートに跨っている。
オルソンがイェジを倒す為にカスタムしたのだという羅生門。
お母さんの仇を取る為にライダーになろうとしているファビオ。
――本気になんてなれない――
ファビオにもオルソンにも夢を叶えて欲しい。
その為には自分の想いを犠牲にしなければならない。
イェジはクリスチャンに出会うまで目標らしい目標を持つ事ができなかった。
それがとんとん拍子に物事が進んで、剣を極めたライダーになるという事が当たり前の目的のようになっている。
それはたかだか二か月程度の間に起きた事で、何年もランナーに携わってきたオルソンたちとは違う。
――こんな成り行きみたいな事で――
ライダーになっていいのだろうか。
だがランナーに乗っていると無限の可能性を手にしたような気分になる。心が踊ってバッテリーが切れたとしても舞っていられると思える。
イェジにとってランナーとは魔法使いが持っている魔法の杖のようなものなのだ。
今更これを取り上げられるなど考えられない。
「どう思う? ヴァンピール」
コクピットから出る気分になれない。どんな顔をすればいいのか分からない。
負けて悔しいという顔をすればいいのか。素直に不完全燃焼だったと不満げな顔をすればいいのか。
そもそもどうして不満なのかと言えばファビオやオルソンの事情が頭にこびりついて自分のランナバウトができなかったからだ。
「おい、嬢ちゃん、出て来ねぇのか? 負けて拗ねてんのか」
チーフメカニックのダニオがコクピットの外で言う。
「負けてなんかない」
そうなのだ。本当に何のわだかまりもなく戦って叩きのめされていれば悔しがれたはずだ。
負けたという実感がないまま負けたからモヤモヤしているのだ。
「嬢ちゃんにゃ天衣星辰剣の癖がある。攻撃でも防御でも両足がべったり地面につく事は無ぇ。でも今日はソールが地面に張り付いちまってた」
ああ、そんな所まで見えているんだ。
長年ランナバウトに携わってきた人間には手を抜いたようにも見えてしまっているかもしれない。
それは整備してくれる人にも試合を見てくれる人にも失礼な事ではないのだろうか。
「手を抜いた訳じゃないんです。ちょっと心につっかえてる事があって。でももう大丈夫です」
――ファビオと話をしよう――
負けた自分が言う事ではないがファビオにはここで退いてもらった方がいい。
改造されて強くなったヴァンピールも他流派の剣術も借り物でしかない。
――ファビオはこのまま勝ち続けたとしてもウロボロスのライダーにはならない――
同じライダーを目指す人間だからこそ伝えられる事がある。
それが叶わないなら……
――私はファビオと羅生門を撃破する――
※※※
ジェーンは久々に何も考えずにリングに立っている。
訓練メニューから食事のメニューまで全てが管理されて一週間が過ぎた。
挨拶回りも飲み会もない。試合のフライヤーを配って歩く事もない。
外向きの仕事は全てウロボロスから来たミニョンがやっている。
「ジェーン、動きのキレが戻って来たんじゃないか?」
立ち上げメンバーのアグネスが声をかけてくる。元々同じ女子プロ団体でタッグを組んでいた盟友だ。
「それだとこれまで鈍ってたみたいじゃないか?」
「身体も緩んでただろう? 私もだけど」
言ってアグネスが白い歯を見せて笑う。確かにジャストフィットしていたはずのリングスーツが緩くなっている。
たかが一週間で判断できるものではないが一才ほど若返った気分がする。
「お前もサイズダウンしたのか?」
「一週間ですごいもんだな。あのブラッドってガチムチは本物だぜ」
ジェーンはジムのある方向に目を向ける。今は年少組のスジンとリリーがサーキットトレーニングで汗を流しているはずだ。
隣のリングではハンナがキャサリンに垂直式ブレーンバスターを教えている。
練習に来る頃にはバイト帰りで疲れ切っていた日々が嘘のようだ。
――人ってのは置かれた環境で変わるもんなんだなぁ――
ジェーンも初めて門を叩いた時のような真摯な気持ちでプロレスに打ち込めている。
部屋のドアが開いてミニョンが姿を現す。
サイクロンを売った時は憎らしくも思ったが今では救世主だ。
と、ミニョンの後ろから一人の少女が姿を現す。
――いや、あれは男か――
ジェーンはこんなに細い男を見た事がない。あるとすれば学生の頃だけだ。
「みんなちょっといいかしら。今日からこの子にプロレスを教えて欲しいの」
ミニョンがカメラを意識しながら言う。カメラが回っていなければもっと高圧的な命令口調であるはずだ。
「皆さんはじめまして。迷宮少年サバイバル企画から出向して来たロビン・リュフトです」
ロビンが挨拶するとキャサリンが目を見開いてロープから身を乗り出す。
「そのなりでプロレスができんの?」
悪役レスラーのハンナが挑発するように言う。
「だから教えて欲しいんです。それなりに体力はあるつもりです」
ロビンがキラキラした笑顔で言う。
若さとはいいものだとジェーンは思う。自分にもあのような時代があったのだろうか。
「だったらトップロープに上ってみなよ」
ひょいと身軽にトップロープに上ったハンナが言う。
「じゃあやってみます!」
ロビンが軽く飛び跳ねてからリングに向かってダッシュする。
三本あるロープの一番上を掴んで逆上がりするような動きでトップロープの上に立つ。
――こいつはサーカスでもやってたのか?――
「やるじゃん。だったらこれはどうだ?」
ハンナが合図するとヒルダがハンナの下に立つ。
ハンナがトップロープから飛び上がり宙返りしてヒルダに胸から体当たりする。ルチャリブレではおなじみだが荒技のプランチャだ。
傍目に見たら大怪我を負っていそうなヒルダがハンナを押しのけて立ち上がる。
「受け止めてやるから思い切って飛んでみろよ」
ヒルダがロビンに向かって言う。
ロビンが一瞬カメラに目を向けてから緊張した様子で飛ぶ。
素人にとってはトップロープ上はかなりの高さがある。飛び降りるだけでもかなりの度胸が必要だろう。
回転が足りなかったロビンが半回転でヒルダに落ちかかる。
ヒルダが両腕でロビンの胴を受け止め、半回転してリングの上に立たせる。
これで床に叩きつけていたらケブラドーラ・コンヒーロだ。
ロビンが驚いた様子で瞳をしばたたかせからストンと腰を落とす。
鮮やかな返し技で腰を抜かしたらしい。
ヒルダがカメラに向かって親指を立てて見せる。長らくカメラを向けられていなかったがヒルダもエンターティナーなのだ。
ハンナがロビンの手を取って立たせる。
「驚きました。こんな……」
ハンナがロビンの背中を押すようにしてロープに向かって走らせる。
ロビンがロープに引っかかるような恰好でたたらを踏む。
試合では当たり前のように見えるがロープで跳ね返ったように見せるにも技術が必要なのだ。
追いかけたハンナが一瞬でロビンの脇を足を掴んで肩車で抱え上げる。
空中で一回転させられたロビンが目を回してリングの上に再びへたり込む。
ハンナの技も先ほどのヒルダがやったケブラドーラ・コンヒーロと基本的には同じだ。
「あんたにも同じ事ができんの?」
ハンナが笑みを浮かべて言う。
ロビンが立ち上がって身体の無事を確かめるように軽くジャンプする。
「多分百回くらい食らったら」
意外にロビンはタフなようだ。
――確か契約では半年でロビンをそれなりに使えるようにするんだったな――
仕事だからやっているのか意欲があるのか分からないが、ロビンに本当に百回食らうつもりがあるならものになるかも知れなかった。
※※※
ミニョンは屋台の椅子に腰かけるとショルダーバックを放り出したいのをこらえて隣の椅子に置いた。
「おじちゃんおでん。巾着入れて。あと焼酎とビール」
ミニョンにとって一日一日が修行だ。
ジムの収入も筋肉食堂の売上も赤字を脱出する事ができない。
サイクロンのメンバーがそれなりにダイエットに成功して、メディアに好意的に受け取られるようになるまで相応の時間がかかるだろう。
「お待ちどう」
店主がミニョンの前におでんの皿とビールと焼酎とコップを置く。
サイクロンのメンバーが暴力に訴えれば三分とかからずにクーデターが成功するだろう。
気を張っているが殴られでもしたら経営再建どころか大怪我だと気が気ではないのだ。
コップに焼酎とビールを注いでかき混ぜる。
おでんの天ぷらを齧ってビールを呷る。
「くあぁ~生き返るぅ~」
ド田舎に飛ばされて、経営再建とロビンのトレーニングが終わるまでバレンシア朱雀には帰れない。
マンションは売れてしまっただろうか。
頭金だけでも払っておいて誰かに貸して家賃収入だけでも稼いでおけば良かっただろうか。
――でも私が住みたかったのよ――
何が悲しくて自分が気に入って買った新築物件をそのまま他人に譲らなくてはならないのか。
ソファーや家具も買うものを決めていたのだ。
それなのに、今住んでいるのは築40年の老朽アパートだ。
サイクロン本社の寮に住んでもいいのだが、社員たちの前で醜態は晒せない。
ダイエットしろと言っておいて飲んだくれているのを見られたら殺されるだろう。
――3課にいた頃は毎日食べに出てたのに――
このサントミシェルという田舎町で外食できる所と言えばバスターミナルの周辺しかない。
毎日のように出歩けばあっという間に顔を覚えられてしまうだろう。
酒癖の悪い都会人だと噂になれば社員が聞きつけるのも時間の問題だ。
「私はマンションを買う予定だったのよ」
サントミシェルにもマンションと名の付くものはあるが見るからにアパートだ。
アパートとマンションの違いを説明しろと言われても困るがイメージの問題だ。
「そんな事言われてもなぁ……」
ひげ面の男が困ったような表情を浮かべて言う。
「あんたに話しかけたんじゃない! 勝手に返事をするな」
「返事をするなってったって大声でこっち向いて言われたら自分が言われてるって思うだろう」
ヒゲが反論する。
「うるさい! 私に意見するなぁ! クソぉ~」
今のサイクロンには宣伝材料が少なすぎる。
今日のロビンとレスラーたちの絡みは派手で良かったが、ロビンを手玉に取った悪役コンビはSNSで炎上中だ。
「ペーター悪ぃな。中々抜けられなくてさ」
聞き覚えのある女の声が聞こえてくる。
「ヒルダ、最近会えなくて心配してたんだ」
――ヒルダ?――
ちょうどカウンターの陰になって見えないが、ミニョンの知っているヒルダなら寮で寝ているはずのサイクロンの悪役レスラーだ。
「いやぁ、寮だし門限あるしさ」
「まぁ飲めよ。ろくに飲み食いしてないんだろ」
――確かヒルダには交際中の長距離運転手がいたのではないだろうか?――
これはまずい。鬼の管理職が屋台で酒を飲んでくだを巻いていたのでは示しがつかない。
「今ダイエット中でさ。少し食べると余計に腹が減るんだよ。あ、がんもは大丈夫」
のんきな声が聞こえてくる。間違いないサイクロンのヒルダだ。
「おじちゃん、お勘定」
ミニョンはカウンターに突っ伏してカードを差し出す。
狭い町だ。飲む所など両手で数えるほどしかない。
「もう帰るのかい」
店主が余計な事を言う。いつもはもっと飲むが状況が違うのだ。
「おい、あんた大丈夫か?」
ヒゲ面のペーターが声をかけてくる。
――余計な事をするな!――
突っ伏しているのは酔いつぶれてるからじゃない。
そこにヒルダがいるからだ。
ウロボロスマネージメント企画3課の威厳がかかっているのだ。
「いいからお勘定」
ミニョンは腕を伸ばしてカードを差し出す。
「ミニョンさん?」
ヒルダが声をかけてくる。こんな田舎町でスーツ姿の人間など自分くらいしかいないだろう。
――詰んだ――
「あら。こちらは例の恋人かしら」
ミニョンは身体を起こすと襟を正して言う。
こうなれば開き直るしかない。下手に取り繕えば二次遭難確定だ。
「あ……はい、で、ミニョンさんは今日はオフで?」
「あなたもオフで? 飲むならおごるけど」
ミニョンはカードを指に挟んで言う。
「あ……ああ、そういう事でしたら」
「この人が噂の上司か?」
ペーターが呑気な口調で言う。
どんな噂か大いに気になる所だ。
「うん。普段はもっとこう……都会のキャリアって感じなんだけど」
――色々と見抜かれているようだ――
「今日はハンナは?」
「子供寝かしつけてから顔出すって」
これはまずい展開だ。ヒルダの口止めだけでも大変そうなのに相棒まで来たのでは洒落にならない。
二人の脳筋に弱みを握られたらこの先頭が上がらなくなるだろう。
「ハンナも来るのね」
奢るわよ、と、言いかけて止める。
あまり気前が良すぎても口止めのように見えてしまうだろう。
ここはあくまでも気さくな上司に徹するのだ。
「ペーターがハンナに男を紹介してくれるって言うんで」
「ハンナは長続きしねぇもんな。まぁいい女だとは思うが」
ビールを飲みながらペーターが言う。
――くっそう、美味そうに飲みやがって――
今日はもう泥酔できない。ほろ酔い寸前のこのもどかしさをどうしてくれるのか。
「邪魔をしても悪いし帰ろうかしら」
先に支払いを済ませればクールな上司で居られる……はずだ。
「お待たせ~。あ、ミニョンさん?」
暖簾をくぐって顔を見せたハンナが言う。
「えっと……これってどういう状況? ドッキリか何か?」
ハンナは困惑した様子だがミニョンには絶望的な状況だ。
「ミニョンさんが奢ってくれるってさ」
ヒルダがおでんの串の先でミニョンのビールを指して言う。
――くそ、分かってて芝居してやがったのか――
「あ……ああ、そういう事ね」
ハンナがミニョンの横に腰かけてグラスを空ける。
――私が飲むはずだったビールを……――
「企画3課も人の子だねぇ」
言ってハンナがビールと焼酎を注文する。
――こうなりゃ酔ったもん勝ちよ!――
「おじちゃん! じゃんじゃん出して! 今日は私のおごりだぁ!」
ミニョンは焼酎をラッパ飲みして言う。
「よっ! さすが高給取り!」
ヒルダとハンナが手を叩き、ペーターも合わせて軽く手を叩く。
――高給取りじゃねぇよぉ~――
ミニョンは心で泣きながら酒を注文する。
こうなれば二人を地獄の底まで付き合わせるまでだ。
※※※
深夜のランナーキャリアでファビオはヴァンピール羅生門を見上げている。
黒と金の威圧的なランナーもまたファビオを見下ろしているかのようだ。
――イェジを圧倒した――
NMのドーピングを差し引いてもいい試合ができたと言えるだろう。
ヴァンピールは競技用だけあって操縦する時に常に余裕が無かった。
しかし、羅生門にはヴァンピールにあった不安定さのようなものがない。
あるべきものがあるべき所に落ち着く感じがする。
まるで自分が流水明鏡剣の剣士になったかのような気分になる。
――俺には流水明鏡剣が合っていたのかもしれない――
短い間ではあるが必死で108の型を練習した。それは漠然と剣を振った天衣星辰剣とは真逆の感覚だった。
「ここだと思った」
背後からセルジュの声が響く。
「さすがに俺の居場所は分かるか」
「このランナーはいいランナーだったか?」
「ああ。最高だ」
羅生門は手足のように吸いつくファビオの相棒だ。このランナーでならどこまででも行ける気がする。
「ならもう満足だろう。ライダーごっこは止めて本業に戻るんだ」
セルジュが固い声音で言う。
「何言ってんだ? これからが本番だ」
この羅生門とならルカとだって戦える。このランナーをカスタムしたというマイスターが新規で建造したならルカのスターラプトルも目ではないだろう。
「目を覚ませ。素のヴァンピールでひいひい言ってたお前がいきなりイェジに勝てておかしいとは思わないのか? この羅生門には何かある。これは俺の想像だがそれはお前の手に余るものだ」
「勝てたならいいじゃねぇか」
セルジュの言葉が心の蓋を開く。確かに互角のヴァンピールではイェジに勝てはしなかった。
――でも誰にだって相性ってもんはあるはずだ――
オリガとグリフォン、イェジとヴァンピールのように羅生門とファビオは相性がいいのだ。
「イェジに勝てたってランナバウトの世界じゃ土俵にも上がれないだろう。お前は小学生が俺たちの真似をしたからとアイドルだと認めるのか?」
「俺たちを負かせたならそれだけの実力があるって事だろ」
「屁理屈をこねるな。まぐれ当たりは一発屋にしかならない。惨めな芸能人は嫌というほど見て来ただろう」
「俺と羅生門は正々堂々と戦って勝ったんだ」
「公式戦でか?」
セルジュが眉間に皺を寄せて言う。
NMによるドーピングがWRAのレギュレーションに違反する事は聞かされている。
――実力がつくまでの事だってのに――
それまでの一時しのぎに過ぎない。このままではイェジに手も足も出ないまま、ライダーの入口に半歩も立てないまま終わってしまう。
「おかしいと思ったんだ。教習で四苦八苦してた奴が試合まで一気に進むんだからな」
察した様子でセルジュが一旦言葉を切る。
「戻ってこい。今なら気の迷いで済む」
「気の迷いなんかじゃない! 俺は本気で……」
「なりたい奴なんかゴマンといる! ライダーにもアイドルにも! お前はその中でアイドルという星の下に生まれたんだ」
セルジュがファビオの胸倉を掴んで言う。
「俺はアイドルとしてもやっていく!」
ファビオはセルジュの手を振り払う。
「片手間にできるような事か! お前、ライダーになろうとし始めてからどれだけレッスンした? ファンの前に顔を出した? 今のお前じゃトップアイドルにはなれない。ライダーとしても失格だ。それでいいのか?」
「今だけだ! ライダーになればもっと練習時間も取れる!」
「もっと少ない時間でオリガとロビンはUMS入りを決めたんだ! 現実を見ろ!」
叫ぶようにして言ったセルジュが息を整える。
「俺は言うべき事は言った。後は自分で考えて決めろ」
言ってセルジュが背を向けてランナーキャリアを出ていく。
「何だってんだよ!」
イェジに勝った。NMのドーピングがあったのは事実だし羅生門が素のヴァンピールより遥かに優れている事も分かっている。
それでも勝ったのだ。UMSのライダーの椅子に一歩近づいたのだ。
「俺は勝った。そうだろ羅生門」
ファビオが羅生門を見上げると背後に足音が響いた。
「セルジュ! まだ俺に用か!」
そこにあったのは青白い顔をしたイェジの姿だった。
「ごめん。話聞いちゃった」
イェジが固い表情と口調で言う。
「別に構わねぇよ」
何も間違っていない。手段はどうあれ勝って勝って勝ちを重ねればいつかはルカに届くのだ。
「ファビオの勝ちたい気持ち嫌いじゃないよ。でもズルをしたならその事くらいは認めて欲しい」
「ズルだ!?」
NMによる神経伝達の強化と機体のチューンナップだけだ。
「そうだよ。私と同じヴァンピールじゃないじゃん。それにセルジュが言ってた公式戦に出れないっぽいって事」
「確かにNMは打ったしこの羅生門は特別製だ。それでもプロなら誰でも専用機を持ってるだろ。俺だけがチートした事にはならねぇだろ」
ファビオが言うとイェジが小さく息を吐く。
「ファビオがレギュラーになったらウロボロスは資格停止だよ。ランナバウトどころじゃないんだよ。それにこんな事ファビオのファンが一番悲しむんじゃない?」
確かにこのままでは公式戦に出られない。
「じゃあどうやって仇を取れって言うんだよ!」
「それってどうしても許せない事なの! ファビオがお兄さんに固執するのって自分が無力だった事が許せないからじゃないの!」
イェジの言葉が胸に突き刺さる。しかしこみ上げる怒りと無念が自分を捕らえて離さないのだ。
「私、絶対にファビオに勝つから。その機械から自由にしてあげるから」
イェジが背を向けて去っていく。
「どいつもこいつも何だってんだ!」
ファビオは叫ぶ。誰も自分を理解してくれない。誰も自分を応援しようとしない。
――違う――
ファビオは羅生門のマスクを見上げる。
羅生門だけは俺を分かってくれる。俺と一緒に戦ってくれる。
――そして俺に勝利をもたらしてくれる。そうだろう!――
心の中で叫んだ時端末が小さく振動した。
羅生門は全て見ている、全てを知っているのだ。
――俺の未来の勝利までも――
〈4〉
胃袋が重い。トレーニングウェアが心なしかきつい気がする。
筋肉食堂で朝食を済ませて子供を保育園に送り出したハンナは昨夜の事を思い出す。
女三人と彼氏一人の飲み会は最初から波乱含みだった。
ミニョンは先走って飲むし、何となく合わせて飲んでいるうちに酔いが回って相手が上司である事を忘れた。
二次会のカラオケに行った頃の記憶はほとんどない。
そして朝が訪れた。
マットの上ではロビンが受け身の練習をしている。
――二日酔いじゃないんだけどなぁ――
身体が重い、何かがおかしい。
「あのさ、昨日って二日酔いするほど飲んだっけ?」
ハンナはヒルダに向かってティヘラの構えを取りながら言う。
「お前もおかしいのか?」
ヒルダが不調を隠そうともせずに言う。
ティヘラはジャンプして両足で相手の頭を挟みこむ技だ。
そのまま首を挟んだまま投げ飛ばしてもいいし、肩車のように体勢を変えて肩車されるような形でなげとばしてもいい。後者の場合はプロレスならフランケンシュタイナーだ。
「やめとくか?」
ヒルダには受け止める余裕がないらしい。
と、リングの端に立ったブラッドがトップロープに寄りかかって意味深な笑みを浮かべた。
「ん~ふっふっ」
「コーチ、どうかしたんですか?」
ヒルダがブラッドに尋ねる。
「そろそろ苦しくなって来る頃よね」
何もかも見透かした様子でブラッドが言う。
「幾ら食べても空腹感を感じる、食べすぎで胃が重くなる。食べすぎで眩暈がするのか空腹感で眩暈がするのか分からない」
ブラッドがクックックッと笑う。悔しいが全てブラッドの言う通りだ。
「あんたたち昨日炭水化物取ったでしょ? それで調子崩して練習どころじゃなくなってるんでしょ?」
ぐうの音も出ないとはこの事だ。
全員の目がハンナとヒルダに集中している。
「いや、昨日は飲む気はなくて……いや、飲んだとしても少しだけのつもりでさ」
ハンナが言うとブラッドがずい、と、顔を近づける。
「甘い。甘すぎるわ。飲んだらアウトよ。アタシは糖質を減らせって言ってんじゃないの。絶てと言ってるのよ。少なくとも身体が順応するまではね」
「身体が順応ってどれくらいなんだ」
ヒルダがブラッドに尋ねる。
「個人差があるから一概には言えないわよ。そんな誰でも当てはまるような方法があればアタシみたいなインストラクターはいらない訳でしょ。ろくすっぽ練習にならないだろうし、あんたたちは一日悶絶しとくのね」
「悶絶って大げさな」
ハンナは言う。確かに調子は悪いが悶絶というほどではない。
「それが来るのよ。一度糖を身体に入れると脳が快感を覚えて四時間から六時間おきに欲しくてたまらなくなるのよ。みんなこの二人の醜態を良く見ときなさい。予言してもいいけどあんたらは昼食を普段の二倍は食べる。それでいて空腹感は増すのよ」
言って笑いながらブラッドがジムに行く為に出ていく。
「お前らダイエット中なのに飲みに行ったのか?」
隣のリングでジェーンが声を上げる。
「ヒルダの彼氏がこの町に寄るって言ったからさ」
家を引っ越してしまったのだからタダでさえ長距離運転手の彼氏と会うのは難しい。
「……その、酒を飲むとそんなに辛くなるのか? 私が筋肉食堂で飲んだバーボンとブランデーは何ともなかったぞ?」
ジェーンが言うが全ては時遅しだ。そもそもペーターを筋肉食堂に呼んでいれば良かったのだ。
――それでミニョンにも会っちまったしな――
気まずそうなミニョンの顔が脳裏を過る。その後のブッ壊れぶりを見たらサイクロン社員に対する権威は失墜するだろう。
――ミニョンはちゃんと仕事ができてるもんな――
ミニョンは自分たちに身体が商品だと言っていたのではなかったか。
ミニョンは脳が商品なのだから酒を飲んで多少くだを巻いてもそこまで気にする事では無かったはずなのだ。
――左遷されて辛いって言ってたしな――
住む予定の家も失い、都会を追い出されるように出て来たのでは不平不満も出てくるだろう。
メンバーたちには内緒にしておいてやった方が良さそうだ。
「先輩たち本当に顔色悪いですよ」
心配したらしいスジンが声をかけてくる。
「個人的な感想なんですが糖質には麻薬みたいな依存性があるんですよ」
二つのカップを持ったロビンが近づいてくる。
「これ、飲んでください。美味しくないけど楽になるはずです」
ロビンから黒い液体の入ったカップを受け取る。
コーヒーのような臭いがするが本当に美味しくなさそうだ。
ヒルダが液体に口をつける。
「何だこりゃ? コーヒーか?」
ヒルダに続いてハンナも口をつける。確かにコーヒーだが何だかやけに重たい感じがする。
「コーヒーに無塩バターを溶かしたものです。糖質の飢餓感は油を取ると楽になるので。僕も食レポとかした後はしばらくこれです」
言われてみると満腹でも収まらなかった空腹感が無くなっていく気がする。
――この子はなんていい子なんだろう――
「ロビン、受け身の練習が終わったら簡単な技を教えてやるよ」
体調不良も少しは楽になった気がする。
――これからは糖質を取るのはやめよう――
上司が飲んでいても飲んだら次の日はポテンシャルが思い切り下がる事が分かったのだ。
――に、してもミニョンが来る前はこれが普通だったんだよな――
考えれば随分恵まれた暮らしになったものだ。
※※※
コクピットの中にアドレナリンと電子臭が充満している。
グリップを握る手がじっとりと汗で滲んでいる。
イェジはヴァンピールで羅生門と対峙している。
二日連続で羅生門に敗北し、今日もまた追い込まれている。
――勝たなきゃいけないのに――
「どりゃああああああっ!」
イェジのヴァンピールが剣を大上段から振り降ろす。
羅生門の短剣が受け流し半回転した長剣が背後から襲い掛かる。
イェジは前転して躱して起き上がろうとする。
突き出された羅生門の短剣を跳ね上げるが、流れるような動作で長剣が袈裟懸けに襲い掛かる。
受ける余裕も避ける余裕もない。
判定を告げるブザーが鳴り響く。
『勝者ヴァンピール羅生門! ファビオ・フェラーリ』
――くそくそくそくそ――
実力で劣っているとは思えない。ただ羅生門を前にするとどうしても自分のランナバウトができないのだ。
ハンガーに戻ったイェジはコクピットを出ると溜息をつく。
最初に比べれば少しは戦えるようになっている。それでもあの動きについていく事ができない。
「イェジ連敗じゃん」
珍しくランナーキャリアを訪れたエリザベッタが言う。
「三連敗だよぉ」
これが同じヴァンピール同士でファビオの実力なら別の悔しさもあった。
今は勝つ事よりファビオを止める事に意識が向いている。
「あたしらちょっと新しい振り付けにチャレンジしているんだ。顔出しなよ」
エリザベッタが言う。クリスチャンとの修行を始めてからダンスの個人練習にはほとんど出席していない。
イェジはエリザベッタについてルートルのスタジオに向かう。
スタジオにはいつかクリスチャンが持ち込んだ剣のラックが置いてある。
「イェジ来てくれて良かったよ。私たちだけじゃ剣舞は良く分からないし。でも振り付けを作ってみたんだ」
アヴリルが剣で肩を叩きながら言う。
「イェジは会長に直接剣を教わってるんでしょ? 型とか何かないの?」
ジスが尋ねてくる。
「それが型がないのが型なんだみたいな話で……」
イェジは二本の剣を両手に持つ。最初の頃は鉄塊としか思えなかったが自分でも信じられないほどに手に馴染んでいる。
「今は私ら三人だけどさ。イェジも良かったらやってってよ」
エリザベッタがリモコンで曲を再生する。
剣を手にした三人が美しくも力強い剣の舞を見せる。その動きを見ていると三人も天衣星辰剣の継承者で良いような気がする。
そのリズムでイェジの身体が自然に動き出す。
三人の振り付けは素晴らしいが……
――剣が私に舞えって言ってる――
Aメロのサビが終わった所でイェジは三人のダンスに加わる。
アイコンタクトで位置を確認し合いながらポジションを取る。
曲が転調しアヴリルのラップパートになる。
イェジは無我夢中で剣の舞を舞う。
Bメロで全員が揃っての群舞になる。
――この一体感、何かが通じた感じ――
ああそうか。
――私は剣を羅生門をやっつける武器みたいに考えて――
羅生門の闘志に当てられてイェジは自分の試合ができなかった。
フィールドはステージでその上で最も美しく舞うのが天衣星辰剣だ。
勝ちとか負けとかそういうものをステージ持ち込んで、いいパフォーマンスができる訳がない。
「イェジ、即興でラップに振り付けつけるとは思わなかったよ。みんな小休止だったのに」
アヴリルの言葉にイェジは満面の笑みを浮かべる。
三人のお陰で剣の迷いが消えた。
――ファビオを更生させるとか羅生門を倒すとか――
そんな事はどうでもいいのだ。
――美しければそれでいいんです――
心のどこかでクリスチャンの言葉が聞こえた気がした。
※※※
練習後ハンナは寮の近くで保育園バスが来るのを待っている。
二歳になる息子のヨナはやっと少し喋れるようになった所だ。これまでは帰ってきたら食事の支度をしなくてはならなかったが、今は筋肉食堂があるから食事の支度は必要ない。
ハンナは端末の時計に目を落とす。
4時には来るはずだが4時半になってもバスがやってこない。
――何かあったのかな――
ハンナは保育園に電話をかけてみる。
「ヨナの母のハンナですがバスが来ないんですけど」
『運転手からタイヤがバーストしたという連絡が入った所で。一時間か……しばらくかかると思います』
毎日毎日田舎道を長距離走っていたらタイヤもパンクするだろう。
――いつまでかかるか分からないってのが一番困るんだよなぁ――
「ハンナさん何やってるんですか?」
買い物袋を抱えたロビンが声をかけてくる。
やけに素朴で家庭的な子だと感じる。
線も細いし濃い顔のたくましい男が好きなハンナから見るとどうして人気があるのか分からない。
「子供の乗ったバスのタイヤがパンクしちゃってさ。何時に戻るか分からないの」
業者が来てバスのタイヤを交換してとなると一時間では済まないだろう。
「場所は分かるんですか?」
「聞けば教えてくれるだろうけど私は車持ってないしね」
ハンナが言うとロビンが端末を取り出した。
「そういう話だ。遮那王、こっちにコクピットを回してくれ」
「そういう話ってどういう事だ? コクピットを回すって?」
ロビンの言っている事がハンナには分からない。
「これでも僕はライダーなんです」
ロビンが言う間にも運転席のあるべき部分に涙滴型のドームがある四輪のバギーのような車が疾走して来る。
ドームが開いてバイクの運転席のようなものが姿を現す。
当たり前のようにロビンが運転席に跨る。
「ハンナさんも」
「えっ?」
ロビンがライダーだという事を知ったのもこのようなマシンを見るのも始めてだ。
ハンナはタンデムシートの後ろに腰かける。
「じゃあ行きますよ。遮那王、事故現場は?」
外の様子が見えるドームに地図と現在地が表示される。ロビンがバイザーのついたヘッドギアを装着する。
「システム遮那王起動! ライド・オン」
モーターが唸りを上げて遮那王と呼ばれたマシンが走り出す。
周囲の景色が驚くほどの速さで流れていく。
「ちょっと近道します。つかまっていて下さい」
町の中心部を離れた所で遮那王の格納されていた四本足が展開される。
コクピットがロデオのように揺れるがロビンの身体は全くブレていない。
――すごい体幹持ってんだな――
ロビンは小柄だが鍛えたらすごいレスラーになるかもしれない。
しばらく走った所で遮那王の前方に路肩で停車しているバスが現れた。
「あのバスだ。良かった何もないみたいだ」
ハンナは溜息をつく。大事故ではないと聞かされていても心のどこかで不安だったのだ。
「ハンナさん。息子さんが待ってますよ」
ロビンが言うとコクピットのシェルが開く。
――ロビンっていい子だなぁ――
ハンナはバスに駆け寄ると息子を抱きしめる。
押っ取り刀で荷台に作業用ランナーを乗せたトラックがやって来る。
子供たちを降ろし、作業用ランナーがタイヤ交換の仕事を始めようとするとロビンの遮那王がバスを持ち上げるのをサポートする。
業者が来るのは遅かったが作業自体はロビンが手伝った事もあって十分ほどで終わった。
「ハンナさん、バスよりこっちの方が早いですよ」
コクピットのシェルを開いてロビンが言うと子供たちが喝采する。
――華のある子だなぁ――
ハンナは息子のヨナを抱えてタンデムシートの後ろに座る。
「子供がいるからあんまり揺れるのは……」
「分かってます。安全運転で行きますよ。行こう、遮那王」
シェルが閉じて遮那王がタイヤで滑るように走り出す。
――ロビンって華奢だけど行動が男前なんだな――
ロビンはこれまでハンナが付き合った男たちとは明らかにタイプが違う。
歳は十一歳も下だし、押しも押されぬアイドルの卵だ。
――でも今はこの子に甘えておくか――
明日からの練習に少しだけ違った楽しみが生まれたようだった。
※※※
「吹っ切れた顔だな」
ファビオとの模擬戦の為にランナーキャリアにやって来たイェジにUMS社長のバスチエが声をかけてくる。
「私の味方をしてもいい事なんてありませんよ」
イェジは自分の舞を舞うだけだ。それ以上もそれ以下もない。
「今日は俺がお前のナビをする」
「不公平じゃないんですか?」
イェジは言ってから皮肉を言ってしまったかと気になる。
「向こうは特別なシステム積んでんだ。俺なんざ下駄にもなりゃしねぇよ。でもお前にゃチームとランナバウトの作法ってヤツに慣れてもらう必要がある」
バスチエの言葉の意味がイェジには良く分からない。
「ランナバウトの作法?」
「何の事は無ぇ。ライダーはピットの指示に従えって事だ。うちは言うこと聞かねぇヤツが多くて困るがな」
バスチエがウインクする。
これは遠まわしに自分が正規ライダーになると言われているのだろうか。
負けてばかりなのにいいのだろうか。
「今日はビームじゃなくて実剣を使う。金のかかった試合になるんだ。いい所を見せろよ」
言ってバスチエがハンガーを出ていく。
イェジはコクピットのシートに跨る。
「システムヴァンピール。ライド・オン」
全高20メートルのヴァンピールに息が吹き込まれ、雷音と共に振動がコクピットに伝わる。
バイザーが降りて全方位の映像とデータが表示される。
――やっぱりこれは趣味の世界だ――
思いかけてイェジは自分がワクワクしているのを感じる。
ここしばらくは……
ヴァンピールのコクピットが重かった。
気になる事が多すぎてヴァンピールの声が聞こえていなかった。
「行こう! ヴァンピール」
イェジはヴァンピールを駆ってフィールドに向かう。
遠く赤コーナーに羅生門の姿が見える。
――ファビオは勝ちたい、勝ちたい、ただその一心だけで――
そうして得た勝利の先に幸せはあるのだろうか。
『イェジ、相手は流水明鏡剣108の型をプログラミングしたロボットだ。お前が戦うのは仮免許のファビオじゃない、流水明鏡剣の剣士だ』
バスチエの声がコクピットに響く。そんな話は初耳だ。
ファビオは強力な改造ランナーに乗っているだけじゃなく、そんな特殊な武器も持っていたのか。
『めでたい話だ。流水明鏡剣に対する天衣星辰剣の勝率は九割だ』
「昨日まで散々負けて来たんですけど」
グリップを握りながらイェジは言う。
『昨日までは全然天衣星辰剣の剣士の動きじゃなかった。今日は違う。そうだろう?』
「分かるんですか? そんな事」
『勝利を確信した剣士の顔ってのは見慣れてんだ。お前は勝てる。思い切って行け』
バスチエの激が胸に染みる。これまでもイェジを応援してくれていたのだろうか。
人気があるのはファビオばかりで自分には人気がないと思い込んでいた。
『オン・ユア・マーク』
拡声器越しのチーフメカニックのダニオの声が響き、イェジはフィールド中央の白線まで進み出る。
手の届きそうな距離に羅生門の姿が見える。
『ゲットセット』
イェジは二本の剣を抜いてだらりと力を抜いた体勢で構える。
目の前の羅生門が守りの短剣を前に、攻撃の長剣を上に構える。
――三度も同じものを見せられれば――
『GO!』
イェジは先手を取って突進する。
羅生門がヴァンピールの斬撃を受け流そうとする。
その受け流しを許さずその力で逆上がりのように機体を空中に舞い上がらせる。
ヴァンピールの刃のような二連撃が羅生門の動きを止める。
『イェジ! プッシュだ! 攻め続けろ!』
着地と同時に右手の剣を振るう。短剣で受け流そうとする羅生門の力より軽い力で斬撃を逃がす。
振り子のように左手の剣を繰り出す。
羅生門の長剣とぶつかった瞬間力を抜く。
羅生門の長剣めがけて右手の剣を振るう。受け流せない長剣が火花を散らす。
『スピードを上げなさい! 何の為に稽古をつけたと思っているんです』
突然クリスチャンの声が割って入る。
――お師匠様――
イェジは手数で羅生門を圧倒する。羅生門の禍々しいカウルが破壊され次々と剥がれ落ちていく。
捨て身の羅生門が長剣で突きを繰り出す。
ヴァンピールの切っ先を弾かせてその反動で機体を宙に舞わせる。
――これで終わりだ!――
ヴァンピールが振り降ろされた羅生門の刀身の上に立つ。
ヴァンピールの重量で羅生門は剣を動かす事ができない。
イェジは切っ先を羅生門のマスクに突きつける。
羅生門の機体から白旗が上がる。
『勝者ヴァンピール! ヤン・イェジ!』
「やったあぁぁぁぁぁぁぁっ!」
イェジはコクピットでガッツポーズを取る。
自分のランナバウトができてしかもあの羅生門を撃破した。
もう羅生門とは何度戦っても負ける気がしない。
――私は天衣星辰剣の剣士なんだから――
その誇りと共にこれから生きていくのだ。
※※※
羅生門は予定通りイェジに敗北した。
フィールドの近くに停めていたキャンピングカーから観戦していたオルソンは複雑な気分で羅生門の敗北を受け止める。
イェジとファビオではライダーとしての能力に差がありすぎたとはいえ、イェジを打倒するつもりで羅生門はカスタムした。
実際イェジに三連勝したし、それは羅生門の仕上がりを否定するものではない。
しかし、この一戦では羅生門はヴァンピールに一太刀として負わせる事はできなかった。
文字通りイェジの圧勝だ。
――造りたい――
イェジのランナーを造りたい。中古のヴァンピールでここまで戦ったのだからスーパークラスと言っても問題ないだろう。
指先の、剣の握り具合までもをコントロールし続けるイェジの操縦は繊細。しかし、その剣は大胆だ。
――まるでショー……――
そこまで考えてオルソンはイェジの脱皮に思い至る。
イェジは相手を倒そうと思ってフィールドに上がっていなかったのだ。
最高のパフォーマンスをする、古い言い方をするなら神楽を舞いに舞台に上がったのだ。
――僕はランナバウトの表面しか見えていなかったのか――
イェジの剣はまるで初春の花吹雪。
軽やかで爽やかな風に舞うそれは敢えて名づけるなら千本桜。
と、オルソンの端末が着信を告げた。
『バスチエだ。お前さんにつないで欲しいって客がいる。賓客なんで対応してやってくれ』
「……はい」
メールで送ればいいものを人と話をしようとはどういう了見だろう。
何かのクレームだろうか。クレームをつけられるような事をしただろうか。
これがきっかけで誰か乗り込んで来たりしないだろうか。
『俺とははじめましてだな。チームホウライのパウル・ディーター・ヴァイスだ』
「……あ、はい」
何の用だろうか。
『俺の動きをスキャンしてランナーに取り込んだのはお前か』
「え?」
とりあえず上手そうな人間の動画を読み込みはしたが名前までは知れない。
『剣士が自分の動きを見誤るかよ。ったく、俺の動きをトレースしといて負けやがって。寝覚めが悪いったら無ぇぜ』
「あ、はい」
この人は何が言いたいのだろうか。少なくとも肖像権侵害ではない。剣術も著作権になるのだろうか。
『いいか、このシステムを二度と使うな。俺は不愉快だった』
どうやらそれが用件だったらしい。
「はい」
『はい、ってそれだけか? すみませんでした、とか、少しは悪いと思わないのかよ』
どこか気の抜け様子でパウルが言う。
「社命だったので。僕も不本意でした」
『ヴァルハラとは言わないがお前ん所の会社もたいがいだな』
パウルが大きくため息をついて言う。
『もう他人をパクるようなランナーは造らないんだな?』
「自分の意志では。僕は今は勤め人なので」
これはファビオを勝たせろという無理難題に対する一つの回答だった。
しかし結局実力が覆る事は無かった。
『お前に言っても仕方ねぇか。あとはあの小僧がどう納得するかだな』
パウルはファビオを気遣ってるようだがオルソンには義理がない。
ロビンのスタイルを見極めてランナーを造らなくてはならないし、イェジのランナーも造りたい。
『まぁいい。俺は言いたい事は言った。貸しが一つできたんだ。いいマイスターになったら俺にも一機作ってくれ』
パウルが言って通信を切る。
借りと言われても借りを作る原因になったのは会社なのだから会社に言って欲しい。
――イェジはUMS入りを確定させたと言っていい――
しかしイェジはまだそこまで人気がある訳ではない。いきなり新型機を造らせてもらえるだけの予算は下りないだろう。
イェジを認めさせる為には公式戦で勝たせるしかない。
――素のヴァンピールで勝ったらすごいインパクトだろうけど――
世の中そんなに甘くはない。羅生門レベルのチューンをしても選手にカスタムされた競技用ランナー相手では分が悪いだろう。
――ヴァンピールイェジカスタム千本桜――
とにかく設計図を作ってバスチエに見せない事には始まらない。
と、キャンピングカーのドアがノックされた。
「ここ駐車禁止ですよ」
警察だ。捕まったら設計図を作るどころではない。
アクセルを踏むがエンジンがかかっていない。
「あ、あの……」
――どうすればいい、考えるんだオルソン――
金を渡せばおとなしく引き下がってくれるか、しかしオルソンは現金を持ち歩いているわけではないし賄賂になってしまうだろう。
ここは爽やかな笑顔で謝罪すれば少しは量刑も軽くなるだろうか。
「すっ、すっ、すみませ、あの、その」
日頃から笑顔の練習をしていないせいか顔面が引きつる。
「駐車禁止なので車を移動してもらえますか?」
警官が言う。移動だけでいいのか。本当にそうか。とはいえ逆らったら公務執行妨害だ。
「わ、分かりました。すみません。すみません」
オルソンは震える指でイグニッションを押し込む。
「大丈夫ですか? 事故起こさないで下さいね」
「おっ、起こしません」
もう二度と駐車禁止の場所に車を停めるまい。
オルソンはアクセルを踏み込む。昼間だから人の出入りが激しいルートルに戻る事もできない。
――とにかく人けのない駐車場を見つけて車を停めよう――
全てはそこから始まるのだ。
※※※
まぁ順調っちゃあ順調ね。
女神貯筋代表ユージーン・ブラッドは順調にボディメイクを進めているサイクロンのメンバーに概ね満足している。
元々脂肪の下に筋肉はあった訳だからやりやすい部類には入る。
ミニョンから話があった時には迷いがあった。
芸能界でボディメイクの第一人者として知られる自分が、ろくに知名度のないサイクロンという女子プロ団体を一括で面倒をみなくてはならないという。
しかも企画そのものが宣伝になる為にギャラは成功報酬を別にすれば低く抑えられた。
――お陰で長年の悲願だった筋肉食堂もできてるんだけど――
自力で筋肉食堂をやっていたら一店舗を軌道に乗せるまでに何年かかるか分からないし、チェーン展開する頃には引退しているかもしれない。
しかし、七名の女性が一斉に痩せ始めているのを見て筋肉食堂の評価は上がっている。
辺境にあるからロクに客が入らないし、七人のボディメイクも終わっていないから宣伝材料がまだ足りない部分はあるが、企画が終わる頃には一気に都市部に展開できるだろう。
ブラッドは心の中で遠大な計画を練りながらルームランナーで走っているキャサリン、リリー、スジン、ロビンを見ている。
間に筋トレやストレッチ、エクササイズを挟み一日に走る距離は20キロ。
このメンバーの中で最もタフなのはロビンだ。
男性だからというより、元々迷宮少年のサバイバルで過酷なトレーニングを行ってきているという部分が大きい。
とはいえロビンは自分とは目を合わせようとしない。
男性恐怖という話は事前に聞いていたがそれだけではない事は理解している。
ブラッドはストップウォッチに目を落として手を叩く。
「休憩! 十五分休んだら再開よ」
一同が止まったルームランナーの上に座り込む。
「ロビン、ちょっといいかしら」
ブラッドが言うと不承不承といった様子でプロテインバーのカウンターについてくる。
「僕に何か落ち度がありますか?」
ロビンの表情は固い。
「あなたはトランスジェンダーなのよね」
「Xです」
ロビンの答えは素っ気ない。
「最初に言っておくとアタシは男で男が好きなゲイよ」
ブラッドの言葉にロビンは表情を動かさない。
感情を抑えているという事だ。
「僕はそっちの事は知らないんですが、どうして女言葉なんですか? 三つ編みにしたり口紅を塗ったり」
似合わないのに、と、ロビンが言外に言う。
「私に限って言えば生きやすいからよ。ヘテロに一々性指向を説明しなくていいし、何より男でマッチョなゲイがパートナーを見つけようと思ったらどうすればいいと思う?」
「だからって女っぽくするのは……トランスジェンダーが誤解されます」
しかし、ロビンの憤りのポイントはそこではない。
「そういうあなたも一人称は僕で、ファンやマスコミ向けにはジェンダーレスと言いながら美少年で通してるのよね? それも自分が生きやすい為でしょ?」
ゲイとトランスジェンダーの間には互いに理解できない溝があるが、ロビンの生きづらさそのものはブラッドにも分かる。
本当であればロビンは一人称を私にしたいだろうし、かわいいメイクをしたり女性の服を着たりしたいのだろう。
しかしジェンダーレスを売りにしているとはいえ、男の芸能人としてファンもついているロビンには大きなリスクが伴う。
「私は私のビジネスを成功させたい。それはあなたも同じ。ありのままに生きるって言うのは言葉で言うほど楽じゃないのよ」
ブラッドの言葉にロビンが溜息をつく。
「率直に言ってもらってありがとうございます。確かにブラッドさんの言う通りです」
「あんたより長生きしてんだから当然よ」
ブラッドが言うとロビンが憑き物の落ちたような表情を浮かべ、一瞬思案気な表情を浮かべる。
「ところで率直な質問なんですが、ゲイの人はゲイを好きになるというのは本当ですか?」
ロビンの質問にブラッドは笑い声を立てる。
ロビンはこれまで本来の自分の性を隠して来た事で他のマイノリティの事を知る機会も無かったのだろう。
「そんな訳ないじゃない。ヘテロ男子だってあの子がかわいいとか美乳だとか言う時に相手の性自認を考えない訳でしょ? アタシから見れば男はカッコ良ければ全員恋愛対象よ」
ブラッドが言うとロビンが肩の力を抜く。
「そうなんですね。分かって安心しました。僕は女の人を好きになるので同じトランスジェンダーの中でも話をできる人が少なくて」
「人は多かれ少なかれマイノリティなのよ。ヘテロの男でも巨乳好きと貧乳好きは互いの指向を全く理解できないわ。互いを理解できなくても尊重できるなら多様性って事になるんだろうけど」
「なるほどです。見た目だけで人を判断するのは良くありませんが確かに多様性って違いを認める事と尊重する事で、カテゴライズして別世界の人と考える事じゃないですね。所で僕はブラッドさんの好みじゃないですよね?」
「何? アタシに惚れたの?」
ロビンはほとんど警戒を解いたようだ。元々相談相手が周囲にいなかった事も影響しているだろう。
「ないです」
ロビンがきっぱりとした口調で言う。
「それくらい初対面の時の顔で分かるわよ。人間第一印象が9割なんだから。中身9割なんて言われたらルックスで勝負してるあんただって失業するでしょ」
ブラッドが笑うとロビンも笑う。だいぶ打ち解けたとみていいだろう。
ロビンは絞る必要はないが、エキシビジョンでレスラーを投げ飛ばすという大仕事が待っている。
その為の筋肉を付けさせなくてはならないのだ。
※※※
ファビオは自室で頭から毛布をかぶっている。
実剣を使った模擬戦で羅生門は惨敗した。
――何が原因だったのだろう――
人一倍練習をした。NMの注入もした。羅生門はノーマルとは比較にならない高性能だった。
――それなのに――
負けた。ボロボロになった羅生門のカウルには修理の手が入っていない。
もう直す予定がない。つまりはファビオにはライダーとしての出番はもう無いという事だ。
ルカと戦う事も仇を取る事もできない。
ファビオは端末からパウルの連絡先を呼び出す。
ウロボロスの人間は誰一人ライダーとしてのファビオを認めてはくれない。
やや躊躇ってからファビオはパウルをコールする。
「夜分遅くにすみません」
『連絡があるんじゃないかとは思っていたよ』
パウルが落ち着いた口調で言う。
「その……せっかく剣術を教えてもらったのにすみませんでした」
『道場でだって教えてる。教えてくれと言われれば子供にだって教えるさ』
「手も足も出なくて……前の三戦は勝てたんです」
三戦ではイェジを圧倒していたはずだ。
しかし、最後の一戦で……。
『勝負ってのはそういうもんだ。お前を負かしたイェジが百回勝った後に負ければそれは負けなのか? 人は誰でも老いるし老いれば鈍る。勝負ってのは勝者と敗者を分かつ為にあるんじゃない。自分がどこにいるのかを知るためにあるんだ』
「でも勝てなかったら……」
誰でも人の上に立ってこそ賞賛される。理想を並べても世の中には勝ちと負けが存在するのだ。
『負ける事を受け入れたならその人は敗者なのか? 画家の道を諦めた人間が凄腕の経営者になったらどうだ? 他人を蹴落としてまで王座にしがみつくチャンピオンより、どんなに負けてもそこで笑っていられる人の人生の方が幸せだと俺は思うし、仮に勝ち負けで言うなら笑った人間が勝者なんだとは思う』
パウルの言いたい事は分かる。しかし、頭で分かる事と心が納得する事は違うのだ。
『お前の目的が兄貴を倒す事だとするなら、兄貴を倒せるライダーを応援するのも一つの方法じゃないのか? それが俺だと嬉しいけどな』
パウルは優しい人間なのだと思う。だからこそ心の傷が痛む。
『ただ一つ俺が思うのは、お前の兄貴が何もかも失って路頭に迷った時、お前はその兄貴に唾を吐きかけるのかって事だ』
「そんな事は……」
幾ら憎んでいてもさすがにそんな人の道に外れた事はしない。
『仲直りしろ。向こうはお前が思うほど気にしちゃいないさ。俺は寝るぜ。明日も朝から修行なんだ』
言ったパウルが通信を切る。
――兄貴と仲直り……――
そこまで考えてファビオは兄の事を何も知らない事に気づく。
兄は自分が六歳の時に家を出てしまったのだ。そんなに小さな頃の事など覚えていない。
ただ母親がひどく悲しんでいて、心を病んで……。
――俺には怒る相手も悲しむ相手もいなくて――
心の中で兄がどんどん大きな存在になっていって。
パウルの言う通り兄が落ちぶれていれば自分は兄を憎んだだろうか。
――何が正解だったんだ……俺は誰で、何の為に生きて来たんだ……――
ファビオは出口の見えない思考の迷路に迷い込む。
その出口は深い霧に覆われ、そこにあるのが道なのか崖なのかも判然としなかった。
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