第29話 狐娘の懊悩と決意

 梅園六花が四時間目から授業に臨んだこの日、宮坂京子もまた本調子と言うわけでは無かった。体調自体は悪いわけでは無い。ただ今日は終日雨だったし、京子自身も考え事が頭の中を駆け巡り、心を圧迫していたのだ。

 そうまでして考えているのは、梅園六花の事だった。

 京子とて、もちろん六花が何故遅刻したのかは知っていた。表向きにと教師が生徒たちに伝えた情報のみならず……耳ざとい生徒らが入手した情報についても。すなわち、六花は昨晩帰宅直後(と言っても寄り道していたらしく、九時前だったそうだ。塾通いでもないのに、高校生としては十二分に遅い時間帯である、と京子は思っていた)に突如として意識を失って倒れたのだという。目を覚ました時には普段通りに振舞っていたそうだが、念のためにと病院に向かった訳である。

 ちなみに京子は六花とは言葉を交わしてはいない。そりゃあもちろん挨拶や頭を下げる事くらいはしたが、何か意味のある言葉でのやり取りは行ってはいなかった。京子自身、もはや彼女に親しく話しかける事など出来なかったし、六花もまたこちらを半ば疎んでいるであろう事は解っていた。

 それにもちろん、何のかんの言いつつも六花も病み上がりなのだろう。普段通りに振舞っているように見えつつも、普段とは様子が異なっている事は京子も目ざとく気付いていた。用心深く六花が隠している倦み疲れた気配と――それと相反するような、奇妙に意欲を燃やす雰囲気を。

 六花が意欲を燃やす事そのものは別に警戒すべき事では無い。彼女が活力に満ち満ちた少女である事は、スケバンとして振舞っている事からも十二分に察する事が出来た。

 ただ――彼女の瞳の中にある意欲の焔は、京子を見た時に燃え上がるのだ。

 やはり時が来たのだ。宮坂京子はそう思っていた。


「……それじゃあね、宮坂さん。先生はそろそろ仕事があるから、ね」

「いえ良いんです米田先生。先生はいつだって、僕に付き合ってくれるんですから」


 放課後。宮坂京子はゆるゆると去っていく米田先生を笑顔で見送っていた。後ろで一つに束ねられた黄金色の髪が静かに揺れるのを、京子は目を細めつつ眺めていた。米田先生が麗しい、美貌の教師である事は誰しも知っている事だ。だが、その美貌は後ろ姿にもあるのだと京子は思っていた。金色の二尾も輝くような美しさを伴っており、自分の一尾など足許に及ばぬほどである。

 いや――京子は知っていた。自身がどれだけ妖狐として振舞おうとしても、本質的にそれは叶わぬ事を。何せ自分は半妖なのだから。人間の母と妖狐の父。二つの異なる種族の血が混じり合った半端者。それが宮坂京子だった。

 優秀であろうと何であろうと半妖は何処まで行っても半妖に過ぎず、薄汚れた存在と見做される事もある。二年前に京子はその事を存分に思い知った。だからこそ彼女は秩序を求め、風紀委員になったのではないか。秩序こそが安寧であると。

 その一方で、自分が何処に逝きつくのか。その事を思うと薄ら寒さを感じてしまうのだ。元々は人間とも妖狐ともつかぬ存在であったはずが、今では女とも男ともつかぬ存在にさえなっているではないか、と。あの日から女である事を疎み……だからこそ少年のように京子は振舞っている。しかし性自認まで男になったわけでは無い。だというのに女教師たる米田先生に抱くのは恋慕の情だった。

 僕は、は一体どうすればいいの……自問しつつも、京子はそれを口にはしない。今の自分は中途半端なバケモノではない。優雅で麗しい風紀委員長、乙女たちの憧れである宮坂君なのだ。その宮坂君が、たとえ傍に誰もいないと言えども、弱音を吐くのは許されない事なのだ。

 それに京子は気付いていた。自分の傍らに少女たちが駆け寄ってきた事を。


「……おやおや二人とも。どうしたのかな」


 やってきたのは中等部の生徒、厳密に言えばアライグマ妖怪とフェネック妖狐の少女だった。どちらも慌てて駆け付けたらしい。汗と焦りの香りがこちらにも漂っていた。ラス子と呼ばれがちなアライグマ少女は顔を赤くしながらこちらを見上げている。一方でフェネックの少女は表向きは涼しい顔だった。それでも、尻尾の毛を逆立てて熱を逃しているようだが。


「宮坂様! 報告なのだ!」


 アライグマの少女は半歩前進すると、声を張り上げて京子に呼びかけたのだった。


「……ご主人様」

「どうしたのよタマ。あなたがこのタイミングで出てくるのは珍しいわね」


 四尾の妖狐・塩原玉緒が姿を現したのはアライグマとフェネックの少女が報告を終えて立ち去った直後の事だった。もちろん学園の中であるのだが、塩原玉緒はそんな事を気にした素振りは全くもって見せていない。

 ちなみに、今の玉緒は普段見せるチャイナ服姿ではなく、ワイシャツに落ち着いた色味のズボン姿である。仮に姿を見られたとしても、若手の教職員のひとりだと見過ごされそうな姿に擬態していた。

 もっとも、塩原玉緒が他の誰かに見つかるようなヘマをしない事は、京子もよく知っているのだが。


「どうもこうも、昨晩からご主人様は思い悩んでいるご様子でしたから」

「……あなたが余計な事をするからでしょ。梅園さんや、鳥塚先生にも会ったらしいわね?」


 京子の口から出たのは皮肉そのものであったが、塩原玉緒は怯まなかった。元より彼は京子よりも幾分大人なのだ。ついでに言えば九尾の末裔でもある。中途半端な半妖の小娘が囀ったくらいで、うろたえる様な手合いでは無い。そうした存在を他ならぬ京子が望んでいたのだから。

 とはいえ、皮肉をぶつけたいという欲求はそれとは別に湧き上がって来た訳なのだが。


「余計な事とは手厳しいですなぁ。ですが、僕の動きはご主人様が真になさりたい事に繋がっているのですよ。何せ僕は、ご主人様の願いや思いを知っているのですから。それこそ、ご主人様の知らない事、目をつぶっている事でさえもね」


 心理学でいう所の四つの窓の事だわ。そんな事を思いつつも、京子は口をつぐんだままだった。

 そう言えば……そんな京子の姿を眺めながら、玉緒は言葉を続ける。


「なさりたい事と言えば、ご主人様は今、梅園さんと決闘なさりたいのではないですか。丁度、あの騒がしくてにぎやかな二人組とも、決闘の話をなさっていたみたいですし」

「……あなたの力添えは要りませんからね、タマ」

「ええ。今回ばかりは僕もご主人様を見守るだけに致しますよ」


 玉緒はそこまで言うと、目を伏せて息を吐いた。その表情が妙に切なげで、京子の心をざわつかせる。


「梅園さんと正面からぶつかるのはご主人様自身の問題でしょうからね。そこに部外者である僕が立ち会ったら妙な事になるではありませんか。

 それに――正直なところ、僕も梅園さんの事は気に入っているんです。手荒な事はしたくないと思う程にね」

「やっぱりあなたも誑かされたのね」


 京子は玉緒を睨みつけ、鋭く言い放った。おのれの声は、さながらチワワやポメラニアンの甲高い啼き声のようだった。


「良いわよ玉緒。あなたは観覧席にでも紛れ込んで、私の活躍を見ていなさい。そもそも、決闘は一対一で行うのよ。忠実な部下と言えども、それを伴って決闘に挑むなんておかしい話じゃない」


 口早に京子が告げるも、玉緒は黙って話を聞いているだけだった。それに気を良くした京子は、口許に笑みをたたえながら言葉を続ける。


「ふふふ。ねぇ玉緒、私だけじゃあ非力な小娘だって思っているでしょう。そんな事ないわよ。私は変化の術や分身術が得意だし、決闘の折に分身を出してもルール違反にはならないもの。ええ。強い分身を出す事だって造作もないわ。三大仙でも、それこそ梅山の七怪でもね」


 安心したでしょ。問いかけてみるも、塩原玉緒は何とも言えない表情で押し黙っているだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る