イザベラは教会産葡萄酒を近場の食堂に売り払うと、それで資金を稼いで、そのお金の半分を渡して食堂に交渉した。


「掃除婦として、母を雇って欲しいんです」

「君ではなくて?」

「私は遠くに行かないといけませんから」


 彼女がまだギリギリ結婚適齢期だったため、それ以上は食堂の店主も聞かず、了承してくれた。

 彼女は残ったお金で王都行きの列車の券を買い、それに飛び乗った。

 地図は読め、名前だけだったらゆっくりながら読める。それを見ながら、イザベラは牢屋へと向かっていった。

 王都の牢屋街は、釈放された人々が売り買いされている寂れた場所だ。そこに彩りを与えているのは、王都の憲兵の制服だけだった。

 彼女が日の光で時間を確認している間に、牢屋から誰かが憲兵により釈放されていくのが見えた。

 牢屋に数年入っていたとは思えないほど、艶のある髪。ふさふさした髭。外套で身を包んだ姿は、たしかに魔道士のものだった。

 イザベラは自身を振り返った。

 既に父の巻き込まれた事故により、彼女の豊かだった髪は失われ、頭にスカーフを巻きつけなければ外を歩けなくなっていた。彼女の若さも既に奪われていた。

 だというのに。牢屋に入っていたはずの魔導士のほうが明らかに身なりがいいのだ。


「もう事故なんて起こさないように」

「ありがとうございます」


 本来ならば丁寧な口調なのだが、それはイザベラからしてみれば、ただ丁寧なだけで中身が伴っているとはとてもじゃないが思えなかった。

 イザベラは、着の身着のままで、壺だけ持って王都に来ていた。路地の一本に隠れて様子を窺い、隙を突いてその魔道士の脳天目掛けて壺を振り落としたのだ。

 キィィィィンと、耳鳴りがした。


「どうして、どうして父を事故に巻き込んだ……!」


 ゴン、ゴン、ギャン、ギャン。

 聞こえてはいけない音が聞こえる。なにかが砕ける音が聞こえる。

 イザベラは渾身の力で、壺を振り下ろし続けていた。壺にはビチャビチャと血と脳汁が付き、髪の毛が貼り付いていたが、それを気にすることなく、イザベラは唸り声を上げた。

 本当ならば、必要最低限の食事しかこの数年間摂っていない彼女は、人の脳天を割るなんてありえないはずだった。しかし、擁護者が来たときから、彼女の中の怒りが彼女の理性を削り取り、彼女に渾身の力を与えていたのだ。


「母はずっと泣いている! 私は死に物狂いで働いている! 謝罪文なんていらないけれど、せめて刑期だけは守って欲しかった! 私たちがなにをしたっていうんだ! あなたはお金を払えば出られるかもしれないけれど、あなたがここを出るお金があれば、私たちはもっと普通の生活ができた! 父を返して! 母を助けて! あなたさえ……あなたさえいなければ……!」


 とうとう壺が割れた。その割れた破片で、これでもか、これでもかとその男の脳天を突き刺したところで、「これで満足ですか?」と声をかけられた。

 振り返った先にいたのは、自分たちの家を訪ねてきた擁護者だった。


「……私は人を殺してしまいました。どうぞ憲兵を呼んでください」

「いえ。我々も困っていたのです、この魔道士に」

「はあ……」

「王の勅命を受けているせいで、やりたい放題。何度も事件を起こしては、揉み消され、そのたびに我々擁護者は各地に飛んでは謝罪を繰り返していました。被害者たちは、皆一様に泣いていらした。もうそろそろ、この男は裁きを受けるべきでした」

「……だからわざわざ、彼が釈放される日を教えたんですか?」

「そうです」


 そして擁護者は、ズシリと重い袋を引き渡してきた。それをポカンとイザベラが見ている中、彼は告げる。


「彼の釈放依頼金です。我々ではどうしようもないことをあなたはしてくださいました。その報酬として、受け取ってください」

「い、いえ……私は……私はただ」


 平凡でも普通に生活を送りたかった。それだけだった。それを壊した魔道士に復讐しただけだった。報償を得るべきではない。そう首を振る。

 しかし擁護者は続ける。


「お願いです、これからこの男が死んだことで、いろんなことが変わります。あなたのような被害者たちを救うためにも、彼の遺産をきちんと奪わなければならないのです。まずはあなた方を救わせてください」


 そう思ってイザベラは考えた。

 母は既に年だ。いつまで働けるだろうか。食堂の仕事は、自分が引き継げばこのお金と一緒にどうにか生活できるんじゃないだろうか。

 やがて、彼女はその袋を受け取った。やはり彼女では見たこともないくらいのお金であり、いったいあの魔道士は保身のためにどれだけ擁護者たちにお金を払ったのだと呆れ果てた。


「……ありがとうございます」

「いえ、お幸せに」


 父は起きない。母はまだ泣いている。イザベラはとうとう人を殺した。

 それでも幸せになっていいんだろうか。

 袋を持ち上げた。やはり重い。その重さが、人ひとりを殺めた重さだ。彼女は自身を振り返る。もうぼろぼろであり、とてもじゃないが結婚できそうもない。

 せめて誰かを幸せにしよう。まずは母を泣き止ませる方法から、考えなくてはならない。彼女はその袋のお金で、戻るつもりのなかった故郷行きの列車の券を買うことから始めることにした。


<了>

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それでも許さなければなりませんか 石田空 @soraisida

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