第2話 ホウライに吹く風
第二章 ホウライに吹く風
〈1〉
ウロボロスエンターテイメント社長カン・ヘウォンは社長室でUMSの成績に目を細めている。
四年に一度、一年間を通して行われるランナバウトの世界大会「カーニバル」に出場できるのは12チームだ。
それまでの3年間は様々な大会に出たり強豪と戦ったりしてコンストラクターズポイントを稼がなければならない。
WRA(ワールド・ランナー・アソシエイツ)の規定によりこの三年間のコンストラクターズポイント上位12チームがカーニバルに参戦する事になっているからだ。
ランナバウトでは規則を簡略化する為に勝利したライダー及びチームが相手の総保有ポイントの30%を取得する仕組みになっている。
仮に1000ポイントという桁外れの強豪と10ポイントという駆け出しのチームが争ったとする。
10ポイントのチームが勝利すれば総保有ポイントは1000×0.3の300ポイントが加算される。
一方1000ポイントのチームが当たり前の帰結として勝利した場合、計算上は1ポイントにもならないが最低勝利ポイントルールで3ポイントが加算される。
取得ポイントが30%という中途半端な数字なのはランナーが3on3で行われるものだからで、例外的に一騎打ちで10%もある事から30%という事になっている。
とはいえ弱小チームが強豪に一対一のデュエルを挑む事があっても、強豪が受ける事はまずないと言っていい。
ランナバウトの多くは3on3のトーナメントで行われ、トーナメントは地域の自治体やスポンサーが協力して開催する。
賞金の相場は平均で100億ヘル程度で、中小チームなら優勝すれば泣いて喜ぶがウロボロスのような強豪チームにとっては必要経費で消えてしまう程度のものだ。
強豪チームがトーナメントに出場する理由の多くはカーニバルに出場する為のWRAのポイントが目的だ。
――今季のウロボロスは216ポイントか――
悪い数字ではないがカーニバルイヤーの最低当落ポイントは約500ポイントだ。
毎月ウロボロスに匹敵する200ポイント以上のチームの出て来る試合を行い13回勝利すれば一応の当落選ラインは超える。
来年には強豪は300ポイントは超えて来るし、勝ちさえすれば100ポイントの加算は見込まれる。
500ポイントという最低条件はクリアできるが、カーニバル出場可能な上位12チームに食い込むには700ポイントは欲しい所だ。
――この辺りでホームゲームをしておくべきかしら――
バレンシア朱雀州とウロボロス共催であればトーナメントは組める。
問題はどの段階でトーナメントを組むかという点とどれだけ他のスポンサーがつくかという点だ。
当然ながらカーニバルに近い方が注目度が高くスポンサーが集まりやすい。
スポンサーが少なければ賞金額は小さくなり、参加チームも少なくトーナメント自体の注目度が下がり持ち出しばかりが増える事になる。
――VWCに頼るのも癪だし――
蘇利耶ヴァルハラはランナバウト賭博を合法としている為に資金に困る事無く毎月トーナメントを開催している。
VWC最強、リチャード・岸が有するチーム「ラグナロク」は既に500ポイントを超えている。
とはいえWRA公式では賭博は禁止だし、多くの名門チームがヴァルハラで試合をしようとしないのは事実だ。
伝統と格式のあるウロボロスがヴァルハラの大会に出れば汚名になるだろう。
と、ヘウォンの端末が着信を告げた。
噂をすれば影のUMSのバスチエだ。
『社長、ニュースはご覧になりましたか?』
「どのニュースかしら」
ヘウォンは突き放すようにして言う。
バスチエにとってはUMSこそがウロボロスだが、ヘウォンにとっては採算の微妙なセクションの一つだ。
『東方三州が龍山グランプリトーナメントを開催します。間違いなく大きな大会になります』
バスチエが資料を送りつけて来る。
東方三州とはセリカ勾陳州、大韓六合州、傑華青龍州の三州を指す。
この三州は普段から仲が良いとは言えず、協調する事はにわかに考えにくい。
「賞金500億とは随分羽振りがいいわね。ホームゲームをしたい理由でもあるのかしら」
この額の賞金を出すという事は西リベルタ大陸やベスタル大陸のチームにも来て欲しいという意志表示に他ならない。
『ギャラクシーとドラゴンが新型機を投入しました。お披露目のつもりかもしれません』
バスチエが言うが単純に新型ランナーを投入したくらいで大規模な大会を開けるものではない。
ギャラクシーは大韓六合のヒュンソグループがオーナーを務める財閥グループで、ドラゴンは傑華青龍の巨大企業成龍公司の保有するチームだ。
ヘウォンはヒュンソグループのHPを確認してみる。
代表の財閥二世ソン・ジミンの最新の挨拶が投稿されている。
『ポラリスは新次元へ。ポラはあなたの新たな友人』
ポラリスとはヒュンソが開発したOSでベスタル大陸のマールム社のパインOSとIT業界で覇を競っている。
マールム社はベスタルのメディア企業ディスニーと組んで強力なコンテンツでユーザーの囲い込みに乗り出している。
『ポラは高度な学習システムとAIを組み合わせた疑似人格インターフェイスです』
ポラは一見声と容姿を設定できるタイプのコンシェルジュアプリだ。
だがポラは学習とAIによってユーザーの好みや性質を学習し、その姿や声だけでなく対話内容までをも変えていく。
ユーザーを知りつくしあらゆる情報にアクセスできる文字通りユーザーの友人になるのだ。
――これをプレゼンしたいわけね――
ヘウォンにはクリスチャンという推しがいるから必要ないが、ポラを欲しがる人間は無数に存在するだろう。
そしてギャラクシーの新型機には驚くべき事にポラが搭載されているのだ。
通常であればランナバウトの試合中ピットがライダーに指示を送るが、ギャラクシーの新型ではポラが常駐し、常に情報をアップデートしながらライダーをサポートするのだ。
対戦相手はポラによって正確に分析されるだろうし、敵に回せば厄介極まりない事になるだろう。
この大会でギャラクシーが活躍すればポラのプレゼンとしてこれ以上のものはないだろう。
一方のチームドラゴンを有する成龍公司側でも新技術開発の発表がされている。
新型の通信技術を利用した高速接続技術「子龍」だ。
子龍は専用のコクピット側から脳波に近い波長の波をライダーに送る事で脳波そのものを増幅させ、脳からのコマンドの遅延を限りなくゼロに近づけてをダイレクトにランナーに送るという仕組みになっている。
子龍はライダーの反応速度が速ければ速い程有利になるというシステムだ。
極論を言えば子龍搭載機は人体を超えたレベルで機動できる事になる。
ギャラクシーもドラゴンもソフト面を大幅に強化して来たという事だろう。
双方が協力していれば凄まじい相乗効果を生むランナーを開発できそうなものだが、大会を共催しても技術は共有しないという事は大会という舞台でポラと子龍の雌雄を決したいという気持ちもあるのかもしれない。
――セリカ勾陳はこのご近所トラブルに巻き込まれたのね――
何はともあれウロボロスが参加して損になる大会ではない。
『直近ではヨークスター太陰でも大会がありますがキャリアで移動するとなると日程的にどちらか一方という事になりますし……』
「あなたはUMSの社長として龍山グランプリの参加を内定しているんでしょう? UMSの大会参加レベルの決定にエンタの私が干渉する事はありません」
ヘウォンはバスチエに向かって言う。
何らかの形でエンタに保険をかけておきたかったのかもしれないがヘウォンはそこまで甘くない。
経営に失敗があるならバスチエ自身が負うべきだ。
――とはいえ久々の大きな大会になるか――
優勝候補が顔を揃える事にもなるだろうし、そうであればウロボロスとしても大会を利用して宣伝につなげたい所ではある。
――ディスニー社が出てくれば面白くなるか――
ディスニー社とマールム社はシューティングスターを一軍、ジュラシックスを二軍としてスポンサードしている。
元々はシューティングスターのスポンサーだったのだが、株主の間からドラグーンしかないシューディングスターに投資する事に疑念が生じ、経営手腕に優れたバーナード・ハサウェイをマネージャーにジュラシックスというチーム設立に至ったのだ。
ジュラシックスはドラグーンに関して言うのであればシューティングスターのランナーを運用している為に強力なチームである事に疑いの余地は無い。
ヨークスター太陰州の市民感情ではシューティングスターがナショナルチームだが、チームバランスや投資家レベルではジュラシックスが実質的なエースと言っても過言ではないだろう。
――どうせ出場するなら荒れてもらった方が美味しくはあるんだけど――
内心の期待までバスチエに教えてやる事はない。
ヘウォンは参加チームを見て大会を利用した企業戦略を練らなければならないのだ。
〈2〉
ロビンはウロボロスミュージックのスタジオでいつものように汗を流している。
迷宮少年のサバイバルはほぼ結果は見えている。
ダンススキルの高いロビンは高い確率で生き延びられるだろう。
同じ振り付けでもタレントによって踊り方は異なる。
ファビオであればカッコ良く、セルジュなら正確に、ドヒョンならパワフルに踊る。
ファンは見ている分には違いが分かるが、再現しようと踊ってみると誰がどう違うのか混乱する事になる。
それがプロと素人の差というものだ。
女子の方はダンスでは早くもイェジがリードし始めている。
参加が遅かろうがスキルは嘘をつかないのだ。会長ゴリ押しだとSNSは大荒れだがデビューが決まってしまえば文句を言う者も消えるだろう。
――に、しても残酷と言えば残酷だな――
現在イェジが女子の一軍に食い込む一方でメインボーカルのオリガ・エルショヴァがダンスで脱落しかかっている。
色素の薄い妖精のような容姿と美声を持つ少女で普通に考えるなら文句なしでデビューなのだが、元々他のデビュー組と比べるとダンススキルが低かった為にイェジが来た事で難易度が上がったダンスについて行けなくなっているのだ。
デビューがほぼ確定のアヴリルとジスは固定のまま、エリザベッタと交代したオリガが辛そうな表情で壁際に戻って来る。
体力的にハードならダンスについていけない事も苦しいのだろう。
ロビンはオリガにミネラルウォーターを差し出す。
「ロビンありがとう」
ペットボトルを持つのも苦痛といった様子のオリガが言って口をつける。
視線の先にはエリザベッタとイェジの姿がある。
「オリガから見てイェジの声ってどうなの?」
オリガは元々メインボーカルだしその優位は変わらないだろう。
「声量がすごい感じかな。繊細さが足りないし高音域でぶれるけどこれまで専門的なトレーニングを受けてこなかった事を考えるとね」
オリガは弱気になっているようだが、フィジカルだけで歌が歌えるとはさすがに彼女も思っていないだろう。
「確かに肺活量はすごいよね。あれをコントロールできるなら確かにオリガの次を争うくらいになるかも……か」
ロビンの言葉にオリガが頷く。
「ここに来てあんな子が出て来るなんて……悔しいって言うか……」
適当な言葉が見つからない様子のオリガが重い息を吐く。
「結局は事務所が迷宮少年をどうしたいかって所なんだろうね。ボーカル重視で行くならオリガは欠かせないし、ダンス重視で行くならイェジは外せないし」
ロビンが言うとオリガが儚い笑みを浮かべる。
「それは私に気を使ってくれてる?」
「どっちかに偏るかって話。逆にパフォーマンスを見直してオリガとイェジの両方を取るなら、割りを食うのはどっちつかずのエリザベッタかもしれないし」
エリザベッタは総合力が高いがボーカルにもダンスにも突き抜けていない。
現在のプロデュースはイェジの出現が想定されていないし、試行錯誤の段階だ。
今後の方針によってはエリザベッタが一番危ういとも言える。
「エリザベッタは明るいしメンタルが安定してるからインタビューやバラエティには欠かせないと思う」
ロビンはオリガの言葉に納得する。確かにその見かたは公平で適切だ。実際五人に増えたメンバーの中で誰かを落選させるという事の方が難しい。
そうであれば新参のイェジを外せという話になるのだが、仮に他のユニットや事務所からイェジが出て来たなら迷宮少年はダンスで食われる事になる。
そう考えるとウロボロスのフラッグシップである迷宮少年からイェジを外す事はできない。
いっそ五人のユニットにしてしまえばいいとも思うが、そうなるとこれまで振るい落されてきた練習生も黙っていないだろう。
「う~ん。アヴリル、ちょっと調子が落ちてるんじゃないか?」
トレーナーが女子チームのフォーメーションを見ながら言う。
オリガとエリザベッタの交代がある一方でセンターで踊り続けているのだから疲労もあるだろう。
「それはあなたの考え違いというものです」
いつから居たのか分からないが黒い帽子と黒いパーカーのダンサー風の男が言う。
「お前は誰だ。部外者は……」
男が黒い帽子を脱ぐと艶やかな金髪がふわりと広がる。
「ウロボロスエンターテイメント会長クリスチャン・シュヴァリエです」
スタジオが雷に打たれたようになり、練習生とスタッフが同時に畏怖の目を向ける。
クリスチャンはウロボロスの生ける伝説、見えない法だ。
「アヴリルの背後でダンススキルが上のイェジがウロウロしているからポテンシャルが落ちたように錯覚してしまうのです。総合力から見てイェジをセンターにしろとは言いませんが前列に持って来れば全体のパフォーマンスは見違えるでしょう」
クリスチャンの指摘はもっともだが、本来のフォーメーションであるアヴリルとジスを前列に置いて、後列でオリガとエリザベッタとイェジを交替させながら練習しているのだから仕方のない部分はある。
仮にダンスブレイクでオリガを前列に配置するなら振り付けの難易度自体を見直さなければならないし、それでは迷宮少年のクオリティは保たれない。
とはいえサビをオリガ以上に歌い上げる事のできるメンバーもいない。
――いっそ会長がメンバーを決めてくれればこれ以上競わずに済むのに――
しかし四年間のサバイバルの中ではより残酷で熾烈な争いもあった。
クリスチャンに選択を委ねるのも他力本願というものだろう。
迷宮少年はスタッフを含めて自分たちで解答を出さなくてはならないのだ。
と、普段見られない黒クリスチャンが耳目を集めようとするかのように手を叩く。
「改めてごきげんよう。練習生とスタッフの皆さんお揃いですね。今日は特に思う所がある人に向けて話があるのでやってきました」
ラフな服装のクリスチャンというのもレアだが、普段からスーツ姿という訳でもないのだろう。
「ウロボロスエンターテイメント、もといその母体ともなるウロボロス歌劇は天衣星辰剣という剣術の剣士を育成する機関として発足しました。その奉納神楽が四年に一度の収穫祭のカーニバルで、山車を競わせる機械神楽に端を発するランナバウトでランナーを駆る事が天衣星辰剣の剣士の目的となりました。即ち、迷宮少年の皆さんに私が期待しているのは単純にカリスマのあるタレントというものではなく、ウロボロスの歴史と伝統を背負って立つ天衣星辰剣の剣士でありUMSのライダーなのです」
クリスチャンがさも当たり前の顔で契約書に一行も書いていない事を言う。
「会長、何で最初からそう仰っていただけなかったのですか?」
汗を流しながらファビオが言う。ファビオはライダーにもなりたいのだから最初からそう言われていた方が良かっただろう。
とはいえ他のメンバーはランナバウトはおろか剣術など志していない。
ロビンもランナバウトや剣術をやろうと思ってアイドルになろうとしている訳ではない。
「いいですか。天衣星辰剣、不動雷迅剣、流水明鏡剣の三大流派は本来奉納神楽です。天衣星辰剣は第一にその美しさこそが競われるべきものであると考えます。剣を手にすれば剛腕で優劣をつけたくなるのは人の性。ランナーに乗れば勝利を至上命題とするのは会社の常と言えます。しかし、神楽の本質はその華麗さにより観客を魅了する事にあります。そこでは勝利など些末な問題に過ぎないのです。そこでウロボロスは最も美しくあるべき天衣星辰剣の剣士を発掘する為に芸能事務所を持っているのです」
剣術にしろランナバウトにしろスポーツとは一般的な認識では勝敗を決するものだし、その勝利にこそ価値があると考えられる。
しかし、ウロボロス会長クリスチャンはそれを些末な問題と切って捨てた。
クリスチャンの目線でスポーツを見るなら選手の疲弊を眺めるような総合格闘技のようなものより、筋書きがあっても華やかなプロレスの方が優れているという事になるのだろう。
そう考えるのであればランナバウトはそんなに野蛮ではないしロビンとしてもやってみて良いような気もする。
しかしアイドルとどちらかを選べと言われたならアイドルを選ぶし、今更そんな事を聞かされても簡単に方向転換できるものではない。
「そこで本日から剣術の修行とランナーの操縦を練習カリキュラムに組み込みます」
誰も聞かされていなかったのだろう、トレーナーたちも唖然とした表情を浮かべる。
クリスチャンが手を叩くと剣を立てかけた大きな台が運ばれてくる。
剣は4キロの重量と聞かされてはいたが、実物を目の当たりにするとどこか恐ろしさすら感じさせられる。
この重量の鋼鉄は一歩間違って誰かの頭に振り下ろしでもしたら殺してしまいかねないものなのだ。
練習生たちが各々剣を手に取って悪戦苦闘する。
と、その中で女子の一団が華麗と言っても良い身のこなしで剣を舞わせていた。
恐らく剣術がカリキュラムに組み込まれる原因になったであろうイェジが事前に何らかのレクチャーしていたのだろう。
ロビンは女子の真似をして剣を身体に添わせるようにして動かす。
元から女子の振り付けをしてきたロビンには他の男子ほど無理がないが、何となくは踊れても他の女子同様イェジには追い付く術もない。
クリスチャンの言う天衣星辰剣の剣士がイェジである事は言うまでもない。
このタイミングでの天衣星辰剣とランナバウトの発表。
噂として存在していたとはいえ、会長の今日の発言をスタッフも聞かされていた訳ではないだろう。
これが迷宮少年の新たな選考基準になるならサバイバルは見直しだし、女子メンバーではオリガは脱落したようなものだ。
――オリガも災難だけどイェジへの風当りも強くなるだろうな――
イェジも元から剣など振っていなかっただろうし、天衣星辰剣の剣士になろうなどとはこれっぽちも思っていなかっただろう。
そしてそれと同じレベルでランナバウトのライダーになろうとも思っていないだろう。
しかし、ファンにとっても周囲の練習生にとってそれは言い訳にしか聞こえない。
会長が元々このタイミングで発表する事を予定していたのだとしても、剣の申し子のようなイェジを入れたばかりではタイミングが悪すぎる。
オリガファンが激怒し迷宮少年の炎上キャライェジに新たな燃料が投下されるのは火を見るより明らかだ。
ロビンは剣を必死に扱おうとするファビオとセルジュに目を向ける。
格好良さを追及したハウスやヒップホップは剣との相性が良いとは言えない。
最も筋力に恵まれているはずのブレイクダンスのドヒョンも剣に振り回されるだけだ。
ロビンは自分なりに剣と向き合ってみるが、振ろうと思えば思うほど振れなくなる。
――剣というアイテムそのものに特定の動きを導き出すような機能があるのかもしれない――
だが、イェジを見ているとやるだけ無駄としか思えない。ランナバウトの椅子が二つあるなら挑戦する価値もあるが、一つしかないのでは指定席のようなものだ。
ロビンが疲れて動けなくなる頃、クリスチャンが再び手を叩いた。
「皆さんお疲れ様です。天衣星辰剣は振付ではなく心の内の美しさで踊るもの、少しは感じて頂く事はできたでしょうか? そこで急な話ではあるのですが迷宮少年の皆さんには強化合宿を行ってもらう事になります」
クリスチャンが言うと大型のディスプレイにランナーキャリアが映し出される。
――まだ何かあるんだろうか?――
剣術ではイェジに敵う者がいないと思い知らせるだけでは満足ではないのだろうか。
「皆さんはこの移動宿舎でリベルタ大陸横断の旅に出てもらいます」
「ホテルに泊まったりはしないんですか?」
ドヒョンがクリスチャンに向かって言う。
「練習生の分際で身の程知らずですよ。みじん切りにされてコールスローに混ぜられたくなければ分を弁えなさい」
どういう理由で大陸横断の旅をしなくてはならないのかは分からないが、確かにデビューもしていないのにホテル暮らしというのは何かと角が立つだろう。
「何で移動しなければならないんですか?」
アヴリルがクリスチャンに尋ねる。
「一か月半後に東方三州共催で龍山グランプリが開催されます。皆さんには特等席で観戦して頂き、ウロボロスの次世代のエースとしての意識を高めて欲しいと考えています」
「ランナーの免許習得には座学と搭乗時間が必要な筈ですが」
ランナバウトの選手になる野心があるのかセルジュが尋ねる。
「ウロボロス歌劇の特待生は普通科を免除します。その時間でランナー免許取得の授業、スーパークラス運用の為の関連法規、準警察要員としての法律の勉強と訓練をしてもらう事になります」
「ライダーは警察もするんですか?」
最有力候補とも言えるイェジがクリスチャンに尋ねる。
「我々が扱う競技用ランナーは惑星最強の力です。我々が万が一の事をしてしまわない事はもちろん、ランナー同士の乱闘から天災による災害出動もあります。引退後に賞金稼ぎになる人もいますが、それはライダーがちゃんと法律の守れる準警察要員だから職業として行う事ができるのです」
クリスチャンが答えて言う。
「じゃあ俺たちはランナーに乗れるんですか?」
ファビオが前のめりになってクリスチャンに尋ねる。
「当面皆さんが乗るのは中古の練習機になります。ここでランナーの操縦に習熟すると同時に、B級ライセンス取得の為の搭乗時間も稼いでもらいます」
「当たり前の質問をさせてもらいます。B級で結果を出せなければ当然ながらAクラスへの昇格もありませんし、ましてUMSの専属ライダーという事にもなりませんよね?」
ジスが質問する。
「当然です。皆さんの先輩にはアナベルがいますが、ライダー候補になったのは彼女だけではありません。彼女は確かに天衣星辰剣の剣士ではありませんでしたが、トップクラスのタレントでライダーです。その事に異論を挟める人はいないでしょう」
男装の麗人アナベル・シャリエールはロビンの憧れだ。
アナベルはライダーをする事を承諾する条件として天衣星辰剣はやらないという条件を堂々と突きつけてウロボロス次世代エースになっている。
何かの間違いでロビンがライダーになるとしてそんな条件をクリスチャンやヘウォンに突きつけられるとは思えない。
「その……剣士やライダーになる事が迷宮少年の条件になるんですか?」
オリガが不安そうに尋ねる。
「私は思うところのある人はと言ったはずですよ」
普通科が免除されて訓練という事はそういう事なのだろう。
「私たち以外に剣やライダーの素養のある人が出てきたらどうなるんですか?」
「天衣星辰剣は美しさを競う剣です。幾ら試合に強い剣豪であろうとウロボロスのタレントとしてデビューできる水準にない者にその資格はありません」
アヴリルに答えてクリスチャンが言う。
これまでの迷宮少年サバイバルの企画でデビュー組はほぼ確定している。
――ここから先は迷宮少年内定の九人だけか――
法律の勉強やライダーとしての訓練をしながらキャリアで大陸を横断する旅をするという事はもう学園生活は無いという事だ。
それが芸能人になる事だと言われればそれまでだがロビンには少し寂しくもあった。
〈3〉
オルソンは狭いながらも北欧風の調度で統一されたキャリアの自室に満足していた。
用途の不明瞭な部屋が多くあったり無駄に数の多いシャワールームはあるが、キャリアがオルソンが欲して止まなかった自宅である事に違いは無い。
オルソンは朝一番で中央市場に出かけると良く太ったアンコウを見つけた。
普段なら避ける高級食材だが今日ばかりは別だ。
癖のない白身を香草と一緒に蒸し、刻んだ皮をスープに入れる。
海のフォアグラとも言われる肝はムースに仕立てた。
山芋は好き嫌いが分かれると考えて大根のサラダを作り、自分で漬けたキムチも添えた。
デザートはエスプレッソと新鮮な卵とチーズを使ったチーズケーキだ。
準備を整えたオルソンは小さく息を吐く。
デリバリーで取り寄せた料理のほとんどは自力で再現する腕があるという自負があるし、そこから独自に料理を発展させてもいる。
学生時代も料理は好評だったし大事な客をもてなすには料理が一番だろう。
午前11時30分。
『ウロボロスエンターテイメント社長カン・ヘウォンです。必要であれば秘書のオットーは外で待たせます』
料理は余裕を持って五人前作ってある。
だが、オルソンは一度に三人以上の人間と接する事ができない。
初対面となれば本来一人が限界だ。秘書をキャリアに入れるべきか入れないべきか。
外で待たせるのは気の毒だし、入ってもらうくらいなら構わないだろう。
『オルソン・カロル。いるのよね?』
「あ、はい。どうぞお入り下さい」
オルソンが玄関のドアルカを外そうとすると勝手にドアが開いた。
ヘウォンは合鍵を持っているらしい。
オルソンはテーブルの上の料理の配置を角度を変えて確認する。
ウロボロスエンターテイメント社長を歓待する準備はできている。
ドアが開き理知的な印象の女性と物腰の柔らかそうな青年が姿を現す。
「ウロボロスエンターテイメント社長のカン・ヘウォンです」
オルソンは背筋を伸ばして唾を飲みこむ。
「オルソン・カロルです。昼食はまだでしょう? ささやかながら一席用意させて頂きました」
オルソンが言うとヘウォンが一瞬怪訝な表情を浮かべてからオットーに目くばせする。
「ランチの予定はキャンセルします。先方の社長には後ほど……」
「任せるわ。オルソン、食事の前に契約内容を確認したいのだけど構わないかしら」
ヘウォンが言うとオットーが端末を立ち上げる。
「まずあなたの立場に関してになるけど、現状ではこのキャリアの管理人という事になるわ」
「管理人?」
料理が冷める事を気にしながらオルソンは聞き返す。
「ウロボロスはあなたが想像しているように大企業よ。でもお金がある事とそれを恣意的に気前良く使えるというのは全くの別問題。本来契約外でキャリアを用意するというのも破格以前の脱法スレスレの方法だった」
オルソンにはヘウォンの言わんとしている事が分からない。
「わが社の誠意を示す為に言われた通りのキャリアは用意したけど、それはあなたの所有物となる事を意味していない。あなたが贈与税の二億ヘルを用意できるなら話は別だけど」
オルソンは背筋が凍り付くのを感じる。それではこのキャリアは何だと言うのか。
仮に自分のものにするとしても最低でも贈与税の二億ヘルを支払わなくてはならないようなのだ。
そんな大金があるならキャンピングカーで暮らしてなどいない。
「このキャリアは迷宮少年のキャンペーンで作られた移動宿舎。あなたはその宿舎の管理人という事になるわ」
――そんな話は聞いていない。やっと手に入れたこの平穏を他人が土足で踏み荒らすというのか――
「あの、その、僕は、その、自閉症で、人と接するのが困難なんです。誰にも会わずに生きて行くためにキャリアが欲しいと言ったんです。どんなランナーでも設計しますからここには人を入れないでください」
――僕は全人類が滅びても水道と電気が止まらない限りは何不自由なく生きて行ける。むしろ安心して生きて行ける。その僕が不特定多数の見知らぬ人間と共同生活なんて――
「あなたはマイティロックを設計したかもしれないけど、VWCと揉める気が無い以上ウロボロスはそれを公にできない。社会的に見た時あなたは大学を卒業しただけの住所不定無職に過ぎないのよ。ウロボロスはそのあなたに移動宿舎の管理人という職業と住環境を用意した。どれほどの才能があったとしても何の成果物もないあなたを我が社のマイスターとして役員会に認めさせる事はできないわ」
ヘウォンの言葉が刃となってオルソンに突き刺さる。
膝が震えて脂汗が吹き出してくる。一見美人のお姉さんだが恐ろしい人だ。
「あなたはここで生活する練習生の乗るランナーを作る事になる。人となりを知る事はマイスターにとってプラスではないのかしら?」
――一般的なマイスターはそうかも知れませんが僕は一般的ではないんです――
「もちろんあなたの設計図にUMSがGOサインを出せばそこでUMSとのマイスター契約が成立する。十億になるか二十億になるか知らないけどあなたは多額の契約金を受け取る事になるだろうし、機体の性能が良ければ長期契約や専属契約という事もある。あなたにとってマイナスの話ではないはずよ」
眩暈のしてきたオルソンは椅子に座り込んで荒い息を吐く。
話が理解できないわけではないが体調がついていかない。
「オルソン?」
揺れる視界の向こうでヘウォンが怪訝な表情を浮かべる。
世の中が甘くないという事は知っていた。
それでもオルソンにとってヘウォンとのファーストコンタクトは辛すぎた。
――もう駄目だ――
※※※
オルソンは自室のソファーで意識を取り戻した。
ウロボロスの社長をもてなすつもりがとんでもない事になってしまったと思う。
「意識は戻ったみたいね」
ヘウォンが紙袋を潰しながら言う。過呼吸の発作を起こしていたのを治めてくれたらしい。
「すみません。昔から対人恐怖症の自閉症で、日常生活は送れるのですが人と話をするとなると……」
ぐったりしたままオルソンは言う。
「あなたの料理は繊細でとても美味しかったわよ。ランナーを作らせておく方が人類の損失かも知れないわね」
ヘウォンの言葉にオルソンは胸が熱くなる。意識が飛んだ時にはもう駄目だと思った。
それでもヘウォンはオルソンを介抱して意識が戻るまで待っていてくれたのだ。
「すみません。いきなり倒れたりして。昔からこんな感じで。他人と協調しなくちゃならないような事はエイミーという友人に任せきりだったんです」
「あなたに必要なのはその友人より医者みたいね。薬は飲んでる? 薬があればだいぶ違うんじゃない?」
「家を出ていく事になってお金が無くて、キャンピングカーで放浪してたから病院にも行けてなくて」
言いながらオルソンはヘウォンと会話できている事に驚く。
危ない所を救われて本能的な部分がヘウォンを味方だと認識したのかも知れない。
「どの道キャリアにはドクターを置く予定だし、練習生の為のメンタルコーチもいるから大丈夫よ」
「その医務室に向かうまでに誰かと会うんじゃないですか?」
「共同生活を送る以上完全に避けては通れないわね。誰とでも付き合えるようになれとは言わないけど、あなたなりの人との関わり方ってものはあるんじゃない?」
ヘウォンは思ったよりひどい人物ではないのかも知れない。
見てみれば無駄にイケメンだった秘書もいない。
一対一でなければ駄目だという事を理解して対応してくれているのは応用のきく頭の良さを持っているからだろう。
「正直に言うと僕は大学のレポートみたいに設計図を買い取ってもらえればいいって考えていたんです。でも僕はマイスターとしてスタートラインにも立っていなかったんですね」
オルソンが言うとヘウォンが悪童のような笑みを浮かべる。
「あなたはマイティロックのマイスターなんでしょ?」
そうだった。自分はマイティロックを設計したランナーマイスターなのだ。
「マイティロックを超えるランナーのマイスターです」
日常生活や人との関わりを人並みにする事はできない。
しかしランナーの設計に関しては誰にも譲れないものがある。
「これはトップシークレットだけどウロボロスエンターテイメントとしてはライダーとしてデビューさせる練習生を選定済よ。そのつもりでその子を見て、その子の為のランナーを作って欲しいの」
オルソンは厳重なパスワードで守られたファイルを見つめる。
もっとその人を知りたいと思う。
そして……
――エイミーに僕の作った最高のランナーを見て欲しい――
オルソンの「本物」を見ればエイミーも量産型ランナーの仕事などやめて戻って来てくれるかも知れなかった。
〈4〉
ランナーの教習所に連れて来られたイェジは何とは無しに競技用ランナー「ヴァンピール」を見上げている。
Bクラスチームで使われている人気の量産機で、黒と濃紺を基調とした機体にやけにとげとげしいカウルがついている。
どうせ乗るなら以前見た白の電気騎士がいいが、あれはクリスチャン専用の超高級ランナー「セラフィム」だという事が分かっている。
「まだ良く分からないんだけどさ」
イェジは同室のエリザベッタに囁くようにして言う。
「何が?」
「アイドルのスキルでダンスが役に立つって言うのはあると思うんだ」
「そこで挫折する子も多いよね」
「ダンサーがアイドルの候補になる事もあるんだよね」
「あんたは会長の目に止まってダンスの一点突破で来たんだもんね」
「それは運が良かったと思うんだけどさ。どうしてアイドルがランナーに乗る訳?」
イェジにはクリスチャンの話は謎理論だ。
剣術にダンスが応用がきくからというのは何となくは分かるのだが、そのダンサーをランナーに乗せようというのは何かが飛躍していないだろうか。
「大人の事情でしょ。ただランナーに乗ってランナバウトに出られるのは2万人以上がオーディションに落ちた迷宮少年8人のうち一人だけ。強いか弱いかは別としても象徴的意味は大きいんじゃない? 自分がウロボロスのタレントのトップなんだっていう」
エリザベッタには意欲があるようだがイェジにはウロボロスでてっぺんを取ろうというヤンキーのような気概はない。
ダンスの練習は人一倍しているし、迷宮少年のサバイバルに入ってからボイトレと演技の練習も頑張っている。
自撮り写真の腕が大きく上がったのは何も写真の腕前が上がったからだけではない。
だが、その時その時は必死でも何となくここまで来てしまった感も否めないのだ。
筋力や柔軟が女子トップだったりダンスの振りつけを覚えるのが得意なのはこれまでダンスばかりしてきて、身体を鍛えていたり多くの振りつけを覚えているからだし、それはそれで別の道を歩んで来た人と一緒にされては困ると思う。
ウロボロスのオーディションに受かって迷宮少年のサバイバルに参加している事は純粋に凄い事だし、それはメンバーを見ても思う事だ。
とはいえイェジにはアイドルになるという覚悟のようなものがまだ足りない。
他の人間を押しのけて自分がアイドルになりたいかと言われると、ダンスは続けたいし歌も上手くなりたいがそれ以上でもそれ以下でもないのだ。
ダンスにはコーチがいるが天衣星辰剣にはコーチがいないし使える人間がほとんどいないのだからそれはそれで仕方ないが、剣舞にしてもクリスチャンが丁寧に指導してくれる訳ではなく半分闇雲に剣を振り回しているだけだ。
「おいそこのどんぐり、ボサっとするんじゃないよ」
男装の麗人。圧倒的な女性人気を誇るウロボロスの花形アナベル・シャリエールが言う。
切れ長の涼し気な碧眼に刈上げにした艶やかな金髪。引き締まった体つきだが、胸はかなり着痩せしているように見える。
――ショートカットにできるのって元から美人の特権だよねぇ――
「私の顔に何かついているのか? 説明に不服でもあるのか?」
アナベルが険しい視線で言う。
本人もさぞかし不満である事に違いがないが、ウロボロスのトップスターをランナーの教習に使うというのは恐ろしい才能の無駄遣いだろう。
「まぁいい。ランナーのコクピット、言ってしまえば脳みそはこの外殻、シェルのついたバイクのおばけだ」
アナベルがタイヤを外したバイクのような物体を蹴飛ばして言う。
シートに跨って座りグリップを握るのが基本姿勢で、操縦自体は脳波によって行われる。
このランナーのコクピットは基本的に一人のライダーしか扱う事ができない。
理屈の上では個人端末を挿入すれば大抵の機械はユーザーにカスタマイズされるものだし、実際一般のランナーもそうなのだが、競技用のランナーに関してはランナーが「意志」を持っておりこのコクピットが脳の代わりになっている為にそうも行かないのだという。
その代わりにこのコクピットを二輪や四足歩行のバイクに乗せればそのまま運転する事ができるし、常時端末とリンクしている為にバイク状態のランナーを呼びつける事もできる。
呼びつけにできたり脳波で操縦できるのだからわざわざ人が乗らなくても良さそうなものだがそうも行かないのがランナバウトという競技であるらしい。
アナベルが口笛を吹くと三本の足を格納したバイクが走ってくる。
「これが私のナイトライダーのコクピットだ」
アナベルが華麗な動作でナイトライダーに跨る。
「コクピットに乗ると脳の電気信号がランナーとリンクする。同調した状態をライド・オンという」
アナベルが言うとヴァンピールがタイヤと足を分離したナイトライダーを両手で掴んで胸部のコクピットハッチに格納する。
コクピットが格納されている胸部を攻撃するのはランナバウトの悪質な反則とされており一発で反則負けになる。
ヴァンピールの外部スピーカーがオンになる。
『システムナイトライダー、ヴァンピール、ライド・オン』
アナベルの声と共にヴァンピールの頭部の目が光る。
ランナーの頭というのは便宜上のもので、実際に頭としての機能を有している訳ではない。
ただし、象徴的な意味は大きく、ランナバウトでは頭部を破壊されると0.5秒コクピットの視界がブラックアウトする仕様となっている。
実戦で0.5秒も身動きできなければ大きな隙を作ってKO負けになるだろう。
『ライド・オンでシステムとライダーがリンクする。あとは全高20メートルというサイズ感とランナーの可動範囲を身体で覚えていくだけだ』
ヴァンピールが自分を指さしながら言う。
現役エースライダーを連れてきてまさかの身体で覚えろだ。
イェジがげんなりした気分で様子を眺めていると一台のトレーラーが一同の前で停車した。
貨物室のハッチが開いてずらりと並んだ新品のコクピットが姿を現す。
『初回起動時は端末と同期させるのを忘れるな。これからは端末がランナーの目となり耳となってお前たちと一緒に生活するんだ』
男子チームが我先にコクピットの半透明のフィルムを剥がして起動していく。
コクピットの状態ではどれも一緒だそうだから争う事でもないだろう。
――まぁ残り物には福があるらしいし――
イェジは最期に残ったコクピットに跨る。
思ったより安定感があり「乗っている」という感覚がする。
――これは趣味の世界だ――
ランナーを発明した人間はワクワクしながら作ったに違いない。
イェジは自分の端末とコクピットを同期させる。
――これってパスワードとか知られたらすごい個人情報の漏洩になるんじゃ……――
アナベルの説明通りならこれから先は端末は端末としての機能だけでなく、このコクピットの目となり耳となるのだ。
イェジが考えている間にも教習用の二機のヴァンピールにはファビオとセルジュが既に乗り込んでいる。
待機人数は六人と出ているから最後までイェジには回って来ないという事だ。
待ち時間でアヴリルたちがバイクモードを試している為、二輪車も埋まっている。
――いいわよ、四本足でかっ飛ばすわよ。教習所の中で――
イェジが指示を送ると四本脚を格納した四輪のバギーのような車が走ってくる。
シェルで覆われたコクピットがロボットアームでセットされる。
――確か教習所の外ではまだ乗れないんだよね――
イェジが検索すると障害物コースが表示される。
障害物コースなら二輪は来ないだろうし嫌でもスピードは出せないだろう。
振動と共にタイヤが格納され四足歩行になったヴァンピールが走り出す。
シートベルトはあるものの、両手でグリップを握り、両足でシートを挟んでいないと振り落とされそうな気分になる。
それにしても身体に響くこの振動は……
――病みつきになりそうだ――
ヴァンピールがイェジが思うままに障害物を飛んだり潜ったりして超えていく。
※※※
「あの小娘は始めてコクピットに乗ってんのか?」
UMSチーフメカニックのダニオが元々細い目を細めながら言う。
「そのはずさ。あの荒っぽい動きができるのは体幹が桁外れに強いからだろうね」
アナベルは言う。
二輪のタイヤバイクと比較すれば四足歩行のマシンの悪路踏破は圧倒的に安定感がある。
しかし、その振動はバイクの比ではない。
その四足バイクを振り落とされずに乗りこなすのはロデオのようなものだ。
「今ヴァンピールに乗ってんのはロビンだったか」
「チーフメカニックの目から見てどうなんだい?」
アナベルは尋ねる。ロビンは筋がいい。
それはロビンがランナーとは無縁だった頃から思っていた事だった。
ロビンは女性か限りなく女性的な脳が男性の肉体を動かしている。逆に言えば男性の肉体に女性的な脳が搭載されている。
かつては女性的な動きをしようと無理を重ねてもいたが、その経験が驚異的な身体操作に反映されている。
それは違った見方をするなら自己認識と異なる肉体に対する適応力が高いという事になる。
ランナーは基本的に人型とはいえ人間の約10倍という巨大な機械だ。
可動範囲も違えば手足を動かすのもレスポンスが異なる。
コクピットにタイヤを履かせるだけでも通常のバイクを操縦するより高い能力が要求される。
ファイタータイプならまだましなほうで、可動盾を持つアーマーや四本脚のドラグーンを扱うのは肉体とはかけ離れた動きと言ってもいい。
アナベルはキックボクサーという事もあってファイターを使っているが、仮に純粋にライダーだったとしてアーマーやドラグーンを使えたかどうかというとできるとは答えられない。
「うちにはアーマーやドラグーンが無ぇ。コイツなら乗れるんじゃねぇか?」
「今日が始めてだ。これから他の選手がどう伸びるかも分からない」
「始めてだからこそ資質が見えるんじゃねぇか?」
ダニオの言葉にアナベルは腕組みをして黙り込む。
人は努力で多くの事を乗り越え成し遂げる生き物だ。
生まれついての才能だけで決まるのなら人間に個性などというものはないだろう。
――考えようによってはだけど――
ロビンの適性の高さはランナーという無機物相手だからという所もあるのではないだろうか。
ロビンは日常的に多かれ少なかれ性別というものを意識して生きている。
しかし、ランナーには性別が無い。
ライダーはコクピットという脳に乗った意志なのだから性別を問われない。
――ロビンはランナーに乗る事で自己の解放を感じているのかも知れない――
ダニオもロビンを評価しているようだし、ロビンはアイドルというより天性のライダーであるのかも知れない。
「お、嬢ちゃんがヴァンピールに乗るのか」
ダニオがイェジのコクピットを格納するヴァンピールに目を向ける。
ヴァンピールの両目がライド・オンで輝く。
――さて、会長の秘蔵っ子を見せてもらおうか――
※※※
思っていたより視界が広く、遠くまで見通せる。
――八階建てのビルくらいかな――
イェジはヴァンピールの鼓動とも言える雷音を心地良く感じながら意識の広がりを感じる。
ヴァンピールの手を握って開く。
本当の腕はグリップを握っているはずだが、ランナーの指先まで神経が行き届いているように感じる。
爪先立ちになってターンする。
コクピットにGがかかるが耐えられない程ではない。四足歩行よりサスペンションはきいているらしい。
目の前のヴァンピールが剣を抜いて素振りをしている。
イェジも剣を抜いて振ってみる。
――軽い!――
全身を使って舞っていても感じていた重さが嘘のようだ。
――これがランナーのパワー――
イェジは背筋が粟立つのを感じる。
身体能力が高いとか低いとか、どこかが不自由とかいった事はほとんどハンデにならない。
ランナーを操るというのは……
――センス――
目の前のランナーが剣の舞を見せる。
誰が乗っているか分からないがイェジが知る限り迷宮少年でここまでの舞ができる人物はいなかったはずだ。
――ランナーだから――
不可能が可能になる。思いが形になる。
イェジも相手と呼吸を合わせて剣舞を舞う。
相手はとても繊細で指先まで意識の行き届いた美意識が高い人物。
瞬間、イェジと相手の剣が触れて火花が散った。
コクピットが振動し、心臓が飛び出しそうな程に飛び跳ねる。
アドレナリンが身体を駆け抜ける。
――この剣とランナーで戦いたい!――
生身の人間同士なら口論だってしたくない。
だが、目の前のライダーに勝ちたいと感じる。
これまで感じた事の無い闘争心が内側から湧き出して来る。
本能に突き動かされるように振った剣を相手が舞踊にも似た紙一重の動きで躱す。
相手のヴァンピールとイェジのヴァンピールの視線が交錯する。
一瞬のアイコンタクトで相手も戦意高揚しているのが分かる。
――私と勝負しろ!――
イェジは切っ先を相手に向ける。
挑戦を受けた敵が静かに剣を構える。
触れたら壊れそうなほどの張り詰めた間合いと時間。
互いの緊張が限界まで高まっていく。
「やあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
イェジは相手に斬りかかる。
先ほどと同じように相手が紙一重で躱す。
イェジは剣を身体を軸に舞わせるように次々に繰り出す。
相手が恐ろしいほどの冷静さで刃を躱す。
と、相手が剣を投げた。
イェジが剣で弾いた瞬間相手が一気に間合いを詰めた。
反射的に飛びのくとイェジの足を狙った相手の腕が空を切る。
敵は足を掴んで転がすなり関節技をかけるなりしようと思ったのだろう。
相手が間髪入れずに手を着いて足を旋回させる。
足首を狙った蹴りを避けると回転する足が頭に振り下ろされる。
イェジの剣と相手の足が衝突してコクピットに衝撃が吹き荒れる。
――こいつ、強い――
イェジが思った瞬間、機体が空中を舞って地面に叩きつけられた。
『練習生何やってる』
アナベルの声が響き、目を向けると明らかに格上のカーニバルランナー「ナイトライダー」がこれまでイェジが相手にしていたランナーを子供をあしらうように地面に転がしている。
イェジは地面に叩きつけられたと思ったが、アナベルは気を使って転がしただけだったらしい。
――何て強い――
イェジはアナベルとナイトライダーを見てゾクゾクが止まらなくなる。
これがカーニバルライダー、迷宮少年からただ一人選ばれる事になる椅子の価値なのだ。
イェジは剣を鞘に収める。
これまで無理をしてまでアイドルになりたいとまで焦がれた事はない。
――私はライダーになりたい。この剣と共に――
この想いに名前をつけるなら……
――これは恋だ――
イェジのこれまでの努力と時間はライダーになる為に用意されていた。
その時響いたヴァンピールのバッテリー切れの警告音をイェジは寂しさと共に聞いた。
――でもまたすぐに会えるよね。ヴァンピール――
〈5〉
『ライド・オン! ヴァンピール! レッツゴー!』
端末の動画にはヴァンピールとコクピットのイェジのワイプ映像が映し出されている。
初教習で格闘を行うという非常識をやったイェジのSNSのフォロワーは300人程度だったものが300万に激増している。
――俺も派手に動いていれば……いや、キャラが違うか――
セルジュはジムで筋トレをしながら考える。
イェジとロビンの暴走は自動車の教習で言えば、初乗車の日にいきなり他の教習生とレースを始めたという事になるのだろう。
本来なら許される訳がない、
――だが俺までも魅了された――
完璧なアイドルを目指して生きて来た自分がタレントとして他人に劣るとは考えていない。
厳しいレッスンだけでなく私生活も存在しない。全てを捧げてそれでも掴み取ろうとしてきたもの。
鍛え上げたダンスのように練習を積めばそれなりのライダーになる自信はある。
自分には地道な努力を積み重ねるというスタイルが似合っているのだし、積み重ねというものは塔と同じで、完成した時にはより汗と涙を流した人間の方が素晴らしい結果を残せるものだと信じている。
――だからといって俺はライダーとして努力するのか?――
人は万能ではない。向き不向きがあるのだし、努力で補えないものもあるだろう。
ランナーに初めてライド・オンした時には興奮したが、目の前でロビンとイェジが決闘を始めるのを見て何かが急速に冷めるのを感じた。
――俺はライダーを見る側であっても決して乗る側にはなり得ない――
それは悟ったというより見せつけられたと言った方がいいだろう。
一通りのルーティンを終えて更衣室に向かう。
フォロワーを300万人から700万人に伸ばしたロビンが着替えを済ませている。
イェジが300万人、ロビンがプラス400万人という事は300万人は純粋なランナバウトファンと見てもいいだろう。
「おつかれ」
スウェット姿のロビンがすれ違う。
セルジュのフォロワーは450万だ。ほんの少し前までロビンの1.5倍だった。
「お前、何になるんだ?」
自分でも底意地が悪いと想いながらセルジュは言う。
「それってフォロワーが増えた件で?」
セルジュはロビンの言葉に頭を振る。
「お前は確かにダンスは凄かった。でもそれ以外があったか? お前のファンはジェンダーレスだったりセクシャルマイノリティのアイコンとしてのお前をありがたがってたんだろ? 詐欺メイクなんかのお前のコンテンツ配信って結局は特定の層の囲い込みで万人に向けたアイドルのする事じゃ無かっただろ。お前はこれまでジェンダーって下駄を履いて甘えてたんだ」
「そういう面はあっただろうし否定しないよ。でもアイドルが万人のものっていうのは違うと思う。世の中で生きづらさを感じている誰かの代弁者であってもいいと思う。確かに僕は演技では君に及ばないし、男性アイドル像としても君には遠く及ばない。でも僕は僕のやり方でファンを大切にしているし、身の丈を超えた事までしようとは思わない」
ロビンが決然とした表情と口調で言う。
「お前のファンってのは純粋に迷宮少年のファンなのか? ランナーでついてきた400万のファンのどれだけが迷宮少年や俺たちを知っている? お前は迷宮少年のロビンなんだぞ?」
セルジュの言葉にロビンが困惑した表情を浮かべる。
「ランナーに乗った時イェジと争おうとは思ってなかった。でも挑まれたあの時、僕に拒むという選択肢は無かったんだ」
セルジュはロビンの状態を何とは無くに理解してはいる。
性別がそもそも存在しないランナーという身体に収まった時、普段押さえつけられていた自我が解放されたのだ。
オリンピックだって男子と同じ数の女子競技があって競技人口もいるのは女性は闘争心が少ないという迷信に対する明確な反証だ。
仮に女性の骨格と筋肉が男性と同じなら競技を分けておこなってはいないだろうし、女性に対して威圧的に振舞う男性というものは存在しなかっただろう。
男性脳女性脳というが、ロビンや女子練習生を見て来たセルジュからするとそれは身体の違いによって左右されている所が大きいように思える。
脳や心がボーダーレスであっても、だからこそ超えられない線がある事が互いに常に自覚させられる。
ロビンは女性であると自認し、女性的とされる趣味や仕草をしてきたしそれは否定されるものではない。
戦いと言うとどうしても男性的なイメージがつきがちではあるが、ロビンの中の女性は鋭い牙を持った戦う人間だったのではないだろうか。
――いずれにせよロビンはランナーに乗る事で性別とは無関係に、解放されて心のままに生きる事ができる――
「お前、このままだと迷宮少年のライダーじゃなく、タレントに片足を突っ込んだライダーになるぞ。トランスジェンダーの後はライダーで下駄をはいてお前は迷宮少年の象徴になれるのか」
「僕は最初から迷宮少年のトップになろうとは思っていないし、普通のタレントとしてはファビオやセルジュやドヒョンの方が優れてるって思ってる。僕の中でも答えは出てないんだけど、僕のポジションは迷宮少年の中のランナバウト担当で、それは迷宮少年の中で特別な地位という事ではないと思うんだ。会長がどう思っているかは分からないけど」
「優等生すぎて鼻につくな。俺たちをぶっちぎる千載一遇のチャンスだろうが。ランナーで見せた闘争心がお前の本質だろう? その猫をかぶった所がムカつくんだよ」
言ってセルジュは更衣室のドアを閉める。
――才能というものは存在する――
ならば……
――その暴力的なまでの才能を解放して俺を屈服させて見せろ――
この俺に迷宮少年のトップとランナバウトをたった一日で諦めさせたのだから。
※※※
「宿舎に来てまだ荷ほどきをしてないのに引っ越しなんて運が良かったのかな?」
キッチンでイェジがラーメンを食べながら言う。
チーズを乗せたラーメンの匂いがアヴリルの胃袋を締め上げる。
「会長の言ってたショーケースでしょ? 普通はデビューしてからするもんだけど」
普通ツアーやショーケースをするのはデビューしてからだ。
幾ら多くのファンを抱えているとはいえ練習生は本来ファンの前にやたらと姿を現すものではない。
それがファンの興奮を高めるのだしデビューのウェーブに繋がる。
――それが大陸横断なんて――
「アヴリルは食べないの?」
「あんたは食べた後にジムに行くからいいって言うんだろうけど、私は一日に四時間以上レッスンした後にジムに言ってカロリーを消費するなんて試合前のボクサーみたいな事はできないのよ」
相手はほぼ純粋なダンサーなのだから比べても仕方がない。
どんな身体構造をしているのか分からないが、200回の腹筋の後に200回を追加してけろりとしているのは理解を超えている。
「そう言えばファビオがイェジの連絡先を教えて欲しいって言ってたんだけど教えていい?」
ジスがラーメンに熱視線を送りながら言う。
深夜のラーメンの破壊力はどうしてこうも大きいのだろう。
「いいけど?」
イェジがラーメンをすすりながら言う。
「それにしてもアヴリルさ、あんたもっとランナバウトにこだわるかと思ったんだけど」
エリザベッタが煎り豆で空腹を紛らわせながら言う。
「イェジって元がタレントって言うよりダンサーでしょ? そのイェジが一番上手くランナーを使えたならタレントの資質とランナバウトの資質って別物って事でしょ? だったら張り合うのがバカバカしいし。確かに会長の言う通りウロボロスの象徴的意味があるんだとしても、私は私のやり方でトップに立ちたいって思っただけ」
ランナーの才能を見せたのがジスやエリザベッタなら全力で倒しに行った。
だが、イェジはアイドルとしてはまだまだどんぐりなのだ。
ルックスは絶対のものではないしアイドルに必須のものでもない。
個性的な顔立ちのアイドルが存在し、一方でこれ以上ないほどの美人が一般人だったりモデル止まりだったりというのは良くある事だ。
イェジは急激に歌や演技の技量を伸ばしているが何かが決定的に欠けている。
タレントのオーラの正体というものを突き止める事はアヴリルにはできないが、強いて言うのなら常に見られているという意識と、常に最高の自分を見せるという意識だ。
それが常に自分を制御し、それが当たり前となっている。
あり得ない事だがキッチンで寝落ちしたとして、それをカメラで撮られたとしても無様な事にはならない自信がある。
――タレントとは意識を超えた美意識――
イェジは愛嬌はあるがまだまだアイドルではないと思う。
だからそもそも争う気になれないのだ。
「アヴリルはカッコいいもんねぇ。ランナーでフォロワー増えたけどアヴリルより少ないし」
ラーメンを最後の一本まですすってイェジが言う。
「イェジはこれからジムに?」
ジスがイェジに尋ねる。
「腹ごなしに散歩してから。ファビオにも連絡しないといけないし」
イェジがジスからファビオの連絡先を受け取る。
ファビオは迷宮少年の中で一番ランナバウトに拘っていた。
そのファビオがイェジと連絡を取りたいと言うのならそれ以外の要件はないだろう。
――諦められないのか、それともファビオは才能の壁を超えていくのか――
アヴリルはイェジが出ていくとラーメンの丼に残っていた汁を飲み干した。
※※※
深夜の公園のオレンジ色の街灯の下に立つファビオはスウェット姿だが作りもののようにカッコいい。
待ち合わせたイェジは改めて同僚のレベルの高さを実感する。
ただ存在するだけでもイェジのSNSのフォロワーを軽く超えるだろう。
「悪かったな。呼び出して」
「これからジムに行くから別にいいけど」
イェジが言うとファビオが額に手を当てて苦笑する。
「昼間のトレーニングがあってまだ鍛えるのか?」
「さっきラーメン食べたから」
イェジが言うとファビオが笑い声を立てる。
「マジかよ。ホントお前マジあり得ねーな」
夜中に呼び出しておいて笑いものにするとは失礼な話だ。
「ラーメン食べたのを笑いたくて呼び出したわけ?」
イェジが言うとファビオが更に笑う。
――この人こんなに笑い上戸だったっけ――
少なくともイェジの知るファビオは基本的にクールなイメージだ。
「いや、そうじゃなくて。どうやったら剣とかランナーとかできるようになるのかって。ランナー動かせるのって剣と関係があるんだろ?」
表情を引き締めてファビオが言う。
「分かんないけど。アナベルさんは剣はやらないって言ってたんじゃなかった?」
イェジが言うとファビオが小さく唸る。
「俺はさ、どうしてもランナバウトに出たいんだ。だから教えて欲しい」
――教えて欲しいって言われても――
何をどうやってヴァンピールを動かしたものか分からない。
ほとんど直感で動かしたようなものなのだ。
「私だってどうやって動かしたかなんて分かってないよ」
「それならお前のトレーニングに付き合わせてくれ」
ファビオは断った所でどこまででもついて来そうだ。
――ライダーになりたいっていうのは分かるんだけど――
コクピットを震わせる雷音、広がる視界、機械の身体が自分を操れ、さあ使えと訴える感覚。
――そしてランナー同士で戦う時の感覚――
あれは何物にも代えがたいと思うし教えられるものでもないと思う。
「それはいいけど。レッスンのメニューなんてみんなと一緒だよ」
「お前はこれからジムに行くんだろ?」
「ラーメン食べたから」
追加でトレーニングするのはそれ以上の理由もそれ以下の理由もない。
「それでも付き合うさ」
ファビオがやけにイケメンな顔と声で言う。
「んであんたはこんな事の為に呼び出した訳?」
「俺たちの周りじゃ四六時中カメラが回ってる。カメラの無い所で話がしたかった」
カメラがある所でも頼みたければ頼めば良さそうなものだ。
ファビオは余程プライドが高いのだろう。
「画像を切り取られればファンの誤解も招く」
――ああなるほどね――
二人きりで会っていたらファビオの熱狂的なファンが深夜逢引きと誤解してもおかしくない。
――これだけイケメンで高身長だったらねぇ――
だが、何かを教えるとしてもライダーの椅子は一つ。
それを争わなくてはならない事に違いは無い。
――お互い全力を尽くしての結果なら――
イェジは内心で気を引き締める。
ロビンだけではなく、この先ファビオもイェジのライバルとして立ちはだかる可能性があるのだ。
「私に付き合っても特別な事は何も無いと思うけど、練習に付き合うなら別にいいよ」
イェジが右手を差し出すとファビオの大きな手が握り返してくる。
同じ夢を持つ仲間、一つの椅子を奪い合うライバル。
――迷宮少年のメンバーってこんな感覚の中を生きて来たんだ――
※※※
金属と機械油のランナーの匂いと、働く人々の臭いが入り混じっている。
格納庫では稼動を終えたヴァンピールに無数の整備員が取りついてメンテナンスを行っている。
オリガは場違いに感じながら20メートルに届かんとする機械を見上げている。
教習では動かすどころではなくただ乗っていただけで終わってしまった。
――昔からこんなんばっかだ――
元々人見知りだし他のメンバーのようにコミュニケーション能力が高いという訳ではない。
傍から見ているとイェジの方が昔からいたかのような錯覚さえ覚える。
それでも歌を歌っている時だけはそうではない。
大勢の聴衆の前に立っても怖気づく事がない、むしろ魂が解放されるような感覚。
自分にとっては表情や会話ではなく歌がコミュニケーションの道具なのだとも思ってきた。
――だけど――
必死にトレーニングしているがダンスはついていく事さえ厳しい。
ボーカルという事で難易度の高いパートは回って来ないがそれでも迷宮少年の全体の水準に達しているとは言えない。
インタビューにも的外れな答えを返してしまったりするし、ファンを沸かせるようなトークができる訳でもない。
一つしかないボーカルという技能をこれだけはと信じてやって来た。
しかし、ライダーや剣術といったカリキュラムまで増えてしまった。
――私、このまま迷宮少年でやってけるのかな?――
イェジには勝てる気がしない。ボーカルでは抜かれる事がないと信じたいが、他の技能では全て負けている気がする。
いっそ迷宮少年ではなく一シンガーでありたいと思うが、必死で掴んだ椅子だし応援してくれるファンもいる。
このままでは終われないと思うが、歌以外でこれ以上何をどう頑張っていいのか分からない。
オリガはポケットから端末を取り出す。
昼間ヴァンピールに登録したがログは無いに等しい。
「ヴァンピールを見に来たのか?」
突然かけられた声にギョッとしたオリガが傍らを見るとウロボロス共同代表のオーレリアンが立っていた。
「あっ、いえ、すみません」
オリガは反射的に頭を下げる。オーレリアンはウロボロスの共同代表で天衣星辰剣の使い手でかつUMSのNO2ライダーだ。
本来会う事でさえ叶わない雲の上の存在だ。
「俺は別に謝られるような事はされていないさ。それよりどうしてランナーを見てたんだ?」
「私、この子に乗っても何もできなかったんです」
恥ずかしくてどうしようもない。同じスタートのはずのロビンとイェジは格闘戦さえ行って見せたのだ。
「出来ないのが普通だ。俺だって初めてで格闘戦をやらかす奴は初めて見た。でもな。ああいう派手なのだけが機械との相性って訳でもない」
オーレリアンが端末を貸すようジェスチャーする。
オリガが端末を渡すとオーレリアンがアプリを立ち上げる。
「RDという数値があるだろう? 共鳴深度という厄介者だ。これはほとんど生まれつきで努力でどうにかなるものではない。AクラスのライダーはこれをPIXIEという値に乗せる事を目標にする。これはライダーの言葉だと魂の共鳴とも言われるが要するに機械と人が一心同体になっている状態になるという事だ。お前の波形は不完全とはPIXIEに乗っている。これは人並外れて機械との相性がいいという証明だ」
オーレリアンが見せた画面には確かにPIXIEに達している波形が表示されている。
「でも私は全然動けなかったんです」
「年長者の俺から言わせてもらうなら、どんな才能のあるヤツでも駄目だ駄目だと思ってて上手く行くヤツはいないし、実際俺はそんな奴を見た事がない」
オーレリアンの言葉にオリガが胸を見透かされた気分になる。
確かにみんなの前でヴァンピールに乗った時は腰が引けていたし、自分に操縦できる訳がないと思っていた。
「今乗せてもらう事ってできますか? 動かしはしないので」
「コクピットの方はお前専用のがあるだろう。どの道初心者のする事だ。整備が済んでる方のヴァンピールをうっかり動かす事もあるかもしれん」
言うだけ言ってオーレリアンが整備中のヴァンピールに向かって歩いていく。
――私が信じなくてヴァンピールが答える訳がない――
オリガは自分用のコクピットに跨って端末を挿入すると、ヘッドギアをかぶってグリップを握る。
小さく息を吐いて目を閉じる。
できない理由は百でも千でも考える事ができる。たった一つのできる理由を信じる事の方が余程難しい。
それでも自分が意識していなくてもランナーが答えていてくれたなら。
――私の言葉、私の鎧、私の翼――
これまでの人生で自分を立たせてきたもの、歩かせてきたのは歌だった。
どんな不安に苛まれる夜も歌っていれば自然と眠る事ができた。
小さく息を吸って静かに歌を紡ぐ。
自分が唯一頼むただ一つのもの。
目の前にRDを表示させるとリズムに合わせて踊るかのように波形が広がっていく。
RDの文字が点滅してPIXIEの文字が現れては消える。
――オーレリアンの言う通りならヴァンピールは私に答えてくれている――
波形に誘われるようにビートを刻む度にオリガの自信が深まる。
ランナーを戦わせるようなセンスは自分には無いかもしれない。
――だけど誰より機械と響き合う事はできる――
オリガが歌っていると何の前触れもなく一つ雷が落ちるような音が響いた。
――これはランナーの雷音――
声を張り上げると答えるように雷鳴が重なる。
格納庫で地響きが起こり整備員たちの驚嘆の声が沸き起こる。
オリガの歌に答えたヴァンピールが動き出したのだ。
――これまで私を守るのは、私を運ぶのは歌だけだった――
PIXIEが起動し、雷音を響かせたヴァンピールが近づいて来る。
オリガがヴァンピールを見上げると同時に、オリガを見下ろすヴァンピールの視界が共有される。
――これが魂の共鳴――
コクピットがヴァンピールのサブアームに挟まれるようにして胸郭に収まる。
オリガはヴァンピールの雷音を心地よく感じながら静かに目を閉じた。
――まだ終わりじゃない。そうだよねヴァンピール――
〈6〉
「迷宮少年の皆さん、そしてスタッフの皆さんようこそ。ウロボロス移動宿舎ルートル管理人のオルソン・カロルです」
ランナーキャリアを元に作られた移動宿舎ルートルのペントハウスでオルソンは呟く。
短い原稿を見てからチラリと鏡に目を向ける。
ブサイクとは思わないがごく普通の風采の上がらない学生あがりのような青年の姿がそこにはある。
アイドルの側というよりスタッフの側になるのだから容姿は問われないが、世界中が期待するタレントの卵たちの前に立つなど到底できそうにない。
そもそも人前に立つスキルがある人間をタレントと言うのであって、そうでない人間にそれを要求するのは残酷というものだ。
――もう荷物搬入の業者が来るんだよなぁ――
オルソンがシェアハウスで暮らしていた時には玄関の前に荷物を置いておいてもらえば良かった。
自分が取りに出なくてもエイミーが家に運び入れてくれた。
しかし今回は物資の量が違う。単純に迷宮少年の9人だけでもオルソンの手に余るのに百人のスタッフが随行するのだ。
ルートルの前に積み上げられたとしてオルソンに搬入できる量ではない。
迷宮少年というウロボロスのプロジェクトの人員がほぼ丸ごと移動するのだからそうなる事は考えれば分かる事だが、その賑やかな想像はオルソンの平穏を破壊するものだ。
――挨拶は館内放送で一方的にスピーチしてもいいか……――
ヘウォンと契約した時も相手が一人であったにも関わらずパニックを起こしたのだ。
医者の往診を受けて薬ももらっているが、だからといって急に病気が良くなるとは思えない。
――ここにいても人に会わずに済む方法はあるだろう――
オルソンは端末を操作すると気の重くなる問題から専門分野へと意識を振り向ける。
UMSからのデータを待つまでもなくSNSには迷宮少年のランナー教習の様子がアップされている。
オルソンが事前から聞かされていた最有力のロビンは、スタッフたちの目が確かだったのか初回から優れた才能を見せた。
一方会長ごり押しというイェジやいきなりPIXIEに乗せたオリガも才能の塊と言っていいだろう。
歴代のカーニバルライダーの大半が教習所に通っている所をスカウトされている。
タレントの多くがスカウトで選ばれているのと同じだ。
人付き合いが極端に悪いオルソンに他人の評価ができるとは思えないが、夢を叶える人にはそうありたい人間とそうある人間の二種類があるのだ。
ランナーマイスターは子供が憧れる仕事の一つだ。
だが一機百億を超えるランナーを設計するような人間になれるのはほんの一握りだ。
そういった意味ではオルソンも迷宮少年に匹敵する競争を勝ち抜いたという事もできる。
しかし、オルソンはマイスターになろうという強い動機があったというよりは、元々ランナーの仕組みに興味があり設計をしてきたという「そうある人間」なのだ。
マイティロックというランナーは結果の一つであって目的ではない。
ここから先伸びて来る選手がいるとしても、それはそうなりたいありたい人間だ。
ロビンやイェジやオリガの「努力」とその量が同じであれば永遠に追い付けないだろう。
しかも才能を持つ人間とは努力を苦痛と受け取らず楽しむ能力を持つ者なのだ。
生まれて初めて乗ったランナーとシンクロしていきなり格闘をしたり、RDをPIXIEに乗せるというのは才能を持つ者の特権、つまりはそうある人間であるという事だ。
――それでも今のウロボロスエンターテイメントの方針としてはロビンの機体を作る事になるか――
純粋にライダーとしてロビンとイェジとオリガの能力のうちで誰が優れているかは分からない。
しかし、四年に及ぶ迷宮少年というプロジェクトの集大成と考えるなら同じスキルであればラスト三か月で参入したイェジが選ばれるという事はないし、納得する人間は会長のクリスチャンしかいないだろう。
そう考えるならロビンとオリガになるが、オリガはPIXIE以外に今の所取柄がないし、格闘センスを持つロビンがPIXIEに達すればオリガも別の能力を身につけない限り逆転の目はないだろう。
――今の所ロビンはグラップラースタイルか……――
グラップラースタイルで有名なライダーと言えばアナベルとはライバル関係にあるチームホウライのマリー・ギャバンだ。
マリーはホウライのエースだが、アナベル同様流水明鏡剣を継承せずライダーに徹している。
乗機のランナー「キャノンボール」はアナベルのナイトライダーを設計した天才と名高いマイスター、ノーラ・ブレンディの作でほぼ同時期の作品だ。
キャノンボールはマイティロックに影響を与えたランナーで、アーマーの機動盾を事実上オミットしレギュレーションギリギリまでパワーとスピードを追及したファイター並みの運動性能を持つランナーだ。
マリーは柔術を中心としたグラップラーで、機体のどこかを掴めさえすれば勝利を半分確定させる事ができる。
マイティロックは運動性能よりパワーと安定感を重視したランナーで、キャノンボールのように格闘するよりは斧や鉄球のような重くて強力な武器を扱う事を重視した設計となっている。
――だから量産化もされたんだろうけど――
エントリーモデル並みの扱いやすさでスーパークラスの性能なのだからそうもなるだろうが、量産化された強すぎるマイティロックがランナバウトを面白くなくしてしまっているのも事実だ。
――キャノンボールとは別のアプローチでマイティロックを凌駕する――
その為にはロビンが更に才能を開花させる事も必要になる。
今のスタイルで設計しておいてプレイスタイルが変わったりしたら莫大な金をドブに捨てる事になるし、ミスマッチのランナーを設計したオルソンもマイスターとしてやっていく事ができなくなるだろう。
――でもロビンの気質が変わる事はない――
ロビンは元々ダンスメインのタレントで武器を持って戦う事に抵抗がある。
しかし、技の華麗さや派手さにはとことんこだわる。
マリーよりよりショーマン的、プロレスラーなようなスタイルのライダーになるのかも知れない。
――30年近く前にマッド・ブルって伝説のライダーがいたっけ――
ノーラ・ブレンディの処女作アーマーランナー「ビッグホーン」を駆ったプロレススタイルのライダー、マッド・ブルは一つの時代を作った。
――そうであるなら新時代はオルソン・カロルとロビン・リュフトが作る――
※※※
イェジとロビンはランナーを動かす教習を終え、既に模擬戦をする段階にまで進んでいる。
ファビオは教習所の路上でヴァンピールを駆って歩行練習を行っている。
単純に歩かせるだけならほとんどの人間にできるが、競技用ランナーのサイズで障害物を避けたり突然飛び出して来る車や人を避けるのは並大抵の事ではない。
ただでさえ道路には電柱や信号機といった障害物がたくさんあって気を取られるのだ。
セルジュとドヒョンは半ば諦めて歌とダンスという元のアイドル業にシフトしている。
しかし、ファビオには引くに引けない理由が存在する。
障害物を避けて道路を慎重に進んでいく。
と、コクピットにブザーが鳴り響く。
――何のミスも見落としも無かったはずだ――
ファビオがログを確認すると原因は路上駐車された車の下から飛び出した猫だった。
もちろん本物の猫ではなくデータ上の障害物の一つだ。
――……猫って……――
ファビオは両手でグリップを殴りつける。
これからランナバウトの世界に殴りこもうと言うのに路上教習すらまともにこなせない。
ファビオの背後で雷音が響く。
イェジとロビンの二強状態でそれでもライダーに拘る酔狂な人間はファビオくらいなものだ。
――あいつら今更路上教習か?――
ファビオが振り向くと雷音に負けない大音量でエレキギターの旋律が響き渡った。
と、陸上選手のスタートのような姿勢のヴァンピールが伸びのある高音と共に猛然と走り出した。
――この声はオリガか?――
と、稲妻が不規則な軌道を描くようにヴァンピールが路上を一瞬で駆け抜けた。
ファビオがあ然とする間にも、ドリフトするようにソールを滑らせながらヴァンピールが半回転して停止する。
歌声が響き渡り、まだまだやれるとばかりに雷音が響く。
――オリガが……そんな馬鹿な……――
ファビオはグリップを握る手がじっとりと汗ばんでいるのを感じる。
オリガと言えば女子グループのボーカルとはいえどちらかといえば地味な存在で、このような大胆さは持ち合わせていなかったはずだ。
しかもあれほどの速度で駆け抜けながらオリガは全ての障害物を完璧に避けている。
同じことをやれと言われてもファビオにはできる自信が無い。
――イェジとロビンに続いてオリガまで……――
弱気になりかけたファビオは両手で頬を叩いて気合を入れ直す。
今は三人の後で構わない。そのうち才能が開花すれば一気に三人を追い越せる。
現に適性がゼロに見えたオリガも脅威の動きを見せたではないか。
そのためには気持ちで負けない事が何より大切なのだ。
〈7〉
イェジはバレンシア朱雀の象徴ともいえる州立博物館最高の展示品とも言える黄金のトロフィー「アルマダ」の前に立っている。
かつてカーニバルは世界の12州で持ち回りで行われていた。
所が予算の都合や利便性で有力な州でばかり行われるようになってしまった。
あるカーニバルで近接したグロリー騰蛇、ロワーヌ天后、バレンシア朱雀の三州が名乗りを上げ険悪な状況になった事があり、バレンシア朱雀はその力を誇示するかのように莫大な予算を投じて黄金のトロフィー「アルマダ」を作った。
しかし、カーニバルの度に起きる州同士の争いや開催費用の増大を懸念した12州議会はカーニバルはその発祥の地フェーデアルカ貴人州でのみ行われると取り決めた。
アルマダは人類の愚かさの象徴となり、バレンシア朱雀はその愚行を忘れないよう州立博物館に展示しているのだという。
イェジにはどうでもいい話だし興味もない。
イェジは一枚の写真を探して博物館の中を歩き回る。
クリスチャンと出会ったロワーヌの片田舎の時計塔を映した一枚の写真。
パンフレットが確かならそこに奇跡の一枚があるはずなのだ。
イェジは黒いハットと黒スーツの長身の男の背中を見つける。
「会長!」
イェジが声を上げると険悪な青い瞳が向けられる。
「お忍びで来ているのに私の存在を喧伝するのはどういう了見ですか。その丸いおでこをおろし金ですりおろしてすだちを絞りますよ」
「じゃあ何て呼べばいいんですか。タメ口でクリスチャンって呼んでキレないんですか?」
クリスチャンの視線が更に険しくなる。
「キレはしません。あなたを切り刻んでトロール漁船の撒き餌にするだけです」
――それはブチ切れるって言ってますよね――
イェジは小さく息を吸って思いきり頭を下げる。
「お聞きしたい事があります! どうして私たちに天衣星辰剣を教えてくれないんですか!」
数秒の空白。イェジが顔を上げるとクリスチャンが不思議そうに顔をのぞき込む。
「誰も教えてくれと言わないのでやる気がないのだと思っていました」
イェジは開いた口が閉じられなくなる。
ウロボロスエンターテイメント会長クリスチャン・シュヴァリエに「剣道教えてください」なんて言える人間が世界に何人いると言うのだろうか。
現に少し声をかけただけでおろし金ですりおろすだの撒き餌にするだのと言われるのだ。
「言える訳ないでしょ! 天下の会長様にお願い事なんて!」
「で、あなたはどうしたいのですか?」
本気とも冗談ともつかない顔でクリスチャンが聞いてくる。
「私は剣術で強くなりたい! カーニバルに出たいんです! それに天衣星辰剣が必要だと言ったのは会長です!」
「それは本気と受け取っていいのですね?」
「冗談で会長に直談判なんてする訳が無いじゃないですか!」
「それでは今から私の事はお師匠様と呼びなさい。一切の異論は受け付けません」
――お師匠様? 時代劇の見過ぎでおかしくなっているんだろうか?――
「それって私に剣術を教えてくれるって事でいいんですよね?」
「あなたは覆水盆に返らずという言葉を知らないのですか?」
尊大な口調でクリスチャンが言う。
「所でその……お師匠様は剣術が本当に強いんですか?」
「天衣星辰剣最強です。嫌でも思い知らせます」
さも当たり前のような口調でクリスチャンが答える。
自分で自分を最強という人間は最強ではない気がする。
「他には天衣星辰剣の剣士はいないんですか?」
「兄弟子のオーレリアン・バラデュール、妹弟子のカーラ・アーシェスがいます。アナベルが剣を継がないと言ったのであなたが四人目の剣士です」
オーレリアンはウロボロスのナンバー2、カーラはガレリア天空にあるフレートライナーというチームのリーダーでエースだ。
「オーレリアン共同代表は分かりますが私を剣士にカウントしちゃダメなんじゃないですか?」
「異論は許さないと言ったはずです。あなたが私に対等に口をきけるのは私を破った時か、破門されて露頭に迷った時だけです」
――そんなパワハラ気質だから剣士が集まらないんじゃないですか?――
「剣士がそんなに足りてないならどうしてウロボロスで必修にしないんですか?」
「タレントに私の都合で剣術をやれと言ったらパワハラ会長だモラハラ気質だと言われるでしょう? それに私はあなたが天衣星辰剣の剣士になりたいと言ったから受け入れただけでやれと言った訳ではありません。あなたはあなたの意志でこの道を選んだのだから掟には従いなさいというだけの話です」
――パワハラ会長がパワハラを気にしている――
「お師匠様から教えると仰れば迷宮少年のメンバーはやると思うんですが」
「彼らには四年間という時間があったのに誰一人自主的にやろうとはしませんでした。それに私が育てられるのはせいぜい一人といった所でしょう」
天衣星辰剣の剣士クリスチャンから見れば迷宮少年のメンバー達は確かに四年間何もしていないという事になってしまうのだろう。
――すごい色んな才能をもった凄い人たちなのにな――
結局クリスチャンは大きな芸能事務所の会長をしていても、自身がそう言うように天衣星辰剣の剣士以外の何物でもないのかもしれない。
「ところであなたはどうして私がここにいると分かったのです?」
「会長……お師匠様は龍山グランプリでしばらく朱雀を離れるんですよね? それなら懐かしい写真を見に来るかも知れないんじゃないかって。お師匠様の行きそうな場所で私が行ける場所ならどこでも行ってみないとって」
イェジが言うとクリスチャンが口元に微かに笑みを浮かべた。
「この博物館には剣の展示があります。館長に借りて屋上で早速修行をしましょう」
「あんな鉄の塊を防具もなしに振り回したら死人が出るんじゃないですか?」
イェジは4キロの鉄塊を思い出しながら言う。
「あなたは一太刀でも私に打ち込めるとそう言っているのですか? 身の程知らずという言葉の意味を身体で覚えさせる事にしましょう」
――駄目だ。何を言ってもこの人には通じない――
とはいえクリスチャンの言う通りなら天衣星辰剣最強の剣士から直接剣を習えるのだ。
否……
――クリスチャンはカーニバルの常連、ライダーとしても最強と言われる人間の一人――
クリスチャンの天衣星辰剣を会得できたならイェジのヴァンピールが史上最強だ。
――待っててヴァンピール!――
イェジが心の中で言うと答えるように端末が小さく振動した。
〈8〉
視界が限界に達したマラソンのように激しく上下している。
肩で息をしている訳ではないが、それと同じくらいの疲労が蓄積している。
ファビオはヴァンピールを駆って障害物を乗り越えたり潜ったりという基本動作を繰り返している。
ランナー教習四日目。
ロビンとイェジとオリガは基本動作を終えて競技用ランナーライセンス、通称スーパーライセンス取得の為のカリキュラムに移行している。
ズシン、ズシンとヴァンピールが教習所の街路を模したコースを走っていく。
ピーーッ!!
激しい警告音が響いてヴァンピールが停止する。
足元の映像がポップアップで浮かび上がる。
足元にはランナーのソールに踏まれた人型が表示されている。
――やっちまった。これで何度目だ――
20メートルという巨体で足元にまで意識が及ばない。
あってはならない事だがファビオの感覚ではランナーが人なり自転車を踏んでしまうというのは、人間がタンスの角に足をぶつけるようなものだ。
『どこに目をつけてる! お前は路面清掃車の後だけついて歩く気か』
アナベルの声がコクピットに響く。
――分かってる! 同じ失敗をしちまった事は……――
そしてアナベルの厳しさがもっともなのは、ファビオはセルジュとドヒョンから整備とコース使用時間を借りて練習しているという事だ。
他人に借りを作ってロビンとイェジとオリガの三倍練習をしておいて同じミスばかり犯してしまう。
アナベルの態度も厳しくなるというものだ。
ファビオがカメラを遠くに向けるとオリガが捕縛練習をしている。
スーパークラスのライダーには治安出動があるために仮にランナバウトに出ないとしても最低限の格闘能力は求められるのだ。
――こんな所で立ち止まっていられない――
ファビオは再びヴァンピールで歩き出す。
才能で言うならロビンやイェジやオリガの方が上なのかもしれない。
しかしファビオにはライダーにならなくてはならない理由があるのだ。
※※※
深夜のジムに浅い呼吸が響く。
リズミカルに、かつ軽快に息をしているのはイェジだ。
ファビオはイェジの練習に付き合うといったものの、その多くは食べすぎをカバーする為の筋トレやジョギングで剣術ではない。
「いきなり腹筋の回数増やせたりしないって」
イェジの悪意の無い声が降りかかる。
500回を超えて、ファビオの腹筋は痙攣するするばかりで上体を起こしてはくれない。
「お前にできるのに何で俺にできねーんだ」
相手は同年代の女の子だ。最近あか抜けて来ているもののどこにでもいそうな女の子だ。
その女の子にランナーでもダンスでも勝つ事ができない。
――たった一つの椅子を争ってるってのに――
努力を続けていればある日突然突き抜けたようにできない事ができるようになったりするのだろうか。
それとも才能というものは厳然として存在して無力な者を拒み続けるのだろうか。
「ファビオってさ、どうしてそんなにライダーになりたいの?」
静かなジムにイェジの声が響く。
ファビオは一瞬話すべきか迷う。
個人的な話だし、カメラが回っていれば決して口にはしない。
「兄貴がいるんだ。ジュラシックスでレッドスターに乗ってる」
「へぇ。すごいじゃん。兄弟揃ってライダーになりたいわけ?」
イェジが能天気な声で言う。そんな明るい動機ならカメラの前で話しているだろう。
「そんなんじゃない。兄貴は、ルカは最低の人間なんだ」
自分で口にしてどきりとする。普段決して見せる事の無い負の感情。
「俺はヨークスター太陰生まれで、うちは母子家庭で母さんは苦労して俺たちを育ててた。兄貴は中学出る頃にフラッと家出してそれっきり戻らなかった。母さんは兄さんが学校を出たら家計を支えてくれると思ってた。母さんは病気がちになって、兄貴とは連絡もつかないし、俺は小さくてどうしようもなくて」
母と二人だけの暗く狭い部屋。二人だけの時間。
――この世から見捨てられたような……――
「お兄ちゃんが家を出てって困ったわけね」
「そんな甘ったれた話じゃない! 俺はウロボロスにスカウトされてモデルを始めた。収入もあって家にも金を入れるようにした。でもその頃には母さんは苦労のしすぎで壊れちまってた。家に誰かいなきゃいけないのに……俺は撮影続きで仕事でほとんど家に帰れなかった。兄貴がいれば母さんは病気にならなかったかも知れない」
怒りの感情が、溢れる思いが止まらない。
イェジに当たる事ではない事くらい分かっているが一度口に出ると止められない。
「最初変だと思ったのはさ、俺を兄貴と見間違えた事でさ。何度も続いておかしいと思って。母さんに見えるのはいなくなった親父や兄貴ばっか……母さんはずっと苦しんでて、でも俺にはどうにもできなくて……それで俺がモデルの撮影から戻ると母さんは自ら命を絶ってた」
忘れない。躊躇い傷の血の飛び散った床。
天井からぶら下がった縄にぶら下がる冷えた身体。
たった一人の母親が、自分の事を忘れたまま、何度も死にぞこないながら遂に死んだ部屋。
どれほど苦しかっただろう。誰かが、母が恋しがった兄がいればこんな事にはならなかっただろう。
「そんな時さ。兄貴がジュラシックスの正規ライダーに選ばれたってニュースが流れたのは。ふざけんなよ! 家族犠牲にして何がスーパークラスのライダーだよ!」
「だからファビオはランナバウトで……」
「そうだ! 兄貴を倒して仇をとってやるんだ! これは俺の弔い合戦なんだよ!」
兄を倒した所で自分の気が紛れるだけかもしれない。
しかし兄に罪を思い知らせるのに他にどんな方法があると言うのだろう。
と、ファビオの頭がイェジの胸に押し付けられた。
Tシャツ越しのしっとりとした肌の感覚と心音。
「気持ちが分かるとは言えないし、多分そういう気持ちじゃランナーは答えてくれないと思う。でも……ファビオには泣ける場所が必要だよね」
涙が溢れそうになる。奥歯をギリと噛んで堪えようとする。
胸が張り裂け嗚咽が、涙が溢れる。
「母さんは一人で死んだんだ……一人きりで、あの部屋で。誰かいれば、誰かがいれば」
涙が鼻水が止まらない。イェジの袖を掴む手の感覚がなくなる。
六年間、誰にも言えずに抱えて来た想い。
――だから俺はライダーに――
イェジの背中を叩くリズムが心地良く、これまで張り詰めていた何かがほぐれ、崩れていく。
「今までずっと我慢してたんだね。泣くだけ泣いたら前に進めばいいよ」
ファビオは声を上げて泣く。
あの日栄光の座を手に入れた兄を見て心に誓ったのだ。
――あの場所からヤツを必ず引き下ろしてやると――
※※※
オルソンはジムの陰から二人の様子を見ていた。
覗きが趣味という訳ではない。
誰にも会わないように生活時間帯をずらして身体を鍛えようとジムにやってきたらこういう状況だったのだ。
そもそも深夜帯にジムを使っていたのはオルソンなのだから優先権はオルソンにあるはずだ。
しかし、今出て行ける程の強靭な心臓は持ち合わせていない。
例え少しばかり年上で人生経験があるとしてもだ。
――僕の人生経験はインドアだしなぁ――
オルソンは人が寝静まっているのを確認しながら車庫に置いてあるキャンピングカーに向かう。
モーターを起動して近隣の朝市を探す。
海沿いを移動しているから新鮮な魚介が集まる朝市は特に楽しみだ。
フードを目深にかぶり、マスクをして多くの業者でごった返す早朝の市場を歩く。
と、いきの良さそうな水だこが目についた。
スライスして塩を振ってレモンを絞るだけでも充分美味しく食べられるだろう。
「……あの……」
オルソンは潮の匂いのする男に話しかけて蛸を指さす。
「いいイカだろう?」
ニカッと笑いながら漁師風の男が言う。
――違う! イカじゃない! 僕は蛸が食べたいんだ!――
オルソンは蛸を指さす。
「こっちのイカもか? 兄ちゃん目利きだねぇ」
――違う! イカに罪はないけど今日はイカの気分じゃない!――
オルソンは蛸に指先を向ける。
「何だい? ハゲもかい?」
カワハギは鍋にもなるし唐揚げにしても食べ応えがあって美味しい。
――だが問題はそこじゃない!――
男がビニール袋に三杯のイカと二匹のカワハギを入れる。
イカとカワハギで何を作れと言うのか?
とはいえこれ以上買ったとしても一人では食べきれない。
「700ヘルだ。兄ちゃんいい買い物したな」
ビニール袋を押し付けられるが全く嬉しくない。
イカはマリネと塩辛を作って残りは冷凍すればいいだろうか。
カワハギはカルパッチョか……それじゃあ酢の物ばかりになる。
朝っぱらからイカリングにカワハギの唐揚げなど食べたら胃もたれする。
――とにかく何か作らないと――
カワハギは刺身を肝醤油で食べてもいいかもしれない。
一日の始まりの歯車が狂うと何から何まで狂うのかも知れなかった。
※※※
ライダーの椅子は一つ。
ロビンは昼下がりのカフェでアイスコーヒーを飲みながら端末でランナバウトの映像を眺めている。
ランナバウトでは武器の持ち込みが可能であるため武装しているランナーがほとんどだ。
基本的にライダーの技量を問わずリーチの長い武器の方が強い。
長槍や鉄球を振り回していれば低レベルの相手なら負ける事はないし、そういう装備のマイティロックが多いのはそういう事なのだろう。
しかしロビンは刃物を相手に向ける事に抵抗がある。
ランナーであれそれは変わらない。鉄球は刃物ではないが人間に置き換えて想像するとグロテスクすぎて扱う気がしない。
――そうなると柔道かレスリングスタイルかな――
運動と言えばダンスしかして来なかったロビンには格闘技の種類や良し悪しは分からない。
しかし、やるからにはダンスで高度なトリックを決めるような華麗なものを選びたい。
――キックボクシングは……あれはアナベルさんだからカッコいいんだろうな――
「あの……あ、やっぱロビンだ」
向かいに恐る恐る座ったイェジが笑顔を浮かべる。
「髪おろしてワンピースだと私よりきれいなんじゃない?」
クリームを絞ったキャラメルマキアートを食べながらイェジが言う。
「それでも僕だと分かったでしょ?」
ロビンが言うとイェジが不思議そうな表情を浮かべる。
「何でだろ? すごい美少女っぽいのに何だろ?」
「それが僕の限界で君の伸びしろって事」
ロビンは笑みを浮かべて言う。メイクや服装を頑張っても違和感を抱かせるのは経験上良く知っている。
「何見てるの」
「ランナバウト。イェジも気になるんじゃない?」
ロビンが言うとイェジが大げさに頭を振る。
「お師匠様のしごきが厳しくて考えたくない」
――クリスチャンの直弟子か……――
普通のライダーなら泣いて喜ぶ事だがイェジには苦痛であるらしい。
もっとも普段飄々としているクリスチャンも身内にしか見せない顔もあるのだろう。
――妬けるな――
ロビンは四年間迷宮少年のサバイバルを勝ち抜いてきた。
経営陣やアナベルが気にかけてくれている事も分かっている。
だがイェジは全てを飛び越えてロビンと競っているのだ。
オリガも椅子を争うという意味では強敵だし油断して良い相手ではない。
ファビオはセルジュやドヒョンを巻き込んで自分たちに何とか食らいつこうとしているが今のままではウロボロスのライダーの椅子は絶望的だろう。
「師匠がいる方が楽だよ。僕は格闘技なんてやった事がないしランナバウトはゼロから勉強だよ」
「そうかもね。私ってツイてるのかな」
「ツイてるし持ってると思うよ」
そう。イェジは持っている。
イェジにどれほどの隠された才能があっても、ロワーヌの片田舎をクリスチャンが訪れていなければイェジはウロボロスのライダーや迷宮少年どころかロビンの知り合いにすらなっていない。
本来であればライダーの椅子はロビンとオリガの一騎打ちになっていたはずだ。
――運も実力のうちか――
「持ってるかぁ……持ってない人はどうしたらいいって思う?」
才能も運もないならそれなりに生きるしかないし、人はそれを平凡と呼ぶのだ。
「才能って服にサイズがある事を自覚するしかないんじゃないかな?」
ロビンはその点幸運だった。性差のお陰で他人より早く自分の限界と可能性に気付く事ができた。
「才能って服か……何かすごく悩んで頑張ってる人がいて、その人にはすごく強い想いがあって……ロビンは他人の家の複雑な事情を聞かされたらどうする?」
――ファビオと何かあったな――
「相手によるよ。ファンだって重大すぎる人生の選択を僕らに聞いて来たりするだろ? 身近で大切な人ならそれなりに受け取るけど」
「意外とドライなんだ」
「職業病だよ」
立ち入った事を聞く必要はないだろう。それが知るべき内容なら四年も一緒の自分が知らないはずがない。
「頑張って欲しいし願いを叶えて欲しいんだけど……」
「君に譲れないものがあるなら譲る必要はないんじゃない。迷宮少年だってなりたい人や努力をしてた人や才能持ってる人は幾らでもいた。でもその椅子は限られていたし、仮に僕らが譲った所で今よりクオリティが落ちるんだとしたら迷宮少年の価値も落ちる事になるだろ? それで譲った僕らがより高みに上ったら譲られた人はどう思う? 感謝すると思うかい?」
「死ぬ程悔しがるかな」
眉間に皺を寄せてイェジが言う。
「才能は人それぞれで、誰でも可能性を持ってると思う。だけど、その人が思ってる可能性とその人の可能性は別物だって事もあるんじゃないかな?」
ロビンはアイスコーヒーで喉を潤す。イェジには他人を多弁にさせる才能があるのかもしれない。
「う~ん、そっかぁ……でも本人が諦めないと」
「他人に無理だ止めろと言われたら一生恨むよね」
今のファビオを止めるのは難しい。本人にはやる気があるし、平均以上の能力もあるし、その努力がファンの共感を呼びコンテンツとして一定成功している。
しかしUMSのライダーになれるとは思えない。
――彼はアイドルなんだ――
何をしていても華があるしファンが集まってくる。
でもライダーじゃない。血の汗を流して努力をするという事は共に戦うべきランナー
と戦ってしまっているという事だ。
――迷宮少年では僕がそうだったのか――
ロビン・リュフトは純粋な意味でのアイドルでは無かった。
その事にセルジュは早くから気付いていたのだろう。
「私はその人を応援しなくちゃいけなくてさぁ……」
「それは失礼じゃないのかな。君は自分がライダーだって事を知ってる。だからその人を応援するなんて立場が取れる。君は僕にライダーを頑張れと言えるかい?」
ロビンが言うとイェジがハッとした表情を浮かべる。
練習生として自分も幾人もの相手にかけて来た無責任で無慈悲な言葉。
――頑張れ――
ファビオにアイドルとして頑張れとは言える。
それはロビンは別の土俵に立っているし椅子を奪い合っている訳でもないから言える事だ。
――でもファビオが努力でその椅子を手に入れるなら――
現実問題とは別に純粋にそれを見てみたいとも思う。
――それが叶った時彼がアイドルでいられるかどうかは分からないけど――
ライダーはなれればいいというものじゃない。
――ライダーとして輝かなくてはいけないんだ――
それは自分に対しても言える事だ。イェジやオリガとどんぐりの背比べをしている場合ではない。
しかもオリガは底が知れないし、イェジには現役のカーニバルライダークリスチャンがついているのだ。
――それでも僕は正々堂々と勝ってみせる――
目の前のまだまだどんぐりのようなライバルたちに。
そしてまだ見ぬ世界の強者たちに。
※※※
コクピットに心地よい雷音が響いてくる。
オリガにはヴァンピールが歌をせがんでいるように聞こえる。
目の前にはオーレリアンの乗機ルビコンの姿がある。
オーレリアンを相手に捕縛練習とは贅沢にもほどがあるが、一歩先を行くイェジとロビンはまだ教習の相手をできるほどの腕前ではない。
『オリガ、お前に足りないのは闘争心だ』
オーレリアンの言う事は百も分かっている。オリガはコクピットでヴァンピールの望む歌を歌っているだけなのだ。
オリガが動きをイメージしてヴァンピールに伝えるというより、ヴァンピールに歌でエールを送っているような感覚なのだ。
「分かっています」
言ってオリガは外部スピーカーをオフにしてメロディックスピードメタルのインストロメンタルを再生する。
激しいギターの旋律がコクピットを満たす。
オリガが歌い始めると息を吹き込まれたかのようにヴァンピールが動き出す。
人工の大地を蹴ったヴァンピールが、暴漢役らしく鉄骨を構えたルビコンに向かって疾走する。
ルビコンが鉄骨を振り上げる。
――避けてヴァンピール!――
オリガがシャウトすると鉄骨を躱したヴァンピールがルビコンの側面に回り込む。
ルビコンが真横に機体を動かして体当たりしようとする。
目を閉じたくなるのを堪えて歌い続ける。
ヴァンピールが前方にスライドするようにして体当たりを躱す。
鉄骨を持った腕を両手で掴んで後ろ手に捻る。
――そこまでよ、ヴァンピール――
『今のはいい動きだったぞ。これが当たり前にできるまで動きを身体に覚えこませろ』
オーレリアンの声が響く。身体に覚えこませろと言われてもオリガに操縦したという感覚は無い。
――でもライダーの椅子を手にできたなら――
迷宮少年脱落の危機を免れる事ができるかも知れない。
――だからヴァンピール、私に力を貸して――
オリガは歌いながら機体をルビコンに向けた。
※※※
UMS社長のヴァンサン・バスチエは胸が踊る思いで教習所を眺めている。
ウロボロスとアナベルが早くから目をつけていたロビン・リュフト。
会長ゴリ押しの呼び声高いヤン・イェジ。
オーレリアンが目をかけるランナーとの圧倒的な相性を持つオリガ・エルショヴァ。
三人が三人異なる適性を持ち、それぞれの形でランナーを駆っている。
バスチエの目から見てこの三人に明確な優劣はない。
「三人ともデビューさせられるんならなぁ」
「こんな才能持った奴らが簡単に出て来る訳がねぇ。俺がランナーチームを持ってんなら誰でもいいから寄越せって言ってる所だ」
いつの間にか横に並んでいたダニオが言う。
「お前さんの目から見てもそうか?」
「俺が思ってもいねぇ事を言う人間だと思うか?」
ダニオの言葉にバスチエは頷く。
会社の方針ではこの中から一人を選ばなくてはならない。
しかし、選ばれなかった候補が他のチームに流れたらと思うと空恐ろしくもある。
一年二年はエースとして頭角を表さなかったとしても、遠くない未来にチームのエースになる才能を持っている事はランナバウトに携わる人間の目から見れば明らかだろう。
バスチエに完全な決裁権があるなら三人ともまとめてスカウトしている。
そうも行かないのは競技用のランナーが途方もない値段の代物であり、動かさなくても維持費が湯水のように出ていくからだ。
どんな高名なマイスターがどれだけ心血を注いで作ろうと20メートルもある人型の金属を歪ませずに立たせておく事などできない。
手足を取り外してそれぞれ緩衝材に包んでおいてさえ歪みが生じる。
だからこそ稼動の予定が無くても定期的に組み立てと分解を繰り返さなくてはならないし、その度に部品交換は必要になってくる。
更にメカニッククルーは試合に備えて機体のカウルやソールの付け替えの練習もある。
試合中10分というインターバルで機体を最適な状態に持って行くのは並大抵の事ではない。
当然ながら同じクルーが何機ものランナーに習熟できる訳ではなく、チームがランナーを運用するという事は一機につき百名というクルーを雇用し続けなくてはならないという事でもあるのだ。
金が無尽蔵にあるなら優秀なライダーを何人でも雇えばいいし、何機でもランナーを作ればいいだろう。
だが実際一流と言われるチームでも控えの選手を合わせて五機が限界だ。
現在のウロボロスにはクリスチャン、ダニオ、アナベルという三人のライダーが存在している。そこに幾ら才能の片鱗が見えるからと言ってロビン、イェジ、オリガの三人を無分別に加えるという事はできない。
「無理が通るなら二人ってとこか」
「俺に選べなんて言うんじゃねぇぞ」
ダニオが目を細め険しい口調で言う。
UMSとして敢えて推薦するなら誰かと考えても一長一短ある三人であるだけに簡単に答えを出す事はできない。
企業人としての一番の選択は会長の機嫌を取ってイェジを推薦する事だが、仮にロビンやオリガが他チームで更なる成長を見せれば選択を悔やむ事になるだろう。
「好きにチーム運営をする事ができりゃあな」
「俺たちゃ所詮雇われの身だ。叶わねぇ夢は見ねぇこった」
言うだけ言ってダニオが背を向けて去っていく。
近々ライダー選出で会議が開かれることになるだろう。
――その時俺は誰を押しゃあいい――
バスチエは答えの無い問いに答える事なく頭を掻いた。
――選べないなら選べないでまたへウォンに無能呼ばわりされるんだろうな――
〈9〉
やや乾いた感じの南国の潮風が頬を撫でる。
港から山まで続く白を基調としたレンガ造りの家が並ぶ街並みはまるでミニチュアのようだ。
迷宮少年サバイバルで最も古参であるジスは黒髪を風に靡かせながら丘のような山を見上げる。
長い回廊を山頂まで連ねるようにして瓦葺の屋根が続いている。
――ランナーチームホウライの本拠地にして流水明鏡剣の総本山――
いつから流水明鏡剣の本拠地になったのかは不明だが、ホウライは南洋に面したフェーデアルカ貴人州の港湾として栄えた都市だ。
フェーデアルカ貴人は全世界12州の中心で法主庁のある唯一の都市。
州にはそれぞれ州法が存在するが究極の所、法は二つに集約される。
それは愛と徳だ。
どれほど数多くの法が作られようとその精神から外れる事は許されない。
しかし、人間にはイレギュラーがつきものだし、イレギュラーがあるからこそ法律の数が増える。
そうして無尽蔵に法が増えて人々の生活が窮屈になってしまわないために調整機関たる法主庁が存在する。
法主庁には法主を頂点としたクロワといわれる執行官がおり、様々な事案を愛と徳の二点で精査し裁定を下している。
従って法を司るフェーデアルカ貴人州には愛と徳の二つしか法律がない。
それで世界で最も治安がいいのだから不思議なものだ。
現在迷宮少年サバイバルの移動寮「ルートル」は流水明鏡剣の本山の駐車場に間借りしている。
龍山グランプリに向かう天衣星辰剣の当主クリスチャンが旅のついでで流水明鏡剣の当主コウリュウに会いに来たのに付き合わされている形だが、問題はそこではないとジスは思う。
クリスチャンが天衣星辰剣の継承問題を出してから物事が目まぐるしく動き過ぎている。
迷宮少年から一人ライダーが選ばれるらしい事は噂として存在したものの、それこそが迷宮少年の目的のようになってしまった。
ジスはこれまで極めて真面目にアイドル活動に取り組んできたと自負している。
歌でオリガ、ダンスでイェジにもそうそう劣るものではない。
普通のアイドルユニットであればメインボーカルとメインダンサーを兼任するだけの実力があると信じている。
しかしランナーとなるとそうは行かない。しかも椅子が二つ三つとあるなら張り合いもするが現状では突出した三人がそれを奪い合っている状態なのだ。
今からライダーになろうとするほどジスは非現実的ではない。
「ジス、こんな所で何やってんの?」
Tシャツにカーゴパンツというラフな恰好のアヴリルが声をかけてくる。
「私がランナーに乗るのって無駄なんじゃじゃないのかって思って。迷宮少年の企画として割り切ってやってるけど、なれるのって多分ロビンかイェジかオリガじゃない。順当ならロビンなんだろうけど」
ジスは感情が表に出ないようにして言う。
悔しくないと言えば嘘になる。同じ土俵で比べられて明らかに劣っていて気持ちの良い人間はいないだろう。
「確かに順当に行けばロビンなんだろうけどイェジもいい線行ってるしオリガも健闘してるしね」
アヴリルも達観した様子で言う。自分たちはやはり歌とダンスと演技と日々を生きる人々へのエールで生きていくべきなのだ。
ランナーに乗って戦うのはアイドルの仕事とは言えないし、どちらも二足の草鞋でできるほど生易しい仕事ではない。
「セルジュとドヒョンが練習時間ファビオに譲ってるでしょ? 企画としては友情物語でいいと思うんだけど」
「最近企画がランナバウトに傾き過ぎてるよね。会長案件だから仕方ないんだろうけどさ」
アヴリルにも不満はあるらしい。
「私たちがイェジかオリガを応援するのってどうかな? このままだと……存在感がなくなるし」
それが最大の懸念だ。ファンはついてきてくれるだろうが新規のファンや迷宮少年の知名度がランナバウトに持っていかれては四年間の苦労が水の泡だ。
「いいんじゃない。ランナーに乗ったからって操縦できるわけじゃないし応援したいのも嘘じゃないし」
人一倍負けん気が強いはずのアヴリルが言うと背中を押された気分になる。
「そうすると誰にも応援されないロビンがちょっと気の毒だけど」
「ロビンはアナベルさんが気を使って見てるじゃん? まぁイェジは会長案件だけど悪い子じゃないし、オリガにもオーレリアンがついているし。どっちを贔屓しても差別したみたいになるし、それはそれで気分も悪いし私たちのイメージダウンになるわ」
「確かにね。じゃあ二人を応援するって事?」
「男子チームからも二人出てるんだからいいんじゃない? まぁファビオはアレだけど」
アヴリルが白い歯を見せて笑いながら言う。
「そうね……男女から二人づつの候補って思えばいいのよね」
ジスは視線を白い船が浮かぶ海に向けて言う。
二人をどのように応援するかはエリザベッタとも相談して決めた方がいいだろう。
――私たちはランナバウトからは撤退するけどアイドルを諦める訳じゃない――
これは自分たちが本来の居場所に戻るための儀式のようなものなのだ。
※※※
バレンシア朱雀のウロボロスエンターテイメントの会議室には役員が集結している。
へウォンは右に副社長のアンドレイ・張、左に専務のマリア・ルカレッリを従えて上座から役員である子会社の社長たちを見ている。
迷宮少年の企画はクリスチャンの独断専行で思わぬ方向に進んでいるがそれなりに軌道修正しなくてはならない。
「迷宮少年からライダーを一名選出する事は事前から決定していた事です。かねてよりUMSのスタッフ並びに正規ライダーであるアナベル・シャリエール選手によってロビン・リュフトに才能ありとされてきました。今回の教習で図らずもそれが証明された訳です」
へウォンは役員たちに向かって言う。
ロビンが最有力候補である事は事前の適性検査などで分かっていたことだ。
しかし、そこにオーレリアンが才能を見出したオリガ・エルショヴァとクリスチャンが推薦するヤン・イェジが現れた。
「ウロボロスエンターテイメント。その母体となったウロボロス歌劇は元々天衣星辰剣の剣士を見つけ出す為に作られました。我々の歴史的使命を考えるのであれば剣才のあるイェジこそを後継者としなければなりません」
先代からの会長派であるアンドレイが言う。
「迷宮少年はウロボロスエンターテイメントが四年という歳月をかけた大型プロジェクトです。それを会長の意志だけで左右できませんし、イェジが見せている才能はダンスを別にすれば剣とライダーであってアイドルのそれではありません。イェジを推すのであればライダー適性に加え優れた歌唱力と演技力を併せ持つオリガこそが相応しいと考えます」
ウロボロス歌劇元社長のマリアが反対意見を述べる。
『UMSのヴァンサン・バスチエです。そもそも誰か一人を選ばなくてはならないような事なんですか?』
バスチエがそう言うという事は三人の能力は互角だという事だ。
だがライダーとしての才能が互角であるのならアイドルとしてのキャリアと人気が最大のロビンを選ばないという選択肢は存在しない。
「そうは言ってもイェジはそう潰しがきくものでもないぞ? ダンサーとしては抜群だが優れたダンサーというだけならウロボロスには幾らでもいるんだからな。まぁ迷宮少年と同じ研修期間があれば大化けするのかも知れないが迷宮少年ではライダーにしておいた方が無難だ」
ウロボロスエージェンシーのダミアン・ベジャール社長が言う。
元からこの会議は議論するというより役員たち、特に副社長であるアンドレイに結論を納得させる為のものだ。
オリガとイェジを推す声も大きいが経営戦略は既に定まっている。
「ウロボロスエンターテイメント役員会はロビン・リュフトをUMSの正規ライダーとする事をUMSヴァンサン・バスチエ社長に要求する事でいいですか」
これは命令でもある。と、へウォンは内心で付け加える。
平和なリベルタ大陸育ちには分からないだろうがベスタル大陸、それもヨークスター太陰州の銀行役員を務めたへウォンにとってはこれでも甘い方なのだ。
「しかしロビンは剣術を扱えない。これは歴代の会長の意志に背く事です」
アンドレイが食い下がる。
「それを言うならオリガはどうなるのです? ロビンをライダーにする事は既定路線で合意が成されていたはずです」
オリガ派のマリアがアンドレイに向かって言う。
「誰も会長候補からイェジを外すとは言っていません。迷宮少年の企画としてライダーを選出する以上当初からの計画通りキャリアのあるロビンを選ぶのが当然だというだけの話です」
へウォンは論点をそらして言う。将来的な問題としてイェジに会長が務まるのかどうかは不明だが、現会長のクリスチャンも経営に関しては素人もいい所なのだ。
――だから剣豪と剣豪の会社なんだろうけど――
経営は引き続き経営のプロが行っていけばいい。
ウロボロスのような大企業はいい加減個人企業のような業態から脱皮しなくてはならないのだ。
「実際問題ロビンはランナバウトで戦えるのですか? ライダーであることと戦える事は必ずしもイコールではないでしょう」
「それに関しては企画部に案を考えさせています」
ウロボロスマネージメントのロゼッタ・ヴァネッリ社長がアンドレイに答えて言う。
重鎮のアンドレイには悪いが外堀は既に埋まっているのだ。
へウォンの子飼いでありルートルをG&Tの資本力で調達した企画部なら、ロビンを一人前にする企画を立て遂行する事だろう。
「我々は多数決を採る事はしません。役員会のメンバーが合意できる形で議論を進めたいと考えています」
へウォンは念を押すようにして言う。本来であればアンドレイは役員会で約半数の票を持っている。
とはいえ今回だけはその力を振るわせる訳には行かない。
――それに次善の策がない訳じゃない――
それもまたへウォンはヴァネッリ社長と企画部に命じている。
まずはアンドレイに同意してもらい、役員会の総意としてロビンを送り出さなくてはならない。
――オルソンにもランナーを作ってもらわないといけないしね――
オルソンはアイドルの追っかけにする為に契約したのではない。
UMSを勝利に導くランナーを作らせる為に契約したのだ。
そうである以上いつまでも管理人として飼い殺しにしておく事もできないのだ。
※※※
「流水明鏡剣本山にようこそ。俺はチームホウライのパウル・ディーター・ヴァイスだ」
髪をポニーテールにした垂れ目の優男が言う。
ファビオは迷宮少年サバイバルのメンバーたちと共に流水明鏡剣本山の見学にやって来ている。
「本山って言ってもだ。他に支部がそうある訳じゃないし基本的に独身者は寮生活。お前さんたちと同じだ」
パウルはチームホウライ最強のコウリュウの弟子でファイター「マッドマックス」のライダーだ。
「ヴァイスさんは流水明鏡剣の剣士なんですか?」
ファビオはパウルに尋ねる。天衣星辰剣のクリスチャンは全体に剣の稽古をつける事がないし、直接習っているらしいイェジは要領を得ない。
「今流水明鏡剣の継承者の椅子に最も近いのが俺だと思ってくれて問題ない。今のうちならサインも安くしとくぜ」
瓢々として口調でパウルが言う。
「流水明鏡剣ってのはどんなもんなんだ? 不動雷迅剣が一撃特化で天衣星辰剣が手数に特化ってのは分かるんだけど」
ランナバウトを見たり解説を聞いて分かるのはその程度だ。
――クリスチャンが直接剣を振るうのを見ていれば違うんだろうけど――
「流水明鏡剣ってのは煩悩と一緒で108個ある型を極めて行くんだ。剣の軌道と剣を使った体さばき。人体の最も効率のいい動かし方ってのは先人たちが追及してる。そのエッセンスが108の型に集約されてるのさ」
――108の型を覚えれば流水明鏡剣を、人体の最も効率のいい動かし方を覚えられる?――
「でもそれだと振り付けみたいですよね」
イェジが美しくないとでも言いたげに言う。
「そうだな。実際演武はあるし、それはそれでダンスみたいなもんだ。でも基本動作をおろそかにして極められるほど剣の世界は甘くない」
「お師匠様は剣は縦横斜めと突きで九つ覚えればいいって言ってました」
イェジがパウルに向かって言う。どう見ても剣士としてパウルの方が上だ。
「それは基礎中の基礎なんじゃないか? 剣の振り方はお前さんの言う通り確かに9通りになるんだし。因みにそれの12倍が流水明鏡剣だ」
言ってパウルがからからと笑うとイェジが悔しそうな表情を浮かべる。
12分の1では天衣星辰剣の立場がないだろう。
――まぁ、イェジもほんの見習いには違いないんだろうけど――
「おいパウル、いい感じで先輩風吹かせてるじゃないか? でもあんたがドヤったってここの連中のほとんどは剣士には興味もないよ」
遅れて来たアナベルがパウルに向かって言う。
隣にはアナベルよりやや肉付きのいい、金髪をボブカットにした普通にスタイルのいい金髪の美人が立っている。
やや童顔に見えるのはシャープな印象のアナベルと並んでいるからだろう。
「そんな事分かってるさ。なっ、剣道家」
ニカッと笑って女性が言う。
「うるせぇ柔道家。カメラ回ってんだ。少しはいい顔させろ」
さほど気分を害した様子もなくパウルが言う。
ホウライのライダーであるパウルが柔道家と呼んだという事は……
「私はキャノンボールのライダー、マリー・ギャバンよ」
流水明鏡剣のチームであるホウライのライダーでありながら剣術を拒否した人物。
「コイツとは腐れ縁でね。寝技と戦う気があるなら見といて損のない相手さ」
ウロボロスは優勝候補に数えられることが多いが、同じだけ数えられる事があるのがホウライだ。
ホウライ最強のグラップラーは世界最強の柔術家と言えなくもない。
「アナベルさんも変だと思うんですが、柔術なのにどうやって流水明鏡剣のチームに入ったんですか?」
ジスが抑制の効いた口調で尋ねる。
「流水明鏡剣の極意は受け流しと後の先から始まる連撃。柔術の極意は相手の力を受け流しダメージを与える事。徒手空拳の流水明鏡剣が柔術なのよ」
マリーが惜しむ事なく言う。
受け流しと連撃、それを可能にする108の型と徒手空拳の柔術。
――これを学べば俺だって――
「あの……」
「アナベルさんとマリーさんのランナバウトが見たいんですが」
ファビオが言いかけると重ねるようにしてロビンが言う。
「あなたの所の弟子は私に興味があるみたいよ」
「弟子じゃないよ。あんたのとことは違うのさ。それよりやんのかい?」
アナベルがマリーに答えて言う。
「後輩の前で恥をかかないといいけど大丈夫?」
「そっちはカメラ回ってる前でほえ面かいて平気なのかい?」
売り言葉に買い言葉といった様子で二人が言い合う。
「あの……俺の楽しいホウライツアーの最中なんだけな」
パウルが言うとマリーが顔を向ける。
「あなたの退屈なツアーガイドよりランナバウトの方が面白いに決まってるじゃない」
「御託を並べるより試合をする方が早いってもんさ」
アナベルが一同に余裕の笑みを見せて言う。
一対一の代表戦、デュエルだ。
ファビオは火花を散らす二人を前に血沸き肉躍るのを感じる。
本来ならカーニバルでしか見られないようなハイレベルの選手同士のランナバウトを見る事ができるのだ。
※※※
人目につかぬようホウライ山の木の上に登ったオルソンは、黒いパーカーのフードを目深にかぶり、黒いマスクをして双眼鏡でチームホウライのフィールドを眺めている。
ランナバウトのフィールドとはランナー同士が戦うボクシングで言うリングの事だ。
ホウライの渓谷を利用したフィールドは幅400メートル、長さ1000メートルほどの広さがある。
環境破壊をしなかった為に真ん中に川が流れているが、北限のミチエーリ玄武州に行けば凍り付いていないフィールドがないくらいなのだから十分許容範囲だ。
アナベルのナイトライダーがブルーのサイドから出てくる。
ナイトライダーの曲線を多用したカウルは黒とシルバーに塗り分けられ、黄緑色のネオンカラーの差し色が入っている。
一見平均的なファイターのプロポーションだが蹴り技中心という事で平均的なものより足が1.5メートルほど長く、足回りもかなり強化されており全体の手足のバランスもそれに準じた足長のモデル体型になっている。
レッドのサイドから出てきたマリーのキャノンボールはトリコロールのカラーリングで肩が大きな球形をしている事と腕が他のアーマーと比べても長く太いのが特徴だ。
普通のアーマーは重量のある上半身を支えるために足が太くソールに向かって広がるような形をしているものだが、キャノンボールは太ももが太く足先はむしろ細くなっている。
ライダーの持つ驚異的な平衡感覚が十分に生かされたランナーだと言えるだろう。
『オン・ユア・マーク』
スピーカーからの音で二機のランナーが200メートルの感覚を置いたラインの前で身構える。
200メートルというと長いようだが高機動のドラグーンであれば一瞬だ。
『ゲットセット』
スーパークラスのライダーにはチームとしてのコンストラクターズポイントの他に個人のチャンピオンシップポイントがある。
アナベルとマリーはともに200ポイント強だから勝った方に約60ポイントが入りライバルたち相手に一歩先んじる事ができるだろう。
『GO!』
スピーカーから試合開始の声が響くが二機はすぐには動き出さない。
ナイトライダーがフィールドの砂利を蹴とばしてキャノンボールに浴びせかける。
砂利をものともせずに突進したキャノンボールをナイトライダーが華麗に躱してコクピットのすぐ下の腹部に膝蹴りを打ち込む。
食らいながらもキャノンボールがナイトライダーの腕を取って腕ひしぎに持っていこうとする。
ナイトライダーはフィールドを転がり、カウルを失いながらもキャノンボールに決定的な隙を与えずに蹴りで相手を突き放す。
アナベルはキックボクサーのはずだが、それをとらえようとするマリーの手も負けず劣らず速い。
息が詰まるような一進一退の攻防が続く。
キックボクサーとグラップラーが戦っているのだから仕方ないが、玄人好みの試合展開である事に違いはない。
――ここにマイティロックがあると派手にはなるんだろうな――
マイティロックが戦えば重量級の武器のぶつかり合い、激しい火花、飛び散るカウルという事になる。
とはいえマイティロックのライダーが平均以上であってもアナベルとマリーに勝利する事はできないだろう。
振り上げられたナイトライダーの足が軌道を変えてキャノンボールのマスクを砕く。
これでキャノンボールは0.5秒のブラックアウトだ。
と、キャノンボールが両腕でナイトライダーの足を掴んだ。
ナイトライダーの機体が振り上げられキャノンボールがジャイアントスイングに持ち込もうとする。
刹那、ナイトライダーがもう片足を振り上げ、マリーのお株を奪う十字腕ひしぎに持ち込む。
しかし強化された腕を持つキャノンボールを止める事はできない。
十字ひしぎが決まりかけた腕を強引に振り上げたキャノンボールが腕をフィールドに叩きつける。
ナイトライダーのカウルが一気にはじけ飛ぶ。
傍目にはナイトライダーの方がダメージが大きい。
しかし腕ひしぎを強引に抜けて攻撃につなげたキャノンボールのフレームには相当な負荷がかかっているはずだ。
試合中断を知らせるベルが鳴り響く。
『ブレイク! ターン・ユア・コーナー!』
審判の声が響く。試合開始から15分が経過したのだ。
二機のランナーがそれぞれ自分のピットに戻っていく。
ここでの戦略で逆転劇がおこるのは多々あることだ。
――ナイトライダーはカウルの換装、キャノンボールはフレームのダメージをどうするかだな――
※※※
ピットクルーが芸術的なスピードで懸架されたナイトライダーのソールを交換する。
砂利というダートフィールドであるためにソールはグリップのきくソフトなものを履かせている。
ハードソールを使えば交換しないで済む場合もあるが、アナベルのようにどちらかの足が常に軸になって重量がかかり続けるプレイスタイルの場合は話が別だ。
あとはフィールドの状況に合わせてソールの樹脂を選ぶしかない。
――カウルの追加交換は……しない――
バスチエは戦略を決定する。
ナイトライダーのカウルの破損は27%。
常識的に考えてあと半分は壊れてもKOにはならない。
とはいえキャノンボールはほとんどカウルを損耗していない。
判定になればナイトライダーの敗北は必至だ。
「アナベル、後半は飛ばせるか?」
バスチエはコクピットで休憩しているアナベルに向かって呼びかける。
『当たり前だろ。ホウライをカモにしてポイント稼いでやろうって言ったのはあんただよ』
バスチエは逡巡する。アナベルは最高のライダーの一人だ。
そしてファイターの長所はその優れた運動性にある。
「ダニオ! 今から外せるカウルを全部外せ! ナイトライダーを軽量化するんだ!」
KOが取れなければカウルの少ない方が判定で敗北する。
自らカウルを外すのは自殺行為だが、時にはそれがプラスに働く事もある。
「肩と腰回りのカウルをパージしろ! 十分が勝負なんだ!」
ダニオの言葉を受けて整備クルーがナイトライダーの全身にとりついてカウルをパージ、取り外していく。
4トンも外せば普通自動車で言えば二台分だ。
それだけ軽量化すればナイトライダーのスピードは飛躍的に上がるだろう。
――そしてそのスピードを乗りこなすだけの技量がアナベルにはある――
試合再開のベルが鳴り響く。
ピットクルーは十分間で十分な仕事をした。あとはチームの戦略が当たる事とアナベルの技量を信じるだけだ。
『インターバル終了、選手はフィールドに戻ってください』
親指を立てたナイトライダーが颯爽とフィールドに戻っていく。
ナイトライダーが停止線に立つ。
軽量化したキャノンボールが向かい合う。相手も選手の技量に全幅の信頼を置いて判定勝利を捨てたらしい。
『オン・ユア・マーク』
審判の声がフィールドに響く。
『ゲットセット……GO!』
キャノンボールがタックルを決めようと突進して来る。
拳を守るナックルガードを下したナイトライダーが姿勢を極端に低くして拳で迎撃する。
「押せ! 押せ! インファイトだ!」
バスチエはマイクに向かって叫ぶ。
ナイトライダーが鮮やかなワンツーを決めてキャノンボールのマスクを破壊する。
「カウルを取りに行け! 相手は真っ裸だぞ!」
ナイトライダーが首相撲でキャノンボールの腹部のカウルを膝で粉砕する。
「よし! クールダウンだ! 距離を取れ!」
0.5秒のブラックアウトから相手が立ち直るより早く距離を取らせる。
このまま試合終了に持ち込めば判定勝ちだ。
キャノンボールがダッシュする。
タックルに持ち込むかと思いきやスライディングでナイトライダーの足を取ろうとする。
ナイトライダーが飛びのいて攻撃を躱すと、片手を着いたキャノンボールがスピンしながら浴びせ蹴りを繰り出す。
バスチエは一瞬ヒヤリとする。
――カウルを捨てたナイトライダーには後がない――
だが、距離が足りなかった。
キャノンボールの浴びせ蹴りがナイトライダーのカウルを掠めて空を切る。
前半で腕ひしぎを強引に解いたキャノンボールの腕部フレームにはダメージが蓄積していたのだ。
キャノンボールの浴びせ蹴りに足を絡めるように合わせたナイトライダーが瞬間的に芸術的な足四の字固めを決める。
腕に続いて足のフレームにまでダメージが蓄積すればキャノンボールの修理には時間と金がかかる事になるだろう。
ホウライサイドからの操作でキャノンボールのボディから白旗が上がる。
『KO! チームウロボロス、ナイトライダー、アナベル選手の勝利です!』
バスチエはガッツポーズを決めると誰彼なくスタッフと抱き合う。
チームとしてコンストラクターズポイントを稼げた訳ではないがアナベルはチャンピオンシップに一歩近づいたし、いい試合をすればそれだけ多くの個人スポンサーも集まるのだ。
ウロボロスエンターテイメントから基本的に独自採算でやれと言われている以上、一つの勝利、一つのスポンサーが純粋に嬉しいのだった。
※※※
夕日を浴びた白壁の町は町全体が燃えているかのように黄金に輝いている。
ホウライ山の山頂にほど近い流水明鏡剣の宿坊からロビンは眼下に広がる町を見下ろしていた。
アナベルとマリーの試合は初めて本物の試合を生で見た事もあり衝撃的だった。
ランナーの雷音と巨大な機械のぶつかり合う地響きと振動には改めて心を揺さぶられた。
――僕もあんなふうにランナーを操りたい――
しかし、ロビンにとって二人の試合は自分に課題を突きつけるものだった。
もちろんハイレベルな人間同士が試合をした結果そうなったという事は理解している。
だが、あの試合は玄人好みで遊びがないと思う。
アナベルもマリーも純粋に勝利を追及する闘士で、ロビンはエンターティナーなのだ。
マリーのキャノンボールがナイトライダーを振り回しかけた時は興奮したものだが、それ以外はと言うとロビンの基準ではサービス精神が足りないように感じられた。
よりダンスに近いような、華麗な技で戦う事はできないものだろうか。
以前少しだけ見た事がある京劇のような動きで戦えれば美しいし気持ちいいと思う。
しかし、それに加えてロビンはランナーという自分の肉体で、叶う事なら武器を使わずに戦いたいのだ。
「ロビン、今日の試合はどうだった?」
アナベルが声をかけてくる。
「ランナバウトが闘争心をぶつけ合うものだって事は分かっています。でも、何となく僕が真似をしたらそれは結局真似にしかならなくて僕のスタイルにはならない、それでは一流の選手たちには通用しないと思うんです」
ロビンは率直に意見を述べる。
「クリスチャンみたいな事を言うんだね。確かにUMSに選ばれるはずさ」
「UMSに選ばれる? まだ教習が始まったばっかりなのに?」
アナベルの言葉に驚いたロビンは声を上げる。
「お前ならもう分かってるだろ。ランナーを動かすのは理屈じゃない、センスだ。それがない人間がどれだけ鍛えたとしても伸びしろは最初から見えてる。バイク便のライダーがレーサーになれるか? 人によってはバイク便の方が搭乗時間が長いヤツだっているはずさ」
アナベルの言う事は理解できる。ダンスだって振り付けを続けていれば誰でもそれなりに踊る事はできるようになる。
だが、それが人の心を震わせるかどうかは全くの別問題だ。
「剣術ではイェジが優れていますし、純粋にランナーを操縦する点ではオリガが優れているんじゃないですか?」
「現時点ではお前は操縦技術でイェジに勝り、格闘能力でオリガに勝っている。人の性がそう簡単に変わるものでない以上お前が適任というのが会社の判断でもある」
「そういう事であればお受けしたいと思います。でも僕にはプレイスタイルらしいものが分からないんです」
「マリーの動きはお前の理想に近いように思ってたんだが違ったのかい?」
アナベルの言葉にロビンは頷く。
「勝ちにこだわりすぎって言うか……あのナイトライダーを振り回した時は凄く興奮したんですけど。勝ち負けより見る人を熱狂させるショーマン精神が欲しいって言うか……言葉にするのは難しいんですが」
ロビンが言うとアナベルが細い顎に曲げた指を当てる。
「心当たりがない訳じゃない。40年くらい前のランナバウトでは徒手空拳の格闘が主流でプロレス技を使う選手が活躍した時代がある。でもそれも廃れちまったし、今のランナバウトでプロレス技が通用するのか私には分からない」
「プロレスですか……」
ロビンはプロレスという競技をほとんど知らない。
ただ半裸に近い屈強な男が掴みあうというイメージがある。
柔道のように服を着てくれるならまだしも、半裸の男に囲まれたら発作を起こすかもしれない。
迷宮少年の練習生になってから男子と一緒くたに更衣室を使う事は避けさせてもらっているし、この四年の間に何かが変わっている可能性はある。
しかし、練習生として練習している相手は基本的に眉目秀麗でやや中性的な人間が多いのだ。
ゴリゴリの男にかこまれてまともに生きていけるかと言われると自信がない。
「プロレスだって極めりゃ十分武器になるんじゃないの? 今トレンドじゃないってだけでさ」
いつの間にかやってきていたマリーが言う。
「覗きとは関心しないね」
「覗きだったら声かけないでしょ。私は不審者を捕まえたからあなたの所に連れて来ただけ」
見ればマリーは黒いフードの男のフードを掴んでいる。
徹底的にやられた後なのか抵抗する意思はないようだ。
「不審者なら警察に突き出せばいいじゃないか」
「あなたの所のマイスターだって言ってるし、あなたのとこで知り合いって言ったらあんたしか思いつかなくてさ」
ロビンは小動物のように震えている男に見覚えがない。
脂汗を流した男が震える指で端末を操作する。ややあって端末に白衣の男が姿を現す。
『この人の主治医です。近くの方、状況を教えてもらえますか?』
「今私は不審者を捕らえた所で、不審者があなたに連絡をとったのよ」
マリーが言うと白衣の男が、
『彼は自閉症で人が大勢いたりストレスを受けるとパニックの発作を起こします。可能な限り少人数で過呼吸を起こしているようなら口に袋を当てて下さい』
ロビンも10才の時に体育の着替えでパニックと過呼吸の発作を起こした事がある。
ロビンは紙袋を黒フードの男の口元に持っていく。
男が黒いマスクを外す事を執拗に拒む。
「薬とか持ってないのかい?」
「そりゃ医務室にはあるだろうけどさ」
「あんたに聞いてないよ。この男に聞いたんだ。病気を持ってるなら薬くらい常備してるだろ」
アナベルが言うと男がパーカーのポケットからピルケースを取り出す。
荒い息をつきながらも目を泳がせて薬を飲もうとはしない。
どうあっても顔を見られるのが嫌らしい。
「とりあえず僕らは背を向けるから薬だけでも飲んでくれるかな?」
ロビンは言ってアナベルとマリーを促して背を向ける。
ややあって薬を飲む音が聞こえてくる。
「私ってもう帰っていいわけ?」
部外者のマリーがどうしたらよいか分からないといった様子で言う。
「最初からお呼びじゃないよ」
「そんな事言って私の事好きな癖に」
「顔面蹴られて総入れ歯になりたくなけりゃ口を慎みな」
ウインクしたマリーをアナベルが睨みつける。
――この二人は本当に仲がいいんだろうな――
ロビンは羨ましく思いながら黒フードの男、オルソンの回復を待った。
※※※
非常に決まりの悪い事になった。
薬を飲んで落着きを取り戻したオルソンは両親に叱られているかのようにアナベルとロビンを前にしている。
これからランナーを作ろうという相手の前で醜態をさらしてしまったのだ。
とはいえ、これは流水明鏡剣の剣士の責任でもある。
木の上で人が消えるか日が暮れるかするのを待っていた所、端末の着信音を聞きつけ危ないから降りろと声をかけてきたのだ。
そして驚いて逃げようとしたら不審者と言われて追われ、パニックの発作を起こして動けなくなり、取り押さえられて過呼吸を起こした。
オルソンはオルソンという人間なのだからそっとしておいてくれればこんな事にはなっていないのだ。
「マイスターが何やってたんだい」
「その……見てました」
アナベルとマリーが試合をすると言うからキャリアの自室を出て見学に行ったのだ。
「何をだい。返答次第じゃこのまま警察に突き出すよ」
「あの……」
オルソンは試合の様子を録画した双眼鏡を取り出す。
映像を確認したらしいアナベルが溜息をつく。
「UMSお抱えのマイスターなら堂々と……」
アナベルは問題の本質に気づいたらしい。堂々と出ていけるような人間ならそもそも隠れて見に行っていないし、とっくに挨拶もしているだろう。
「じゃあただ見てただけって事ですか?」
ロビンの言葉にオルソンは頷く。
「それと……君のランナーを作れと指示があった」
そもそも端末が着信を告げなければ木の上に潜んでいる事を知られなかったのだ。
オルソンは視線を彷徨わせる。これ以上部屋に人が入って来る事はないだろうか。
大学のゼミでもエイミーを含めて三人が限界だったのだ。
「そんなにオロオロしなくても誰も来ないよ。こちとらあんたごときにどうにかされるほどヤワじゃないんでね」
アナベルは高圧的だ。交渉相手として厳しい相手だ。
「……この際だから聞くけど」
オルソンはロビンの様子を確認する。
「何ですか?」
「マリーを見てどう思った? 教習を見る限り君はどっちかって言うとグラップラーっぽかっただろう」
オルソンはお茶で喉を潤して言う。
どうにかロビンに耐性がついてきているようだ。
「もっと華やかにとは思いました。ランナーはもっと答えてくれると思っていたんですが。キャノンボールの最後のキックが不発だったのも最初のダメージのせいなんですよね」
素人のくせによく見ているようだ。それともアナベルから話を聞いたのだろうか。
「さっきチラッと話したんだけどこの子のイメージってプロレスなんじゃないかってね」
アナベルが言うがその見解は正しいだろう。
「同じプロレスでもルチャリブレ寄りだろうね。屈強な男とがっぷり四つに組んで力比べをしてからコブラツイストとかは嫌だろう」
オルソンが言うとロビンがさも嫌そうな表情を浮かべる。
データで知っているだけだが、オルソンが人類全般に対する恐怖症を持っているのと同じようにロビンは男性に対する恐怖症を持っている。
「ルチャリブレっていうのはプロレスとは違うんですか?」
ロビンが質問する。
「サンタマージョ白虎州で盛んなプロレスの一派だよ。華麗な空中殺法が持ち味でプロレスってよりアクロバットに見える事もあるね」
オルソンは端末を操作して映像を表示させる。
女子プロの映像にしたのはロビンのジェンダーを考慮しての事だ。
データが確かなら女性に対して男性的な興味の持ち方はしないはずだ。
「この技は?」
「フランケンシュタイナー。見栄えのする大技だね。これをランナーで決めれば一撃でKOが取れるんじゃないかな?」
オルソンはロビンに答えて言う。
「この技はさっきの……」
「この技はと……ボディーシザースドロップって名前だ。まずはこれをを覚えてからだろうね。一応立ち技格闘にも似た技があってそっちではカニばさみとも言うらしい」
オルソンが言う間にもロビンが食い入るように端末を見つめている。
「言い出したら聞かないだろうから一度しか言わないけど……私相手にそんな大技を決められるとは思わない事ね」
ライダーの口調で言ったアナベルが席を立つ。
ロビンはプロレススタイル、それもルチャリブレを操るライダーを目指すだろう。
――空中殺法が使えるランナーなんてあったっけ?――
現役で最も身軽なランナーはクリスチャンのセラフィムだ。
しかしセラフィムには相手を投げ飛ばすようなパワーはない。
剣技で相手を圧倒するのがクリスチャンのプレイスタイルだ。
「これをできるランナーって作れるんですか?」
ロビンが痛い所を突いてくる。パワーと身軽さを両立するようなランナーがあるだろうか。
「今までは無かったかもね」
オルソンは言葉を濁す。できないとは言わない。
キャノンボールもあれほどの運動性がありながらアーマーなのだ。
何か革命的なメカニズムを開発する方法があるはずだ。
――それには僕もプロレスを勉強しないといけないなぁ――
〈10〉
ファビオはホウライの石庭でどこからともなく響いてくる鈴虫の声を聞いている。
風呂を上がるまでファビオには希望があった。
自分の持っている可能性というものを信じていた。
しかし、端末の業務連絡で完全な社外秘としてロビンがライダーに確定したことが知らされた。
「お前は頑張った。それでいいんじゃないか?」
セルジュが声をかけてくる。
「頑張ったってライダーになれなきゃ意味がない! あいつを倒せなきゃ意味がないんだ!」
ランナーに乗らなければ兄とは、ルカとは戦えない。
家族を破壊した償いをさせる事もできない。
「お前はアイドルになるつもりだったんだろ? いい加減目を覚ませ」
「お前だって俺を応援してくれただろ? 今になって手のひらを返すのかよ!」
――セルジュもドヒョンも練習時間を譲ってくれたじゃないか、応援してくれたじゃないか――
「お前の言ったことをそっくり返すぞ。頑張ったって意味がない。ライダーになれたとしてチームは努力賞を目指すのか? 違うだろ? チームが目指すのは、スポンサーが求めるのは勝利だ。頑張った先でまた頑張って同じように成果が出なかったら? 悪いがお前はその可能性の方が高いんだ」
セルジュの言いたい事は分かる。確かに現時点ではロビンとの差は埋まらない。
イェジにもオリガにも追いつく事もできない。
――でも……そうだ――
パウルは流水明鏡剣は108の型を極めると言っていなかったか。
天衣星辰剣は無理でも流水明鏡剣なら修める事ができるんじゃないか。
――そもそも俺は天衣星辰剣をこれっぽっちも教わっていない――
剣を修める事がライダーになる事なら何も訳の分からない天衣星辰剣にこだわる必要はない。
――俺は108の型をマスターする!――
まずは一人前の剣士になる事、ライダーになるのはその後だ。
「お前はこのままアイドルになればいい。俺はライダーになるんだ」
「センター候補が抜けるのか? 迷宮少年はどうなる?」
「お前は努力賞を目指してきたのかよ! なりたいなら自力でなれよ!」
ファビオはホウライ山に巡らされた回廊を走る。
走りながら端末を操作する。ややあって眠そうな男の声が聞こえてくる。
『こんな時間になんだ? 夜は女以外は着信拒否なんだがな』
「ヴァイスさん。俺に稽古をつけて下さい」
ファビオはパウルの宿坊に向かいながら言う。
『今からか?』
「今でなかったら駄目なんです! 諦めたら何もかも終わってしまうんです」
『時間が時間だ。まぁ、話くらいは聞いてやるよ』
なだめるようなパウルの声が聞こえてくる。
「ありがとうございます」
ファビオは走りながら言う。
――まだ俺は終わってない! ライダーになってルカを、ロビンを倒す――
※※※
しんと静まり返った宿坊の縁側に腰かけたパウルが目を閉じて低く唸る。
「お前の言いたい事は大体分かった」
稽古をつけてもらっていなかった事、良く分からないうちにライダーが内定した事、それでも諦めきれない事。
「108の型を教える事はできる。まぁ、動画でも出てるからそれを観て覚えるのもいいだろう」
「俺はどうしてもライダーにならなきゃならないんです。でないと死んだ母さんに顔向けできなくて……」
「立ち入った事まで聞く気はないが、お前さんは有名人で、ライダーにならなくてもできる事や可能性はあるだろう? ライダーになったとしてもものにならずに消えていくヤツの方が多い。それでもライダーになりたいのか? お前の目的は本当にライダーにならないと果たせないものなのか?」
「チームジュラシックスのライダー、ルカ・フェラーリは俺の兄です。どうしても兄弟である自分の手で倒さないといけないんです」
ファビオが言うとパウルが低く唸る。
「あいつそんなに悪いヤツだったかな……そうそう恨みを買うようなヤツじゃないと思うんだが」
外面がいいだけに決まっている。ルカは家族を捨てて一人で幸せになったのだ。
「一人の剣士として、門を叩いた俺に剣を教えてはくれませんか?」
「そりゃ動画で覚えられるくらいだから隠しもしないが……剣で人を殴るとか物騒な事はしないでくれよ」
パウルは腰を上げて言うと部屋の奥から二本の木刀を持ってきた。
片刃でやや湾曲した剣には長短があるが、長い方でも天衣星辰剣の剣より短く軽い。
「俺が門下生になった時にもらった木刀だ。型の稽古をするのに使うといい」
「俺に剣を教えてくれるんですか?」
「型を教えるだけだ。剣は心を現す鏡だ。俺が何を教えたところでお前の心が曇っていれば刃は何も映さない」
パウルが鉄の剣を手にする。
「流水明鏡剣は小太刀二刀流だ。基本は短い剣で受け流し、長い剣で攻撃を加える。基礎の基礎だけは教えてやる。俺の動きをなぞってみろ」
ファビオはパウルの銀色の刀身を見ながら木刀を振るう。
――今は耐え忍ぶ時だ。いつか風のようにロビンを追い越してルカを倒せるライダーになるんだ――
※※※
床に等間隔に空き缶が置かれている。
その空き缶の上にイェジは剣を持って立っている。
UMSのキャラバンとルートルはホウライを離れた後セリカ勾陳州に向かう。
セリカ勾陳州はリベルタ大陸の中央でロワーヌ天后州などがある西リベルタと傑華青龍州のある東リベルタの間で交通の要衝であるらしいがイェジには分からない。
イェジに分かるのは気を抜いたら空き缶が潰れて転ぶという事だけだ。
この不安定な足場の上で剣を振るう。移動は缶から缶へと飛び移る動きだけが許可されていて両足を踏ん張るなどという事はできない。
クリスチャンは更に細い棒の上に立っているが比べてはダメだ。
「お師匠様」
「何ですか?」
華麗に剣を振りながらクリスチャンが言う。
「流水明鏡剣には108の型があるそうですよ」
「よそはよそ、うちはうちです」
クリスチャンにはとりつく島もない。
「いや、でもうちは九つですよね? なんかやられた感あるんですけど」
パウルにはぐうの音も出ないほどに言い負かされたのだ。
「そうやって数字に惑わされるようだからあなたはいつまでたってもどんぐりなのです」
「みんなどんぐりどんぐりって言いますけど、空き缶の上で剣振れってだけしか言われなかったら不安になるじゃないですか」
イェジが言うとクリスチャンが盛大に溜息をつく。
「そんな事だからあなたはおたんこなすなのです。九通りの振り方を八方向に向かって移動しながら振ったら72通り、飛びながら振ったら72通り、その場で振る9を足したら153通りでしょう? 煩悩を数えるより高度な事をしてるのがどうして分からないのですか」
「それを口で言ってくれなかったから不安になるんじゃないですか?」
「訓練もせずに口で言ったらあなたは理解できたのですか?」
イェジは一言も言い返せない。確かに毎日不安定な足場で剣を振らされているから153通りに意味があるのだと分かるのだ。
「言ったはずです。天衣星辰剣は最大の手数を誇る剣術だと」
確かに剣術としてはすごいものを習っているのかもしれない。
しかし、
「マリーさんは素手の流水明鏡剣が柔術だって言ってました。天衣星辰剣には無いんですか?」
「触れられる前に投げる合気道です。相手に触れさせるなどという泥臭い事をしないのが天衣星辰剣です」
当たり前のような口調でクリスチャンが言うが剣を振る以外の事は習っていない。
「それ初めて聞いたんですが……」
「言っていないので当然です」
――お師匠様という人は……――
「だって教えてもらえなかったら無いと思うじゃないですか」
「第一にうちは剣術流派です。剣を修められないのにどうして体術を学ぼうとするのですか? 二兎を追う者は一兎をも得ずと言う言葉を知らないのですか」
「そういう事も教えてくれないと困るじゃないですか!」
「あなたはどうしてこうも愚かなのですか。今教えたでしょう。それにマリーを見るまでに体術を知らない事で何か困った事があったのですか?」
「ありません」
イェジは下を向いて言う。
「疑問が無くなったのなら修行を続けなさい。天衣星辰剣を修めればパウルのようなちょんまげは相手になりません」
「そうなんですか!?」
イェジは声を上げる。パウルは雰囲気からして相当に強そうだった。
「そうなのですから修行をしなさい」
剣の切っ先を向けてクリスチャンが言う。
これ以上何か聞いたら本当に怒り出して剣でボコボコにされるだろう。
――でも――
お師匠様は、うちの天衣星辰剣はやっぱり強いんだ。
※※※
昼間見たアナベルとマリーのランナバウトにはただただ圧倒されるだけだった。
オリガはコクピットでグリップを握りながら静かに歌う。
ランナバウトとはやはり闘争心を剥き出しにした人間同士が力と力、技と技をぶつけ合うものなのだ。
歌が好き、そんな自分を受け入れてくれたランナーが好きというだけでは届かない。
しかし、このままではライダーの椅子どころか迷宮少年の椅子まで失う事になるかもしれない。
――諦めなきゃいけないのかな――
歌では負けないつもりだった。必要とされると思った。
しかしアイドルは歌だけ歌えればいいというものではない。
ダンスも必要ならファンとのコミュニケーションも必要とされる。
――オーレリアンは私にライダーの才能があると教えてくれたのではなかったか――
藁をも掴む思いで掴みかけたチャンスまで奪われるのではないかと思える。
オリガはヴァンピールを呼ぶべく想いを歌に乗せる。
ヴァンピールが来てくれればこのような不安など吹き飛ぶ気がする。
しかし歌を紡いでもいつも答えてくれるはずの雷音が響かない。
――どうしてしまったんだろう。どうして答えてくれないんだろう――
ヴァンピールにも見放されてしまったというのだろうか。
オリガは言葉にならない寂しさを感じる。
――オリガの声は誰よりきれいだから――
そう言ってくれた優しかった両親と離れ、歌一つを武器に田舎から出て来た。
競争心剥き出しの練習生たちとの戦いも、自分の歌声だけを信じてここまでやって来た。
イェジがやってきて駄目だと思った時もヴァンピールが答えてくれた。
そのヴァンピールもやって来るどころか雷音を響かせる事もない。
――でも……もう走れないよ――
オリガの頬を涙が伝う。このまま田舎に戻るのだろうか。
両親はよく頑張ったと温かく迎えてくれるだろう。何事も無かったかのように一般人として生きていく事になるのだろうか。
――そんな事――
これまで自分を信じてくれた人たちに、何より今日まで頑張って来た自分に顔向けができない。
溢れだす涙と嗚咽で喉が震える。
――負けたくない――
私は迷宮少年のオリガ・エルショヴァだ!
これまで辛い夜はいくらでもあった。他のメンバーにうまくなじめず苦しんだ日だってどれだけあったか知れたものではない。
言葉に表せないほど苦しかったり辛かったりする時間を超えてここまで来たのだ。
――だから……だから答えてヴァンピール!――
まだ可能性があるのだと信じさせて欲しい。
血を吐く思いで涙の歌を紡ぐ。いっそ声が枯れ果てて全ての希望を奪い去ってしまえ。
と、遥か遠くで雷音が響いた。
ヴァンピールの音ではない。誰かがランナーを動かしているのだろう。
――私の声の翼からは羽が散ってしまった――
と、近くで答えるようにヴァンピールの雷音が一度鳴り響いた。
聞いた事もない激しい雷音と地響きが近づいてくる。
ヴァンピールが答えるように雷音を響かせる。
――ランナーが会話している?――
凄まじい雷音を響かせて目の前に四本足の勇壮なランナーが姿を表す。
金の装飾のついた黒と青のカウルの荘厳な姿からはヴァンピールとは比較にならない力が伝わって来る。
ヴァンピールの惜別の雷音が響き、グリフォンが棹立ちになって円錐形の槍を高く掲げて見せる。
グリフォンのコクピットハッチが開き、アームでオリガのコクピットを格納する。
〈我はグリフォン。そなたの慟哭と同胞の呼び声にいざ答えん〉
オリガは驚きと共にコクピットから見えるヴァンピールの姿を眺める。
――このランナーはすごいランナーだ――
乗っただけで分かる。圧倒的な力と歴代の優れた乗り手たちの涙と栄光。
ヴァンピールはオリガに答えなかったのではない。オリガの為にグリフォンを呼び、グリフォンもまたその声に答えてくれたのだ。
驚いた様子で集まって来た整備員たちの姿をオリガはグリフォンの目で見下ろす。
――行こうグリフォン! 私はまだ終わりじゃない――
※※※
バスチエは驚きと共にグリフォンを見上げる。
グリフォンは二十年前に名匠オーギュスト・ル・ヴェリエがセラフィムと共に完成させたドラグーンランナーだ。
当時のカーニバル優勝候補のチーム「エクレール」のリーダー、ジェラール・コートマンシェの乗機でもあった。
――とんでもねぇものがとんでもねぇ所から出てきやがった――
「バッテリーはほとんど死んでやがる。動いたのが奇跡みてぇなもんだ。そこら中ガタも来てるし動かす気なら相当手を入れなきゃならねぇ」
グリフォンのチェックをしていたダニオが傍らに立って言う。
「このグリフォンはそんな身体でオリガに乗られる為に来たってのか……」
ランナーに意志があるというのはランナバウト関係者にとっては一般的な認識だが、わざわざ乗り手を選んでやって来るとは前代未聞だ。
「俺は機械屋だから首突っ込む気はねぇが、オリガはライダー候補じゃビリだったんだろう……ファビオを別にすりゃあだが……。この一件で覆っちまうんじゃねぇか?」
ダニオの言う通りだ。追い込まれた歌姫を守る為に伝説とも言っていい電気騎士が現れたというのは美談にもなるだろう。
「まぁそうなんだが」
とはいえバスチエは手放しで喜べる状況ではない。
ロビンの為にオルソンが機体を作るのは既定路線で予算も組まれているのだし、会長のクリスチャンはイェジを推しているし、そもそもウロボロスは天衣星辰剣のチームだから理念から言えばイェジを外すという訳にも行かないのだ。
――役員会がまた揉めそうだな……――
歌劇派の専務マリアと歌劇のリージヤは喜びそうだが、会長派のアンドレイはそれならイェジもと言い出すだろうし、へウォンはロビンをプロデュースするという路線を今更変えようとはしないだろう。
「そもそもだ。このグリフォンはどっから来たんだ? 不動雷迅剣が消えた時に一緒に消えちまっていたんだろう?」
ダニオの問いでバスチエは意識を現実に引き戻される。
――このランナーは一体どこからやって来たんだ?――
※※※
クリスチャンは流水明鏡剣の宿坊にある茶室でコウリュウと向き合って座っている。
コウリュウは流水明鏡剣の現継承者で最強の存在、伝説の3大ランナーの守護者でもある。
「グリフォンが御山にあった理由は大体理解しました」
クリスチャンはコウリュウの説明に答えて言う。
「グリフォンが乗り手として貴殿のチームのライダーを選んだのなら私から言う事は何もない」
傑華青龍産の煎茶をすすりながらコウリュウが言う。
「今更他のライダーを乗せた所で言う事を聞きはしないでしょう。グリフォンは天衣星辰剣で預かります」
クリスチャンは煎茶を口に運んで言う。
「グリフォンが活躍すればジェラールの無念も晴れるというもの。カーニバルで相まみえる時を楽しみにしておる」
「あなたのガリィはアーマーでしょうに」
クリスチャンが言うとコウリュウが笑い声で答えた。
※※※
へウォンは社長室でポセイドン会長レオンティーナ・ファビアーニとのビデオ通話を行う羽目になっていた。
ポセイドンは西リベルタ最大の流通企業でチームホウライのオーナーでもある。
議題はホウライが保持していたグリフォンがウロボロスに渡った件についてだ。
グリフォンは減価償却が幾らかあるにせよ元々400億ヘルのランナーだ。
ポセイドンとしてはこれほどのランナーを無条件でウロボロスに渡す事はできないという訳だ。
「しかしファビアーニ会長、グリフォンは元々エクレール、グルメロワーヌのランナーでしょう?」
へウォンは画面の向こうの彫りの深い女性に向かって言う。
グリフォンの所有権は本来グルメロワーヌにある。しかしグルメロワーヌは二年前にランナバウトからの撤退を表明しており、グリフォンは純粋にチームエクレールの財産となっていた。
それがチームエクレールと不動雷迅剣の消滅という怪事件と共に行方知れずになっていたのだ。
「それでも二年間ホウライが管理していた事に違いは無いわ」
ファビアーニは最低でも二年分の保管料をふんだくろうという肚だろう。
――大企業の会長の癖にしみったれなんだから――
「ホウライが管理していたと報告は受けていますが、整備されていた形跡は無いとの報告も受けています。そもそもグリフォンの入手経緯も明らかではなく、それで保管料を取ろうというのは少々都合が良すぎる話なのでは?」
「確かにグリフォンの経緯については当社に報告は上がっていないわ。それでも二年間ホウライにあったという事実は変わらないわ」
ファビアーニが答えて言う。どうあっても幾らかは受け取らないと気が済まないらしい。
気前よく引き渡して恩を売った方が後々利益になるとは考えないのだろうか。
「所有権が無いものを保管し、その保管料を所有者であるかのように請求する事に法的な根拠はあるのですか?」
「法的根拠はなくても道義上の責任はあるのでは?」
――ごうつくばりの守銭奴め――
へウォンは内心で毒づく。
「仮にそうであるのなら、まず貴社はエクレールなりそもそもの帰属先であるグルメロワーヌにそれを請求すべきでしょう。グリフォンの所有権について当社はグルメロワーヌと交渉を行います」
「グルメロワーヌは二年前にエクレールを放棄しているわ。所有権は存在しないはずよ」
「そうですよね。で、あればグリフォンは権利者のない遺失物という事になりますよね? そうであれば本来自社の倉庫に保管するのではなくWRAに提出するなり届け出る必要があった訳ですよね? それをしなかったのはどういった理由かお聞かせ願えますか?」
「それはコウリュウから報告を受けていなかったからで……ポセイドンはグリフォンがホウライにある事を知らなかったからよ」
ファビアーニが歯切れの悪い口調で言う。
「で、あれば貴社はグリフォンが倉庫にある事を知らなかった訳ですよね? 仮に保管費用を請求するにしても事実確認時点からという事になりはしませんか?」
「……このしみったれの守銭奴め……」
「何か仰いましたか? 良く聞こえなかったのですが?」
ざまぁみろだ。それにしてもファビアーニにしみったれだの守銭奴だのと言われるのは心外だ。へウォンは経営感覚に優れているのであってケチな訳ではない。
「確かに今日までグリフォンがホウライにある事は知らなかったし、保管料も計上していない。それで存在したと知った時にはウロボロスに渡っていて、所有権者がそもそも存在していない事も同時に確認されていた。つまり……」
「貴社は当社に対して何ら請求権を有していないという事になりますね」
へウォンが言うと画面の向こうでファビアーニの端正な顔が歪む。
自分のものでもないのに他人から金を取ろうとするからこうなるのだ。
「それではこの話はここまでという事でよろしいですね?」
へウォンが言うと唐突に通信が切られた。ファビアーニは余程腹に据えかねたらしい。
へウォンは眠気覚ましの冷めたコーヒーに口をつける。
――で、グリフォンとオリガをどうするかよね……――
整備不良状態とはいえタダで入手できたグリフォンを遊ばせておく理由はないし、オリガはUMSライダーの候補に上がっていたのだから更なる訓練の上でデビューという事で問題は無いだろう。
――グリフォンを稼働状態に持って行くだけで幾らかかるか知れたものでもないんだけど――
だがグリフォンが即戦力である事は間違いない。ウロボロスには元々ファイターの機体しかなくドラグーンとドラグーンライダーは喉から手が出るほど欲しかったのだ。
グリフォンが機械の方からやってきたというのもドラマチックだし、マーケティングとしても悪い話ではないだろう。
――オリガをデビューさせるのは既定路線になったとして――
ここで迷宮少年のランナバウト企画を打ち切るべきか否か。
へウォンは小さく息を吐いて考える。オリガが奇跡を起こしてUMSのライダーになり迷宮少年の象徴となった。
それはそれでいいが迷宮少年とランナバウトのファンが納得するかと言えば別問題だ。
ロビンとイェジは実力が白中しておりこれまでも模擬戦で名勝負を繰り広げている。
三人の中では迷宮少年内の人気でもロビンが突出しているだけでなく、明るくユニークな人柄のイェジにも人気が出始めている。
更に相当出遅れてはいるものの迷宮少年最大の人気を誇るファビオのファンも彼を応援しているし、本人が納得していない以上ここで終わらせるのは企画として不完全燃焼、下手をすればファビオが他事務所なりランナーチームなりに移籍という最悪の事態も想定される。
ここで止めるのはマーケティングとしても未消化の案件となってしまう。
――それに会長の意向もあるし――
クリスチャンの第一のファンであるへウォンにとって、彼がイェジを後継者にしたがっているという事実は重いし、オリガとロビンに遅れる事になるにしろ財政的な都合がつき次第ライダーとしてデビューさせたいという思いはある。
――ライダーを六人も抱えるのは負担ではあるけど――
仮にカーニバルで優勝という事になれば賞金もさることながら宣伝効果は絶大だ。
甘い夢ばかり見てはいられないが条件が整うのであれば挑戦する価値もあるはずだ。
へウォンは目頭を揉んで背中を椅子に預けた。
わざわざ自分から心配しなくても心配事というものは向こうからやって来るのだ。
※※※
端末の着信音でヘウォンは目を覚ました。
疲れがたまっているのか椅子に座ったまま寝ていたらしい。
発信者はUMSのバスチエだ。
オリガという才能を発掘し、ほとんどタダでグリフォンを手に入れたのだからさぞかし機嫌もいいのだろう。
――叩き起こしたからには相応の用件があるんでしょうね――
『へウォン社長、起きてましたか?』
「時差がある事を理解してくれていて助かるわ」
へウォンは皮肉で答える。ただでさえ想定外の事態とファビアーニの対応で疲れているのだ。バスチエのように浮かれていればいいというものではない。
『グリフォンですが稼働状態に持って行くには手間と人材が必要になります』
「直談判する前に営業努力をしてくれないかしら」
『実戦経験はありませんがオリガに才能があるのは明らかです。グリフォンも元エクレールのカーニバルランナーですし』
へウォンはバスチエの言葉に頭痛を覚える。その程度の事であれば充分すぎるほど知っている。
「それが営業努力をしなくていい言い訳にはなりませんし、まして親会社に金を無心する理由にはなりません」
画面の向こうでバスチエが塩をふられた青菜のように萎れた表情になる。
『はぁ……でもロビンには予算がつくんでしょう』
「会長案件のイェジであっても予算はついていません」
へウォンの言葉が余程堪えたのかバスチエが押し黙る。
「とはいえ、ポセイドンのファビアーニにグリフォンを譲り受ける話は通しておいたから今後はあなた方の努力次第かしら」
『ポセイドンの会長から? グリフォンは自分で歩いてやって来たんですよ?』
驚いた様子でバスチエが言う。彼の頭の中はお花畑であるだけでなく妖精まで飛び交っているらしい。
「走って来ようと泳いで来ようと持ち主のいる機械である事に違いはないわ。まぁ、現実に起きたおとぎ話としては大衆受けするだろうし、スポンサーについてはあまり心配していませんけど」
『不思議な話ですなぁ。ランナーと心を通わせるってのはライダーから聞きはしますがこんな奇跡は初めてですよ』
「奇跡はもう起きたのだからこれからは現実を見て欲しいわね」
『で、オリガは奇跡だからいいとしてロビンとイェジはどうなります?』
打算的な表情を浮かべてバスチエは言う。本題はこちらという事なのだろう。
「ファビオはとは聞かないのね。動画の再生回数でも広告収入でも最大なのだけど」
『いやぁ……ファビオは確かにただのライダーなら筋がいいですがね。カーニバルを狙うようなライダーにゃなりませんな』
バスチエはファビオにはリップサービスすらする気が無いらしい。
『最悪イェジは駄目でもロビンの方は何とかしてもらえるんでしょう?』
バスチエは物事の都合のいい面だけを見る事にしたらしい。
皮肉を言うのも疲れたヘウォンは小さく溜息をつく。
「何とかするもしないも決定事項は私の一存では覆りません。で、アナベルとマリーを戦わせてあなたの目から見て分かった事は?」
ホウライでのアナベルとマリーの一戦はマーケティングの企画部が仕込んだものだ。
これはランナーによる素手での格闘をロビンに生で見せる事が目的だった。
だが、見ごたえのある試合だったとはいえロビンには今一つピンと来なかったらしい。
『私も詳しい訳じゃありませんが総合格闘技ってのは地味なモンですからなぁ。ロビンの心が動いたようには見えませんでしたな。彼はショーマンですからどっちかと言うとプロレスの方が向いているじゃないですか?』
バスチエの見解はアナベルの報告と一致する。とはいえヘウォンはプロレスという競技の事を知っている訳ではない。
「で、プロレスって言うのはアナベルみたいなライダーと戦って勝てる可能性がある競技なの?」
『さぁ? 昔に一世風靡した事はありますが時代も変わりましたからね』
「UMSの社長のあなたが「さぁ?」じゃ困るのよ。ロビンの強化と宣伝 企画を同時に進めないといけないんだから」
へウォンには格闘技の優劣や良し悪しは分からない。
クリスチャンの熱狂的ファンではあるが、それは剣術がどうのとかランナバウトで強いからというのは理由ではない。
『それこそロビンにプロレスか何かの格闘技をやらせてみるしかないんじゃないですかね?』
バスチエがやや投げやりな口調で言う。彼もランナバウトのプロではあるが格闘技に精通しているという訳ではないだろう。
パソコンのハードがランナーで、ライダーがOSだと考えれば格闘技というのはソフトの種類の事だろう。
物書きが文書を作るのにどのソフトが最適か考えるような事で、出版業界であれば編集に当たるチームのマネージャーであるバスチエが突っ込んで考える事ではないのだろう。
「それはマネージメントの企画の方に投げてあるけど……カーニバルに間に合わせられるかって事もあるから」
『ランナーもないのにカーニバルもクソもないと思いますがね』
それがバスチエには面白くない事の一つであるらしい。
教習に使っているヴァンピールがあるものの所詮格下のBクラスが使う量産機だ。
「そのランナーを作るのにロビンのプレイスタイルが必要って事でしょ」
へウォンが言うとバスチエが渋面を浮かべる。
『何だか鶏が先か卵が先かみたいな話ですなぁ』
モータースポーツだけやっていればいいバスチエには緊張感が欠けている。
グリフォン獲得で一時的に満足してしまっているのかもしれない。
「こっちはマイティロックの真のマイスターとしてオルソンをリークしたいのよ。幾らいい機体ができてもマスコミ発表だけで実戦投入じゃ耳目が集められないでしょ?」
今をときめくVWCのマイティロックのスキャンダルと真のマイスター、そして非量産新型機となればランナバウトファンは食らいつくだろう。
下手に噛みつけばブーメランになるのだからヴァルハラが強硬に出るとも思えない。
『いい目をしたマイスターだとは思いますよ。でもロビンをどうにかしないとランナーも作れないって話でしょう?』
バスチエと話をしていても水掛け論になるだけだ。
「いいわ。とりあえずこっちはこっちで動くから。そっちは体制を整えておいてくれればいいわ」
言ってへウォンは通信を切る。
タイミングを見計らったように秘書のオットーがコーヒーを持ってくる。
気がつけば窓の向こうから朝日が差し込んでいる。
「ロビンの方は難航しているようですね」
「座礁しそうよ」
淹れたてのコーヒーに口をつけてへウォンは言う。
「あくまで普通の……B級のライダーなんかは武器を先に選ぶわけでしょ?」
「今だと大剣とかヘヴィランスとか人気ですね」
オットーが勇ましい装備のランナーを端末に表示させる。
「でも実際スーパークラスでそういう武器を使ってるライダーは珍しいのよね?」
「今のトレンドは大型の武器を扱えるマイティロックが普及したというのが大きいですから。今のスーパークラスは二年前のカーニバル出場チームがほとんどですしそういう発想がまだ無かったという方が正確なのかもしれません」
オットーの言う通り現在カーニバルに出場可能なスーパークラスのライダーはマイティロック前の選手がほとんどだし、彼らのプレイスタイルが大きく変わったという事もない。
大きな武器というとメルキオルの大太刀があるが、それはそれで普通のライダーやランナーに扱えるものではないらしい。
「ロビンの場合は武器として徒手空拳を選んで、その徒手空拳という競技には意外と種類が多いって事が問題なのね」
「徒手空拳は最も原始的な競技ですからね。でも剣術にも三流派がある訳ですし」
「その辺の話はパス。とにかくロビンが選びたい武器は今のトレンドからは明らかに外れているって事ね」
へウォンは指先で端末を叩く。いい加減マーケティングから連絡があっても良い頃だ。
それを待っていた訳でもないだろうが端末がヴァネッリ社長の着信を告げる。
「待ちくたびれたわ。企画の方はできているの?」
『現在進行中のものはありますが路線は確定しました』
ヴァネッリが言って資料を送りつけてくる。
企画はロビンを女子プロに体験入門させるというシンプルなものだ。
入門先の「サイクロン」という団体はルチャリブレという派手なプレイスタイルであるらしい。
社長兼レスラーのジェーンは元総合格闘技出身、プロレス団体を経て自分で団体を立ち上げている。
本人のカリスマ性、特に女性人気が高い事もあってそこそこに人気のある団体ではあるが、現在女子プロというジャンル自体に人気がなく経営は火の車であるらしい。
そこでウロボロスエンターテイメントはこのサイクロンを買収、子会社化する。
ウロボロスマーケティングが大々的にサイクロンのプロモーションを行いサイクロンの知名度と収益性を高める。
その一環としてロビンをサイクロンに入門させるのであれば不自然ではないし、デビューへとスムーズにつなげる事ができる。
女子プロなのだからサイクロン的には女性アイドルという意見もあるだろうがそこはそもそもロビンに格闘技を覚えさせるという目的なのだから飲んでもらうしかない。
「で、買収の目途は立っているの?」
『現在は有力選手でもアルバイトをして掛け持ちでレスラーをしている状態です。レスラーに専念できるというだけで十分でしょう。加えて言うなら経営の心配をしなくて済むというのは零細の個人経営にとっては大きなプラスです』
「決め手はあるの?」
『相手が応じなければ事務所兼練習場となっているビルを買い取り契約更新を盾に要求を飲ませます』
ヴァネッリはさすがに頼りになる。ランナバウトバカのバスチエとは大違いだ。
――まぁヴァネッリにランナバウトをやらせても物の役に立たないんだろうけど――
「いいわ。このプランで進めてちょうだい。それと例の件はどうなってる?」
へウォンが言うとヴァネッリが銀縁の眼鏡を指で押し上げる。
『G&Tはライダーに相応の人気があるなら個人スポンサーを引き受けるそうです。ファビオかイェジの人気が相応のものになればランナー建造費用を準備するとの事です』
G&Tの本音はファビオにライダーとしてデビューして欲しいという事だろう。
だがファビオの実力はバスチエに三行半を突きつけられるレベルで、現在の所先行する三人に遠く及ばない。
迷宮少年で最も地味だったオリガと会長ごり押しのイェジを押しても充分な宣伝効果は望めないというG&Tの考えはへウォンには良く理解できる。
――もっともイェジがカーニバルライダーになれば掌を返すんだろうけど――
「と、いう事は当面迷宮少年の企画でライダー選出企画は続けなければならないのね?」
「オリガとロビンが抜ければイェジとファビオの個人企画のようなものになります。UMSはイェジを惜しがっていたので実際出来レースにはなりますが、相応にファンが増えればG&Tでなくともスポンサーを付けられるかも知れません」
三人を除く迷宮少年のメンバーたちは自らライダー候補を辞退している。
もっと入り乱れた方が企画としては盛り上がるしG&Tの要求にも答えやすくなるが、オリガが想定外の形で一抜けしたし、実力差もつきすぎておりウロボロスエンターテイメントとしてもこれまで以上にランナバウトに肩入れするという事はできない。
――イェジが中古のヴァンピールでSクラスライダーを撃破すれば嫌でも盛り上がるんだろうけど――
そもそも対戦カードを組むのが難しいだろうし、イェジはライダーとしてもまだまだ教習生なのだ。
対して人気のあるファビオはライダーの素質としては十人並みで、訓練次第でやれない事はないにしても事務所のゴリ押しライダーにしかならない。
――それでもしばらくの間はイェジのライバルでいてもらわないと――
G&Tにランナー費用を出させるまではランナバウト企画の注目度を落とす訳には行かないのだ。
※※※
都会ではまだ鍋で煮られるような暑さが続いているが、暑いには暑いがロワーヌ天后州郊外ではどこか気の抜けた暑さ。
放置された雑草は身の丈を忘れてその枝葉を伸ばし、畑では収穫を逃したきゅうりがへちまのように肥え太っている。
夏の爪痕が残る十月は出会いと別れの季節。
赤い残照と屋台の黄色い光が競い合う中、スジンは勤務先の同僚たちと海鮮鍋を囲んでいた。
「……ウロボロスもさ、アイドル戦わせるならランナバウトじゃなくってプロレスにしてくれればいいのに、それでうちの団体にイケメンが来るといいのに」
芸能好きのキャサリンがチキンを切り分けながら言う。
キャサリンはスジンの二年先輩に当たるが、なぜか後輩を見るようにしか見る事ができない。
「うちは女子プロだから来るとしたら美少女になるんじゃないか」
長距離運転手の彼氏を持つヒルダがビールを呷る。
恋愛も生活もすっかり落ち着いているスジンの三年先輩で頼れる姐さんだ。
「もしうちにイケメンアイドルが来るとしたら?」
マネージャーをしている長髪に眼鏡のドロシーが言う。
一歳年上なだけだがオフィスワークのせいか五歳は年配に感じられる。
「ウロボロスのロビンが来たらどうする?」
大人の女性といった雰囲気のアグネスが笑う。
女子プロレス団体「サイクロン」の副代表だ。
ウロボロスは世界最大級の芸能メディア企業、芸能に疎いスジンでも人気アイドルの顔と名前が一致するのだからそんな有名な芸能人がプロレス団体に来るわけがない。
「ロビンって迷宮少年で一番細っこいチビでしょ? ファビオなら分かるんだけどさ」
スジンの二年後輩のリリーがグリーンピースを除けながら言う。
「あんた顔と身長だけで見てんでしょ。そりゃ全体的にレベルが高いけど、表現力だとロビンかアヴリルの二択になんじゃん?」
蓮っ葉な印象のハンナが蛸の唐辛子炒めをビールで流し込みながら言う。
スジンより五歳年上でバツイチ、子持ちだが常に彼氏を切らさないというアクティブな先輩だ。
「お前そういえば学校は舞踊課だったっけ。後輩なのか?」
代表のジェーンがスペアリブを自分の皿に取り分けながら言う。
スジンはジェーンが代表を務める女子プロレス団体「サイクロン」の所属レスラーだ。
気前のいい事に今日は会社の経費で屋台を訪れている。
「ウチももう少し客が入るといいんだけどな。マネージャー」
アグネスが焼酎を煽りながらドロシーに顔を向ける。
「営業的に倒産しない程度にはできているので褒めて欲しいですよ」
ドロシーが酢豚からパイナップルを除けながら言う。
「全員食うに困らずに好きな事ができてるんだから文句は言いっこなしだ」
言ってジェーンが肉を頬張る。代表ながら一番人気のイケメンレスラーで熱狂的なファンも多い。
「でも一応私たちも芸能人のカテゴリーには入る訳ですよね~。もっと有名なら芸能人とお知り合いになれるのに」
キャサリンが矛盾も甚だしい事を言う。
「キャス、芸能人のカテゴリーに入るなら私たちも芸能人でいいでしょ」
スジンはビールに焼酎を入れて喉に流し込む。
練習の後はやはり炭酸が美味しいと思う。
「迷宮少年には会えないじゃん。つーか予選落ちした子たちにも会えないレベルよ」
キャサリンは悪酔いしているらしい。
「会う事もできない相手にどうして入れ込めるんだか」
ハンナが身も蓋もない事を言う。確かに正論だがそもそもが芸能人とはそう簡単に会えるものではないから芸能人なのだ。
「そうだけど彼氏がいても目の保養は欲しいだろ?」
ハンナの親友で元ヤン繋がりのヒルダが言う。
「私別れたばっかだけど目の保養とか思わないわ~」
ハンナが腸詰を食べながら言う。
最年少のリリーが冷えた視線を向けるがスジンもハンナが彼氏と半年以上続いた所を見た事がない。
「そこらの男より推しですよ。推しは裏切らないですから」
キャサリンがハンナを沼に引きずりこもうとする。
「推しは必用ですよね。人生の潤いの為には」
ドロシーが同調するが元々こんなにアイドルに興味を持つ子だっただろうか。
「いいよなぁ、そういう事考えられるのって。なんか興行の事とか会社の事しか考えてないわ」
アグネスが海鮮鍋を取り分けながら言う。
「ですよね。まずは次の興行をどう盛り上げるかですよね」
スジンはアグネスのグラスにビールを注ぐ。
サイクロンは代表がレスラー一筋という性格もあるのだろうが営業努力が足りない。
――営業努力ってよりそもそも女子プロの人気か――
好きで入った世界だが人気は地下アイドル並みの業界だと感じる。
「練習の後まで仕事の話はしたくないわ」
気だるそうにビールを飲みながらヒルダが言う。
「好きな事を仕事にできてるんだからもっとがんばりましょうよ!」
スジンは訴える。好きな事ができるのもそこそこに売れているからだ。
売れなくなったらコンビニバイト以外の掛け持ちも考えなければならない。
「お前らが頑張ってくれると助かるよ」
サイクロンのカリスマ、ジェーンがキラースマイルを浮かべながら言う。
労われるのは嬉しいがスジンが求めるのは現実的な現状打開策だ。
好きな会社だからこそ売れて欲しいと思うのだ。
「代表、私はもっと売れて欲しいと思ってるんですよ~」
スジンはジェーンにビールを注いで訴える。
「あんたレスラーでしょ? 地道に筋トレすんのがあんたの仕事じゃない?」
ドロシーが嫌味たらしい事を言う。
「あんた今日絡み酒になってない?」
ヒルダが焼き鳥の串の先でドロシーを指すとチッチッと舌打ちが返ってくる。
「アグネスには話してて代表にはまだ黙ってたんだけど、ウロボロスから買収のオファーが来たのよ。しかもウロボロスマネージメントのプロモーション付きで。んで、聞いて驚くな、迷宮少年サバイバルのロビンが三か月間体験入門するんだ」
ドロシーが音高くビールジョッキをテーブルに叩きつける。
身売りにはなるがロビンを体験入門させるという事はウロボロスは本気でサイクロンをプロモーションしてくれるという事だ。
それが事実ならコアなファンばかりのマイナー競技からライトな客層まで取り込めるエンターテイメントに格上げになるのではないだろうか。
サイクロンが売れてくれればスジンももうコンビニで働かなくてもいいかもしれない。
「会社売っちまうのはな……せっかく立ち上げた団体だし」
代表のジェーンは及び腰のようだが食えない所属レスラーとしては折れてほしい。
「つっても営業はドロシーに丸投げでこの有様だからな。練習場借りるのも負担だし」
アグネスがジェーンの泣き所を突くファインプレーを見せる。
「ウロボロスがプロモーションすると何ができるんだ?」
団体代表というよりレスラーのジェーンが眉を顰める。
「それは多分動画やCMにバンバン出て広いスタジアムで興行ができて……まずみんな掛け持ちのバイトの必要はなくなるって。これはウロボロスの人が」
ドロシーが福音を告げる。バイトをせずにレスリングに打ち込めるなら言うこと無しだ。
「広いスタジアムで客入らなかったら切ないんじゃないか? レスラーってのはそういう一発逆転的な甘い話に乗せられたら痛い目を見る気がするんだ」
団体を立ち上げたレスラーが破滅するのはよくある話だ。
下積みの苦労も長いせいがジェーンは心配が尽きないらしい。
「ウロボロスの本気度って半端なくない? ロビンって言ったらライダーの候補にもなってるくらいだし」
キャサリンが興奮した様子で言う。
スジンが端末で検索してみるとロビンというのはかなりのイケメン……というより美人だ。
こんな美形が存在して才能まであるのは神様が不公平だからだろう。
「何で女子アイドルじゃなくて男子なんだ?」
ジェーンが腑に落ちないといった様子で言う。
「そりゃあさ、モデルみたいな細い子がジャーマン食らったら再起不能で芸能界引退になっちまうからじゃない?」
キャリアの長いハンナが言う。
偏見かも知れないが華奢な美しさが売りのアイドルにパワーボムやアルゼンチンバックブリーカーをかけたりしても死ぬだろう。
「それだとこの子も細いけど大丈夫なのか?」
ヒルダが端末を覗き込みながら言う。
「リリーだって一年前までは細かっただろう」
ジェーンが入門一年、スジンの唯一の後輩リリーを引き合いに出す。
――代表は誰の味方なんですか――
「まぁこの子を鍛えてやればそれでうちの団体は安泰になるって訳だ」
アグネスがポジティブな面を見て言う。
レスラーである事が大前提ではあるが生活の安定が何より重要だ。
可能であれば貯金もしたい。
少なくとも今のポンコツマネージャーのドロシーのままではサイクロンは少ないファンを後生大事に抱えていく事くらいしかできないだろう。
――新人もリリー一人でアラサーばっかりだし――
レスラーにも売れる為には若さが必要だ。
スジンはリリーに次いで若いがそれでも24才。その上が二歳年上のキャサリンで後の選手はアラサーばかりだ。
女性ファンはついてきてくれるだろうが新規の男性ファンは厳しいだろう。
レスラーにもアイドル性は必要なのだ。
「うちの団体っつーか……ウロボロスになっちまうんだろ」
「名称はサイクロンのままでいいって話でした。あくまでウロボロスエンターテイメント傘下企業として対等に扱うって話で」
ドロシーはサイクロンを売り抜けたいらしい。
簿記ができるからといつまでも火の車の金勘定をするのも嫌なのだろう。
「酒の席で決める事じゃない……が、話は聞いてみるよ」
所属レスラーたちの熱視線を受けたジェーンが渋々といった様子で言う。
バイトをしなくて良くなるならレスラーたちから文句が出る事はないはずだ。
――代表賢明な判断をお願いします――
団体立ち上げの苦労や華やかなショーという理念はあるだろうが今のサイクロンに必要なのは安定した生活なのだ。
※※※
バスチエはルートルの一室。奥まった所にある厳重なセキュリティのかかった部屋の前に立っている。
インターフォンを押して反応を伺う。
この部屋の主は滅多な事では人前に姿を出さない。
先日不審者として捕まってからその姿を見た者はいない。
――もっとも捕まると同時に倒れてるからな――
オルソンが設計したマイティロックのフレームを一目見てほれ込んだのは会長のクリスチャンだ。
実際マイティロックは名機として知られるようになったのだから会長の目に問題はない。
しかし、現状ではランナーも作らず部屋に引きこもっているだけだ。
深夜にキッチンやジムを使用した痕跡はあるものの、人が起きだす時間になると姿を消してしまう。
――目の前でランナバウトをするなら顔も見せるんだろうが――
そんな理由の為にランナバウトはできない。
ホウライでのアナベルとマリーの一戦でも動画視聴や広告費などの収益を見越して綿密な計算の上で行われたのだ。
本当にその場の勢いでやられていたらカウルだけで8000万ヘルが吹き飛んでいる。
「なぁ、話があるんだが」
経営戦略はその多くがウロボロスマーケティングに左右されている。
とはいえバスチエもぼんやりしている訳には行かない。
――迷宮少年サバイバルのランナバウト企画の延長――
バスチエが見る限りファビオが脱落するのは目に見えている。
そこそこのライダーにはなるだろうがカーニバルライダーなる事はできないだろう。
オリガに加えてイェジとロビン、できれば三人を次世代ウロボロスの戦力として組み込めればバスチエとしては言う事が無い。
オリガのグリフォンは現在メカニックが総出でレストアしているし、ロビンも役員会でライダーが決定、プロレス団体に出向する事も決まっている。
企画を延長しろと言われてロビンとイェジを競わせるなら分かるがファビオを加えるのはどちらにとっても酷な話だ。
「単刀直入に聞く。ファビオのヴァンピールをカスタムしてイェジに勝てるか?」
バスチエはインターフォンに向かって言う。
二機あるヴァンピールは量産型の機体で現在二人は同じ条件で競っている。
その一機をファビオ専用機としてカスタムするのだ。
オルソンの腕が優れているならイェジやロビンに勝てないまでもいい戦いを見せる事はできるはずだ。
――ランナバウト畑の俺に思いつくのはこんな事だけだ――
ファビオが一時的であれイェジに肉薄すれば時間が稼げるし本社へのいいアピールになる。
その間にロビンがものになって戻ってくれればいい。
――現状の飼い殺しはオルソンにとっても不本意なはずだ――
※※※
廊下に一人分だけの足音が響いている。
深夜、迷宮少年のレッスンを終え、クリスチャンとの特訓を終えたイェジはシャワーを浴びて部屋に戻ろうとキッチンの前を通りかかった。
――疲れたし簡単につまめるもんでもあるといいんだけど――
イェジがキッチンの明かりをつけると目の前には料理の皿が並んでいた。
――幻覚でも見えてんのかな――
迷宮少年としてのレッスンと連日のクリスチャンのしごきで最近頭がぼんやりしている気がする。
おなかがすきすぎてどうにかなってしまっているのか。
――いい匂い――
透明な麺が入った澄んだスープをスプーンで口元に運ぶ。
芳醇な魚介と鳥のスープは体中の筋肉をほぐしてしまいそうだ。
エビの入った生春巻きはどうだろう。
魚醤とごま油と酢をベースにした三種類のタレにつけて交互に食べていると幾らでも食べる事ができそうだ。
鶏肉の乗ったサラダ、ニラの入った薄焼き、具だくさんの海苔巻き。
イェジは見えない何かに操られるように次々に口に運ぶ。
あまり統一性はないがどれもこれも驚くほど美味しい。
「あ、あの……」
どこからともなく声が聞こえてくる。
「誰かいるの?」
「あ、あの」
声がテーブルから響いてくる。
――テーブルの下に誰かいるの!?――
不審者だろうか。しかし不審者がこのルートルに簡単に入って来れるとは思えない。
イェジがテーブルの下を覗き込むと反対側に黒い塊が飛び出す。
「誰!?」
イェジは誰何の声を上げる。
黒いフードの男が顔を隠すように部屋の隅で丸くなる。
「か、か、か」
「か?」
「か、管理人のオルソンです」
「管理人さん?」
イェジはこれまで管理人を一度も見た事がない。
管理人はどうしてこうも挙動不審なのだろうか。
「それは僕が自分のために作ったんだ。勝手に食べないでくれ」
決して目を合わせようとはせずにオルソンが言う。
「電気消えてたのに?」
「人が通りかかったから慌てて消してテーブルの下に隠れたんだ」
「地震じゃあるまいし」
イェジは笑って言う。まるで幼稚園の防災訓練だ。
「地震の方が話しかけて来ないだけマシだ」
オルソンは至って真剣であるらしい。
「こんなに作って一人で食べてるの?」
「三食分作ってあるんだ。昼間は君たちが出入りするだろう」
さも迷惑だと言わんばかりにオルソンが言う。
「寮生なんだから仕方ないでしょ?」
イェジが言うとオルソンがぐったりとした様子でテーブルにつく。
オルソンの胃袋が大きな音を立てる。
「そんなに美味しそうに食べられたら我慢できないじゃないか」
「自分が作ったんだし我慢しなきゃいいじゃん」
イェジが言うとオルソンが大きく頭を振る。
「君は全然分かってない。君たちとかぶらないように生活時間帯をずらした。ジムで鍛えるのもシャワーを浴びるのも深夜、食事を作るのも一日一回。それだけでも十分不便だったのに君の生活時間帯がどんどん押してきてる。元々運動の後に食事を作ってたんだし、ジムを使うのもシャワーを使うのも君の後だ」
「管理人なんだし好きにジムを使ったらいいじゃん」
利用者と同時間というのは無理かもしれないが、何もイェジから逃げ回るように動かなくてもいいはずだ。
「僕は極端に人見知りなんだ。はっきり言うと自閉症の一種を抱えてる。一度に大勢の人の前に出る事はできないし、初対面の人と話すのは緊張する」
「誰でも緊張するんじゃない?」
イェジでも初対面の人と話すのは緊張する。誰と話をしても緊張しない人間はクリスチャンくらいなものだろう。
「発作を起こしたりするんだ。君には分からないだろう」
「分からないけど私と話せてるじゃん」
「一対一ならそこまで緊張しない」
言ったオルソンが食い散らかされた料理に熱い視線を向ける。
お腹をすかせているのは確かであるらしい。
「遠慮しないで食べたら?」
「自分が用意したみたいに言わないでくれ。これは僕が僕の為に作ったんだ」
オルソンが勢いよく麺をすする。
――美味しそうだなぁ――
食事を中断させられたせいか余計にお腹がすく。
「そう言わないでさ。食事はみんなで食べた方が美味しいじゃん」
イェジは海苔巻きを摘まみ上げて口に放り込む。
ごま油と焼肉の香ばしさがやみつきになりそうだ。
「大勢いたら緊張で喉を通らないよ」
オルソンが箸の先でイェジを追い払おうとする。
「そんな事言わないでさぁ。ごはん食べたら出てくからさ」
「それは僕の食事を奪うって事だよな」
「親切は何倍にもなって返ってくるんだよ」
「強盗の言い分とは思えないよ」
言ったオルソンが席を立つ。
「強盗って大げさな」
イェジが言うとオルソンがエプロンをつける。
「何を食えば満足するんだ」
オルソンはイェジに料理を作ってくれるらしい。
感じの悪い不審者だが悪人ではないようだ。
「ラーメン」
「この時間から寸動でスープを煮たら朝になるだろ! 僕を殺す気か」
「インスタントでいいよ。棚に入ってるからさ」
「インスタント?」
オルソンがイェジに顔を向ける。
「僕の創作物をインスタントで済ませろと言うのか」
「創作物って……」
小さな事を大げさに言う所はどこかクリスチャンに似ている気がする。
「時間もないしジャガイモのニョッキで十分か。それでいいよな」
「よっ、料理男子」
イェジは言ってジャガイモを洗うオルソンの背を眺める。
――明日キッチンに来たら――
オルソンはまた隠れているのだろうか。
――いっそ二人前作ってくれたらいいのに――
イェジは疲労で瞼が重くなる。
――もう一口……――
※※※
「部屋にいないならいないと知らせてもらう方法はないのか」
バスチエは憮然とした顔でオルソンの部屋で良い香りのコーヒーを前にしている。
「自閉症と引きこもりを混同するからですよ。人間さえいなければ僕はどこにでも自由に行けるしどこででも生きていけるんです」
オルソンがさも不本意だと言いたげに言うがバスチエから見れば似たようなものだ。
人間の一切いない環境で生きていくのは……
――オルソンならやりかねんか……――
「それはともかく端末も持って出なかったとは」
「歩いて数メートルのキッチンに行くのに端末なんて持っていきませんよ」
オルソンの言い分も分からなくはない。しかし不便なものは不便なのだ。
――社交性とは言わないがもう少し人間慣れしてくれないと――
このままでは密林で捕まえた珍獣だ。
「できれば普通に昼間に会える状態を作って欲しいんだがね」
「そうならなかったのはウロボロスの都合でしょう」
そうなのだ。オルソンの要求は一切人間と接触せずに済む環境としてのランナーキャリアだったのだ。
だが自閉症だと知らなかった企画部は予算を広告費でまかなうために迷宮少年とタイアップさせた。
お陰でオルソンは部屋に籠って出られずフラストレーションをため込む事になっているという訳だ。
オルソンをリリースする事もできるだろうが、そうすればそうしたで二度と戻って来ない可能性もある。
「君の要求が大きすぎたというのもあると思うがね。大きなキャンピングカーという要求ならこうはなっていなかった」
バスチエが言うとさすがにばつが悪いのかオルソンが表情を曇らせる。
「ともあれだ。今の君はルートルの管理人ではあるが事実上無職と同じだし、UMSとしても君の才能を考慮して飼い殺しにするのも忍びない」
純粋に管理人と考えたなら厚待遇過ぎるだろう。
「それはどういう事ですか?」
「ファビオ専用にヴァンピールをカスタムしてイェジを撃破して欲しい」
バスチエが言うとオルソンが一瞬呆けた表情を浮かべる。
「ランナーの性能差だけで勝てると思っているんですか?」
オルソンの質問は至極もっともだ。ランナーを動かせる人間とランナーで戦える人間を競わせるのだ。
レーシングカーに素人を乗せたからといって軽自動車に乗ったレーサーには敵わない。
「スポンサーの都合で迷宮少年のサバイバルのランナバウト企画は延長しなきゃならん。知っての通りオリガは一抜けしたしロビンもプロレス団体に行く。ライダーになる気があって残ってるのはファビオとイェジだけだ。この二人でそれなりに企画も盛り上げんとランナーの新造もできんという訳だ」
「本社は費用を出さないんですか?」
「カン社長はそんな事は微塵も考えていないだろうさ」
バスチエは憎らしいキャリアウーマンを思い浮かべる。
経営手腕で手も足も出ないのだから仕方ないが、ウロボロスはメディア企業として肥大化する前は歌劇とランナーチームの両輪でやっていたのだ。
――それで首が回らなくなっちまったんだけどな――
オルソンがしばらく考えてから口を開く。
「イェジにハンデを与えれば何とか追いつかせる格好だけはできるのでは?」
「ハンデねぇ。それと見えるようなハンデは困るんだよ。何だかんだ言ってマニアも見てるしな」
コアなマニアは下手な評論家よりランナバウトに精通している事が多い。
「そうなると純粋にソフトとしてのファビオの性能を上げないとどうにもなりませんよ。方法はなくもないんですが」
「あるのか?」
「NM(ナノマシン)注入による仮想OSの構築です。ファビオの頭に回路を作ってシステムを同期させれば反応速度の向上とシンクロ率の安定が見込めます」
オルソンの言葉にバスチエは頭を掻く。
「そりゃレギュレーション違反じゃねぇか」
「公式戦に出ればそうです。でも迷宮少年の企画は身内の争いだけ演出できればいいんでしょう?」
オルソンの着眼点は的を得ている。
あくまで企画なのだから公式戦のレギュレーションに固執する必要はない。
「ファビオがイェジをぶっちぎっちまったらどうする?」
「外科的手段で一時的に能力を向上させたからといって本人の能力が変わる訳じゃない。イェジが相応に成長すれば逆に追いつけなくなるでしょう」
オルソンの言う通りだ。仮にファビオが想定外の強さになったとしてもドーピングを止めてしまえば落差もあってイェジには手も足も出なくなるだろう。
――残酷な話ってのは分かってんだけどな――
ファビオがやる気を見せていなければG&Tは乗り気にならずそもそも企画として成立しない。
現状の迷宮少年のランナバウト企画はファビオの人気が支えているようなもので、UMSはそれに乗ってランナー新造費用を調達しようとしているに過ぎないのだ。
「それで行くとしてNMのノウハウなんてあんのか?」
「マイティロックはあらゆる状況を想定して作られたランナーです。アウトサイダーが使う事もそれなりに想定されています」
蘇利耶ヴァルハラではランナバウト賭博が横行している。違法な手段に手を出す者の少なくない。
VWCでマイティロックが売り出されているというのはつまりはそういう事で、それを作ったのが目の前のオルソンなのだ。
――ランナーの話をしてる時は頼りになる青年って感じなんだがな――
そこから外れてしまうとオルソンは途端にポンコツになってしまう。
――勿体ねぇ話だなぁ――
オルソンはこのままでは新型機を作ったとしてもその発表会に顔を出す事もできない。
そもそも本人がそれを望まないのだとしてもチームとしてはマイスターにも晴れの舞台に出てほしい。
――それも年寄りのエゴみたいなもんか――
形によってはビデオメッセージという手もあるだろう。
それも叶わないかも知れないが、バスチエは目の前の青年を見ていると僅かな可能性というものを信じてしまいたくなるのだった。
※※※
ルートルの応接室でオリガは小さくため息をついた。
グリフォンがやって来た事でオリガの日常の景色は大きく変わった。
迷宮少年から脱落する可能性はほぼなくなった。
連日ランナバウト関係の記者が取材にやって来る。
オリガはこれまでの人生でこれほど注目された事がない。
そのグリフォンは復元と改修で一か月ほどは乗れないのだと言う。
――恋人を待つ気分ってこんな感じなのかな?――
これまでラブソングを歌った事はあるがどこまで行ってもそれはファンタジーの延長線上の事だった。
オリガはこれまでここまでの想いで誰かを待った事はない。
グリフォンが戻ってきたらどんな風に自分に答えてくれるだろう。
そこまで考えた時ヴァンピールの姿が脳裏を過った。
身を引いてグリフォンにオリガを託したヴァンピールも素敵な機体だった。
浮気性という訳ではないが乗るだけならヴァンピールでも良かった気がする。
しかし、それではロビンやイェジに追いつけなかったのも事実だ。
人生とはつくづく不思議なものだと思う。
と、応接室のドアがノックされた。もう今日は取材の予定は無かったはずだ。
「はい」
オリガが答えるとドアを開けてファビオが姿を表した。
「よう」
「ファビオ?」
一体どうしてファビオが現れたのか分からない。
「オリガ、どうしても聞きたい事がある」
改まった様子でファビオが向かいのソファーに腰かける。
「何?」
真剣な様子のファビオの目が怖い。オリガは反射的に目を逸らす。
「何を歌ったらグリフォンみたいなランナーが出向いてくれるんだ?」
ファビオの言っている言葉の意味がオリガには分からない。
おとぎ話の召喚の儀式ではあるまいし、特定の歌を歌ったから来たとは思えない。
オリガが呼んだというよりはヴァンピールが呼んでくれたのだ。
「ランナバウトの企画でさ、俺たちロビンとイェジにぶっちぎられてただろ? 俺はイェジについて習ってみたけど結果は散々だ。そこでお前のグリフォンだよ。俺もどうしてもライダーになりたいんだ。今のヴァンピールじゃどうにもならないんだ」
「ヴァンピールを大切にできない人にはどんなランナーも答えてくれないと思う」
ヴァンピールはとても優しいランナーだ。そのヴァンピールが駄目だからという理由で乗り換えるのは筋違いだと思う。
ヴァンピールがグリフォンを呼んでくれたのはオリガの力を引き出し、迷宮少年に残れるようにする為だ。
「ヴァンピールを大切って、中古のB級ランナーだろ? あんなモンじゃカーニバルどころか地方のグランプリにすら出られない」
「私はヴァンピールが望むならどんな大会にも一緒に出場するよ」
それがオリガがヴァンピールに返せる唯一の恩だ。
「それマジで言ってんのか? グリフォン一機で新品のヴァンピールが何機買えるよ」
ファビオが納得できない様子で言う。
「そういう気持ちだとどんなランナーも答えてくれないと思う。腰かけだと思われてヴァンピールが本気を出せると思う?」
「ヴァンピールが本気って……ヴァンピールは機械だろ?」
ファビオの言いたい事は理解できるがオリガはヴァンピールと心を通わせたのだ。
それは言葉で言っても理解してもらえない事だろう。
「それはそうだけど……そう思っているうちはライダーになれないんだと思う」
「何だよそれ。俺がライダーになれないとでも言うのか?」
ファビオが前のめりになって言う。
「私は自分をライダーだと思ってる訳じゃないけど、少なくともランナーには敬意を払ってきた。ただの機械だと思って手足のように動かそうとしてもランナーは答えてくれないと思う。それっていつまで経ってもライダーになれないって事だと思う」
オリガはファビオに向かって言う。ヴァンピールは道具では無かった。あの不安と孤独を慰めてくれた優しい相棒だった。
――ファビオには分からないかな――
「俺にはお前の言ってる事が分からねぇよ。ランナーは操縦して動かすものだろ?」
「分からないなら仕方ないし、私を分かって欲しいとも思わない」
オリガは席を立つ。これ以上ファビオと話す事は無い。
「おい、ちょっと待てよ。グリフォンを呼んだ時の曲くらい教えてくれてもいいだろ」
ファビオがオリガの手首を掴む。
瞬間威嚇するかのような雷音が響いた。
「何だ……まさかグリフォンか……」
驚いたようにファビオが驚きと恐怖の入り混じった表情を浮かべてオリガから手を離す。
「そう。私がどこにいようとグリフォンは助けに来てくれる」
オリガは胸を張って応接室を出ていく。
――グリフォンに会う前にヴァンピールに会おう――
グリフォンは素晴らしいランナーに違いないが、その出会いをくれたのはヴァンピールなのだ。
ヴァンピールを信じられないファビオは……
――きっとライダーになる事はないだろう――
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