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「お父さん、今日は顔色がよかったの。もしかしたら、もうすぐ目が覚めるのかもしれないわね」
母は父のお見舞いに、毎日のように教会に通っていた。
神官や巫女たちだけに父の世話をさせるのはさすがに申し訳がなく、母は父の髪を切ったり、髭を剃ったり、毎日綺麗な服を届けることだけは続けていた。
イザベラは母に気付かれぬよう、こっそりと毎日のように教会に寄付をしていた。本来は無料の施設ではあったが、なにかあった際に父が神官や巫女に邪険に扱われたら困るからであった。時には彼女の寄付に気付いた巫女から慌てて「それは持って帰ってください!」と言われたものの、イザベラは首を振った。
「神を信じることは今の私にはもうできませんが、あなたがたは信じたいんです」
そう告げたら、巫女はもうなにも言わなくなった。
生活がどんどん逼迫していくものの、町の子供が減ってきたために子守の仕事すら乏しくなったため、あちこちで繕い物の仕事をもらってきて、それを必死に片付ける仕事をはじめた。
既にイザベラは結婚適齢期であったが、それどころではなかった。なにかをしていなかったら、あっという間に心を病んでしまうところだったがために、なにかをせずにはいられなかったのだ。
いつしか、彼女の自慢の栗色の髪に、一本二本と色の抜け落ちた髪の毛が見つかるようになった。
そんなときだった。イザベラの家にひとりの人が尋ねてきたのは。
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繕い物の仕事をし続けて、イザベラの指先は常にごわごわの皮膚が付いて分厚くなってしまった。針を持ち続けた結果であった。足踏みミシンを買えばもう少しだけ仕事ができるが、毎日の生活費のことを思えばなかなか踏ん切りが付かず、繕い物をあちこちに配り終えては、深い溜息をついていた。
「ごめんください」
「はい、どうぞ」
やってきた人を、イザベラはいぶかしげに見た。
上等な外套を着た人であった。寒くない時期に外套を着る趣味なんて、旅人か王都の人間以外ではまず見ない。その外套の布の上質さからして、彼は王都の人間なのだろうと、毎日のように繕い物に追われていたイザベラは当たりを付ける。
「どうかなさいましたか」
「失礼。自分は王都で擁護者をしております者で」
擁護者。牢屋に入れられた人々が、その後の人生を円滑に進めるようにという名目でつくられた役人だが、彼らの評判はイザベラの住む町ではあまりよくない。
曰く、貧乏な囚人は体よく肉体労働に売り飛ばされる。
曰く、訳ありの囚人は金次第で刑期を短くする。
「牢屋に捕まっていた魔道士様ですが、あの方は素晴らしい模範囚なのです。あの魔道事故のことを広く注意勧告するために、早めに釈放して欲しいと国から話がございまして」
「……はい?」
イザベラの声は太くなった。
あの魔道士がなんなのかは知らないが、父が起きなくなってからというもの、彼からは一度も謝罪の手紙ももらっていないし、擁護者だって初めて来たのだ。
おおかた、王直属で働いている魔道士が、大金を支払って擁護者を雇い、わざわざ交渉に来たのだろう。
女ふたりでは、なかなか仕事がない。王都だったらいざ知らず、この辺鄙な町では女の仕事は苦労する。そのおかげでイザベラは自慢の髪をすっかりと傷んで白くなり過ぎ、かろうじて残った綺麗な色の部分を切り払って売ったのだ。
自分たちには謝罪ひとつ寄越さず。自分はお金を支払って釈放。
いいご身分だ。本当にいいご身分だ。
ぐつぐつと怒りが煮えたぎる。それをかろうじて押さえ込み、イザベラは告げた。
「……刑期そのままにするには、どうしたらよろしいのですか?」
「はい、その場合は、刑期を打ち切らない理由を書いてもらわなければなりません」
そう擁護者が言ってきたのに、イザベラは呻き声を上げた。
イザベラは文字の読み書きができなかったのだ。父はできたが、母とイザベラはほとんどスペルを覚えていない。名前くらいしか読めないし書けない。
擁護者もこの町の識字率が男性に偏っていることに目を付けて、そんなことを言ってきたのだろう。その頭の回転のよさに、イザベラはますます苛立ちを募らせる。
「……わかりました。その代わり、魔道士様の釈放の日だけ教えてください」
「わかりました」
それで擁護者の話が終わった。
それからイザベラは、神官に話をしに出かけていった。
「父の容態はどうでしょうか?」
「このところ、呼吸が整ってきましたよ」
「……そうですか」
神官も信者たちのためのベッドをひとつ独占させているのだから、いろいろ思うところがあるだろうに、それでも辛抱してくれて感謝しかなかった。
神は信じられなくても、彼らのことだけはイザベラも信じることができた。
「ところで、私は最近仕事が忙し過ぎて、なかなか眠れないんです」
「それはいけませんね。また仕事を増やされましたか?」
「母と私を食べさせ、父のためにできることをしなければなりませんから」
そうイザベラが薄く笑うと、神官は黙って奥の部屋に引っ込み、ひとつ壺を持ってきた。
「それは?」
「葡萄酒ですよ。他の皆さんには内緒ですよ。眠る前に一杯飲めば、よく眠れます」
教会では庭で葡萄を育て、それを酒にして売ることを認められていた。イザベラの事情をよく知っているため、それを分けてくれたのだろう。
イザベラはその壺を抱き締めた。
「……ありがとうございます」
──これで、復讐できると、そう思ったのだ。
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