第12話・恩と仇

次の日から向井は会社に来なかった。周りの同僚に聞いても何も知らないという。健はその日の現場上がりに向井のアパートに行く。二階建てアパート、一回の角部屋そこが向井の部屋だ。チャイムを鳴らす。反応はない。扉をたたき、向井の名前を呼ぶ。

「向井さん、どうしたんすかー。」

「ここの人なら引っ越したよ。」

 後ろから声をかけられる。振り返るとそこには白髪頭の老人が立っていた。

「引っ越した?向井さんが?」

「あぁ、昨日急にね。福岡に帰るってさ。『弟が就職決まってね。』って嬉しそうに話してたよ。」

(向井さんに弟なんて…。)

 健にはその言葉の意味をわかっていた。しかし理解したくなかった。向井は健のために辞めたのだ。健は気が付くと会社に走っていた。今は泣いてもいい。会社で泣かないために、走りながら健は泣いていた。

 健は会社に着くと社長室に飛び込んだ。鵜飼は新聞を読んでいる。机の上には明太子の箱詰めが置かれていた。

「社長、俺をバイトに戻してください!」

「向井のやつ、明太子工場に継ぐんだと。面白いよな、あいつ跡取りだったんだって。」

のんびりと語る鵜飼の態度に健は声を荒げる。

「何が面白いんすか…。向井さん、俺を社員にするために辞めたんでしょ。」

「そんなんじゃねぇよ。」

「ならなんでですか。納得できる説明してくださいよ。」

鵜飼は新聞を置き、健をにらむ。

「頭に乗るなよ、新入り。なんで一人の社員が辞めたことをいちいち説明しなきゃなんねぇんだ。」

 健は押し黙るしかない。こんなに静かに、有無を言わせずに怒る鵜飼を見るのは初めてだった。

「まぁ、食え。向井の工場の物だとよ。」

 そう言いながら、健に明太子を渡す。箱を開ける。中には大ぶりの明太子が並んでいた。健はそれを泣きながら食べる。

「うまいか。」

「うまいです…。ほんとにうまいです。」

「そうか。全部食っちまっていいぞ。」

「はい。」

 健はゆっくりと、味わいながら明太子を噛みしめていた。


 次の日から、健の仕事は一変した。今までアルバイトとしてどれほど周りの人間に甘えていたかを思い知らされた。しかし健は音を上げなかった。もちろん向井のためだった。

 覚えることは山ほどあった。道具の使い方、施工の進め方、やったことのないことばかり次々覚えていかなければならなかった。誰より早く出勤し、誰よりも遅くまで会社に残り、泊まりこむことも一度や二度ではなかった。苦手なことも、もちろんあった。頭を使う細かな計算などはどうしても人に頼りながらになったし、客の対応はいつも頭痛の種だった。

 そのたびに健は出欠の名前札を眺めた。そこにはまだ向井の札があった。赤文字のまま、返ることのない向井の文字。いつしかそれが健の支えになっていた。

 来る日も来る日も覚えることに追われる毎日。周りも見えないほどに猛烈に働き続けた健は、いつしか向井の後釜と呼ばれていた。さらに、年上の後輩から「佐竹さん」と言われ始めていた…。


(それなのに何してんだ。)

 健は現状を思い返す。三か月も無断で会社を休んでいるのだから、もうクビになっているだろう。

そんな状態でも生活できているのはレイに金をもらっているからだ。昨日店で使おうとした金も前日にレイにせびった金。初めこそ金を受け取ることを渋って、「必ず返すから。」と言いながら金をもらっていたが、半月過ぎ、ひと月過ぎとしていくことに、健の方から露骨に要求していった。金の使い方は、お決まりのギャンブルだった。

最初はすることもないのでふらっとパチンコに行き、ビギナーズラックで二万円ばかり勝ってしまった。あとはその時の感覚で足繁くパチンコに通い、よくて使った分が戻るだけ、大抵二・三万円負けて、ひどいときには十万以上負けていた。そのたびにレイに金をもらい、ギャンブルに明け暮れていたのだ。

そんな生活が二か月も過ぎたころ、ある噂を耳にした。それは「田んぼの真ん中にあるそば屋にはいかない方がいい。」というものだった。

「田んぼの真ん中にあるそば屋」で真っ先に思い浮かんだのは「棒」だが、健は全く気にしていなかった。しかし、心のどこかにはトゲのように刺さっていた。

そして健が店を尋ねる三日前、気にかかっていたものをはっきりさせるため、店の前を通ると、祝日にもかかわらず、客は徹郎以外誰もいなかった。わざと夜、あたりが暗くなり、窓から覗いても、中の様子は見えるが、中から外が見にくい時間を選び、ちゃんと確認したから間違いない。

そんな光景を目の当たりにした健はいてもたってもいられなくなった。そこでレイに飲みに行くと言い、実家であることは伏せたまま「棒」で金を使おうとしたのだ。少しでも、店を楽にするために。

(それなのにあのクソ親父ときたら…。)

 「帰れ」と言われた時のことを思い出し、健は壁を殴りつけた。

(そもそも、なんで俺があのクソ親父を助けなきゃなんねぇんだよ。いままで好き勝手に生きてきた親父をさ。)

 しかし健の中でどうにもしっくりこない。どうせ金はレイがくれたものだから、別にいいが、わざわざ帰ってきた息子を追い返す清の態度が気に食わないのだ。

(そうだよ。あの時点で俺は客だったんだから、文句くらい言えばよかったんだ。)

 そう思った健はすぐに着替えを済ませた。今回はニッカポッカではなく、普段着で。

(どうせ文句を言うだけだ…。帰りになんか買うために少し持っていくか。)

 先日店で使うためにレイからもらった金をポケットに突っ込み、健は歩いて店へと向かう。レイに電話をかけ、今日もあの店で待ち合わせの約束をする。

 途中救急車のサイレンが聞こえた。その救急車は清を乗せたものと知らない健は、今度こそ清に頭を下げさせてやると、意気込んで店に向かっていた。

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