第8話 雷獣娘の逢魔が時
部活のひとときは思いのほか短かった。これは物理的な時間の長短ではなく六花の感覚的な物ではあるが。何せ園芸部は完全下校時刻の十五分前まで活動していたのだ。文化部であれば完全下校時刻前に部活が終わり、生徒が解散する事も珍しくはない。
その事を思えば、六花たち園芸部はこの日、結構頑張って活動を行ったともいえる。
とはいえ、六花自身はそこまで時間が経っているという実感に乏しかった。だからこそ、鳥塚先生の「もう終わろうか」という一言を、実に名残惜しい気持ちで耳にする事と相成ったのだ。
「さて皆。夏至に向けて日が長くなってはいるけれど、くれぐれも用心して帰るように、ね。妖怪警察の皆さんも頑張って治安維持に取り組んでらっしゃるけれど、それでも悪いやつはそこここに潜んでいるんだ。妖怪にしろ、人間にしろ、ね」
気付けば鳥塚先生は、生徒一人一人――もちろんその中には六花もいた――の顔を眺めながら、気を付けて帰るようにと注意事項を口にしていたのだ。鳥塚先生は教師なのだが、今ほど教師らしい表情は見た事がないな、と、六花は思ってしまった。
その鳥塚先生は、やにわに茶目っ気のある笑みを浮かべて言葉を続けた。
「とは言うものの、僕も実は偉そうなことは言えないんだよね。学校帰りに妖怪たちに絡まれて、ちょっと危ない目に遭いそうになったからさ……」
そこまで言って鳥塚先生は朗らかに笑った。鳥塚先生が妖怪に絡まれて、危険な目に遭いかけた。その時の事を六花は知っている。偶然その場に居合わせたからだ。その時の詳しい事まで鳥塚先生は話すのだろうか。そんな風に思った六花であるが、鳥塚先生は突っ込んだところまでは話さないつもりらしい。それどころか、六花とは視線を合わせようともしない。
恐らくは、六花のヤンチャぶりを話さないでおこうという鳥塚先生なりの配慮なのかもしれない。六花も薄々その事は解っていた。解った上でこう思っていたのだ――先生ってば水臭いな、と。
「センセ、その話なら私も知ってるよ!」
そんな事を思っていると、女子生徒の一人が声を上げた。絡新婦の糸山さんだったはずだ。クラスは異なるが、六花と同じく高等部一年なのだそうだ。実は彼女は幽霊部員であり、園芸部に顔を出す頻度は少なかった。その彼女がこの度嬉々として活動に励んだのは、草引きのどさくさに紛れて虫たちを捕獲できるからなのかもしれなかった。その場で食べる訳でなくとも、やはり虫を捕獲したくなる本能が蜘蛛妖怪にはあるのだろう。
「たまたま通りかかった梅園さんが、センセを助けたんでしょ? 噂じゃあカマイタチをフルスイングでぶっ飛ばしたとかって聞いたんだけど」
「糸山さん。流石にそれは大げさですよう。でも地方欄にちっさく掲載されてたのをお父さんと見たよ」
たちまちにして話の流れは鳥塚先生から六花の活躍に流れていった。
その話に耳を傾ける六花の心境は複雑な物だった。嬉しさよりも気恥ずかしさの方がはるかに勝っていた。それはもしかすると、あの時穂谷とかいう妖怪警察の妖狐に、「君の勇敢さは賞賛すべきだけど、さりとて無闇に事を起こさないように」と注意された事が棘として心の奥に残っていたからなのかもしれない。
「……鳥塚先生ってば、女の子にばかり心配しているんじゃあないですか」
「そんな事はないよ。先生は教師だから、皆が楽しく安全に学校生活を送れるようにって思ってるよ。男子とか女子とかも関係ないし、もちろん種族もね。先生も人間だって言うのは君も知ってるだろう?」
気が付けば、鳥塚先生は拗ねた様子の男子生徒と言葉を交わしていた。人間だったら人間だったで、そう言うややこしい一面があるのか。六花は半ば他人事のようにそのやり取りを眺めていた。
六花自身は純血の雷獣だったから、人間の男同士のやり取りを他人事と思うのは致し方ない話なのだろう。
※
「こんばんは。誰かと思えば梅園さんではないですか」
夜。六花は家に真っすぐ帰ったわけでは無かった。鳥塚先生の言う悪いやつがいないか、自主的に巡回をしていたのだ。
そして巡回をしている最中に、一人の妖怪に見つかって声を掛けられたのだ。
声の主は塩原玉緒だった。彼の出で立ちは初めて会った時とほとんど同じだ。大陸の妖狐である事を示すかのように男性向けのチャイナドレスを身にまとい、背後では銀黒色の四尾が揺れている。のっぺりとした面には、人の好さそうな柔和な笑みが浮かんでいた。
初めて会った時と違うのは、玉緒の見せる笑顔であろうか。最初に見た時はひどく不気味な物に見えたのだが、今見せている笑みにはそうした禍々しさや毒気は特に無い。
もしかしたら、玉緒の笑み自体はあの時も今も同じものであり、六花の彼に対する認識こそが笑みの解釈を変えていただけなのかもしれない。
ともあれ、塩原玉緒は俗に言う悪いやつではない。宮坂京子のイマジナリーフレンドだかタルパだか、要は彼女の考えや願望的なものが投影された分身のような物だ。塩原玉緒は自分の意志を具え、宮坂京子から離れて自由に動けるのだが、しかしその出自のために宮坂京子の考えや思想を色濃く受け継いでいた。
だから彼は危険な存在ではなかった。宮坂京子は悪辣な考えを持ち合わせていないし、そもそも決闘を経て六花と友達になったではないか。その事を玉緒が知っているのも言うまでもない。
「それにしても、暗くなっているのに出歩くなんて危ないですよ? いつかみたいに妙な事を企む妖怪に化かされたり惑わされるやも知れませんし」
優しげな様子を作ってそんな事を言う玉緒に対し、六花は思わず吹き出していた。
「ははっ、まさかあんたがそれを言うなんて……傑作だな」
妙な事を企む妖怪に化かされる。これもまた六花が実際に体験した出来事の一つである。他ならぬ塩原玉緒に六花は化かされた事があったのだ。あの時彼はご丁寧にも妖怪の少女が襲撃される幻影を六花に見せておびき出し、一時的とはいえ公園の中に閉じ込めて押しとどめたのだ。
さて塩原玉緒はというと、六花の言葉を前にただただへどもどするだけだった。あの時の胡乱で怪しげな雰囲気は欠片もない。それはそうかもしれないけれど、さりとて僕も君の事を心配しているんだ……その呟きは、全くもって実直な男らしい発言であった。
或いはこうした態度こそが、塩原玉緒の素なのかもしれない。宮坂京子の案外人懐っこい姿を思い浮かべながら、六花はそんな風に考察するのだった。
それはそうと。ともあれからかってばかりでも良くない気がしたので、六花は話題を変える事にした。
「塩原さんは今日もパトロールをやってるんだな。わざわざアタシに声をかけたって事はさ」
ええ。六花の問いに玉緒は臆せず頷いた。
「それが浜野宮理事長から賜った僕の仕事ですからね。それに安心してこの町で過ごすというのは、ご主人様の願いでもあります。僕が断る理由などあるでしょうか」
六花と京子が決闘を敢行してから、幾つかの事が変化した。六花の学園での立ち位置や、京子との関連性もその一つである。だが塩原玉緒の存在に関する事についても変化があったのだ。
それまでは一部の妖怪しか知らなかった玉緒の存在が、割と明るみになったのである。理事長である浜野宮灰高は、その上で彼に学園と近隣の町内の治安維持の任務を与えていた。分身であれ何であれ、塩原玉緒は四尾の中級妖怪である。その辺の悪妖怪ににらみを利かせるにはうってつけの存在であると浜野宮理事長も判断したのかもしれない。
そして実際に、玉緒もその仕事を請け負っているのだ。その辺りを考えてみても、根が真面目な事は伺えた。
「それはそうと、本当にこのところ物騒ですからね。くれぐれもお気を付けて」
「はいはい。アタシだって無闇に暴れないようにしているからさ」
六花はそう言って踵を返し、本当に帰宅しようと思ったのだった。振り返らずとも、塩原玉緒が心配そうな眼差しをこちらに向けているのを感じていたからだ。
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