第16話・清と弓
清は真っ暗な空間に座っていた。上下左右すべてわからないのだが、膝を曲げている感覚があるので座っているのだろうと清は思っていた。
(ついに何もなくなったか。)
今までどれほど他人を支えてきたのだろう。どれほどの苦渋を舐めてきたのだろう。どれほど、孤独だったのだろう。そんなものすべてから逃げようとした結果がこの暗闇だとしたら、いったい、自分の人生はなんだったのだろう。
弓子からは愛想を尽かされ、「学生さん」からは見限られ、そこまでして、自分のしたいことはなんだったのだろう。
自分自身、こんなにも弱いとは思わなかった。ただ、店を失うだけと思っていた。それでどうなることでないと自分の生き方を過信していた。間違っていたのかもしれない。
暗闇にただ一人いる清には、すべてがわからなくなっていた。いや、わからなくなったからこそこんな暗闇に居るのかもしれない。
(お父さん、ごめんね…。)
吉子の声が暗闇に響く。次に聞こえてくるのは誰かがすすり泣く声。突然目の前が開けてくる。そこに広がった光景は見慣れない部屋を上から見下ろしている。どうやら天井近くに浮かんでいるようだ。消毒液の匂いと、単調な電子音。そしてベッドに眠る自分の姿と傍らで泣いている吉子の姿だった。
「どうだい、自分の娘を泣かせている気持ちは。」
こんなことを言う人間は一人しかいない。
「お前が出てきたってことは俺もそっちの仲間入りって訳かい。」
目の前には弓子が立っている。同じ目線ということは弓子も浮かんでいるのだろう。
「あんたはまだ片足突っ込んでるだけだよ。」
「てことは、今見てるのは…。」
「そう。今現実に起きていることだ。」
清にはにわかに信じがたかった。元来、目に見えることしか信じていない清にとって、霊現象や、魂の存在など、鼻にもかけていなかった。
「ほお、それならどうしようもねぇな。半分死んじまってるなら、じきにもう半分も死んで、あの世行きってことじゃねぇか。」
清は振り返り背中越しに話す。清には見えない弓子の表情は険しくなっていく。
「あんた、それでいいのかい。」
「いいもなにも、俺の意志は関係ねぇだろ。これが俺の寿命だよ。」
「それで後悔しないのかい。」
「お前もよく言ってるじゃねぇか。『寿命なら後悔しない』って。」
清は弓子に向き直る。そこには目に涙をため、歯を食いしばっている弓子の姿があった。
清は自身の目を疑った。弓子が泣いている姿を見たことがなかったからだ。
「あんたがそこまで馬鹿だとは思わなかったよ。」
「いつも後悔してねぇって言ってるやつが何言って…」
「あんたに、子供の成長を見守れない気持ちが…子供が泣いてる時に支えてやれない気持ちがわかんのかい!」
死んだことに後悔はない。自分は助からなかったが、息子の命を守れたのだ。だが、弓子は自分が取った行動で家族がバラバラになり、一家に重荷を背負わせたことに責任を感じていたのだ。
「あんたが死のうが生きようが、そんなことはあんたの勝手さ、好きにしな。ただね、あんたの身勝手に付き合わされて振り回される周りの身にもなってみな。」
弓子はもう泣いていない。清を睨みつけ、生きていたころさながらに叱り飛ばす。懐かしい弓子の物言いに、清は重々しく立ち上がる。
「誰が身勝手だって?」
その声には今までの情けなさは微塵もなかった。その声を聞き、弓子はからりと笑いながら悪態をつく。
「あんただよ。死に方くらい、もっと慎ましく逝きな。」
「縁起でもねぇな。」
「何言ってんだい。人は死ぬ。人だけじゃない、生まれたものは必ず死ぬんだ。だったら、死に方くらい粋に逝かなくてどうすんだい。」
「違ぇねぇ。」
清は弓子に背中を向ける。そしてゆっくりと歩き出す。背中越しに弓子に質問する。
「弓、後悔してねぇか。」
それは幾度となく、しつこいほど重ねてきた質問だった。弓子はからりと笑う。自分を取り戻した夫を後押しするように。
「当たり前だろ。」
「そうかい。弓、行ってくる。」
「あいよ。」
弓子は歩き出した清を黙って見送る。先ほどの激しさが嘘のように。もう清の背中を見られることが少ないことをわかっているように愛おしく清の背中を見送っていた。
*
吉子は単調な電子音に目を覚ます。清の様子を見るために病室に入り、泣いているうちに疲れて眠ってしまったようだ。窓の外を眺めると、日はとっぷり暮れている。腕時計を見る。午後七時を少し回ったところ。一時間ほど眠っていたことになる。丸椅子の上で不自然な体勢で寝ていたためか、首や腰など体のいたるところが痛かった。
立ち上がり背筋を伸ばしながら体をほぐす吉子。清はまだ目覚めていないようだった。
「さっきよりは、顔色がいいみたい…。」
そのことで少し安心した吉子は病室を出る。病室の斜めにあるソファーでは徹郎が口をだらしなく開けて眠っていた。
(こんなところで寝るなんて…。)
自分が病室で眠っていたことを棚に上げ、吉子は徹郎の無防備さを心配する。案の定というべきか、吉子が徹郎の隣に座っても目覚めなかった。
(なんでこんな人が好きなのだろう…。)
吉子は今更ながらの疑問が頭に浮かんでいた。
徹郎は別段かっこいいわけではない。身長も服を着まわせるくらいだし、優柔不断で物事をはっきり話さない。なのに、なぜか惹かれる…この際はっきりとするが、惹かれているのだ。しかし吉子にはその理由がわからなかった。
隣で眠る徹郎を見る。開いている口からは、よだれが少しこぼれていた。
(どうして徹っちゃんのこと、好きになったのかなぁ…。)
吉子が徹郎の顔を見つめていると、気持ちよさそうな声を出しながら、徹郎の目が開く。
まさか目の前に吉子の顔があるなんて思わない徹郎は驚きの声を上げながらソファーから転がり落ちた。背中から落ちた徹郎は腰のあたりをさすりながら吉子に声をかける。
「吉子ちゃん、おじさんどう?」
「わからないけど…。さっきよりも顔色は良かったよ。」
「それはよかった。」
笑顔でソファーに座り直す徹郎。先ほどと同じ近さになり、どうしても意識してしまう。
「小清水さん、ありがとう。」
「どういたしまして…。吉子ちゃん、何のこと?」
怪訝な顔をする徹郎に吉子は心の中で、(隣に居てくれて。)と言うのだった。
「病院にまで付いてきてくれたから。私ひとりじゃ何もできなかったと思うし…。だからありがとう。」
徹郎は納得のいった様子で答える。
「そういうことか。大丈夫だよ、おじさんが心配なのは俺も一緒だから。」
その時廊下から足音が響く。そして足音の方向から場違いなくらい明るい声が飛んでくる。
「二人ともここにいたのかよ。てことは、親父もこの中?」
二人は同時に声の方向を向く。声の主は健だった。突然現れた健は、肩で息をしながら状況を知ってか知らずか、癇に障るくらい明るい声で話す。吉子は赤城の話を思い出し複雑な気持ちになる。徹郎の顔からは一気に笑顔が消えた。
「なに二人とも辛気臭い顔してんだよ。もしかして親父、死んだ?」
からりと、弓子によく似た笑い方をする健。今の吉子にはそんな笑い方まで腹が立った。
「縁起でもないこと言わないで。お父さんは今眠ってます。」
吉子は怒りを抑えながら言葉を出す。健はそんなことに構いもせず、さらに明るく振る舞う。
「そりゃそうだろ。あの親父が簡単にくたばるわけないもんな。」
「あんた何しにきたの。ここは病院。頭以外は大丈夫そうなんだから帰んなさい。」
「そんな言い方ないだろ?親父寝てんなら起こしてさ、レイと五人で飯でも食いに行こうぜ。しかたねぇ、飯代くらい出してやるから。」
健のあまりの物言いに立ち上がり、健と向き合う吉子。
「あんたねぇ…。」
「誰のせいだと思ってるんだよ…。」
その時吉子の後ろから低い声がする。吉子が声の方向に振り返ると徹郎が自分の拳を手で包み、力いっぱい握りしめていた。
「徹っちゃん、何がだよ。」
「店に客がいなくなって、おじさんが倒れたのはいったい誰のせいだと思ってるのかって聞いてんだよ。」
吉子はもちろん健も何のことだかわからない様子。健は薄笑いを浮かべながら徹郎に答える。
「それが俺のせいってか?徹っちゃん、冗談きついねぇ~。」
まともに取り合わない健に徹郎はさらに言葉を続ける。
「ネットにきみのトラブル、全部書かれてんだよ。きみがおじさんの息子で、店に入り浸ってるってことと一緒に。」
吉子が泊まりにきた晩に、徹郎が見つけた書き込み。それはすべて「棒」に関する中傷、そして清と健のことが面白おかしく書いてあったのだ。
「そんなの嘘じゃねぇか。そのこと一番知ってるの、徹っちゃんだろ。」
健は明らかに狼狽している。それもそのはず、実際に「棒」に顔を出したのは十年ぶりなのだから。そんなことに構いもせず、徹郎は健に吐き捨てる。
「店に来てればね。ただ、きみとのトラブルに巻き込まれたくなくて来なくなった人には関係ない。」
書き込みの内容は本当に店に訪れていた客のものより、何も知らないであろう人間の、面白がっている書き込みがほとんどであった。
「そんなことで俺のせいにすんなよ。関係ねぇかも知れねぇじゃねぇか。」
「関係なかったら、なんで店があんな風になってんだよ。昨日店の様子、見ただろ。」
次第に二人の声が大きくなっていく。その声を聞き、看護師が飛んでくる。
「あなたたち、何してるんですか。ここは病院ですよ。」
その言葉は二人の耳には届いていなかった。健は徹郎から視線を外し、言葉を認めたくないのか、言い訳がましく徹郎に言う。
「大方、親父が客でも殴ったんだろ。」
その言葉に徹郎はゆっくりと立ち上がり、健に近づく。そして拳を振りかざしながら、叫ぶ。
「客を殴った?こんな風にかよ!」
「徹っちゃん!」
健の顔めがけて拳を突き出す徹郎。徹郎の名前を叫ぶ吉子。健は拳を手のひらで受け止める。そして徹郎の拳を押し返し、体ごと突き飛ばす。
「徹っちゃんに殴られるほど、ぬるくねぇよ。」
健は倒れた徹郎の体に馬乗りになり、胸倉をつかむ。
「あなたたち、いい加減にしなさい。」
看護師の怒声が飛ぶが、健は気にもしなかった。健は身動きの取れない徹郎に向かい、拳を振り上げる。その時、病室の引き戸が開く。
「なんだ、騒々しいな。」
その声に看護師を除く三人が一斉に見やる。病室から出てきたのは、清だった。
「なんだ、お前ら。こんなところで何してんだよ。」
相変わらずの人を食ったような物言いに、吉子は呆然としながら答える。
「お父さん、倒れたこと覚えてないの?そのまま目を覚まさないから…。」
吉子の心配をよそに、清がさらに続ける。
「人間、眠ってりゃ目開けねぇだろ。」
何を言っても無駄だとわかった吉子は、ここで問答するよりも先に清の体の安静を優先することにした。
「お父さん、それよりちゃんと体検査してもらおう?」
清を病室に戻そうとする吉子。そんな二人を健が呼びとめる。健は立ち上がり、俯いている。
「待てよ…。俺のせいかよ…。店も、親父が倒れたのも…。」
清は健と目を合わせずに答える。
「関係ねぇよ。」
その言葉に健は少し安心する。どんなに強がっていても、先ほどの徹郎の言葉を気にしていたのだ。健から解放され、埃を払いながら立ち上がった。
「看護師さん、検査お願いしてもいいですか。」
「はい、それでは手続きを行いますので、こちらへどうぞ。」
看護師を先頭に清、清を支える吉子、徹郎と続く。
「俺もついて行ってやるよ。」
健が全員に向かって、声をかける。
「健。」
清は後ろにいる健に背中越しに話しかける。
「二度と顔を見せないんじゃなかったのか。」
健は、清の言葉が重くのしかかる。確かに昨日清に向かって言った言葉だった。
健以外のみんなは、廊下を歩いていく。健は立ち去っていく四人の背中をただ眺めているしかできなかった。
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