第13話・清と弓と学生さん
目を開けると、清は店の中にいた。
しかし、清は自分が先ほど倒れた記憶があった。なので夢の中にいることがすぐにわかった。
(なんで夢の中でまで店に居んのかねぇ…。)
夢の中の店を見回すと少し綺麗なように見えた。その綺麗さは掃除によるものではなく、どうやら老朽化していないことによるものだと気づく。
(なんだってこんな夢を見るんだか。)
よほどこの店に思い入れがあるのか、もしくはそれ以外の思い出が薄いのか。どちらもその通りだと思った。その時聞きなれた弓子の声がする。
「あんた、また来たのかい。」
「お前が来てるんだろ。」
弓子はからりと笑いながら清に詰め寄る。
「ぶっ倒れて、こっちに片足突っ込んでるやつが何言ってんだよ。」
「…違ぇねえ。」
こうして夢を見ている以上、生きてはいるのだろうが、どうにも実感がない。こうして弓子を近くに感じているからだろうか。そうではない。清自身に生きているという感覚がないのだ。店のこと、吉子のこと、徹郎のこと、そして健のこと。今すべてが重くのしかかっている。そんな時に弓子がよく夢に出てきて、清の中ですべてがあいまいになっているのだ。
「しかしなぁ…。お前はどうしてゆっくりしてねぇんだ。生きてる時にあれほど働いたんだ。少しは休めばいいものを…。」
「この店に居ることがあたしの『生きがい』なんだよ。」
「死んでるくせに。」とは口にできなかった。弓子が死んだとき、この店があるだけで弓子は生き続けていると思っていたからだ。
弓子は交通事故で死んだ。
原因は弓子の飛び出し。結果だけ見ればその通りだ。しかし本当の原因は違った。道に飛び出した健を庇ったのだ。
事故の日の朝、弓子と健は些細なことで喧嘩をした。中学生だった健は反抗期になり、両親の言葉にいちいち逆らっていた。そんなことも清と弓子は気にしていなかった。誰もが経験することだし、そんな自己を確かめるための行動には少しばかり嬉しくもあった。
健が大人ぶりたくて、店の酒を勝手に持ち出し同級生にふるまっていることも知っていた。
自分たちが子供のころはもっと過激なことをしていた…。そんなことを肴にしながら弓子と二人酒を飲んだりもした。
事故の朝、健は朝食を食べずに出ていこうとした。それを弓子が咎めると健は「そば臭くて食う気がしない。」と学校に行こうとした。
その言葉に激怒したのは、清ではなく弓子だった。
「あんた、いくら子供でも、言っていいことと悪いことの区別もつかないのかい。」
そう言いながら弓子は健の頬に平手打ちした。
「ふざけんな、クソババア。お前なんてくたばっちまえ。」
そう言いながら健は学校に向かい、家を飛び出していった。その光景を吉子も見ていた。
結局はよくある親子喧嘩でしかない。弓子もそんなに重く受け止めてはいなかった。しかし子供の健に折れさせるより、こじれる前にこちらから叩いたことを謝ろう。そう決めた弓子は中学校の帰り道まで迎えに行くことにした。清も止めはしなかった。
帰り道、母親の姿を見つけた健は向きを変え、一目散に走り出した。気恥ずかしさと今朝の怒りが入り混じっていたからだ。「待ちなさい。」と声を上げながら追いかけてくる弓子。後ろを振り返りながら健は弓子の足の速さに驚きながらも、悪態をつきながら逃げ続ける。
「待つわけねぇだろ、バーカ。」
上がる息で弓子から逃げる健。もう一度健が振り返ったとき、弓子が叫ぶ。
「危ない!」
今までと明らかに違う声に正面を向く健。すると目の前には、トラックが迫っていた。避けるにしてももう間に合わない。健は覚悟して目を閉じる。その時、横から衝撃が走る。あきらかにトラックのものではない。
目を開けるとそこには弓子がいた。かなり遠い位置にいたはずなのに、信じられない速さで追いつき、健を突き飛ばしたのであった。突き飛ばされた拍子に転んだ健は顔を上げる。目の前に弓子の顔。そして口が動く。
「よ・か・っ・た。」そう口を動かした弓子の顔は、笑っていた。
次の瞬間、トラックが弓子を弾き飛ばす。弓子の体はアスファルトを転がり、十数メートル転がり、ようやく止まる。健はその場を動くことができなかった。
しばらくするとパトカーと救急車のサイレンが聞こえてきた。健はただただ、その場に立ちすくむしかできなかった。救急車がその場に着いた途端、サイレンを止め、すぐに反転し、戻って行く。そのことで健は、母が助からないことを知るのだった。
家に帰るとのれんが店の中にしまわれていた。それはそうかと、妙に冷静な健がいた。中に入ると吉子が泣いていた。清は黙々と何か準備している。
「…ただいま。」
「なんで、逃げたのよ…。」
吉子は泣きながら健を睨みつける。その目はどれほど泣いたのだろう、真っ赤に充血していた。
「あんたが逃げなければお母さんは死ななかったのよ。わかってんの。」
吉子が泣きながら健に詰め寄る。健は何も言わない。そんな態度に吉子の言葉は鋭さを増していく。
「どんなことがあったのか知らないけど、あんたの勝手でお母さんは…。なんであんたじゃなかったのよ…。お母さんの代わりにあんたが…」
「吉子!」
吉子の言葉を遮り、清が吼える。その声に吉子はまた声を上げて泣き出してしまう。清は健に向き合うと、普段通りに声をかける。
「健、お前に怪我はねぇのか。」
その言葉は今の健にとって、残酷なものであった。健は何も答えずに出て行った。そして十年間、何の連絡もせずに昨日まで音沙汰がなかったのだ。
「健を助けたこと、後悔してねぇのか?」
何度ともなく繰り返している質問。そのたびに弓子は笑いながら答えたが、今回は違った。
「後悔してるよ。生きてるもんたちに、どんだけのものを背負わせているんだか。」
「誰も、なんも背負ってないだろうが。」
弓子はわざとらしいため息をつく。
「一番背負って、苦しんでるバカが何言ってんだ。」
清は苦笑するしかなかった。そこに少し高めの幼い声が聞こえた。
「本当ですよ、清さん。」
その声ははるか昔に聞いたことがある。この店、「棒」が開店して間もないころによく聞いていた声。
「いくら夢でも悪趣味過ぎやしないか。『学生さん』。」
「あなたの夢でしょう。お似合いです。」
憎たらしいことを言う。しかしその物言いを聞き、弓子はからりと笑ってみせる。
「その通りだね。学生さんの言うとおりだわ。」
不貞腐れるように椅子にもたれかかる清。もともと口下手な清が二人に勝てるとは思っていなかった。
「しかし、走馬灯ってこんなにいやらしいものなのかね。」
清がぼやくと、二人は二人なりの反応を示す。
「あたしはそんなもの、見る暇もなかったよ。」
笑いながらブラックジョークを飛ばす弓子。一方学生さんは冷ややかに、
「あなたも逃げられないってことでしょう。」
などと辛らつなことを言う。
「その恰好の時、逃げ回っていたやつが何言ってんだか。」
「逃げる先輩だからこそ、言えることがあるってことですよ。」
学生さんがこの店に居続けた理由、それは同級生にいじめられていたからだったのだ。
「逃げて、逃げて、逃げ続けて…。最後には逃げられなくなってこの店に居たんです。あなたもそこまで逃げてみますか?」
「わかってることを聞くなよ。」
「でしょうね。清さん、そーゆー根性なさそうですから。」
真顔で言う学生さんに、弓子は大笑いする。
「学生さん、わかってるね。そうさ、この人は自分ではなんも決められないんだよ。」
「お前らな…。」
二人が言うことはもっともだった。それは清自身が一番わかっていた。学生さんはこの店に逃げ場を求めて、清と弓子はその場所を学生さんに与えた。しかしこの子は自分の力でいじめを克服し、折り合いの悪かった親とも和解した。
「逃げてみたらどうです?一度逃げると癖になりますよ。」
「学生さん。この人、今逃げてんだから、追い詰めちゃだめだよ。」
清は大きく息を吐く。そこには、弓子が亡くなってから一人で店を切り盛りしてきた男の姿ではなく、状況に押しつぶされそうになっている一人の人間の姿があった。
「どうすればいいか、わからねぇんだ。」
一言、清がこぼす。二人は何も言わない。言う必要がない。
その瞬間に二人は消えてしまった。二人だけではない。店も何もかもが見えなくなってしまった。
清は闇の中、ただ一人取り残されていた。
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