第14話 ふたご妖怪とメイドさん

 翌朝。朝の支度とマリンの世話を終えたトリニキは、あやかし学園へと歩を進めていた。昨日と異なり足取りはやや軽い。昨日も昨日で生徒らに実施したテストの採点と言う職務があるにはあった。しかし、心身の疲労はその前の日よりも少ないように感じられた。

 元よりトリニキは予備校の講師として勤務していた。生徒らの手書きの答案を眺め、それを採点するという作業には慣れっこである。

 それに、答案用紙の採点からも、生徒らのひととなりを俯瞰する事はうっすらと出来た。理学の学位を取るトリニキの本文は、やはり理科の領域ではある。しかし教員免許を取るにあたり、心理学や社会学などと言った分野も学ばざるを得なかったのだ。過去に学んだカリキュラムの一部は忘れていたものもあったのだが……この度教壇に上がるにあたり思い出した所もあったのだ。もちろん、教育実習を行った日々の事も。


「……おや」


 さて意気揚々と歩み始めたトリニキであったが、足許に転がって来た物に気付いてすぐに足を止めた。濃い青色のゴムボールが、トリニキの革靴の先に向かって転がってきたのである。大きさは野球ボールよりやや大きいほどであるが、陽光を浴びて鈍く輝く様子からして、うんと柔らかそうなものだった。


「ぼーる! ぼーる転がったー!」

「……あおば!」

「青葉お嬢様……!」


 トリニキが屈みこむ前に、甲高い声と共に幼子が駆け寄って来る。その背後からは二人分の声も伴っていた。慌てて困ったような幼子の声と、落ち着き払った大人の女性の声である。

 駆け寄ってきたのは獣妖怪の女の子だった。人間で言えば二、三歳ほどの幼児と言った所であろうか。保育園か幼稚園の制服を着こんでおり、背後では猫のような尻尾が一本伸びている。

 彼女の背後には、同じくらいの年頃の男の子と、若い娘に変化した獣妖怪の女性が近づきつつあった。

 この子のボールだったんだな。そう思いながら、トリニキは女の子が動くのを見守った。兄弟と思しき男の子と彼らを監督していた女性が傍にいるのだ。きっとこの子もボールを拾い上げて、そのまま彼らの許に戻るだろう。

 しかし、そのように思っていたトリニキの意図に反し、女の子はボールを拾わなかった。屈もうかどうしようかと悩んでおかしな格好のままのトリニキの顔を覗き込み、ニコニコと笑っている。

 あおば! そうしているうちに、兄弟と思しき男の子が女の子の隣に並ぶ始末である。


「ねぇおじちゃん。あおばのぼーる、取っても良いですか?」

「あおばってばダメって言われてるのにボールあそびしちゃってて、おじさんごめんなさい」


 屈託のない笑みで質問を投げかける女児と、幼いながらも礼儀正しく謝る男児を前に、トリニキは引きつった笑みを浮かべて硬直していた。オジサン呼ばわりされた事が地味にショックだったのである。

 そりゃあもちろん、トリニキとて自分の年齢は解っている。二十代後半であり、ヤングな若者と言うには若干が立っているであろう事も。そして、生徒らからはオッサン扱いされるであろう事も。

 しかしトリニキの心は未だに二十四歳前後だったのだ。トリニキは学生ではないけれど。


「……良いよお嬢ちゃん。あとおじさんじゃなくてお兄ちゃんな。そこ間違えたら色々と危ないから気を付けるんだよ」

「ありがとう! おじ……じゃなくてお兄ちゃん!」


 結局のところ、トリニキがボールを拾い上げて女の子に渡す事になった。今度はおじちゃんと言いかけたものの、きちんとお兄ちゃんって言ってくれたのだ。活発そうだけど賢い子なのかもしれない。トリニキはそんな事をぼんやりと思っていた。

 と、それまでの様子を眺めていた女妖怪が近づいてくる。


「先生。青葉お嬢様と野分お坊ちゃまが朝からご迷惑をおかけして申し訳ありません」

「いえいえ大丈夫ですよ」


 男の子の方は野分と言うのか……今や女妖怪の許にまとわりつく幼い双子妖怪を見ながらトリニキは思った。彼女が双子たちの肉親ではない事はトリニキにも解っている。獣妖怪ではあるが妖気の質や雰囲気がかけ離れているし、何よりあの呼び方は母親や姉が行うようなものではない。


「それにしても、僕の事を教師だとご存じだったんですね?」


 申し訳なさそうに告げた女妖怪の言葉が気になり、トリニキはついつい思った事を口にしていた。妖怪に自身が教師である事を見抜かれた事に驚いていたからだ。

 人間の若者に先生と呼ばれるのはまだ解る。これまで予備校で講師を務めていたのだから。予備校講師も、まぁ職業柄先生と呼ばれる事は珍しくなかろう。

 だが、初対面に近い妖怪から先生、と呼ばれる事には驚いてしまった。確かに、現在トリニキは妖怪たちも相手に教鞭を取る立場ではある。しかし、実際に赴任されてからまだしか経っていないのだ。

 いかな妖怪たちが不思議な術を使うとしても、それにしてもこちらの身元が割れるのは早すぎる。しかも、眼前の女妖怪は、失礼を承知で言えばさほど強くない、ごく普通の一般妖怪であるようだし。

 だからこそ、トリニキは驚いた訳でもあるが。


「ええ。から先生の事は聞き及んでおりまして」

「そうだったん……!」


 思わずカンサイ弁のような言葉がトリニキの口から漏れ出る。別段フランクな言葉を発したわけでは無い。話を聞いていたから知っていた。その事に対して「そうだったんですね」と切り返そうとトリニキは思っていた。だが彼女が「六花お嬢様」と言った事に気付き、途中で驚いて声を詰まらせただけなのだ。


「すみません先生。まだ名乗っておりませんでしたね。

 私は飯綱美咲と申します。名前の通りイヅナの一族の出身ですわ。縁あって三國様の……旦那様の配下となったのですが、現在は御多忙な三國様と奥様である月華様に代わって、お子様たちの世話係を行っております。実子である野分お坊ちゃまや青葉お嬢様はもちろんのこと、養女である六花お嬢様の事も」

「そう言う事だったんですね、飯綱さん」


 流石に今度は上手く事情を飲み込む事が出来た。トリニキは飯綱の言葉に納得し、それと共に密かに安堵してもいた。六花や幼い弟妹達がどうしているのか少し気がかりだったからだ。

 それにしても……とトリニキは思案を巡らせていた。梅園六花の家には使用妖しようにんがいて、しかも彼女からお嬢様と呼ばれる身分であったとは。妖怪たちが比較的群れで暮らすものが多い事、裕福な妖怪は使用妖しようにんやら部下やらを自宅に住まわせる事はトリニキも知識としては知っている。だがこうしてその事実に直面すると、どうしても戸惑いと驚きが大きかった。

 それはもしかしたら、梅園六花自身の振る舞いも影響しているのかもしれない。それこそ深窓の令嬢に振舞っていたならば、お嬢様と呼ぶものがいてもそう言う事かと納得したのかもしれないけれど。

 六花お嬢様の事をお願いいたします、鳥塚先生。心の籠った声音で飯綱はトリニキに告げた。


「旦那様に似てお転婆な娘に育ってしまいましたが……もし鳥塚先生にご迷惑をかけるような事があれば、どうぞ教育的指導を躊躇い無く行ってくださいませ。六花お嬢様も、ゆくゆくはいっぱしの淑女として育たなければならないのですから」

「いやいやそこまで仰らなくても大丈夫ですよ。梅園さんが、本当は心根の優しいお嬢さんであるって事は僕も解っておりますから……

 さて、申し訳ありませんがそろそろお暇させていただきますね」


 梅園六花とその保護者に仕えるという飯綱とは、正直な所もう少し言葉を交わしたかった。しかしお互い時間に縛られている身である。後ろ髪をひかれるような思いを抱きつつ、トリニキは飯綱や六花の弟妹達に別れを告げて学園へと向かったのだった。

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