第14話・病室

吉子と徹郎は病院の廊下にいた。吉子は廊下にあるソファーに座り、徹郎は落ち着かないようにうろうろしている。病院について三時間、清はいまだに目覚めずにいた。医者が言うには、「命に別状はない。しかし、目覚めない原因はわからない。」ということであった。廊下は静かだ。徹郎が歩く音だけが響いている。たまに清が眠っている部屋に入りすぐに出てくる。

「大丈夫、すぐに目を覚ますよ。」

 徹郎は笑って言うが、その笑顔はぎこちない。徹郎自身も無理をしているのがわかる。そんな様子の徹郎に、「座ったら?」と言ったのだが、「立ってた方が落ち着くから。」と断られた。

(落ち着くって何よ。形だけでも安心させてくれていいじゃない…。ただ隣に居てくれるだけでいいのに…。)

 吉子は母の葬儀のことを思い出す。縁起でもないと頭から追い出そうとするも、頭からこびりついて離れない。そういえばあの時もこうして一人だったことを思い出していた。


 弓子の葬儀に健の姿もなかった。そのことを清は咎めなかった。いや、清は弓子のことで健を咎めることもしなかった。

「なんで健に何も言わないの。」

吉子がどれだけ言っても、「あれが弓の寿命だったんだ。」と答えるだけだった。

 葬儀はしめやかに行われ、天候は細かな霧雨だった。涙雨だと吉子は思った。清は傘を差さなかった。吉子やほかの弔問客から差し出された傘には頑として入ろうとしなかった。

 葬儀も終わり、店に戻るなり清は吉子にこういった。

「就職したら出て行けよ。」

 清が突然なことはわかっている吉子でも、これには唖然とするしかなかった。

「お父さん、いきなり何言ってるの?」

「もともとそのつもりだった。だからさっさと仕事見つけろよ。」

 吉子にはそんな清の物言いに言い返す体力は、その時なかった。

 そしてその一年後、吉子は就職が決まった。わざと家から通える場所を選んだのだが、毎日のように清から「いつ出ていくんだ?」と聞かれ続け、ついに半年後吉子は一人暮らしを始めた。八年も前のことである。それ以来清は一人で店を守ってきたのだった。


「勝手なんだから…。」

 吉子は、独り言のようにこぼす。徹郎は自分が言われたかのように反応する。

「ごめんなさい…。」

「え?なにが?」

「勝手だって言ったから…。」

「ごめん、小清水さんに言ったわけじゃないんだ。」

「じゃあ健君?」

「ううん、お父さん。」

 嘘だ。本当は自分を含めた周りの人間たちだ。清がやさしいのは誰よりも吉子が知っていた。自分のことを周りの人間に話さず、いつも一人でいる。どんなことがあっても誰かに頼ろうとしないのは、迷惑をかけまいとしているだけ。清は勝手だ。しかし、清はいつも清の思いやりで周りに接している。対して吉子はどうだったのだろう。弓子が死んで誰よりもつらいはずの清に気を使わせていた自分自身はどうだったのだろう。雨にわざと濡れて、涙を隠していたあの時の清に今の自分ならどんな言葉をかけられるだろう。

(何もできないな…。隣に居ることさえも。)

 吉子は自然と涙がこぼれた。清が倒れて初めてどれほど支えていてくれたか肌で感じた。子供である自分を見守っていてくれたかを感じた。次から次へと涙がこぼれてくる。泣いても泣いても止まることがない。

「このままお父さんが目覚めなかったら…。このまま死んじゃったらどうしよう…。」

 吉子の言葉に徹郎は黙って吉子の隣に座り、手を握る。それだけだ。慰めの言葉をかけるでも、抱きしめるでもなく、ただ手を握るだけ。今の吉子にはそれだけで充分だった。

 それから吉子は涙を隠すこともなく、徹郎にぽつぽつと語りだした。

「お母さんが死んでからね…。健は出て行って、家に二人きりになったんだ。」

 徹郎は黙って話を聞いている。

「それからお父さん、『家を出ろ、出ろ』って言うようになって。せっかく家から通えるところ選んだのに、『いつになったら出ていくんだ。お前がいない方が清々する』とか言っちゃって。今にして思えば、お父さん知ってたんだろうなぁ…。私がお母さんの写真見るたびに泣いていたこと。」

 徹郎は自分がつらそうな顔をするが、言葉をはさまないでくれた。

「勝手なのよ。いつもいつも自分一人で背負い込んで、それで平気な顔して…。ほんと、自分勝手なんだから。」

「おじさんらしいや。」

「ほんとにね。」

 吉子と徹郎は二人で笑い出す。吉子は徹郎に先ほどもした質問を繰り返す。

「ねぇ、小清水さんはなんでお父さんを支えてくれるの?」

「さっきも言ったじゃない。おじさんのためじゃないから、聞かれても困るよ。」

 徹郎は苦笑いしながら答えた。徹郎の言葉に嘘はなかった。実際に徹郎が「棒」に通う理由は徹郎の父、崇のことを思い出すためでもあるが、それは理由の半分だった。残りの半分の理由、それはもちろん清のためであった。


 吉子が家を出て半年してから徹郎は高校を卒業し、家に戻ってきた。崇のいない家に初めて帰ったとき、何とも言えぬ焦燥感があった。徹郎は崇の死に目にも間に合わなかった自分を責めた。進路など決まっていなかった。学生生活中は意識しないようにしていた、崇の死は進路相談のころになって徹郎の心を削り取った。両親ともにいない徹郎にとって三者面談の時間は耐え難いものだった。

 清に言うわけにもいかない。清には店がある。弓子もいない店を空けてまで、頼むわけにはいかなかった。それ以来徹郎は進路に対して後ろ向きな感情を抱き、あえて進路を見ないようにしていた。

 そのことを後悔したのは、今、誰もいない部屋で一人過ごしているときだった。どんな形にしろ、身の振り方が決まっていれば忙しさで見て見ぬふりをすることができた。だが、何の進路のない徹郎にとってはこの部屋は監獄に等しかった。

 いや、監獄の方がましとすら思えた。

 監獄には、崇の思い出がないからだ。

 アパートにいつもしていたたばこの匂いもだいぶ薄れている。

(ここは、なるべく早めに引っ越そう…。でも、金もないし…。)

 荷物をおいた徹郎は、ふらふらと外を歩いていた。どこを見ても、父と一緒に歩いたことのある場所だった。懐かしく思えるはずの道も今は苦痛でしかなかった。道を歩くだけで涙が出る。そんなことがあるなんて思ってもみなかった。

 ふと足を止める。目の前には「そば処 棒」の文字。いつの間にか、一番歩きなれた道を歩いてしまっていたらしい。家の次に、崇と一緒にいた場所…。こんな情けない姿、清にだけは見られたくはなかった。徹郎は踵を返すと、そのまま帰ろうとしたが、店内から清の声が飛んできた。

「徹。入ってこい。」

 そこで無視することもできた。しかし昔からお世話になった清の言葉を無視できるほど、無礼な態度を徹郎は取りたくなかったのだ。

 実に三年ぶりに入る店内。六人で食卓を囲んでいた時が懐かしい。

「そこで待ってろ。」

 それだけ言うと、徹郎を椅子に座らせ、清は厨房に入っていく。幼いころは、あんなに高く感じた天井も、今ではこんなに近くに感じることに戸惑いを覚えた。それに今日は定休日ではないはずなのに、店には誰もいない。

「おまちどう。」

 清がお盆にどんぶりを乗せて持ってくる。かけそばに大ぶりの海老天が二本乗っていた。

「おじさん、今持ち合わせが…。」

「家族から金とるやつがどこに居んだよ。卒業祝いだ。さっさと食え、伸びちまうぞ。」

 その言葉に徹郎はやっと理解した。自分のためにわざわざ店を休みにしてくれたことに。そして、清は徹郎に甘えてほしかったことに。鼻水を流しながらそばをすする徹郎に、清は、「きたねぇな…。」とつぶやくのだった。


 それからの徹郎はまるで本来の自分を取り戻したかのように働き口を探した。いくつもの面接を受け、何度も落ちた。しかし、徹郎は「あのアパートから引っ越さずに行ける職場」にこだわった。理由はもちろん、「二人の親父の近くにいるため」。

 そして一年後、派遣社員という形ではあるが、地元の企業に就職をすることができた。その派遣という形が吉子との交際に踏み切れない理由にもなるのだが。


「吉子ちゃんこそ、なんで帰ってきたの?」

 だしぬけに徹郎が尋ねる。吉子にとってそれは不意打ちに近かった。

「小清水さんがメールくれたから。」

 言ってしまった後、吉子は自分の言葉が何を意味するのか、聞きようによっては、徹郎が勘違いしてもおかしくないことを言っていることに気が付いた。

(…。私、何言ってんの?なんであんなこと言ってんのよ。小清水さんの顔みれないよ…。)

 自分自身の失言に肩を落とす吉子。顔を赤くしながら横目で徹郎を仰ぎ見る。徹郎の反応は、普段のそれと変わらなかった。

「そうだったんだ。嬉しいな、ちゃんと見ていてくれたんだ。全然返事がないからてっきり届いてないのかと…。」

(勘付いてない。よかった…。)

「私、お父さんの目が覚めてないか見てくる。」

「うん、いってらっしゃい。」

(なんだろう…。小清水さんと話してると、疲れる…。)

 吉子は自分ばかり振り回されているような、妙な心持ちとなっていた。


 清が眠っている部屋に入る吉子。中では酸素マスクをつけ、ベッドで眠る清の姿があった。部屋には単調な電子音が流れる。ベッドに近づき、清の顔を見る。その顔は穏やかなのか、苦しんでいるのか、わからないしかめっ面の清の顔があった。

「寝てる時くらいゆっくり休めばいいのに。」

 眠っているときまで、こんな表情をしている清に対して、そう声をかけるので精いっぱいだった。上下する清の胸を見ながら、吉子は病室に備えてある丸椅子に腰かける。

「お父さん、ごめんね…。」

 静かな病室。その中で電子音と、吉子のすすり泣く声だけが響いていた。

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