第26話 狐つままれキツネツキ
「とはいえ、アタシも塩原玉緒が何者なのかはある程度は見当が付いているんだ。やつの身体からは、宮坂京子の妖気が漂っていたからな。宮坂京子があの姿に化けたのかどうかは解らないけれど、ともあれ彼女に縁深い存在には違いないさ」
「縁深いも何も、塩原玉緒は宮坂京子に仕えている存在なんだよ。僕は、塩原玉緒からそう聞かされたんだ」
何だって! トリニキの言葉に六花は驚きの声を上げた。彼女の反応は劇的な物だった。背後の二尾がぶわっと倍以上の太さに膨らみ、可憐な少女の面が、一瞬獣の顔に見えたほどである。大きく目を見開く彼女の周囲には、小さな稲妻さえ二筋三筋取り巻いていた。
「梅園さん。驚いたからって無闇に放電してはいけないわ。ましてや、貴女も病み上がりなのでしょうし」
「あーはいはい。悪かったよ米田の姐さん。鳥塚先生も驚かせちゃったし」
にわかに興奮した六花を鎮めたのは、米田先生の冷静な一言だった。ただ静かにたしなめただけにも拘らず、六花はばつの悪そうな様子で大人しくなったのだ。
その様子を見届けた米田先生は、トリニキと六花に笑みを向けた。
「あくまでも私の考察になりますが、塩原玉緒の正体についてお話いたしましょう。と言っても、梅園さんも鳥塚先生も、おおよそ察しがついているかもしれませんが」
察しがついているとは、やはり塩原玉緒は宮坂京子に関連のある存在なのだろう。その間に米田さんは真顔になり、そして言葉を紡いだ。
「塩原玉緒の正体は、宮坂京子が作り出した分身だと考えられるわ。但し、普通の分身とは違ってもはや自分の意志で動き回れるようなものになってはいるけれど」
分身。その言葉を聞くや、またしても六花が声を上げた。先程とは異なり、驚きと多少の納得の色が入り混じったような声音だった。
「分身だったのか。それで米田の姐さんは、あいつがアタシを襲う事は無いって断言出来たんだな……ですね」
「私たちの使う分身術は、あくまでも使い手のイメージによるものですからね」
そう言うと、米田先生は思案する素振りを見せてから言い足した。
「塩原玉緒も元々は宮坂さんのイメージから生まれた存在なのよ。だから彼の行動だって、宮坂さんの意に沿うものになる様な制約があると考えられるわ。今の彼が何処まで自由に動けるのかは解らないけれど、少なくとも女の子を襲う事は出来ないはずよ。その事は――宮坂さんが最も忌み嫌っている事だから、ね」
「米田の姐さんがそこまで言ってくれると、本当に安心できるよ」
六花はそう言ってふっと微笑んだ。その笑みが何処かぎこちなくて儚げに見えたのは気のせいでは無かろう。
「先生たちは知ってると思うけどさ、少し前に野柴君がアタシに告白してきたんだよ。その時に、アタシは『その間にアタシが欲しくなれば、力づくで奪っても構わない。そんときはそいつに身を委ねてやる』なんて事を言ったんだよな。ああ、自分でも調子に乗ってたと思うよ。
塩原玉緒に出会った時に、アタシはその事を思い出したんだ。あいつはアタシより明らかに強そうだったからさ。で、そいつに好き勝手されるのかもしれないと思ったら怖くなってさ……それが情けなかったんだ」
「梅園さん、君はそんな事まで……」
指を組みながら項垂れる六花を前に、トリニキは思わず声を上げてしまった。流石の米田先生もこれには微苦笑を浮かべているではないか。
「相手が誰であれ、言葉は迂闊に放ってはならないという事よ。野柴君も優しくて良い子だし、今回の一件も大事には至らなかったでしょうけれど……梅園さん。今の事は忘れずに覚えておいて頂戴ね」
野良猫のような眼差しで六花が頷くのを見届けてから、トリニキは抱えていた疑問を米田先生にぶつけた。
「米田先生。塩原玉緒なる謎の妖狐が宮坂さんの分身である事は僕たちも理解できました。ですが、自分の意志で動けるとはどういう事でしょうか? 米田先生の仰る通り、普通の分身ではありえない事だと思うのですが」
「……塩原玉緒の秘密について話す前に、少し私どもが用いる変化術・分身術について説明いたしますね。その方が解りやすいはずですから」
そのような前置きと共に、米田先生は変化術と分身術の解説を始めてくれた。
変化術は本来の姿から自身が望む姿に変化する事、分身術はあたかもそこに存在しない者が存在しているように見せ、その動きを操る術の事である。そしてその術を行使する要になるのは、使い手の意志そのものなのだそうだ。
「使い手の意志が重要と言うのは、他の術でももちろん当てはまるわ。だけど、イメージした物を形に仕立て上げるという意味では、変化術や分身術も意志の強さが依存しているのは言うまでもない事なの。
実際問題、見た事も無い物や知らない物を分身術で作り出す事は不可能ですからね。どれだけ熟練した変化術の使い手だとしても」
そうした意味では、塩原玉緒は宮坂京子の意志が十二分に込められた分身に当たるのだと、米田先生は説明を続ける。だからこそ、塩原玉緒自身が意志を持ち、自在に動き回るようになったのだと。だがその一方で、塩原玉緒は宮坂京子が意識して造り出した存在ではないのかもしれない。そんな事も米田先生は口にしたのだ。
「実を言えば、私自身は塩原玉緒と接触した事はまだ一度も無いんです。ですが、それでも宮坂さんから彼の話は聞かされていて、それで断片的に知っていたの。ただ少なくとも、一昨年の秋ごろには宮坂さんも彼の存在を口にしていたかしら。悪しき者、よろしくない者から自分を護ってくれる、忠実な従者であるとね」
「それって、あの事件の後からって事ですよね、米田の姐さん」
そうよ。六花の問いに米田先生は力強く頷いた。六花の言ったあの事件は、宮坂京子が男妖怪に攫われた事件は一昨年の夏に起きたものではないか。塩原玉緒はその直後に姿を現したのか――米田先生の解説はまだ終わってはいないが、トリニキは腑に落ちたような思いだった。
あの事件と塩原玉緒の出現は無関係では無いはずだと、米田先生は断言する。
「あの事件が宮坂さんの精神に如何ほどの影響をもたらしたのか、それは今更私が語るまでもない事です。ましてや宮坂さんは、内気で大人しくて……その上感受性の強い子でしたからね。
自分を護ってくれる存在が欲しい。自分には無い強い力を持ち、それでいて自分を裏切らず忠実な存在が傍にいてくれれば……そのように願ったとしても無理からぬ話なのよ。たとえ無意識の願いだとしてもね」
「塩原玉緒が凡百の分身とは異なる事はよく解りましたよ、米田先生」
米田先生の説明が一段落したところで、トリニキは思わずおのれの意見を口にした。
「お話を聞く限り、分身と言うよりもむしろタルパやイマジナリーフレンドに近い存在のように思えてなりませんね、塩原玉緒と言うやつは」
タルパとイマジナリーフレンド。これらは想像力によって生み出される架空の存在であるという。厳密には両者は異なる存在であるのだろうが、いずれにせよ作り手であるあるじの心に寄り添い、友達や仲間になってくれる事には変わりはない。
まさしく仰る通りです。米田先生もまた、トリニキの言葉にはっきりと頷いてくれた。
「最初の成り立ちとしてはそれこそイマジナリーフレンドみたいなものだったのでしょうね。ですが宮坂さんも妖狐の血を引き妖力を持ち合わせております。だからこそ塩原玉緒は分身として実体化してしまったのでしょうね。
そして宮坂さんの望むままに、彼女の脅威になるであろう存在を観察し、時に接触をしているのだと思われます。恐らくその辺りは、鳥塚先生と梅園さんの方がお詳しいのではないかと思うのです。先程も伝えた通り、私の前には塩原玉緒は姿を現しませんからね」
「……要するに、宮坂さんがアタシらの事を目の敵にしていて、それで塩原玉緒がアタシらの前に現れたって事だよな? あの狐は宮坂さんの思いや願いに忠実だから、さ」
その通りよ。六花の言葉に頷いた米田さんは、思いつめたような表情をいつの間にか浮かべていた。
「そうね……宮坂さんとは色々と話す機会が多いんだけど、彼女も最近は少しイライラしたり、不安があるのを隠そうとしている所なのよね。それに塩原玉緒だって、完全に宮坂さんに従っているのかどうかも解らないのよ。イマジナリーフレンドやタルパですら、状況によっては暴走する事があると聞くわ。ましてや、分身として力を宿している塩原玉緒が制御できないとなると……」
「米田の姐さん。そこまで心配しなくても大丈夫。アタシだって、やられっぱなしは性に合わないんだからさ」
深刻な表情を見せる米田先生とは対照的に、六花は何故かその面に笑みを浮かべていた。獲物を見つけた獣のような獰猛な笑みを。
「アタシの会った感触ではさ、塩原玉緒は何のかんの言いつつも宮坂さんの事はあるじとして立てていたけどな。それだったらさ、要は宮坂さんとアタシが直接ぶつかった方が話が早いと思うんだよ。
あ、でも先生。ぶつかるって言ってもバチボコに闘う訳じゃないから安心してよ。取りあえず話し合いから始めてみるからさ……それで駄目だったら拳で語る可能性もあるけれど」
やっぱりバチボコ闘うのも選択肢に入っているのか。意気揚々と語る六花の姿に、トリニキは若干気圧されていた。
しかしだからこそ、米田先生が何か決心したような目つきになっていた事にこの時は気付かなかったのだ。
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