第8話 囁きかけるは邪悪な妖狐
場所は変わって宮坂家の一室。半妖狐娘の宮坂京子は、学習机に向かって教科書を広げていた。傍から見ればレクリエーションばかりの四月初旬に予習を行う優等生に見えるかもしれない。しかし実際の所、教科書を開けどもその内容は彼女の頭の中には入ってこなかった。
と言うのも――京子は別の事をずぅっと考えていたからだ。
彼女の頭の中にあるのは、日中の教室での出来事であった。もっと直截的に言えば、梅園六花と名乗る女生徒の事を熱烈に考えていたのだ。女だてらにスケバンを気取るふてぶてしさ。生徒のみならず教師の度肝さえ抜く奇妙なカリスマ性。そして――蓮っ葉な物言いとは裏腹に忌々しいほどに女らしさを具えた肉体。それらの事を思うと、心がざわつくのを宮坂京子はしっかりと感じていた。
そのざわつきは恋心ではない。友達になりたいという好奇心や、好意的な関心ですらない。もっとどす黒く粘っこい感情――要は嫌悪と憎悪の念を雷獣娘に抱いていたのだ。
「――ご主人様」
と、一人思案に耽る京子に声が掛けられた。声の主は小さな銀色の狐である。仔猫や仔兎ほどの大きさながらも、尖った耳やふさふさした尻尾は動物のキツネと何ら変わらない形である。
その狐はベランダから入り込んできた。ベランダに面する窓の鍵は掛けられており、雨戸さえ締められているにもかかわらず。雨戸と窓をすり抜ける形で入り込んだ狐を前にしても、別段宮坂京子は驚きはしない。この狐がそんな芸当をこなせる事は知っていたからだ。何せそのような事は可能だと定義づけたのが、他ならぬ宮坂京子その人なのだから。
お帰りなさい、タマ。狐の方に顔を向けながら、宮坂京子は微笑んだ。桜色の唇が僅かに動いた程度の笑みであるが。
タマ――塩原玉緒と呼んでいるその狐は、管狐のような物だと京子は認識していた。玉藻御前の末裔であると名乗る彼は、実際の管狐ではないのかもしれない。しかし京子の事をあるじと見做し、二年前から彼女に尽くしてくれる事には変わりはない。
完全に部屋に上がり込んだタマは、周囲を見渡してからすっと二本足で立ちあがった。その姿が靄に包まれ、次の瞬間には人型の青年姿へと変貌していた。玉藻御前の末裔と言う肩書は伊達ではないらしく、その背後では四本の尾が揺れている。仔狐の姿の時は巧妙に尻尾と妖気を隠しているらしかった。
基本的に大半の男を忌み嫌うようになっていた京子であるが、青年姿の塩原玉緒には嫌悪感は無かった。のっぺりとした面立ちやずんぐりとしつつも小ぢんまりとした身体つきは、京子の疎む男性性とは無縁であるように思えたのだ。男が抱く、乙女へのぎらついて脂ぎった欲望を、眼前の妖狐は全く持ち合わせていないようにすら感じさせた。もちろん玉緒自身がどう思っているのか、京子は全てを把握している訳ではない。しかし玉藻御前の末裔と言うとんでもない肩書を持ち合わせているはずなのに、彼の事は信頼できるような気がしてならなかった。或いはすでに京子は彼に魅入られているのかもしれないが。
……余談であるが、塩原玉緒の容姿はひどく平凡な面立ちである事、俗っぽい表現が許されるならばモブ顔と称される代物である事を付け加えておく。玉藻御前の末裔であるからもっと美麗な姿なのかもしれないと諸兄姉は思うかもしれないが……そこもまた彼の抱える謎の一つと言う事だ。
「お疲れ様。何か面白い物でも見つかったかな?」
ともあれ京子は戻ってきた玉緒に問いかけた。玉緒が昼と言わず夜と言わず京子の許を離れ、周囲を見回る事のはいつもの事だった。そして時に面白い話を教えてくれたり――京子が裡に抱える密かな願いを叶えてくれたりするのもまた、彼の仕事だった。
ええ、ええ。面白い物が見つかりましたよ――もったいぶった様子で頷き、情感たっぷりに玉緒は言う。薄い唇が引き延ばされ、その面に妖狐らしい笑みが広がった。
「ふふふっ、タマがそんなに興奮するなんて珍しいね」
「そりゃあそうですともご主人様。何せあのスケバン雷獣が、夜の街をぶらついていたんですからね」
「そうだったんだね……」
スケバン雷獣。その言葉に京子は反応した。無意識のうちに口許に手を当て、年相応の少女らしい反応を玉緒にだけ見せていた。図らずとも行ってしまった女の子らしい振る舞いを気にする素振りも無く、玉緒は言葉を続ける。
「ええ、あのスケベそうな身体つきの雷獣娘はですね、武器を振るって妖怪たちを懲らしめていましたよ。大方、朝やっていた事と同じ事でもやっていたんでしょうね」
「そんな、梅園さんってばまたそんな事をやっていたのね。ああ、何て野蛮で厭らしい獣なのでしょうか……」
嫌になっちゃうわ……そう言いながら京子は手を組み合わせ、胸元でくねくねと蠢かせていた。嫌になっちゃうという言葉とは裏腹に、京子は奇妙な昂りを感じていた。現に頬は火照り、目は潤み始めている。自分もまた、先程の玉緒同様妖狐らしい笑みを浮かべているのだと確信してもいた。
そんな京子の様子を眺めながら、玉緒は更に報告を続ける。
「しかもですね、あの雷獣娘は新任の男教師とも会っておりました。ええ、夜の街でスケベな娘が若い男教師と会っていたんですよ」
「梅園さんってばそんな事まで……何てふしだらな娘なんでしょう」
――これではっきりと梅園六花を嫌う事が出来る。宮坂京子の心中はその事実を受け止め、歓喜に沸いていた。夜の街にて妖怪たちと相争い、しかもその後で男教師と逢瀬を楽しんでいた。不純異性交遊の極致ともいえる行為をしでかした雷獣娘は、風紀委員として、そして清廉なあやかし学園の生徒として放っておける存在ではない。
そのように京子が考えを巡らせていると、玉緒が見計らったように囁きかける。彼の背後では暗い銀色の四尾が影のように揺れている。
「如何なさいますかご主人様――」
「そうね、もちろんタダでは放っておけないわ。神聖なる学園の風紀を乱す存在を、この私が見逃す訳なんて無いんですから……」
京子と玉緒は顔を合わせ、そうして笑いあっていた。彼らの面に浮かぶのは、まさしく策を弄し人を陥落させる、傾国の妖狐に相応しい笑みだったのは言うまでもない。
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