第18話・やっと聞いてくれたね
青柳の車の中で、二人は全くの無言だった。青柳は辞表を叩きつけた手前、赤城に話しかけづらいし、赤城は雨に打たれ濡れた体を拭こうともしない。
気まずい沈黙の流れる中、赤城は唐突に質問する。
「青柳、きみは確か、六大出身だったね。」
「そうですが。」
いきなり何の話をしだすのか、質問の意図を理解しかねる青柳に、赤城はさらに続ける。
「知っていたか。鈴木社長は中学までしか出ていない。きみの言うところの、『下流』な教育しか受けていない。」
尊敬する鈴木社長の最終学歴が中学卒業のこと。そして、業界のほとんどを大学卒業の人間たちで占めるコンサルタント業界において「下流」とは暗に赤城に対しての揶揄だったのだが、本人の前では決して口にしたことがないにもかかわらず、赤城がそれを知っていることに衝撃を受けた。
「『コンサルをする人間は相手の裸を見る。相手に心から信頼してもらえる人間にならないとコンサルタントなんてなれない。』」
その言葉に青柳は絶句する。鈴木社長が常々口にしていた言葉。
「相手に信頼してもらうにはどうすればいいか、簡単だ。こちらも信頼してそのことを相手に伝えればいい。信じ続ければいい。相手と同じ目線に立てばいい。」
濡れた髪をかき上げながら、赤城は微笑む。
「だから人間相手の仕事はやめられない。」
それきり赤城は無言になる。青柳は初めて、赤城の後ろに鈴木を見た。鈴木と同じ目をしている赤城に仕えていることを、少し、誇らしく思えてきた。
青柳の運転する車は心なしかスピードを落とし、丁寧な走行を始める。
雨の音だけが車内に響いていた。
*
健は傘も差さずに川原に居た。昔家族と一緒に来た川原。枯れ木のような桜に雨があたり、悲鳴を上げているようにも聞こえる。
(『だったら』、彼の腕はどうなる?)
先ほど赤城に言われた言葉が頭の中に反響する。一日中歩き続けて足が痛い。
(『だったら』、どうする?)
さっきから頭の中で声が鳴り響く。うるさい。耳障りだ。
(『だったら』…)
「うるせぇんだよ!」
健は誰もいない川原で叫ぶ。そして目の前にある桜の木を殴りつけた。手が木の表面にこすれ、皮がむける。じんわりと血がにじんでくる。健は一度では治まらないのか、何度も何度も木を殴りつける。かすかな痛みが確かなものに変わり、木の表面には赤いしみができていた。
渾身の力で殴りつけ、そのまま座り込む。肩で息をしながら、皮がむけ、血が流れ出ている右手の指に目を移す。そしてそのまま手を組む。痛みがあるが気にしない。額を手に寄せるとうなだれた。
全身に雨が当たる。冷たい。雨の音しか聞こえない。雨が髪の毛を伝い、指の傷に触れる。しみて、痛みが広がる。関係ない。目は閉じなかった。雨が砂利に当たり、跳ね返るのが見える。雨の音に混じり、砂利を踏む音が聞こえてくる。徐々に近づいてきて、目の前で止まる。そして健に当たる雨が止まった。
健は顔を上げなかった。すぐに立ち去ると思ったし、顔を上げるのもおっくうだったからだ。しかし、健の想像と違い、足音の主は全く動かなかった。
健が顔を上げると、そこにレイが立っていた。
「見ぃつけた。健ちゃん探したんだよ?」
そういえば、「棒」で待ち合わせしていたことをすっかり忘れていた。今の健にはどうでもいいことになっていた。
「健ちゃん、怪我してる。早く消毒しないと…。」
「余計なことすんなよ。」
しゃがみこみ手を取るレイ。その手を振り払う健。レイは傘を投げ出し倒れこむ。レイは「そうだね。ごめん。」と言いながら傘を取り健の前に立つ。
しばらくの間、二人は無言だった。雨は降り続いている。
「俺のせいじゃねぇよ…。」
健は先ほどのことを思い出し、吐き捨てる。レイは何も言わない。
「ど素人のくせに、俺に注文ばかり付けてきやがってよ。」
「…そうだね。」
「俺はこの仕事で十年も飯食ってきてるんだ、それなのにてめぇの都合ばかりで話進めてきやがってよ…。」
「そうだね。」
健は徐々に興奮し始め早口になっていく。
「だから、人様舐めてるとどうなるか教えてやったんじゃねぇか。」
「そうだね。」
「…あいつが悪いんだよ…。」
「そうだね。」
「…なんで、怪我なんかするんだよ。」
それまでの興奮とはうってかわり、低い口調で言葉を出す健。レイはその言葉には反応しなかった。
「利益飛ぶようなこと言ってきてよ…。あまりにもそれが続くから周りの人間、やる気無くしてよ…。ちょっと抑えるように頼んだら、『誰に使ってもらってると思ってるんだ。変わりなんか、いくらでもいる。』なんてぬかすからよ…。」
健の言うとおり、この三か月前の事故の原因は、青柳にあったのだ。
もともと、労働者を低く見ている青柳が、現場で軋轢が生じるのは当然のこと。しかも、その原因を「自分に歯向かってくる低学歴の人間の言葉」として受け入れなかった。
青柳の要求に正当性があればここまで関係は悪化しなかった。青柳の要求は「コストを下げるために材料の質を落として、そのうえで強度を保て。」や、「施工を早めるため、労働時間を延ばせ。」といった、人を人とも思わぬ態度であった。
そんな言葉、最初はみんな無視していたのだが、そのうち毎日来るようになり、作業員の意欲も下がっていた。
見かねた健がみんなの間に入り、青柳には少し静かにしていてもらおうとしたのだが、青柳は聞き入れなかった。
「プロなんだから、客の意見を聞き入れて当たり前。」
そんな言葉を面と向かって言われた健は思わず肩につかみかかった。健のいきなりの行動に慌てた青柳は、健の手を振りほどくために必死でもがく。暴れ出したのではないかと思うほどの必死の抵抗に、手の力が強くなっていく健。
その時、はずみで健の手から青柳の肩が離れ、運悪く階段を転げ落ちてしまう。幸いにも青柳の意識ははっきりしていたが、腕の骨を折る重傷。現場は騒然となったのだった。
その現場には、赤城も居合わせ、ことの一部始終を見ていたのだった。健はその場を逃げるように立ち去るのであった。
「ちょっとビビらせるだけでよかったんだ。なのにあいつがあんなに暴れるから…。」
健にとってそれが本心だった。今までだって道理に合わない客は大勢いた。そのたびに頭を下げていては商売にならない。話し合える時ならいざ知らず、行ってわからない輩には力で抑えるしかない時もある。現場にいる職人としてのプライドもあるが、あくまでも相手が客ということもしっかり頭にはおいてあった。事実今まで同じことをして相手に怪我をさせたことなど、ただの一度もなかった。
「あいつが悪いんだよ。」
同じ言葉を繰り返す健。
「そうだね。」
レイの言葉を聞き、違和感を覚える健。
「なんだよ、さっきから『そうだね』しか言わねぇじゃねぇか。」
「だって、そう言ってほしいんでしょ。」
健の耳にはレイの言葉が聞いたことのない、全く別の人間のものに聞こえた。今までのレイとの会話を思い出して寒気がする。レイは、自分に対して「そうだね。」という言葉しか返していないことに気付いたからだ。いつからなのか、思い出せもしない。俯いていた顔を上げ、レイの顔を見る。全くの無表情。二つの目から注がれる視線に恐怖すら覚える。
レイがしゃがみ目線を合わせてくる。レイの目には怯える健の姿が映し出されている。レイが言葉を出す。
「やっと聞いてくれたね。」
言葉の意味を図りかねる健に笑顔となったレイが続ける。
「待ってたよ。私の言葉を聞いてくれるのを。」
ますます意味が分からない。レイの言葉なんていつも聞いていたじゃないか…。
「もしかして、ずっと気が付かないんじゃないかと心配しちゃった。」
雨の中踊るようにくるくる回るレイ。遅ればせながらレイの言葉の意味に気付く健は気恥ずかしさから吼えるようにレイに話す。
「ずっと試してたのかよ。」
「だって半年だよ。ここまで気づかないと思わないでしょ。」
からかうように、しかしとても愉快そうに笑いかけるレイに少しのイラつきを覚える健。レイはそのことに構いもせずに話し続ける。
「初めて会った時のこと、覚えてる?健ちゃん印象最悪だったんだよ。」
健がレイの勤める店に初めて訪れたとき、その時点で健は酔っていた。仕事仲間と三人で飲みに来ていた健は、景気よく飲んでいた。その時偶然テーブルに着いた一人がレイだった。大いに盛り上がる健たちだってが、その勢いはエスカレートし、周囲の人間の目に着き始めた。
その時グラスを持って立ち上がった健がバランスを崩し、隣の席に居た客に酒をかけてしまう。普通であれば一言謝れば済んだのであろう。しかし先ほどからのバカ騒ぎで疎まれていた健たちは酒をかけてしまった客から殴られる羽目になった。
そこで健たちが大人しく引き下がるはずもなく、健が殴り返すと、乱闘になった。
そして店内は蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、最終的には健たち三人と店に居た客、十三人との大乱闘になってしまった。
事態を収拾するために、黒服が出てきて客すべてを追い出した。健たちは人数の少なさからかなり殴られたようで三人が三人とも顔にはあざを作っていたが平然としていた。人によってはむしろ、相手の方が重傷を負っていて、店をたたき出されたことでお互いの熱は冷え、外での乱闘には至らなかった。そしてもちろんその時店で暴れた十六人は出禁となった。
事態を収めた後オーナー指示で店を閉め、全員での掃除が始まった。
レイが健たちの座っていた近くを片付けていると、汚い財布が落ちていた。中学生が使うようなマジックテープで留める財布。本当は見てはいけないのだが、ちょっとした興味から中身を見てしまった。中には現金、免許書、カード類…免許書を確認するとさきほど酒をこぼした男の写真があった。佐竹健。これだけかと思い、財布を逆さにすると一枚の紙が落ちてくる。それはぼろぼろの写真であった。その写真には、四人家族が微笑んで写っている。
その写真を見たレイは目頭が熱くなってきた。
みんなに何か欲しい飲み物がないかと尋ね、外に出る口実を作った。外に出ると免許書の男が何かを探すように地面を見ている。
レイはその視界の中に財布を入れる。健は素早く財布を手に取り、差し出した人間に礼を言う。
「あんたが見つけてくれたの?サンキュー、助かったよ。」
あざだらけの顔を笑顔にする健。レイは思わず聞いてしまった。
「それ、大切なの?」
「そりゃそうだろ。」
健は即答した。金やカードのためにではないと、すぐにわかる探し方。レイはその場で自分の仕事用ではない携帯電話の番号を教えていた。
「それから、ずっとずっと待ってたんだよ。」
穏やかな笑みを浮かべながら健の頭を撫でるレイ。
「私の言葉聞けたなら、何をしなきゃいけないのか、わかるよね?」
そんなことはとっくにわかっている。しかし今更という感覚が二の足を踏ませているのだ。
「でも…。」
「『でも』じゃない。」
「だってよ…。」
「『だって』もない。」
どうやらはっきりと返事をしなければこの場を収めるつもりはないようだ。
「あー、もうわかったよ。やりゃいいんだろ、やりゃ!」
健が観念して叫ぶと、レイが満面の笑みでこう答える。
「そうだね。」
その言葉を聞き健は左の唇をひきつらせた。
「あのさ…。その言葉、辞めてくれねぇか、トラウマになりそうで。」
レイは立ち上がり、健に向かって腕を伸ばす。そして楽しそうに繰り返す。
「そうだね。」
こいつには敵わないんだろうな…。そんなことを考えながら、健はレイの腕を取り立ち上がる。そして二人、一つの傘で歩いていく。傘は健が持ち、寄り添って川原を去る。その途中、レイがとても話しづらそうに、健の顔を見つめた。
「健ちゃん、私、謝らなきゃいけないんだけど…。」
「何を。」
「私、二十二って言ってたけど、ほんとは三十超えてるんだ。」
レイのあまりの告白に、健は傘を落としていた。
*
病院では夜にもかかわらず、検査のため、あわただしく看護師たちが動き回っていた。本来、この時間に検査をすることはありえないのだが、清が今すぐ帰るとわめいた。
病院としてはそのまま退院させても問題はなかったのだが、医療不信の騒がれている昨今、また倒れられたら、自分のダメージになると判断したのだろう。特例として検査を請け負ってくれた。清の隣でにらみをきかす、吉子に恐れをなしたからではない。おそらくない。
血液検査やMRIなどの精密検査を重ねた。結果がすぐに出るものと、そうでないものがあるが、MRI、脳波、心電図…。もろもろの検査結果から医師は清の体について、「問題なし。なぜ倒れたのかはわからない。」と結論付けた。だらしなく白衣を着ている医師に吉子は噛みついたが、清が納得しているようなので、不承不承、吉子も怒りの矛を収めた。
病室で清、吉子、徹郎の三人がいる。清はベッド、吉子は丸椅子に座り、徹郎は扉の近くに立っている。吉子は近くの売店で買ってきたリンゴの皮をむいていた。
「まぁ、原因はわからなかったけど、何事もなくてよかったよね。」
「ん…。まぁな。」
清は相変わらず、憮然とした顔をしている。吉子は、むき終えたリンゴを紙皿に乗せ、清の前に差し出す。
「どうせなら、このまま少し休んだら?お父さん、働きづめだったでしょ。」
「そのことなんだがな。明日退院したら、店閉めるわ。」
「うん、その方が…。何言ってるの?」
「店、閉める。そう言ったんだが。」
吉子と徹郎は言葉を失うしかなかった。
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