かすみそうに包まれて
@Faith_in_need
第1話 出会い
人にはそれぞれ振り返れば忘れられない大切な思い出の一つはあるものだ。その思い出がその人にとって大切であればあるほど、それは振り返らずとも常にその人と共に同じ長さの人生を歩んできたとも言える。私の人生がそうであるように。
一 出会い
一九八五年十二月二十六日。カリフォルニア州サン・ディエゴにあるALIという英語学校に三ヶ月の短期語学留学をするため、私は初めてアメリカの地に降り立った。私と同じ大学に通っていた十人程の友人たちもこのプログラムに参加をしていたが、みんな十九歳や二十歳ぐらいの右も左も分からないような若者ばかり。ロサンゼルス空港の入国審査では問いかけられた英語に戸惑い、ターンテーブルでは受け取った自分たちの荷物をどうやって乗り継ぎカウンターまで運べば良いかでまた戸惑った。税関検査もよく分からず、列をつくっている人たちの後ろへとりあえず並んで立ち、彼らの手にした用紙と同じものを係りの人に渡し、そのまま彼らのあとに続いて進んだ。気がつくとそれが税関検査だった。しばらくして到着ロビーが見えてきた。大きなガラス窓から差し込む明るい日差しを背に、待ち人を待つ人たち。お帰り、と大声を出しながら抱きしめ合う人たち。到着ロビーでのドラマを尻目に、私たちは国内線ターミナルを探した。だが、それらしい目印が見当たらない。私たちがきょろきょろしていると、親切そうな紳士が何を探しているのかと尋ねてくれた。覚束ない英語と身振り手振りのジェスチャーを交えて、国内線ターミナルの場所が分からないとこたえると、その紳士は、まずはここを真っ直ぐ、左にエスカレーターが見えたらそれに乗って二階に、とおしえてくれた。私たちは教えられた通りに歩き出した。
「ねえ、こっちの方向で正しいのかなあ?」
しばらくして、ふいに良枝かがポツリとつぶやき、歩いていた私たちの足取りが急に遅くなる。
「エスカレーターだってあったし、いいんじゃないの」
「でも国内線っていう文字が出てこないよね」
私の言葉に敦子が心配そうに言う。
「じゃあ、誰かに訊いて見る?」
知美が敦子の横に並んで言った。
「ええっ? 誰が訊くの? 私、怖いよ」
敦子は急に立ち止まり、辺りを見渡す。
「じゃあどうする? このまま行ってみる?」
「でも、もし間違っていたらやばいよね?」
私たちはいつの間にかその場に立ち止まってしまっていた。
「でも、急がないとまずいんじゃないの?」
時計を見るともう三十分もない。
「いやだ、ホントだ。もう時間ないじゃん」
「どうしようか」
そんなじれったい女同士の会話に割って入ったのはグループで唯一の男性、よしきだった。
「もうこっちで合っていると思うからみんな急いで! ホントに時間がなくなっちゃうよ」
よしきは言うと、いきなり走り出した。
私たちも釣られるように彼のあとに続いて必死に走りだす。確かな確証もないまま長い通路を走り抜ける。頭上に国内線ターミナルのサインが見えてきた。
「あっ、あそこ国内線のターミナルだよ。無事に着いたよ」
「ホントだ。 やっぱりこっちで良かったんだ」
あとは搭乗ゲートを見つけるだけだ。私たちは息つく暇もなく辺りを見渡し、ゲート番号を確認した。数分後、搭乗時間内ぎりぎりで、私たちはサン・ディエゴ便に乗り込む事が出来た。
「ああ良かった。間に合った。よしきのお陰だよ」
敦子がシートにもたれて言った。
「ホント、そうだよね。あそこで走ってなかったら完全にアウトだったもんね」
「ホント、ホント」
普段おとなしいよしきが声を上げて私たちを誘導してくれた事に、みんな、多少驚きはしたものの、やっぱり男子がいてくれると心強いよね、などと口々に言っている。
「そんな、当たり前の事をしただけですから」
いつものように敬語を使って話すよしきからは、さっきまでの勢いはすっかり消えてしまっていた。
飛行機はそれから三十分程度でサン・ディエゴ空港に到着した。
「皆さん、サン・ディエゴへようこそ! 飛行機は快適でしたか?」
ロビーへ出ると、学校関係者の人たちが私たちを出迎えてくれていた。やっと着いたね、とみんなでホッとしたのもつかの間。
「今日から皆さんは一週間のホームステイ体験をします。皆さんをお世話して下さるホストファミリーの方たちが待つ会場へこれから車で向かいますので、こちらに来てください」
ここがサン・ディエゴだという実感を噛みしめる間もなくすぐさまそう告げられると、私たちは言われるがまま、鉛のように重たく感じるスーツケースを押しながらのろのろと彼らのあとに続いた。
会場へ着くとホストファミリーの人たちが笑顔と拍手で私たちを歓迎してくれた。私たちもそれにこたえるように笑顔を振りまく。が、その表情は明らかに疲れ切っていた。靴を脱いで早く横になりたい。私だけではなくきっと全員がそんな事を思っていたに違いない。関係者の挨拶が次々と会場に響く中、目を閉じてしまえば立ったままでも眠りに陥ってしまうほどの睡魔に襲われていた私は――フカフカの毛布に包まって眠る自分を想像しながら――今日という一日が早く終わって欲しい、とそれだけを願っていた。数十分後、ついにその願いが報われる時がやってきた。私たちの名が一人ずつ順に呼ばれ、それぞれのホストファミリーに引き渡されると、ようやくその場から解放され、各家庭へ去って行く事がゆるされた。
日本を発ちそこへ行きつくまでの、それは長いながい一日だった。
次の日、私は生れて初めて時差ボケを体験した。頭がフワフワしてまるで空を歩いているような、酒に酔って千鳥足になっているような、なんとも言えない不思議な感覚だった。でも、気持ちが悪くならない分、船酔いよりははるかにマシな体験だった。そんな時差ボケのまま迎えた翌日の金曜日、私たちはオリエンテーションやクラス分けの簡単なテストを受けるためALIへ向かった。
ALIはサン・ディエゴ州立大学(SDSU)の敷地内に設けられた、L字型をした平屋建ての英語学校だ。校舎内の廊下や教室は全て薄での明るいベージュ色のカーペットが敷き詰められていた。素晴らしく近代的な建物ではなかったが、整然と並べられた机、時折漂う柑橘系の洗浄剤の匂い、隅々まで行き届いたこの学校の清潔さが私は好きだった。校舎の周りには背の高い木々がいくつも植えられ、木漏れ日が絶え間なく降り注ぎ、心地良い風がいつもそよそよと吹いていた。
「みんな、今朝は元気かしら? 私はこのA‐2のクラスを担当するケイトです。よろしくね」
そう言って教室へ入ってくると、ケイトは一番前の机の上にドンっといきなり座り、あぐらをかいた。
「そうね。まず、あなたたちの事を知りたいからみんなに自己紹介をしてもらいましょう。そうすればお互いのことも分かるものね」
先生なのにあぐらをかいて机の上に座っちゃうなんて、なんかすごい。私は気さくでとても自然体なケイトを一目で気に入った。
授業の中にはシーニックツアーと呼ばれるちょっとした課外授業もあり、ホエールウォッチングの体験で私は初めてクジラを見た。サン・ディエゴの海が見渡せる丘の上の灯台へも行った。ダウンタウンの海港に建てられたシーポートビレッジへ行ったときは、みんなで昼食を取ったり、お土産を買ったりして、自由時間を気ままに楽しんだりもした。そういった授業を通してクラスメイトとの交流は深まり、色々な国から来ていた人たちとも次第に打ち解け仲良くなった。そうして授業は進み、新年を迎えた最初の金曜日、学校主催のパーティが初めて行われることになった。
「カナ、今日のパーティ、行くんでしょ?」
授業を終え、私たちは温かい日差しの待つ外へ出た。
「ええ、学校の主催だし、とりあえず行くわよ。スーザンは?」
「まだ分からないのよ」
同じクラスで初日から気が合い仲良くなったスイス人の(金髪で綺麗な)スーザンは、体調がすぐれないからまだ行くかどうか決めかねていると言った。校舎の外ではパーティの話で持ち切りになっている。
「それじゃあ無理しないほうがいいね。次の機会だってまたあるだろうし」
「ええ。でも、とりあえず家で少し休んでみるわ」
スーザンはそう言って、スイスから一緒に来たという親友のジュリアと帰っていった。
二人の姿を見送りながら私は空に鼻を向けた。冬の透き透った午後の空気に、微かに混ざる木々の香りが鼻をくすぐる。サン・ディエゴの冬の匂いだと思った。
パーティ会場として選ばれたのは学校から歩いて二、三十分ほどの所にある「ディエゴズ」というメキシカンレストランだった。店内に入ると長方形の大きなテーブル――テーブルをいくつもつなぎ合わせている――が、店の中央に用意されていた。
「名前は何て言うの? どこから来たの?」
みんなが席に着いた途端、敦子が興味津々といった感じで身を乗り出して訊いた。
「僕はロベルト、こっちは友だちのアルトゥーロ。二人ともアルゼンチンから来てるんだ」
いきなりの質問に面食らった様子もなく、にこにこ笑いながらロベルトはこたえた。
「僕はルイです。フランスからです! どうぞよろしくです!」
テーブルの端の方に座っていたルイが、突然大きな声で会話に割って入ってきた。抜群のタイミングとフランス語なまりの英語でみんなをわっと笑わせ、その場をさらに盛り上げる。会話も授業のときとは違い、笑いこけてしまう程おもしろい話を披露してくれる人がいたり、先生たちにも無礼講でプライベートな質問をしたり、今まで話しかける事が出来なかった別のクラスの人たちに話しかけてみたりと、みんなが本当に和気あいあいと、その場を楽しく過していた。
しばらくして、一人の男性が店に入って来た。その男性は辺りを見渡し、私たちの席の外れにいたケイトに近寄ると親しげに話し始めた。私のクラスを担当していたケイトはかなりの大柄で声も大きく、そして、何より屈託なく笑う、みんなからとても好かれている人だった。そのケイトとは見るからに対象的に映っている彼。
その彼はとても柔らかい、今にも壊れてしまいそうなほど柔らかい微笑みを顔中一杯に浮かべ、楽しそうにケイトと話をしていた。私はその彼を遠眼に見ながら、誰だろう、 あんなに親しげにケイトと話しているなんて、と思っていた。でも、その彼の柔らかい、なんとも言えない優しい微笑みが忘れられなかった事を、今でもはっきりと覚えている。よく人の内面が顔に表れると言うが、彼の表情を見る限り、まさに誠実そのものが彼の顔や雰囲気全体に醸し出されている、といった感じだった。その彼はケイトとほんの五、六分話をすると、握手をして席を立ち、店をあとにした。
二時間程で楽しいパーティは終わった。その後、ダニーのアパートで二次会があると言われ、私も誘われるがまま、彼のアパートへ同行した。まさかその席でケイトと親しげに話をしていたあの彼に再び出会い、その彼がその後の私の人生を大きく変えることになる人だとは少しも思わずに。
相乗りしてきた車から降りたころには雲もどこかへ姿を隠し、夜空には輝きを放った月がポッカリと顔を出していた。
「さあ、みんな入ってくれ。ここが僕らの部屋だよ。くつろいで楽しんでいってくれよな」
ダニーはドア越しに立ってみんなを招き入れた。
ダニーが短期留学のために借りていたアパートは、学校から車で少し離れたところにある2LDKのアパートだった。二階建てのアパートの長い廊下をいった、一番奥の角部屋だ。その部屋をスイスから来ていたもう一人の友人、ラルフと一緒に借りていた。
私はキッチンで飲み物をもらい、ソファーに腰を下ろしてくつろいでいた。すると、ディエゴズでケイトと親しげに話をしていたあの彼が、開けっ放しの玄関から入って来るのが見えた。彼は目が合ったダニーに近寄り笑顔で何かを言うと、私の横の――あと一人座るには少しきつそうに空いている――席を見た。
「座ってもいいですか?」
私の前に立つと、彼は穏やかな微笑みを浮かべて言った。
「もちろん、どうぞ」
私は席をつくろうと、座りなおしてこたえた。
レストランでケイトと彼を遠眼に見ていた私は、その彼にまた会えた事を嬉しく思いつつも、ああきっとアジア人の私なんか相手にもしてくれないんだろうな、と心の中で思っていた。アジア人と言ってしまったら語弊があるかもしれない。でも、当時の日本人留学生といったら(少なくとも私の周りにいた語学留学生は)いつも日本人同士で固まり、英語を真剣に学んでいない人たちの方が大半だった。遠い祖国である日本を離れ、英語を生で学べる環境へ来られたにも関わらず、いざ他国の地を踏むと、人は突然に弱くなってしまうものなのだろうか。それとも、自分の国の今まで見えていなかった良いところが見えてくるからなのだろうか。同じ言葉を話す者同士が寄り添い合い、絆を深めてしまう傾向があるように思えた。だから、学校へ行っても日本人同士が集まって、日本語のオンパレードで会話が弾んでいる光景を見るのが殆ど日常のことだった。その現状に反発を覚え、と言うか、そもそも私は「自分の将来のために英語を役立てたい」、と親に頼み込んでアメリカへ渡った。生半可な気持ちではなかった。だから、自分がどこにいようが「これも勉強」、と相手が日本人でも英語を使い、コミュニケーションをはかるようにしていた。そのせいか日本人には私がとても「鼻につく」存在であったようだ。
「あのカナっていう子、日本人のくせに日本人にも英語で話したりするんでしょ。なんかちょっとねえ。同じ日本人なんだから日本語で話せばいいじゃないの」
「ホント、気取っているって感じ?」
いつだったかそう話しているのを聞いた、と人づてにおしえてもらったことがある。確かに同じ日本人なのだから日本語で話せばいいじゃないか、と言う彼らの思いも十分に理解出来た。もちろん、臨機応変で私だって日本語で話したりもした。何より、自分の英語が完璧でないことは、本人が一番良く承知していることだ。でも、私を信じ短期留学を許してくれた親を失望させたくはなかったし、自分の信念「ここはアメリカ。英語で話す」も貫き通したいと思っていた。だからこそ、ケイトと親しげに話していたあの彼が私の横に座ったとき、英語もろくに話さない、いつも集団でいる「アジアの日本人」という枠組みで私を見て、そのまま通り過ぎてほしくなかった。なんでそう思ったのだろう。でも、あの人には私をちゃんと人として見てほしかった。日本人とかアジア人とかではなく、一人の人として。
それでも、そのころの私はまだまだ相手の、それも国や文化の違う人たちの、表情や感情を上手に把握して対応する事が出来るほど大人ではなく、親から教えられていた日本人の気質「でしゃばるべからず」があのときも出てしまい、私から率先して話しかけることが出来なかった。そんな私を察してくれてか、彼は私に色々と質問をしてくれた。それにとにかくきちんとこたえよう、と私は一生懸命だった。本当に必死だった。そんな自分を今でも懐かしく、微笑ましく思い出すことが出来る。そして、彼の「You speak English very beautifully : 君は英語をとても綺麗に話すね」と言ってくれた一言は、今でも私の心の支えとなっている。
いつの間にかダニーのご近所さんと思われる人たちでリビングは賑わっていた。その中にアメリカ人にも引けをとらないぐらいの長身で、肉付きのいいダニーが深みのある声で笑っている。私と同じぐらいの年齢の人たちばかりなのに、ディエゴズにいたときとは明らかに違う、大人びた空気感のある部屋。私の隣にいる彼でさえ、私よりずっと落ち着いた対応を見せている。なぜかふっと自分がとても子供のように思えた。
「ちょっと失礼します」
「もう帰るの?」
他の人たちと話しをしていた隣の彼が立ち上がった私に気づき、訊いた。
「あっ違うの、ちょっと洗面所へ」
「あっ、そうか」
レストルームのドアを閉めると、私は大きくため息をついた。同じ場所にいるのに、ドアを隔てて賑やかで楽しそうに笑い合っている彼らと、そんな雰囲気からはとても遠いところにいるような私。笑い声が一層高くなったとき、私はドアを開けてその場所に戻ることを一瞬躊躇してしまった。英語がうまく出てこないことに歯がゆさを感じていたからかもしれない。会話にうまく溶け込めない自分を払拭したかったからかもしれない。私はもう一度洗面台の前に立ち、鏡に映る自分を見つめ直した。私はわたし。気にしてもしょうがない。だってネイティブじゃないんだもん。そう自分に言い聞かせてにっこりと笑ってみた。それからようやくドアを開いた。すると、私の横に座っていたあの彼がドアの前を横切り、玄関の方へ歩いていくのが見えた。その瞬間「この人とこれから何かある」という言葉が私の脳裏に響き渡り、そして、それは否定しがたい事実のように、私の中にはっきりと刻み込まれた。
あのとき、部屋を去る彼を遠くから見送り、名前も正確に覚えていない中、今度いつ会えるかさえも分からない状況で「この人とこれから何かある」、と突拍子もない思いに抱かれていた私。長い年月生きてきて、色んな人たちとの出会いがあっても、あんなに強烈な、確信づいた感情に浸った事はあとにも先にもあのときだけだ。あの何ともいえない感覚。どう説明したらいいのだろう。とにかくあのとき、私はあの彼に運命的なものを感じてしまった。
パーティから数週間が経ち、自分の突拍子もない感情とは裏腹に、その後、あの彼に会える機会は全く訪れることもなく、次第に自分の中で遠い記憶になりつつあったある週末、寮近くのアパートで大学生主催のパーティがあるから行こうと友人たちに誘われた。
ALI事務所の掲示板には週末ごとに、どこかの誰それ主催のパーティがある、週の何曜日には何々のイベントがどこそこの会場である、という情報が掲示されていた。私の友人たちは毎回それらに参加をしてはパーティライフをエンジョイしていた。でも、私は小さいころから少し冷めた眼で、周りの状況や人々を見てしまう性格の女の子だった。「天邪鬼」とよく人からも言われていた。とにかく周りの人たちと同じ事をしたり、見たりする事が嫌いだった。毎年のように変わるファッションにも全く興味がなく、俗に言う「マイ・ブーム」を大切にし、何年経っても飽きのこない物を選び、週末は友人たちと出歩き、若者に人気の渋谷や原宿などへ行くという事もせず、大抵家にいて、のんびりゆっくりと自分の時間を一人静かに楽しむ事が好きだった。思春期によくある親への「反抗期」というものも、周囲の友人たちと比べたら無いに等しいほどで、両親と出かける事へも何の抵抗もなく、むしろ友人の親たちからは羨ましがられる、そんな女の子だった。
そんなちょっと人とはズレていた私だから、毎週末ごとに行われるそれらのパーティやイベントも、私の中ではかなり「気乗り」のしない行事の一つで、誘われる毎に適当に理由をつけては断っていた(参加をしたのは唯一、学校主催のパーティだけだった)。だから、正直その日の夜の誘いもあまり気乗りはしていなかった。でも、これも経験。たまには参加をしてみようか、といつになく前向きな気持ちになり、パーティへ行くことを承諾した。
「今日のパーティはどんな感じのパーティなんだろうね。かっこいい金髪のハンサムボーイがたくさんいたりしてー」
敦子が笑いながら言う。
「嫌だあ。それが目的だったりして敦子は」
「ええ、そんな事ないよ、って、少しはあったりしてね。アハハ」
一緒にアメリカへ渡った私たち十人の中で一番背が高く、体格もがっちりしている敦子だが、声は細くやわらかい。
「もう、敦子ってば」
敦子と仲の良い小柄な貴美子はそう言って彼女の肩を叩くと、
「でも、やっぱりちょっとは期待しちゃうよね」
と言い、二人で目を合わせてけらけらと笑った。
そのころには既に一週間のホームステイ体験も終え、学校近くにある「エル・コンキスタドール」、通称「エルコン」と呼ばれている寮へ移っていた私たちにとって、歩いて行けるそれらのパーティは、とにかく色々な人たちと出会える新鮮な場所でもあった。
パーティ会場からはどこの家でそれが行われているのかがすぐに分かる程の音量で、ポップミュージックが流れていて、音は道路や周辺の家々など、そこら中に響き渡っていた。
「何あの音? ひょっとしてパーティしているところから聞こえてるの?」
「すっごい音だね。文句言われないのかな?」
あとで分かったことだが、近所の人たちから何の苦情もでないのは、その辺り一帯が学生寮になっていたからだった。お互い様という訳だ。
そんな家から流れてくるポップな音楽も、私にはただのうるさい騒音にしか聞こえない。
ああ、うるさいな。やっぱり来なければ良かった。このまま帰っちゃおうかな。前向きに行動を起こした自分の決断に、私は少々後悔し始めていた。
「すっごい盛り上がりだよ。なんかワクワクしてきちゃった」
敦子は既に私たちの存在すら忘れてしまったかのように、一人、玄関へと吸い込まれるように消えてしまった。
「もう敦子ったら。一人で先に行っちゃって」
口をとがらせて貴美子が敦子のあとを追う。
「どうしたの、カナ? さ、早く入ろうよ」
ルームメイトの知美が振り向いて躊躇している私に言うと、彼女たちに続いた。
「うん、今行く」
私は大きなため息を一つつき、覚悟を決めて騒音の中へ飛び込んだ。
リビングは足の踏み場もないぐらい大勢の人たちで賑わっていて、食べ物や飲み物がいたる所に置かれていた。ある人は食べ、ある人は飲み、またある人は音楽に合わせて踊り、みんなそれぞれにその場の雰囲気を満喫していた。裏庭の方からは何やら大きな笑い声が時折聞こえてきては、やれ何点だとか、やれ惜しい、などと言い合っている声も聞こえ、大方ゲームで盛り上がっていると察する事が出来た。
「知美、私、ちょっと裏庭の方へいってみるね」
「うん、分かった。一人で大丈夫?」
「もちろん。気にしないで楽しんでね」
とりあえず騒音から少しでも離れたいと思い、私は知美たちと別行動をとり、笑い声のする裏庭へ行ってみることにした。
大勢の人たちで賑わっているリビングを通り抜け、キッチンへ行くと、開けっ放しの扉があった。近づくと外には四、五段の階段がある。下りると左側に細い通路が続いていた。声はその先から聞こえてくる。私はそのまま進んでみた。芝生で敷き詰められた裏庭が現れた。そこではリビングでかかっていたあの騒音にしか聞こえない音楽の音もそれほど耳障りには聞こえず、パーティ用に作られたであろう二台のダーツ台が、ゲームをするのにちょうど良い人数の学生たちで囲まれていた。何かを賭けながらゲームをしていたのか、点数が入る度に彼らは大声で笑い、互いの手を叩きながら、パーティはそっちのけでダーツに夢中になっていた。
五、六分ぐらいは見ていただろうか。結局、それにも飽きてしまい、私は寮へ戻ることにした。やっぱり私、こういうパーティって好きじゃないんだ。小さなため息をつき、きびすを返した。うるさい音が再び耳にまとわりつく。早く帰ろう。手すりにつかまり階段を一、二段上がった。そのときだった。下を向いていた私の両腕を誰かがいきなりグイとつかんできた。
「カナ! ずっと君のことを探していたんだよ!」
聞き覚えのある暖かい声。
「君にもう一度会いたいと思っていたんだ!」
見上げると、柔らかい微笑みを顔じゅう一杯に浮かべて私を見つめている、あの彼だった。
「僕のこと覚えているかい?」
ふいをつかれた私は言葉につまってしまった。
「僕だよ、アンドリューだよ! ほらダニーの家で会った」
忘れる訳がない。私もずっと会いたかったんだもの。いつどこで会えるか全く分からなかったけど、いつかまた必ずどこかで会えると信じていたから。
そう信じていても、あの出来事からは既に数週間が経ち、まさかこんなにも偶然に――私にしてみればとても劇的な再会で――会えるとは思ってもみなかった。アンドリューの思いがけない出現が、それまでの騒音に嫌気がさし退屈で仕方なかった私の心を嘘のように一気に明るくさせた。
「アンドリュー! もちろん、覚えているわ。嘘みたい! 私もあなたに会いたかったの」
私の胸は高鳴り、飛び上がりたいほど嬉しい気持ちでいっぱいだった。
それからアンドリューはダニーの家にいたとき、約束してあった大事な用事を思い出し、私が戻ってくるのを待たずに帰らなければいけなかった事、そして、あの日以来、パーティがあると聞く度にそこへ足を運び、私が来ていないか探していた事を嬉々として話してくれた。
「これでやっと二人がどこに住んでいるかが分るね」
アンドリューは癖のある字で私の手帳に、私は彼のメモパッドに、互いの連絡先をそれぞれに書き綴った。
「ホント。でも、私の部屋には電話がついてないの」
短期留学の悲しい定め。腰を据えて住むのなら電話も引けたのに。
「それじゃあカナに電話をかけてもらわなくちゃね」
私の腕を軽くポンポンと叩き、ウインクをしてアンドリューは言った。
そうか。私が電話をすればいい事なんだ。私から電話をかけてもいいんだ。アンドリューの言葉に胸が躍った。
「カナはどのくらいここにいるの?」
何気に腕時計を見てアンドリューは訊いた。
「まだ来たばかりなの」
「それじゃあまだしばらくはここにいるんだね?」
アンドリューに会えたのだからもっと一緒にいたい。でも、この騒音には耐えられないし。
「実は友だちと一緒に来たんだけど、うるさいからもう寮へ帰ろうとしていたところなの」
耳に手をあてがい「うるさい」の仕草をして見せた。
「私、あんまりこういう場所って得意じゃなくて」
「僕も同じさ。それじゃあ家まで送るよ」
アンドリューは言い、右手を少しあげ、首を軽く横に振ると「さあ行こう」という合図をして、出口の方へ歩き出した。
「大丈夫よ、アンドリュー。寮までは歩いて帰れるから。私、一人で帰れるわ」
歩きだしたアンドリューの肩を私は慌てて叩いた。
「ああ、分かっているよ。でも、君にも会えたし、僕ももう帰るから送ってくよ」
あ、でも、と言い、アンドリューは足をとめた。
「友だちに声をかけなくても大丈夫なのかい?」
言われて辺りを見渡してみたが、知美たちの姿が見当たらない。
「たぶん、大丈夫」
きっと別の部屋で楽しんでいるんだろうな。私はそのままパーティをあとにした。
パーティが行われていた家から私の寮までは歩いてもせいぜい十分程度の距離。車で戻っても一、二分もかからない、ほんの少しの距離だ。
「アンドリュー、本当にいいの? 私、ホントに歩いて帰れるのよ」
本当はこのままずっと一緒にいたいと思った。でも、私のためにわざわざアンドリューに気を遣わせてしまうのは申し訳ないと思ったのも事実。
「いいからカナはちょっとここで待っていて。今、車を取ってくるから。いいね?」
アンドリューは言うと、車を取りに裏通りへと消えてしまった。すると一分もしないうちに、茶と金色を混ぜたような色の大きくてどっしりとした、いかにも年代ものといった感じのセダン車に乗って戻ってきた。
わあ、すごい大きな車。
アンドリューは速度を落としてゆっくり家の前に横付けすると、車を降りて助手席側のドアを開けた。そして、さあ、と、私の手をとり、優しく車に乗せると、ドアを閉めた。
初めての「レディーファースト」。
日本で経験した事のなかった私は、初めてされたその「レディーファースト」に、自分が女性であるということを実感させられ、本当に照れくさくて有難くて、しきりに「Thank you」ばかりを言っていた。それからほんの数分で着いてしまう寮までの距離を、アンドリューはゆっくりと車を走らせ、私を送り届けてくれた。
「私、パーティに行ってホントに良かった」
騒音パーティを思い出しながら、私は独り言のようにしみじみと言った。
「だって、あそこでまたあなたに会えるなんて思っていなかったもの」
「僕もだよ。でも、やっと君を見つけられた」
車は既に寮の駐車場へ入り、エンジンは止まっている。
「また会えて本当に嬉しいよ、カナ」
ハンドルから手を離すと、アンドリューは優しく私にハグをした。それは異性として接する初めての抱擁だった。彼の暖かさが全身を通って伝わってくるのを感じた。
「アンドリュー、送ってくれてありがとう。明日、電話するね」
「OK. そうしたら映画を見に行くか、とにかく何か一緒にしよう」
私を寮のドアの所まで送り届けると、アンドリューは自分の家へ帰って行った。私は彼を見送りながら、ほんの数十分前の劇的な出来事を、神様に感謝しながら思い出していた。
二 フランス人 ルイ
ALIには様々な国から英語を学びに来ている人たちがいた。コースも一週間から六ヶ月コースと多種多様に揃っていたので、中には旅行の思い出作りに、四、五日間だけクラスを取っているの、と、アルゼンチンから来ていた五十代半ばの夫婦もいた。一人ひとりの英語のレベルは別として、言葉を発する度に互いの母国語の語調や音韻が反映されてしまうせいか、英語で話しているはずなのに英語として聞き取れないことも多々あった。
「タラン、タラン、カナ」
授業中に後ろから話しかけてくるアラブ人のモハメッド。
「タラン、カナ。 ブリーズ」
何が足らんの? 何がブリーズなの? 全く変な事言って。
私は誰かが変な日本語でも教えたのだろうと気にもせず、問題集に目を落としていた。
「カナ、カナ、ブリーズ!」
何の反応も見せない私にモハメッドはついに私の腕をつかみ、体を後ろへ回そうする。
もう何だっていうの、授業中なのに。仕方なく私は後ろを振り向いた。するとモハメッドは、やっと振り向いてくれたか、というようなホッとした表情で「Good」と言うと、問題集の分からないところを教えてほしいと頼んできた。
あはは、今の英語だったんだ。
そんな母国語なまりの英語を通して意志の疎通をはかろうとしているのだから、文法やリスニングが多少(いや、かなり)おかしいのは自明の理。それでも、不思議と相手が何を言わんとしているのかがその場の雰囲気や表情で理解でき、最後まで会話が終わっていなくても、笑って「そうそう」と納得してしまう。毎日が面白い発見の連続だった。
そんな生徒たちの中に、日本人から一際注目されている人がいた。その人はフランスから来ていた二十三歳のルイ。いつも笑顔を絶やさず、誰とでも気さくに話す彼の態度に誰もが好感を持ち、彼の周りには男女を問わず、いつもたくさんの友人が集まっていた。ルイの話す英語は聞いているとフランス語独特の、あの鼻に抜ける感じの、なんとも言えない情緒的で美しい音韻を持っていた。今のは英語? それともフランス語? と困惑してしまう程、とにかくその響きがとても心地良いものだった。体型も目鼻立ちも全て完璧なまでに整っているルイ。私たち日本人の間で、そんな彼の呼び名は別名「神様」だった。
私のクラスより二つ下のクラスにいたルイとは学校ではこれといって接点はなかったが、私のルームメイトの知美と彼が同じクラスだった事もあり、学校が終わるとよく私たちの部屋へ宿題をしに来ていた。
コン、コン、コン、といつものようにドアをノックしては顔を覗かせるルイ。
「ハロー、カナ。元気?」
「ハイ、ルイ。いらっしゃい」
黒い革のがっしりとしたジャケットにジーンズ姿がよく似合う。
「知美はまだだけど、たぶんもうすぐ戻ってくると思うよ」
「OK」
綺麗にベッドメイキングされた知美のベッドの上にジャケットを羽織ったままルイは座ると、何も言わずに私を見る。
「あれ? 今日は宿題ないの?」
いつも持っている問題集が見当たらない。
「ノン」
「そう」
微妙な間の沈黙。ルイはただニコニコしながら何を言うでもなく私を見ている。会話につまった私はさりげなくルイから目をそらすと、テーブルの上に置いてあったお菓子――母が日本から送ってくれた――を取り、ルイに差し出した。
「これ、日本のお菓子。お母さんが送ってくれたの。食べてみる?」
日本のお菓子は初めて食べるよ、美味しいね、と言いながら知美のいないベッドの上に座ったままのルイ。十分、十五分が過ぎた。さっきと同じ間が出来る。
「じゃあ、またね」
「えっ? 知美を待たなくてもいいの?」
「いいんだ。じゃあね」
ルイはジャケットの袖をまくり、時間を見てそう言うと、おもむろに部屋を出て行った。
毎日のように通い続けるルイの行動に私は最初、ルイはよっぽど知美を好きなのだろうと思った。女の私から見ても知美は線が細くしとやかで美しい。それに加えて愛嬌もあり話しやすい。私が英語で受けこたえしても嫌な顔一つせず、英語で返事をしてくれる優しい知美。そんな知美に好意を抱いても不思議ではない。でも、その知美がいないと分かっても部屋を訪れてはしばらくすると帰って行くルイ。そんなルイの不可解な行動に、多少疑問は感じたが、取りとめのない会話をしては宿題をかたづけたり、日本にいる友人たちへ手紙を書いたりして私はその場をやり過ごしていた。そのあいだ、時折できる「微妙な間の沈黙」も、いつの間にか気にならなくなり、むしろそれを心地よく感じながら静かな時の流れを楽しんでいた。そんなルイの奇妙な訪問が一週間以上続いたある日、糸が切れた凧のようにルイは突然現れなくなった。そして、そんなルイの奇妙な行動の理由が分かったのは随分あとになってからの事だった。
アンドリューとの劇的な再会を果たした翌日の日曜日、朝からとても良い天気に恵まれていた。
「今日は朝からいい天気だね。気分も浮かれちゃうなぁ」
知美は大きく背伸びをすると、化粧を始めた。
「今日ね、貴美子たちとスワップミートへ行くんだけど、カナも一緒に行かない?」
「スワップミートってここからかなり遠いんじゃない? 確かスィートウォーターロードの通りだったっけ?」
ホームステイをしていたとき、一度だけみんなで連れて行ってもらった事がある。
「うん。少し遠いのよね。でも、バスで行けるって言うし、それなら行ってみようって事になって。途中で乗り換えしなくちゃいけないんだけど、それもおもしろそうじゃない?」
「ホント。日本と違ってなんかスリル感じるね」
私は言って窓を開けた。気持ちのよい冷たい空気が頬にあたる。
スワップミートは毎週土・日に行われる、言わばフリーマーケット。フリーマーケットといっても業者も多く出店するので良質な品がかなりのお値打ち価格で販売され、毎週多くの人たちで賑わいをみせるマーケットだ。マーケットの広さも相当なもので、ゆっくり見ていては見終わらない。
そのフリーマーケットに知美が一緒に行こうと誘ってくれた。普通なら、これも経験、と快く受けただろう。でも、前日、アンドリューに電話をする約束をしていた私の頭の中は朝からその事しか考えられず、正直スワップミートどころではなかった。
「そっか、スワップミートか。行きたかったな」
少し肌寒くなった私は窓を閉めた。
「行けないの? 何か用事でもあるの?」
アイシャドーを塗っていた手をとめ、知美が振り向いた。
「うん、ちょっとかたづけないといけない用があって、どうしてもここにいなくちゃいけないんだ」
かたづけないといけない? なんだかやりたくない用事を仕方なくやるような響き。嬉しい用事なのにそんな言い方をしたりして。ちょっと後ろめたさを感じた。
「そっか。それじゃあカナの分まで私がショッピングしてきてあげるわ」
「それは、それは、ありがとうございます」
準備は出来たのお? ドア越しに貴美子の声が聞こえる。
「じゃあ行ってくるね」
「あ、下まで見送るよ」
アンドリューの番号が書いてある手帳と財布を持つと、私は知美たちとエレベーターに乗り込んだ。
みんなを見送ったあと、リクリエーションルーム脇の公衆電話のところへ行き、そこにある長椅子に私は一人、腰を下ろした。あとは受話器を取ってアンドリューに書いてもらった番号にかけるだけ。そうすればあの暖かい声をまた聞く事が出来る。でも、緊張のせいか、なかなか受話器を取る事が出来ずにいた。緊張というよりは、あまりに嬉しい事が自分の身に起ったのでそれを素直に受け入れられず、アンドリューの態度は単なる建前だったのではないか、ひょっとしたら昨日の事は全て夢で、電話なんかしたら逆に迷惑がられてしまうのではないか、と疑心暗鬼になっていたのかもしれない。私はなかなか行動に移せず、しばらく座っていることしか出来なかった。天井が高いなあ。ここは日が当たって暖かいなあ。そんなどうでもいい事ばかりを考えていた。すると、誰かの視線を感じた。入り口の方に目をやると、顔を出してこちらの様子をうかがっているルイがいた。目と目が合うとルイは軽く微笑み、私の隣に座った。
「やあカナ、ここで何をやっているの? 今日は一人?」
ルイはまっすぐに私を見つめると微笑んで言った。あまりに完璧に整ったルイの顔立ちに私はドキッとしてしまい、思わず目をそらした。
「今日、知美はスワップミートへ行っていて、部屋にはいないよ」
私は言って振り向くと、
「いいんだ。カナに会いに来たんだ」
と、直球でこたえが返ってきた。私はどう受け答えしてよいか戸惑ってしまった。でも、そんな私の態度を悟られまいと、とりあえずその場を取り繕うかのようにつとめて自然に振舞った。
「それはどうもありがとう。で、どう? ルイは元気?」
「バッチリだよ。メルシー」
満面の笑みを浮かべてルイはこたえる。
「カナは?」
「とっても元気よ。メルシー」
私の「メルシー」にルイはすかさず反応した。
「違うよ。こうだよ、カナ。メルシー」
鼻で息を抜きながら、喉の奥の方で「R」の音を出している……ように聞こえる。真似してみるがなかなかその音がでない。
「Mer-ci?」
「Me-r-ci」
「Me-rci?」
「違う、違う。『Me-r-ci』だよ」
「ああっ、もう駄目。降参するわ」
両手を上げた私を見て、ルイはくすくすと笑った。
それから私たちは互いのアメリカへ来た理由を話し始めた。
ルイは前からずっとアメリカへ来てみたくて独学で英語を勉強した事、アメリカへ来たらツーリングをして色んな州を回ってみたいと思っていて、だからサン・ディエゴへ来たときに真っ先にバイクを買い、通学もそのバイクが大いに役立っている事、そして、十二歳年の離れた弟が一人いて、両親は随分前に離婚をし、それからはお母さんとおばあちゃん、弟の四人で一緒にパリで暮らしている事などを、あの響きのよいフランス語なまりの英語で淡々と話してくれた。
私は父方の曾祖母の育ての父親がイギリス人であった事、母方の曽祖父はサン・フランシスコで約五十年間ストロベリー農場を経営し、その後、戦争で全てを没収され、終戦後、日本へ帰国した事、その曽祖父の息子、つまり母の父親は結婚してパラオ島へ渡り、母はそこで生まれ、戦争が始まる四歳までその島で住んでいた事、(そんな家族の中で育った私のDNAの中には英語を話して暮らす事が、ごく当たり前のように組み込まれていたからなのか)小さいころからアメリカへ行きたいという思いが強くあり、英語で色々な国の人たちと交流をとりたかったからこの留学を決めた事などを話した。そんな会話に花が咲いている中、一番衝撃的だったのはルイの話してくれた、フランスでは愛情表現にどれだけ「セックス」が重要視されているかという事だった(あくまでもルイの意見であって、真のほどは定かではないが)。二十四時間の内、互いに求め合い愛し合う時間はその内のごくわずかな時間だけにも関わらず、精神的な愛情よりも、いかに上手に相手をベッドで愛せるか、それが一番大切なんだ、とルイは言った。そのため、フランスではかなり若い年齢でバージンを失う者が多く、当のルイは十二歳のとき、十歳年上の女性と初めて経験を持ったと話してくれた。
「十二歳? ルイは十二歳で初体験をしたの?」
十二歳なんてまだ子供じゃない。
「うん、そうだよ。フランスではそんなに驚くことでもないよ。日本ではどうなの? カナはまだなの?」
「他の人たちのことなんて分からないけど、もちろん、私はまだよ」
まだまだ精神的にも子供な私が日本のセックス事情など知るよしもない。考えることすらしたこともなかった。
「どうして? カナはしてみたくないの?」
メイクラブ(セックスより愛し合うという意味を大切にしたこの表現を私はあえて使いたい)というものを、とても神聖なものとして捉えていたそのころの私には、上手になるために色々な人たちと付き合い、その度に体の関係を持ち、そして、その時間がその人と過す上で一番大切だ、というルイの理論を理解する事が出来なかった。
「結婚するときまで待ちたいもの」
「じゃあ、ボーイフレンドは? ボーイフレンドとは寝たくないの?」
私の言葉にびっくりした様子でルイは言った。
「だってそれって『メイクラブ』じゃなくてただの『セックス』じゃない。私そんなの嫌だもの」
眉毛を上げて、当たり前の行為なのになぜ、とかなり驚いたような表情をするルイ。「大和なでしこ」のような女性に憧れ、まだまだ人を愛する経験の浅かった私には、ルイの言う「その度に体の関係を持つ」という行為がメイクラブではなく、ただの性欲を満たすだけのセックスにしか思えなかった。
「それじゃあカナはプラトニックラブの方が大切だと思うの?」
私は、そう、と、うなずき、
「だって本当に誰かを愛しているなら、他の事は関係ないじゃない」
とこたえた。私は、一緒にいて幸福感を得られる心の触れ合い、精神的な愛である「プラトニックラブ」こそが一番大切だと思っていた。そのときはそう信じていた。
「それも大切だけど、でも、セックスはもっと大切だよ」
「どうして?」
理解出来ない自分に苛立ちすら感じる。
「私には理解出来ないわ」
「だってベッドの中でならその人の事を本当に知ることが出来るじゃないか」
本当に知るって? やはり私には分からない。
「カナもいつかそう思えるときが来るよ」
ルイは笑いながら言った。私は二人の意見がどこまでいっても混ざり合うことのない、水と油のように思えた。
「十人十色」、このときこの意味を身に沁みて納得出来た。
ルイはそのあとも色々な話しをしてくれた。旅行が好きな事。田舎が好きな事。パリでは毎朝、近所のパン屋で焼きたてのクロワッサンを買って食べる事。でも、時折ルイは、
「もっと上手に英語が話せたら、僕の思いをもっとちゃんとカナに伝えられるのにな」
と申し訳なさそうに言う。私も同じであった。日本の短大では英語を専攻し、クラスの中ではトップにいた私でさえ、いざアメリカへ来てみたら思うようにしゃべれず、思いを伝える事すら容易な事ではないとつくづく実感させられてしまった。単語力のなさ、表現力のなさ、そして、英語を間違ってもいいからとにかく話そうという度胸のなさ。日本にいたときの十分の一の力も出せていないのではないか、と落ち込んでしまうことも多々あり、ルイの気持ちは痛いほどよく理解出来た。
「いいのよ、ルイ。あなたの気持ち良く分かるわ。だって私も同じだもの」
ルイはそんな私の一言が嬉しかったのか、屈託のない笑顔で言った。
「メルシー、カナ」
私の発音出来なかった「メルシー」をわざと強調して。
「ルイの意地悪」
冗談っぽく口をとがらせ、私はくすっと笑った。でも、ルイの「メルシー」はとても綺麗な響きだった。
リクリエーションルームでビリヤードをしていた寮生たちがゲームを終え、私たちの横を通ってロビーの方へと歩いて行った。その姿を見ながら私は、もうそろそろお昼の時間なのかしら、遅くなる前に電話をしなくちゃ、とそんな事を考えていた。
「カナ、これからバイクでどこかへ行かない? ビーチに行ってお昼でも食べようよ。それか映画っていうのもいいよね。どう?」
突然ルイが言った。
「ああごめんね、今日はちょっと無理なの。私これから友だちに電話をかけるのよ」
そう。早くかけないとアンドリューはきっと待ってくれているはずだ。
「僕の知っている人?」
「さあ、それは分からないけど」
私がこたえると、ルイは少し考えて、
「ひょっとしてダニーの家でカナが一緒にいた人?」
と何かを思い出したように言った。どの人のこと? 私は首をかしげてルイを見た。
「スイス人の彼だよ」
「えっ、どうして分かったの? ルイは彼の友だちなの?」
ルイの口から出た「スイス人」という言葉に反応して、私の顔はほころんだ。
「違うよ。でも、分かるさ」
「どうして?」
私の問いかけにルイは小さく苦笑して、
「どうしてもさ」
と言い、ゆっくりと席を立った。
「もう帰るの?」
「うん、帰るよ」
私に背を向けたままルイは歩きだした。
「今日は色々と話せて本当に楽しかった。ありがとう、ルイ」
「じゃあまた明日、学校で」
一瞬私の方を振り向き、口だけに笑みをつくるとルイは帰って行った。私はルイの後ろ姿をドア越しに見送りながら、彼の誘いを無下に断ってしまった事を少し申し訳なく思い、明日、学校で会ったら今度バイクに乗せてもらうように頼んでみよう、と心の中で思った。
三 ワカモレチップ
ついさっきまでルイと一緒に座っていた長椅子にふと目をやりながら、私はそのときの二人の会話を思い返して一人、微笑んでいた。
「ルイってホント、とってもおもしろくていい人なんだな」
アンドリューとの約束がなかったらバイクにも乗ってみたかったけど。そんな事を思いながら私は電話の前に立つと、手に持っていた(緊張で少し汗ばんだ)手帳を開いて目の前の台に置いた。
「でも、今はアンドリューに電話をかけなくちゃ。さあ、あとは番号を押すだけよ、カナ。早くしなくちゃ。約束したんだもの」
自分に言い聞かせるのと同時に胸の鼓動も高まりだした。あまりに激しく波打つ鼓動に体までもが震え出した。窓の外を見ながらとにかく心を落ち着かせようと、何度か大きく深呼吸をしたり、唾を飲み込んでみたりした。そして、やっとの思いで受話器を手に取り、番号を押した。規則正しく鳴り続く呼出音が耳を通って体中に響き渡る。アンドリューと話せる事は嬉しいはずなのに、その場をすぐにでも立ち去りたい気持ちでいっぱいの私。いっそのこと、アンドリューは出かけてしまっていて家にいなければいいのに。そんな事さえ思ってしまっている私。それでも鳴り続けるベルの音。
「はい、もしもし?」
アンドリューだとすぐに分かる暖かい声。
「もしもし?」
「やあカナ! 僕だよ、アンドリューだよ! 元気かい?」
思いがけない人からの電話を受けたような、そんな喜びに満ちたアンドリューの声。
「こんにちはアンドリュー。ええ、私は元気。貴方のほうは?」
「宿題でちょっと忙しいけどOKさ。どう? 出かける準備は出来ているかい?」
そうなんだ。アンドリューは私と違って大学に通っている学生なんだ。宿題だってきっと比べ物にならないぐらい大変に違いない。そう思ったら出かけることに気がとがめた。
「もちろん準備は出来ているわ。でも、宿題で忙しいのなら迷惑だろうし、それに悪いわ」
私が言うと、アンドリューはすかさずこたえた。
「構わないさ。一時には迎えに行くからそれからお昼を食べよう。カナの部屋番号を教えてくれるかい?」
もう悪いから今度会おうとは言えなくなってしまった。私は部屋の番号をアンドリューに伝え、受話器を置いた。
あっという間の会話。なんて短い会話。
電話をかけ、受話器を置くまでの数分間の出来事が、まるで数時間ぐらい経っていたのではないかと思えるほど、私の体は疲れていた。でも、アンドリューのあの変わらない暖かい声。声を聞いてすぐに私だと分かってくれたアンドリューに、あともう少ししたらまた会える。あの優しい微笑みを浮かべて私を迎えに来てくれる。そう思うと、落ち着きを取り戻し始めていた私の鼓動は再び高まりだした。
部屋へ戻り時計を見ると、針は十一時半を指していた。
十一時半か。あと一時間半。
私はラジオのスイッチを入れた。スピーカーから流れてくるポップミュージック。私は鏡の前に立ち、何度も服装や髪型をチェックしては、大丈夫、おかしくない、と呪文のように自分に言い聞かせ、逸る気持ちを落ち着かせた。それでも、そわそわする気持ちを抑えきれず、椅子に座って本を開いてみたり(内容なんて上の空で全く頭に入ってこなかった)、外を眺めて木にとまった鳥を数えてみたりと、気が紛れそうなことも試してみた。でも、結局効果は一向に無かった。
えっ? もうお昼を過ぎているじゃない。
ふと時計に目をやると、すでに十二時を回っていて私は驚いた。私の腹時計はいつもなら正確に「昼の時報」を知らせるのに、この日は全くその気配がなかった。むしろ一時が近づくにつれ胸の鼓動の方が速く、大きく鳴り動き出し、「約束の時」が近づいている事を正確に知らせていた。そして、一時よりはまだかなり早い時間にドアをノックする音がした。
「やあカナ。ちょっと来るのが早過ぎたけど大丈夫? 行けるかい?」
ドアを開くと目の前には柔らかな優しい微笑みを浮かべて立っているアンドリューがいた。ライトブルーのセーターにダークブロンド色の髪、微笑みの下からのぞかせている白い歯が、彼の暖かい声を一層引き立てていた。少し前まで苦しいぐらいに高まっていた私の胸の鼓動も、アンドリューの微笑みと暖かい声に安心を覚えたのか、不思議なぐらいに落ち着きを取り戻し、穏やかな気持ちになった。
「ええ。ラジオを消したら行けるわ」
こたえてラジオのスイッチを切った。すると、部屋の中は水を打ったように一気に静けさが押し寄せた。その静けさが私の心に再び不安と緊張を呼び戻さないうちに用意してあったバッグを手に取り、すぐにドアの方へと向かった。そして、さあ、行きましょう、と言ってドアを閉めると、私は静寂を部屋の中へ閉じ込めた。
日本の冬の空色がライトスカイブルーであれば、サン・ディエゴのそれは限りなく深みを帯びたディープスカイブルー。湿度も年間を通して低いこの地域は、空気感さえ日本のものとは違い、とても鮮やかで綺麗に澄んでいる。特に冬の季節は格別だ。
空を見上げると、まさにそのディープスカイブルー色の空が一面に広がっていた。
「いい天気だね。こんな日はドライブにはもってこいの日だ。そう思わないかい?」
手をかざしながらアンドリューは言った。
「本当にそうね。私、サン・ディエゴのこういう素晴らしいお天気って大好き」
「それじゃあカナはきっと僕の国も好きだろうな。ここよりずっと寒いけど、ここよりもっと綺麗なところだよ」
スイスからビジネスを学ぶため一年前からサン・ディエゴに住み、まだ一度も帰国していないアンドリューはそう言って、遠い自分の国を思い出しているかのようにもう一度空を見上げた。
「本当? いつか行って見てみたいな」
「絶対に来るべきだよ」
私の方へ目線を下ろし、アンドリューは言った。
「そのときは僕が案内してあげるからね」
その言葉に私の胸はドキンと敏感に反応した。
寮の駐車場に停めてあった車の前までくると、アンドリューはこの前と同じ様に、先に助手席のドアを開いて私を乗せ、優しくドアを閉めた。
「お昼は何を食べたい気分だい? もう一時もとっくに回っているし、お腹もすいたよね?」
そう、本当ならお腹がすいていて当然の時間なのに、私の腹時計は未だに何も言ってこない。アンドリューと一緒にいられるという事があまりに嬉しくて、胸がいっぱいで、お腹の虫はどこかへ行ってしまっていた。
「私、この辺の事はあまり分からないから、アンドリューが決めてくれる?」
「いいよ。それじゃあメキシカン料理は好きかな?」
アンドリューは右腕を助手席の背にのせると、左手でハンドルを操作しながら車をゆっくりと発進させた。私はこうして運転するアンドリューの姿が好きだ。大きく伸ばした彼の腕の中で、自分がしっかりと守られているような気持ちになれる。
「ええ大好き! ディエゴズで食べた料理はとっても美味しかったもの」
学校主催のパーティで初めてアンドリューを見かけた店。懐かしさがこみ上がる。
「僕もあそこは好きだよ。でも、今日は別のレストランへ行ってみよう。どっちかって言うと、ファーストフード店っていう感じだけど、きっとカナも気に入ると思うよ」
アンドリューは車で十五分程走ったフェアマウントアベニュー沿いの所にある「タコベル」という店に連れて行ってくれた。
「カナはこの店、知っているかい?」
「ううん、知らない。でも、良さそう。それにとってもいい匂い」
カウンターからはトルティーヤを揚げた香ばしい香りが漂っている。
「カナはどれにするか決めた?」
壁には大きなメニュー――たくさんの料理名が写真付きで載っている――がかかっていて、どれも美味しそうに見える。でも、私にはどれがどんな味のする料理なのかよく分からない。
「そうだな、私はタコサラダとダイエットコーラにしようかな」
とりあえず、一番無難で一番食べやすそうなものを選んだ。
「アンドリューは決まった?」
「僕はチキンブリトーを二つとドリンクにするよ」
お腹がすいていると言っていたアンドリューは、蒸したチキンに千切りレタス、サワークリームにサルサ、たっぷりのチェダーチーズと塩茹でした(メキシカン料理では定番の)小豆のペーストをトルティーヤで巻いたチキンブリトーとコーラを注文した。お腹の虫が鳴いてくれない私は、揚げたトルティーヤをお皿の代わりにして、その中にひき肉と千切りレタス、みじん切りのトマトに塩茹で小豆とチェダーチーズ、その上にサワークリームとワカモレが載ったタコサラダとダイエットコーラを注文した。
「全部で七ドル五十セントです」
店員が言うと、アンドリューは何食わぬ顔で二人分を支払った。私はすぐに自分の分を払おうとしたが、アンドリューは、
「いいからしまって」
と、私の財布に手を置くと、
「僕のおごりだよ」
と、ウインクをして笑った。
「ありがとう。でも、なんだか悪いな」
「悪いだなんてそんな事気にしないでいいんだよ。さあ食べよう」
窓際の眺めの良い席に向かい合って腰を下ろすと、私たちは遅めのランチを食べた。周りには何組かの客が私たちと同じように楽しそうに食事をしていた。窓に目をやると、芝生で覆われた小高い丘とフリーウエイが見えた。緑の芝生と空のディープスカイブルー、行き交う色取り取りの車たち。この色のコントラストがなぜかいつもよりも数段美しく見えた。周りにある全てのものが素敵に映っていた。普通にしているつもりでも顔がほころんでいるように感じた。自分自身が幸せだと周りの人や物、全てが輝いて見え、気持ちまでもが明るくなる。そして、改めて自分がどれほど幸せなのかが実感出来る。恋をした人であれば誰もが経験する至幸の感覚。この日の私はそんな感覚で完全に満たされていた。
「カナ、サラダは美味しい? それだけで足りるかい? 僕のも少しあげようか?」
たっぷり二人分はありそうなボリュームのあるブリトーを、フォークとナイフで切りわけながらアンドリューは言った。温かいチキンと熱々の塩茹で小豆の熱で溶け出したチーズが食欲をそそる。
「ホントに美味しそう。でも、これだけで十分よ。私のサラダ、食べてみる?」
「それじゃあちょっとだけ。美味しそうだもんね」
アンドリューは言い、トルティーヤの端の部分を手で割り、サラダの上に載っていたワカモレをそれに付けると、
「ワカモレチップの出来上がり」
と言って、美味しそうに口に頬張った。その姿が常に穏やかで落ち着いて見えるアンドリューの姿とはあまりにも対照的に、とてもお茶目な姿に映り、私は思わずクスッと笑ってしまった。私の笑った顔を見たアンドリューはもう一つ同じようにワカモレチップを作ると、
「はい、これはカナに」
と、私に食べさせようとする。
「うーん、美味しい、美味しい」
更に私を笑わせようと口をもぐもぐして、眉毛を上下にピクピク動かした。私はアンドリューのこっけいな仕草に堪え切れず、思わず声を出して笑った。
「あははは、アンドリューったらおかしな顔」
「カナ、君の笑顔は本当に素敵だね」
思いもよらなかった突然の言葉に、私の心臓はドキンと一瞬大きく動いた。私は笑みを浮かべたままワカモレチップをつまんだ。そして、
「ありがとう。私も貴方の笑顔、大好きよ」
と言って、それを口に入れた。嬉しさと恥ずかしさを隠すために、さりげなく自然に振舞いながら。
楽しい食事の時間はあっという間に終わり、私たちは午後二時半過ぎの日差しが一層強くなった空の下へ出た。入り口のすぐ目の前にはアンドリューの大きなセダン車が私たちを待っている。ああもうこのまま寮まで送ってもらってさよならなんだ。楽しいときはすぐに終わってしまう事を恨みながら、私の心は無性に寂しくなった。
「ねえカナ、今夜は暇かな?」
車に乗り込むと、アンドリューはにこにこしながら訊いた。
「実は家を出る前に友だちから電話があって、今夜食事会をするから来てほしいって招待されたんだ」
「……?」
私は首をかしげてアンドリューを見た。
「僕は今から一度家に戻って宿題を終わらせなきゃいけないけど、もし今夜カナが暇だったらそこに連れていきたいんだ。場所は日本食レストランなんだよ」
今日はもうこれでアンドリューとはお別れだと思っていた私は、彼の言葉に耳を疑った。えっ、私、聞き間違いしていない? 自分の英語の理解力に不安を覚え、
「食事会は何時からなの?」
と訊いてみた。
「六時からだよ。どう? 行かれそうかい?」
聞き間違いではなかった。アンドリューの言葉に曇っていた私の心は一気に晴れ渡り、自然と笑みがこぼれてきた。今夜もまた会える。
「ええ、もちろん。行けるわ!」
「良かった」
アンドリューはハンドルをパンと叩いて嬉しそうに言った。
日本食レストランで食事会かあ。アンドリューの友だちってどんな人たちが来るんだろう。アンドリューみたいにきっと素敵な人たちだろうな。走り出した車の中で私はまだ見ぬアンドリューの友人たちを想像していた。
「宿題が終わり次第、すぐ迎えに来るからね?」
寮の前に車を停めると、アンドリューは腕時計を見て言った。
「ええ、分かったわ」
「遅くとも六時までにはなんとか来られるようにするよ」
アンドリューは言って、私の両手をぎゅっと握り締めた。その手から伝わる温かい彼の感触がしっかりと「約束だよ」と言っていた。
「今日はランチをありがとう。本当にとっても楽しかった」
「今夜はもっと楽しくなるよ」
アンドリューは私の頬に軽くキスをして寮をあとにした。
部屋に戻ると知美はまだスワップミートから戻っていなかった。待っていたのは部屋を出るときに閉じ込めておいた静寂だけ。でも、アンドリューとのひとときをもう一度思い返すには、必要な静けさだった。ラジオをつけてそこから流れてくる音楽を聴くことも今は必要ではない。私はただ一言一句、アンドリューの言葉を心に刻んでおきたかった。両手と頬に残るアンドリューの温かいぬくもりを感じながら。
約束通り、アンドリューは六時きっかりに私を迎えに来てくれた。茶色の、もう何年も着ているであろう(それも大切に)革のジャケットとレモン色のセーターにジーパン、こげ茶色の革靴といった装いでドアの前に立っていた。
「やあカナ。待たせてごめんね」
ドアを開けた瞬間に漂う清々しいアンドリューのつけているコロンの香り。
「そんな事ないわ。時間通りだもの。それより宿題は終わった?」
私は薄いモスグリーン色のジャケットを羽織るとドアを閉めた。
「全部は終わってないんだ」
「そんな……。だったら今夜は行かない方がいいんじゃないの?」
「心配しなくても大丈夫だよ。さあ行こう」
アンドリューはそしらぬ顔をして私をエレベーターに乗せた。
「でも、明日からまた学校でしょう? 本当に大丈夫なの?」
やっぱり宿題を終わらせなくちゃ、アンドリュー。ロビーへ出ると、足を止めて私は言った。
「いや、ホントに大丈夫だよ。それよりカナをそこへ連れて行って僕の友だちに会わせたいんだ。どっちみち休憩も必要なんだから」
「なんか、ごめんね」
他に言葉が見つからない。
「謝ることなんて何もないんだよ、カナ。いいね?」
アンドリューは玄関のドアを開き、私を外へと促した。外は日もとっぷりと落ち、冷え切った空気が一気に私の体を覆う。私は肩をすくめて空を見上げた。夜空には満天の星たちが、まるで自分たちの存在をめいっぱい主張しているかのようにキラキラと輝いていた。
日本食レストラン「カモン」はカレッジアベニューを右へ下り、ユニバーシティアベニューを左に少し行った所にあった。店に入るとまず目に留まるのは、すし屋で見かけるようなカウンター席。次にアメリカでも流行り始めていたカラオケの装置(テーブル席と畳の席を仕切るように置かれている)。そこでは日本人、アメリカ人を問わず、誰でも気軽に歌を歌って楽しんでいた。
アンドリューと私が店に入ると、六人程の日本人の学生がカウンター前のテーブルを横付けにして座っているのが見えた。
「アンドリュー」
アンドリューが席へ近づいていくと、一人の女性が手を挙げて呼んだ。
「ハイ、ユキエ。遅れてごめんよ」
「さ、早く座って。もう待ちくたびれちゃったわよ」
他の五人もアンドリューの方を見て挨拶をする。
「やあ、アンドリュー。元気かい?」
席の一番隅に座っていた男性が体をのりだして言った。
「アキラ、久しぶり」
アンドリューはこたえて、後ろに立っていた私の背中に手を回すと、彼の横へ引き寄せた。
「She is my very special friend, Kana : 彼女は僕のとっても大切な友人で、カナっていうんだ」
「Very Special」この言葉が素直に嬉しい。
「初めまして。中村カナといいます」
私は笑顔で挨拶をした。だが、アンドリューの友だちという彼らの私に向けられた笑顔の下には、明らかに私を歓迎していない色がうかがえる。
「日本語はずるいよ、カナ。何を言っているか分からないじゃないか」
何も気づいていないアンドリューは、席に座ると冗談めいて言った。私は一層冷たく感じる視線を無視するように、ただの自己紹介を言っただけよ、と、笑った。
アメリカで見る初めての日本のレストランがとても物珍しく私の目には映り、辺りをキョロキョロと見渡していた。レストランの中には日本を思い起こさせるような品がいくつもいたる所に飾られている。すげ笠や半被、奴凧に和傘、それに、羽子板やひょっとこまである。ここは見るからに日本だ。
「日本が恋しくなっちゃった?」
運ばれてきたビールを飲みながらアンドリューは私の肩にもたれて言った。
「ねえ、アンドリュー、今日は何をしていたの?」
テーブルを挟んで目の前に座っていた幸恵さんが私のこたえをさえぎるように、アンドリューに熱い視線を送って言った。そして、
「きっと勉強ばっかりで退屈しているだろうと思って、あなたのためにこのパーティを開いたのよ」
と続け、私の方をチラッと見た。ああそうか、彼女はアンドリューが好きなんだ。同じ気持ちの私には手に取るように幸恵さんの気持ちが分かってしまった。そして、彼女の気持ちを知る周りの人たちが、突然アンドリューの連れて来た(どこの馬の骨とも知れぬ)私に冷たい視線を送っていたことにも納得がいった。
「今日はカナと一緒で楽しかったよ」
私の方を見て微笑むと、アンドリューはこたえた。そして、
「お昼もよかったし、ね?」
と(幸恵さんの怒りにも似た視線が私に向けられている事に気づきもせず)アンドリューは言い添えた。
日本を離れてまだ一ヶ月も経っていないのに、次々と運ばれてくる日本食に私は懐かしさを感じていた。日本ではごく当たり前のように食べていた物でさえ、サン・ディエゴで出されると、とても貴重な物のように感じてしまう。食べられなくなって悟る日本食の有難さ。
「この焼き鳥も、ダシ巻き卵も、ホントに美味しいですね」
私は少しでも会話が弾んでくれたらと願いつつ、幸恵さんに言った。
「そうかしら? どこで食べても同じだと思うけど」
だが、呆気なく言い放たれてしまう。
「私、今、寮に住んでいるんです。だから今日こうやって一ヶ月ぶりで日本の物が食べられてとっても嬉しいです」
更に笑顔で言ってみた。
「別に私はこの店でなくても良かったのよ。だいたいあなたのためじゃないのよ。これは彼のための食事会で、彼が日本食を好きだからここにしたのよ」
だが、幸恵さんの冷たい一言が、槍のように私の心を突き刺した。
周りからは楽しそうな笑い声が聞こえているのに、私のところだけ別の空気が流れている。私は小さくため息をついた。
「なんかずっと静かだけど疲れた?」
心配そうにアンドリューが訊いてきた。
「もう帰ろうか?」
気にかけてくれるアンドリュー。でも、彼自身とても楽しんでいることを私は知っていた。
「ううん、大丈夫よ。楽しんでいるから心配しないで」
一人っ子の強み。いつでも自分の世界に行くことが出来る。想像力を使ってその場を楽しむ術を小さいころから見につけている。それに私の隣には、私のことを「Very Special」と言ってくれたアンドリューがいてくれる。彼のぬくもりを感じる事が出来るだけで満足だった。店内に設けられた小さなステージの上でカラオケを楽しんでいる人たちの歌声も、私を孤独から救ってくれていた。
「Are you sure? : 本当に?」
「Yes, I’m sure : 本当に」
「分かった。カナを信じるよ。でも、もう少ししたら帰ろう」
アンドリューは私の肩に腕を回して耳元で小さくささやいた。
周りを気遣っていたアンドリューには最初からお見通しだったのかもしれない。幸恵さんやみんなの態度がいつもと違っていたという事に。みんなが私にはあまり話しかけていなかったという事に。私が一生懸命みんなに笑顔を作っていたという事に。でも、事実は事実だ。私は歓迎されていなかったし、幸恵さんは私が嫌いだ。でも、アンドリューがいてくれたらそんな事はたいしたことではなかった。周りはどうでもいいことだった。あとどれくらい会えるか分からない二人のこれからを思うと、アンドリューと一緒にいられることだけが、私には大切な事だった。
四 イザベル
一月最後の月曜日。
天気は朝から快晴で、一日の半分を教室で過してしまうのがもったいないほど風もなく穏やかな日。勉強よりはビーチ日和といった感じだ。そう思っていたのは私だけではなかった。今度バイクに乗せてね、そうルイに言おうと思い、授業前に教室や廊下、外の踊り場など、人が集まっているところを探してみたが、ルイの姿が見つからない。きっとツーリングにでも行ったのかもな。風を切って走るルイの姿を想像しながら私は一限目のクラスへ入って行った。
放課後、私は加代子――一週間のホームステイ体験で私と同じファミリーに世話になっていた――と大学の中にあるブックストアへ買い物に出かけた。そこで私はもうすぐ誕生日を迎えるスーザンへのプレゼントと、偶然見つけた私の大好きなアーティスト「ノーマン・ロックウェル」の画集を買った。画集はハードカバーで前頁カラー版にも関わらず、半額以下の値段で売られていて掘り出し物だった。
「ハロー、カナ。一人寂しくブックストアでお買い物?」
レジに並んでいると後ろから声がした。振り向くと知美と敦子がニコニコしながら私を見ていた。
「加代子と一緒に来たんだけど、彼女はまだまだ時間がかかるって言うから、私だけ先に戻ろうと思って」
支払いを済ませて私はこたえた。
「あっ、そうなの。で? 何か良いもの見つけられた?」
二人とも私の胸に抱えている大きな袋が気になるらしい。
「ほら、スーザンの誕生日がもうすぐじゃない? だから何かプレゼントしようと思って来たの。で、自分の物も買っちゃったわけ」
買ったばかりの本を袋から出し、二人に見せた。
「わあ、なかなか立派な画集じゃない」
「でしょう? 私、この人の作品、大好きなの。それに半額以下でお買い得だったのよ」
元々絵を描くのが好きだった私に高校の友人が随分昔、誕生日プレゼントとして「ノーマン・ロックウェル」の作品を贈ってくれた。私は彼の描いた優しさと愛情に溢れる作品に一目惚れしてしまい、それ以来、彼の大ファンなのだ。
「ホント、温かい絵ばかりね。あとでゆっくり見せてもらってもいい?」
パラパラとページをめくりながら知美が言うと、
「私も見たいわ! ね、いいでしょ?」
と、めくられていくページを目で追いながら、敦子も興味を示して言った。
「もちろん。いつでもOKよ」
知美からずっしりとした重みのある本を受け取り、私は再びそれを袋の中にしまった。
二人と別れて私は眩しい日差しの中へ出た。そして、夕べの出来事に思いを馳せながら、元来た道をてくてくと歩き出した。
「カナ、今夜の彼らの態度を許してほしい」
夕べ、幸恵さんたちより少し早めに切り上げてレストランを出ると、アンドリューは私に申し訳なさそうに言った。
「みんながどうしてあんな態度を取ったのか分からないけど、でも、彼らは決してカナを傷つける気はなかったんだ。彼らはホントにいい友だちなんだよ」
アンドリューは気づいていた。幸恵さんや他の人たちの私へ向けられた冷たい視線や態度に。その裏に隠された理由は別として。
「気にしないで、アンドリュー。私は大丈夫だから」
「でも、カナ……」
罪悪感でいっぱいになっているアンドリューの心が手に取るように感じられる。私を連れて来なければ良かった。きっと彼はそう思っているにちがいない。
「だってみんなあなたの友だちでしょう? なら私だって友だちになれるわよ」
少しでもアンドリューの気持ちを楽にさせたくてそう言ってはみたが、彼らと仲良くなれるかは、正直自信がなかった。
「たぶん、知らない日本人が突然あなたと一緒にやって来たから、みんな戸惑っちゃったのよ。日本人って変に人見知りしちゃったりするしね」
こんな子供じみた説明でしかフォローすることが出来ない。幸恵さんはあなたの事が好きだから私にあんな態度をとったのよ。そう言えてしまえば楽だったかもしれない。そうすればみんなの取った態度もアンドリューには理解出来ただろう。でも、幸恵さん本人が口にしていない彼女の思いを、私が勝手に告げるべき事ではない。私の胸の内だけに収めておくべき事だと思った。
「本当よ、アンドリュー。私は大丈夫。それよりもあなたが私をみんなに紹介したい、と言ってくれた事の方が、私にはずっと意味のある事なのよ」
「カナ」
嬉しさと切なさが混ざり合ったような響きで私の名を呼ぶと、アンドリューは大きな体で私をすっぽりと包みこみ、力強く抱きしめた。
「私、ホントにとっても嬉しかったのよ」
「君はホントに優しい人だね」
言葉に出さずとも感じられる、それは感謝と愛情のこもったハグだった。
「やあ、カナ!」
アンドリューの暖かいハグを思い出していた私を、ラルフの一言が我に返らせた。私はいつの間にかALIの前まで戻って来ていた。
「あら、みんなまだいたのね」
「何かボーっとして歩いていたけど、どうかした?」
「ううん、何でもないの。ラルフたちはまだ帰らないの?」
「もう少しこれを転がしたらね」
ラルフは脇にかかえていたサッカーボールを軽く叩くと、額の汗を腕で拭った。
「そう。じゃあ、また明日ね」
私がラルフたちの前を通り過ぎたとき、背後からバイクの音がした。音は少しずつ私の方へと近づいてくる。振り向くとルイだった。いつものように黒い革のがっしりとしたジャケットにジーパン姿で私の横へ来ると、私の歩調に合わせてバイクをゆっくりと走らせた。
「やあ、カナ。今、君の部屋に行ったんだけど、居なかったからここへ来てみたんだ」
いつもの笑顔にいつもの口調。
「それ重いの?」
胸に抱えている大きな袋を見ると、ルイは私の腕からそれをつかみ持ってくれた。
「ああ、ありがとう」
一気に体が軽くなった。
「ところでルイ、今日、学校に来なかったでしょう? 私あなたのこと探していたのよ」
「ツーリングに行っていたんだ」
思った通りだ。今日は本当に穏やかでツーリングには最適な日だ。
「で、僕を探していたって? どうしたの?」
モンテズマ通りの手前で私は足を止めた。道路を渡れば目と鼻の先に私の住んでいる寮がある。
「昨日一緒にバイクに乗れなかったから」
信号が青に変わり、また歩き出した。
「だから今度乗せてもらってどこかへ行きたいなあって思ったの」
「本当に? いつ? 今日? 今から?」
欲しがっていたおもちゃをもらってはしゃいでいる子供のように、ルイは目を輝かせた。
「いつでも。あ、でも、夜は駄目。だって寒いもの」
「分かった。じゃあ明日は? 放課後はどう?」
ルイはきっと思い立ったらすぐ行動に移すタイプの人なのだろう。そういえばこの前、悩むには人生は短すぎる、だから楽しまないとね、と言っていたのを思い出した。
「そうね。お天気が良ければ明日の放課後にしようか?」
「OK. Great!」
さっきまで青かった空は西の方から少しずつ赤みを帯びてきた。三十分もしないうちに今日も綺麗な夕焼けが見られそうだな。ルイに手を振り寮のドアを開いた。
玄関を入ると、エレベーター前に二人の子供を連れた女性が困った様子で立っているのが目に入った。見覚えのある後ろ姿。あれ? ひょっとしてイザベル?
イザベルは敦子と良枝が世話になっていたホストファミリーのママ。一週間のホームステイ体験の間、彼女は知美や貴美子のホストママのサンディと共に、私や加代子を含めた六人をスワップミートやディスコ(今のクラブ)――もっともこのディスコは貴美子の強い要望から行くに至ったが――、モールなどへ連れて行ってくれた(私たちのホストママは妊婦という理由から、どこへも連れて行ってはくれなかった。イザベルはそんな私たちの事を気にかけ、どこかへ行くときには必ず声をかけてくれた)。
私の視線に気づいたのか、その女性が振り向いた。やはりイザベルだった。もうすぐ夕飯の時間なのに何かあったのではないかと一瞬不安が過る。
「カナ! あなたに会えてホッとしたわ」
久しぶりの再会に私たちは抱きしめ合った。
「アツコとヨシエに会いに来たのだけど、部屋の番号を忘れてしまって……」
「それなら大丈夫。私が連れて行ってあげますよ」
私はエレベーターのボタンを押した。
「でも、こんな時間に来るなんて、何かあったんですか?」
エレベーターからはカフェテリアへ向かう学生たちが次々と降りてくる。
「いいえ。ただ、子供たちも私も彼女たちがいなくなってから寂しくてね。だから彼女たちには内緒で会いに来たのよ」
イザベルはこたえると、カナはまだこの子たちには会ったことがなかったわね、と、二人の子供たち――エスティとラネーレ――を紹介してくれた。もうすぐ十歳になるという息子のエスティは、イザベルの白い肌とは反対に、日焼けをしたように黒くぽっちゃりとしいる。六歳になったばかりだという娘のラネーレは、恥ずかしそうにイザベルの横に立ち、もじもじしながら私を見つめているが、その容姿はイザベル似でとても美しい。
「彼女たち、みんなを見たらびっくりでしょうね。でも、きっと喜びますよ」
三人とも嬉しそうに目を細めると、エレベーターへ乗り込んだ。
たった一週間の間に築き上げられた敦子たちへの愛情。こんなに温かいファミリーに出会えた彼女たちを私はとても羨ましく思った。間違っても私たちのホストファミリーが遊びに来てくれる事はないと分かっていたから。
夕食を終え部屋に戻ると、敦子と良枝が知美のベッドに座って楽しそうに話をしていた。
「あ、カナ、お帰り。今日はありがとね」
私を見るなり敦子が言った。
「私、何かしたっけ?」
礼を言われるような事をした覚えがない。
「あっ、ひょっとして『ノーマン・ロックウェル』の本の事? もう見たんだ」
私は言って、机の上に置いてある本に目をやった。
「良かったでしょう?」
「イヤだあ、もうカナったら。イザベルたちの事よ。さっき部屋まで連れてきてくれたじゃない」
良枝が言うと、
「そうそう、その事よ」
と、敦子がうなずき、カナって天然入っているでしょう、と言って笑い出した。確か昔、高校の友だちからも同じことを言われた事がある。
――カナって他の子と違って天然入っているよね。だって笑いのポイントも話のポイントもかなりずれているもん。
どこがどうのようにずれているのか、当の本人にはよく分からない。でも、周りに言わせると、そのずれが良い意味で私を表しているそうだ。それもまた「天邪鬼」の持つ特徴なのかもしれない。
「ああその事ね。ユーアーベリーウェルカムよ。で、楽しかった? って、楽しくない訳ないか」
「もちろん! 大学近くのマクドナルド、みんなでそこに行ってディナーしてきちゃった」
良枝は言って、はい、と、私に紙袋を差し出した。
「何これ?」
「イザベルからカナへって」
中を見るとハンバーガーにポテトとドリンクが入っていた。
「多分、もう夕食は済ませてしまっているでしょうけど、私の気持ちだからカナに渡してねってイザベルから頼まれたの」
「本当は一緒に行きたかったけど、この部屋に来てみたらカナはもう夕食に出ちゃったあとみたいでいなかったのよ」
イザベルの気持ちのこもった贈り物。私は彼女のその思いが嬉しかった。イザベルの姿が目に浮かび、胸の中からグッと込み上げてくる熱いものを感じた。
「ありがとう。なんか感動しちゃう。敦子たちは本当にラッキーだよ。あんなに素敵なママと出会えて」
まだ温かい紙袋を机の上に置くと、私は心からそう言った。
なぜホストファミリーにもそのように違いがあるのか、私は何年か経ってあるとき、イザベルに訊いたことがある。ホストファミリーといっても様々で、世話をする事が本当に好きで、損得なしに学生を受け入れる家庭もあれば、ベビーシッター代わりとして受け入れる家庭、そして、一番悲しいのは、お金だけが目的で受け入れる家庭もあるという事だった。運悪く、加代子と私が世話になった家庭は、ベビーシッターとお金が目的という家庭だった。私たちの寝泊りしていた部屋は、ベッドを二つ押し入れただけの(部屋とはとても言えない)とにかく狭いところだった。シャワーを浴びても五分以上お湯を使うと、使いすぎだから早く出なさい、とドア越しに注意され、食事はほぼ毎晩カップラーメン一個やポップコーン一皿だけ。学校から戻ると、二歳になったばかりの息子と三歳の娘の面倒を見させられ、夕方になると夫婦そろって外出する。私が想像していたホームステイのイメージとはあまりにもかけ離れたものだった。毎日が辛かった。その辛さを少しでも忘れたくて、毎晩のようにコレクトコールで母に電話をかけては、もうイヤだ、などと泣き言を言い、その度に、何を言っているの、頑張りなさい、と言われて励まされた。私にはもう二度と思い出したくない一週間の辛いアメリカ生活だった。
私がまだイザベルの優しさに思いを馳せていると、ドアをたたく音がした。
誰かしら? 知美がドアを開いた。
「こんばんは。カナは今いるかな?」
「はい、いますよ」
カナ、と、知美がドアを大きく開いて呼んだ。そこには茶色い革のジャケットを羽織ったアンドリューが立っていた。
「アンドリュー、一体どうしたの? 私、これから電話しようと思っていたのよ」
アンドリューの顔からはいつもの柔らかい笑顔はなく、どこか不安げな表情が見える。
「カナに会いたかったんだ。昨日の事で……」
言いかけると、アンドリューは知美たちの方へ目を移し、
「こんばんは。カナの友人のアンドリューです。よろしく」
と言って手を差し出し、一人ひとりに挨拶をした。みんなは、私たちの知らないこの人は誰なの、とでも言うような不思議そうな顔をしながら、アンドリューと私を交互に見つめていた。
「カナ、少し下で話せるかな?」
「ええ、もちろん」
彼女たちの視線を背に、私はアンドリューのあとに続いた。
「突然でごめんよ、カナ。でも、夕べの事もあったから、今夜は電話をもらえないんじゃないかと思ったんだ」
アンドリューは私を見つめて言った。
「だから今夜どうしてもカナに会いたかったんだ」
アンドリューの目の奥からは明らかに不安の色が見えている。
「アンドリュー、会いに来てくれてとっても嬉しい。だって今夜会えるなんて思ってなかったもの」
アンドリューのうかない表情を和らげようと私は明るく言った。でも、彼の表情は変わらない。
「まだ私が夕べの事を気にしていると思ったの?」
「ああ。それに今夜カナに会えなかったら、もう会えないような気がして」
だから許して欲しい、と言わんばかりのアンドリューのすがるような眼差し。アンドリューは何一つ悪い事はしていないのに。
「全然気にしてないわ。ホントよ。それにもう少ししたら電話をするつもりだったのよ」
私は真っ直ぐにアンドリューの瞳を見つめて言った。
「Promise? : 本当に?」
「Promise : 本当に」
私は言って、更に胸に十字を切り「Cross my heart : 神様に誓って」と、つけたした。私の姿を見てアンドリューはようやくホッとした様子に戻り、いつもの柔らかい笑顔を見せてくれた。そして、カナ、ありがとう、と、私に優しくハグをすると、これで落ち着いてレポートが仕上げられるよ、と言って、翌日が提出期限のレポートを仕上げるために、本当はもっと一緒にいたいけど、と、不満を漏らしながら、でも、安心しきった表情を浮かべて寮をあとにした。
部屋に戻ったら何か言われるだろうなあ。知美たちの姿を思い浮かべながら私はエレベーターのボタンを押した。
「おっ帰りい。待っていたよお、カナちゃん!」
ホラ、来た。
「で、あの人はどこのどなたかなあ?」
性格も明るく好奇心旺盛の敦子が真っ先に訊いてきた。
「優しそうな感じの人だよね」
「知美もそう思った? 私もそう思った。で、彼はアメリカ人なの?」
良枝も事のいきさつを聞こうと私をじっと見つめて言った。その瞳には「感興」という色が見え隠れしている。きっと万国共通で、多かれ少なかれ女性はこういう話題が好きなのだろう。私は彼女たちにアンドリューは自分より三つ年上のスイス人で、一年前までALIでケイトの生徒だった事、今は大学へ通い、ケイトからディエゴズでパーティがあると誘われて私たちのパーティに顔を出した事、そこで初めて私がアンドリューを見かけた事、その後、ダニーの家にも現れて、私の隣に座ったことから仲良くなった事、でも、名前はうろ覚え、連絡先も分からないまま数週間が経ち、知美たちと行った騒音パーティで偶然に再会した事(アンドリューが私を探してくれていた事は言わなかった)、そして、昨日初めてデートをした事をかいつまんで話した。
「へえ、ディエゴズのパーティに来ていたんだ」
「私たち全然気づきもしなかったよね」
ホント全然記憶にないなあ、と、みんな口を揃えてうなずいている。
「そのあと、あのうるさかったパーティで偶然にまた再会したんだ」
知美は、すごいじゃない、と、喜んでくれた。
「なんかドラマだわあ」
両手を組み天井を見上げながら敦子が歌うように言った。
「しかも一年前まではALIの生徒で、それもカナとおんなじでケイトのクラスにいたなんて、ホント、すごい偶然じゃない」
「私たちもあと一年早くにここに来ていれば、カナもアンドリューと一緒にケイトのクラスで仲良く勉強していたかもしれないね」
一年前に来ていたら、果たして私たちは同じ気持ちで互いを見られたのだろうか? 「この人と何かある」という突拍子もない感情に抱かれたのだろうか?
「そうすればもう少し長く一緒にいられたのにね」
知美の言葉が私を現実の世界へ引き戻した。そう。私たちの滞在はあと二ヶ月。あと二ヶ月で私たちは日本へ戻らなくてはならない。「逢うは別れのはじめ」と母はよくそんな事を言っていた。もうすぐ私たちもここで出逢った人たちみんなと別れて、それぞれの道を歩んでいかなくてはならない。知美の言葉が耳に残る。もう少し長く一緒にいられたら……。
「帰ることを考えると本気で好きにならないほうがいいかもよ、カナ」
良枝がポツリと言った。
「彼だっていずれはスイスに戻るんでしょう?」
興味津々で聞いていた彼女たちの笑顔が、いつしか心配とも哀れみともとれる寂しげな笑みに変わっていた。
「日本とアメリカ、スイスと日本かあ。どっちもかなり遠いよねえ。でもさ、まだ二ヶ月はあるんだから今からそんなにしょげていても仕方ないよ。まだこれからどうなるかなんて誰にも分からないしさ」
敦子は言うと、良枝の方を向いて言った。
「ね、良枝、さっきのイザベルの話、カナに教えてあげなよ」
「あっ、そうだよね」
カナがきっと喜ぶような事だよ、とニコニコしながら良枝はこたえた。
「今日、夕食を食べているとき、カナは『チップス』に憧れているっていう話をイザベルにしたのよ」
良枝が言い始めると、
「そうしたら彼女、カリフォルニア・ハイウエイ・パトロールにアポを取ってカナを連れて行ってあげようかしらって言っていたよ」
と、敦子が続けて言った。
「最初イザベルも『チップス?』って言って不思議そうな顔をしてたけどね」
「私なんかドラマ自体見た事なかったから、『チップス』の意味さえ分からなかったもん」
腕を組み、わざとエバった真似をして敦子が笑って言った。
小さいときからアメリカという国に憧れていた私は、テレビで海外ドラマやアニメが放送されると噛り付いて見ていた。その中でもロサンゼルスを舞台に二人の白バイ警官が活躍するドラマ、通称「チップス」が私の大のお気に入りだった。真っ青な空、輝く太陽、盛観に走る白バイ、それにまたがるハンサムな男たち。ドラマと現実は違うにせよ、いつかカリフォルニアへ行ったら本物の「チップス」を見てみたい。そんな秘かな夢を抱いていた。でも、言われてみれば確かに不思議かもしれない。いや、変かもしれない。わざわざ警察署へ出向き、ドラマと同じ白バイを見たいだなんて。そんな事を思う人はよっぽどの物好きぐらいしかいないだろう。私は急に自分が馬鹿げた事を言っていたような気がして恥ずかしくなった。
「まだアポが取れるか分からないけど、とれたら連絡してくれる事になっているから、そしたらカナにすぐ知らせるね」
良枝は言って席を立つと、敦子と一緒に部屋をあとにした。
「カナ、チップスに行けるといいね」
机に向かって宿題をやり始めた知美が、思い出したように言った。
「そうね……」
イザベルの気持ちはとても嬉しいが、この件はこれで終わりになってくれればなお嬉しい。馬鹿げた夢は夢のままで終わったほうがいいんだ。返事をしながら私はそう思った。
五 フライヤーズ
穏やかだった月曜日を最後に、天気の悪い日がずっと続いている。ルイとツーリングでどこかへ行こうという計画も、延ばし延ばしになっていた。でも、今日はスーザンの二十歳の誕生日。週末の金曜日という事もあり、放課後みんなで「フライヤーズ」に集まって彼女の誕生会をする事になった。天井がものすごく高いフライヤーズの店内は、ダンスやカラオケ、それに、ダーツやビリヤードも出来るようになっていて、学生たちのちょっとしたたまり場だった。
「誕生日おめでとうスーザン」
「はい、これプレゼント」
スーザンを囲んで座ると、みんなは次々にプレゼントを渡し、彼女を祝福した。
「みんな、ありがとう。とっても嬉しいわ」
受け取ったプレゼントを一つずつ開いては「なんて素敵」とか、「これ私、欲しかったの」とか言って、スーザンは顔中くしゃくしゃにしながら喜んだ。天使が花瓶を抱えて微笑んでいる置物を手に取ると、
「カナ、これとっても気に入ったわ。あとで花を入れて机に飾るわね。ありがとう」
と言い、私の肩に腕を回すと何度も頬にキスをした。
家族や友人、恋人や知り合いなどに対する感謝や愛情表現の仕方は国によって様々だが、ストレートに相手の感情が伝わる「ハグ」や「キス」が私はとても好きだ。その人の感情が抱きしめる強さや口づけの回数にそのまま表れる。懐かしい人に会ったとき、親しい人と別れるとき、嬉しい事や悲しい事があったとき、ただ見つめ合って言葉を交わすより数倍も(私にとっては何十倍も)、相手の、そして、こちらの気持ちを伝え、感じ取れる最良の方法だ。
「スーザンが気に入ってくれて私も嬉しいわ」
私もスーザンを強く抱きしめ返して微笑んだ。
プレゼントも渡し終え、ケーキやスナックを食べていると、誰からともなく席を立ち、ステージでカラオケをしていた人の曲に合わせて踊り始めた。バースデーガールのスーザンもみんなからもらったプレゼントをテーブルの上に置くと、ステージの前で踊り始めた。ノリの良いルイはまだ席に残っている人たちを嗾けるように彼らの手を引っ張っては、さあ踊ろう、と、席を立たせ、相手が踊り出すまで目の前で踊り続けていた。
「さあカナ。立って踊ろう!」
みんなの踊りを見て楽しんでいた私の前にやって来ると、ルイは言った。
「でも、私は見ている方がいいのよ、ルイ」
「駄目だよ、カナ。さあ、踊ろう」
知美や敦子たちはすでにルイのノリに押し切られて楽しそうに踊っている。
「ほら、カナ、立って」
力ずくでも椅子から立ち上がらせようと手を引っ張るルイ。
「ほら、みんなも楽しんでいるよ。カナも楽しもう!」
私だって十分に楽しんでいるわよ、もうルイってば。
「OK, OK もう分かったわよ、ルイ」
ルイの粘り強さに根負けして私も席を立ち、彼のリズムに合わせて踊り出した。
「カナ、踊り上手じゃないか」
「メルシー」
ルイは笑って私の手をつかみ、なお一層激しく踊りだした。
「今日は素敵なバースデーパーティになって良かったね」
息を切らせて私は言った。
「うん、そうだね。ところで、カナは僕のバースデーパーティもしてくれる?」
「えっ?」
音楽はダンスミュージックからムードのある曲に変わった。ルイは息を落ち着かせ私の手を取ると、チークダンスを始めた。
「僕の誕生日、明日なんだ」
「明日? 明日って二月一日がルイの誕生日なの?」
私はびっくりしてルイから体を離した。ルイは冗談とも本気ともとれる笑みを浮かべている。
「ルイったら、本当のこと言ってよ」
音楽に合わせてルイはゆっくりと私の体を引き寄せ、再びダンスを続けた。
「本当だよ。明日で二十三歳になるんだ」
周りの殆どは踊るのをやめて席に戻り、チークダンスをしている私たち何組かの踊りを見ながら茶化していた。それでも、私は日本人の間で別名「神様」と呼ばれているルイと親しくなり、一緒にチークダンスを踊れる事に正直悪い気はしなかった。ただ、ルイの鼓動や息づかいまでもが感じられてしまう距離間に、多少の動揺は感じていたが。
「ルイ、ちょっとくっつき過ぎよ。みんな見てるわ」
「いいじゃない。僕は気にしないよ。それより誕生日には何をしてくれる?」
ルイは言って、私の腰に手を回すと、わざとみんなの視線を集めた。そして、耳元でくすぐるような息をつくと、僕は誕生日にカナが欲しい、とささやいた。
「ルイったら止めてよ。もう冗談ばかり言って」
私は顔をしかめてルイを見た。
「僕は本気だよ」
「ルイ!」
言った瞬間、ルイはにんまりと笑った。
「OK 分かったよ。でも、ツーリングの約束は果たしてもらわないとね」
ルイが笑いながらそう言って私を離してくれたとき、私の瞳に彼の姿はもう映っていなかった。私の視線はルイを通り越し、その先の入り口の方から歩いてくる男性に釘付けになっていた。
「何を見ているの、カナ?」
ルイは振り向いて私の見つめている方へ目をやった。
「アンドリュー」
私はルイから離れると、小走りにアンドリューの方へ近寄って行った。
「やあ、カナ。ごめん、遅くなってしまったね」
私はアンドリューの柔らかい微笑みを見るなり、嬉しさのあまり自分からハグをした。
「忙しいのに来てくれてありがとう」
受け止めてくれたアンドリューの腕から伝わる力強い彼のぬくもり。
「会えなくて寂しかったよ」
「私もよ」
ひとしきり見つめ合い、私はアンドリューをスーザンに紹介した。
「やあ、スーザン。今日は君の誕生日だってね。カナから聞いたよ。誕生日おめでとう」
アンドリューはスーザンに握手をすると、ポケットから小さな包みを取り出した。
「これを君に。気に入ってもらえれば嬉しいけど」
「あなたってスィートね。ありがとう」
スーザンは喜んで受け取り、一言、二言、二人の共通語――ドイツ語――で言葉を交わすと、びっくりした様子で笑いだした。
「ドイツ語はずるいわ、アンドリュー。何を言っているか分からないじゃない」
私は以前、アンドリューに言われた言葉を真似て、笑った。
「ああ、ごめん、ごめん。スイスのどこから来たのか聞いていたんだ」
「カナ、世の中って狭いわね。なんとアンドリューも私も、それに、ジュリアも同じ地域に住んでいるのよ」
スーザンはそう言ってジュリアを呼ぶと、三人はすぐに意気投合して楽しそうに盛り上がっていた。
アンドリューは誰とでも社交的に振る舞え、その場の雰囲気に一気に溶け込んでしまえるとても気さくな人だ。決して際立って目立つといった印象の人ではない。かといって誰にも気づかれないような陰の薄い印象の人、という訳でもない。ルイが周りを盛り上げる情熱的で艶やかな「真紅のバラ」だとすれば、アンドリューはそのバラをより一層引き立てる「カスミソウ」とでも言えるだろうか。バラは飾る場所や合わせる花々によってときにそのアレンジは難しく、使えなくなってしまう場合もあるが、カスミソウは全ての花々と調和を取ることが出来る。カスミソウを入れる事によって貧弱だった花々を綺麗に、そして、豪華に演出することが出来る。アンドリューはまさにそんな雰囲気を持った、柔らかで優しい印象の持ち主だ。
「やあ、君は確かカナのルームメイトのトモミ? だったよ、ね?」
しばらくして、私の横に来るとアンドリューはそう言って挨拶をした。
「そして君が……」
敦子を見て少し考える。
「ごめんね。名前が覚えられなくて」
「いいんです。気にしないでください。私は敦子です」
敦子は言って握手をした。
「この間はどうも。私は良枝です」
アンドリューが口を開く前に良枝が自分から先に名乗り、
「もし良かったら座りませんか?」
と、アンドリューに椅子を差し出した。
「ありがとう」
アンドリューはにっこり微笑み席に着いた。足を組んでゆったり椅子にもたれると、良枝たちに気楽に話しかけた。少しして、スーザンやジュリアも席に加わり、私たちは日本とスイスの様々な違いやそれぞれの夢について語り合った。一年前からサン・ディエゴに住んでいたアンドリューは、ALIで知り合った日本人から日本の事を色々と聞いていたようで、知美たちが話したたわいない話――東京ディズニーランドは実は東京ではなく千葉にあるとか、横浜とサン・ディエゴは姉妹都市だとか――ですら知っていて、私たちを驚かせた。
「じゃあ、恋愛についてはどうですか?」
当たり障りのない話題から一転して、良枝がアンドリューに訊いた。
「なかなかおもしろそうなサブジェクトじゃない」
敦子が身をのりだして言うと、良枝は気にかけた様子で私をチラッと見た。そして、唐突に、
「遠距離恋愛は可能だと思いますか?」
と言った。
「遠距離恋愛? どうかな? 難しい質問だね」
アンドリューは足を組みなおして私を見つめると微笑んだ。
「二人が本当に愛し合っていれば、ある程度の遠距離は我慢出来るとは思うよ」
「やっぱりそうですよね。心が通じ合っていれば可能ですよね」
良枝が、良かったね、と小さな声で私に耳打ちする。
「でも、あまり長く会えないでいたら、気持ちも離れてしまうかもしれないけどね」
「そうでしょうか? 私は相手を本当に愛しているなら、いくら離れていても心はつながっていられると思いますが」
良枝は顔をしかめると、少しばかり語気を強めて反論した。
「ね、カナだってそう思うでしょ?」
はっきり言ってしまいなよ、と言っているような良枝の目。
「そうね。でも、お互いの努力も必要なのかも」
本当は「絶対にそう思う」と言いたかった。アンドリューとなら、たとえどんなに離れていても、私の心が離れることはないという確信があった。でも、アンドリューの私に対する思いをきちんと確かめた事もないのに、彼にプレッシャーを与えてしまうような事は言いたくなかった。
「それじゃあ、努力をしないと心が離れてしまうっていうの?」
私のどっちつかずの返答が良枝をイラつかせたようだった。
「努力っていうかさ、日本人は我慢強いんだよ。もちろん、会えない分、連絡取り合う事は必要だろうけどさ。そうすることで会えなくても我慢して恋愛続けられるんじゃない? 私の友だちでも遠距離恋愛している子、いるよ。会えなくても好きなのーってね」
私が口をつぐんでいると、敦子が助け舟を出してくれた。
「片思いも考え方によっては思いの届かない、一方通行の遠距離恋愛みたいなものなのかもね」
テーブルに両ひじをつくと、知美が独り言のようにつぶやいた。そして、
「私も今、片思いしているし」
と、更に小さな声でつけたした。
私たち――日本人――は知美の突然の告白に目を見合った。すると、スーザンが、
「日本人と私たちでは恋愛の考え方が根本的に違うのかもな」
と言って首をすくめ、
「私たちには遠距離恋愛なんて絶対に不可能だもんね。だって普通会えなくなったら気持ちも冷めちゃうもの、ねえ?」
と、横にいたジュリアに同意を求めた。ジュリアは、そうだよ、と、うなずき、
「片思いもね。相手が好きになってくれてないのに、自分は好きでいられるっていうのが信じられないよ」
と呆れたように言うと、
「そんなの絶対に時間の無駄だよ」
と、止めの言葉を吐き捨てた。
私はふと、いつだったかルイとメイクラブについて、どこまでいっても水と油のように混ざり合うことのない話をしていたときの事を思い出した。同じ地球に住む者同士なのに、愛し方一つ採ってもこんなにも違う考えを持っている。
私はアンドリューと真に心を通い合わせることが出来るのだろうか。
少し寂しさを覚えた。
十一時過ぎ、そろそろ帰ろうというアンドリューの一言で、私たちは帰る支度を始めた。
「ねえ、誰かルイを見かけた?」
すっかりアンドリューに気を取られていた私は、翌日の予定をルイとまだ決めていなかった事を思い出した。
「そういえば姿が見えないね」
上着を羽織りながら敦子がこたえた。
「誰かを探しているの?」
アンドリューがキョロキョロしている私に気づいた。
「ちょっと待っていてくれる? 友だちが見当たらなくて」
私はテーブルから死角になっていた一角――ダーツがあるところ――にひょっとしたらルイがいるのかもしれないと思って行ってみた。でも、ルイの姿はなく、そこではロベルトやラルフたち数人の男性陣だけがダーツをしながら楽しんでいるだけだった。彼らにルイを見かけたか訊いてみると、随分前に帰った事をラルフがおしえてくれた。
「帰った? それっていつごろ?」
「うーん、そうだなあ。確かカナの友だちが来たぐらいだったかなあ」
そう言って投げたラルフの矢は二十のトリプルリングに綺麗に刺さった。
「ルイに何か用でもあったの?」
「ううん。大したことではないの」
なんで何も言わずに帰っちゃったのかしら。まだ明日の事だって決めていないのに。私はアンドリューたちの待つ出口へ向かった。
「どう? 友だちはみつかったかい?」
私は首を横に振った。
「そうか。じゃあ仕方ないね」
スーザンたちとは店の前で別れ、私たち四人はアンドリューの車で寮へ戻った。つけたばかりのヒーターの風は氷のように冷たい。首筋に鳥肌が立つ。寮に着くと、知美たちは一言ずつアンドリューに礼を言って車を降り、最後に敦子が窓越しから、また今度、遊んでくださいね、と言って笑った。物怖じしない敦子らしい態度にアンドリューは、もちろん、と目を細めてこたえた。すると、敦子は何を思ったのかいきなり腰をかがめ、再び私たちをのぞきこんだ。
「何だい?」
アンドリューが訊くと、敦子は私と目を合わせ、
「カナの事、よろしくお願いします」
と元気よく言うと、私にVサインをして走って寮に戻っていった。
みんなを見送り、二人だけになった車内は急に静かになった。やっと利いてきたヒーターの温かい風が頬にあたる。時計は十二時になろうとしていた。
「今日は忙しいのに会いに来てくれて、それにみんなにも優しく接してくれて、本当にありがとう」
街灯の淡い光に微かに照らされたアンドリューの顔を見つめて私は言った。
「カナには良い友だちがたくさんいるね。今日は来られて良かったよ」
アンドリューは私を見つめ返して言うと、優しく微笑んだ。
「スイスと日本の違いも勉強できたし、ね?」
私は舌をペロっと出して笑った。でも、アンドリューは急に真顔になり、
「カナ、遠距離恋愛は本当に可能だと思う?」
と真剣な眼差しで訊いてきた。私はその眼差しにこたえるように、
「可能だと思う」
と言った。そして、
「相手の事を本当に心から愛しているなら、会えないからといって、その気持ちが冷めてしまったりはしないと思う」
と続け、
「それに、もしも会えなくなって、それで簡単に気持ちが冷めてしまうなら、それは本気でその人を愛していないという事だと思うもの」
と正直に思っている事を言い添えた。
「そうだね。離れたから気持ちが冷める、というのは本当の愛ではないのかもね」
アンドリューは言い、
「でも、人間は弱い生き物だから、離ればなれで相手を想い続けるのは、本当に大変な事だと思うよ」
と、優しくつけたした。
「それじゃあ、アンドリューは、遠距離恋愛は不可能だと思うの?」
可能だと言ってほしい。祈るような思いで訊いた。
「カナは好きな人と離れていたら、相手が何をしているのか、何を考えていのるか分からなくて辛いとは思わない? 寂しくはならない? 僕はなってしまうよ」
アンドリューの言葉に胸が苦しくなる。
「だからこそ、お互いを信じて心が離れない努力をする必要があるんじゃないの?」
私は半ばすがるような思いで言った。
「それが人を愛するっていうことなんじゃないの?」
「そうなのかもしれないね……」
アンドリューはハンドルに体をもたれてどこか遠くを見つめていた。それから少し間をおくと、
「Long -distance love」
と小さな声でつぶやいた。
――でも、あまり長く会えないでいたら、気持ちも離れてしまうかもしれないけどね。
アンドリューが良枝に言った言葉が頭をよぎる。やはり私たちの関係は、私が帰国するまでの期限付きの関係なのだろうか。アンドリューにとって私という存在はその程度のものなのだろうか。私一人で思い上がっているだけなのだろうか。確かめたい。アンドリューの気持ちを確かめてみたい。私はアンドリューの横顔を見つめると、
「アンドリュー、私はあなたが好き」
と勇気を振り絞って言った。
「会った瞬間からあなたが忘れられなかったの。まだ出会って間もないけど、この気持ちに嘘はない。だから、あなたの事をこれからももっと知りたいと思っている」
温かいヒーターの風が頬をうつせいなのか、それとも緊張のせいなのか、私の口の中は干上がった大地のようにカラカラだった。
「カナ」
突然の告白にアンドリューは戸惑っているようにも見えた。
「日本に戻っても私のこの気持ちは変わらない。たとえアンドリューが私を忘れてしまっても、たとえもう会えなくなってしまっても、私はずっとあなたが好き」
私は高ぶった感情を抑えきれず、自分の思いをはき出してしまった。
「だって、こんなにあなたを愛しているんだもの」
大胆な告白をしてしまった私はアンドリューの顔が見られなかった。きっとアンドリューは困っている。アンドリューの気持ちを確かめてみたいだなんて思わなければ良かった。思いをはき出したあとに襲って来る言いようのない後悔と切なさ。私はアンドリューの顔を見るのが怖くて、ただうつむいていた。泣いてはダメ、泣いてはダメ。後悔で溢れ出そうになる涙を押し戻すように、私は何度も自分の心に言い聞かせていた。でも、その思いとは裏腹に、いつの間にか私の目からは大粒の涙が溢れ出し、握り締めていた手の上にポロポロとこぼれ落ちた。もう止められなかった。
「おいで、カナ」
さあ、泣かないで。アンドリューはそう言って、私を優しく腕の中に抱き寄せた。
「気持ちを聞かせてくれてありがとう。僕もカナが好きだ。初めて出会ったときから、他の人とは違う何かを感じたんだ。だから君を失いたくない」
「アンドリュー」
「この気持ちは本当だよ」
涙の止まらない私の瞳を真っ直ぐに見つめてアンドリューは続けた。
「でも正直、先のことはまだ何も分からない。ただカナとなら、不可能を可能にする事が出来るような気がするんだ」
私は感極まって、アンドリューの胸に顔を埋めて泣いた。
「二人の気持ちが同じだと分かったんだ。もう泣かないで、カナ」
アンドリューは穏やかに微笑み、私の涙を何度も拭ってくれた。
「だって嬉しいんだもの。でも、嬉しいのに、もうすぐ会えなくなると思うと……」
アンドリューは言いかけた私の口もとを手で優しくふさいだ。そして、
「僕たちはまだ始まったばかりじゃないか。それにカナはまだここにいる。焦らないでゆっくり行こう。お互いを信じて、いいね?」
と言って私をしっかり抱きしめたあと、優しく唇を重ねた。
それは十九歳の私にとって初めての口づけだった。
「カナ、愛しているよ」
耳元で熱い吐息と共にアンドリューはささやいた。
「私も愛している」
私たちはもう一度口づけを交わした。熱く、激しく、大胆に。
六 バーベキューパーティ
土曜日、久しぶりにサン・ディエゴらしい青空が朝から広がっていた。
今日はルイの二十三回目の誕生日。
「ツーリングの約束は果たしてもらわないとね」
チークダンスを踊りながらルイは私にそう言った。でも、ルイはそのあと何も言わずにいつの間にか消えてしまった。きっとまたいつものようにニコニコしながら来るんだろうな。私はいつものように黒い革のがっしりとしたジャケットを羽織ってやって来るルイを待った。
「カナ、明日、何か予定はある?」
互いの気持ちを確かめ合った昨夜、アンドリューはおもむろに言った。
「さっき、私が探していた友だちのこと覚えている?」
「カナに何も言わずに帰ってしまった友だちのこと?」
私たちはどこを見るでもなく、ただぼんやりと外を眺めていた。私を包み込むアンドリューの腕の温もりと、頬にあたるヒーターの風。私はゆっくり目を閉じると暖かさを噛みしめた。
「そう。ルイっていうんだけど、明日、彼の誕生日で、ツーリングに行きたいって言うの」
「彼? カナと二人で?」
アンドリューの微かな体の動きで私の方を見たことが分かる。
「うん。フランス人でとってもおもしろくて、いい人よ。変なところもあるけどね」
「変なとこ?」
私はルイの不思議な行動――別に用事もないのに毎日部屋を訪れては数十分で帰っていく――をアンドリューに話した。
「ね、変でしょ?」
アンドリューはにこやかにうなずいた。
「それに随分前にもあったの」
私は続けた。
「初めてあなたに電話をかけようとしたとき、ちょうど彼が私の前にやって来て、色んな話で盛り上がってね」
――やあカナ、ここで何をやっているの? 今日は一人?
あれがきっかけで私たちは仲良くなった。あのときの光景が蘇り口もとに笑みが浮かぶ。
「そのときもどこかへ行かないかって誘われたんだけど、私は電話をかけるから行かれないって断ったの」
アンドリューは静かに私の話を聞いてくれていた。
「そしたら彼は、それはダニーの家で私の隣に座っていたスイス人かって訊くから、そうよってこたえたの」
「それで?」
「だから私、あなたは彼の友だちだと思ったの。でも、ルイはそうじゃないって。ならどうして分かったのって訊いたけど、おしえてくれなくて」
私はアンドリューを見上げると、ルイのことを知っているか改めて訊いてみた。でも、彼のこたえは、面識はないというものだった。それならどうしてルイはあんなことを言ったのかしら。思い返してみてもやっぱり不思議でならない。
「そのルイがカナに何も言わずに先に帰ってしまったんだ」
「ええ。友だちに訊いたらあなたが来たすぐあとですって」
「何も言わずにか」
独り言のようにアンドリューは静かに言うと、一人、含み笑いをした。
「自分から誕生日に一緒にツーリングに行きたいって言っておいて、何にも決めないまま帰ってしまうんだもの。あなたにも紹介したかったのに」
私は少し口をとがらせて言った。でも、アンドリューは、今度また会えるさ、と、まるで子供にするように私の頭を撫でて笑った。
アンドリューの指の感触がまだ残る頭の後ろに両手を組んで机の時計に目をやると、既に一時を回っていた。それなのにルイは相変わらず姿を見せない。
「つまんないなあ。なんでルイは来ないんだあ、もう」
ベッドに寝転がり、天井を見て叫んでみた。せっかくの週末なのに。
アンドリューに電話をかけたくても彼は家にいない。じゃあ明日はルイのために一緒にツーリングをして楽しんでおいで。僕は友だちを見送りにロスの空港まで行ってくるから。アンドリューは別れ際にそう言っていた。帰りは遅くなると思うから電話は日曜の朝に、とも言っていた。青空が広がる退屈な土曜の午後。
「ボーっとしていても仕方ないっか」
私は久しぶりに母へ手紙を書くことにした。
親愛なるお母さん、
今日から二月ですが、元気にしていますか。
私は寮生活にも慣れ、毎日楽しい生活を送っています。
ALIは寮から歩いて五分ぐらいのところにあるから近くてとっても便利。お昼は大学のカフェテリアで食べたり、たまに外の芝生の上に座って食べたりしています(この前送ってくれたお菓子、無事に届きました。ありがとう。友だちと分けて食べています)。
他の大学は分からないけど、ここは色んな施設が揃っていて、見たらお母さんもきっとびっくりすると思うな。だって、百貨店みたいになんでも揃ってしまうブックストアや郵便局に床屋さん、それにディスコまであるのよ。本当に色々な事にカルチャーショックを受けています(いい意味でね)。
あと一カ月ちょっとでここでの生活も終わり、私は日本へ戻ります(本当はもっと長くいたいんだけど)。その間、お母さんも風邪をひいたりしないように、体には十分気をつけてね。お母さんは体が弱いのだから。
それから、ここに来られた事、本当に感謝しています。
お母さん、ありがとう。
愛をこめて、カナ。
追伸:お父さんにもよろしく伝えてね。
手紙を書き終えたころには太陽も随分西の方へと傾き、とてもツーリングに出かけられるような時間ではなかった。結局、ルイはその日、現れる事はなかった。そして、その日を境にルイはぷっつりと姿を見せなくなった。まるで糸が切れた凧のように。
翌日の日曜日も朝から気持ちよく晴れていた。知美たちと一緒にカフェテリアで朝食をとったあと、私はアンドリューに電話をかけた。
「おはよう、アンドリュー」
「おはよう、カナ。昨日のツーリングは楽しめたかい?」
踊るようなアンドリューの声。
「それが……」
口を濁して言うと、
「何かあったの?」
心配そうにアンドリューは訊いた。
「待てど暮らせどルイはちっとも姿を見せなかったの」
「えっ?」
「一日中部屋で待ちぼうけ。退屈でおかしくなりそうだったわ」
あ、そのお陰でお母さんに手紙は書けたけどね、と言うと、アンドリューは声を上げて笑い出した。
「何がそんなにおかしいの?」
アンドリューの笑っている理由が分からない。
「いや、心配して損したなと思って」
「何を心配していたの?」
アンドリューの言っている意味も、さっぱり分からない。
「何をって……」
アンドリューは少し間をおくと、
「カナの言っていた、フランス人でおもしろくていい人のルイに僕はやきもちをやいていたんだ」
と言って、また笑った。
「どうして? ルイはただの友だちよ。何も心配することはないのに」
不思議そうにこたえると、君はユニークな人だね、でも、そこがいいところでもあるんだよね、とアンドリューは言う。
「何がユニークなの?」
ますます訳が分からなくなった。
「相手の気持ちをねじ曲げて見ないところ、かな?」
くすっと笑うと、アンドリューはそう言って私をさらに困惑させた。
――カナって天然入っているでしょう。
ふと、敦子が前に言った言葉が頭の中を駆け巡った。
夕方、アンドリューのアパートでバーベキューパーティがあった。
アンドリューのアパートの共同施設にはプールやジャグジー、バーベキューが出来るグリル台のついたキッチンスペースがあり、アンドリューとルームメイトのゴードンは月に一回、友人たちを招いてバーベキューパーティを開いていた。
「今日、四時ごろ迎えに行くからね」
そのバーベキューパーティにアンドリューが招待してくれた。パーティという言葉にほんの少し身構えたが、初めて行く彼の家。嬉しさがこみ上がった。同時に心苦しさも湧き上がる。
「でも、行ってもいいのかな?」
「当たり前じゃないか。何でそんなこと言うの?」
すると、アンドリューは思い出したように、
「ひょっとして、ユキエたちのことを気にしているのかい?」
と訊いた。忘れかけていた記憶が呼び起こされる。でも理由は違った。車を持っていない私をアンドリューは送り迎えしなくてはならないし、そうなればお酒だって思い切り飲む事はできない。せっかくのパーティ、それも自宅で開くパーティだというのに、私がいることで心置きなく楽しめなくなる。甘えて良いのかためらいが生じたのだ。楽しめないパーティほどつまらないものはない。
「そういう事じゃなくて……」
「お酒を飲まなくても、いくらでもパーティは楽しめるんだよ、カナ」
アンドリューはまるで私の心を読だかのような台詞を吐き、
「それに、カナとドライブが出来る楽しみを僕から奪わないでほしいな」
と、弾むような明るい口調で続けた。彼の言葉に私の心配の種は遥か彼方まで吹き飛ばされ、代わりに愛情に満ちた頬笑みが口もとに現れた。
「分かった。パーティ、楽しみにしているね」
アメリカで学んだ良い習慣の一つに、「どこかへ出向いたり、誰かを招いたりする前に、シャワーを浴びて身なりを整える」というのがある。もちろん、全てのアメリカ人がそれを習慣にしているのかと言われれば定かではないが、私の周りにいた人たちは(時間が許す限り)、それを習慣にしている人たちだった。シャワーを浴びることで自分の体や気分をさっぱりさせるだけでなく、相手に対しても、かすかに漂う石けんの残り香で清潔感を与えることができ、とても理に適った習慣だと私は思った。私は昼食を済ませると、その理に適った習慣を実行した。
アンドリューはいつものようにお気に入りのコロン――ジョルジオ・ビバリーヒルズー―の清々しい香りを漂わせ、四時丁度に私を迎えに来た。少し大きめのジーパンと細い紺色のストライプの入った空色のシャツ(ボタンを三つほどはずしてある)、いつもの茶色い革のジャケット。私はその申し分のない姿に思わずアンドリューを抱きしめた。
「会いたかった」
「Wow! 嬉しい歓迎ぶりだね」
アンドリューの言葉に急に自分の行為が恥ずかしくなり、ごめんなさい、と、手を離した。
あのころの私は初だった。手を握られることも、肩を抱かれることも、口づけをされることも、まだまだ全然慣れていなかった。でも、それをごく自然に(まるで生活の一部のように)やってのけるアンドリューに私は少しずつ感化されていた。それでも根は日本人だ。アンドリューの驚いた一言で、私は自分がとてつもなくやましい行為をしてしまったかのように感じて、我に返った。
「なんで謝るの? 僕は嬉しかったのに」
アンドリューは、おいで、と言って私を抱きしめた。そして、
「うーん、カナの匂いがする」
と、私の髪に顔を埋めた。
アンドリューのアパートは彼の通っているグロスモント・カレッジ付近にある、フレッチャーパークウェイ通りを西に入った、閑静な住宅街に立っていた。日本でいうところの「テラスハウス」のその家は、一階には広いリビングとキッチン、ベッドルームが一つ、二階にはベッドルームが二つ(一つはゴードンの部屋、もう一つはゲストルーム)という、とてもしゃれた間取りになっていた。その一階にあるベッドルームがアンドリューの部屋だった。
「さあ、入って。ここが僕の部屋だよ」
ドアを開けるとアンドリューは私を部屋へ通した。主張して置かれている大きなベッド。アンドリューの優しい声が聞こえてくる電話。その横に置かれたデスクランプ。大きめの勉強机。シンプルに統一されたアンドリューの部屋。
「見せるほどのものでもないんだけどね」
アンドリューははにかんで言った。
「ううん、アンドリューらしさが見えてとても感じのいい部屋ね」
僕らしさ? 首をかしげて私を見る。
「うん。いつも落ち着いていて静かなアンドリュー」
私はこたえて微笑んだ。アンドリューは、ありがとう、この部屋に女性を入れたのはカナが初めてだよ、と、私を腕の中に引き寄せて優しく唇を重ねると、彼のすべてが感じられるほどの勢いで私をしっかり抱きしめた。
裏庭に出ると、アンドリューは集まっていた友人たちに私を紹介した。落ち着いた雰囲気を醸し出しているアンドリューの友人たち。彼らを前に(男性ばかりということもあってか)、私の緊張は予想をはるかに上回っていた。
「カナ、こっちにおいで」
何も出来ずにただ立ったままでいた私にアンドリューは手招きすると、
「はい、これ」
と、私にトングを渡し、グリル台に火をおこし始めた。
「カナは僕と一緒に焼きの担当だよ。だからそんなに緊張しないで、ね」
私の緊張をアンドリューはちゃんと見抜いていた。
「ごめんね。気を遣わせちゃって」
「そんな事ないよ。それより二人で出来て楽しいじゃない」
アンドリューはこたえると、嬉しそうにウインクをし、バーベキューには定番のステーキやバローニーソーセージを鉄板にのせた。
ありがとう、アンドリュー。私は心の中で彼の優しさに感謝した。
「でも、私、お料理するのは大好きだから任せてね」
アンドリューの心遣いに少しでもこたえようと、私は明るく言った。そして、トングをカチカチ鳴らして咳払いをすると、
「ミディアムになさいますか? それともウェルダン?」
と、おどけて見せた。私の姿にアンドリューは目を細め、
「それじゃあ料理長、私はオーダーを伺って参ります」
と調子を合わせて言い、周りにいた友人たちに、ミスター、何になさいますか、と、メモを取るふりをしながら一人ひとりに聞き始めた。
「それじゃあ、ウェルダンを一つもらおうかな?」
「僕はミディアムで。あ、それから君、付け合せの野菜も少し頼むよ」
みんなも面白がってこたえ、辺りは一気に笑いで包まれた。
しばらくすると、少し音調の高い、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
「ハイ、アンドリュー。来たわよ」
幸恵さんだった。今まで自然に笑えていた自分の顔が、一瞬強張ったのを感じた。
「やあ、ユキエ。よく来たね。一人かい?」
アンドリューは辺りを見渡し、
「アキラとナオキはどうしたの?」
と言って、肉の焼き加減をチェックした。
「もちろん二人ももうすぐ来るわよ」
「こんにちは、幸恵さん。お久しぶりです」
私は(あくまでも自然に)言うと、焼きあがった肉をアンドリューから受け取り、待っていた人に渡した。幸恵さんは私が来ていたことに驚いた様子で、なんで彼女がここにいるのかと、半分怒ったような口調で(わざと私に聞こえるように)アンドリューに詰め寄った。
「カナは僕のゲストだよ。君には関係ないんじゃないのかな」
一瞬彼女を睨みつけると――いつもの優しいアンドリューとは別人のように――とげのある言い方をした。幸恵さんは口をつぐんだ。
「やあ、アンドリュー、お招きありがとう」
そこへ明さんがやって来た。張り詰めた空気が解ける。アンドリューはいつもの笑顔を見せて彼を歓迎した。少し遅れてもう一人の男性が明さんの後ろからやって来ると、ビールのパックをアンドリューに差し出した。
「ありがとう、ナオキ。そこに置いてくれればいいよ」
言われた通り、彼はその飲み物をテーブルに置く。そして、私の方を向くと、
「こんにちは、直樹です」
と、にっこり笑って挨拶をした。
「ああ、ナオキはまだカナには会ってなかったね」
アンドリューは言って私の肩に腕を回すと、僕の彼女だよ、と、紹介した。それを聞いていた幸恵さんはいきなり背を向け、玄関へと歩き出した。直樹さんは突然の彼女の行動に首をかしげて、一体どうしたんだ、と、明さんを見る。明さんは、いや、実はね、と小声で説明を始め、好奇の視線を私に向けた。私はそれを無視するように、幸恵さんのあとを追った。
「幸恵さん、待ってください」
私の声に彼女は立ち止まり、振り向いた。
「今、来たばかりじゃないですか。せっかく来たんですから、もう少しここで楽しんでいってください」
目は口ほどに物を言うというのは本当だ。幸恵さんの瞳に憎悪の色が走った。
「あなたの家でもないのに楽しんでいってください? 恋人気取りもいい加減にしてよ!」
その言葉が私だけではなくアンドリューにも向けられた、彼女の悲痛な心の叫びのようにも聞こえ、それを言わせてしまった自分を悔いた。
「ごめんなさい。そんなつもりで言ったんじゃないんです」
「カナ、ごめん」
アンドリューが急いで駆けつけた。
「もう大丈夫だよ」
私の背中を軽く擦り、私の前に立つと、
「ユキエ」
と静かに呼び、
「どうして帰るんだい? 今来たばかりじゃないか」
と彼女をなだめるように優しく言った。
「あなたも同じことを言うのね」
「どういう意味だい?」
「私にここにいて楽しめって言いたいんでしょ。彼女が言ったように。だいたいその子はただのガールフレンドであなたの恋人でもないくせに、恋人きどりで出しゃばり過ぎなのよ!」
幸恵さんは声を荒げて私を睨みつけた。
「幸恵さん、本当にごめんなさい……」
私はもう一度謝った。
「やめるんだ、カナ!」
アンドリューは強い口調で言うと、小さく息をつき、
「ユキエ、ちゃんと話し合おう」
と幸恵さんを見て言った。でも、彼女はただじっとして何も言おうとしない。アンドリューは気持ちを落ち着かせるためか、今度は深く息を吐いた。
「ユキエ、君はどうしてカナにそう冷たくあたるんだい?」
問いただすというよりは、こたえを聞かせてほしいとすがるような響きだった。
「ユキエは友だちだから僕は君にカナを紹介したんだよ」
幸恵さんは唇を噛み締めたままアンドリューを見つめていた。
「だけど、君やアキラたちはカナを受け入れてくれなかったよね」
「だって、あなたには好きな人がいるって、そう言っていたじゃない」
幸恵さんが重い口を開いた。
「でも、それが彼女だとはあなたは一言も言わなかったわ」
微かに声が震えている。
「誰なのか教えてって頼んだのに」
「もし僕の好きな人がカナでなかったら、君はカナを友人として受け入れてくれたのかい?」
幸恵さんはそれにはこたえず、アンドリューから目をそらすように横を向いた。
「でも、僕の好きな人はカナなんだ。君と同じ日本人の」
アンドリューは私をそばに寄せると続けた。
「君に聞かれたとき、僕はまだ彼女の名前しか知らなかった。だから、好きな人がいるとしか言えなかった。でも、カナに出会ったときから、ずっと僕の心の中には彼女が住んでいたんだよ。ずっとね」
幸恵さんは小さく息をついた。
「その僕の好きな人」
ほんの一拍間ができる。
「カナとやっとまた再会でき、二人の思いも分かった。僕にとっては本当に嬉しい事だったんだ。だから一早くユキエたちにその事を伝えたかったし、カナを紹介したかったんだ。アメリカで出会った最初の友人の君たちに」
だから、と言ってアンドリューは私を見つめた。
「あの日、カナをカモンに連れて行った。そして、今日もこうして招待したんだ」
幸恵さんは口を真一文字に結んで下を向いた。
「それでもカナを、いや、僕たちを受け入れてもらえないのなら仕方ない。でも、僕の気持ちは分かってほしい。僕にとって……」
「でも、アンドリュー、幸恵さんはあなたのことが……」
私はアンドリューの言葉をさえぎり、幸恵さんを見つめた。彼女はゆっくり顔を上げるとアンドリューを見つめた。目には薄っすらと涙が光る。
「私が言ってしまってもいいんですか?」
私が代弁したところで幸恵さんの思いが報われるわけではない。余計みじめな気持ちにさせてしまうだけだ。それでも彼女ははっきりさせたかったのだろう。アンドリューから目をそらすと、無言のまま私を見つめた。私は小さくうなずき目を閉じた。
「アンドリュー、幸恵さんはあなたのことがすきなの。だから……」
「知っていたよ」
アンドリューは哀傷の表情を浮かべてポツリと言った。
――愛するという事はその裏で誰かを傷つける事でもある――
随分昔に誰かがどこかで言った言葉を思い出した。同時に幸恵さんの深い悲しみが伝わり、私の心は鉛のように重くなった。
「ありがとう、ユキエ。君の気持ちは嬉しいよ」
アンドリューは幸恵さんの腕を優しくつかむと言った。そして、穏やかな表情を見せると、
「でも、僕にとって君は大切な友だちなんだ、ユキエ」
と静かに言い、
「でも、僕にとってカナは大切な恋人なんだよ」
と諭すような響きで言い添えた。その瞬間、アンドリューの腕に力が入るのを、私の肩はしっかりと感じ取っていた。
七 偽りの友情
ルイは月曜日から学校を四日も休んでいた。先週の土曜から寮の部屋にも顔を出していない。周りに聞いてもルイの消息は分からず、私たち――知美と私――はだんだん心配になってきていた。誰か一人でもルイの連絡先を知っていれば話は別だが、どういうわけか誰一人として彼の連絡先を知らなかった。思えばいつも当たり前のようにルイは寮に来ていたので、連絡先を聞く必要さえ思いつかなかったのだ。彼のことで唯一分かっていたことは、アメリカへ来てからずっと老夫婦のところでホームステイをしているという事だけだった。
「そうだ。放課後、アドミのオフィスへ行ってルイの連絡先、教えてもらえるか聞いてみるわ」
私は思いついたように知美に言った。
「そうか。事情を話せば教えてくれるかもしれないものね」
「でしょ?」
自分の思いつきにかなりの期待感を覚えつつ、ルイが無事でいてくれることを祈った。
午後の授業が終わると、私はすぐにアドミの事務所へ向かった。胸の高さほどのカウンターで隔てられた事務室には誰の姿も見えず、私はしばらく待合室に設けられたソファーに腰をおろして待った。壁に掛けられたコルクボードにはかつての生徒たちの写真が貼られていて、ボードの下に置かれたラックには数冊のアルバムがたて掛けられていた。カウンターの上には恐らく生徒たちが置いていったであろう、可愛らしいぬいぐるみや各国の置物などが所せましと並んでいて、事務所は静かで暖かい空気に包まれていた。
「わぁ、ケイト、若い。それに今よりも痩せているじゃない」
ラックから抜き取った一冊のアルバムに、かなり若いころのケイトの姿をみつけた。生徒たちと肩を組んで写っている写真。大きく口を開けてピザを食べようとしている写真。インディアンのように頭に羽をつけて仮装している写真。どれも楽しそうに写っていて、私は一人、微笑みながらページをめくっていった。そして、何枚かページをめくったとき、白黒の写真(それも他の写真に埋もれて半分以上、隠れてしまっていた)の中に、愛おしいアンドリューの姿が映っているのに気がついた。写真の中のアンドリューは、まだどことなく周りに馴染んでいないような、作り笑いをしているような、そんな印象を受ける表情をしていた。その彼と目が合い――ただの写真なのに――ドキドキして、自分の顔が赤くなったような気がした。
「お待たせしたわね」
私は目が離せなくなり、ただじっと写真のアンドリューと見つめ合っていた。
「そこのあなた、用事ではなかったの?」
「あ、すみません。はい。聞きたいことがあるんです」
私は自分が呼ばれていたことにやっと気がついた。
「何ですか? 私に分かる事かしら?」
ニコニコしながら受付の女性は言った。
「あの、あそこにあるアルバムの中の写真はもらえないんですか?」
頭ではルイの連絡先の事を考えながら、口からは違う質問が飛び出した。言葉を発した途端、頭から送られた信号が口もとに伝わっていなかったことはすぐに分かったが、時すでに遅し。口もとに手を当てても、言葉はもう既に相手の耳に到達していた。
「何かいいものでも見つけたのね?」
全て見透かされているような口調に、私は一気に恥ずかしくなり下を向いた。
「はい。そうなんです」
私は小さくこたえた。ルイを心配しつつも、アンドリューへの思いが勝ってしまっていた。
「一枚ぐらいならいいわよ。あ、でも、みんなにはナイショね」
「ありがとうございます!」
天にも昇るような笑顔(だったと確信できる)で私は礼を言い、アンドリューの写真を抜き取ると、もう一度受付の前に立った。
「あら、まだ何か?」
「はい、実は……」
私はルイが何の連絡もせず、四日も学校に来ていない事を説明し、心配なので連絡先を教えてもらいたいと頼んだ。
「それは心配ね。でも、規則で個人の情報は教えられないのよ」
予想はしていたが他に頼るところがない。
「もし教えてもらえないのでしたら、事務の方が直接彼のステイ先に連絡を取って、彼が無事かどうか聞く事は出来ないですか?」
私の言葉に受付の女性は少し考えると、
「それなら出来るわね」
と、にっこり笑った。
「良かった。ありがとうございます」
ホッとしてこたえると、彼女は早速連絡先を調べ始めてくれた。
「あなた、お名前は?」
しばらくして、受付の人が戻ってきた。
「カナです」
「カナ、あなたのお友だちのルイだけど、ホームステイ先の方に聞いても、彼らも何も知らないと言うのよ」
まさかそんなこたえが返ってくるとは思ってもみなかった。
「土曜日の朝にバイクで出かけたきり戻っていないんですって」
ルイ……。
私はルイがどこかで事故でも起こして動けなくなっているのではないか、と悪い想像をしてしまい、不安でたまらなくなった。
「カナ、大丈夫? ごめんなさいね。お役に立てなくて」
「いいえ、お時間取らせてしまって、すみませんでした」
微笑んでみたが、明らかに顔は引きつっていた。
「でも、何かあればここへも連絡が入るでしょうし、それが無いという事はきっと大丈夫よ」
「そうですよね」
私はできるだけ明るくこたえ、事務所をあとにした。階段を下りながら大きなため息を吐いた。神様、どうかルイをお守りください、どうかルイが無事でいてくれますように。
空を見上げて祈った。
夕方、心の奥に燻ぶる不安を取り除けないまま寮へ戻ると、部屋のドアは開いたままで知美の姿はなかった。机に荷物を置き上着を脱いだ。
「カナ、お帰り。どう? ルイのこと聞けた?」
背後から知美の大きな声が聞こえた。振り向くと、廊下を隔てた向かいの部屋から知美が顔を覗かせていた。
「知美、何でそんなところにいるの?」
それが私の口から出た開口一番の言葉だった。
私たちの寮は男女共同の寮で、各階、廊下を境に一方が女子部屋、もう一方が男子部屋に分かれていた。十九歳の私には、男女がいつでも容易に行き来することが出来る、このなんとも言えない部屋の配置環境に、最初はとても驚き戸惑った。でも、人間は様々な環境に順応するように出来ているようで、廊下でキスをしているカップルを見ても、ドアを開けっ放しで騒ぎ合っている男女の姿を見ても、日常のごくありふれた出来事と思えるようになっていた。
だが、しとやかで物腰の柔らかい知美が男子部屋から顔を覗かせている姿に、私は正直驚きを隠せなかった。それはまるで彼女が、獲物を狙う狼の潜む山中に迷い込んでしまった一匹の小さな子羊のようにも見える光景だった。小さいころに読んだ絵本の童話に出てくるような悲劇的なシーンを頭の中で思い巡らせながら、私は知美が急いで部屋へ戻ってくるだろうと思って待っていた。でも、そんな私の予想とは裏腹に、知美はにこにこしながら手招きして、こっちへおいでよ、と言う。拍子抜けしてしまうほど幸せそうな表情の知美。彼女の表情に釣られるように、私はドアの戸口まで歩み寄ってみた。
「カナに紹介したいの」
そう言って、知美の視線が一人の男性に向いた。
「彼、マーク。SDSUの学生」
栗毛でカールのかかった短い髪に、笑うと出来るエクボがどこか愛らしい。私が勝手に思い描いていた山中の狼には、似ても似つかない優しさを感じる笑顔だった。
「ハイ、マーク。知美のルームメイトのカナです。よろしく」
「やあ、カナ。目の前に住んでいるのに初めて会うね。よろしく」
マークはベッドにくつろいだまま、軽く手を上げて挨拶をすると、
「ルームメイトはまだ帰って来ないし、君もここに来て座れば?」
と、気さくに私も招いてくれた。私のすぐ横に立っていた知美は彼の言葉に嬉しそうに反応して、私の腕をつかむと、そうしなよ、ルイのことも聞きたいし、と引きとめようとする。もちろん、それも素直な知美の反応だということは分かったが、彼女のマークを見つめる目を見て、私は知美の片思いの相手が彼だと悟った。本音は二人でいたいはずに違いない。私は宿題があるからと言ってあえて断った。
「また今度ね、マーク」
一瞬、不服そうにも見える知美を尻目に、マークに手を振ると、私は部屋へと戻った。
でも、部屋へ戻って机に向かってみても出るのはため息ばかりで、問題集や教科書を開いてみてもてんでやる気が起きない。事務所でのやり取りが頭から放れなず、ルイが心配で勉強どころではなかった。
「ただいまあ」
しばらくして知美が戻ってきた。
「お帰り。楽しかった?」
私はやっとやり始めた宿題の手をとめて頭をもたげた。
「うん、とっても」
知美は嬉しそうな笑顔で言う。さっきの不服そうな彼女の表情を思い出し、私は心の中でフフッと微笑した。
「初めてあんなに長く話しちゃった」
知美はベッドに座ると、天井をあおいだ。嬉しい事や楽しい事があったとき、人はしばらくその余韻に浸っていたいものだ。私がアンドリューと楽しいひとときを過したときも、彼の表情や仕草の全て、彼の言った一言一句を心に刻んでおきたくて、一人、その余韻に浸っていた。知美もきっとそうしているのだろう。私は何も言わず、黙って宿題に目を落とした。
「この前、私が片思いしているって言ったの、覚えている?」
少し経って知美が不意に口を開いた。
「もちろん、覚えているよ。突然の告白だったもんね」
私は知美の目を見てこたえた。
「マークがその片思いの相手なんだ」
そうなんだ。私はうなずき、
「いつぐらいから好きだったの?」
と訊くと、知美ははにかみながら、廊下やエレベーターでよく一緒になり、目が合うと必ずマークから挨拶をしてくれたの、と楽しそうに話してくれた。
「なんか感じのいい人だなあって思っていたんだけど、いつだったか、大学の図書館へ行こうとして、途中で道が分からなくて困っていたときがあってね」
足をぶらぶらと動かしながら、くすっと思い出し笑いをしては目を閉じる知美。
「そのときたまたまマークが通りかかって、一緒に図書館まで連れて行ってくれたの。あのときからかなあ。意識するようになっちゃって」
そう言って私を見つめると、頬を赤らめて微笑んだ。
「それで今日、ドアが開いていたから思い切って自分から挨拶したの。そうしたら部屋に入れてくれたんだ」
本当に嬉しそうに知美は打ち明ける。
「そういうのって、ものすごく嬉しいよね」
好きな人の部屋へ行けるというのは、互いの中にあった壁を一つ越え、距離が少し近くなったような気持ちになり、とても嬉しくなる。私も初めてアンドリューの部屋へ行ったときのことを思い出し、そのときの感情が蘇えった。
「うん、ホントに嬉しかった。でも、マークはそんなこと、何とも思ってないんだろうけど」
「そんなの分からないよ。それに、これからもっと二人の距離が縮まるかもしれないじゃない」
三月に帰国する私たちには期限つきのような恋愛。たとえ二人の距離が縮まっても、先のことを考えると残酷にも思える。それでも私の言葉に知美はひとすじの希望の光を見たような響きで、ホントにそう思う、と言って目を輝かせた。
「だって本気なんでしょ?」
「うん。本気」
私の問いかけに、知美は深々とうなずいてこたえた。
「カナは? アンドリューのこと本気?」
二人とも帰国の話題には触れようとしない。
「うん。どうしようもなく好きで、苦しくて、おかしくなってしまうぐらい本気」
私はわざと大袈裟にこたえて知美を笑わせた。少しして二人の間に沈黙ができると、知美は深呼吸ともため息ともとれる息を吐き、
「好きになればなるほど、苦しみも辛さも増えるのにね。なのに何で人って誰かを好きになっちゃうんだろう」
としんみりとつぶやいた。
「でもさ」
私は言って、うろ覚えの言葉を口にした。
「It’s better to love than never to love at all」
「誰かを愛する方が誰も愛さないでいるよりはるかに勝る」
知美はそれを日本語で復唱する。そして、
「本当にその通りだね」
とつくづくと言った。
金曜日、いつものように寮を出て、いつものようにモンテズマ通りの信号を渡り、いつものようにALIへ向かって私は歩いていた。校舎のある路を右に曲がると、何人もの人が一箇所に集まり、楽しそうに笑っている光景が目に入った。その中に見馴れた黒い革のがっしりとしたジャケットを羽織り、壁にもたれて笑っているルイの姿があった。
「ルイ!」
ルイの無事な姿を見るやいなや嬉しくなり、私は走り出して彼の名を叫んでいた。声に気づいたルイは私の方に目をやると、手を振って笑った。
「ハイ、カナ! 元気だった?」
あまりにも単純であまりにも陽気なルイ。ルイの悪びれない軽すぎる態度に心配していた私はだんだんと腹が立ってきた。
「元気だったじゃないでしょ! 心配していたのに! 土曜日は待っていても来なかったし、学校もずっと休みだし、事務所の人に頼んでステイ先に連絡をとってもらっても、誰もあなたの行き先は分からないって言うし、何かあったんじゃないかと思って、私、本当に心配していたのよ! それなのに元気だったはないでしょう!」
水風船が突然破れて一気に水が噴き出したように、私は思っていたことを一度に全部吐き出した。私の声は怒りに震え、同時にルイの無事な姿に安堵して、瞳は涙で潤んだ。
「ごめん、カナ。まさかそんなに心配させているとは思わなかったよ」
もたれていた体を壁から離し、きちんと立つとルイは真顔で言った。
「本当にごめん」
彼のその姿を見て、私の怒りはすでにどこかへ消失してしまっていたのに、責める言葉しかみつからない。
「だって、ルイの誕生日に一緒にツーリングに行こうって言っていたじゃない。それなのにちっとも顔を見せないで、誕生日おめでとうも言えなくて……。一体どうしていたの?」
ルイは苦笑しながら左手でさっと髪をかき上げると、実は、英会話を教えてもらっているアメリカ人の女性とツーリングに行って来たんだ、とこたえた。その言葉にただのツーリングだけではなかったことがくみ取れた。おどけたりふざけたりしているときとは違い、目の前のルイが急に大人びて見え、妙な距離を感じた。以前にも増して英語が上達していた理由もようやく分かった。愛があれば言葉の壁など問題ではないと言うけれど、愛があるからこそ言葉も自然と覚えられるものなんだ。私の顔にゆっくりと笑みがひろがった。
「そっか。彼女が出来たのね。よかったじゃない」
私は心からルイを祝した。それじゃあ今が一番楽しいときよね。連絡ないのも仕方ないか。ルイの顔をのぞきこんでにっこり笑った。すると、ルイは、本当はカナとツーリングに行きたかったんだ、と憮然として言い、眉間に小さなしわを寄せると目をそらした。
「だけど、自分なりに色々と整理をしないといけないことがあってね……」
しばらく沈黙が続いたあと、ルイはもう一度、ごめん、と、すまなそうに謝った。下を向いたままのルイ。先ほどまで息巻いていた自分の態度を私はたちまち後悔した。
「いいのよ。私こそ言い過ぎちゃって……。ごめんなさい」
私の言葉に、いや、カナは悪くないよ、と、ルイは頭をもたげた。再び同じ沈黙が続く。
「それでルイの整理はすんだの?」
「したつもりだったけど、やっぱりちょっと難しそうだな」
どこか寂しげにも見える表情を浮かべたルイは壁にもたれてこたえた。いつまでも笑顔を見せないルイ。空気が重く感じた。
「でも、ルイが無事でほんとうに、ほんとうーに良かった」
ルイの両手をいきなり握り締めて上下に何度も揺すりながら、私は明るい口調で言った。暗く重たい空気を追いやりたかった。私のその行動に、ルイの顔にもようやく笑みがこぼれ落ちた。メルシー、カナ。私たちはしばし笑顔で見つめ合った。それから私はいつでも渡せるように持っていたプレゼント――合金でできたバイク型のキーチェーン――を鞄から出すとルイに渡した。一瞬、これ何? と、驚いたが、あなたの誕生日プレゼントよ、と告げると、すぐに目を輝かせ、今、開けてもいい? と言って、顔中いっぱいに笑みをつくると、いつもの無邪気なルイが現れた。
「Wow! すごく気に入ったよ!」
まじまじとそのキーチェーンを眺めたあと、ルイはジャケットのポケットから鍵を取り出し、すぐにそれをつけた。メルシー、カナ。ルイは嬉しそうにそう言って私を抱きしめると左右の頬に何度もキスをした。私は自分の心配や不安が取り越し苦労で終わり、いつもの元気なルイが目の前に戻って来てくれたことに感謝しながら、ルイの「フレンチ式あいさつ」を素直に受けていた。
ルイが無事で本当に良かった。
昼休み、私と同じクラスの智也が校舎の前でルイとふざけ合っていた。
智也は一九八五年二月、私より一年ほど早くアメリカの地に降り立ち、サン・ディエゴのダウンタウンにある、ELSという英語学校へ通い、そのあとALIへ転入した。身振り手振りや対応の仕方も普通の日本人よりもくだけていて、ここでの一年間という生活の成果が見て取れる。冗談を言って人を笑わすのが上手で外人慣れしている智也は、私が英語で話しかけても(知美同様)嫌な顔一つせず、とても話しやすい友人の一人だ。
「カナ! ちょっと来いよ」
昼食を大学のカフェテリアで済ませて戻って来た私を見ると、智也が呼び止めた。
「やあ、カナ。朝はありがとう」
智也の横にいたルイはそう言うと、鍵のついたキーチェーンをチャラチャラと振って見せる。
「なんかとっても楽しそうに見えたけど、何かあったの?」
ニコニコしている二人の輪に私も加わった。
「実はさ、今夜俺のとこでパーティやるんだけど、お前も来ない?」
「パーティ?」
「ああ。今回はELSがらみのパーティだけど、せっかくだからさ、ルイの生還もかねて、ルイとお前とあと何人かALIからも呼んでさ」
智也の「生還」という言葉に私はおかしくなり笑った。
「何笑ってんだよ」
智也は私の肩を軽く突いた。
「だって生還だなんて。なんか戦場とか危険なところから帰って来たみたいでおかしいよ」
私は言ってまた笑い出す。
「そうだよ。生きているか死んでいるか分からなくて心配していたんだから、俺らにとっては、ルイは生還したってことだよ」
智也はこたえて、
「な、ルイ。ホント無事でよかったな」
と、ルイの肩をドンと叩いてげらげらと笑った。
「もう、言わないでくれよ。みんなに心配かけて本当に悪いと思っているんだからさ」
ルイは言うと、首をすくめて苦笑した。
寮へ戻ると私はすぐさまアンドリューに連絡を入れ、ルイが無事に戻った事を伝えた。
「そうか。ツーリングに出かけていたんだ。でも、何もなくてホントに良かったね」
「ええ、本当に。ホストファミリーの人たちも消息を知らないと事務の人に言われたときは、悪い想像しちゃってものすごく心配だったもの」
私の顔にゆっくりと笑みがこぼれる。
「で、何も言わずに出かけてしまった理由は訊いたのかい?」
ええ。私は電話口で軽くうなずき、ルイなりに整理をしなければいけない事があったからだったとこたえた。短い沈黙のあと、アンドリューは、そうか。悩んだ末の結論か、と静かにつぶやいた。
「どういうこと?」
「ルイも分別のある男だって事だよ」
まあ女でないことは確かね。私の真面目な相づちに、アンドリューはふき出して笑いだした。
「何がおかしいの? ホントのことじゃない」
「ああ、カナの言う通り。ルイは全く男だ」
小馬鹿にしたようなアンドリューの言い方。私は口をとがらせて、理解出来ないからってばかにして、と怒った。
「その怒った声のトーンもなかなか素敵だよ、カナ。うん。すごくいいよ」
でも、私が本気で怒っていない事はアンドリューには最初からお見通しだった。
「もう、いいわよ。どうせ私には理解できないんだから」
受話器の向こうから響くアンドリューの笑い声。私もつられて笑いだした。
「そうそう、今夜パーティがあるの」
たっぷり十秒は笑い合ったあと、私はアンドリューを智也のパーティに誘った。でも、来週から始まるテストに備えて勉強をしなければいけないとアンドリューは残念そうに断った。
「そう。じゃあ週末も会えないね」
パーティに行かれないという事より、しばらく会えないという事に寂しさを覚えた。
「それは大丈夫。ちゃんと会えるさ」
私の落ち込みを吹き飛ばすようなアンドリューの明るい声。
「本当に?」
「ああ、本当だよ。その代わり、今夜は勉強に集中するよ」
それに、とアンドリューは続け、
「今日はルイの生還祝いも兼ねているんだろ?」
と確かめるように訊いた。
「ええ。生還祝いなんてちょっと大げさなんだけど」
笑ってこたえると、それならなおさら僕が行かない方がルイも喜ぶよ、とアンドリューが言った。
「あら、どうして? ルイもきっと歓迎してくれるはずよ」
受話器の向こうからアンドリューの小さな笑い声がこぼれる。
「そうかもしれないね。でも、とにかく今日は遠慮しておくよ」
「あ、そうよね。勉強しないと週末会えなくなっちゃうものね」
ああその通りさ。アンドリューは弾むようにこたえた。そして、
「ルイに会ったら、ありがとうって伝えてくれるかな?」
と、つけたした。
「ありがとう?」
私の反応にアンドリューはくすくす笑い、そう伝えてくれれば彼にはきっと分るよ、と言うと、カナは全く素敵だよ、と、更に私を理解不能にする一言を発した。
パーティは七時から始まることになっていた。私は智也の友人、昇の車に便乗してダウンタウンのはずれに建つ智也のマンションへ向かった。今でこそダウンタウンといったら「セレブな町」という代名詞がつくほど素晴らしい町へと変貌しているが、当時の治安はあまり良くなく、特に夜になると昼間の色とはガラッと一変し、不気味ささえも感じる暗いイメージの町だった。そんな町の外れに建つ十二階建ての五階に智也の借りている部屋はあった。部屋へ入ると、ルイはもうすでに到着していて、ダニーやスーザンたちの顔も見えた。私はALIメンバーに手を振り、ホストである智也を探した。だが、リビングにも開けっ放しになっているベッドルームにも智也の姿は見えない。私は最後にキッチンを覗いた。
「あら、カナさんじゃない」
一瞬、息を呑んだ。
「幸恵さん。こんばんは」
私の発した言葉がどこかぎこちなく聞こえる。
「あれ、お前たち、知り合いなの?」
智也はびっくりして言った。
「ええ、そうなの。前にカモンで集まったとき、友だちが彼女を連れてきて、それからの知り合いなのよ、ね?」
幸恵さんはこたえると、ニッコリ微笑んだ。あまりにも違う応対に私は困惑した。
「へえ、ELSの幸恵がALIのカナの知り合いなんて、世の中狭いねぇ」
「あら、私だってELSのあと、智也と同じでALIにも少しいたのよ」
幸恵さんは言ってグラスに飲み物を注ぐと、
「一年前にね」
と、私を見た。
「カナさん、この前はごめんなさいね。私、あなたにかなりきつい事を言ってしまって」
智也がいなくなったキッチンで、不意に幸恵さんがすまなそうに私に言った。
「本当に反省しているのよ。私のこと、許してくれる?」
想像もしていなかった幸恵さんからの謝罪の言葉。私はまるで狐につままれたような気持ちになった。
「いえ、私の方こそ幸恵さんに不愉快な思いをさせるような事を言ってしまって、本当にすみませんでした」
「そんな、気にしないで。ね、これからは仲良くしましょう」
幸恵さんは言い、私に軽くハグをした。予想外の展開に私はただその場に立ち尽くしているだけだった。
「あら? そういえば今日はアンドリューと一緒じゃないのね」
辺りを見渡すと、幸恵さんは言った。
「あ、はい。来週テストがあるので今日は家で勉強です」
「そう。家にいるんだ。来ていれば彼にも謝りたかったのに」
じゃあ、先に行くわね。幸恵さんは微笑み、リビングへ戻って行った。彼女の姿を目で追いながら、私は正直半信半疑だった。同時にこれからは仲良くなれるかもしれないという期待で胸が軽くなった。
「カナ! こっちよ」
リビングへ戻ると、スーザンが手を振っていた。近づくと、カナのために特等席をとっておいたよ、と、ルイは体を横にずらし、一人分の隙間を空けた。
「ええーっ、ルイの隣が特等席?」
冗談めいて言った私に、
「何か問題でも? マドモアゼル?」
とルイはにやけて言い返し、髪をかき上げてポーズをとった。今日のルイはいつも以上にノリがいい。きっと新しく出来た彼女のせいだ。愛は人を幸せにさせる。
「いえ、いえ、メルシー、ムッシュー」
ルイのおかしなポーズに笑いを堪えて言い、私は腰を下ろした。
「あっ、そういえば、アンドリューがあなたにありがとうって」
グラスをテーブルに置くと、私はアンドリューの言葉をルイに伝えた。
「アンドリュー?」
「ええ。スイス人の……」
私の言葉をさえぎるように、
「ああ、カナの彼氏でしょ」
と、ルイはあっさりその先を言い当てた。そうだけど、どうして彼氏って知っているのかしら。まだ紹介すらしていないのに。沈黙のままルイを見た。
「で、その彼がどうして僕にお礼を?」
素っ気なくとも聞こえるルイの言葉。私は事の経緯――ルイと連絡が取れず心配でそのことをアンドリューに話し、彼もずっと心配してくれていた――を淡々と話した。
「それで?」
「それで、あなたには色々と整理をすることがあったから、私に連絡することが出来なかったという事も話したわ。そうしたら、あなたにありがとうって伝えてほしいって」
私が言い終わると、ルイはソファーに深くもたれて目をとじた。
「ありがとう……か」
「そう言えばあなたにはきっと分かるってアンドリューは言ったんだけど」
ルイはゆっくりと目を開き、天井を見つめたまま、
「カナの彼氏はいい人だね」
と、微かに苦笑した。
「ルイ?」
私はルイをのぞきこんだ。ルイはゆっくり私を見つめ返すと急に真顔になった。そして、私の肩に腕を回して引き寄せると、でも、と言って、
「その整理したものが目の前にあると、崩れてしまいそうだよ」
と耳元で小さくつぶやいた。その瞬間、最後のヒントを得てようやく言葉が埋められたクロスワードパズルのように、私の頭の中には「ルイはカナが好き」、ととんでもない言葉が組み合わさった。
まさか。そんなことないよ。そんなことあるはずがない。だってルイは友だちだし、それに彼女だっているじゃない。思い違いよ、絶対。自分の自惚れた思いを頭からたたき出すように、私は何度も心の中で繰り返し言い続けた。
その光景を見ていた人がいた。
視線を感じて目を向けると、幸恵さんの冷たい目が鋭く光っていた。
八 フィアンセ
日本では大学に入るまでの入試勉強に誰もが身を削る思いで取り組み、入学と同時に辛かった勉強からは開放され、大学時代の数年間はサークルに入ったり、バイトに精を出したりと、思い思いに楽しむ。
一方、アメリカはその逆で、大学は誰もが容易に入ることの出来る「広き門」。その代わり、入ってからが大変なのだ。試験の成績はもちろんの事、授業を二、三回休んだだけで、来学期また来なさい、と、クラスを辞めさせられ単位が取れなくなる。学業を真剣に取り組んでいない学生は、何年経っても卒業出来ない厳しい大学生活なのだ。それにも関わらず、毎週末、アンドリューは時間をやり繰りして、私との過す時間を大切にしてくれていた。そうして週末にはアンドリューに会えるということが、私の頭のシステムに組み込まれ始めた矢先、智也のパーティで大学に通っているという彼の友人から、試験前の勉強がどれだけ大変かという話を聞かされた。英語がネイティブでない外国人にとっては語学の壁もあり、なおのこと努力が必要だとも言っていた。私はその話を聞き、アンドリューがどれほど無理をして、毎回時間をつくろうとしていたのかが推察でき、胸が痛くなった。今度は私がアンドリューのために心を遣う番だと思った。
土曜日、いつもより早く目が覚めた私は、いつもより早くアンドリューに電話をかけた。
「おはよう、アンドリュー」
「おはよう。昨日のパーティは楽しめたかい?」
どことなく張りのない声。勉強の疲れが出ているようにも聞こえる。
「うん。とっても」
私はわざと元気よくこたえた。
「だって、パーティに来ていた幸恵さんと仲良くなれたんだもの」
一層弾んだ声で言った。
「ユキエも来ていたの?」
アンドリューの声が一気に不安気なトーンに変わる。
「ええ。でも、幸恵さん、とっても優しくしてくれて、それに私に謝ってくれたのよ」
「あのユキエが?」
今度は驚きのトーンに変わった。
「うん。あなたが来てればあなたにも謝りたかったって」
「それを聞いて安心したよ」
受話器の向こうでホッとしたのが分かるぐらい、アンドリューの声が穏やかになった。
「ねぇ、アンドリュー」
少し間を置き、私は切り出した。
「お願いがあるの」
「何だい?」
足を組みなおして座るアンドリューの姿が目に浮かぶ。
「この週末は会うのをやめましょう」
「えっ?」
意図することが分からず、困惑気味にアンドリューが言った。
「どうして?」
「あなたには試験勉強に打ち込んでもらいたいから」
私は明るくこたえた。
「カナ、でも、それじゃあ、しばらく会えなくなってしまうよ」
「ええ、分かっている。でも、試験勉強はちゃんとしなくちゃ。アンドリューは大学生なんだもの」
私は言って、手に持っていたアンドリューの写真を見つめた。そして、
「私にはもう一人のあなたがここにいるから大丈夫よ」
と、写真の彼にそっと触れた。
「もう一人の僕?」
「そう。一年前のちょっと作り笑いをしているアンドリュー」
私はALIの事務室でその写真をみつけ、もらった事を話した。
「私、この人にも恋しちゃったみたいなの」
私はくすっと笑った。
「だから少しぐらい会えなくても大丈夫。我慢出来るもの」
「ありがとう、カナ。君は最高だよ」
アンドリューの嬉そうな声に、自分の提案が間違っていなかったと安堵した。
「それじゃあアンドリュー、試験勉強しっかり頑張って、良い結果を出してね」
「ああ、頑張るよ。試験が終わる金曜日には必ず会おう、カナ」
「ええ、楽しみにしているわ」
受話器を置いた瞬間、にぶい痛みが胸を突いた。これで良かったんだ。会えないのは寂しいけど、アンドリューのためにはこれで良かったんだ。胸に走る痛みを抑えこむように、私は心の中で何度も自分に言い聞かせた。
二月十四日。誰もが知っているセント・バレンタインデー。
アメリカでは男女を問わず、日ごろの感謝や友情、愛情などを相手に伝えるために心を込めて贈り物をする。贈る物は人それぞれだが、日本のように「義理チョコ」などは間違ってもない。この日は一日中、愛に溢れている日だ。そして、この良き日、五日間続いたアンドリューのテストもようやく終わる。夜はどこかで食事をしよう。アンドリューの言葉を胸に、私は約束の時間が待ちどうしくてたまらなかった。
「わっ、すごい! まさに愛を表現しているって感じだあ」
寮のカフェテリアのドアを開けると、敦子はびっくりして言った。カフェテリアの中はどのテーブルにも赤いクロスがかけられ、中央には小さなブーケが飾られ、壁にはハート型に切り抜かれた色とりどりの紙が、あちらこちらに可愛らしく貼られていた。
「わっ、今朝のお料理は色もカラフルじゃない! あっ、デザートまでバレンタインだ。ハート型のチョコレートケーキがあるよ。わあ美味しそう。食べよう、食べよう」
敦子は興奮気味で言い、私も知美も彼女につられ、チョコレートでたっぷりとコーティングされたケーキをトレーにのせた。
「ところで知美は今日、マークに何か渡すの?」
いつもより少し豪華な朝食をテーブルに置くと、私は訊いた。
「うん。カードとこの前買ったTシャツ」
この前の日曜日、私たちは智也に頼み、彼の車でダウンタウンのホルトン・プラザへ連れて行ってもらった。
「あれは、マークへのプレゼントだったんだ」
「うん。彼に似合いそうだったから」
あのとき、知美は真っ先にマークへの贈り物を買っていた。
「カナは?」
「私は……、アンドリューが使っているコロン」
私はアンドリューの使っているコロンの香りが大好きだった。
「代わり映えしないとは思ったけど、他にこれといったものが思いつかなくて」
「いいじゃない。自分のお気に入りをプレゼントでもらったら嬉しいと思うよ」
「ホント? ホントにそう思う?」
すでに持っているものを贈られて喜んでくれるか心配だったが、知美の言葉に少し気持ちが楽になった。
「愛がある人たちはいいわねえ。私にはプレゼントをあげる人すらいないもの」
敦子はトンと両ひじをテーブルにつき、ハート型のチョコレートケーキを頬張った。
「あら、分からないわよ。敦子のシークレット・アドマイヤーがプレゼントくれるかもしれないじゃない」
私が身を乗り出して言うと、敦子は口に入れたケーキをプッとふき出し、
「ない。ない。ない。そんなこと、間違ってもないわ」
と慌てたように手を振ってこたえた。そのあまりにも大袈裟な反応に私と知美は目を見合わすと、二人してゲラゲラと笑いだした。
ALIにもバレンタインデーの勢力は押し寄せていた。休み時間や授業前にプレゼントを渡したり、告白したりしている人たちもいて、いつになく忙しない光景が目に映る。
放課後、外に出ると、ロベルトが私に、彼氏がいるのは分かっているけど、僕、カナが好きだよ、と、照れながら可愛いピエロの置物と自作の詩(スペイン語で書かれてあったので全く理解は出来なかったが、愛と自然をテーマに書いたと言っていた)をくれた。予期せぬ告白で驚いたが、私は快く受け取り、お礼のしるしにと、キャンディーの詰め合わせ(昼休みにブックストアへ立ち寄ったときに自分用に買っておいた)をプレゼントした。そこへルイがにこにこしながら近づいてきた。ロベルトからもらっちゃった。私は手の中の置物をルイに見せた。へえ、可愛い置物だね。ルイはそう言って、ジャケットから鍵を取り出すと、今日は持ってきていないけど、今度渡すからね、カナ、と、軽く頬にキスをして、早々とバイクで帰って行った。
――ルイはカナが好き――
あの組み合わさった言葉が思い過ごしであったと言えるぐらい、ルイの態度はあれ以来普通で、私は内心ホッとしていた。
あれはやっぱり私の大きな勘違いだったんだ。良かった。
思い出してくすっと笑った。
寮へ戻ると、花束を持った何人かの男子学生がロビーのソファーに座っていた。エレベーターが開くたびに彼らの視線はそちらへと向けられる。きっと告白するために意中の人が降りてくるのを待っているのだろう。うまくいくといいですね。心の中で彼らにエールを送りながら、私はエレベーターに乗り込んだ。
ドアを開けると先に帰ったはずの知美の姿はなかった。きっと今ごろ、知美はマークに告白しているのかもしれないな。知美、ガンバレ。ドアを閉める前にマークの部屋に目をやり、私は小さくガッツポーズをした。時計を見ると、アンドリューとの約束の時間までまだたっぷりと二時間以上もある。
「シャワーを浴びて用意しちゃおうっと」
荷物を置くと私はシャワーを浴びた。シャワーを終えたころには、暖房を入れた部屋も暖まり、私は大きめのバスタオルを巻いたまま椅子に座ると、髪を乾かし始めた。そのとき、ドアをノックする音がした。
「こんな時間に誰かしら?」
私はドライヤーを切るとドアに向かい、
「誰?」
と言ってドアを半分開いた。
「アンドリュー!」
そこにアンドリューが立っていた。でも、アンドリューの顔にはいつもの柔らかい笑顔がない。約束の時間にはあまりにも早すぎるアンドリューの迎えに、私の心に不安がよぎった。
「入ってもいいかな?」
アンドリューは言い、部屋に入るとドアを閉めた。
「あっ、ごめんなさい、こんな格好で。着替えてくるからちょっと待ってね」
私は慌ててクローゼットから服を取り出し浴室へ行こうとした。
「カナ……」
するとアンドリューはいきなり私を後ろから抱きしめ、
「ごめん」
と言ってその場にじっと立ちつくした。
「どうしたの? 何かあったの?」
私はアンドリューの息づかいを首筋に感じながらそれ以上は何も言わず、ただじっと彼の言葉を待った。
「カナと楽しい週末を過そうと思っていたんだ」
ようやく口を開くと、アンドリューはポツリと言った。
「それなのに、これからロスまで行かなくちゃいけないんだ」
「ロスへ?」
私はアンドリューの方へ体を向きなおし、彼を見つめた。十一日ぶりに会うアンドリュー。その瞬間、ロスの事などどうでもいい事のように思えた。目の前に立っているアンドリューの事だけで胸がいっぱいになった。
「会えなくて、とっても寂しかった……」
瞳に映る愛おしいアンドリューの姿に私の心は苦しくなるほど嬉しくて、ただ一心に抱きしめた。
「僕もだよ」
私たちはそれ以上何も言わず、しばらく抱き合ったままでいた。手に持っていたはずの洋服は床に散らばっていた。
「アンドリュー、どうしてロスに行かなくてはいけないの?」
高ぶった気持ちが少し落ち着いたころ、私は訊いた。アンドリューはゆっくりと私から体を離すと、
「スイスから母が来るんだ」
と言った。
「スイスから?」
私たちはベッドに腰を下ろした。
「正確には会議を終えたニューヨークからだけどね」
「ニューヨークで会議?」
一体何をされている人なのだろう。想像も出来ない。
「僕の母はスイスで会社を経営しているから、アメリカへは業務提携や視察を兼ねてたまに出張に来るんだ」
アンドリューは言い、
「その会議が終わり、次はロスで視察があるから一緒に来てほしい、とさっき連絡があったんだ」
と続けた。
「どのくらいロスにいるの?」
二、三日ぐらいだよ。そういうこたえを予想して私は訊いた。
「視察はオフィスが開く月曜からだから、週末の観光も含めて早くても一週間、長ければ十日以上は向こうにいることになると思うんだ」
「そんなに長いの」
あまりの長さに耳を疑った。
「でも、学校は?」
「事情を話して休ませてもらうよ」
せっかくこの日を待ちわびていたのに。私の胸は悲しさで締め付けられた。
「そう……」
吐息に混ざって殆ど聞こえないほどの私の声。
「それじゃあ、早く行ってあげないと、お母さんきっと待っているわね」
アンドリューの目を見たら泣き出してしまいそうで、窓の外に目をやった。
「カナ、ごめん。本当にごめんよ」
アンドリューは私を横から抱きしめると、首筋に顔を押し当てて謝った。私は黙ったまま彼の温もりを感じていた。微かに漂うシャンプーの香り。濡れた髪に優しく触れるアンドリューの温かい手。アンドリューは小さく、カナ、と私の名を何度もつぶやき、首筋に何度も唇をあてた。
「ああっ」
突然電気のようなしびれが体中に走った。私の正常な感覚や思考が失われそうになり、タオル一枚で覆われた体は急に熱くなった。
――カナはボーイフレンドとは寝たくないの? カナにもそのうち分かるよ。
ルイの言葉が頭に蘇る。アンドリューは私をベッドに優しく押し倒すと、目に、頬に、唇に、そっと口づけをした。
「アンドリュー、もうすぐ知美が戻ってくるわ。洋服を着なくちゃ」
私の言葉に説得力はなかった。このまま成り行きに任せたい気持ちと、その誘惑を押しやりたい気持ちの狭間で私の息は一層荒くなった。
「カナ、愛している」
熱い吐息と共にささやくと、アンドリューはタオルに手を掛け外そうとした。
「やめて、アンドリュー」
私は急に不安になった。一九歳の私には怖かった。その先を知ることが。
「アンドリュー、お願い、やめて!」
すがるような私の言葉に、
「あっ、ごめん。こんなつもりじゃなかったんだ」
と、アンドリューは我に返り、私から体を離し起き上がった。それから大きく息をつくと、こんなやり方でカナを傷つけるなんて。カナを大切にしたいのに、と言い、くそっ!と、自分を責めるように罵倒した。アンドリューの口から聞く初めての「卑俗語」。いつも冷静で落ち着いているアンドリューの心情がその一言で伝わった。
「ごめんなさい。私が子供なの」
私は起き上がり、椅子にかかっていたセーターを羽織ると謝った。
「No! 悪いのは僕のほうだ。カナじゃない」
アンドリューは私の前に立つと、再び大きく息を吐き、
「焦らずゆっくり行こうと言ったのは僕だったのにね」
と言って、柔らかい微笑みを浮かべた。そして、
「本当にごめん」
と、もう一度謝った。
がらんとした部屋。私は服を着て椅子に座った。濡れていた髪はもうとっくに乾いていた。後ろ髪を引かれる思いでアンドリューの手を離し、私は彼を見送った。
「気をつけて。お母さんと楽しんできてね」
「ありがとう。ここへ戻ったら真っ先にカナのところへ来るからね」
アンドリューは言ってジャケットの内ポケットに仕舞っておいた箱――奇麗にラッピングされた――を手に取ると、はい、と私に差し出した。バレンタインデーの贈り物だ。開いてみると、スイスのチョコレートボンボン――長方形の箱の中に銀色と金色の包装紙に綺麗に巻かれて納まっている(一見、洒落たシガレットにも見えた)――と小さな香水のボトルが入っていた。アンドリューは箱の中から一つチョコレートを取り出すと、これは僕の大好きなチョコで、中には甘い液が入っているから気をつけて食べるんだよ、と言って、ほら、こんな具合に、とやって見せた。
「これは?」
香水のボトルを手に取り、透けて見える琥珀色の液体を眺めた。
「きっと、カナに合うと思って」
アンドリューはボトルの蓋を開け、ほんの一、二滴、指につけると、ポンポンポンと私の首筋につけた。たちまち爽やかなフローラルの香りが鼻をくすぐる。
「うーん、いい香り。なんか大人の匂いがする感じ」
ボトルには「エスティローダ・ビューティフル」と書かれていた。
「はい、これは私から」
私は言って、机の上の包みをアンドリューに渡した。アンドリューは、何かな、と嬉しそうにリボンをほどき、包装紙を開けると目を丸くして驚いた。
「僕の愛用のコロンじゃないか! もうなくなりそうだったから、買おうと思っていたんだよ」
「よかったあ。ありふれた物だからずいぶん迷ったの。でも、やっぱりあなたにはこの香りが一番だもの」
カナ、ありがとう。本当に嬉しいよ。アンドリューはコロンを大事そうにジャケットにしまうと、私を優しく抱きしめた。それから、
「うーん、さては、カナは僕の気持ちが読めるんだな」
と茶目っ気たっぷりに言うと、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「そうよ。あなたのことなら何でもわかっちゃうんだから」
私も負けない笑顔をつくった。
「それじゃあ、カナ、そろそろ行くよ」
「うん。気をつけてね」
「ああ、ありがとう」
アンドリューはもう一度私をしっかり抱きしめると、エレベーターホールへと歩きだした。何度も振り向くアンドリューに私の寂しさが伝わらぬよう、私は精一杯の笑顔で彼を見送った。
木曜日、教室へ入ると智也が右手を頬にあて顔をしかめていた。
「おはよう、智也。どうしたの? そんなしかめ面して」
「おう、おはよう。ちょっと歯が痛くてさ」
智也は言って苦笑する。
「大丈夫? 歯医者へ行って診てもらったら?」
私は智也の隣に座った。
「でもさ、アメリカの歯医者って高いって聞いたし、ちょっと怖くないか?」
「あっ、それに歯の治療は確か保険でカバー出来ないんだっけ?」
「そうなんだよ。だから治療費が高くなったらバカらしいし、それに日本に帰れば行きつけの歯医者はいるし、保険もきくからさ。だから俺、今度の日曜に一旦日本に帰ることにしたわ」
歯を診てもらうだけのために日本へ戻ると智也は言う。私には考えられないことだった。それも智也はまるで、ちょっとそこまで、とでも言うような軽いノリで言った。
「一旦帰るって、歯のためだけに?」
「あら、歯は大切よ、カナさん」
智也は言い、目をパチパチさせてにんまりと笑った。
「なんか飛行機代のほうが高くつきそうね」
まあな、と背伸びをしながら智也はこたえ、
「でも、俺、しばらく向こうにいようと思ってさ」
智也は真面目な顔つきで言った。
「それじゃあ、三月の卒業式には出られないんだね」
あと一ヵ月もすれば卒業式。
「まあそういうことになるかな」
あと一ヵ月。私は智也との会話をよそに、アンドリューとの別れを思って急に寂しくなった。アンドリューはロスへ行ったきり、もう一週間も音信不通になっている。もちろん、私の部屋には電話がないのでそれも仕方のないことだった。
「あれ、ひょっとして俺がいなくなると寂しいわけ?」
私のうかない表情を見て智也は冗談ぶって言った。
「そうね、とっても。ああ、寂しくて死にそうだわ」
心に芽生えた寂しさを紛らわそうと、私もいたずらっぽくこたえた。二人の笑いがおさまると智也は、
「だからさ、明日もう一度この前のメンバーで集まってどこかへ行かないか?」
と言って私を見ると、
「今度いつ会えるか分からないしさ」
と、私の寂しさを呼び覚ます呪文を口にした。
金曜日、智也のお別れ会は彼のリクエストで「カモン」で行われた。
「これから日本に戻るのになんでまたカモンなわけ?」
智也の意表をついた言葉に驚かされるばかりだ。
「バカだな。日本食って言っても、ここで食べる料理と日本のとはやっぱりどこか違うんだぜ。俺にはサン・ディエゴの味なんだよ」
智也は言って、大好物の「カモン特製天津チャーハン」を美味しそうに口に入れては、「ああ、歯がいてえ」を連発していた。
アンドリューに初めてカモンへ連れて来てもらったときは、カウンター前のテーブル席だった。でも、今日は奥にある畳の部屋で、智也を含めた八人がテーブルを囲んだ。もちろん、その中には幸恵さんも明さんもいる。智也の隣には一人美味しそうに熱燗を飲んでいるルイの姿もあった。
「あんまり飲むと帰れなくなるから気をつけてよ、ルイ」
私は飲むピッチが早いルイに言った。
「カナも飲みなよ。アツカンって美味しいねえ」
多少酔いが回ったようなしゃべりのルイ。
「私はまだ一九歳だから飲めないよ」
「ああそうだっけ?」
「それより今日は智也のお別れ会なんだから、彼に勧めてあげなきゃ、ね?」
私は言って、
「はい、どうぞ」
と、お酌をした。
「お、サンキュー」
智也は美味しそうに口にふくんだ。
「そういえば今日、アンドリューをダウンタウンで見かけたよ」
しばらくして、明さんが不意に口を開いた。一番端に座っていた私にもはっきり聞こえるほどの大きな声。突然耳に飛び込んできた彼の名に、私は一瞬、戸惑った。
アンドリューがダウンタウンに?
「あ、そうそう。綺麗な女性と一緒に楽しそうに歩いていたよね」
幸恵さんはパンと手を叩いて相づちを打つと、
「金髪美人っていう感じで、線が細くてね。何度かアンドリューの腕をつかんだり、二人で笑い合ったりして、すごく楽しそうだったわよね」
と、そのときの様子を続けた。周りにいた彼女の友人たちは、へえ、と、興味深げに聞いている。グラスを持っていた自分の手から血の気が引いていく気がした。アンドリューが女性と一緒に? 私は平静を装うように残りのお茶を口に含んだ。
「でもさ、あの彼女って、案外アンドリューのフィアンセだったりして」
明さんはなおも続けて言うと、片膝を立てて好奇心たっぷりの表情でビールを啜った。フィアンセ? 彼の言葉に反応するように、背中に冷たいものが走るのを感じた。
「ああ、可能性はあるよね。だってここに来ている外人なんて、大抵みんな国に彼女や彼氏がいて、ここでは羽を伸ばして遊ぼうっていう感じだもんねえ」
幸恵さんの友人という和美さんは、それが普通でしょ、という口調で加えた。
「そうだったわ。私も随分まえにアンドリューにはフィアンセがいるって聞いたことがあったわ!」
短い沈黙のあと、幸恵さんは思い出したように語尾を強めて言い、カナさんにはショックかもしれないけどね、と、嫌味にも聞こえる口調でつけたすと、冷やかに笑った。私の手は氷のように冷たかった。
「みんな、何の話をしているの?」
キョトンとした顔でルイはみんなを見ると言った。日本語の分からないルイには状況が見えていない。ねえ、何なの、カナ? ルイは私をのぞきこんだ。
「好きになっても本気になったらバカを見るっていう話よ」
脇から幸恵さんがさらっと言った。
「どうして?」
首をかしげるルイに、
「みんな国に帰れば恋人がいるって事さ。あのアンドリューにもね」
と明さんがこたえた。
「アンドリューに? 冗談だろ」
ルイは驚きと疑いの目で明さんを見た。彼は、さあね、と、肩をすくめて言葉を濁す。
「でも、大丈夫だよ、カナ。僕がいるさ」
くるっと私の方を振り向くと、ルイは私の肩に腕を回して微笑んだ。
ルイは慰めるつもりで言ってくれたのかもしれない。でも、私の心には響かなかった。私は事の次第が飲み込めず、「フィアンセ」という言葉にただただショックを受け、何も言えずにその場に座っていた。肩を抱いていたルイには私の体が震えていたのを感じていたにちがいない。
アンドリューがサン・ディエゴに戻っている。フィアンセと一緒に歩いていた。
でも、どうして電話をしてくれないの? 戻ったら連絡をくれるって言っていたのに。
「どうしたのカナさん? 大丈夫?」
茫然としている私を見て幸恵さんは言った。そして、
「まさか、アンドリューが本気であなたと付き合っているなんて思ってないわよねえ?」
だって、と言ってビールを口に含むと、
「あなた、もうすぐ日本に帰るんじゃない。そんな人に本気になるバカはいないわよ」
と言い放ち、勝ち誇ったように失笑した。
九 チップス
土曜日、悲しさと寂しさで心の中がいっぱいの私の気持ちをあざ笑うかのように、朝から青空が広がっていた。知美は朝食をとるためにカフェテリアへ向かったが、食欲のない私はそのまま部屋に残った。食欲だけでなく、何もする気が起きなかった。
昨夜、智也のお別れ会は十一時過ぎにお開きになった。
幸恵さんたちの思いがけない私への仕打ちに、智也もルイも冗談を言ったり、はしゃいだり、彼らなりに私を気遣ってくれた。でも、かえってそれが私を苦しくさせた。
「なんか智也のお別れ会じゃなくなっちゃったね。ごめんね」
会計を済ませみんなが席を立ったとき、私は智也に謝った。
「気にするなって。もともと幸恵は気が強いから、何でも自分の思い通りじゃないと気が済まないんだよ」
事情を知っている智也はそう言って笑うと、ルイの方に体を向けた。
「ルイ、お前、ちゃんと帰れるか?」
「もう全然平気だよ。それより僕がカナを送ってくから、彼女のことは心配しないでいいよ」
そのころにはすっかり酔いも醒めていたルイは、私を心配して寮まで送ると言ってくれた。
「バイクだとちょっと寒いけど、寮まではここからそんなに遠くないし、それに気持ちも少しは落ち着くと思うよ」
「ありがとう、ルイ」
私は笑って言ったつもりだったが、顔はこわばり、まるで感覚がなかった。でも、そんな私の落ち込みに、わざと気づかない振りをするかのように、
「カナと初めてのツーリングだね」
と言ってルイは微笑むと、バイクにまたがった。
「智也にもう一回さよならを言ってくるからちょっと待ってね」
私の言葉にルイは親指を立ててOKと合図をし、ヘルメットを深くかぶった。
「今度いつ会えるか分からないけど元気でね、智也」
「お前もな。あんまりくよくよすんなよ。お前らなら大丈夫だからよ」
智也らしい励まし方で肩をドンと叩く。
「ありがとう」
その瞬間、思わず泣きそうになった。
「日本に戻ったら絶対に連絡しろよ。そしたらまた会おうぜ」
「うん。今度会うときは日本だね」
私は言い、ルイのバイクに乗った。
「しっかりつかまっているんだよ、カナ!」
ルイは豪快にエンジンをかけ、大声で叫んだ。バイクは重たい音をたてながら走り出した。
「智也、元気でね! 色々ありがとう!」
「カナ、お前も頑張れよ!」
友人との別れの寂しさとアンドリューのことへの切ない思いとで、しだいに涙が溢れてきた。でも、ルイが言っていたように、風を切って走るバイクに乗っていると、夜の冷たい、氷のように冷たい風が顔にあたり、涙もすぐに乾いてしまう。気持ちも少し落ち着けた。
どのくらい経ったのだろう。
朝食に出かけた知美はまだ戻っていない。一人にはあまりにも広過ぎる寮の部屋で、私は膝を抱えたままベッドの上に座ると空を見た。空を見ていると、幸恵さんたちの冷たい言葉が吹き荒れる嵐のように頭の中に押し寄せてきた。悲しみはどんどん大きくなる。私は唇を噛み締め、ただじっと空をみつめた。
どうして幸恵さんはあんなに冷たいことを言うの? 仲良くしようって言ってくれたのに。
空は歪み、だんだんと霞む。そして、ついに一滴の涙が頬をつたってこぼれ落ちた。
――ここへ戻ったら真っ先にカナのところへ来るからね。
アンドリュー、どこにいるの? どうして連絡くれないの? 会いたい……。
たまらなく辛くなり、私は膝に顔を埋めると、声を殺して泣いた。
日曜日、目が覚めると目の奥が沁みるように痛かった。昨日涙が枯れるほど泣いたせいかもしれない。窓からは暖かな日差しが差し込んでいる。横になったまま手をかざして空を見上げると、昨日と同じ青空が広がっていた。
「おはよう、カナ。起きた?」
声の方に目を移すと、洋服を着て立っている知美がいた。
「おはよう。今、何時?」
私は目をこすりながらゆっくりと起き上がった。
「もう十時過ぎだよ。どこか具合でも悪いの?」
もうそんな時間になっていたんだ。
「なんか昨日からずっと様子が変だけど、ほんとに大丈夫?」
心配そうに知美は言うと、ベッドの端に腰掛けた。
「うん大丈夫。ただ夕べ夜中に目が覚めて、それからなかなか眠れなくて」
嘘をついた。
バレンタインデーの日に勇気を持って告白した知美の思いは、完全にとまではいかなかったがマークは受け入れてくれた。あれ以来、廊下を隔てたマークの部屋を、毎日のように行き来しては幸せな時間を過している知美に、陰を落とすような話はしたくなかった。
「今日はマークと何かするの?」
「うん。マークの友だちとティファナに行くんだ」
そうなんだ。私はなんとか微笑んだ。
「カナも一緒に行かない? 敦子たちも今から誘うから」
本当に幸せそうな知美。
「ありがとう。でも、やめておくわ。私、これからアンドリューに電話をする約束なの」
また嘘をついた。
「そっか。そっちの方が楽しいよね」
知美は言ってにっこり笑い、じゃあ、行ってくるね、と、部屋を出た。
急に静けさが襲ってくる。幸せな余韻に浸るときには心地良い静けさも、今は寂しさを強調させる以外の何物でもない。私はベッドから出るとラジオをつけて静寂をかき消した。
夜、時計を見ると十時をとうに回っていた。アンドリューは今日も戻って来なかった。今日こそはアンドリューは戻ってくる、と確信にも似た思いで一日を過していた私の失望はいうまでもない。ティファナに行ったきりまだ戻っていない知美を待たず、私はベッドへ入ると、体を丸めて枕に顔を埋めた。しばらくして、ドアの開く音がした。
「知美?」
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
「ううん、うとうとし始めたとこ」
知美は机のライトをつけた。
「ティファナは楽しかった?」
なんて無粋な質問。マークと一緒ならば楽しくないはずがない。
「もう最高だった」
ベッドに入ると、知美はティファナでの出来事――ソンブレロをかぶって一緒に写真を撮った事。マリアッチの演奏が聴けるレストランで食事をした事(マークが知美のためにベサメムーチョをリクエストしてくれたと言っていた)。そして、マルガリータとピナコラーダを初めて飲んで、その美味しさに感動した事――を嬉しそうに話してくれた。
「私、告白してよかった」
天井を見ながら知美は感慨深く言う。
「だって、彼女になれなくても、友だち以上には扱ってくれているもの」
「良かったね」
私は心から言った。すると、知美は、
「でも、カナとアンドリューが羨ましい……」
と、しんみりと本音をはいた。
私は一週間以上もアンドリューに会えず、声も聞けず、その上、幸恵さんからは恋人の存在を聞かされ、動揺を隠せない自分の情けなさがたまらず卑屈になっていた。そんな心境の中では知美の素直な言葉でさえも嫌味に聞こえてしまう。
「そんな事……」
言いかけたとき、ドアを小さくノックする音が聞こえた。私たちはうるさいと誰かに注意されたと思い、ひそひそ声で話しを続けた。すると二度目のノックの音。
「嫌だあ。こんな遅くに誰だろう」
知美の言葉に私はもしかしたらと思い、
「私が出るわ」
と言って、セーターを羽織るとドアを開けた。
「カナ、ただいま」
疲れきった表情のアンドリューが目の前に立っていた。
「遅くなってごめん。でも、戻ったら真っ先にカナに会いに来る約束だったから」
いつもの柔らかい笑顔でアンドリューは言った。
「アンドリュー」
名前を呼ぶのと同時に、私はアンドリューの大きな胸の中へ飛び込んでいた。私を包みこむ大きな胸。何もかも忘れさせてくれる暖かいアンドリューの胸。今までの卑屈になっていた自分がどこかへ消えていくのを感じた。
「カナ、会いたかったよ」
私の頭に顔を埋めて言うと、しっかりと私を抱きしめた。
「僕の車へ行こう。いいかい?」
耳元でささやき、そっとドアを閉めた。
ロビーにも駐車場にもモンテズマ通りにも人影はどこにもない。いるのはアンドリューと私の二人だけだった。
「八日ぶりだね、カナ。元気にしていたかい?」
車の暖房をつけるとアンドリューは言った。言いたいことはたくさんあったはずなのに、うまく言葉がまとまらない。
「遅くに来たから迷惑だったかな?」
駄々をこねた子供のように私は何度も首を横に振った。
「八日も連絡出来なかったから怒っている?」
「違うの」
かろうじて小さくつぶやいた。あんなに会いたかったのに。こうして会いに来てくれたのに。私はただ黙ったまま、外気との温度差でくもり始めた窓を見ていた。
「何かあったんだね?」
アンドリューは優しく言うと、辛抱強く、私が口を開くのを待っていた。
「アンドリューは今日、ロスから戻って来たの?」
ポツリと言った。
「そうだよ。なぜ?」
「八日間、アンドリューはずっとロスにいたのよね?」
なぜか遠回しな言い方しか出来ない。
「カナ、何があったか話してごらん。本当は他に聞きたいことがあるんだよね?」
アンドリューは私の肩に腕を回して引き寄せた。
「僕がいなかった間に何があったんだい?」
真実を知りたいのに、それを知るのが恐ろしく怖かった。私は小さく息をつき、アンドリューのがっしりとした太股に手を置いた。
「二十一日の金曜日に智也のお別れ会をカモンでやったの。そこで幸恵さんと明さんがあなたをダウンタウンで見かけたって……」
もう一度小さく息をついた。
「それに、アンドリューには……」
言ったその先につまる。
「ちゃんと言ってごらん」
私の手を優しく握り締めてアンドリューは言った。私は下を向くと目を閉じたまま続けた。
「幸恵さんがアンドリューにはフィアンセがいるって。ダウンタウンで見かけた人がその彼女だって」
私はそのままアンドリューが何かを言ってくれるのをじっと待った。アンドリューは首を横にふると、呆れたようにフッと小さな息を吐き、
「また、ユキエか」
と言って苦笑した。そして、
「カナに謝って、仲良くなろうと言ったはずのユキエから僕は、君がルイと肩を組んで恋人のように仲良くしていたと聞かされたよ」
と、つけたした。
「私が?」
あまりの驚きにアンドリューから体を離して彼を見つめた。
「そう。君とルイは恋人のようだったそうだよ」
ニッコリ笑ってこたえると、私を再び抱き寄せた。
「いつ聞いたの?」
「智也の家でパーティがあった次の日だったかな。わざわざ電話で教えてくれたよ」
もう二週間も前の話だ。
「なんでそのときに何も言ってくれなかったの?」
「だって僕はそんなこと、これっぽっちも信じていなかったからね」
柔らかい笑顔でアンドリューはきっぱりと言った。
「本当に?」
「本当さ。僕は周りの人たちの言葉ではなく、カナを信じているから」
私はアンドリューの言葉に自分の愚かさを恥じた。
「だからカナも、ユキエたちが何を言っても、僕を信じていてほしい。いいね?」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
私は周りの言葉に惑わされて、愛する人を信じきれていなかった。
「だけどユキエたちの演技もそうとう真に迫っていたんだろうね」
アンドリューは私を見つめて穏やかな微笑みを浮かべて言い、
「彼女の口ぶりが目に浮かぶよ」
と続けると、作戦は失敗に終わったけどね、と、ウインクをして笑った。
私はアンドリューの思慮深さと、相手の心を見抜く洞察力に救われた。そして、うろたえる事なく私を信じてくれた、アンドリューの寛容さに尊敬の念を抱いた。私は愛するという事は相手を深く信頼することだと教えられた。
私は「天邪鬼」で「喜怒哀楽」が激しいとても単純な人間のようだ。翌日からは気力も食欲も戻り、一日中とても気分が良かった。心配していたアンドリューの件も全て幸恵さんたちの仕組んだ嫌がらせと分かり、前にも増してアンドリューへの信頼が深まり、幸せな気持ちで顔の筋肉は緩みっぱなしだった。そんな日常の生活に戻った木曜日の夕方、良枝が久しぶりに私のところへ遊びに来た。
「ハロー、カナ。今日は朗報を持ってきたわよ」
良枝は言うと、イザベルからの伝言よ、と言って咳払いをし、
「チップスのアポが取れたの。急だけど明日の放課後、ALIまで迎えに行くわね」
とイザベルの口調を真似て言った。
「ええ? 本当にアポを取ってくれちゃったのお?」
嬉しい反面、子供染みた夢だけに、忘れてくれていれば良かったのにと思った。
「そうよ。ちゃんと覚えていてくれたのよ」
その場限りの建て前を言う人が多い中、イザベルは本当に約束を守ってくれた。その事はとても嬉しかった。でも……。
「何暗い顔してんのよ。嬉しくないの? 明日、念願のチップスに行けるんだよ」
「そ、そうだよね」
明日、チップスに行けるのかあ。考えると急にわくわくと胸が騒ぎだした。
「なんか緊張してくる。だって本物の警察署に行くんだよ」
「悪いこともしてないのにね」
くすくす笑って良枝は言った。
「良枝たちも行くでしょ?」
普通では経験できない警察署の見学に、行かないわけがないと高をくくって訊いた。でも、良枝は、冗談でしょ、と言って、
「行くわけないじゃん。私たちは全く興味ないもん。カナ一人で行くんだよ」
とさらっと言って流した。
「へえ、カナはチップスにはまってたんだ」
その日の夜、アンドリューにチップス見学の話をした。
「だって、憧れのカリフォルニアで、二人の警官がものすごく格好よく白バイに乗って、次々と事件を解決していくのよ。高校生の女の子には刺激的だったのよ」
どう言い訳してみても、精神年齢の低さを感じてしまう。
「要するに私は子供だっていう事よ。現実離れしたものに憧れてしまうんだから」
「僕は何も悪いなんて言ってないよ。ただ素直に驚いただけだよ」
アンドリューは言って笑った。
「いいのよ、いいのよ。分かっているもの。私はまだまだ子供なのよ」
受話器の向こうで、アンドリューはいよいよ声をあげて笑った。
「そんな事ないよ。別に気にする事ないさ。警察署もきっと楽しいところだよ。それに、そういう一面を持つカナもすごくいいよ。うん、可愛いよ」
「もう、バカにして。言わなきゃよかった」
私の言葉にアンドリューは、本当だよ。可愛いよ、と笑いを堪えてもう一度言った。
「笑いながら可愛いなんて言われても、説得力ないもん」
そう言ったあと、私もなぜがおかしくなり、アンドリューにつられて笑い出した。
金曜日、朝から空には厚い雲がかかっていた。私は曇りや雨の日が嫌いだ。太陽の日差しが見えないと気持ちまでも憂鬱になる。特にサン・ディエゴには似つかわしくない天気だ。しかもチップス見学当日に曇りだなんて。一人で行くという事だけでも不安なのに、曇り空が私の心を一層重くさせた。
「カナ! やっと出てきたわね」
授業が終わり外へ出ると、声が響いてきた。目をやると、駐車場の隅にイザベル親子と一緒にいる良枝と敦子の姿が見えた。私は小走りで駆け寄り、イザベルたちにハグで挨拶をした。カナがなかなか出てこないから呼びに行こうと思ってたのよ。敦子が言って、ねえ、とラネーレを見て笑う。
「だってなかなか授業が終わらなかったんだもの」
私の言い訳を待って(事実だから言い訳ではないのだが)、イザベルが微笑みながら、
「さあ、遅くなるといけないから、そろそろ行きましょうか」
と時計を見て言った。私はもう一度良枝たちを誘ってみたが、用事があるからいいわ(きっとそれこそ言い訳だろうと思ったが)、と、断られた。
「ほら、いってらっしゃい」
敦子は言って、イザベルのフォルクスワーゲンバスのドアを開いた。私はラネーレたちの後に続いて後部座席に乗り込んだ。
カリフォルニア・ハイウエイ・パトロール、通称「チップス」はハイウエイ八号線を西へ走り、五号線を北へさらに進んだ、パシフィックハイウエイ沿いに建っていた。平屋建ての大きなオフィスの前には、ドラマに出てくるお馴染みのパトカーや白バイが数台停まっていた。
「今、事務所に行って係りの人に確認を取るから、あなたたちはここで待っていてね」
入り口の前でイザベルは言うと、中へ入って行った。
「どうしてここに来たかったの?」
少し経ってラネーレが訊いた。
「日本でね、チップスのドラマが放送されていて、私、それが大好きだったの。そうしたらあなたのお母さんがわざわざここに連絡をしてくれて、見学できるアポを取ってくれたのよ」
「ふうーん」
ラネーレはこたえたが、理解はしていない様子だった。しばらくして、イザベルが一人の男性警官と一緒に私たちのところへ戻って来た。
「やあ、はじめまして。スコットです」
差し出された手を握り返しながら、爽やかな笑顔で真面目そうな人だな、と、私は心の中で彼の第一印象を勝手に分析していた。
「日本でチップスが流行っているのは僕も聞いたことがあるよ。君もファンなんだって?」
私の歩調に合わせて歩き出したスコットがそう言って私に微笑んだ。その言葉に別に何の深い意味はなく、彼はごくありのままを述べただけだ。でも、スコットの「ファン」という言葉に、自分がいかにも成長できていない幼稚な子供のように思えてきて、顔から火が出るほど恥ずかしくなり下を向いた。
「まずこれが実際パトロールで使用する車だよ」
車の前まで来ると、スコットはドアを開けた。
「運転席に乗ってみるかい?」
スコットの思いがけない言葉に、ほんの少し前まで面映い気持ちでいっぱいだった自分が一気に消え失せた。私はどうにも単純すぎる人間のようだ。
「いいんですか?」
「もちろん。さあ、どうぞ」
スコットは言い、私は喜色満面で言われた通りに乗ってみた。これが無線機、これが警棒、これがサイレンアンプ。スコットは一つひとつ丁寧に説明をする。イザベルたちも興味津々といった感じで車内をのぞきこみ、スコットの説明を一生懸命に聞いていた。
「それじゃあ、次は君の大好きなチップスの白バイを見ようか」
パトカーのドアをしっかりと閉め、すぐ奥に停まっている白バイのところへ私たちを案内した。テレビで見たのと同じバイクだ。当たり前だがかっこいい。まじまじと見る。
「あ、カワサキって書いてある」
私はバイクの横に書かれた文字を読んで驚いた。
「そう。カワサキのバイクは性能がとても優れているから使用しているんだ」
日本製のバイクということに誇らしい気持ちになった。スコットはサイレンを作動させるスイッチボタンの押し方や、点灯の仕方で意味が変わる追跡灯など、実演しながら説明をして私たちの興味をさらにかき立てた。オフィスの中も見てみようか。一通りのサイトツアーが済んだあと、スコットはオフィスの中もざっと案内してくれた。一時間の見学はあっという間に終わってしまった。
「今日は本当にありがとうございました」
帰りの車中で私はイザベルに礼を言った。
「気にしないで。私たちだってとても楽しめたもの。お礼を言うのは私たちのほうよ」
バックミラー越しにイザベルは微笑んだ。
「私、本当はちょっと恥ずかしかったんです」
「どうして?」
イザベルは驚いて後ろを振り向いた。
「だって、ドラマと現実は違うのに警察署を見たいだなんて。なんか子供みたいで」
するとイザベルは優しい眼差しで、
「そういう子供の心を忘れないという事は大切よ。それに、カナのそういう思いがあったからこそ、こうして私たちはまた会えて、楽しい時間を過せたのだから、神様に感謝しなくちゃ」
と言い、にこやかに笑った。そういう物の見方もあるのか、と私は思った。
「そうですね。私も最初は恥ずかしかったけど、今日、見学出来て本当によかったです。普通ではなかなか警察署なんて縁のない所ですから」
「本当よね。事件に巻き込まれたり、何か悪い事をしたりして警察のお世話にならない限り、縁のないところだものね」
イザベルは言うと、二人で笑った。
「イザベル、実は私、またここへ戻って来たいと思っているんです」
私たちはモンテズマ通りまで戻ってきていた。もうすぐ寮に着く。
「サン・ディエゴはいいところだものね」
ええ。本当に。
「でも、そういう事ではなくて、勉強をするために戻って来たいんです」
アンドリューと出会っていなければ、ひょっとしたら私は今回の短期留学だけで満足していたかもしれない。でも、私は出会ってしまった。心の底から大切と思えるアンドリューに。それと同時に自分の英語力の限界を思い知らされてしまった。もっと勉強しなければアンドリューに追いつけない。
「それは素晴らしいわ、カナ!」
「でも、その間、どこに住んだらいいのかが分からなくて。どこか適当なところを知っていますか? モーテルとかもっと安い寮とか」
滞在する場所によっては自分の夢も夢で終わってしまう。どんな情報でも知りたかった。
「カナが本当に戻ってくるつもりなら、私たちのところへいらっしゃい」
思いがけないイザベルからの誘いだった。
「本当にいいんですか?」
「当たり前じゃない。カナも私にとってはヨシエやアツコと同じで大切な娘ですもの」
まだ数回しか会っていない私を「娘」と言ってくれたことに、私は泣きたくなるほど感激した。
「ありがとうございます!」
私は言ってラネーレ――いつの間にか私の膝に座っていた――を思いきり抱きしめた。
「アハハ、くすぐったいよ」
ラネーレは体をくねって笑った。
「まだはっきりいつとは言えないですが、分かったら連絡してもいいですか?」
鏡に映ったイザベルの瞳を見て訊いた。
「もちろん。いつでも連絡してね。待っているわ」
私はまだ誰にも話していなかった新しい夢の第一歩を、イザベルの一言で現実のものとして進めていこうと、秘かに心に誓った。
部屋へ戻ると、時刻はちょうど夕食の時間と重なり、知美の姿はなく、暖房の暖かさだけが私を迎えてくれた。明日、カナがチップスから戻ったら映画に行こう。六時ごろ迎えに行くからね。夕べ、アンドリューは映画に誘ってくれた。時計を見るとまもなく約束の時間になる。私は急いで荷物を置き、身だしなみを整えた。
アンドリューの柔らかい微笑みはまるで魔力でもあるように、私の心を平穏と幸福で満たしてくれる。例えばそれは、暖かい暖炉の光に包まれた家族が寄り添い合い、微笑みを分かち合っているときのような、そんな感じにも似ている。でも逆に、アンドリューに会うまでの時間は緊張と興奮の連続で、心臓は激しく鼓動し、振動で体は揺れ、まるで心臓が全身を支配しているかのようになる。
しばらくして、ドアをたたく音がした。開くと、アンドリューはいつものように腕を広げて(すっぽりと包みこんでしまう勢いで)私をしっかりと抱きしめた。
「ハイ、カナ。会いたかったよ」
「私もよ」
私はアンドリューのがっしりとした体にもたれた。
「チップスはどうだった?」
「すっごく良かった。色々説明もしてくれて、パトカーの中にも乗せてくれたのよ」
興奮して私はこたえた。
「イザベルや子供たちも興味津々で、一緒になって説明に耳を傾けちゃってね。それに、私以上に色んな質問をして、どっちが見学に来ていたか分からなかったほどよ」
アンドリューに言わせる隙を与えない勢いで続けた。
「一時間の見学なんてあっという間に終わっちゃって、本当はもっといたかったぐらいだわ」
「カナの話しぶりでどれだけ楽しめたのかがよく分かるよ」
息をついた私を見て、微笑みながらアンドリューは言った。
「楽しめてよかったね」
アンドリューの微笑みには本当に魔力があるのかもしれない。柔らかい微笑みで見つめられると、安心して吸い込まれそうになる。
十 苦渋の決断
週末、久しぶりに二日間ともアンドリューに会えた。
ロスへ行っていたときは会えなかったからと、時間を調整してくれた。そうは言ってももうすぐ三月。卒業と同時に帰国する私を思い、少しでも多く会おうとしてくれていたアンドリューの優しさだったのかもしれない。
寮から車で三十分ほど北へいったところにある「ラホヤ」へ行ったのは、土曜の昼過ぎだった。
「カナはこのラホヤを知っているかい?」
「ううん。お金持ちのエリアとは聞いていたけど、こんなにお店があるなんて知らなかった」
辺りには洒落た雰囲気の店がいくつも肩を並べて建ち、色鮮やかな花々や常緑樹の木々たちが計算尽くされたように植えられている。
「確かにここはアッパークラスのエリアだけど、ビーチや公園もあって、一日中楽しめるいい場所なんだよ」
アンドリューは言うと、あそこがユニークなTシャツの買える店、あっちは帽子の専門店、あれがオールディーズのグッズが買える店だよ、と、車をゆっくり走らせながら教えてくれた。どのショーウィンドウを見ても、興味をかきたてられるような気の利いたディスプレイがされていて、私は食い入るように見入った。
「今日はあそこのレストランでちょっと豪華に食事をしよう」
アンドリューはストリートパーキングに車を停めると指さして言った。そこは二階に設けられた、いかにも高そうなイタリアンレストランだった。
「わあ素敵。でも、なんだか高そう」
店に入っていく人たちの姿を見ても品のある年齢層の高い人ばかりだ。
「前に一度だけゴードンたちと来た事があるんだ。メニューの数が豊富で、値段も思ったほど高くなくてね。それよりカナはそんなこと気にしないでいいんだよ」
階段を上り、入口の前に立つとアンドリューはそう言ってドアを開いた。店内から漂ってくるガーリックの香ばしい香りや清々しいハーブの香りが鼻腔をくすぐる。
「実は、カナをこのレストランへ連れてきたのにはちょっとした理由があってね」
理由? 首をかしげてアンドリューを見つめると、そう、と言って意味ありげにウインクをなげた。
入口から続く石畳の廊下を少し行くと、正方形のテーブル――真っ白いテーブルクロスがかけられている――がいくつも置かれた広く明るい店内へと出た。目の前の壁は一面大きなガラス張りになっていて、外にはヤシ、松、ユーカリなどの木々が植えられ、その先には真っ青な深い海と、それに負けないディープスカイブルー色の空がどこまでも続いていた。それはまるで巨大な額縁に納められた一枚の絵画をみているような、何とも見事な光景だった。
「わあ、ステキ!」
あまりの美しさに感激した私は、祈りを捧げるように両手を組むとしばしその場に立ち尽くしていた。
「どう? 気に入ってくれた?」
「もちろんよ!」
感動と興奮でそれ以上の言葉が見つからなかった。
「カナならきっと感動してくれると思ったよ」
私の感動振りにアンドリューはたいそう満足した様子で言い、サングラスを外すと胸のポケットにしまった。
素晴らしい景色を視界に入れながら、私はシーフードサラダとコーヒーを、アンドリューは生ハムのサラダとマルゲリータピザにコーヒーを、時間をかけてゆっくりと味わった。
食事のあと、歩いてラホヤビーチまで足をのばした。芝生の上では小さな子供たちが駆けずり回って遊んでいた。寝転んで読書をしたり、楽しそうに語り合ったりしている人たちの姿もあった。穏やかな速度で流れる週末の土曜日。
「夏に来たら暖かくてもっといいでしょうね」
夏のギラギラする、でも、乾燥地帯特有のカラッとした季節を思い描いて私は言った。
気候の温暖なサン・ディエゴといっても冬はやはり寒い。太陽が西へ傾きだすと同時に気温も下がる。セーターの袖口を引っ張って冷えてきた手を温めた。
「夏は本当に気持ちよくて最高だよ」
アンドリューはこたえて私の肩に腕をまわした。私たちは海岸線沿いに続く道をのんびりと歩いた。
私の帰国まであと二週間。
無言のままアンドリューは私の肩をぐっと抱き寄せた。アンドリューも私と同じことを考えていたのかもしれない。
翌日、とてものんびりとした時間をアンドリューと過した。
朝九時、アンドリューが迎えに来ると、その足で私たちはグロスモント・カレッジへ向かった。
「明日、図書館でどうしても調べものをしないといけないことがあるんだ。カナも一緒に行ってみるかい?」
夕べ、ラホヤからの帰り道、アンドリューは言った。
「もちろん、行ってみたい!」
いつかサン・ディエゴの大学へ通いたいと思っていた私には願ってもない誘いだった。
「さあ着いたよ。ここが僕の通う大学だよ」
小高い山の頂上を切り開いて建てられた、見晴らしの良い場所にその大学はあった。校舎は全体的に低層建てでまとめられ、辺り一帯は緑に囲まれている。SDSUほどの活気や施設の豊富さはないが、ゆったりと構えた校舎は来る者すべてを快く迎え入れてくれるような、そんな雰囲気を持っていた。
「山の上にあるっていうのがとてもいい感じね」
私はアンドリューのあとに続いて正面の階段を上った。冬の午前中の大学はまだ空気の澄んだ綺麗な朝の匂いがする。入り口を通り抜け、中央に中庭、向って右側に図書館はあった。一見大きな平屋建てに見えた図書館は中へ入ると二階建てになっていて、かなり広い作りの建物だった。
「しばらく集中して調べないといけないから、カナを一人にさせてしまうけど、平気かい?」
声を殺してアンドリューは言った。
「大丈夫。私は適当に時間をつぶすから気にしないで」
耳元でこたえ、図書館の中を一通り見てから外へ出た。顔に当たる空気が少しずつ温かさを増している。キャンパスを一回りして中庭へ戻ってくると、図書館に一番近いベンチに腰をおろした。数人の学生が荷物を抱えて目の前を横切っていく。彼らを目で追いながら、私はいつかここの学生になった日の自分の姿――数段上達した英語で楽しく会話を交わしている――を想像して一人笑みをこぼした。
午後はアンドリューの部屋で過した。
途中、中華のファーストフード店で料理を買い、アンドリューの部屋でそれを食べ、食後はリビングのソファーに座り、二人でテレビを見てくつろいだ。テレビの画面にどこかの町の夜景が映ったとき、夕べ、アンドリューが夜の締めくくりにラホヤのソレダッド山へ連れて行ってくれたことを思い出した。
勾配のきつい、細く曲がりくねった道をアンドリューはギアをローに入れ、アクセルを踏み込んで登っていった。十分ほど行くと、パアっと前方がひらけ頂上に到着した。山頂にはリオのキリスト像ならぬ、白亜の十字架が堂々とそびえ立っていた。ここはどこ? という表情の私に、サン・ディエゴとティファナが一望出来る場所としてとても有名なところなんだよ、と言って、アンドリューはエンジンを切った。
「丁度いいタイミングだな。このまましばらく眺めていてごらん」
車から降りると、アンドリューは私の体を温めるように後ろから抱きしめた。
しばらくして、太陽が西の空に落ちはじめると、町や家に次第に灯りがともり出し、行き交う車のヘッドライトも明るい光を放ち始めた。それは正に光の織り成す芸術だった。
瞬く間に陽は沈み、夜空は満点の星で飾られた。時折現れては消える流れ星が更に花を添える演出をした。そして、地上のもの、天空のもの、全てのものを見守るかのようにそびえ立つ巨大な十字架がライトアップされると、その瞬間、辺り一帯は聖地のような趣へと一変した。それは本当に想像を絶する美しい光景だった。
「なんて素敵なの……。こんな夜景見たことないわ」
美しく恵み深い絶景に感極まり、私の瞳からは自然に涙が溢れ出た。
「カナはホントになんでも素直に感動してくれるから、僕も連れてきた甲斐があるよ」
私を強く抱きしめたアンドリューはそう言って、私の頭上に唇を当てた。
「夕べの夜景、本当に綺麗だったね。またあの夜景を見に行こうね」
私は言ってアンドリューを見つめると、彼はいつの間にか柔らかい寝息をたてていた。
三月、春の訪れを感じさせるような暖かい風が肌に当たるようになってきた。
ALIの卒業式を一週間後に控え、式には出席せず帰国する生徒も少しずつ現れた。アルゼンチンから来ていたロベルトの友人、アルトゥーロもその一人だった。
「明日? 明日帰るの?」
あまりに突然で私はただただ驚いた。
「なんか寂しくなるから、ぎりぎりまで誰にも言えなかったんだ」
この数カ月で馴染んだもの全てから去らなければならない寂しさ。
「卒業式まであとたった一週間なのにね」
「僕も出来ればそれまではいたかったけど、最初から決めていた事だから」
アルトゥーロは寂しそうに笑った。
「アルゼンチンに帰っても、元気で頑張ってね」
ありがとう。カナも元気で。アルトゥーロはそう言ってハグをすると、ロベルトと一緒に校舎の外へ出て行った。彼の後ろ姿を見送るうちに私の胸はだんだんと苦しくなり、しばらくその場から動けなくなった。もうすぐ私の番がやって来る。次は私が見送られるんだ。そう思うと悲しみがこみ上げ、私はその場に座り込んでしまった。
「今日は元気がないね。どうかしたの?」
夜、電話をかけるとアンドリューは心配そうに言った。いつもと変わらぬ調子で話したつもりなのに、心の動揺を隠し切ることが出来なかった。
「今朝ね、アルゼンチンから来ていた子が帰国したの」
私はポツリと言った。
「そうか。それは寂しいね。その子はカナのいい友だちだったんだ」
慰めるような優しい口調。私は小さく息をつくと、そういう事ではないの、とポツリとつぶやき、
「もうすぐ私の番もやってくるんだなって思ったら悲しくなっちゃって」
としんみりとささやいた。
「カナ……」
「だって、あと一週間ちょっとなのよ」
こみ上げてくる悲しみが言葉になって口から飛び出す。
「その中であなたに会えるのはあと何回?」
アンドリューを責めているのではない。現実にあと数回しか会えないという事実を受け入れるのが怖かった。
「もうあと少ししかあなたに会えないなんて」
そんなことは分かっているけど、信じたくない。
「今度いつ会えるかだってまだ分からないのに……」
こみ上げていた悲しみは言葉から涙へ変わっていた。
「カナ、随分前に遠距離恋愛について話し合ったことがあったよね。覚えているかい?」
アンドリューは泣いている私をなだめるように穏やかに語りかける。
「カナは、遠距離恋愛は可能だと言ったよね。それから、僕もカナとなら不可能を可能に出来ると思う、と言ったよね?」
フライヤーズの帰り、知美たちが車から降りたあと、二人でその事について話した。忘れもしない。あのとき互いの気持ちが分かり合えた。そして、初めての口づけをかわし合った。
「それが試されるときだと思えばいいんだよ」
「アンドリュー……」
声にならない声で私は言った。
「僕はカナを信じているんだよ。だからカナも僕を信じていてほしい」
アンドリューの言葉が私の目頭をよけいに熱くする。
「私、必ずここへ戻ってくる。あなたに会いに、必ず、必ず戻ってくる。それに手紙だって書くし、電話だって……、電話だって出来るだけかける」
涙で声が詰った。
「僕もカナに手紙を書くよ。何度でも書くよ。約束する」
アンドリューは念を押すように力強く言った。そして、カナ、と静かに私の名を呼ぶと、
「君を心から愛しているよ」
と穏やかにささやいた。体中に沁み渡るアンドリューの優しい愛に溢れた声。
「私も愛している」
私は流れ落ちる涙を拭った。
アンドリューの決して取り乱さない冷静さと、常に相手を気遣う優しさが、私の心に安らぎを与えてくれた。
翌日、アンドリューは私との時間を大切にしたいと言って、一日中一緒にいてくれた。
「アンドリュー、夕べはごめんなさい」
「気にしてないから大丈夫だよ。むしろちゃんと話せて僕はよかったと思っているよ」
アンドリューは本当にいつも優しい。
「カナは今日、何をしたい? 今日はカナがしたい事をしよう」
元気よく言うと、アンドリューはにっこりと笑った。
「それじゃあ、アンドリューの家に行って、アンドリューの勉強する姿を見ていたいな」
少し考えて私はこたえた。
「勉強している僕を見たい?」
驚いたように私を見る。
「そう」
私は笑ってうなずいた。
「なぜだい?」
首をかしげて不思議がるアンドリューに、私は右手を開くと、
「まずは運転するアンドリューでしょ、それから、食事をするアンドリュー。歩くアンドリューに、声をあげて笑うアンドリュー。あとは優しく微笑むアンドリューに、私を抱きしめるアンドリュー」
と彼の仕草を一つ一つ指折り数えて言った。そして、
「今日はね、部屋で勉強するアンドリューを見ていたいの」
と、元気よくつけたした。
「カナ……」
「だって、あなたの全てを目に焼きつけておきたいんだもの」
私はもう一度アンドリューを見つめなおして微笑んだ。アンドリューは愛しいものを見るような眼差しで私を見つめ返すと、
「君は本当に優しい女性(ひと)だね」
と、微笑み、
「ありがとう。そうしよう」
と言って私を抱きしめた。
「カナが見ていてくれたら宿題も勉強もあっと言う間に終わらせられるよ」
「本当?」
「ああ。そうすればカナも安心出来る、そうだろ?」
アンドリューはちゃんと察してくれた。大学生である彼の大切な時間を私だけのために費やしてもらいたくないという私の想いを、アンドリューはちゃんと見抜いてくれた。私はアンドリューの洞察力の深さにあらためて感服した。
――愛すること、それは自分より相手を大切に想うこと――
もう誰が言ったのかも覚えていない格言が私の脳裏に蘇った。そして、思った。相手のことを心から大切に想い、相手のためになる事を一番に考えてさえすれば、相手が何を求めているのかを理解するのは難しいことではないのかもしれない。
卒業式前夜の木曜日、知美と私はパッキングを始めていた。
「早いよね。明日は卒業式で明々後日は帰国だなんて」
クローゼットの中の洋服を一枚ずつスーツケースにつめながら知美はポツリと言った。
「ホントだね。三ヵ月がこんなに短いなんて思ってもみなかったな」
私は買った物をベッドの上に並べてこたえた。SDSDのロゴが入ったトレーナー。スワップミートで買った黄色いセーター。たくさんのカセットテープに掘り出し物の分厚い本。
「でもさ、日本を出る前の自分たちと、今の自分たちを比べると、随分いろんな事を学べたと思わない?」
親元を離れ、団体生活をしたことによって得ることが出来た「個」としての責任感。思ったことはきちんと言葉にしなければ伝わらないという意思表現の難しさ。そして、言葉の壁を超え、違う国の人を愛してしまったという無鉄砲な行為。三か月前には想像も出来なかったほどの私たちの成長ぶり。
「うん、本当だね。私なんかこの短期間で好きな人が出来るなんて思ってもみなかったもん」
知美は言い、
「でも、後悔はしていないんだ」
と、おだやかに笑った。
「知美はこれからどうするの? アメリカへは戻ってこないの? マークとは?」
服をたたむ手を止めて私は訊いた。
「まだ分からないな。もちろん、戻っては来たいけど、マークがどう思ってくれているのか聞くのが怖いし」
寂しそうに知美はこたえた。私は、そう、と、小さくうなずいた。
「カナは? アンドリューとはどうするの?」
心のもやもやをかき消すような明るさで知美は言った。
「アンドリューが遠距離恋愛を頑張って試してみようって言ってくれたから、それを信じて頑張ってみようかなって思っているよ」
たたみ終えた服をスーツケースに入れた。
「そうなんだ。良かったじゃない。カナたちなら離れていても大丈夫よ」
「本当にそう思う?」
「うん。だって、アンドリューのカナに対する態度を見ていたら、絶対に裏切らない人だって分かるもん。本当にカナのことを愛しているんだなって分かるもん。心配いらないよ」
今度いつ会えるかも分からないまま帰国することに一抹の不安を抱いていた私には、知美の言葉は大いに励みになった。
「ありがとう。その言葉を聞いてとっても勇気づけられたよ」
私は言い、カセットテープをマフラーで包むとそれをスーツケースの隙間に入れた。すると、ドアをたたく音がした。
「うわさをすれば……だったりしてね」
知美は笑ってドアを開けた。
「ルイ!」
知美の驚いた声に目を向ける。そこには(以前、毎日のように私たちの部屋へ来ていたときと同じ笑顔で)ルイが立っていた。
「ハイ、ルイ。しばらくね!」
私は手を振って久しぶりの訪問者を歓迎した。
「カナ、ちょっといいかな?」
「ん、何?」
「出来ればちょっと下まで来てくれるといいんだけどな」
ルイは戸口に立ったまま部屋へ入ってこない。
「ええ、分かったわ。ちょっと待ってね」
私はジャケットを羽織ると、ルイと一緒にエレベーターへ乗り込んだ。ロビーにはまだ何人もの学生が楽しそうに会話をしている。でも、ルイはみんなの前を横切り、そのまま玄関の方へと歩いて行った。
「ルイ、どこへ行くの?」
ルイの背中を追いながら訊いた。
「渡したいものがあるんだ。だからついてきてくれる?」
渡したいもの?
――今日は持ってきていないけど、今度渡すからね、カナ。
バレンタインデーのとき、ルイは確かそう言っていた。きっとそのプレゼントだ。期待を胸に私はルイのあとに続いた。玄関を出ると、ルイはバイクを停めてある駐車場ではなく、寮の裏手にある住宅街の方へと進んで行った。私はそのあとをただ無言のままついて行く。一ブロック、二ブロック、三ブロック。そのうち人の気配もなくなり、私は次第に不安になった。
「ルイ、一体どこへ行くの? こっちに何があるの? 私、怖いよ」
ルイはようやく足を止めて振り向いた。そして、一歩私に近づくと、
「カナにどうしても受け取ってもらいたいものがあるんだ」
と真顔で言った。
「なあに?」
私はにこやかに微笑んだ。
「カナ、目を閉じてくれる?」
直視したままのルイ。
「どうして?」
私はもう一度微笑んで訊いた。
「どうしても」
こたえたルイの無表情さが私を一瞬不安にさせ、私は後ずさりした。するとルイは、
「目を閉じていないと渡せないものだから」
と即座に言い添え、ゆっくり笑みをのぞかせた。ルイの笑顔に安堵した私は、分かった、と、うなずき目を閉じた。次の瞬間だった。ルイの唇が私の唇に重なった。あまりにも突然の出来事に抵抗しようにも彼の力に押し切られ、成すすべがなかった。彼の舌が激しく私の舌を絡め始めた。
ルイ、お願いやめて……。
心の中で叫ぶことしか出来なかった。でも、ルイは力を緩めることなく激しく舌を絡め続ける。あまりの激しさに私は気を失いそうになった。
どのくらいの長さ私たちはそうしていたのだろう。ルイはようやく力を緩め私を離した。
「ルイ、どうして? なんでこんな事するの?」
辛うじて口にすると、瞳の奥がじわじわと熱くなり、ルイの顔が歪んで見えた。
「カナが好きなんだ! ずっと好きだったんだ!」
ルイは声を荒げて言い、握り締めていた拳を振りおろした。哀調を帯びたルイの声。ルイは肩で深く息をつくと、
「毎日、カナの部屋へ行っていたのはカナに会うためだったんだよ。そうすればカナも僕の気持ちに気づいてくれるかもしれない。そう思ったんだ」
と、寂しそうにつけたした。ルイの悲哀に満ちた面持ちに、私は何も言えなかった。しばらく重たい沈黙が続いた。ルイはゆっくり空をあおぐと、呆れたようにフッと鼻で笑った。
「フライヤーズのときだって、智也のパーティのときだって、カモンのときだって、カナの中には僕のことなんか、これっぽっちも眼中になかったのにな」
独り言のようにつぶやくルイ。私の瞳に涙が溢れだした。
「バカだよな。あんな遠まわしなことをせず、ちゃんと好きだって言っていたら、こんな風にカナを泣かすこともなかったんだ」
ルイはいたたまれないほど悲しい目で私を見下ろした。
「ならどうして?」
言うのと同時に涙がポロポロと流れ落ちた。
「私がアンドリューとつきあっていることはルイだって知っているじゃない。なのに今になってどうして?」
ルイは目をそらした。
「そう。ちゃんと分かっていたさ。だから一度はカナを諦めようとしたんだ。でも、どうしても諦めきれなかった」
「ルイ……」
私の声は限りなく切ない響きだった。その響きにこたえるようにルイは言った。
「僕のことを忘れてほしくないんだ。カナの記憶から僕を消してほしくないんだよ。だからキスをしたんだ。嫌われると分かっていてもしたんだ。そうすればたとえ何年経ってもカナは僕を、僕のキスを肌で覚えていてくれるだろ」
ルイの表情もまた切なさをたたえていた。
私がアンドリューを好きでいたように、ルイは私を想い続けてくれていた。アンドリューの存在を知り、心の整理をしようとしてくれていた。ルイの突然の告白に私は正直どうしてよいか分からなかった。ただ無性にやり切れない気持ちになった。でも、ひょっとしたら、私はルイの気持ちに気づいていたのかもしれない。ルイとの友情を信じたかったから、気づかない振りをしていただけなのかもしれない。だから「ルイはカナが好き」というとんでもない言葉が頭の中で組み合わさったとき、それはただの自惚れ、ルイには彼女だっている、とルイの言動に目を向けないようにしていたのかもしれない。だけどそれが反ってルイを追いつめていた。全てを知った上で「キス」という行為に至ったのは、ルイにとっては苦渋の決断だったのだ。私は目を閉じて息をついた。涙は一向に止まらなかった。
「ルイ、ごめんね。今まであなたの気持ちを無視してしまって」
私はルイを見つめると心から謝った。瞳からはいく筋もの涙がこぼれ落ちた。突然のルイの激しい行動に腹を立てるどころか、ルイの気持ちが痛いほど伝わるだけに、私はただ無性に悲しかった。どうもがいてみてもルイの気持ちにこたえてあげることが出来ない事実に、私の心はひどく痛んだ。
「謝らないでくれよ。嫌われて当然のことをしたのは僕なんだよ。なのになぜカナが謝るんだ。余計に辛くなるだけじゃないか」
ルイは眉間にしわを寄せ、やるせない表情で言うと横を向いた。
「ルイ、そんな風に言わないで。私はあなたを嫌ったりしないし、ましてや忘れるなんて、そんなこと出来るわけないじゃない。だって、私にとってあなたは大切な友だちなのよ」
真実だった。私にとってルイは本当に大切な友人だった。出来ることならいつまでもルイとの友情を守りたいと思った。
「カナにひどい事をして泣かせた僕を本当に許せるのかい? これからも友だちだって本当に言えるのかい?」
半信半疑でルイは私を見た。私は彼をまっすぐに見つめ返し、深くうなずいた。
「許すも何も、ルイはひどい事なんてしてないじゃない。ただ気持ちの伝え方がちょっと情熱的だっただけよ」
私はこたえて涙をぬぐい、ちょっとびっくりしたけどね、と言うと、ようやく笑顔をつくることが出来た。
「ごめん、カナ。本当にごめんよ」
ルイはすまなそうに私を見つめ、祈るような響きで何度も謝った。
「もういいの。ね、もういいから」
私はルイの腕をつかんでなだめた。メルシー、カナ。私の手にそっと触れるとルイは恥ずかしそうに微笑み、私をそっと包み込んだ。それは私の知っているいつもの優しいルイのハグだった。私の知っているいつものルイに戻っていた。
「久しぶり。ルイの『メルシー』を聞くの」
私は言って体を離すと、
「私、あなたの『メルシー』っていう響き、大好きなの。知ってた?」
と、ルイを見つめてニッコリ笑った。ルイは頭をかきながら、
「メルシー」
と嬉しそうにもう一度言うと、目を細めて笑った。
きっと大丈夫。
私たちはこれからも良き友人でいられる。私は心からそう確信した。
十一 帰国
金曜日、真っ青な空の下、卒業式は午後二時から始まった。先生方の短い祝辞、卒業証書――黒革のケースに納められた――の授与、閉会式の挨拶。リズミカルなスピードで進んだ式は、気がつけばあっという間に終わっていた。厳かな重々しい雰囲気など一切ない、とても簡素な英語学校の卒業式。
「カナ、卒業おめでとう!」
「二人ともおめでとう!」
いつもはジーパンにセーター姿がトレードマークのスーザンやジュリアも、この日ばかりはドレスできめていた。
「二人は明日からどうするの?」
会場の端に用意されていたテーブルへ移動すると、私は訊いた(サンドイッチやケーキ、お菓子にドリンクなどの軽食が用意されていた)。
「あと一週間ぐらい滞在して、色んなところを見て回ろうと思っているの。またいつここに来られるか分からないしね」
スーザンがこたえ、そうそう、とジュリアがうなずいた。
「カナたちは?」
「私たちは日曜の朝の飛行機で日本へ帰国」
言った瞬間、胸の奥がずんと重くなった。
「そっか。じゃあもうすぐだね」
ジュリアは言い、取り分けたケーキを口に入れた。
「ねえ、いつかスイスへ行ったら遊びに行ってもいい?」
話題を変える必要があった。「帰国」という文字が私の心を締め付ける前に。
「もちろんじゃない! そうなったらうちに泊まりに来てよ! ホテルなんかに泊まらないでよね!」
スーザンは満面の笑みを浮かべてこたえた。また絶対に会おうね、約束よ。私たちはもう一度ハグをしてかたく誓い合った。
パーティはいよいよ盛り上がった。そこかしこでハグをしたり、写真を撮ったり、連絡先を交換し合ったりと、限られた時間の中でみんなはそれぞれに思いの丈を分かち合っていた。
「カナ、卒業おめでとう」
しばらくしてルイが私の横に来た。
「ルイもおめでとう」
いつもと同じように振舞おうと、腕を広げてハグの身振りをした。するとルイは歯を見せて笑い、いきなり私を抱きかかえると、
「誰か写真撮ってー!」
と、声を上げて会場を歩き始めた。
「ちょっと、ちょっと、ルイ。下ろしてよお!」
私は足をバタつかせた。でも、夕べのことがシコリにならず、いつものように接することが出来たことに私は胸を撫で下ろし、顔がほころんだ。ルイの突飛な行動にみんなは歓声を上げ、会場は笑いで包まれた。
「カナ、アンドリューが来ているよ」
私に近づいてきた知美がにこにこしながらおしえてくれた。
「えっ?」
式の時間には授業があるから来られないとアンドリューは言っていたはずなのに。
「ホントに?」
「ほら、あそこにいるよ」
知美の指さした方に目をやると、会場の入り口に確かに花束を持ったアンドリューが微笑みながら立っていた。
「ルイ、下ろして。アンドリューが来ているの」
私はすぐにでも駆け寄りたかった。でも、ルイは私を抱きかかえたままアンドリューの方へと歩き出した。
「ルイってば、下ろしてよ。こんな格好、恥ずかしいじゃない」
「大丈夫だよ。それにちゃんと挨拶しておきたいんだ、カナの彼氏に」
ルイはにこやかに笑って言った。
「カナ、卒業おめでとう!」
私のかかえられた姿に目を細めて言うと、アンドリューは鮮やかな花束を私に差しだした。
「ありがとう。でも、授業はどうしたの?」
「カナにおめでとうを言いたくて、サボって来ちゃったよ」
肩をすくめて笑った。
「アンドリューったら」
アンドリューの優しさに酔いしれる間もなくルイが大きく咳払いをした。
「あ、紹介するわ。アンドリュー、彼がルイよ」
「やあ、ルイ。君があのおもしろくていい人のルイだね」
アンドリューの言葉にルイは目を大きく見開いて私を見た。
「だって本当のことじゃない」
笑って言うと、ルイはようやく私を下ろし、
「やあ、アンドリュー。ちゃんと会うのは初めてだね。よろしく」
と、とても紳士的に挨拶をした。
「こちらこそ」
アンドリューもにこやかにこたえ、二人は力強く握手を交わした。
私の愛するアンドリューと心から大切と思える友人のルイが笑顔で向き合い、握手を交わし合っている。その姿に私は一人、興奮していた。
「何?」
ルイはそんな私を見て不思議そうに言った。
「ああ、こんな日が来るなんて。二人を見ていると『男の友情』って感じがして、なんかとってもステキ!」
私は胸に手をあてて言い、はあ、と、大きな息をつくと、再び感動の余韻に浸った。アンドリューとルイは互いの顔をもう一度見合わせると、無言のまま笑い出した。
――カナって天然入っているでしょう。
そんな言葉、私にはもうどうでもいいことだった。
ただたまらなく嬉しかった。
翌日、良枝、敦子、私の三人はアンドリューの車でイザベルの家へ向かっていた。昨日、卒業式に顔を出したイザベルが、ホームステイ体験で世話になっていた私たち六人全員を最後の食事会に招待してくれたのだ。でも、アメリカ滞在最終日という事もあり、加代子、貴美子、知美の三人は既に予定を立てていた。結局、イザベルの招待を受けたのは残りの私たち三人だけだった。イザベルは、六人全員が揃わないのは残念だわ、と言いながらも、私たち一人ひとりを抱きしめて卒業を祝福してくれた。そのとき、私はイザベルにアンドリューを(私の大切な人として)紹介した。二人は握手を交わすと、イザベルは彼女らしい接し方――誰に対しても広い心と愛を示す――で、カナの大切な人ならあなたもいらしてね。多いほうが楽しいもの、と、アンドリューも招待してくれた。
イザベルの家は寮から十五分ほど西へ行った、ジャックマフィースタジアムが見下ろせる、小高い丘の上の閑静な住宅街の一角にあった。そこは治安もとても良い、中流階級のエリアだけに立派な家ばかりが建っていた。
「イザベルたちはなかなかいいところに住んでいるんだね」
坂道にさしかかりアクセルを踏みこむとアンドリューは言った。
「ホント。こんなところに良枝たちは住んでいたのね。羨ましい」
まるでドラマに出てくるような家並みが続く。
「カナたちは大変だったもんね」
敦子がポツリと言った。隣で良枝も、そうそう、と、思い出したようにうなずいた。
「その話は初耳だな。何があったの?」
アンドリューは気にした様子で私を見た。
「まあ色々とあってね」
思い出したくない苦い体験に、口を濁して私はこたえた。
「みんなよく来たね。中へ入って」
私たちが来るのを今か今かと待っていたかのように、(私たちがドアをたたく前に)ホストパパのハビエルがいきなりドアを開いて言った。そして、コンニチハ、ワタシ、ハビエルデス、と、にこにこしながら――敦子たちに教えてもらったであろう日本語で――私たちを歓迎してくれた。
イザベルの家のインテリアはどれもブルー系のとても爽やかな色調で統一されていた。所どころに置かれた観葉植物が部屋全体の雰囲気をうまくまとめていて、とても和やかな気持ちにさせる。食事はメキシコ人の家庭らしく、様々なメキシコ料理がテーブルを飾った。日本食と同じぐらいにメキシコ料理が好きだというアンドリューは、テーブルに並べられた料理を見て、どれも美味しそうですね。まるでレストランへ来たみたいですよ、と興奮気味にイザベルに言った。
「イザベルは料理上手だからどれも美味しいのよ」
敦子が自慢気に言うと、
「私は特にこのメキシコ風ラザニアがお気に入りなの」
と、指さして笑った。
「そうだったわね」
イザベルが相づちを打ち、最後の料理をテーブルに置くと、席についた。
「さあ、みんな、お祈りをするから手を握って」
全員が食卓を囲むとハビエルはそう言って、両隣に座っているイザベルとアンドリューの手を握った。私たちも言われたように手を握る。そして、目を閉じた。
「天にいます私たちの父よ、今日、このように食卓を囲み、恵みに与れることを感謝いたします。ここにいる三人の娘たちは明日、日本へ帰国します。三ヵ月という短い期間で、多くのことを学べる機会を与えてくださったことに感謝いたします。これからの彼女たちの未来があなたの導きのもと、築いていくことが出来ますようにお見守りください。アーメン」
ハビエルの心のこもった祈り。泣いても笑っても明日、私たちは帰国する。私たち三人の目には涙が溢れていた。
食卓は美味しい料理と楽しい会話で盛り上がった。イザベルたちの馴れ初めの話や、生まれ故郷のメキシコの話。敦子や良枝のサン・ディエゴで得た経験の話や、アンドリューの大学生活の話。そして、話題は私の今後の話になった。
「カナは今度いつここへ戻ってくるか、大体のことは決めたの?」
イザベルが食後のミントティにミルクと砂糖を入れながら訊いた。
「カナ、戻ってくるつもりなの?」
良枝は驚いて私を見た。
「まだはっきりいつとは言えないけど、日本の大学を卒業したら、こっちの大学に入りたいなって思っているの」
アンドリューも驚いたように聞いていた。
「だって、もっとちゃんと英語が話せるようになりたいんだもの」
私は言ってミントティをひと口飲むとアンドリューに微笑んだ。スゥーっとした爽やかな香りが口いっぱいに広がる。アンドリューも笑みを浮かべて私を見つめ返した。
「そのときはここに住めばいいよ」
ハビエルの言葉に、私の隣に座っていたラネーレは、
「そうなったら嬉しいな」
と、私を見上げ腕をからめた。
「じゃあ、そうなるように祈っていてくれる?」
「うん。分かった。今晩からお祈りするね」
ラネーレの素直なこたえにみんなの顔に暖かい笑みがこぼれた。私はラネーレを横から抱きしめると、ありがとう、と、微笑んだ。
「そろそろ戻らないと」
時計を見て、敦子が名残惜しそうに口を開く。時間は九時を回っていた。
「そうね。明日はかなり早いフライトなのよね?」
イザベルは言うと席を立ち、台所から包みを持ってきた。
「はい、これをあなたたちに。今朝、私が焼いたクッキーよ」
私たちはそれぞれに受け取り、最後に一人ずつ別れのハグをした。敦子と良枝はその場で泣き崩れ、長い間みんなと抱き合っていた。
「カナ、戻ってくる日が決まったら必ず連絡してね。待っているわ」
助手席に乗り込む私にイザベルはもう一度念を押して言った。
「ありがとうございます。必ず連絡します」
私は心から礼を言い、もう一度ハグをした。
「アンドリュー、あなたはまだここにいるのよね? たまには遊びにいらっしゃい」
「ありがとうございます。是非また伺わせていただきます」
アンドリューは最後まで紳士的に振る舞い、両手で握手をしてこたえた。
「あ、それからね」
アンドリューが車のドアに手をかけると、イザベルは慌てたように彼を呼び止め、耳元で何かをささやいた。
「大丈夫です。約束します。安心してください」
アンドリューはこたえて柔らかい笑みを浮かべると、車へ乗り込んだ。
寮へ着くと敦子と良枝はアンドリューにハグをして別れ、まだ終わっていないパッキングをするために早々と部屋へ戻って行った。
「これからカナの部屋へ行ってもいいかな? トモミにもお別れを言いたいしね」
「ええ、もちろん」
週末の土曜日でまだまだ人の出入りで騒がしい寮の廊下を通りぬけ、私たちは部屋へ戻った。ドアを開けるとそこに知美の姿はなく、既にパッキングし終わったスーツケースがベッドの横に置かれていた。
「トモミはまだ出かけているみたいだね」
ドアを閉めながらアンドリューは言った。
「ひょっとしたら今夜は行ったきり戻ってこないかもしれないわ」
「どこへ行ったか知っているの?」
夕べ、ベッドに入ったとき、知美は私に打ち明けた。
「私、明日マークと一緒に一晩過すことになったの」
「過すって?」
真っ暗な部屋の中、妙に私の声が響く。
「ベッドで一緒に過すっていうこと」
知美は淡々とこたえた。
「それって、メイクラブするっていうこと?」
うん、と、うなずくと、知美はしばらく何も言わなかった。
「後悔しない? 本当にいいの?」
私は確かめるように訊いた。
「うん。好きだから後悔はしない」
知美は決意をかためたようにきっぱりと言った。
アメリカへ来たとき、私は結婚するまではバージンを守りたいと思っていた。体の関係よりプラトニックラブこそが一番大切だと信じていた。でも、その自分の信じていたものが果たして正しいのか、気持ちにずれも生じていた。誰かを心から愛すると、その人の全てが知りたくなる。それが当然の感情なのかもしれない。
――カナもいつかそう思えるときが来るよ。
ルイが随分前に言っていた言葉の意味が、ようやく理解出来るようになっていた。だから知美の決めた決断に異を唱えることなど、私には出来なかった。
「知美が後悔しないなら、私は何も言わないよ」
「ありがとう、カナ」
知美は本当に嬉しそうにこたえた。
「多分マークのところ。夕べ、知美はマークのところで今夜過すって言っていたもの」
私が言うと、アンドリューは苦笑いして、
「そうか」
と短く言った。
「アンドリューはどうする?」
「えっ?」
驚いて私を見た。
「あ、そういうことじゃなくて……、これからどうする? もう帰らなくちゃダメ?」
二人とも同じことを考えていたことが分かり、一気に恥ずかしさがこみ上がった。
「カナはどうしたい?」
柔らかい笑顔でアンドリューは訊いた。
「アンドリューと一緒にいたい。ずっと一緒にいたい」
私はアンドリューを真っすぐに見つめてこたえた。
「じゃあ朝まで一緒にいよう」
腕を広げて優しく私を抱きしめた。
「ほんとう? 本当にいてくれるの?」
「本当だよ」
それから優しく唇を重ねた。
「ここでの生活は快適だった?」
しばらくして、ベッドの上で壁にもたれてくつろいでいたアンドリューが訊いた。
「うん、とっても。ただ一つ不満だったのは、部屋に電話がなかったことかしら」
最後の荷物をスーツケースに入れて蓋を閉めると私はこたえた。
「それは言えているな」
アンドリューは冗談めかせて言い、私たちは二人して笑った。机の上もクローゼットの中も全て片付けられ、寂寞とした部屋の中に私たちの笑い声が心地よく反響した。
「はい、これ。私からの感謝と愛のしるし」
鞄から小さな包みを出すとアンドリューに渡した。アンドリューはにっこり笑って受け取ると、何かな、と言いながら包みを開いた。
「カナ、こんな高価なものはもらえないよ」
驚いた顔のアンドリュー。
「でも、それ、元々は私のネックレスなの。ちょっとごつくて私、全然使ってなくて。だからこの前、お店でブレスレットに変えてもらったの。ホラ、見て」
私は自分の腕にはめてあるもう一つのブレスレットをアンドリューに見せた。
「お揃いでつけていれば、遠くに離れていてもつながっていられるような気がして……。でも、迷惑だったね。ごめんなさい」
押し付けがましい自分の行為に急に後悔の念が沸く。袖口の奥へブレスレットを隠した。そんな私を見て、アンドリューは柔らかい微笑みを口もとに浮かべると、
「そうか。これは日本からはるばる渡ってきたカナのネックレスなんだ。それじゃあ大切に使わないとな」
と明るく言って腕にはめた。
「どう? 似合う?」
アンドリューは本当に優しい。
「うん、とっても」
笑みをたたえて隣に座った。
「ありがとう、カナ。大事にするよ」
心に沁みるような柔らかい声。アンドリューはブレスレットを触っていた。
「でも、これがなくても心はつながっているよ」
「うん。分かっている」
私は小さくうなずいた。
「人は目に見えるものや、形あるものが確かなものだと思いがちだけど、本当のものは案外、目に見えないところにあったりするものなんだよ」
私の肩に腕を回すとアンドリューは静かに口を開いた。
「だけどこれを見るたびに、カナの愛を感じられるのも事実だね」
それから笑ってウインクをした。
「ありがとう」
私はアンドリューの頬にそっと唇を押しあて、肩にもたれると目を閉じた。
時刻は既に夜中の一時を過ぎていた。
「少し横になろうか?」
疲れが見え始めた私にアンドリューは言った。
「でも……」
返事に詰まると、
「何もしないから心配しなくて大丈夫だよ、カナ」
と耳元で優しくささやいた。その言葉に嬉しいような寂しいような複雑な心境になった。
「イザベルともさっき約束したしね」
目を細めて私を見た。
「彼女はあなたに何を言ったの?」
「カナを本気で愛しているなら、カナが傷つくようなことはしないでほしいって言われたんだ」
アンドリューはこたえてセーターを脱いだ。
「彼女はカナのことを本当に大切に思っているね。本当のママのようだよ」
「ええ、彼女に出会えて私は本当に恵まれているわ」
イザベルの私を気づかう言葉に心が暖かくなった。
アンドリューは脱いだセーターを椅子に掛け、真面目な顔つきで私の前に座ると、カナ、と言って両手を握り、穏やかに口を開いた。
「愛していると言って、メイクラブをすることは簡単なことだよ。そうやって確かめ合うことも一つの愛の証かもしれない。でも僕は、それは男の身勝手な考え方だと思うんだ」
そして、はにかむように微笑むとアンドリューは続けた。
「カナには分からないかもしれないけど、好きな人を目の前にして愛し合わずに我慢をする事は、男にとって本当に大変なことなんだよ。だからこそ、その我慢が今僕に出来るカナへの一番の愛の証だと思ってほしいんだ」
たった三つしか年が離れていないとは思えないほどアンドリューはとても大人だ。どうしたらこんなにも冷静でいられるのだろう。私にはどう背伸びをしてみても追いつけないほどに器の大きな人だ。私は尊敬と信頼の念でアンドリューを見つめた。
「明日からはしばらく会えなくなる。でも、ゆっくり焦らずお互いを信じて、次にまた会える日を待とう。いいね?」
「ありがとう、アンドリュー」
私は深くうなずいた。
「でも、僕はカナがすぐにでもここへ戻ってくる、そんな気がするよ」
「そうできるように日本へ戻ったら準備をするつもり」
互いに微笑み合うと、どちらともなく口づけを交わした。
会えなくなる寂しさや不安ではなく、次に再会することへの喜びと期待が私の胸の中に溢れていた。
――アンドリューのカナに対する態度を見ていたら、絶対に裏切らない人だって分かるもん。
知美が言っていたように、私も心からそう信じられる。
私はアンドリューの広い胸に顔をうずめて数時間の眠りについた。
十二 手紙
四月は色々なものが息吹き出す始まりの月。そよぐ風の中にも春の暖かさが感じられるようになった。桜の花もその暖かさにあおられ、淡い色の花びらを少しずつひらき、芳しい香りを放っている。日本へ帰国して一週間が経った。
「カナ、いい加減に起きなさい」
時差ボケがなおらないと母に言い訳をしながら私は毎日怠惰な生活を送っていた。
日本へ帰国した日の夜中、私は初めて国際電話をかけた。当時はまだまだ今ほど通信事情は発達しておらず、ほんの少し話をしただけで切らなくてはいけないほど、国際電話は高額だった。
「カナ! 日本へ無事に着いたんだね!」
「ええ、とうとう戻ってきちゃった」
日本とサン・ディエゴの距離が九千キロ以上も離れているとは思えないほど、近くに聞こえるアンドリューの優しい声。
「今、日本は何時なんだい?」
「夜中の三時過ぎ」
両親がぐっすり寝静まり、自分だけの時間が持てるまで(勉強をする振りをして)私はそのときを待っていた。
「Oh my God!」
「だってどうしても今日、あなたの声が聞きたかったから」
「カナ、君がここにいなくて寂しいよ」
「私もよ」
私たちはほんの二、三分会話を交わすと、現実の世界へ戻らされた。
「いくら春休みだからって、毎日寝てばかりいないで何かしなさいよ」
母は言ってカーテンを開いた。
サン・ディエゴの青空とまではいかないが、横浜の空も気持ちよく晴れていた。
変わらない町並み。変わらない景色。変わらない日常の生活。でも、確かに変わったものが一つあった。それは私自身だった。私は確かにこの三ヵ月間で物の見方、人に対する対応の仕方、自分に対する考え方が変わっていた。
「カナ、なんか留学前と比べて、冷たくなった感じがする」
「ホント、前はそんなにはっきりものを言ったりしなかったよ」
母にけしかけられた午後、三ヵ月ぶりに会った友人たちは言った。
「そうかな? 思ったことを言っただけなんだけどな」
アメリカでは自分の意見が尊重される。何も言わずに相手の意見にただ同調することは、自分の意見がないのも同じことだ。相手に否定されようが自分の意見を言うことが大切なのだ。右ならえで同じことをして、同じことで笑い合っている彼女たちからすると、私のはっきりとした態度は冷たく、きつく映るようだった。楽しいはずの友人たちとの再会が、急に退屈な時間へと変わっていく。しばらくして私は、時差ボケでフラフラするから、と、嘘をつき、家へ戻った。この言い訳があとどのくらい使えるのかな。電車の窓に頭をもたせ、ガラス越しに流れていく景色を目で追いながら、私は心の中でつぶやいた。
家へ戻るとアンドリューから手紙が届いていた。アンドリューだとすぐに分かる癖のある字。私は逸る気持ちを抑えながら椅子に座り、ゆっくり封を開いた。
親愛なるカナ、
元気にしているかい?
カナが日本へ戻ってからサン・ディエゴは素晴らしい天気に恵まれ、この青い空をカナに見せられないのが残念だ。でも、そんな天気を楽しむ余裕もなく、僕は毎日勉強に勤しんでいるよ。春休みが終わると同時に提出するレポートがあるから、そのレポートまとめに追われているんだ。カナのいない寂しさを紛らわせられるのだから、僕にとっては有難いと言うべきなのかもしれないけどね。
春休みが終わったらすぐに長い夏休みが始まるよ。日本に行ってカナに会えるなら夏休みも待ち遠しいけど、サマースクールを受ける僕にとっては味気ない夏休みになりそうだ。
カナの夏休みは?
まさかここへ戻ってくる、そんなビッグ・サプライズはないよね。
カナ、君に会えなくて寂しいよ。
でも、前にも言ったように、不思議なぐらいカナがすぐにでも戻ってくる、そんな気がするんだ。
カナ、毎日郵便受けをチェックしては君から届く手紙を待っているよ。
忘れないで。ここにカナをクレイジーなほど想っているスイス人がいることを。
サン・ディエゴの日差しと僕の愛をこめて、
カナ、愛しているよ。
アンドリュー。
一九八六年三月二十四日。
読み終わっても、「君に会えなくて寂しい」という個所を私は何度も目で追った。
アンドリュー、あなたに会いたい。
先の見えない不安にここが日本だと改めて思い知らされた。
翌週、知美から連絡があった。
どうしても会って話しがしたい、と言われ、私たちは新宿駅に隣接した喫茶店で会う約束をした。
「カナ!」
「知美!」
たった数週間しか経っていないのに、とても懐かしい友人と再会したような暖かい気持ちが胸に湧き上がる。私たちは思いきり抱きしめ合った。
「元気だった? もう時差ボケはなおった?」
私たちは窓際の席へ座った。
「もうすっかり前と同じ生活になって、毎日ボーっと過しているって感じかな」
知美は言って椅子にもたれると、窓の外に目をやった。
日本へ戻る帰りの機内で少し離れたところに座っていた私たちはあれ以来、ちゃんと話をしていなかった。寮を出発するときも、見送りに来てくれたロベルトやダニー、ルイとの別れにみんなは抱き合ったり、写真を撮ったりと最後の最後まで慌しく、ゆっくり話せる機会がなかった。
「まだ日本へ戻ってきてそんなに経っていないのに、なんかものすごく昔の出来事のように感じるね」
知美の視線は遥か遠くを見つめている。
「ほんと。なんだか夢の中の出来事だったみたいに遠いよね」
日本とアメリカを隔てている距離のせいかもしれない。
「でも、ついこの間までサン・ディエゴにいたんだよね。私たちほんとうに……」
知美は言って深くため息をついた。私は大きくうなずいた。
「マークとの最後の夜はどうだったの?」
しばらく黙ったままの知美に私はストレートに訊いた。知美があの夜の事を話したいということは私には分かっていた。
「すごく素敵だったよ。マークは最後まで優しかったし」
知美は言い、ゆっくりと私を見つめた。
「ブライアン(マークのルームメイトだとおしえてくれた)もその日は気をきかせてくれて、彼のガールフレンドのところで過してくれたからずっと二人だけで過せたの」
運ばれてきた紅茶にレモンを浮かべ、スプーンで何度もそれをかき混ぜながら知美は続けた。
「マークの小さいときの話とか、大学を卒業したら何をしたいとか、将来の夢なんかも話してくれて。本当に楽しかった」
知美はぼんやりと微笑んだ。そして、
「好きな人と愛し合うっていう事があんなに素晴らしいことだなんて、私、思ってもみなかった」
と言うと、紅茶をひと口啜った。
「それじゃあ、後悔はしてないのね?」
「うん。メイクラブをしたことは後悔してない。だって一生の宝になったもの」
でも、と言って知美は横を向いた。知美の頬は徐々に赤らみ、眉間にしわがよった。そして、急に悲しげな表情をすると、瞳は涙でいっぱいになった。
「するんじゃなかった……。だってマークの全てを知ってしまったら、忘れたくても忘れられないもん」
こみ上がる感情を抑えようとしているのか、知美は必死に唇を噛み締めていた。
「どうしてマークを忘れなくちゃいけないの?」
私は両手でティーカップを持ったまま訊いた。知美はくしゃくしゃに泣いていた。
「だって、私がいくら彼を好きでももうダメなんだもの」
止まらない涙を知美は何度もぬぐって言った。ほんの少し前、マークと過ごしたことを後悔していないと言っていた知美の声はひどく弱々しい。
「なぜ? マークから何か言われたの?」
私を見ると首を横に振った。
「それならなぜダメだなんて決めつけるの?」
「だって、言われなくたって分かるよ。あの場にいたらカナだってきっとダメだって思ったよ」
「知美……」
だから、私の言葉を振り切るように知美は続けた。
「だから、マークとの事は思い出として心にしまって、あとは考えないようにしないといけないのよ。そうよ。そうじゃなかったら辛くなるだけだもの」
それはまるで知美自身に言い聞かせているような言い方だった。
「そんな簡単に結論を出してしまっていいの?」
言った瞬間、知美は私を直視した。
「簡単じゃないよ! でも、ずっとずっと考えていたことなの。だって、会いに行ったりして嫌われたくないし、それに思い出は綺麗なまま心に仕舞っておく方がいいのよ。そうでしょ? そうじゃない?」
三ヵ月前の(精神的にもまだまだ子供だった)私なら、知美の思い――マークを愛するが故に嫌われたくないから自分の気持ちを諦める――を理解できなかったかもしれない。でも、人を心から愛することを覚えた私には、彼女の言葉が本心でない事が分かった。本心でないと分かっても、私は相手の意見を尊重することの大切さも学んできた。それだけに、知美の思い悩んだ末の決意をただ受け止めるだけでいいのか、正直いくばくかの抵抗を感じていた。でも、知美はきっとマークに会いたいはずだ。私は思ったことを口にした。
「思い出だけを大切に、マークを忘れてしまう事が知美の決めた本心からの決断なら、私はそれを尊重するよ。でも、マークから『もう会いたくない』と言われたわけではないんでしょ? 本当は彼に会いたいんでしょ? 知美の心に少しでも迷いがあるのなら、焦って答えを出す必要はなんじゃないの?」
知美はうつむいたまましばらく黙っていた。そして、大きな息をつくと、
「ホントは今すぐにでもマークに会いに戻りたい。でも、会いに行ったら悲しくなるようなことを言われそうで……それが怖いの。だから自分の気持ちをわざと断ち切ろうとしていたの。まだこんなにマークが好きなのに……」
と言い、手の甲で涙をぬぐった。
「それじゃあ本当はまだ迷っているのね?」
「うん」
「本当はちゃんと確かめてみたいのね?」
「うん」
だったら、と、私は知美の腕をつかむと続けた。
「自分の気持ちに臆病にならないで、知美。だって、他人に嘘はつけても自分に嘘はつけないのよ。自分の気持ちと正直に向き合わなくちゃ」
私の言葉に知美の瞳が大きく見開いた。そして、
「そうよね。カナの言う通りよね。いくら頑張ってみても、自分で自分の心をごまかすことなんて出来ないもの。私、今度マークに手紙を書いてみる。それで今の私の気持ちをちゃんと伝えてみる。今のままじゃ絶対に後悔するもの」
と言って、もう一度涙をぬぐった。迷いから解放されたようなさっぱりとした知美の表情がそこにあった。
「カナと話せてよかった。気持ちも前向きになれたもの」
知美はにっこり微笑んだ。店のスピーカーからサン・ディエゴのラジオステーションでよく流れていたホイットニー・ヒューストンの曲が心地良いボリュームで流れだした。
目をとじればあの寮のあの部屋で聞いているような、そんな錯覚さえ覚えた。
新学期も始まり五月の連休に入ると、私は三ヵ月ぶりに智也と横浜の駅ビルで会った。
歯の治療もすっかり終わり、今は毎日遊んでいると言う。
「しかし、早いよなあ。俺が日本へ戻ってもう三ヵ月だもんなあ。あれからなんか変わったことなかったか?」
懐かしい智也の笑顔にホッとする。
「うーん、特にないなあ。あっ、でも、わたくし事だけど、アンドリューのフィアンセ事件は無事に解決いたしました」
私は言ってテーブルに両手をつくと、
「その節は大変、ご心配おかけいたしました」
と、首をすくめて笑った。
「まあ笑っているところを見ると、いい方に転んだって感じだな。良かったよ」
昼時で連休とも重なり、ハンバーグが美味しいと評判の店は大勢の客でごった返していた。
「智也はいつ向こうへ戻るの?」
鉄板の上でジュージュー音を立てているハンバーグにソースをかけ、私は訊いた。勢いよく立ち上る煙にソースの焼ける香ばしい香り。食欲が一気に湧いてきた。
「九月の新学期に間に合うように戻ろうかと思っているんだ」
智也はこたえて、付け合わせのポタージュスープをひと口飲んだ。
「そう。で、またALIなの?」
「いや、ダウンタウンにあるシティカレッジに入ろうと思っているよ」
「大学か……」
私は言い、切り分けたハンバーグを口に入れた。
私も早くサン・ディエゴへ戻りたい。
夕方、家へ戻ると母がいきなり言った。
「今日、おもしろい電話があったのよ」
「へえ、どんな電話だったの?」
母はニコニコしながら夕食の支度をしていた。
「あなたへの電話だったんだけど、英語でね『カナ、プリーズ、カナ、プリーズ』って何度も言うのよ」
母は言うと、包丁を持ったまま私の方に振り向き、ケラケラと笑い出した。
「お母さん、英語全然ダメじゃない。だからもう焦っちゃって『ノー、カナ。ノー、カナ』しか言えなくてねえ。そしたらね、相手の人が笑い出して『イエス、カナ。イエス、カナ』って。で、お母さんは『ノー、カナ。ノー、カナ』でしょ。もう五分ぐらいそれの繰り返し。仕舞いには二人で笑いだしちゃって。もうホント、おかしかったわ」
くすくすと思い出し笑いをしながら母は一人、楽しんでいた。
「結局、誰からだったの?」
いくらか笑いがおさまったころ私は訊いた。
「分かるわけないわよ。あ、でも、男の人からで、最後に『ルイ』って言っていたような気がするわ」
ルイ?
私は思いがけない名前に驚いた。
「まさかあなたのボーフレンドじゃないわよねえ?」
笑っていた母の顔が一瞬「親」の顔に戻る。
「まさか。もしそれが本当にルイっていう人からだったら、私の仲のいい友だちだよ。フランス人でとってもおもしろい人よ」
「そう。それならいいけど」
やはり親というものは異性に関しては敏感になるものだ。でも、ルイが電話なんて。どうかしたのかしら? 私の疑問をかき消すように母は続けた。
「あ、それから手紙が届いていたわよ。アメリカから」
机に置かれた手紙に目をやると、癖のある字が目に入った。
親愛なるカナ、
手紙をありがとう。僕の手紙と行き違いだったみたいだね。でも、元気そうでよかった。
時差ボケもなおったことだろうし、三ヶ月間会えなかった友だちにも再会でき、毎日きっと楽しく過ごしているんだろうね。
僕の方はもうすぐまた嫌いな試験がやってくるからそれに向けて忙しくなるよ。
カナ、今日はカナに報告しなければならないことがあるんだ。
驚かないで聞いてほしい。
母の会社の都合で僕の帰国はどうやら来年の一月になりそうなんだ。まさかこんなに早く帰国することになるとは思ってもいなかったから、僕自身も未だに戸惑っているんだ。
カナ、僕がまだここにいる間に戻って来られるだろうか?
突然の話できっとカナも驚いているだろうね。カナの悲しむ顔が目に浮かぶよ。
カナ、君に会いたい。
サン・ディエゴの青空に負けないぐらいの深い愛をこめて。
アンドリュー。
一九八六年四月二十四日。
手紙を読み終えると、カレンダーを見た。
一月にアンドリューがスイスへ戻ってしまう。その前に必ず会いに行かなくては。でも、まずは親を説得すること。私は心の中で呟き、明日から始まる大学の準備をした。
八月、私は二十歳になった。
誕生日の週に入ると、スーザンやジュリア、そして、ロベルトやルイからも心のこもったバースデーカードが次々と届き、私は毎日郵便受けを開けるのが楽しみだった。誕生日前日にはイザベルから素敵なカードと私の似顔絵――ラネーレが描いた――が届き、アンドリューからは小包が届いた。小包の中にはバースデーカードとアンドリューの大好きなチョコレートボンボン、小さな正方形の箱が入っていた。箱を開くと銀の指輪――縁起がいいと言われているケルト結びのデザインで作られていた――と、小さなメモ――「二十歳になったとき、異性から銀の指輪を受け取るとその人は幸せになれると聞いたので、これを贈ることにしました、と綴られていた」――が入っていた。私は贈り物以上にアンドリューの心が愛おしかった。
誕生日当日、私は両親と一緒に横浜の元町へ出かけ、二十歳になった祝いに両親が金の指輪を買ってくれた。
「一つぐらいこういうものがあってもいいんじゃない?」
母は色々なデザインの中から一番シンプルなものを指さして言った。もともと派手さのない、一見地味に見えるようなものが好きな私は、そのデザインをひと目見て気に入った。衝動買いにもちかい勢いでその指輪を購入し、サイズ直しと文字入れ――私のイニシャル――のため、受け取りは一週間後になった。
夕飯を近くの中華街で済ませ、家に戻ったのは九時過ぎだった。リビングに入ると三人ともジュータンの上にベッタリとへばりつくように座り、私は扇風機とクーラーをかけた。ブーンという鈍い音と共に涼しい風が顔に当たる。部屋全体にこもっていた重い空気が次第に軽さを増したころ、電話が鳴った。
「カナ、出てくれる?」
尻に根が生えたように張りついて緑茶を飲んでいた母が言った。茶碗をテーブルに置くと私は重い腰を上げ、廊下へ出た。モワッとした空気が私を包みこむ。
「もしもし、中村です」
言ったとたん、あくびが出てしまい、慌てて受話器に手をおいた。
「カナ、誕生日おめでとう!」
受話器の向こうから懐かしい優しい声が聞こえてきた。
「アンドリュー!」
あまりの驚きに私の声は数オクターブ上がったような響きになった。一気に疲れも眠気も吹っ飛んだ。
「アンドリュー……」
こみ上がる懐かしさと恋しさで、私はすがるように再びアンドリューの名を口にした。
「もう一回、呼んで」
アンドリューは言い、私は彼の柔らかい笑顔を思い浮かべてもう一度呼んだ。
「カナ、僕を呼ぶ君の顔が目に浮かぶよ」
聞きなれたアンドリューの暖かい声。私は目をとじて受話器を握りしめた。
「アンドリュー、あなたに会いたい……」
突然襲ってきた寂しさに声が震えた。
「僕もだよ、カナ」
アンドリューも目をとじて言ったと感じた。
「カナ、プレゼントは気に入ってくれた?」
沈黙を破るようにアンドリューは訊いた。
「うん、すごく。ありがとう。指輪のサイズもピッタリよ。今、右手の薬指にはめているの」
親指で触りながらこたえた。
「よかった。本当は僕がはめてあげたかったんだけどね。でも、今度会ったとき、僕がもう一度はめてあげるからね。約束だよ」
今度。その言葉に胸が痛くなる。その「今度」とは一体いつのことだろう。
「カナ、愛しているよ。」
「私もよ、アンドリュー」
私たちは最後にそう言うと、静かに受話器をおいた。
十三 再会
日本へ戻ってちょうど半年が経った。季節も全てが息吹く春から残暑厳しい夏へと移り変わっていた。湿度の多いじめじめとした肌に粘りつくような日本の夏の重たい空気。肌を滑るようなサン・ディエゴの、あの軽い空気が懐かしい。
その間、何通もの手紙がアンドリューから届き、その数と同じほどの手紙が彼のもとへと届けられた。そして、来月にはアンドリューの二十三回目の誕生日がやってくる。それまでに間に合うように、私は編み物が得意な母に教わりながら(世話になった友人に贈りたいと説明して)、アンドリューのセーターを編んでいた。きちんとした寸法も分からぬまま、記憶を頼りに編んでいくのは必要以上に時間がかかる。ここは一目減らさないとダメじゃない。そんな私に母は的確に指示をだしてくれた。
「ねえ、お母さん。私、この冬にもう一度、サン・ディエゴに行ってきてもいいかな?」
母の機嫌を伺いながら私は意を決して訊いた。母は、なんでまた急に、と腑に落ちない眼差しで私を見た。
「本当は三月に帰って来たときからずっと考えていたの。でも、いつ切り出せばいいのか分からなくて」
「何しに行くの?」
冷めた口調で母は訊いた。私は編む手を止め、母を見つめるとこたえた。
「来年の春、今の大学を卒業したら私、サン・ディエゴの大学へ行きたいの。もっとちゃんと真剣に英語を勉強したいのよ」
何の反応も見せない母。
「出来ればその大学をきちんと調べておきたいし、それにイザベルからは『是非クリスマスには遊びにいらっしゃい』と手紙ももらったし。だから許してもらえるなら十二月にもう一度行きたいの」
私は更に言い添えた。天井をあおいだ母は大きなため息をついた。二人の間に沈黙が続いた。規則正しい時計の音が耳に響く。
「あなたが言いたいのは『行きたいの』じゃなくて、『行くの』でしょ?」
しばらくして母はそう言うと、黙ったまま又考え込んだ。そして、私を見つめると、
「留学の件はお父さんに聞いてみないと何とも言えないけど、十二月は行って来てもいいんじゃないの。どっちみち、あなたが口にするときは、いつももう決めてしまったあとなんだから。ダメって言ってもどうせ行くんでしょ?」
と言い、呆れたようにもう一度深くため息をついた。
あまりにあっさりとした母の返答に、私は拍子抜けしてしまった。
「ホントにいいの? 本当に行ってもいいの?」
今一度確かめる。
「いいわよ。そのためにバイトもしていたんでしょ」
そう。日本へ帰国してから週三回、私は中学生たちに英語を教えていた。少しでも旅行の費用を稼ぎたかった。そんな私の行動を見ていた母には、こうなることがどこかで分かっていたのかもしれない。そして、頑固で一途な私の性格を知る母には私の言葉――サン・ディエゴの大学へ行きたい――が、ただ単に一時の気の迷いや思い込みから出たものではないという事も見抜けていたに違いない。私は母を思い切り抱きしめて、ありがとう、と言いたかった。でも、ここは日本。ハグの習慣などない日本。
「ありがとう、お母さん」
私は満面の笑みを浮かべて心からそう言った。
翌日から私はにわかに忙しくなった。
まず旅行会社へ行き、チケットの予約を入れた。出発は十二月十一日、午後五時二十分。東京発マレーシア航空〇九二便。サン・ディエゴ着、午後一時三分。それからイザベルに手紙を書いた。
親愛なるイザベル、
イザベル、そして、みなさん、お元気ですか?
サン・ディエゴのお天気はどんなですか?
日本の夏は蒸し暑く、外に出るだけで疲れてしまいますが、私は元気で毎日大学へ通っています。
早速ですが、十二月十一日から約四週間、私はそちらへ行けることになりました。
一緒にクリスマスを過せるんです。
アメリカで過す初めてのクリスマスです。
年末のカウントダウンも楽しみです。
今からワクワクしています。
サン・ディエゴには十一日午後一時過ぎに到着します。アンドリューが迎えに来てくれると思いますので、心配しないでください。
お会い出来るのを心から楽しみにしています。
愛をこめて、カナ。
学校の帰りに切手を買い、家の近くの郵便ポストへ投函した。
残暑といっても確実に季節は秋へと向かっていた。五時ではまだ明るかった空もだんだんと日の暮れ方が早くなり、夕闇が迫っていた。
季節もすっかり秋へと変わっていた十月の終わり、アンドリューから手紙が届いた。それは六枚にも渡る長い手紙だった。
私の贈ったセーターが言葉では言い表せないほど嬉しかったこと、十二月に会えるのが待ちきれなくて今すぐにでも会いたいこと、スイスには一月の初めに帰国することが決まったこと、帰国前に夢にまでみたパイロットの免許を取得するために毎日夜遅くまで勉強していることなどが、癖のある字で綴ってあった。そして、その日の夜、思いもかけない人から電話がかかってきた。
「ハロー?」
一瞬、誰だか分からなかった。
「どなたですか?」
聞き返すと、
「カナ、僕だよ。ルイだよ!」
弾んだ声が耳元に響いた。半年振りに聞くフランス語なまりのルイの英語。懐かしさがこみ上がる。
「ルイ! 元気? 今どこにいるの? どこからかけているの?」
私は一気に聞きたいことを吐き出した。
「相変わらず元気にしているよ」
ルイは笑ってこたえると、
「今、フランスにいて、オフィスからかけているんだ」
と続けた。
日本へ帰国して以来、何通かの手紙をルイは送ってくれた。どれもルイらしい元気になるような言葉で綴ってあり、アンドリューに会えなくて寂しくなっていたとき、どれほどその手紙に励まされたことか分からない。
「カナは? 元気?」
「元気よ。でも、ルイの声を聞いたらもっと元気になったわ」
私が言うと、受話器の向こうでルイは声を出して笑いだした。
「何? どうかした?」
「いや、前に電話をかけたとき、お母さんとおもしろい会話をしてね。今、そのときのことを思い出したんだ」
ルイは言ってまた笑った。
「あれはやっぱりルイだったのね。母もそんなような事は言っていたけど、不確かだったし、あなたの手紙にはそのことは書いてなかったから、今の今まで確信がもてなかったわ」
私は言い、ルイは、ああ、僕も忘れていたよ、と軽やかに相づちをうつと、
「お母さんは元気?」
と訊いた。
「ちょっと待ってね」
私は言って母に手招きをした。
「この前、電話をかけてくれたフランス人の友だちのルイよ。ハローって言ってあげて」
母は受話器を耳にあてると恥ずかしそうに、ハロー、と小さくつぶやいた。
「お母さん、こんにちは。元気ですか?」
ルイは母の声にこたえて言い、それからほんの少しの間、私は通訳をしながら二人の会話を取り持った。
「カナ、もうそろそろ切らないと……」
外国人とは縁のない母がとても楽しそうに会話をしていたので、ルイに言われるまで私たちが国際電話――それも高額な――で話をしているということをすっかり忘れていた。
「そうよね。ごめんなさい。あ、でも、何か用があったんじゃないの?」
私は慌てて訊いた。
「いや、ただカナの声が聞きたくなったんだ」
弾むようにルイはこたえた。
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ」
私は言って微笑んだ。また時々かけるよ。ルイは最後にそう言って電話を切った。写真でしかルイを知らなかった母も、そのルイと直接会話が出来て嬉しそうに笑みを浮かべていた。母の中でルイの株が一気に上昇したのは言うまでもない。私はルイのような友人――色々あったけど――を持てたことを嬉しく思った。
ルイの電話から一ヵ月半後の十二月十一日、午後一時三分、私は九ヵ月ぶりに懐かしいサン・ディエゴの空港へ降り立った。
乾いた空気。青い空。眩いばかりに輝く太陽。体いっぱいに感じる冬のサン・ディエゴ。
「カナ!」
目をやると、ゲート前で大きく手を振っているアンドリューがいた。
「アンドリュー!」
名前を口にする前に私は走り出していた。
「お帰り、カナ」
がっしりとした胸。暖かいぬくもり。私の大好きなコロンの香り。
「ただいま、アンドリュー」
九ヶ月ぶりに(二人の存在を確かめ合うように)私たちはしっかりと抱きしめ合った。
「どれ、僕に二十歳になったカナを見せて」
愛のこもった抱擁をたっぷりとしたあと、アンドリューは体を離して言った。
「うん。思った通りだ」
私は首をかしげてアンドリューを見つめた。
「前よりもずっと綺麗になったよ」
アンドリューは私の髪を撫でて言うと、右手の薬指にはめてある銀の指輪をそっと外すし、四ヵ月遅れの誕生日おめでとう、と言って、左手の薬指にはめなおした。
「Dank schӧn:ありがとう」
私は指輪を触りながら言った。
「ドイツ語を覚えてくれたんだね!」
たった一言だけのドイツ語にひどく感激するアンドリュー。
「まだ『ありがとう』と『愛している』ぐらいしか分からないんだけどね」
私は気恥ずかしくなり、舌を出して笑った。
「Ich liebe dich, Kana」
アンドリューは柔らかい笑顔で私を抱きしめると、耳元で甘くささやいた。
「Ich liebe dich, Andrew」
私は彼の胸に顔を埋めた。
九ヶ月前と同じアンドリューの感触。変わらぬ優しさ。変わらぬ微笑み。
私はアンドリューのところへ戻ってきた。
イザベルたちとの熱い抱擁で再会を交わした翌日から時差ボケを味わう暇もなく、私は毎日出歩いていた。九月の終わり、アンドリューにサン・ディエゴへ行く事を知らせたときから、彼は色々な計画を立ててくれていたからだ。それは決して私たち二人だけのために立てられた計画ではなく、事前にイザベルへ連絡を取り、彼女たちの意向も取り入れて立てられた計画だった。アンドリューらしい思慮深く優しい心づかい。
私はそんなアンドリューを心から尊敬してやまなかった。
「今夜はカモンへ行くよ」
グロスモント・カレッジへ入学を決めた私のためにキャンパスを隅々まで案内してくれた午後、家に戻る車の中でアンドリューは言った。
「なぜ?」
カモンの名を耳にするだけで幸恵さんたちとの苦い思い出がよみがえる。私の眉間にしわがよった。
「来月帰国する僕のために友だちが少し早めの送別会をしてくれることになったんだ」
「友だちって誰が来るの?」
車窓に映る景色を追いながら訊いた。左前方にジャックマフィースタジアムが見える。
「ゴードンやユキエたちだよ」
アンドリューは既成事実のようにあっさり言った。幸恵さんの名前に私の顔は一層歪む。彼女とはもう関わりたくなかった。
「私も行かなくちゃダメなの?」
歪んだ顔を見られまいと横を向いた。すると、
「カナ、君も一緒に行くんだ」
とやけにきつい口調でアンドリューはこたえた。
なぜ? 私は黙ったまま前を向いた。車はポデール通りを左に曲がる。家の前まで来るとイザベルの車がない。子供たちを迎えに行ったまままだ戻っていなかった。
「カナ、来年君がここの大学へ通うとき、僕はもうここにはいないんだよ。でも、ユキエたちはまだいる。何かあっても僕は守ってあげられないんだ。だから今夜は二人でユキエたちに会って、何があっても僕たちは大丈夫だっていうところを見せつけて、分からせてやらなくちゃ」
アンドリューはエンジンを止めて私の手を握ると、分かるだろ、と続け、
「ゴードンたちだって一役買ってくれているんだよ」
と、ウインクをなげた。
「だから安心して一緒に行こう、カナ」
思慮深いアンドリューのことだ。きっと思惑があってのことなのだろう。
私はアンドリューの手を握り返して微笑むと、分かった、と、うなずいた。
土曜日、イザベル一家とアンドリュー、私の六人でミッション・バレーセンターの中にある中華レストランで昼食をとった。
「アンドリューは本当に上手にお箸を使うわね」
出来立ての――湯気が立っている――牛肉の炒め物を、上手に箸を使って食べているアンドリューにイザベルは羨ましそうに言うと、
「私たちメキシカンはこれなのよね」
と、フォークを使ってご飯を口に入れた。
「僕は日本食を食べるようになってお箸が使えるようになったんですよ」
ほらね、と言ってアンドリューは一粒の米を箸で摘まむと、得意げに笑って見せた。
エスティやラネーレも真似をして摘まもうとするがなかなか出来ない。どれどれ、と、慎重に摘まんだ米をハビエルは床に落とす始末。箸の使い方に慣れていない人たちが箸を使うと、まるでピンセットかトングを持つような手つきで物をつかもうとする。私はみんなの動作に思わず可笑しくなり笑った。
「みんなそれじゃあ、食事をしているというより、何かを採集しているみたいよ」
ハビエルは自分たちの箸の持ち方をチェックすると、全くその通りだ、と、笑いだし、悔しそうにフォークに持ち替えると、やっぱりこれが一番か、と、慣れた手つきで運ばれてきた料理を綺麗に平らげた。
昼食のあと、カナが来るまで待っていたのよ、と、クリスマス時期に出現する「もみの木直売所」――ダウンタウンにあるスポーツアリーナの駐車場――へイザベルは連れて行ってくれた。下は一メートルぐらいから上は三メートルぐらいまで。好みの高さのもみの木を選ぶことが出来る。私たちは順に見て回り、二メートルぐらいは優にある木を選んだ。ハビエルとアンドリューはそれを車の上に紐で括りつけ、家に着くとみんなでそれをリビングに置いた。ハビエルは暖炉に火をともし、イザベルはクリスマスミュージックをかけ、私たちはポップコーンを糸に通し、ツリーの周りに巻いた。最後に全員でたくさんのオーナメントをツリーに飾り、一、二の三で照明のスイッチを入れた。まさに家族総出のクリスマスツリー飾り。アンドリューも私も大いに楽しんだ。
夜はアンドリューが借りてきたビデオ――トップガン――をみんなで観た。
「五月にこの映画が封切りになったときからいつかカナと一緒に観たいと思っていたんだ」
ソファーに深く腰を下ろして私の肩に腕を回すと、アンドリューは顔を近づけてささやいた。画面から放たれた光が私たちをにぶく照らし出す。
「どうして?」
「だって、僕たちが出会ったサン・ディエゴが舞台だからね」
首をかしげた私にアンドリューはこたえ、そっと唇を重ねた。イザベルたちの前で恥じることもせず、堂々とした彼の行動に私は内心ドキドキだった。でも、ジュータンの上で肩を並べて座り、ポップコーンを食べながら画面に見入っていたイザベルたちの眼中には、私たちのことなど全く入っていなかった。
十二月二十四日、クリスマスイヴ。
その日、私はイザベルたちが通う教会のイヴ礼拝に参加した。教会では子供たちがイエス・キリストの誕生劇をやり、聖歌隊がクリスマスキャロルを熱唱し、最後に牧師様の説教が始まった。
「神様はその独り子をお与えになったほどこの世を愛されました。それは独り子を信じる者が一人も滅ばず、永遠の命を得るためです。ですから神様が私たちを愛してくださっているように、私たちも互いに愛しあうのです」
私の両親は若いころ、教会へ通ったことがあった。二人ともクリスチャンになることはなかったが、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉にとても深い感銘を受けたと言っていた。そんなこともあってか、八歳の誕生日、母は私に「イエス・キリスト」という本をプレゼントしてくれた。そのとき、私は初めて神様を知った。毎晩寝る前には短いお祈りもしていた。見えないものを信じて祈るという行為(それが信仰というものだと教えられたが)はそれ以来、日課のようになり、事あるごとに色々なことを祈っていた。
説教は三十分近く続いた。牧師様の説教は難しい単語ばかりであまり理解出来なかった。でも、愛について語っていたことは良く分かった。クリスマスは神様が無償の愛を私たちに与えてくださったことを賛美する日だと、語っていたことも良く理解出来た。説教を聞きながら心の中が暖かいもので満たされていくような、とても癒される思いを私は味わった。
夜はイザベルの実家で兄弟姉妹全員そろってのクリスマスイヴ夕食会があった。でも、一緒にいてほしかったアンドリューは私の隣にいなかった。
先週の火曜日、私を迎えに来たアンドリューに、あなたも夕食会へいらっしゃいね、と、イザベルは彼をイヴ夕食会へ招待した。でも、アンドリューは、せっかくのお誘いですが今回は遠慮させていただきます、と、丁重に断った。初めてのクリスマスを一緒に過せると思っていた私には、アンドリューの気持ちが理解出来なかった。
「ですからその日はカナをよろしくお願いします」
アンドリューは言い添え、私に微笑んだ。
「そう。それは残念ね」
「本当にすみません」
「そんなことはいいのよ。それじゃあ良いイヴをね」
私は二人の会話をただ聞いていることしか出来ずにいた。
「せっかくの食事会なのにどうして行かれないの」
走り出した車の中で私は少し苛立った口調でアンドリューに訊いた。でも、アンドリューはいたって冷静に、
「カナ、僕は行きたくなくて行かないと言ったわけではないんだよ」
とこたえた。車はフリーウエイに入り、景色は一定の速度で流れていた。
「今回、カナは初めてイザベルたちの家族に会うんだよね?」
私は短くうなずいた。
「初めて会う家族のところへいきなり僕が一緒に行き『カナの彼氏です』とみんなに言ったりしたら、カナの印象はあまりよくないんじゃないのかな? これからカナは数年間、イザベルのところでお世話になるんだよ。みんなには良い印象を持ってもらいたいからね」
アンドリューは言って私の手を優しく握った。それから私の顔をのぞきこむと、
「僕の言おうとしていること、分かる?」
と、優しく微笑んだ。
あのときと同じだった。
アンドリューの送別会をカモンで開いたあの夜と同じだった。
幸恵さんたちがカモンへ来ると分かっていても、アンドリューはあえて私をカモンへ連れて行った。
「お帰り、カナ! 久しぶりだね」
店に入るや否や(幸恵さんの驚いた顔を尻目に)ゴードンたちは私をハグで歓迎してくれた。
「もう君がいなくなってから、毎晩のように君の話を聞かされてね。戻ってくれてホッとしたよ。今晩からはやっとぐっすり眠れるよ」
「で、今度はカナがこっちの大学へ通うんだってね。何かあったらアンドリューの代わりに僕たちが助けてあげるから、安心して戻っておいで」
ゴードンたちは両腕を広げて肩をすくめたり、しかめ面をして首を横に振ったり、手を叩いて喜んでみたりと、大袈裟なジェスチャーをしながら私に言うと、パーティの間中ずっと(まるで幸恵さんから守ってくれているように)私の横で優しく接してくれていた。
――ゴードンたちだって一役買ってくれているんだよ
アンドリューが言っていたように、一役買ってくれていた彼らの演技は、幸恵さんに口を開かせる隙を与えなかった。
アンドリューが帰国したあとでも安心して過せるように、アンドリューは私のためにきちんと足掛かりを作ってくれていた。
あのときと同じように、アンドリューはイザベルたち両家族に私がちゃんと溶け込め、受け入れてもらえるように、十二分の配慮で招待を断ったのだ。
非の打ち所のないアンドリューの深い思いに私はただただ敬服するばかりだった。
夕食会は、それは賑やかだった。
クリスマスツリーにクリスマスキャロル。クリスマスのご馳走に数々の贈り物。たくさんの抱擁にたくさんの笑顔。
日本では味わうことの出来ない家族の愛に溢れたクリスマスイヴ。それを肌で実感した。みんなの幸せに満ちた笑顔を見ているだけで、私までも幸せな気持ちになれた。
でも……。
私は溶け込めているのかしら? 受け入れてくれているのかしら?
アンドリューのぬくもりが無性に恋しくなった。
十四 オーシャンサイド
週末、私たちはティファナからさらに百キロほど南に行ったところにあるエンセナーダへ一泊旅行に出かけた。
この旅行の計画が持ち上がったのは、アンドリューが遊びにやって来たクリスマスの夜だった。
夕食を軽く済ませたあと、みんなで暖炉の前に座ってエッグノッグを飲みながらくつろいでいると、話題はいつの間にかクリスマスからエンセナーダのブローホール(海の波力で自然に出来た穴に定期的に溜まった海水が、間欠泉のように噴き出す噴気孔)へと移り、ハビエルがその魅力――力強く噴き出す水しぶきは毎回その風光を変え、自然の織り成す美しさと驚異に、見る者の心を打つ壮観な場所――を語ってくれた。そのとき発したアンドリューの「そこへは行ったことがないから想像もできない」という言葉を耳にしたハビエルは目を丸くして驚き、あの素晴らしいブローホールを見ずにスイスへ帰国するなんてもったいない。絶対に見るべきだ、と切言し、急遽、「アンドリューとの思い出旅行」というかたちでエンセナーダ行きが決まったのだ。
天候にも恵まれ、ドライブは快適だった。
私は大好きなイザベルたちと一緒に旅行に行けることへの喜びはもちろんのこと、エンセナーダへの道程を、アンドリューと二人だけでドライブすることが出来ることに、この上ない幸せを感じていた。途中、ロブスターの食べ放題ができるレストランへ立ち寄り、私たちは――溶かしバターとライムをたっぷりつけながら――茹で上がったロブスターをこれでもかというほどたらふく食べた。
レストランを出て海沿いを三〇分ほど走ると、何台も車が停まっている――駐車場というにはあまりにも粗雑で管理すらされていないような――ただ広いだけの砂利が敷かれた敷地が現れた。
「さあ着いたよ。みんなここで降りて。あそこの岩場まで歩くんだ」
ハビエルの合図で私たちは車を停めた。敷地のすぐ横には土産物を売っている露店がずらりと並んでいる。そこを通り抜け、大勢の観光客が集まっている岩場まで歩いた。雲一つない青空と乾いた空気に漂う潮の香り。遠くにカモメが飛んでいた。
「カナ、もっと近づかないと良く見えないよ」
岩場からほどよい距離のところに立っていた私に、真面目な顔つきでハビエルが言うと、エスティも、そうだよ、そうだよ、と、うなずいた。
「本当? でも、危なくない?」
「全然平気だよ。さ、もっと近づいてごらん」
ハビエルに促され、アンドリューと私は崖の縁ギリギリまで近寄った。行ったり来たりと水面が揺れているのが見える。何の変化もない。すると数分後、何の前触れもなく、いきなり爆発音のような騒音が耳をつき、同時に数十メートルの水しぶきが空をめがけて噴き出した。
「キャーッ!」
そのあまりの突然さと激しさに、私は悲鳴を上げてアンドリューに抱きついた。噴き上がった水しぶきは雨のように私たちの頭上へと降り注いだ。
「忘れがたい思い出ができたわね」
水しぶきがおさまったころ、イザベルが笑いながら私たちにタオルを差し出した。エスティは手を叩いて、引っかかった、引っかかった、と、はしゃぎながら私たちの周りを駆けまわり、ハビエルはラネーレと一緒にお腹をかかえて笑っていた。顔を拭うと私は悔しそうに苦笑した。でも、アンドリューは違った。ハビエルの思惑にまんまと乗せられ体中濡れてしまっていたのに、全く気にした様子もなく、最高の土産話ができましたよ、と言って嬉しそうに笑ったのだ。それから私の方を向くと、
「カナの悲鳴もしっかりとここに響いたしね」
と言い、指を耳に入れてわざと痛そうな表情をすると(本当に鼓膜が破れるほど痛かったのかもしれないが)、みんなの笑いを一層誘った。
私たちはまるで本当の家族のように打ち解け合い、つかの間のときを楽しんでいた。
一九八七年一月一日。新しい年の始まり。
アンドリューと出会ってもうすぐ一年になろうとしていた。
この日は朝から忙しかった。朝の冷たい空気を感じる暇もないぐらい、時間の流れが早かった。
「カナ、私は何を手伝えばいいかしら?」
海老の下ごしらえをしている私の横に来ると、イザベルは言った。
「それじゃあ、昨日買ってきた野菜を洗ってください」
「あ、それはテンプラの野菜のことね?」
まだちゃんとした日本食を食べた事がないイザベルたちと、日本食が大好きなアンドリューのために、私は日本食を作ることにした。内輪だけのディナーのはずが、どうせ作るならパーティにしましょうよ、というイザベルの一言で、日本食パーティを開くことになった。パーティにはアンドリューの他にケイト夫妻とハビエルの弟家族も来ることになり、大がかりなパーティになってしまった。元々、私の母が病弱ということもあり、母のために料理を作るのが好きだった私にしてみれば、今回のパーティで料理を作ること自体、何の不安もなかった。ただみんなが私の作る日本食を気に入ってくれるかが問題なのだ。そして、今日、その私の腕が大いに試される。それも愛するアンドリューが私の手料理を食べに来る。それだけで緊張は頂点に達していた。
「カナ、アンドリューから電話だよお。アンドリュー、アンドリュー」
はしゃぎ回りながらエスティは歌うように叫んだ。
「ハイ、アンドリュー。新年おめでとう!」
電話口でエスティの声を聞いたアンドリューは笑っていた。
「やあ、カナ。新年おめでとう! エスティは相変わらず元気だね」
穏やかなアンドリューの声に今すぐにでも抱きしめられたい衝動にかられた。
「準備の方はどうだい? 順調に進んでいるかい?」
キッチンへ目をやると、所構わず無雑作に置かれた食材の山。朝から準備をしているのに、進んでいるようにはちっとも見えない。
「うん。まあまあかな」
そう言って、心の中で苦笑いした。
「そうか。今夜がとても楽しみだよ。それじゃあ夕方にね。愛しているよ、カナ」
「私も愛しているわ」
私は言って受話器を置き、時計を見た。一時を過ぎている。
早くやらなくちゃ。
キッチンへ戻り、イザベルが洗ってくれた野菜を切り始めた。
パーティの開始時間より三十分以上も早くやって来たアンドリューは、カナの作る姿を見ていたくて、と言って、私の横で微笑みながら立っていた。
「お願いだから向こうへ行ってラネーレたちの相手になってあげてよ」
柔らかい微笑みでじっと見つめられると恥ずかしくて緊張してしまう。
「なぜ? 僕だってカナの作る姿を目に焼き付けておきたいよ」
アンドリューは腕を組み、カウンターにほんの少し腰掛けるようにもたれると言った。
「こんなに料理が上手だったなんて。僕の知らないもう一人のカナがここにいるみたいだ」
「あら、人は見掛けによらないのよ」
私は笑ってこたえた。それから、巻き簾を広げて海苔を置き、酢飯を敷き詰め、アボカド、カニかま、きゅうりの順に置いた。アンドリューの視線を体いっぱいに感じる。
「アンドリュー。そんなに見つめられると緊張しちゃうから向こうへ行って、ね、お願い」
ひたすら見つめるアンドリューにしびれを切らし、手を止めて言った。
「分かったよ。それじゃあカナに嫌われる前に向こうでテーブルのセッティングでも手伝ってくるとするかな」
アンドリューは両手を上げて言い、後ろから軽く私を抱きしめて頬にキスをすると、リビングへ退散した。
日本食パーティは大盛況だった。
天ぷらも、鶏の照り焼きも、餃子のスープも、手巻き寿司もどれも好評で、みんな残さず食べてくれた。
箸の使い方が分からなくて困らないようにフォークとナイフも用意してあったが、みんなは一度ぐらいはと言って――ピンセットを持つように――箸を持つと「挟む」というよりは「突き刺す」といった感じで食べていた。
食後はイザベルが用意してくれたメキシカンの甘いケーキとミントティが振舞われた。でも、ケーキを食べたのは子供たちだけで、大人たちは、食べ過ぎた、と、口直しにミントティだけを飲み、十時過ぎにパーティは惜しまれるようにして終わりを告げた。
「今日は本当にありがとう。とっても美味しかったわ、カナ」
ケイト夫妻は新年の祝福と感謝のハグをして家路へとついた。
「カナ、今夜はありがとう。とても楽しかったよ」
アンドリューは言って頬に口づけをすると、車へ乗り込んだ。そして、エンジンをかけて窓を開けると、
「今度は二人だけで過そう」
と言って窓越しから私の手を握った。
私の滞在はもう一週間をきっていた。
夜空には新年を祝うように美しく輝いた満天の星が躍っていた。
サン・ディエゴでの四週間の滞在も残すところあと四日となった。
以前の寮生活とは違い、イザベル家で生活をしていると、アンドリューとのやり取りにも多少の不自由さが生じた。イザベルたちは特別なことがない限り、夜の九時には自分たちの部屋へと引きあげる。もちろん、それに合わせて私も部屋へ戻らなければいけないという訳ではないが、それ以降の電話は控えるようにする。出かけるときはどこへ行き、何時に戻るかを告げ、必要であればアンドリューが挨拶をする。家族と共に暮らすのであれば当たり前のマナー。でもそのせいか、アンドリューと会っていても時間を気にしてどこかに歯止めがかかっていた。
「ずっと一緒にいたいのに前よりも一緒にいる時間が少ない気がしてなんかつまんない」
九ヶ月ぶりのアンドリューの家で簡単な昼食を作りながら、私はポツリと本音を吐いた。
「でも、いい家族じゃないか。カナの事を本当の娘のように心配してくれて」
「分かっているわ」
「それに、あの家族のところでカナが生活するなら僕も安心してスイスへ戻れるよ」
そう思わない? アンドリューは私に体をもたれて言った。
そんなことは分かっていたし、それに、自分がどれほど恵まれているかも分かっていた。ただ、前のように一緒にいられないもどかしさに私はいじけていた。
アンドリューがもう一度私に寄り掛ってきた。
「ほら、カナ。そんな顔しない。今はこうして一緒にいられるんだから、ね?」
無言のままもくもくと料理を作る私をのぞきこみ、アンドリューはおどけて見せた。
「カナ、笑って」
私は仕方なく薄笑いをしてアンドリューをチラッと見た。
「ほら、もっと笑って」
アンドリューは言って私のわき腹をくすぐりだす。私は体をひねって抵抗してみたが、ついに我慢ができなくなり、とうとう笑い出した。
「よし。いい子だ」
まるで子供扱いだ。
「それじゃあ、発表するとしようかな」
アンドリューはわざと咳払いをして言った。
「実は今日から三日間、ずっと一緒にいられるように、イザベルにはちゃんと許可をもらってあるんだよ」
「どういうこと?」
言っている意味が分からなかった。
「いいかい?」
アンドリューは言うと、
「今日から三日間、カナがここに泊まりたければ泊まってもいいし、夜は向こうへ帰ってもいい。イザベルは僕たちを信用するから好きなように決めなさいって言ってくれたんだよ」
と続けた。
泊まってもいい?
信じられなかった。
「ホント? ホントにいいって言ったの?」
アンドリューは私を抱きしめると、
「本当だよ。僕たちはそれだけ信用されているってことだよ」
と言って、頭のてっぺんにキスをした。
嬉しかった。
その信頼を裏切らないように三日間を過そう。
アンドリューの胸の中で私はそう心に誓った。
アンドリューと過した最後の三日間はまるで夢を見ていたかのように、気がついたら終わっていた。
イザベルの許可のもと、三日間とも私はアンドリューのところで過した。ルームメイトのゴードンがいたら泊まることを躊躇したかもしれない。でも、冬休みを利用して彼はサン・フランシスコへ帰省していたので私はアンドリューと過すことを決めた。
一日目は一旦イザベルのところへ荷物を取りに戻った。
「分別のある行動」を取るようにとイザベルから念を押され、アンドリューも私も、約束します、と、共に誓った。その足で私たちはドライブに出かけた。
「どこへ向かっているの?」
車はフリーウエイ五号線を北へ進んでいた。
「もうすぐしたら分かると思うよ」
いつも以上にアンドリューは優しい笑顔を見せる。私も同じだった。一緒にいられるだけで、ただそれだけで幸せだった。しばらく走っているとラホヤの文字が見えてきた。
「ラホヤに向かっているの?」
「いや、もう少し遠いよ」
朝から晴天に恵まれていた空の色も少しずつ赤みを帯びていた。ラホヤを過ぎデルマーまで来ると、左の方向に海が現れた。いつの間にか私たちはオーシャンサイドの海岸まで来ていた。車は更に海沿いを走り、パシフィック通りの住宅街を北へと進んだ。そして、数ブロックを通り越したある角まで来ると、アンドリューはゆっくりと車を停めた。
「着いたよ。ここがどこだか分かるかい?」
左にはどこまでも続く広い海。長く突き出た桟橋も見える。右には……。
見覚えのある家が建っていた。
ここって、ひょっとして? 私は目を丸くしてアンドリューを見つめた。
「分かった? カナがいつか来てみたいって言っていた、あの場所だよ」
そこは前にアンドリューが借りてきてイザベルの家でみんなで観た映画、トップガンに出てきた撮影場所の一つだった。
「夕暮れどきに来るのが一番綺麗だって聞いたから、今日のこの天気のいい日にカナを連れて来たかったんだ」
――景色がステキね。いつか行ってみたいな。
私が映画の合間に何の気なしに言った一言をアンドリューは覚えていた。そして、それを叶えてくれた。何でそんなにアンドリューはいつもいつも優しいの? アンドリューの愛に私の心は苦しくなった。目の前に広がるオーシャンサイドの海よりも広く深いアンドリューの愛情に、私は感極まって涙した。
「カナは本当に感動屋さんだね」
「だって、アンドリューの心が嬉しいんだもの」
「僕もカナが喜んでくれて嬉しいよ」
目に焼き付けておきたいその景色も涙で潤んでよく見えない。私は何度も涙を拭った。車から降りると私たちは肩を組んだままただじっと立ち、太陽が海の中に沈んでいく様を無言で見続けていた。
二日目、秋から通っているパイロット養成学校へアンドリューは連れて行ってくれた。イザベルの家からさほど遠くないその学校で、アンドリューがどんな風に何を勉強しているのか、色々と教えてくれた。緯度、経度、高度計、航空図面。私には難しすぎて何一つ分かるものはなかったが、説明しているアンドリューの表情は、興奮と情熱できらきらと輝いていて、そんな彼を見ている私の気持ちまでもが同じように高ぶった。
「いつかカナを乗せてこの大空を飛んでみたいよ」
と言ったときも、
「スイスの景色を空の上からカナに見せてあげたいよ」
と言ったときも、アンドリューの心はもう既に空高く舞い上がっているようだった。
それから、私たちは保険事務所へ向かった。
「スイスへ戻る前に車を売らないといけないから色々と手続きが面倒なんだ」
すぐに済むから、と、アンドリューは私を暖房のきいた車内に残し、事務所へ入っていった。
「なんて話の分からない連中だ!」
しばらくして、うとうとし始めていた私の眠気を一気に吹き飛ばす勢いで、アンドリューは車に乗り込んだ。
「一体どうしたの?」
アンドリューは事務所の人たちと交わした内容を事細かく苛立ちながらも説明してくれた。でも、私が理解出来たのはその内の半分にも満たないほどだった。
改めて思い知らされるアンドリューとの英語力の差。アンドリューが腹を立てているのにそれを理解して、どう慰めてあげればいいのかが分からない。アンドリューのために言ってあげたい気の利いた単語が出てこない。私はそんな自分に苛立ちを覚えた。
「ごめんね。英語で何て言ってあげたらいいのか分からないの。どう表現したらいいのか分からないの。アンドリューの怒っている気持ちは痛いほど伝わるのに」
あとは「ごめんなさい」しか言えなかった。
「カナ、君が謝ることなんて何もないよ」
アンドリューの口調は依然としていらついていた。
「それに、母国語でない言葉で表現する事の難しさは僕にもよく分かるから、気にしなくてもいいんだよ」
「ホントにごめんね」
他の言葉を見つけられなかった。アンドリューは小さく息をつくと、
「カナ、君は『ごめんなさい』を言い過ぎるよ。そんなに簡単に『ごめんなさい』を言ってはいけないよ」
と、私を見て忠告した。アメリカでは謝ることが自分の非を認めることにつながるんだよ。だから気をつけないといけないよ、とアンドリューは教えてくれた。でも、語気を荒げるほど嫌な事を言われた彼を前にして、慰めの言葉一つさえも言えない自分が悔しくて、申し訳ないという思いは抗し難い事実。
「ごめんなさい」
言われたそばからまた謝ってしまった。そんな私を見るとアンドリューはフッと笑い、
「もういいよ。それもカナの良い所なんだからね」
と言って、
「でも、気をつけるんだよ」
と、頭を撫でた。
三日目、目が覚めるとアンドリューは規則正しい寝息をたてながら眠っていた。
イザベルの信頼を裏切らないように、ただそれだけを念頭に、私たちは広くて大きなアンドリューのベッドで寄り添ってこの二日間を過した。
イザベルの言う「分別のある行動」が、興味本位でメイクラブをしてはいけないということだとは分かっていた。でも、心から愛し合っている者同士が互いに惹かれ合い、求め合うことは愛するがゆえの結果で、それは「分別のある行動」にはならないのだろうか?
愛しているからこそ相手の全てを知り尽くしたい。
そう思うことのどこが悪いのか、私にはよく分からなかった。
アンドリューの穏やかな横顔をしばらく見つめると、私は彼のぬくもりを確かめるように広い胸に手を回した。それから、アンドリュー、と小さくささやいた。
「ううん」
アンドリューはゆっくりと私の方に体を向け、寝ぼけまなこのまま私を抱きしめた。
「おはよう」
大きな体にすっぽりと包まれながら、私はほとんど声にならない声で言った。
「ううん。起きたくないなあ。ずっとこうしていたいなあ」
甘えるような声でアンドリューは言う。
「それじゃあ今日はこのままずっとこうしてようか?」
アンドリューの胸に耳を押し当てて私は言った。私の言葉に反応するように、アンドリューの鼓動が速まるのを感じた。体温も徐々に上がっていくのが分かった。私は背中に手を回し、優しくアンドリューを抱きしめた。
「カナ」
アンドリューは体をおこし、覆うように私の上にのった。それから、いいのかい? と確かめるように訊いた。
「うん」
私は目を閉じてゆっくりとうなずいた。
「でも、イザベルとの約束は?」
「私たちが同じ思いで考えた末の行動なら、それは分別のある行動だと私は思うの」
私はこたえてアンドリューの頬に手を添えた。そして、
「そう思わない?」
と、アンドリューの頬を撫でて微笑んだ。手に残る少し伸びた彼の頬髭の感触。
「カナ、愛している」
アンドリューはゆっくり何度も唇をふさいでは、甘くささやいた。
「私も愛している」
私はアンドリューに全てをゆだねた。
カーテン越しに差し込む淡い朝の光が私たちを優しく照らし出していた。その霧のようにうすい光の中で、アンドリューは私の全感覚を刺激するように愛撫し始めた。二人の感情が抑えきれなくなった次の瞬間、一本の電話が部屋に漂う愛欲の空気を沈めるように大きく鳴り響いた。
「待ってアンドリュー、大切な電話かもしれないわ」
「すぐに止まるさ」
だが、電話は止むことを忘れたように鳴り続ける。鳴り止まない音にしびれを切らし、アンドリューは渋々と受話器を取った。
「ハロー? 父さん!」
それは一年以上も会っていないというアンドリューのお父さんからの電話だった。
「ああ分かったよ。楽しみにしているよ」
驚きと喜びの表情で電話を切ると、
「父が今月遊びにくることになったよ!」
とアンドリューは目を輝かせて言った。私たちは拍子抜けしたようにどちらともなく笑いだした。
「この抜群のタイミング。続きは今夜までおあずけだね」
アンドリューは私の頬にキスをすると、カーテンを開けた。
「ああ、いい天気だ」
「ホントね」
外は気持ち良く晴れていた。
夜はパシフィックビーチに程近いスイスレストランへ行き、本場よりはかなり劣るけどね、とアンドリューは言いながら、チーズフォンデュときのこのポタージュスープ、ミートボールのクリームソース煮を注文した。店内は小ぢんまりとした、一瞬山小屋を思い起こさせるようなログハウス風の造りになっていて、各テーブルに置かれたキャンドルの暖かい灯りが私たちの心をより一層和やかな気持ちにさせていた。
「これはね、この串に刺したパンをこうやってチーズにつけて食べるんだよ」
アンドリューは運ばれてきたチーズフォンデュの食べ方を実演して見せる。そして、
「でもね、鍋の中でパンが落ちてしまったら、その人は席に座っている誰かとキスをしなくちゃいけないんだ」
と言うと、鍋の中にパンを落とした。
「今のわざとでしょ」
笑って言った私の唇をアンドリューはやさしくふさぎ、
「見本をみせてあげないとね」
といたずらっぽく言うと、チーズのたっぷり絡まったパンを口に頬張った。
部屋へ戻るとシャワーを浴びた。先に浴びたアンドリューはリビングのソファーにくつろぎながらテレビを見ていた。濡れた髪をタオルで拭きながら私もアンドリューの横へ腰を下ろした。
「今夜が最後ね」
ストーリーも分からないアクションものの映画がテレビに映っていた。
「今度はいつどこで会えるのかしらね」
「僕はスイス、そしてカナはここでの大学生活が始まるからね」
アンドリューは私を抱き寄せて言った。
「それに僕は向こうへ戻ったら母の会社で働くことになるだろうから、当分は遊ぶ時間すら取れないだろうな」
いずれはアンドリューが会社を引き継ぐことで話が進んでいるようだった。
「でも、これで終わりじゃないよ、ね?」
私の知らないスイスでのアンドリュー。急に不安になった。
「当たり前じゃないか。何があっても頑張ろう、カナ」
アンドリューの声が、アンドリューの言葉が、耳から体全身へと浸透していく。
――僕は周りの人たちの言葉ではなく、カナを信じているから。だからカナも僕を信じていてほしい。
以前、私はアンドリューから愛するという事は相手を深く信頼することだと教えられた。何があってもアンドリューを信じよう。私は心の中で決意を新たにした。
「おいで、カナ。ベッドへ行こう」
アンドリューは立ち上がると私の手を取り、引き寄せた。リビングより少しひんやりとするアンドリューの部屋。デスクランプの暖かい光が私たちの影を映し出す。
「本当にいいんだね?」
向き合って立つと、アンドリューは訊いた。
「ええ」
私は短くうなずきアンドリューを見つめた。
「Ich liebe dich, Andrew」
それから静かに目を閉じた。
「カナ、君を離したくない」
私たちは唇を奪いあうように熱く激しく重ねあった。そして、壊れてしまうほどの勢いでベッドへと倒れこんだ。絡みあう舌。もつれあう指。触れあえることの喜びを私たちは感じていた。そんな私たちの燃えるような愛をあざ笑うかのように、部屋に響き渡る二度目の電話の音。
「Shit!」
息を荒げてアンドリューは吐き捨てるように叫んだ。汗ばんだ体にローブを羽織ると、勢いよく受話器を取った。
「ハロー!」
明らかに苛立っている声。私は薄明かりの中、時計を見た。十一時。一体誰からだろう。
「ゴードン、一体どうしたんだ?」
そのこたえをアンドリューの驚いた声で知った。
「警察へは? 分かった。すぐに迎えに行くよ」
警察? にわかに部屋の空気がざわめいた。
アンドリューと私はゴードンが待つサン・ディエゴ空港へと車を飛ばした。規則正しく流れていく街灯のオレンジ色の灯りが輝きを放っている。アンドリューは事の次第――リンドバーグ飛行場の駐車場に車を預けてサン・フランシスコへ帰省していたゴードンがいざ戻ってきてみると、停めてあったはずの彼の車は跡形もなく消えていた。防犯対策もきちんとされていた車だったのに、みごとに盗まれてしまっていた――を話してくれた。煌々と照らし出された駐車場の入り口まで来ると、その外れにゴードンがぽつんと一人、寂しそうに立っているのが見えた。
「二人とも邪魔しちゃったみたいですまなかったな。でも、本当に助かったよ」
ゴードンを乗せた私たちはそのままチップスへ向かった。
――本当よね。事件に巻き込まれたり、何か悪い事をしたりして警察のお世話にならない限り、縁のないところだものね。
車に揺られながら随分前に言っていたイザベルの言葉を私は思い出していた。まさかこんな形でチップスに戻ってくる事になるとは想像もしていなかった。正面玄関に車を停めると、私たちは急いでオフィスの中へ入った。
「スコット!」
見覚えのある顔に私は驚いた。
「やあ。えーっと、確か、カナ? だっけ?」
スコットも私のことを覚えていた。
「しばらくだね。で、こんなに遅くにどうしたんだい?」
この小さな予期せぬ偶然の再会のお陰で、ゴードンへの対応も融通を利かせてくれて、思いのほか全ての処理がすんなりと進んだ。
「すでにパトロール隊への連絡は済んでいるから今夜はもう引き上げてもいいよ」
三十分後、全ての書類にサインをしたゴードンにスコットは言うと、ファイルを閉じた。
「色々とありがとうございました」
疲労と落胆の色が隠せないゴードン。それでも、笑顔を見せて言った。彼のそんな表情を見て、私はいたたまれない気持ちになりアンドリューを見つめた。口元に微かに笑みを浮かべたアンドリューは優しく私の肩に腕を回した。
「さんざんだったね。でも、気を落とすんじゃないよ」
最後に力強くスコットは言い、ゴードンの手をしっかりと握った。
「はい。ありがとうございます」
ゴードンはもう一度微笑んでこたえた。アンドリューは励ますようにゴードンの肩に手をかけると、出口へと歩き出した。スコット、本当に色々とありがとう。私はスコットに礼を言い、彼らのあとに続いた。
家へ戻るともう二時近かった。三人ともくたくただった。
「二人とも本当にありがとう。悪いけど今日はこのままもう寝かせてもらうよ」
ゴードンは肩を落としながら二階へ上がっていった。静かに閉まるドアの音。
「カナ、君が一緒にいてくれたから今夜はホントに助かったよ」
リビングの灯りを消して部屋に入ると、アンドリューは言った。
「私のチップス見学も無駄じゃなかったわね」
Vサインをしてわざとおどけてみせた。でも、私の笑顔はあっという間に消えていく。「ゴードンの車、みつかるといいね」
みつかる可能性はゼロに近いと分かっていても、そう言わずにはいられなかった。ゴードンのあの悲しい表情が忘れられない。アンドリューも、ああ、そうだね、と小さくうなずいた。
「でも、朝の電話といい、さっきの電話といい、あまりにも間の悪いタイミングだったよね。正直これは神様がまだダメだよって言っているように感じちゃったわ」
洗面所で寝具に着替えて部屋へ戻ってくると私は言い、肩をすくめて苦笑した。
「そうかもしれないな。もう少しお互いが成長するまで待ちなさいっていうサインなのかもな」
アンドリューは私を抱きしめてそう言うと、頭上にキスをした。もっともゴードンのことを思えば、二人の感情に身をまかせることが得策でないことは当然のことだった。
「今まで待てたんだ。急ぐことはないさ。愛することに変わりはないんだから」
「そうよね」
私たちは心も体も安心しきって深い眠りへと落ちていった。
十五 スイス 八七年 冬
十月、大学からの帰り道、私は郵便局へ立ちよりアンドリューに小包を送った。
もうすぐアンドリューの二十四回目の誕生日がやってくる。
春に日本の大学を卒業した私は九月からグロスモント・カレッジへ通っていた。
心理学に興味を持ち、最初に取った「スピーチ」のクラスでその初歩を学んだ私は、「スピーチ・コミュニケーション」を専攻すれば心理学が学べると、ただ単純に(調べもせずに)信じ、即座にそれを専攻科目にしてしまった。しかし、現実はそう甘くはなかった。実際に心理学を学んだのは最初の一クラスのみで、あとは議論、討論、パネル・ディスカッションなど、ネイティブでない私には地獄のように恐ろしく辛いクラスばかりだった。毎回授業についていくのがやっとで、アンドリューはよく時間を作って私と会ってくれていたなあと、度々彼の凄さを思い知らされた。そんなとんでもなく難しい科目を専攻してしまった事を除いては、私のアメリカ生活はとても刺激的で快適だった。
家で課題のレポートを仕上げていると、智也から久しぶりに電話があった。昨年の九月からシティカレッジへ通っている智也からは、毎回忘れたころに電話がかかってきた。
「よお、カナ。元気か? 大学はどうだ?」
相変わらず弾むように元気な声。唯一日本人の男性として頼りになる、兄貴のような智也。
「ホント、いっつも忘れたころに電話がくるよね」
「っていうか、お前だって電話くれないじゃないか」
「あっ、そうか」
二人でけらけらと笑い出した。
「どうだ、たまには食事でもするか?」
本当に兄貴のような口ぶり。
うん、いいよ、とこたえた翌日、私たちは一年半ぶりに「T.G.I.Friday‘s」で会うことになった。レストランの駐車場に入ったとき、既に智也が窓際の席に座っているのが見えた。
「ごめんね、待った?」
先に席について美味しそうにタバコを燻らせている智也の顔は、以前にも増して黒々と日焼けをしていた。
「智也、随分色、黒くなったね」
「お前も元気そうじゃん」
気のおけない友人との久しぶりの再会。日焼けした表情の下に見える二年前よりも大人びた顔立ち。いい男になったな。席に着きながらふと、そう思った。
「最後に会ってからもう一年以上も経っているなんて信じられないね」
「この前会ったのは日本だったもんな」
それが今、こうしてまた顔を向き合わせている。それもサン・ディエゴで。アンドリューもルイもスーザンも知美も、もう誰一人いなくなったサン・ディエゴの空の下で。
確実に時は流れている。私はしみじみと感じた。
「まだみんなとは連絡とっているのか?」
智也も同じように時の流れを感じているのだろうか。
「アンドリューとはどうなんだ?」
アンドリューのいなくなったサン・ディエゴに彼を知っている人がまだいる。私にとっては大きな慰めだった。
「遠距離恋愛、なんとか続いているよ」
私はこたえて微笑んだ。
「そうか。頑張っているんだ。お前らホント、すごいよ」
本当に褒めてくれていると分かる響きで智也は言う。私は、ありがとう、と言って目を細めた。
「ルイからは手紙やたまに電話もかかってくるわ。最近はもっぱらルイの新しい彼女の話題で持ち切りだけどね」
グラタン皿に盛り付けられた熱々のアップルパイをフォークで切り分け、その上にクリームをたっぷりのせると、私は口に運んだ。
「へえ。じゃあカナからは卒業できたんだ」
智也は言って笑い、運ばれてきたコーヒーをひと口飲む。
「そうよね。そんな事もあったわね」
智也の言葉に私はあの夜――ルイから激しくキスをされた夜――を思い出した。それも今となっては昔の記憶。私たちはあれ以来、本当によき友人になれた。
「あとスーザンとも手紙のやり取りをしているし、ロベルトからもたまに手紙が届くのよ」
思えば日本の友人たちよりも連絡を取る回数が多い異国の友人たち。
「そういえば、お前のルームメイトだった知美は? 彼女は元気か?」
突然、智也が言った。智也の口から知美の名が出るとは以外だった。
「随分前に一度だけホルトン・プラザに連れて行ってもらったときに会っただけなのに、よく知美のこと覚えていたね。なんかちょっとびっくり」
「いや、俺も忘れてたんだよ実は。それがさ、去年の夏ごろだったかな? 偶然彼女とホルトン・プラザでばったり出くわしたんだよ」
知美がここに? 私は驚いて智也をまじまじと見た。
「それで?」
「それで、確か君はカナとルームメイトだった子だよねって挨拶してさ」
「彼女は一人でいたの?」
「いや、栗毛の外人男と一緒だった。楽しそうに肩組んでいたよ」
マークだ。マークに会いに行ったんだ。知美の幸せそうな顔が目に浮かんだ。
「なんだ。連絡取ってないのか?」
呆れたように智也は言った。
「日本に戻ってから何回か会ったけど、そのあとはバタバタしちゃって。だからここへ来る前に連絡したのよ。でも、引っ越したみたいでつながらなかったの」
知美は元気にしているのだろうか? 今、どこで何をしているのだろうか?
無性に知美に会いたくなった。
「他には何か言ってた?」
「俺も詳しくは聞かなかったけど、彼女、国際線のスチュワーデスを目指しているんだって言ってたよ」
線の細い綺麗な知美にはぴったりの職だ。
「へえ、そうなんだ。みんなそれぞれに道をみつけ始めているんだね」
私は言って、知美とマークが今もどこかで幸せにいてくれることを願った。
秋の感謝祭が終わると同時に町も店も見渡す限り、どこもかしこもクリスマス一色と化す十二月。今年も大きくどっしりとしたもみの木を家族総出で買いに出かけた。
家に戻ると、ハビエルは暖炉に火をともし、イザベルはクリスマスミュージックをかけ、私たちはポップコーンを糸に通し、ツリーの周りに巻いた。去年と同じ家族行事。でも、去年一緒にクリスマスツリーを飾ったアンドリューはどこにもいない。それでも、私の心は晴れやかだった。
「カナ、なんだかとっても浮かれた感じね。またスイスに行くことでも考えているんでしょう?」
喜怒哀楽の激しい私には隠し事が出来ない。
「だって一年ぶりの再会ですよ。それも憧れのスイスで」
なんの根拠もなく私は両親に、英語漬けになりたいから一年半は日本へ戻らない、と啖呵を切り、サン・ディエゴへ戻って来た。それを言い訳に私はこの冬スイスへ行くことを決めた。
小さいころからの憧れの国、スイス。
素晴らしい山景。美味しいチーズに美味しいミルク。アルプスの少女ハイジ。
どんなに御託を並べても、本当のところこたえは一つだった。
アンドリューに会いたい。ただそれだけだった。
アンドリューにスイス行きを告げた十一月、受話器の向こう側で私以上に歓喜し、私以上に狂喜してくれた。
「本当に来てくれるんだね! 本当なんだね!」
いつもの冷静さを完全に失っているアンドリューの声。
「カナ、君は最高だよ!」
アンドリューの声に私と同じ深さの愛を感じた。心で感じあえる私たちの愛。離れていても幸せと感じられる瞬間だった。
十二月三十日、午前九時半。私はチューリッヒ国際空港へ降り立った。
ゲートへと続く長い廊下を歩いていると、その先に一年ぶりに会うアンドリューが満面の笑みを浮かべて立っていた。彼の横には手を振って笑顔をふりまくスーザンとジュリアの姿も見えた。
「カナ、会いたかったよ!」
ゲートを出た瞬間、アンドリューは熱く激しく私を抱きしめた。
「アンドリュー!」
こみ上がる感情の先にこぼれ落ちる彼の名前。その一言に全ての思いがこめられていた。その一言で十分だった。私は目を閉じてアンドリューの背中に腕をまわした。
「カナ、私たちも忘れないでよ」
二人の絡み合った抱擁を解くようにスーザンは言った。
「スーザン! ジュリア!」
私たちは力いっぱい抱きしめ合った。
サン・ディエゴにいたころと比べると、みんなの風姿も風格もずっと凛として大人びて見えた。変わらずにあるのは輝きに満ちたみんなの明るい笑顔。
「みんなステキになったね」
私は体を離すとみんなの顔をかわるがわるに見て言った。
「カナだって」
スーザンが言うと、私たち四人はまるでしめしを合わせたように、グループ・ハグだ、と一斉に言い、輪を作るように抱き合うと、声を出して笑った。
「スイスへようこそ、カナ!」
「ありがとう、みんな!」
空港の外へ出ると欧州中部の気候らしく、透明感を感じさせる爽やかな軽い空気が頬を滑る。空の色は日本ともサン・ディエゴとも違う、まさにスカイブルー。雲は頭上にはなく、遠くの空に帯をなすようにかかっていた。
「これがスイスなのね」
体いっぱいに深呼吸をして、私は味わうように言った。
「そう。僕の育ったところだよ」
「私たちの、でしょ」
アンドリューの言葉にジュリアはすかさず言い返すと、アンドリューの肩を軽く叩いて、まったく、と、呆れたように笑った。
アンドリューの――新しく購入した――真っ赤なBMWに乗り込むと、私たちは近くのカフェへ向かった。車窓に映る美しい風景に目を留めるのを忘れてしまうほど、私たちは思い出話に盛り上がった。会話の途中、アンドリューと私は何度も見つめ合い、その度ごとに柔らかい微笑みを交わし合った。
「カナ、ここにいる間、本当はずっとアンドリューといたいでしょうけど、せっかくスイスに来たんだから、私のところにも泊まってほしいのよ」
スーザンの誘いにアンドリューは私を見つめると無言のまま、そうしていいよ、とにこやかに相づちをうつ。私も微笑んで小さくうなずいた。
「スーザン、ありがとう。じゃあ是非そうさせてもらうわ」
「よかった。嬉しいわ」
それじゃあ、と言ってスーザンは後部座席から身を乗り出し、アンドリューの肩に手をおくと、
「いつならあなたのカナをお借りしてもよろしいのかしら?」
といたずらっぽく笑って訊いた。
「そうだな、明日から四泊五日で山の方へ旅行に行く予定を立てているんだ」
アンドリューは私を見つめて弾むような声で言った。
――カナがスイスにいる間は仕事を休んでずっと一緒にいるよ。
スイス行きを告げたとき、アンドリューはそう言っていた。
そんな計画を立ててくれていたんだ。明日からの旅行を思い、胸がわくわく躍った。
「そのあとは僕の……」
「ちょっと、それじゃあ何日もないじゃない」
スーザンが口を割った。
「ごめん、ごめん。それじゃあ今日と、カナが帰る前の二日間ではどう?」
「たったの三日間だけ?」
二人の会話をジュリアと私は笑いながら聞いていた。
「Take it or leave it, Baby : のるかそるかだぜ、ベイビー」
歌うようにアンドリューは言うと、私にウインクをなげた。屋根の先がツンととんがった小さな教会が私たちの横を通り過ぎる。
「仕方ないわね、まったく」
呆れ顔でスーザンはこたえてシートにもたれた。
「僕の勝ちだね」
アンドリューは親指を立てて、バックミラー越しにスーザンに笑って言った。
「愛する二人の間には入れないってことね」
そういうことさ、と言ってアンドリューは私の手を握ると優しく微笑んだ。私は肩をすくめて笑い返した。
翌日、アンドリューと私は四泊五日の小旅行へと出かけた。
十二月を締めくくる最後の日にふさわしく晴れ渡る青い空。アンドリューの車に揺られながら私は自分の幸せな現状にとことん酔いしれていた。
「どこへ向かっているの?」
まるで物語の中にでも入りこんだような、可愛らしい家々がどこまでも立ち並ぶ。のんびりと日向ぼっこをしている牛たちが時々姿を現す。スイスにいることを――アンドリューやスーザンたちに会ったときよりも――妙に実感させられる風景がどこまでも続く。
「兄が働いている山へ向かっているんだ」
アンドリューはにこやかにこたえた。
「山で働いているの?」
私の記憶の引き出しには山での仕事といえば「山小屋」という言葉しか入っていない。
「雪山で遭難したり、怪我で動けなくなったりした人たちを助けるレスキュー隊で働いているんだ」
首をかしげた私にアンドリューは言い、
「季節限定の仕事だけど、雪山でレスキューをするっていう事はかなりのスキーの技術がなければなれない、誇りある仕事なんだよ」
と続け、アクセルを踏み込んだ。道路は徐々に勾配を増している。
「だから、僕は兄を尊敬しているんだ」
私を見つめると誇らしげにアンドリューはつけたし、穏やかに微笑んだ。
サン・ディエゴでは見たことのない――兄弟愛を大切にしている――アンドリューの表情。新しい彼の一面を知った私はなお一層、アンドリューを愛おしく思った。
「その兄にカナを紹介したいんだ」
車はきついカーブに差しかかった。アンドリューはギアをローに入れてゆっくりと曲がった。そして、照れ笑いをすると、
「山男だからちょっと変わっているけどね」
と言い添えてラジオをつけた。
Unchain my heart. Baby let me go. Unchain my heart. Cause you don’t love me no more
スピーカーからジョー・コッカーの痺れるようなハスキーな歌声が流れてきた。車窓には寒々とした山々と絶え間なく続く緑の大地が映っていた。
「会うのが楽しみ」
リズムに合わせて私はこたえた。
車はひたすら山道を走りぬけていた。車窓に映る山々も、薄っすら雪化粧をした景色へと移っていた。出発してから一時間半ほど南へ走るとようやく小さな町が姿を現した。そこは「ヴァルベラ」というひっそりとした静かな町だった。
「カナ、着いたよ。あそこの建物の二階に僕の部屋があるんだ」
スイスの家らしく三角屋根が可愛らしい白い――少し大きめの一軒家にも見える――共同住宅の二階がアンドリューの持ち家だった。階段を上り、玄関を入ると木材の良い香りが部屋中に漂っていた。天井や壁、家具も全て同一のオーク材が使用されていて、表面に浮き出た節目や規則正しく流れる板目は、まるでステンシルで描かれたような綺麗な模様を描いていた。
「わあ、ステキ。それに木のいい香り」
窓ぎわに立つと私は深く息を吸いこんだ。目の前にはどこまでも続く真っ白な山々とスカイブルー色の空。「スイス」といったら誰もが真っ先に想い描くような、見れば誰もが「あ、スイスでしょ」と分かるような壮大な景色。
「ねえ、アンドリュー。あの山はなんていう山なの?」
私は言って振り向くと、アンドリューはすぐ後ろに立っていた。そして、私をすくうように抱きしめると、体をぴったりと重ね合わせ、レンツェルハイデの山だよ、と優しく耳元でささやいた。
背中に感じるアンドリューの広い胸。アンドリューの元へ戻ってきた。いつも優しく常に冷静で思慮深いアンドリューの腕の中に。
「会いたかった……」
私はアンドリューの腕にしがみつき、彼を見上げてつぶやいた。アンドリューの息が首筋に吸いつくようにかかり、一年前のあの熱い愛欲が呼び起こされる。私はアンドリューの両腕にもう一度しっかりとしがみついた。
「カナ……。一年は長かったよ」
「ただいま、アンドリュー」
一年ぶりのアンドリューの熱い吐息、愛のこもった口づけ、優しい愛撫。アンドリューは私を抱き上げるとそのまま寝室へ入り、それから私たちは一年前に果たせなかった互いの全てを知り尽くした。ときに激しく、ときに甘く、絡み合っては息をつき、もつれ合ってはあえぎ、愛しあえることの喜びを全身で感じていた。そして、止まることを忘れたメリーゴーランドのように、私たちは何度も何度も愛しあった。
その日の夜、アンドリューのお兄さんに会うために――疲れきった体に鞭をうち――私たちは町の中にある一軒の小さなパブへ向かった。店内は新年を祝うためのきらびやかな飾りつけが、壁や天井などそこら中に吊るされていた。
「まだ兄は来ていないから先に何かを飲んでいよう」
アンドリューは言って、キルシュを注文した。
これなら甘いからカナでも飲めると思うよ、と、渡されたキルシュ――サクランボから出来ている――は、アルコール度数は高いが口当たりがよくてとても美味しかった。
小さな細目のグラスに注がれた二杯目のキルシュを飲んでいると、日に焼けた三人組みの男性が楽しそうに店内に入って来るのが見えた。
「ヘイ、アンドリュー!」
その中の一人が手を挙げてアンドリューに近づくと、がっしりと抱きついた。
「兄さん。彼女が恋人のカナだよ」
しっかりと数秒間抱き合ったあと、アンドリューは私の肩に腕を回して言い、そして、
「カナ、彼が兄のブルース、自慢の兄だよ」
と、「自慢」という言葉に力を込めてお兄さんを紹介してくれた。
線はアンドリューよりも少し細く、身長はアンドリューよりも少し高めのブルースは(アンドリューとは対照的に)見るからにワイルドな雰囲気を持っていた。シティボーイというよりは、飾り気の一切ない――アンドリューが言っていた通りの――山男といった感じだ。でも、アンドリューを見つめるブルースの瞳には、弟に対する愛情の色がしっかりと現れていた。
「やあ、カナ。今日は君に会えるのを楽しみにしていたよ」
「私もです」
レスキュー隊という職業のせいか、握り締められたブルースの手からはがっしりとした筋肉と少し乾いた皮膚の感触が伝わった。さっぱりとした性格のブルースは私に気さくに話しかけ、私たちはすぐに打ち解けた。連れの二人もアンドリューを良く知る友人たちで、いつの間にか私は彼ら――あまり英語が話せない――とも(お酒の力も手伝って)意気投合して大いに盛り上がった。
時刻は十一時五十九分になった。
「スリー、ツー、ワン、ハッピーニューイヤー!」
一九八八年一月一日。 新しい年の幕開け。
「カナ、新年おめでとう!」
「新年おめでとう、アンドリュー」
私たちはひとしきり見つめ合うと新年の口づけを交わした。
アンドリューの腕の中で目覚めた翌日、近くのレストランへブランチを食べに出掛けた。
はち切れんばかりに張り詰めた大きなソーセージとパンケーキのように分厚いハッシュドポテト、ザワークラウトと焼きたてのパン。バターはもちろん新鮮なミルクから作られた無塩バター(その味はバターとは思えないほどさっぱりしていて、気をつけないと食べ過ぎてしまうほど美味しかった)。時間をかけてゆっくりと食したあとは、コーヒーにスイスチョコレート。申し分のない贅沢なブランチだった。
夜は新年を迎えたパブでブルースたちと再び会い、冬の定番の飲み物だよ、と、みんなから勧められ、私は初めてアイリッシュコーヒーを飲んだ。たっぷりと浮かんだホイップクリームの下に、アイリッシュウイスキーの混ざった熱々のコーヒーが入っていて、ほろ苦いコーヒーと甘いクリームが口の中で混ざり合い、何とも言えない絶妙な美味しさだった。
酒に酔い、激しい愛に酔った次の日、アンドリューは朝のコーヒーを入れながら、
「今日はショッピングデーにしよう!」
と浮かれた声で言い、
「それで食料を調達してカナに美味しいものでも作ってもらえると嬉しいんだけどなあ」
と、今度は甘えるような目つきで私の横に座った。
「アンドリューは何が食べたいのかな?」
私は甘えてくるアンドリューの頭を撫でてふざけて言った。アンドリューはそのまま顔を私の胸の中に埋めると、うーん、まずはカナかな、と言って私を見上げ、ゆっくりと唇をふさいだ。柔らかいアンドリューの唇。絡める舌に微かに残るコーヒーの苦味。私たちはそのまま朝日の降り注ぐ窓辺のソファーでたくさん愛しあった。
ダシもみりんもない、醤油と砂糖と白ワインだけで作った日本食もどきの食事を、それでもアンドリューは美味しいと言って食べてくれた翌日、二人で朝食の支度をしていると、アンドリューのお母さんから電話がかかってきた。ドイツ語で話しているので内容は皆目見当もつかなかったが、アンドリューは時々私の方を見ては微笑み、受話器の向こうのお母さんにうなずいて相づちをうっていた。
「母がカナによろしくって。今度の水曜日に会えるのを楽しみにしているってさ」
電話を切るとアンドリューは笑って言った。
水曜日? 私は何を言っているのか分からなかった。
「ああ、まだ言ってなかったね。水曜日、母に会ってもらいたいんだ」
「お母さんに?」
コーヒーを注いでいた手が止まる。
「そうだよ」
にっこり微笑んでアンドリューはうなずいた。
「母がカナに是非会いたいって言っているんだ」
私も微笑んでみたが、嬉しさと同時に不安が脳裏をかすめ、中途半端な笑顔になった。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。僕たちのことを喜んでくれているんだから」
「ほんと?」
「本当さ。でなきゃわざわざこんな所まで連絡なんてしてこないさ」
アンドリューはこたえて、手際よくテーブルをセッティングすると、
「それに、僕がどれだけカナを本気で愛しているか、母には伝えてあるしね」
と耳元でささやき、キッチンに姿を消した。
本気。その言葉が胸を打つほど嬉しかった。でもそのとき、私は母にアンドリューの存在をまだ「大切な友人」としてしか話していなかった。親元を離れて外国で暮らしていること自体、心配の種なのに、その上、愛している人が日本人でないと知ったら……。ここ数年で体調が悪化していた母に、それ以上の心配をかけさせたくなかった。それでも、母かアンドリューかと言われたら、私は迷うことなくアンドリューを選ぶと分かっていた。ダニーの家でドアの前を横切っていくアンドリューを見たあの瞬間から、私は彼に運命を感じていた。あの瞬間から、私は疑う余地なくアンドリューを愛していた。アンドリューは私の全てだった。私の命だった。どのみち子供は親から巣立つものだ。私には――たとえ親を捨ててでも――アンドリューを選ぶ覚悟は出来ていた。
「カナだって僕たちのことはもうお母さんに話しているんだろ?」
アンドリューに嘘はつきたくなかった。愛する事は信頼することだと教えてくれたアンドリューには。私は首を横に振った。
「ごめんなさい。まだ大切な友人としてしか話していないの」
アンドリューは平静を装っていたが、私の言葉に傷ついたことは明らかだった。眉間が微かに動いたのを私は見逃さなかった。
「誤解しないでね。母、このところ体調がよくないの。だから手の届かないところにいる娘のことで心配させたくなかったから、まだちゃんとは言っていないだけよ」
「お母さんの具合、そんなに悪いのかい?」
傷ついた気持ちをよそに心配な表情を浮かべるアンドリュー。
「お医者様の話だと、心臓と腎臓が悪いんですって」
「そうなのか」
アンドリューはそう言うと、早くよくなるといいね、と言い、
「この話はまた今度話そう、いいね?」
と、穏やかな笑顔を見せた。でも、その笑顔の裏には紛れもなく落胆の色も見えていた。
青く晴れ渡ったその日の午後、何事もなかったかのように、私たちはレンツェルハイデのロートホルン山へケーブルカーで登った。そこで働いているブルースたちに再会して、雪山を背にみんなで記念写真を撮った。どこまでも広がる雪山のあるてっぺんに、木でできた十字架がぽつんと寂しく立っているのが見えた。
私はその十字架を見つめながら祈った。この幸せがいつまでも続きますようにと。
ヴァルベラ滞在最後の日、雪がちらつく中、私たちは家から十分ほど歩いたところにある小さなカフェに立ち寄り、冷え切った体をアイリッシュコーヒーで温めた。
「時の経つのって本当に早いのね」
「カナを待っていた一年は長かったけど、カナがここへ来てもう六日も経つんだね」
あと四日で私はサン・ディエゴへ戻る。
「十日間の旅行なんて本当にあっという間」
楽しいときほど時間の流れが速いというのは本当だと思った。
「せめてカナを見送れたら良かったのにな」
私がスイスを発つ当日、アンドリューは三週間の兵役訓練を受けるために家を留守にすることになっていた。だから最後の二日間をスーザンのところで過ごすと決めたことは最良の決断だった。訓練や仕事で忙しい彼にこれ以上の負担はかけさせたくなかった。
「仕方ないじゃない。訓練は義務なんだもの」
コーヒーを二つ置いたらそれだけでいっぱいになってしまう程小さなテーブルを挟んで座っているアンドリューと私。あまりに小さなテーブルに、肉質のよいがっしりとしたアンドリューの太股は納まりきらず、私の両足は彼の太股の間にすっぽりとはまってしまっていた。
「でも、今年の夏休みにはまたここへ来られるようにするわ」
私は言ってコーヒーをひと口喉の奥に流しいれた。
「それに、アンドリューは社会人で私は学生。時間の取れる方が都合をつければいい事だもの」
「でも、カナのお母さんは? 具合が悪いのに戻らないで大丈夫なのかい?」
「そうね……」
私は道路に薄っすらと積もり始めた雪を見ながら母を思い出していた。
夜は近くのレストランで本場のフォンデュを食べた。すっかり雪で覆われた町が見渡せる窓際の席で、サラダとしっかりとした赤ワインも頼んだ。
「サン・ディエゴで食べたのも美味しかったけど、やっぱり本場の方が断然美味しいわ」
濃厚なチーズに負けないフルボディのメルローを口にふくむと私は言った。
「うん。本当だ」
たっぷりチーズを絡めたパンを頬張りながら、アンドリューはうなずいた。
それから私たちは色々な話をした。
アンドリューの仕事の話。私の大学での話。兵役の話。イザベルたちの話。休みの日は何時に起きて、何をするか。それから家族の話。
私はこのとき初めてアンドリューの両親が離婚していることを聞かされた。両親は別々の会社を経営していて、アンドリューは考えぬいた末にお母さんの会社を引き継ぐ決心をしたと話してくれた。
「母親っていうのは自分の子供たちの前でどんなに強がってみせても、やっぱり女性なんだよ。誰かに頼りたいって思うものなんだろうな。夫婦仲が悪ければ、子供に頼りたくなるのは当然のことだけどね」
思慮深く洞察力に富んだアンドリューらしい台詞。
「カナの両親の仲はどうなんだい?」
グラスに残る最後のワインを喉に流しこむとアンドリューは言った。
「ごくごく普通じゃないかしら」
私は言い、
「でも、アンドリューが言うように、私の母もとても甘えたがるところがあって、父よりも私を頼りにするのよね」
と続けて苦笑した。
「それじゃあカナはグロスモントを卒業したら、やっぱり日本へ戻るんだね」
問いかけというよりは自分を納得させているような口調でアンドリューは寂しそうに言った。
「アンドリュー、あなたが私の事を本気でいてくれるように、私も本気であなたを愛しているのよ。あなたか親かと聞かれたら、私は迷わずにあなたを選ぶわ」
私はまっすぐにアンドリューを見つめてきっぱりと言った。アンドリューの悲しげな表情がフッと和らぐ。
「それを聞けて嬉しいよ。でも、病気のお母さんを残して僕との人生を歩んでしまってもいいのかい?」
テーブル越しにアンドリューは私の手を握り、プロポーズともとれる言葉を発した。私はアンドリューの手を握り返すと、大きくうなずいた。同時に母の笑顔が脳裏をかすめ、いくばくかのためらいも感じていた。
十六 失望
翌日、五日間の熱く甘い時間を過したヴァルベラの別宅をあとに、リヒタスヴィルにあるアンドリューの家へ向かった。ヴァルベラの三角屋根の家とは違い、その家は積み木のブロックのような四角い三階建てのコンクリート造りで、最上階の一角が彼の家だった。広い玄関にゆったりとしたリビング、アップライトピアノが置かれたゲストルームとアンドリューのベッドルーム、細長く適度に広いダイニングキッチン。部屋全体はサン・ディエゴのときと同じようにモノトーンでまとめられ、所々に飾られたインテリアは物静かで落ち着いたアンドリューを象徴しているかのようだった。
荷物を置くと――新婚旅行から戻った夫婦のように――まずはスーパーへ買い出しに出かけ、必要な食材や調味料を揃えた。朝は僕が作るよ。じゃあ私はお昼ね。次の日は一緒に作ろう。そうやって代わる代わる料理を作っては夫婦の真似ごとをして幸せに浸っていた。時間を調整してはスーザンやジュリアと合流し、ラッパーズヴィルのバーへ繰り出したり、ニーダードルフ通りを散策しては、そこで見つけたコーヒーショップやレストランで楽しい会話に花を咲かせ、美味しい食事にしたつづみを打ったりした。オーバードルフ通りにあるグロスミュンスター大聖堂へ行ったときは、みんなで一緒に記念写真を撮ったり、ジュエリー店に立ち寄ったときは、小さなダイヤのついた金の指輪をアンドリューがプレゼントしてくれたりもした。夜は互いの愛を確かめ合うように甘い香りを漂わせて愛しあい、抱きしめ合って眠った。それはまるでもうすぐやって来る別れを惜しんであらゆる感覚器官を研ぎ澄まし、二人の体と心に互いの全てを沁みこませているかのような、そんな激しい愛し方だった。
水曜日、私は朝から心持ち緊張していた。夕方、アンドリューのお母さんに会いに行くことになっていたからだ。彼のお母さんに会うだけだ。他に深い意味がある訳ではない。そう自分に言い聞かせても、心拍数は確実にいつも以上に上がっているのが分かった。
「カナ、今日は朝からそわそわしているね。そんなに心配?」
私は努めて普通にしていたつもりなのに、アンドリューの洞察力にはお手上げだ。
「お母さんに気に入られなかったらどうしよう。そんなこと考えていたらどきどきしちゃって」
そう言って握りしめた私の手は緊張で冷たかった。
「ちょっとおいで」
アンドリューは手招きをして私を呼ぶと、ゲストルームに置いてあるピアノの前に座った。
「アンドリュー、ピアノ弾けるの?」
私は目を見開いて訊いた。ピアノが置いてあってもまさか彼にピアノが弾けるとは思ってもみなかった。――アンドリューとピアノ――この組み合わせがどうしてもピンと来なかった。
「しばらく弾いてないからどうかな?」
笑顔で言うと蓋を開いた。それから鍵盤にそっと手をのせ、軽やかな手つきでジャズを弾き始めた。
「わあ、すてき」
私は目を閉じてアンドリューの奏でる曲に聞き入った。それは彼の好きなジョン・コルトレインの曲だった。バラード調のその曲は緊張で高まった私の心をゆっくりと優しく解いていった。テンポは更にスローになり、曲の終わりに近づいた。私は目を開けてアンドリューの流れる指先を目で追いながら深く息を吐いた。酔いしれちゃったわ。そう言ってアンドリューに微笑んだ次の瞬間、彼はいきなり鍵盤を強くたたいて私にウインクを投げた。そして、聞き慣れた曲を弾き始めると、曲に合わせて歌い出した。
Unchain my heart. Baby let me go. Unchain my heart. Cause you don’t love me no more
それは車の中で何度となく流れていたジョー・コッカーの曲だった。
ヴァルベラに向かうときも、リヒタスヴィルに戻ってくるときも、スーザンたちとラッパーズヴィルに行くときも、ラジオからジョー・コッカーの痺れる歌声が流れていた。楽しい思い出が蘇る。いつの間にか私もアンドリューに合わせて一緒に歌い出していた。私の緊張は完全にどこかへ消えていた。
アンドリューのお母さんはオーバーリーデンという町から少し山の方へ入った立派な一軒家に住んでいた。今ではロンというパートナーの彼もいた。家へ向かう途中、私たちは花屋に立ち寄り花束を買った。
重厚な装飾入りの木製扉をアンドリューがノックすると、中から見るからに気品高い雰囲気を持つ、素敵な女性が満面の笑みを浮かべて現れた。
「やあ、母さん。約束通りカナを連れてきたよ」
アンドリューはにこやかに言い、買ってきた花束を渡した。
「まあ、カナ、よくいらしたわね。待っていたのよ。さあ、中へ入ってちょうだい」
流暢な英語で私を歓迎してくれた。
部屋の中はキングウッドともレッドウッドとも取れる色合いの家具でダイニングもリビングも統一されていた。壁のいたる所には大小の油彩画が飾られ、天井はモールディングで覆われていて、豪華なシャンデリアの光りが部屋全体を優しく照らし出し、暖炉にくべられたモミの薪が、暖かい炎と共に芳しい香りを放っていた。
「初めてのスイスはどう? アンドリューはちゃんと楽しませてくれているのかしら?」
お母さんは言って、生ハムやサラミ、フレッシュチーズがのった大皿をテーブルの中央に置くと、私を見て微笑んだ。
「はい。色々なところへ連れて行ってくれるので毎日がとても楽しいです」
私はこたえてアンドリューの腕にそっと触れた。アンドリューは私の手を優しく握ると、自分の手に絡ませた。
「それじゃあ、みんなでカナを歓迎しよう」
四人のグラスにワインを注ぐとロンはスッと立ち上がり、乾杯の音頭をとった。
ヨーロッパ人は酒に強いと聞いたことはあるが、アンドリュー同様、お母さんもロンもめっぽう強くて、四人でワインを六本も空けた。生ハムやチーズなどの肴も初めて食べる味のものばかりだったが、どれも新鮮で美味しく、会話も弾んだ。途中、何か腹持ちのよいものが食べたいと唐突にアンドリューが言い、私はキッチンをかりてトマトとパプリカ、生ハムを使った即席パスタを作った。
「まあとっても美味しいわ。カナはお料理が上手なのね」
お母さんのその一言で火がついたように、アンドリューはサン・ディエゴでの日本食パーティの話を自慢気に話しだした。食材から料理のメニュー、味付けに至るまで事細かく説明する。そして最後に、
「カナの料理は本当にどれも美味しくて、僕は幸せ者だよ」
と、ほろ酔い気分と分かるトロンとした表情で私の肩を抱いて言った。
「きっとお母様がしっかりとあなたにお教えになったのでしょうね」
お母さんが言うと、アンドリューは私の肩を抱いたまま、うん、うん、と嬉しそうにうなずいた。
「見様見真似です。母は体が弱い分、私が代って作る方が多かったので、自然と覚えてしまったということもあるんでしょうけどね」
私はありのままを話しただけだったが、みんなの顔に同情にも似た表情が浮かんだ。
「それじゃあお母様は今、カナがいなくてお一人で大変ね」
「その分きっと父が助けてくれている、そう信じるしかないですね」
私はこたえて明るく笑った。それでも依然として漂う沈んだ空気。
「あ、母さん。そう言えばカナに写真を見せるって言っていたよね?」
益々重くなった空気をアンドリューが押し流してくれた。
「そうそう。ちょっと待っていてね」
お母さんは言って奥の部屋へと消えた。すると、これをカナに見せたかったの、と、大きな箱を両手で抱えて戻ってきた。
「アンドリューの小さいときの写真なのよ」
蓋を開けて懐かしそうにお母さんは言い、私の前に置いた。どの写真を見てもアンドリューは柔らかい、暖かみのある笑顔を振りまいていた。子供なのに落ち着いていて、品格さえ感じる写真の中のアンドリュー。愛情をたっぷりと受けて育ったことがひしひしと感じられた。箱の中にはブルースの小さいころの写真もたくさんあり、兄弟仲良く写っている姿にほのぼのとした気持ちになった。
「どれでも好きなものを持っていってね」
お母さんはおもむろにそう言うと、
「あなたにこの子の写真を持っていてもらいたいの」
と、アンドリューと同じ柔らかい微笑みを顔中いっぱいに浮かべて私を見つめた。
私は彼女の優しい言葉に胸が痛くなるほど感激した。私はアンドリューを見つめ、二人で微笑み合った。愛する人の親から好かれることの喜びを私は深く噛み締めていた。
翌朝、私たちは目が覚めてもしばらく抱き合ったまま、なかなか起きられなかった。やっと起きたときは十時近かった。窓を開けると爽やかな軽い風が雪山の香りと一緒に部屋の中に入ってくる。私は思い切り背伸びをしてベッドを整えた。
「昨日は飲み過ぎちゃったわね」
洗って乾かしておいたカップをテーブルに置いて私が言うと、アンドリューはあくびをしながら、そうだね、と相づちをうち、
「でも、楽しかったよ」
と、弾むような声でモーニングコーヒーを注いだ。それから私たちは夕べお母さんが帰り際に持たせてくれたサラダ――生ハムとチーズを添えた――とパンで遅めの朝食をとった。
「今夜からスーザンのところで寝ることになるのね」
食事が終わり、リビングのソファーに腰を下ろすと、私はため息まじりで言った。
スイスでの滞在も残り二日というのに、その最後の時間を私はスーザンの家で過ごすことになっていた。アンドリューの兵役訓練初日が私のスイスを発つ当日と重なっていたし、自分の家に是非泊ってほしいと言ってくれたスーザンの誘いを断ってまで彼と一緒に過ごす事は、自分の我を押し通すようでそんな我儘な事は出来ないと、彼女の誘いを快く受けたのは私なのだから、今さら臍を噛んでも仕方のないことだった。
「でも、夕方まで一緒にいられるよ」
それでもやっぱり寂しさは募る。私はもう一度ため息をついた。
「そうだ、カナ。日本のお母さんに電話をかけてみないかい?」
思い立ったようにアンドリューは言った。
「でも、国際電話は高いし……」
不意をつかれた私は言葉を濁した。
「僕と一緒にいる事がお母さんに分かってしまうとまずいの?」
アンドリューの顔に一瞬悲しげな表情が走る。
「そんなことあるわけないでしょ。それに、あなたのところでお世話になる事は、母には知らせてあるもの」
私はできるだけ明るい口調で言い返した。
「それじゃあ、かけよう」
にっこり笑うとアンドリューは受話器を持ち、私が番号を言うのを待っていた。
「0081‐45‐59……」
私の言った番号を復唱しながらアンドリューはボタンを押す。そして、受話器を耳にあてて私を見つめた。受話器から微かにもれる呼び出し音。
「ハロー、カナのお母さんですか?」
アンドリューは簡単な単語を並べてゆっくりと言った。すると、笑っていたアンドリューの顔から少しずつ笑顔が消えていく。
「いいえ、違います。僕はアンドリューです」
アンドリューは言って、私に受話器を渡した。
「もしもし、お母さん? カナよ」
アンドリューは失望したような表情で私を見ていた。私は一体何があったのか不安になった。
「カナ、元気なの? 今のはルイでしょ? あなたフランスにも行ったのね」
電話の向こうでアンドリューをルイと勘違いして喜んでいる母がいた。
「違うよ、お母さん。今のはルイじゃなくてアンドリューだよ。私フランスには行ってないし、行かないもん。ここはスイスだよ」
私は「ルイ」、「アンドリュー」、「フランス」、「スイス」という箇所を意図的にゆっくりと強調して言った。たとえ日本語で話していても、それならアンドリューにも聞き取れるはずだ。
「あらそうだったの。ルイの声だと思ったわ。アンドリューにもよろしく言ってね」
母はあっけらかんと言って笑った。
「母があなたによろしくって」
私の言葉にアンドリューは薄笑いを浮かべて受話器に顔を近づけると、ドウイタシマシテ、と、片言の日本語で母にこたえた。私は手短にスイスでの生活を母に話して電話を切り、アンドリューの方に顔を向けた。数秒間、じっと私を見ていたアンドリューはフッと鼻で笑うと、がっかりした口調で訊いた。
「なぜカナのお母さんは外人の声を聞いて真っ先にルイの名前を呼んだんだい?」
それから急に怖い顔つきになると、
「カナ、ルイとは一体どうなっているんだ?」
と荒々しい口調でなじるように言った。
「ルイとはただの友だちよ」
そうこたえてもアンドリューは口を閉じたまま、ただじっと私を見ているだけだった。それだけのこたえでは明らかに不十分だった。
「私が日本にいたとき、ルイが何度か電話をくれて、その一本を母が受けたの。でも、母は英語が全く分からないでしょ。だから次に彼が電話をくれたとき、私が二人のために通訳をしてあげたの。それだけのことよ」
私はありのままを正直に淡々と話した。
「ただの友だちが何でそんなに何度もカナに電話をかけてくると思うんだい?」
「どういう意味?」
「君に気があるからに決まっているだろ」
私は一瞬、自分の耳を疑った。アンドリューには包み隠さず何でも話していたのに、ルイとの友情関係を頭から否定されたような冷たい彼の言葉。ちゃんと説明すれば寛大な心でいつも理解を示してくれるアンドリューが、なぜそこまで怒るのかが私には分からなかった。
「何を言っているの? ルイには一緒に住んでいる恋人だっているのよ」
アンドリューは苛立った表情で私を見続けていた。彼の苛立ちに私の心も乱れた。
「もしも私とルイの間に何かあるのなら、私は今、スイスではなくフランスにいるわ」
それでもアンドリューの苦々しい表情は変わらなかった。
「私を信じてくれないの?」
私の心は救いようのない悲しみに襲われた。
「そんなことじゃない。僕の言いたいことはそんなことじゃないんだ!」
アンドリューは突然吐き捨てるように言うと、首を横に振り、頭を抱えて下を向いた。それからほんの少し間をおくと、大きく息をついて静かに口を開いた。
「カナはお母さんにルイの事は話せても、僕たちの事はまだ話していなかった。カナが本気で僕を愛してくれているのなら、真っ先に話すべきことじゃなかったのかい?」
アンドリューは膝に肘をつき、下を向いたまま私を見ようとしない。
「僕か親かと聞かれたら、君は迷わずに僕を選ぶと言ったよね?」
そう。私は本気でそう思っていた。何もかも捨てる覚悟は出来ていた。
「でも、親に話せていないという事は本気ではないということなんだよ。カナはお母さんを悲しませたくないからだと言ったけど、カナはもうその時点で僕ではなく、お母さんを選んでいるんだよ」
アンドリューはゆっくり頭をもたげると私を見つめた。彼の悲痛に満ちた表情に私は何も言えずにいた。ただアンドリューの悲しみを私の溢れ出した涙が受け止めているだけだった。
「そうじゃないとは言ってくれないんだね」
ぞっとするほど寂しい響きでアンドリューは言った。
「もう一度母に電話をさせて。今きちんと母に話すから。あなたを本気で愛していることを、あなたと将来をここで一緒に、このスイスで一緒に暮らしていくことを母にきちんと伝えるから」
涙を拭って言うと、私は受話器をとった。
今、それをしなければ私はアンドリューを失ってしまう。私をたくさんの愛で包んでくれたアンドリューを完全に失ってしまう。私の愛を彼に伝えるにはこの方法しかない。
でも、アンドリューは私から受話器を取り上げると、
「それはダメだ」
ときっぱりと言った。
「なぜ?」
「なぜだって? カナのお母さんは心臓が悪いんだよ。そんな状態で話せるわけはないだろ。もっと冷静になってくれないか」
アンドリューは呆れ返ったような表情で受話器を置いた。そして、
「僕たちは少し焦りすぎたんだ。もう少し時間をかけてお互いを見据えないといけなかったんだよ」
と言い、深く息をつくと椅子にもたれた。二人の間にしばらく重い沈黙が続いた。
「それはどういうことなの?」
私は怯えながら口を開いた。そして、すがるようにアンドリューを見つめた。
「カナも僕も今するべき事をしなくてはいけないってことだよ」
するべき事? アンドリューを愛する以外、何をすればいいというの?
私はソファーに膝を立てると顔を埋めた。
「僕には仕事がある。そして、カナにもやるべき事があるはずだよ。それをまず大切にしよう。それから僕たちの事を考えていけばいいことなんだ」
アンドリューの声は完全に落ち着きを取り戻していた。でも、私の心は不安と恐れで押しつぶされそうだった。息をするのもやっとだった。
あのときの私はアンドリューの奥深い言葉の意味をきちんと理解出来るほど大人ではなかった。彼の思いがけない言葉に動揺し、その場の状況だけしか見えていなかった。二人の間に突然涌いて出た距離感に私はただ、電話をかける前までの幸せに満ち足りた私たちに戻りたいと、願うことで精いっぱいだった。
たった一本の電話が二人の間に果てしない溝を作り出してしまった。
十七 スイス 八八年 初夏
気まずい空気の中、私を迎えに来たスーザンにアンドリューは少し車で待つよう頼むと、私を見つめた。
「いいね、カナ。君は今の自分から目を背けてはいけないよ」
「それはもうあなたを愛してはいけないということなの?」
立っているのもやっとの思いでつぶやいた。
「そうじゃない」
そう言ってアンドリューは私を抱き寄せた。
「ただカナに後悔をしてほしくないんだ」
「それなら私をこんな気持ちのまま行かせないで。アンドリュー、あなたを愛している。愛しているのよ」
こみ上げた涙と一緒にアンドリューに強くしがみついた。でも、アンドリューは愛しているとは言ってくれない。私の思いの丈にこたえるように、ただ強く抱きしめ返すだけだった。彼の体は微かに震えていた。その震えをごまかすためか、アンドリューは私を一層強く抱きしめ、震える声で私の名を何度も呼んだ。
アンドリューは泣いていた。私も彼の胸の中で泣き崩れた。私たちは何も言わず、何も言えず、ただじっと抱きしめ合っていた。このまま時が止まってしまえばいい。ずっとこのままでいられたら……。離れたくなかった。離したくなかった。でも、しばらくするとアンドリューは何かを吹っ切ったように小さく息をつき、
「カナ、僕は君を信じているよ」
と最後に一言耳元でささやくと、私を彼の胸から引き離した。
サン・ディエゴへ戻るといつもの生活がまた始まった。
大学へ行き、宿題をし、レポートを書き、友人に会い、そして、アンドリューへ手紙を書く。それでも、アンドリューから届く手紙は著しく減っていた。
忙しいからかもしれない。兵役訓練に行っているからかもしれない。
寂しさや不安が募る自分を慰めるように、色々な言い訳を考えては自分に言い聞かせていた。
たまに届くアンドリューの手紙の最後には決まって必ず「お母さんの具合はどうだい? 元気になる事を祈っているよ」と書かれていた。母の勘違いで発した「ルイ」という名前のせいでアンドリューは傷ついたというのに、その母を気遣う彼の優しさ。私がアンドリューのことを母に打ち明けていなかったせいで、彼との関係が気まずくなってしまったというのに――そう。悪いのは私の方なのだ――、その文面を読む度に、まだ会ったことのないアンドリューから気にかけてもらえている母に、私は腹を立てていた。母を責めることで自分の非から目をそらそうとしていた。何をしてももうあとの祭りだというのに。
その母の体調が思わしくないという知らせを父から受けた一月中旬、私は急遽、日本へ一時帰国した。病院へ駆けつけると、医師からはすぐにでも人工透析を始めなければ母の体はもたないと告げられた。それでも、母は最後まで人工透析に踏み切ることを拒み続けた(生活の自由を奪われること以上に、家族に負担がかかることが心苦しくて居た堪れないと言っていた)。だが、母の腎臓はもうぼろぼろだった。医師や私たちの説得により、母は泣く泣く承諾した。そして一月の終わり、母は人工透析を始めた。
毎週三回、四時間の透析。事前に説明は受けていても、思うように生活ができなくなってしまった事実に母はひどく落胆した。私はそんな母を心配して、大学を中途退学しようと考えた。でも母は、自分で決めたことなのだから最後までやり遂げてほしい、と私を説き伏せ、私も母の思いにこたえることにした。
程なくして私はサン・ディエゴへ戻った。私はアンドリューに言われた通り、母に言われた通り、学生として今出来ることを自分なりに精いっぱいやろうと心に決めた。それでも、外国人には難し過ぎるという科目を専攻してしまった私は、精いっぱい頑張ってみても、ときに辛くなりどうしようもなく落ち込んでしまう事もあった。そんなとき、アンドリューが連れて行ってくれたラホヤのソルダッド山へ車を走らせ、一人、星空を眺めては彼を思い、涙した。楽しかった日々が幻影となって現れては私を一層寂しい気持ちにさせるのに、それでも行くことをやめなかった。きっとあの大きな白い十字架に一抹の願いを託したかったからかもしれない。私たちが再び愛し合えるようになれることを。
六月。サン・ディエゴはすっかり夏の季節を迎え、学生たちは長い夏季休暇に入った。私は自分の気持ちを抑えきれず、再びスイスへ旅立った。
冬のときとは違い、六月のチューリッヒは清々しく気持ちのよい春を感じる季節。ゲートの前ではすでにアンドリューが待っていてくれた。
「アンドリュー!」
半年ぶりに会うアンドリューに私は飛びついた。
「カナ。君っていう人は……」
子供染みた私のはしゃぎ振りに苦笑しながらもアンドリューは私を抱きしめてくれた。でも、半年前とは明らかに違うアンドリューの抱擁。抱きしめ合っているのにアンドリューの心が感じられない。触れ合っているのになぜか遠い距離を感じてしまう。それでも、私は気づかない振りをして体を離すと微笑んだ。
「どうしても我慢出来なくて来ちゃったの」
舌を出して笑った私をアンドリューは呆れたように見て笑った。
「とにかく家に行こう」
私たちはアンドリューの家へ向かった。
懐かしい町並み。懐かしい景色。懐かしいアンドリューの部屋。
何もかもがあのときのままだった。でも、私がここへ来たことは間違いだったとすぐに気づかされた。柔らかい微笑みも、優しい口づけも、激しい抱擁も、甘い言葉も、何一つ私に与えてくれないアンドリュー。私の心は気まずさと疎外感で押しつぶされそうだった。
「私がここへ来てアンドリューには迷惑だったみたいね」
私はアンドリューのピアノを撫でながらぽつりと言った。彼の顔を見る勇気がなかった。つい半年前、このピアノの前で私たちは笑いながら一緒にジョー・コッカーの歌を歌った。あのときはあんなにも幸せに満ち足りていたのに。
「そんなことはないよ」
アンドリューは私の後ろに立つと、優しく抱きしめてくれた。
「会えて嬉しいよ」
そう言ってくれているのに、私たちの間にある溝はそのままだった。何かがずれてしまっていた。
夜、私たちは町まで繰り出すと、一軒の賑わいを見せているレストランで食事をした。二人の中にある隙間を賑やかさにかこつけて、かき消したかったからかもしれない。周りの楽しい雰囲気に馴染んでしまえば、私たちも笑い合えると思ったからかもしれない。時折り目が会うと私たちは微笑みを交わし、当たり障りのない会話をしては相づちをうった。
「サン・ディエゴはどうだい?」
「もうすっかり向こうは夏よ」
「そうか。ゴードンたちとは会っているのかい?」
「ええ、この前彼の誕生パーティをみんなでやったわ」
「そうなんだ」
「アンドリューの仕事は?」
「もう随分慣れて順調だよ」
「そう。ブルースとお母さんは元気?」
「ああ、二人とも元気だよ」
「良かった。また二人に会いたいわ」
「そうだね」
アンドリューは「そうしよう」とは言ってくれなかった。寂しい……。こんなにも近くに愛する人がいるのに、私の思いはアンドリューには届いていない。それでも私たちはベッドの中で求め合った。いき場のない寂しさと悲しみを、体を重ねることで忘れるかのように愛し合った。
「愛しているわ、アンドリュー」
「カナ、僕も愛している」
その場しのぎのささやきでも私には嬉しかった。
「会いたかったわ」
本当にどうしようもないぐらい会いたくて恋しかった。
「僕もだ。会いたかったよ」
絡み合った指先に力を入れてアンドリューは言い、私たちは共に果てた。
虚しさだけを心の奥に残したまま。
学生の私には夏休みでも社会人のアンドリューには仕事がある。翌日から彼は仕事へ出かけた。
「何かあったらオフィスに連絡するんだよ」
部屋の鍵と会社の連絡先をテーブルに置いてアンドリューはそう言うと、
「お昼には一度戻ってくるからね」
と、頬に口づけをして部屋をあとにした。
シーンと静まり返った部屋。私はソファーに腰を下ろし、目を閉じた。目の奥に浮かび上がるアンドリューの姿。柔らかい笑顔で――愛している――と私に何度も言ってくれたアンドリューの姿。同時に目の奥が熱くなった。私はキッチンへ行き、アンドリューが多めに落としてくれたコーヒーをカップに注ぐと口にふくんだ。頬をつたう涙がコーヒーの味をしょっぱくさせる。窓にもたれるとひとしきり泣いた。
十二時少し過ぎ、アンドリューは昼食をとるために戻って来た。私は冷蔵庫の有り合わせで料理を作り、テーブルへ並べた。静かな部屋で食べる静かな昼食。
「午前の仕事はどうだった?」
「相変わらず忙しいよ」
「そう、大変ね」
「カナは?」
「外へ散歩に出かけたわ」
「今日は気持ちの良い天気だからね」
まるでリタイアした老夫婦のような単純で単調な会話。
毎晩愛を重ねても、二人の行きつく先に同じ想いは感じられなかった。
堪らなく苦しかった。堪らなく切なかった。
それはアンドリューも同じだった。
「カナ。今夜、ちゃんと話し合おう」
滞在最後の日、聞き覚えのある台詞をアンドリューは言った。
――ユキエ、ちゃんと話し合おう。
あのときと同じ語調でアンドリューは言った。私はもう駄目だと思った。今度こそアンドリューから別れを告げられると感じていた。
その日、アンドリューはいつもより早めに仕事を切り上げて戻ってきた。その表情はどこか物悲しく、私を一層やり切れない気持ちにさせた。
「お帰りなさい。今日はどうだった?」
ぎこちない微笑み。私は、コーヒーを入れるわね、と、逃げるようにすぐにキッチンへ隠れた。コーヒーの湧き上がる優しい音を聴きながら(でも、私のところだけ、ときが止まってしまったかのように)、私はじっとその場に立ちつくし、少しずつ落ちていくコーヒーをただぼんやりと眺めていた。
「カナ」
いつの間に入って来たのか、アンドリューが後ろからそっと私を抱きしめた。
懐かしい私の知っているアンドリューのぬくもり。私は何も言わずそのぬくもりにもたれて瞳を閉じた。今ここにいる私たちは半年前の愛に溢れている二人だ。そう思いたかった。
「カナ、話し合おう」
だがアンドリューはそうつぶやいて私を現実へと連れ戻し、リビングのソファーへ座らせた。目の前に座っているアンドリューが私を見つめていることを、私は体全身で感じていた。でも、私は彼を見つめることが出来なかった。暖炉の薪がパチパチと小さな音をたてて燃えていた。
「カナ、僕を見て」
アンドリューの言葉に仕方なく私は従った。
「カナ。君も気づいているね。僕たちは少しお互いに距離を置いたほうがいいんだよ」
「距離? どうして?」
そう言うのがやっとだった。アンドリューは大きなため息をついた。
「君は何にも分かっていないんだね」
アンドリューは落胆したように言う。
「前にも言ったはずだよ。僕には僕の、そして、カナにはカナの今やるべき事をすることが大切なんだって」
「だから大学で頑張って勉強しているんじゃない。少しでもあなたとちゃんと向き合いたいから頑張っているんじゃない」
アンドリューの言うように一人で頑張っているのに。
私は涙が溢れ出ないように唇を強く噛み締めた。
「それに今は夏休みよ。休みに愛する人に会いに来てはいけないの?」
私はただアンドリューの本心が知りたかった。どんな努力をすれば心が触れ合える二人に戻れるのか知りたかった。それなのに、感情に任せてアンドリューを傷つける言葉を私は吐いてしまった。
「それとも会いに来られたら、何かまずいことでもあるの?」
アンドリューは顔をしかめて私を見ると一拍間をおき、
「ああ、そうだよ。僕は忙しいんだ。忙しい僕に会いに来るより、日本へ戻ったほうがカナのためにはよっぽどいいんだよ」
と吐き捨てるように言った。
「それに僕のことを愛していると言ったって、結局、カナは自分の気持ちを満足させるためだけに、ここへ来ているだけじゃないか」
いつも冷静で優しいアンドリューから聞かされる信じ難い台詞。嘘であってほしいと思った。
「そんなのはただの愛情の押し付けにしかならないよ」
「押し付け? あなたに会いに来ることが愛情の押し付けだと言うの?」
今まで積み重ねてきた二人の愛の全てまでもが否定されたかのように聞こえた。
私は歯を食い縛り、両手を握り締めて瞳を閉じると、溢れ出ようとする絶望の涙を必死に堪えた。
「お互い本気で愛し合っているんだと思っていた」
私はゆっくり目を開き、アンドリューを見ると心に反して冷笑した。
「なのにバカみたい。母にもあなたのことを打ち明けて、悲しませて、それでも本気だったから、私は全てを捨てる覚悟でいたのに」
一瞬アンドリューの瞳に悲しみとも慈しみとも取れる色が走った。でも、私はそれを無視して続けた。
「一人で思い上がっていただけだなんて。ホント、バカみたい」
惨めだった。虚しかった。瞳から涙がこぼれ落ちた。
「今のままじゃ、カナの思いが僕には重すぎるんだ。重いんだよ!」
私の心を打ち砕くように、アンドリューは強く冷たい口調で止めの台詞を険しく吐いた。
私の愛が重い。
私はもう何も言えなかった。何も言えなくなった。目の前に座っているアンドリューをただ茫然と見つめていた。私は彼から愛することを拒絶されてしまった。全身から血の気がひくような喪失感に襲われ、動けなくなった。
「僕だけを見るんじゃなくて、もっと他のものにも目を向けてほしいんだ。カナの人生、カナの家族、カナの将来、そういうことにも目を向けてほしいんだよ」
アンドリューの口調は信じられないほど穏やかだった。
「もっと自分たちの人生を確立させて、もっと成長していかなければ、カナも僕も今のままじゃきっと駄目になってしまうよ」
無表情の私にアンドリューはさらに続けた。
「カナ、君が僕を本当に愛しているのなら、お互いしばらく距離を置こう」
終わった。全て終わってしまった。
何の反応も見せない私にアンドリューは小さなため息をつき、最後にこうつけたした。
「五年。五年後にもう一度会おう。そのときお互いを思う気持ちがまだ少しでもあれば、そのときまた始めよう。心も体も成長した二人でやり直そう」
それから柔らかく微笑んだ。
アンドリューは優しい。本当にいつも優しい。
私を傷つけまいとして、最後に一抹の希望を与えてくれた。でも、私には分かっていた。それが私に対するアンドリューからの最後の優しさだったと。
あのときも私は疑いもせずただそう信じていた。私はまだまだ子供だった。あのときも私はアンドリューの奥深い言葉の意味を理解することが出来なかった。
十八 真実
人は本当に大切なものを失ったとき、一体どのように悲しむのだろう。人の感情は今までの経験をもとに作られる。でも、私はアンドリューから別れを告げられたとき、どう反応すればよいのか分からなかった。私の人生の中でアンドリューとの別れほど、絶望に満ち、途方に暮れた、辛く悲しい出来事はなかった。私の中の思考回路が完全に破壊されてしまったかのように、私は泣くべきか、怒鳴るべきか、発狂すべきか、叱咤すべきか、罵倒すべきか、全く分からなかった。ただ呆然とベッドへ行くとそのまま倒れこみ、シーツに顔を埋めた。こみ上げてくる感情と胸が張り裂けそうな感覚に襲われ、吐きそうになった。涙が少しにじみ出ると、いつしかそれは嗚咽に変わり、静かな部屋に響き渡った。
しばらくして、玄関が閉まる音がした。アンドリューは私を残したまま部屋を出て行った。私はそのまま泣き崩れ、気づいたときには白々と夜が明けていた。
一九八八年六月、私はアンドリューを失った。
サン・ディエゴへ戻ると私は自分を叩き壊すかのように色々なことに溺れた。嫌いなタバコを飲み、浴びるほど酒に酔いつぶれ、男に走った。最愛の人を失った悲しみを、最低の方法で記憶の奥底へ追いやろうとした。自分の人生を壊したかった。もうどうでもよかった。そんなことをしてみても何一つ変わらないのに。どうもがいてみても私の愛は変えられないのに。それでも行き場の失った愛を痛めつけることで、私は自分をなんとかごまかして生きていた。ただ機械的に生きていた。大学を卒業すること。その思いだけにしがみついて、それだけのために生きていた。
そんな私の正気を失い、乱れ果てた生活を心配して、智也はよく連絡をくれた。スイスでの事は一切口にせず、智也らしい優しさで私を慰めてくれた。
よお、元気か?
全く毎日暑いよなあ。
今度ビーチにでも行こうぜ。
日焼けした方が痩せて見えるしな。
ごく普通の会話に、私の膿んだ気持ちも楽になった。そして、電話を切るときには決まって言ってくれた。
「何かあったらいつでも連絡しろよ。俺たち友だちだろ」
その優しさに崩れ落ちそうになる。優しかったアンドリューの記憶が、鍵をかけた心の底から一気に飛び出してこないように、私は車を走らせタバコを燻らせた。
私、何やっているんだろう。このままじゃ駄目になっちゃう。
気がつくと五号線を北に、ラホヤへ続く道を走っていた。
「アンドリュー」
私の心がつぶやく前に、彼の名を記憶している私の口もとが、彼の名を呼んでいた。
アンドリュー。
もう一度小さくつぶやいた。その瞬間、堰を切ったようにアンドリューへの変わらぬ愛が私の涸れ果てた心に押し寄せた。私は車を止め、声を上げて泣きじゃくった。
アンドリューと別れて二年半が過ぎた。
私は無事に大学を卒業した。
一九九〇年秋、私はたくさんの思い出の詰まったサン・ディエゴを離れ、日本へ帰国した。
日本では何もかもが変わっていた。行き交う人の波の多さ。重くのしかかるような気だるい空気。そこかしこに現れた真新しい高層ビル。私だけが歩みの鈍いカメのように、時の速さについて行けなかった。だが、時々体がだるいと言って寝込む母にとっては、私の帰国は大いに彼女を安堵させ喜ばせた。
その年の冬、アンドリューからクリスマスカードが届いた。
二年半ぶりに見る懐かしい癖のある字。私はゆっくりと封を開けカードを取り出した。
アンドリュー。心が震えた。
親愛なるカナ、
もしもカナが無事に大学を卒業していれば(カナのことだ。きっと卒業しているだろう)今年の冬は日本に帰国していると思い、このカードを書いた。
カナ、これから始まる日本での生活を楽しんでほしい。今しか出来ない色々なことに挑戦してほしい。
メリー・クリスマス。
カナの来年が益々よい年になるように。
ご両親にもよろしく。
アンドリュー。
一九九〇年。
とても簡素で簡略的な愛のないカード。私はカードを封に納め、アンドリューからもらった手紙――たくさんの愛に溢れた――と一緒に箱の中へ閉まった。
なぜ今になってこんなカードを送ってくるの?
愛されていないことを突きつけられているようでやりきれない気持ちになった。
翌年、私は社会人として働きだした。
働いてみて初めて分かる仕事の難しさと責任の重さ。毎日が忙しなく、季節は駆け足で過ぎていき、瞬く間に一年が終わる。その年の冬もまた、アンドリューからカードが届いた。
二人の間に愛があるころ、アンドリューの手紙は私を心の底から幸せな気持ちにさせてくれた。でも、年に一度届くようになった彼からの単純なカードに、私の心は正直苦しかった。愛のないアンドリューからのカードは私をあの辛く悲しい絶望の記憶へとリンクする。変わらずに彼を愛し続けている私の心に深く鋭い杭をうちつける。お前の愛はどうせ報われないさと、知らしめるかのように。そっとこのままにしておいてほしいのに。
決まり事のように翌年の冬、アンドリューから再びカードが届いた。
親愛なるカナ、
一年の経つのは本当に早いものだね。それとも大人になり、時の流れを速く感じるようになったということなのだろうか。
元気でやっていますか?
来年は二人にとってきっと素晴らしい年になる。そう信じています。
メリー・クリスマス。
愛をこめて。
アンドリュー。
一九九二年。
何年ぶりだろう。アンドリューが「愛をこめて」と書いてくれたのは。
私はその箇所を何度も何度も読み返した。そして、思い知らされる。今もなお、胸が熱くなるほどアンドリューを愛しているということに。彼を忘れようとわざと粋がって強がってみても、心の中までは装う事は出来ない。少しでも心がアンドリューを求めたら、私の体はそれに素直に反応して、寂しくなり切なくなる。どんなに愛してみても彼はもう手の届かないところにいってしまっているのに。
――五年。五年後にもう一度会おう。そのときお互いを思う気持ちがまだ少しでもあれば、そのときまた始めよう。心も体も成長した二人でやり直そう。
一九九三年、六月。もうすぐその五年後が訪れようとしていた。でも、私はアンドリューの最後の偽りの言葉を鵜呑みにするほど愚かな女ではない。そう自分に言い聞かせた。
あれは彼の優しさから出た私への最後の言葉。会いに行けばまたそこで傷つくのは自分。私たちはもうそれぞれの人生を歩み始めてしまっている。だいたい私の愛が重いと言って拒絶したのはアンドリューの方。今更会って何が始まるというの? 会いたいと思っているのなら、アンドリューが日本へくるべきなのよ。だいたい彼は遠距離恋愛なんて最初から信じていなかったのだから。
私は有りとあらゆる言い訳を並べ立て、自分が傷つかないように防護した。
約束の六月、私は日本に留まり仕事に打ち込んだ。仕事だけが私の逃げ場所だった。もちろん、アンドリューが日本へ来ることもなかった。
その年の冬、アンドリューから届いたカードにはたった一言「メリー・クリスマス」と書かれていただけだった。そして、翌年届いたカードには、アンドリュー以外の名が連名で記されていた。
元気かい、カナ。
君の家族と君にとってよい年になることを願っているよ。
メリー・クリスマス。
アンドリュー&マリア。
目の前が真っ暗になった。
私たちは別れたのだ。アンドリューに新しい恋人が出来ても不思議ではない。ただ、連名で綴られたカードを見て、私は言いようのない悲しみに襲われた。そして、その年を最後にアンドリューからの連絡は途絶えた。
それから六年の歳月が過ぎた。
その間、真剣に愛をぶつけてくれる男性とも何度か付き合った。
この人なら私を先に進ませくれるかもしれない。この人なら私を幸せにしてくれるかもしれない。そう思って付き合ってみた。でも、私は愛することよりも、ただ愛されることを求めていただけだった。どんなに愛したつもりでも、アンドリューを忘れさせてくれる人はいなかった。アンドリュー以上に愛してくれる人はいなかった。私の愛は八八年の夏を越えることが出来なかった。
二〇〇〇年十二月、最愛の母が天国へと旅立った。何の前触れもなく、入院して十日目で息をひき取った。
カナ、何もしてあげられなくてごめんね。
抱き寄せた私の耳元で最後にそういい残して母は逝ってしまった。
自分の命よりも大切な人を私は二人も失った。私は信じていた神様を憎んだ。母は何一つ悪い事はしていないのに、最後まで病気と闘って息絶えた。必死に祈ったのに、必死にすがったのに、神様は私の祈りを聞いてはくれなかった。
絶望に満ち、途方に暮れた、辛く悲しい喪失感。それはアンドリューを失ったときと同じだった。そんな私の心の傷が癒えぬまま、二年後の二〇〇二年初夏、父も母のもとへと逝ってしまった。脳梗塞だった。私はとうとう一人ぼっちになった。
悲嘆の中、私は仕事を辞めた。何もする気が起きなかった。誰にも会う気になれなかった。生気の失せた無気力な日々。台所、居間、庭先、どこを見ても楽しく笑う両親の姿が蘇り、私を一層寂しくさせた。
一人で住むにはあまりにも広く、寂し過ぎる家。その寂しさと孤独に耐え切れなくなった私は家を売り、新たな一歩を踏み出す決心をした。決断を下した午後、一通の手紙が郵便受けに無雑作に投げ込まれていた。差出人を見た。癖のある字。アンドリューからだった。八年ぶりの手紙だった。でも、私は封を切り、その八年ぶりの手紙と向き合う勇気を出せなかった。
お願い。もうこれ以上、絶望に追い込まないで。もうこれ以上、悲しみを背負わせないで。
私はその手紙を箱の中へ閉じ込めた。愛の溢れる箱の中へ。
家を売る決断を下してから瞬く間に三年という月日が経過した。
家を売るための準備は想像以上に困難なことだった。何十年も人生を共にした家の中には、何十年もの積み重なった様々な思い出の品がある。全てを整理するのには、私の心はまだ癒されていなかった。そんなとき、信じられないような奇跡が起こった。
「カナ、元気? あなた一人で大丈夫なの?」
イザベルからの電話だった。
帰国後も、私はイザベルと連絡を取り合っていた。毎年遊びにも行っていた。でも父の死後、私は孤独の殻に閉じこもり、一切の連絡を絶っていた。そんな私を心配して、イザベルが初めて国際電話をかけてくれた。
「イザベル」
彼女の名を呼ぶと同時に涙が溢れ出した。ずっと一人で堪えていた寂しさと悲しみが、形となって瞳から流れ出た。
「Oh, Kana」
受話器の向こうでイザベルは共に泣いてくれた。そして、
「待っていなさい。すぐにあなたに会いに行くから」
と力強く言って、私を勇気づけてくれた。
あんなに憎んでいた神様に私は無意識に感謝をしていた。
最愛の母を失っても、第二の母のように慕うイザベルが日本に来てくれる。淀んだ心に射す小さなひとすじの光り。私は嬉しくて微かに微笑んだ。笑うことなんてもうずっと忘れていたのに、私の唇には笑みが現れていた。そして、信じ難いほどの早さでイザベルは私を悲しみと孤独のどつぼから救い出しに来てくれた。
「イザベル!」
「カナ!」
抱きしめられた瞬間、堪えきれず泣き崩れた。イザベルは何も言わず、ただ優しく背中を擦りながら私を受け止めてくれていた。
暖かいぬくもり。忘れかけていた。人から愛されることの幸福を。
翌日から、イザベルのてきぱきとした行動力のお陰で家の中は少しずつ片付けられていった。全ての物に思いを馳せてしまう私がしていては、何年かかっても終わらせられない両親の遺品を手際よく、でも、私の心を傷つけない程度の速さで。
「せっかく日本へ来てくれたんですから、明日、三渓園という日本庭園に行ってみませんか? そのあと、中華街で美味しい食事をして、新年をお祝いするの」
二〇〇五年の大晦日、だいぶ片付け終わった部屋を見渡して私は言った。
三渓園はかつて父が働いていた日本庭園。私がまだよちよち歩きをしていたころ、散歩がてら父に会いによく母と通った。その懐かしい思い出の場所にイザベルを連れて行きたかった。悲しみに浸るためではなく、私の人生をやり直すために。これから始まる新しい門出を、私はその庭園からスタートさせたかった。娘と言ってくれるイザベルと一緒に。
二〇〇六年元旦。
刺すように冷たい朝の空気を肌と肺に浸み込ませながら、私たちは三渓園の庭を散策した。鶴翔閣の前を通りかけたとき、美しい琴の音色が私たちの耳に響いてきた。その音に誘われて進んでみると、「元日箏曲演奏会――琴とギターの新しい調べ」と、書かれた看板が入口に立てかけられていた。中へ入ると日本間は既に大勢の人たちで埋め尽くされていた。奥に設けられた八畳ほどの畳のステージでは、三人の筝曲者と一人のギタリストが、ポップな曲から日本の伝統的な曲まで、幅広いジャンルの曲を奏でていた。
イザベルは初めて聴くという日本の絃楽器の音色と、それを奏でていた着物姿の美しい日本女性に感激して、しきりにカメラのシャッターを押していた。それは心に残る、本当に素晴らしい演奏会だった。
昼は待春軒で三渓そばと抹茶を味わい、夜は中華街で飲茶をたらふく食べた。
笑う、おどける、首をかしげる、困る、驚く、泣く。
イザベルが日本へ来てから久しぶりに感じる人間らしい感覚に、私は生きていることを実感していた。本当に有り難かった。
両親の遺品の整理が一通り済んだ一月初旬、私に不変の愛を示し、私に生きる勇気を与えてくれたイザベルは、サン・ディエゴへ戻って行った。
「家を売ったらしばらく私たちのところへいらっしゃい。何年いてもいい覚悟でいらっしゃい。いいわね。あなたは私たちの大切な家族の一員なのよ。その事だけは決して忘れないでね」
私はアンドリューと別れて以来、初めて喜悦の涙を流した。
イザベルのいなくなったひっそりと静まり返った家。でも、不思議と私の心は安らぎを覚えていた。私は手付かずになっていた自分の部屋の整理を始めることにした。一つ一つ振り分けながら、必要な物だけをダンボールへと詰めていく。単純な作業だが、途中何度も手が止まり、懐かしいころへタイムスリップしては一人、笑みをこぼした。
小学校時代からの色あせた年賀状。
中学時代のスクラップブック。
卒業文集。
卒業アルバム。
記憶の引き出しに大切にしまっておいた過去の回想にふける至幸の時間。心が暖かく穏やかになった。そして、私は最後まで置き去りにされていた青色の箱に手を伸ばした。
愛に溢れた手紙たちが詰まった愛の箱。
私は深くため息をつき、そっと蓋を開けた。癖のある字。アンドリューからだとすぐに分かる何通もの手紙。空で言えてしまうほど、何度も読み返した愛のある手紙。その中に無造作に入れられた、不相応な五枚のクリスマスカードと未開封の手紙。私の心が鈍く痛んだ。でも、私は人生をやり直す勇気をイザベルからもらった。もう大丈夫。
私はまだ読んでいない手紙と向き合う覚悟を決めた。アンドリューを、彼を今なお思う心のチャプターを閉じるために。
私は封を切るとゆっくり便箋を開いた。
親愛なるカナ。
この手紙をカナはどんな気持ちで読んでくれるのだろうか。
八年ぶりに受け取る僕の手紙を、カナは果たして読んでくれるのだろうか。
そんな不安な思いを胸に、それでも書かずにはいられない僕の心情を、カナが理解してくれることを祈りつつ書いている。
つい先週、僕は仕事でパリへ行った。そのとき、ふと立ち寄ったレストランでとても懐かしい人と再会した。
誰だと思う?
あのやさしくておもしろいルイだよ。
声をかけられたとき、一瞬、誰だか分からなくて、彼に申し訳ないことをした。本当に偶然だった。いや、ひょっとしたら、神様のいたずらだったのかもしれない。僕がカナと向き合うために、神様がルイを引き合わせてくれたのかもしれない。
カナ、君は今でもルイと連絡を取り合っているそうだね。カナの良き友人として、ルイがカナの人生の中にいてくれることに、僕は正直嬉しかった。
カナ、ルイから聞いたよ。ご両親を最後まで面倒みて、看取ってあげたそうだね。本当に大変だったね。よく頑張ったね。僕はそんな強くなったカナを誇りに思うよ。
今はまだ悲しくて仕方ないかもしれない。でも、娘としての責任を果たしたんだ。後悔はないはずだと僕は確信できる。
時が必ずカナの心を癒してくれる。だから自分に負けないでほしい。
カナ、八年経った今、僕は君に謝らなければいけないことがある。
八八年の六月、カナが僕に会いに来てくれたとき、僕はカナにひどい事を言ってしまった。カナから僕たちのことをまだお母さんに話していないと聞かされたとき、僕はカナに、僕ではなく君はお母さんを選んでいる、とひどいことを言ってしまったね。親思いで優しいカナだからこそ、僕は愛おしいと思っていたのに。自分より人のことを真っ先に考えるカナだからこそ、大切にしたいと思っていたのに。
でも、だからこそあのとき、僕たちの舞い上がった感情だけで二人の人生を決めてしまってはいけないと思ったんだ。娘としての責任を果たしていないまま、カナが僕との生活を始めてしまったら、カナは、いや、僕たちはあとで必ず後悔すると思ったんだ。
だから、僕はカナに娘としてやるべきことをまず先にしてもらいたかった。僕たちの愛が確かなものであれば、多少の会えない時間などは問題ではない。そのあとで僕たちのことを考えていけばいいことなんだと思ったんだ。僕たちにならそれが出来ると信じていたんだ。でも、僕のそんな思いをきちんとカナに伝えず、しばらく距離を置くためにわざとカナにきついことを言ってしまった。クリスマスカードも同じだ。わざと素っ気なく書いてしまった。だけど、五年後に会おうと言った約束の年の一年前、僕は逸る気持ちを堪え切れず、「愛をこめて」とカナに書いた。僕の気持ちは変わらない。そう伝えたかったんだ。
約束の夏、自信に満ちたカナに会えるのを僕は楽しみに待っていた。必ず会いに来てくれる、そう信じていたんだ。でも、カナは来なかった。いや、僕がカナを来られないようにさせてしまったんだ。僕の配慮ない態度や言葉がカナを苦しめてしまったんだ。
それに気づいたとき、僕は自分の愚かさを呪った。
後悔しても、あのままカナを僕のものにしてしまえば良かったんだ。誰に責められようと、僕はカナを引き止めていれば良かったんだ。
でも、僕はどうしようもない臆病者だ。
カナが来ないと分かったとき、僕は自分からカナに会いにいく勇気が出せなかった。怖かったんだ。ひょっとしたら、僕を忘れて他の誰かと一緒にいるかもしれない。僕のことなんてもう愛していないと言われてしまうかもしれない。そんなカナと向き合うことになるかもしれないと考えたら怖くて、それを受け入れる自信が僕には持てなかった。だから、カナが会いに来ないのがその証拠なんだと自分に言い聞かせ、君に会いに行くことさえ拒んでしまった。それからの僕はカナを忘れようと自分を痛めつけた。でも、結局自分が惨めになるだけで、無意味なことだと気づかされたよ。本当に僕は大馬鹿者だ。
今さらそんな昔のことを蒸し返して何になるの? そうカナは罵倒するかもしれない。
でも、カナ、どうかお願いだ。あんな軽薄で大人気なかった愚かな僕を許してほしい。
本当にすまなかった。
カナ、あれからもう八年だね。
きっとカナの横には僕以上の愛でカナを愛し、カナの今の悲しみを共に背負ってくれている人がいるんだろうね。きっと幸せなんだろうね。幸せであってほしい……。
僕にとってカナは何よりも誰よりも大切な人だ。
だからこそ、カナがいつまでも幸せでいてくれることが僕の心からの願いだ。
いつまでも変わらぬ愛をこめて。
アンドリュー。
二〇〇二年九月。
手紙を持つ手が震えていた。
アンドリューは私のためにわざと冷たく演じていた。私のためを思って、私たちの将来を思って、あえてきつい態度を取っていた。私はアンドリューの思慮深さと、相手の心を見抜く洞察力を知っていたはずなのに。愛するという事は相手を深く信頼することだと彼から教えられたのに。何があってもアンドリューを信じようと心に決めていたのに。それなのに私は彼の言葉に秘められた真実を理解しようともしなかった。冷たさの中に託されたアンドリューの思いを、アンドリューの愛を、感じようともしなかった。
もう遅い。自分のせいだ。会いにいくのが怖かった。アンドリューを信じきれていなかった。傷つきたくなかった。だから御託を並べて私は自分を防護した。自分の粗忽な決断で私はアンドリューを失った。自分の命よりも大切なアンドリューを。
私は事切れたようにその場に倒れこみ、体を丸め慟哭した。
悔やんでも悔やみきれない過ち。
私は自分を一生許さない。
神様、どうか私に罰を。
泣き叫ぶ声が部屋中にとどろいた。それはまるで私の過ちを嘲笑っているかのようにも聞こえ、私の心を重い咎の鎖で縛りつけた。
十九 離脱
二〇〇八年二月。
まだ夜が明けぬ早朝、ハビエルに起こされた私は寝ぼけまなこで荷造りを始めた。
「もう、ハビエル、そういう事は昨日のうちにちゃんと言っておいてよ」
「すまないね、カナ。でも、どうしても私が出席しないといけない重要な会議が入ってしまってジュネーブには行かれないんだ。カナならスイスへ行ったこともあるし適任だろ。だから私の代わりに頼むよ」
ハビエルの代わりに――一週間の予定で――業務提携を結んだ企業の国際企業会議に出席するため、私は急遽スイスのジュネーブへ行く事になった。
アンドリューの住むスイス。懐かしさが胸の中を駆け抜けた。
「あのね、ハビエル。スイスって言っても私が行ったのはチューリッヒよ。地理分かって言っているの?」
私はハビエルの的外れな理由に呆れて苦笑した。ハビエルは肩をすくめて両手を広げると、でも、同じ国だろ、とこたえて笑った。
二年前、思い出のたっぷりと詰まった両親の家をついに売却し、私はイザベルに言われた通り――心の傷を癒すため――サン・ディエゴへ戻ってきた。戻ってみると、私の新たな門出を祝福してくれるかのように、イザベルたちはサン・ディエゴ近郊の(以前よりも更に立派な)家へ越していた。アンドリューとの思い出が沁みこんだ前の家に戻らずに済んだのは、私には救いだった。それからしばらくの間、私は自分を労わるように毎日のんびりと過ごした。私には必要な心の充電期間だった。
朝はゆっくりと目覚め、裏庭にある色とりどりの花に囲まれた(まるでおとぎ話に出てくるような)白いブランコに座り、淹れ立てのコーヒーを飲みながら読書にふけり、昼は近くのカフェへ行き、作りたてのベーグル・サンドイッチと野菜たっぷりのスープで昼食。午後は家の周りを一時間以上かけてジョギングし、たまに足をのばしてはショッピングを楽しんだ。
ほとんど毎日同じことの繰り返しではあったが、高台に建てられたイザベルの家の周りには自然も多く、空気がすばらしく新鮮で、私自身、日に日に浄化されていくのを実感していた。そうして少しずつ私は元気を取り戻した。そんな私にハビエルは、新しく立ち上げた自分の会社で働いてみないか、と言ってくれた。丁度良い機会だった。
それからというもの、私はハビエルの仕事――電子部品製造業のビジネス――を手伝い、各国各地へ製品を売り込みに飛び回っていた。自分を強く押して売り込むということ自体、私の性分には合わない。でも、大学でスピーチを専攻していたことがそれを可能にさせた。
「ああ、カナ、間に合わなくなるよ。とにかく空港まで送るから急いでくれ」
何とも慌しく荷造りをし、私は急かされるままハビエルの車に乗り込んだ。
「せめてものお詫びに、往復ともビジネスクラスで席は取ってあるからね」
ターミナル前のカーブサイドで私を降ろし、窓越しにハビエルはそう言うと、行ってらっしゃいのハグもなく、車を走らせ消え去った。
「もうどうせならファーストクラスにしなさいよ。まったく」
席についた私はハビエルの慌てぶりを思い出して、くすっと笑った。
当日のチケット変更の関係で、ロサンゼルスからの乗り継ぎ時間に余裕がないことを事前に告げられていた私は、飛行機を降りるやいなや、空港内を走らされることになった。そして、なんとか搭乗時刻ぎりぎりで、ニューヨーク便に乗り継ぐことができた。
「あんなに朝から走らせるなんて、四十代の私にはきつくてぐったりだわ」
プレミアムシートのゆったりとした座席にどっぷりと腰を落ちつかせ、私は汗を拭った。
窓に目をやると、綿毛のようなふわふわとした雲が眼下に広がっている。私はそのどこまでも果てしなく続く雲のジュータンを見下ろしながら、これから向かうスイスに思いを馳せた。
最後にスイスへ行ってから今年でちょうど二十年か。もうそんなに経ったんだ。
私の心は相変わらず全然成長できていないのにね……。
「アンドリュー」
もう随分口にしていなかった彼の名を小さくつぶやいた。
「お飲み物は何になさいますか?」
私の馳せた思いを掻き消すフライトアテンダントの声。
「そうね、赤ワインをお願いするわ」
微笑んでこたえた。
「カナ?」
突然耳に入る日本語の響き。私は流すようにしか見なかった声の主を今一度、凝視した。
「知美?」
目の前には二十二年前の初々しい少女の面影を今も残している知美が、驚きを隠せない様子で私を見つめていた。
「信じられない。夢見たい! ホントにカナなのね!」
「私こそ信じられないわ! 突然連絡が途絶えちゃったからずっと心配していたのよ!」
懐かしい友との感動の再会。抱擁した腕に力が入る。二十二年の時空を超え、私たちは二十代のあのころに戻っていた。
知美は自分の責務を済ませると、何気ない様子で私の横に立ち、私たちはしばらく懐かしい話で盛り上がった。
「本当に久しぶりね。もう二十二年か……」
「あのあと、カナはどうしていたの?」
私はALIから戻った一年後にグロスモント・カレッジに入学したことを話した。
「でも、サン・ディエゴへ行く前、私、知美に連絡したのよ」
「ごめんね。カナには色々と助けてもらっていたのに全然連絡しなくて」
引っ越した理由を言わない知美。私もあえてそれには触れなかった。何気に彼女のしなやか指に目を移すと、左の薬指に光る指輪が目に入った。
「知美、結婚したのね」
「うん。もうすぐ十年になるの」
「相手はひょっとしてマーク?」
知美はひっそり微笑むと、首を横にふった。
「カナに言われたように、私、あれからマークに会いに行ったの。それでね、しばらくは付き合っていたのよ、私たち。マークからUCLAへ転入する話を聞いたときも、追いかけてロスまで行って。二年ぐらいかな? 一緒に住んでもいたのよ」
若いからこそ出来た、今思えば大胆な行動よね、と言って、知美は思い出したようにふふっと笑った。ちょうど私がグロスモントに通っていたころだ。
「でも、やっぱりうまくいかなくてね。目的もなくただマークと一緒にいたいだけじゃ彼には重すぎたのよね」
自分の昔を言われているようで心が痛む。
「私、国際線のフライトアテンダントになりたいっていう夢があったのに、そのときはマークに夢中で、夢を二の次にしちゃっていたのよね。今思えばそれが別れる原因だったのかな」
そう話す知美の顔には後悔の色はまったくなかった。
「そのあと、それじゃいけないって悟って、ロスにあるフライトアテンダント養成学校へ行ったの。で、そのときに知り合った人とめでたくゴールインしたっていうわけ」
淡々と語る知美は今までの経験をしっかり自分の自信へとつなげていた。
すごいと思った。その点、私はずるい。アンドリューに会いに行くかで迷う前に、私は自分を守るために逃げた。向き合う努力すらしなかった。
「それで今、こうして夢を形にしているのよ」
幸せに満ち足りた知美の輝かしい笑顔。
「本当に幸せそうで良かった。私も嬉しいわ」
私は心からそう言った。
「ありがとう。カナは? 今はどうしているの?」
「私? 私も色々とあってね。両親が他界して今はイザベルたちと一緒に暮らしているの」
元気だったころの両親を知る知美は、信じられないというような困惑した表情を浮かべた。
「それは大変だったでしょうね」
――本当に大変だったね。よく頑張ったね。僕はそんな強くなったカナを誇りに思うよ。
知美の言葉がアンドリューの言葉と重なった。同時に目の奥がざわめきだす。
私は急いで目を閉じた。
「アンドリューとはその後どうなったの?」
知美は私が目を開けるのを待って訊いた。
それは互いの失っていた時間を埋め尽くすために通らなくては進めない通過点だった。
でも、私はまだ誰にもアンドリューとの別れるに至ったいきさつを話していなかった。もし話せばきっと誰もが、それはカナのせいじゃない、自分を責めることはない、と言って私の過ちを許してくれるだろう。でも、私は自分を許せない。絶対に許さない。だから誰にも話したくなかった。誰にも知られたくなかった。それなのに知美には話せると思った。エルコンの寮でマークとアンドリューのことで語り合った知美になら話せると思った。この偶然の再会が私をそういう気持ちにさせてくれた。
「私もアンドリューに会いにサン・ディエゴへ行ったり、彼がスイスへ帰国してからはスイスへ会いに行ったりしていたの。彼のお母さんやお兄さんにも紹介してもらったりして、本当なら今ごろは結婚して幸せになっていたかもしれないわ。でもね……」
言葉に詰まった。アンドリューの私を突き放すような冷たい言葉が走馬灯のように耳に響き渡った。
――ああ、そうだよ。僕は忙しいんだ。忙しい僕に会いに来るより日本へ戻ったほうがカナのためにはよっぽどいいんだよ。
――僕のことを愛していると言ったって、結局、カナは自分の気持ちを満足させるために、ここへ来ているだけじゃないか。
――そんなのはただの愛情の押し付けにしかならないよ。
――今のままじゃ、カナの思いが僕には重すぎるんだ。重いんだよ。
――カナ、君が僕を本当に愛しているのなら、お互いしばらく距離を置こう
目を閉じても無駄な抵抗だった。溢れ出した涙は止まる術を知らない滝のように流れ落ちた。
「カナ……」
知美はかがみ込むと私の手を取りしっかりと握り締めた。
「私もアンドリュー以外には目を向けられなくて、親を捨ててでも彼と一緒になる気でいたの。でも、彼はそんな私に娘としてやるべき事をまずやらないといけないって、かなりきつい言葉で言われてね。だけど私はまだまだ子供だったのよ。彼の真意を理解出来ず、五年後に会おうと言ってくれた彼の言葉も信じきれず、私は会わずに逃げたの。知美のように向き合わずに逃げたの。最低の事をしてしまったのよ。アンドリューは私を信じて待っていてくれたのに」
言った途端、鋭い刃で突き刺されたような激痛が私の胸に走った。二十年も経つのに、あのときの苦しみは私の心の隅でしっかりと二十年間変わらずに生きていた。
「カナ、あなたにとってアンドリューは本当に大切な人だったのね。それに、アンドリューも本当にカナを愛してくれていたのね。自分のことよりもカナや、カナのご両親のことを考えてくれていたんだもの」
私は瞳を閉じたまま何度もうなずいた。
知美は握っていた私の手を優しく摩ると言った。
「今でもこんなにアンドリューのことを思っているのに、このまま彼に会いに行かないでいいの? 今更会ったところで二人がやり直せるかは分からない。だってお互いにもう二十年という人生のレールを歩んでしまっているんだもの。それに会いに行くことでカナにとっては辛い現実が待っているかもしれない。でもね、カナ。二十年前のカナが今のカナをこれからも縛り続けて悲しませるのなら、もう見切りをつけなくちゃ。ちゃんとアンドリューと会って、向き合わなくちゃ。アンドリューと向き合って、言いたいことをちゃんと言ってこなくちゃ」
私も心の中で何度も同じことを考えた。でも、その度ごとにもう一人のずるい私が言い訳をする。今更アンドリューがお前なんかに会いたいと思うか、どうせ迷惑がられるだけだと。良くも悪くも、結果を知るのを恐れて、そうやっていつも先回りをして私は自分で諦めていた。でも、本当は、そんないくじのない自分を追い払い、現実と向き合う勇気を与えてくれる人が私には必要だったのだ。そして、偶然と片付けてしまうにはあまりにも驚嘆に値する知美との再会。
――いや、ひょっとしたら、神様のいたずらだったのかもしれない。
アンドリューの言った通り、これは神様の仕業かもしれない。
私は知美を待っていたんだ。知美に背中を押してもらえるのをずっと待っていたんだ。
知美の言ってくれた言葉が私の心に深く根付いた苦しみのいばらを溶かし始めた。
「自分の気持ちに臆病にならないで、カナ。他人に嘘はつけても自分に嘘はつけないのよ。自分の気持ちと正直に向き合わなくちゃ」
知美は言って優しく微笑むと、私の腕をつかんだ。
「覚えている? この言葉、カナが昔、私に言ってくれたのよ。私、この言葉で前に進めたの。自分の愛を後悔したくなかったから」
愛を後悔しない。
とても重みのある言葉だ。
自分の愛を後悔するということは、自分の愛そのものを否定することになる。私のアンドリューに対する愛は本物だった。アンドリューもそうだった。私たちはかつて本気で愛し合った。アンドリューは私の全てだった。私の命だった。
二十年経った今だからこそ、分かり合えることもあるかもしれない。二人の間に何の始まりがなくても、向き合う事で許し合えるかもしれない。互いを痛めつける言葉でなじり合ってしまったあのころを「若さ故の過ち」だったねと、微笑み合えるかもしれない。
逃げないで向き合ってみよう。愛を後悔しないためにも、もう一度、アンドリューと向き合ってみよう。先の見えない不安を思うより、彼の言葉をもう一度信じてみよう。
五年後という約束の年から十五年経った今、知美の言葉で私はようやく自分を見据えることが出来た。自分を許さないと言っていた、過ちのシコリが消えていくのを感じた。
「知美、ニューヨークへ着いてからでも行き先を変更することはできる?」
私は涙を拭うと訊いた。
「カナ!」
私のこれからしようとしている行動を心から祝福するように、知美は私を力強く抱きしめると、二十二年前と変わらぬ友情に満ちた微笑みで私を見つめた。
「行き先は?」
「ジュネーブからチューリッヒに」
言うのと同時に胸の鼓動が高まり出した。まるでアンドリューに会うときの、あの青かった昔の私に戻ったかのように。
「大丈夫。私に任せて」
知美はそう言ってウインクをなげた。
ハビエルは怒るだろうなあ。
でも、私はもう後悔したくない。これ以上自分の気持ちに嘘をつきたくない。
アンドリュー、アンドリュー、アンドリュー。
私は彼の名を何度も心の中で叫び続けた。
I love you, Andrew……
私の封印した愛が今やっと息を吹き返した。
了
かすみそうに包まれて @Faith_in_need
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