第9話・弟の不始末

 店の外、少し離れたところにタクシーが止まる。タクシーからは赤城が降りてきた。目を細め、店の外観を眺める赤城。その表情はとても険しいものだった。道を歩き、店の入り口に立つと、ゆっくりと扉を開く赤城。本来、待ちに待ったお客の来店にすぐ反応するはずの吉子だが、先の徹郎とのやり取りですっかり呆けてしまっているのか赤城の来店に気が付かなかった。あまりに反応のない吉子に怪訝な顔をしながら赤城は声をかける。

「失礼、ご主人はいらっしゃいますか?」

「え…?あ、はい。います。…いや、いません。」

 完全に不意を突かれる形になってしまった吉子。その慌てぶりは、普段の吉子らしからぬものであった。そんな態度にも自分のペースを崩さずに淡々とここに来た目的を果たすため、質問を重ねる赤城。

「そうですか…。ご主人をここで待たせていただいても?」

 丁寧な口調ではあるものの、有無を言わせないプレシャーを吉子は感じる。赤城の長身が押さえつけるような何かがあるわけでもない。何か、内面から強く感じるものがあるのだ。断ることは出来ない…。しかし、ここで待つ以上お客であることには変わりない。落ち着きを取り戻した吉子は、赤城にこう告げる。

「どうぞ。…何かご注文はございますか?」

「いえ、大丈夫。」

赤城はいったん断る、がすぐに言葉を返し、「おすすめはありますか?」と尋ねた。その問いに対し、吉子は自信満々にこう答える。

「そばのカルボナーラ風です!」

 赤城は表情こそ崩さないものの、吉子の顔を凝視する。もちろん、そんなメニューはこの店にない。しかし昨日店に来たときにそばつゆがなかったはず。そのことを覚えていた吉子は、店にある材料で、何かつくることができないかと思い、思わず口から出してしまった。

 断じて、吉子がこの店で一度は作ってみたかった創作料理などではない。決してない。

 赤城はどうしたものかと思ったが、ここ来た理由は別にそばを食べに来たわけではない。何を注文しても構わないことに気づき、「ではそれで。」と答える。それと、ウーロン茶も頼んだ。吉子はとびきりの笑顔で注文を受ける。

「ありがとうございます!すぐにご用意いたしますので、少々お待ちください。」

 そう言いながら厨房に向かう吉子。その時、コーラの瓶を持っている徹郎とすれ違う。

「久しぶりのお客さんだから張り切って作って来るね。…小清水さん。それ、後で払ってね。」

 そのまま、スキップでもしそうな勢いの吉子。徹郎は客席に行くと不安しか浮かばなかった。

(吉子ちゃんが、お客に出すものを作って大丈夫なんだろうか…。)

 五秒ほど考え、徹郎は考えるのをやめた。少々独特のアイディアで料理をする吉子だが、味の方は…もちろん組み合わせ次第だけれど。吉子がウーロン茶を赤城に持っていく。

「お食事は今しばらくお待ちください。」

 厨房に戻ろうとする吉子に徹郎が声をかける。

「吉子ちゃん、大丈夫?」

「うん。料理はしばらくしてなかったけど、腕によりをかけて作るから。」

「…そう。がんばってね。」

 笑顔の吉子に徹郎は何も言えなかった。ただ吉子の料理で「棒」にとどめをささないことをわりと真剣に祈っていた。

 徹郎は客席に座り、吉子が料理を完成させるのを待っていた。横目で見慣れぬ客を見る。一切型崩れしていないスーツ。しかも吊るしではなさそうな遠くからでもわかる上等な生地。昨日来た女の子とはまた違う意味でこの店にそぐわない人間のようだった。

「もし。」

 突然、その人から声をかけられる。あまりに唐突であったため、徹郎は自分が話しかけられたことに一瞬気づかなかった。

「はい。」

「先ほど、店員の女性と親しげに話していましたが、ここにはよくいらっしゃるのでしょうか?」

「ええ、まぁ…。」

「ここのご主人とも親しい。」

「そうですね。」

 何が聞きたいのか、要領を得ない赤城の質問に戸惑う徹郎であったが、次の質問は少なからず衝撃を与えた。

「息子さんのことはご存じですか?工事現場で働いている。」

「さぁ…。」

 赤城は「そうですか。」とだけ答えると何もしゃべらなかった。

 徹郎は平静を装ったが、内心鼓動が早鐘のように鳴っており、隠すのが精いっぱいであった。

(この人は健君のことを知っている…。ということは、もしかしてあの掲示板の書き込みも…。)

 そこに料理を持った吉子が客席に入ってくる。

「お待たせしました。そばのカルボナーラ風になります。ごゆっくりどうぞ。」

 徹郎は厨房に戻ろうとする吉子を呼び止め、厨房と客席の中間で話をする。

「吉子ちゃん、なんかあの人、健君のこと聞きにきたみたいなんだよね…。」

「え…。ほんとに?」

「うん。しかも、やばい感じが…あっ!」

 徹郎が目をそらした隙に、赤城のもとへ進んでいく吉子。赤城は今運ばれてきたそばはもちろん、ウーロン茶にも口をつけていない。吉子は座っている赤城を見据え、失礼にならないように問いただす。

「あの…。本日は健のことでお話があるようですが、どのようなご用件でしょうか?」

 赤城は目も合わせずに答える。

「いえ…。大したことではありませんので、ご主人に直接…」

「健が…弟が何かしてしまったのでしょうか?」

 取りつく島もない赤城の態度に思わず言葉を遮ってしまう。険しい顔をしていた赤城だが、「弟」という言葉を聞くと眉間のしわが消えていく。

「お姉さまでしたか…。本当に大したことではありませんので…」

「お願いします。どうかお聞かせ願えませんか。」

 吉子は頭を下げる。赤城はかすかに逡巡したようだったが、一つ息を吐くと名刺を差し出す。

「私、こういうものです。」

 差し出された名刺には「新世代クリエイト・代表取締役 赤城優」の文字があった。吉子はあまりの人物がわざわざ健のために尋ねてきている事実を信じられなかった。

「あの…。それでお話というのは…。」

「実は、三か月ほど前、弟さんが私の部下に暴力をふるいまして…。こちらはこちらの注文を彼に伝えただけなのですが…。その際に腕を折る大怪我をしてしまって。」

 徹郎は言葉が出ないようだった。吉子は事の重大さにすぐ頭を下げる。

「申し訳ありません!治療にかかる費用などは、こちらで負担させていただきますので…」

 吉子の言葉を途中で遮り、赤城は説明を続ける。

「幸い、保険を使用できる形で処理することができましたので、金銭面は。」

「相手の方に後遺症などは…。」

「それも全く。ただ問題は…。」

 そこで赤城はいったん言葉を切る。

「問題は、彼から一言の謝罪も。私は穏便に済ませたいのですが、やはり彼の意志がないと、怪我をした当人もおさまりが着かないでしょうから。」

 ここまでの感情のこもらない説明で今聞いた説明がすべて真実と感じた吉子。今の吉子にできることは、健の代わりに頭を下げることだけだった。

「本当に申し訳ありません。弟にはしっかりと謝罪させますので…」

 吉子の言葉の途中、勝手口の開く音がする。

「帰ったぞー。」

 清の声が店内に響く。そしてそのまま客席へと進んでくる。

「なんだ二人とも帰ってたのか…。お前は!」

 清は赤城を見つけた途端、目の色を変える。そして厨房に戻り、包丁を持ってきて赤城に切っ先を向ける。

「お前、ここには来るなと言わなかったか。」

赤城は何も言わない。二人の関係を知らない吉子と徹郎は黙って見ていることしかできない。すると赤城は懐に手を入れ、財布から一万円札を取り出し、テーブルの上に置く。

「わかりました。お暇しましょう。失礼いたします。」

 赤城は頭を深々と下げると店を出ていった。

 赤城が出て行ったあと、何事もないように住居に戻ろうとする清。吉子はそんな清に腹が立った。

「お父さん!なんてことしてるのよ。健があの人の部下に大怪我負わせてんのよ!」

 吉子が怒鳴ると、清は振り返ると声を荒げて言葉を返す。

「うるせぇ!お前は黙って…」

 そこで清の言葉が止まる。

 そして、清はその場に崩れ落ちていく。

 ゆっくりと倒れていく清をただ眺めるしかできない二人。今すぐ清を支えたいのに自分たちもゆっくりにしか動けないのだ。

 完全に清が倒れて初めて体がいつものように動く。はじくように清に駆け寄る二人。

 店内には、清を呼ぶ声だけが響いていた。

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