第6話・幼馴染2人

昨夜、徹郎の家に泊まった吉子はひどく落胆していた。

(私…、もしかして女としての魅力ない…?)

 吉子がここまで落ち込むのは、昨夜店を出て吉子から徹郎の家に行きたいと言ったところまでさかのぼる…。



「うん、いいよ…。うぇい?」

「びっくりした…。変な声出さないでよ。」

「いや、だって今からうちに来るってことは、一つ屋根の下ってことで…。」

「そうだね。」

「そんなことしたらおじさんが包丁持って追いかけてくるし…。」

「それはないでしょ。」

「それに順番はちゃんと守らないと…。」

徹郎は明らかに挙動不審になっている。このままではいつ通報されてもおかしくない。ただでさえ街灯もない暗がりなのだ。この地域はわりと不審者も出る。

「順番を守らないといけないこと、するの?」

 吉子が徹郎の顔を覗き込みながら言う。もともと赤かった顔は耳や首まで赤くなる。

「しません!」

「…ならいいわよね。」

 徹郎が叫んで否定する。吉子はそれに少し傷つきながらも、徹郎の家に泊まれることになった。

「泊めてくれるお礼に、晩御飯つくるね。」

「…え?」

 今まで真っ赤だった徹郎の顔がみるみる青ざめる。

「いや、それは悪いよ。うん。うちの近くにファミレスあるし、そこで食べよ、ね?」

「だから私、お金が…。」

「出すから。気にしなくていいから。ね、そうしよ。」

 先ほどとはまるで違う必死さで外食をしたがる徹郎。

(作るにしろ、材料は小清水さん持ちだし…。たまにはファミレスもいいか。)

「わかった。そうしよ。」

「ありがとう!」

 徹郎の顔に血の気が戻る。ここまで外食をしたがる理由はもちろん「徹郎がファミレスに行きたいから。」ではない。

 はっきりと言えば、吉子の料理が異常なまでにまずいのだ。

 飲食店の娘として生まれ、店の手伝いもして育ってはいるが、吉子が手伝っていたのは、配膳だけ。厨房には一切入らなかった。

 そのため自分が料理のできないことに気付けずここまで来てしまった。

 昔にバナナの丸ごと入ったカレーや、チョコレート味噌汁などを食べさせられた徹郎は、吉子の料理だけは愛さないと心に誓っているのだ。

 そんなことはまるで知らない吉子は、今夜起こるかもしれないハプニングを想像しているのだった。

実は吉子も異性との交際経験はない。学生のころから何となく徹郎を意識していたし、逆にそれ以外の人間を異性に見たことがない。

 しかし思春期という多感な時期に徹郎が全寮制の高校に行き、少なからず裏切られた思いがあった。その思いを引きずり、切れたのか、切れてないのかわからない徹郎への思いが、いまだにズルズル続いているのである。

(もっとお父さんみたく、自分でスパッと決めたり、男気があったらなぁ…。)

 吉子はきっかけが欲しいのだ。こんな中途半端ではなく、「この人だ!」と思えるきっかけが。だから、今夜徹郎の家に行くことで、何かが変わるかもしれないと、成人した男女なら起こり得るハプニングを心の底では期待しているのだ。吉子本人にはその自覚がまるでないのだが。

 表面で吉子は徹郎を嫌っている。そう信じている。

 しかしメールの内容にイラついたり、そのメールを受け、すぐに帰省したりと、あからさまなまでに、徹郎を意識して行動している。傍から見れば、好き合っている者同士のじゃれあいにしか見えないのだが、残念ながらそのことを客観的に告げてくれる人間がここにはいなかった。

 徹郎は徹郎で、吉子が自分の家に泊まりに来るだけで様々な想像が頭を駆け巡っていた。

(吉子ちゃんが俺の家に泊まる。それはつまり一つ屋根の下ってことで…。いやいやいや別にやましい気持ちなんて…ありますけど。あれ?でもたまたま帰れないからだけなのかな…。もしかして今吉子ちゃんには彼氏とかいて、だから男の家に泊まりなれているだけ…?まさか吉子ちゃんに限ってそんなこと…。)

 徹郎の妄想は、吉子の声で遮られる。

「小清水さん、早く行こ。」

「うん!」

 徹郎は満面の笑みを浮かべ、二人は歩いていくのであった。

 二人が行ったのはイタリア料理で有名なファミレス。二人思い思いに料理を注文し、吉子はワイン、徹郎はビールを頼み、楽しい時間を過ごした。会話の内容は他愛のない話。昔メールでしていたような日常会話や、仕事の話など。途中徹郎が電話のために席を立ったが、それ以外は二人で緩やかな時間の流れを楽しんだ。

 一時間過ぎ、二時間過ぎ、十時を回ったところで、店を出て、徹郎の自宅に向かった。

 ここまではよかったのだ。そう、ここまでは。

 徹郎の家はファミレスから五分程度歩いたところにあるアパート。子供のころからずっとそこに住んでいる。吉子も幼いころによく遊びに来ていた。徹郎は鍵を開け、ドアノブをひねる。

「どうぞ、散らかってるけどごめんね。」

 そういって招き入れた徹郎の家は言葉とは裏腹に整理整頓されていた。六畳一間のアパート。ここも昔と変わらなかった。変わったことがあるとすれば、ここに住んでいるのが徹郎一人だけということだ。

 母親のいない徹郎は幼いころから父一人、子一人で生活していた。そのため徹郎の父、崇と仲の良かった清は家族ぐるみの付き合いをしていた。と言っても、店から離れられない清と弓子の代わりに吉子と健、二人を預かり、よく店に顔を出していたくらいなのだが。

「お邪魔します…。あれ、たばこの匂い、しないね。」

「俺は吸わないからね。親父、もう七年になるから。」

「そうだね…。なんかごめんなさい。」

「大丈夫だよ。」

 徹郎は笑いながら答える。

 徹郎の父親は徹郎が高校生の時に亡くなった。寮にいた徹郎は、危篤の知らせを受けすぐに父、崇のもとに向かったが間に合わなかった。その時徹郎を一人にできなかった清は、「棒」は臨時休業して、崇の葬儀を手伝ったのだ。その時には弓子がすでに亡くなっていたため、徹郎を支えることと「棒」の営業、その両立ができなかったためである。

(それにしても、何にもないなぁ…。)

 徹郎の部屋はテレビや冷蔵庫、洋服ダンスやパソコンなどはあるが、趣味らしきものは何一つなかった。

「吉子ちゃん、どうぞ座って。」

 徹郎は押入れから年季の入った座布団を引っ張り出すと、吉子に勧めた。

「ありがと。」

 そして流れる気まずい沈黙。ファミレスではあんなに楽しそうにしていた二人だが、いざ二人きりになるとお互いに意識してしまう。まるで中学生のような二人だが、恋愛経験においては、最近の中学生にも劣るのだから仕方のないことなのだろう。

「テレビつけていい?」

「あ、どうぞどうぞ。」

 吉子がリモコンに手をかける。時間は十時十分過ぎ。この時間なら確かテレビで映画がやっているはず。これなら少し砕けられるかも。ブラウン管に電気の通る音。徐々に鮮明になる画像。映し出されたのは金髪の男女が裸で絡み合う姿。一瞬でテレビを消す吉子。再び流れる沈黙。

(なんで消すのよ、チャンネル変えればいいだけなのに。バカ!)

 思わずとってしまった自分の行動に後悔する吉子。徹郎は何のリアクションもない。完全に固まっている。どうにか二人の状態を抜け出したい吉子にある名案が思い付く。

「そうだ、小清水さん。シャワー借りていい?」

「…えっ?あ、どうぞ!」

明らかにどこかに意識を飛ばしていた徹郎は吉子の問いかけに反応が遅れる。吉子は頭を冷やすため、とにかく一人になりたいのだ。

「バスタオル、どれ使えばいいかな?」

「あ、これ使って!」

「ありがと。」

 バスタオルをひったくるようにつかみ、脱衣所で服を脱ぎ、浴室に入る。ガスの電源を入れ、蛇口をひねり、お湯が出てくるのを待つ。室内とは言え、裸になるのはやはり寒い。早くお湯が出ないか…と待っている間に頭も冷えて冷静になる。そして気づく。あの流れでシャワーを浴びに行ってしまった自分の気まずさに。

(まるで私、そーゆーこと期待してるみたいじゃない…。)

 出てくるお湯が適温になり、髪を洗い始める吉子。しかし先ほどから同じところばかりを洗っていることに気が付かない。

(私にはまったくそんなつもりはない!でも、小清水さんが勘違いしてたら…。お風呂から出た瞬間に、押し倒されでもしたら…。)

 少し涙目になり、あらぬ心配を続ける吉子。徹郎の意識は別のところにあった。

(吉子ちゃんがお風呂使ってる…。いやいや、だからなんだっていうんだ。俺は何も聞いてないぞ…。)

 シャワーに向かった吉子が脱衣所で服を脱ぐ衣擦れの音、浴室のドアを開く音、さらには水の流れる音まで徹郎にとっては拷問であった。徹郎とて人間。好きな人が近くで裸になっている。そんな状況で、想像するなという方が無理であった。ちょっとした物音にも敏感になっていて、冷蔵庫が時たま発する駆動音にも驚く有様だった。

 そんなことをお互いに知らない二人にさらに不運が重なる。

 一応の落ち着きを取り戻した吉子は体を綺麗に流し、浴室から脱衣所に戻る。体を丁寧に拭き終え、はたと気づく。着替えがないことに。

 すべての荷物は実家の「棒」に置いてきている。そのことはご飯代を出してもらっていることや、徹郎の家にいる時点で明白なはずだった。しかし現状、吉子は裸で着る服がない。今脱いだ服を着ればいいのだが、せっかくさっぱりしたところに同じ服は着たくない。こうなったらもはやどうにでもなれと、バスタオルをきっちり巻き、平然を装い徹郎を呼ぶことにする。

「小清水さーん、着替えとかあるかな?」

「着替え?何の?」

「私、着替えあっちだから…。」

 腹をくくった吉子はいいだろうが、まだ心が落ち着いてない徹郎にとってはたまったものではない。

「え…。あ…。ちょっと待ってね…。」

 もはや機械的な受け答えしかできなくなっている徹郎は、言われた通り…命じられるがままというべきか着替えを探す。もちろん女物の服などあるわけもなく、徹郎がいつも着ているパジャマを渡すしかないのだが。

 引き戸から、吉子の白い腕が伸びる。腕しか見えていないにもかかわらず、鼓動が早くなってしまう徹郎。そそくさと去っていく徹郎だが、この後どうするか何もわかっていない。今夜一晩、自分の服を着た吉子と過ごすのだ。絶対に心休まらない覚悟をしていた。

 吉子は徹郎から渡されたパジャマの下に何も着ずに袖を通す。下着の替えがないのも理由の一つだが、吉子は服さえ着られればいいという気持ちになっていた。徹郎の服を着るなんてもちろん初めてであるが、予想以上にぴったりで驚く。そんなに体格は変わらないと思っていたが、まさか服を着まわせるほどだとは。

(やっぱり匂いはお父さんと違うなぁ…。)

 綺麗に洗濯していても、服に持ち主の匂いは残るもの。吉子は父とは違う徹郎の匂いに心動かされていた。

「小清水さん、ありがと。」

 脱衣所から出て、居間に戻るとそこには布団が敷かれていた。徹郎は入れ替わるように、脱衣所に向かう。

「じゃ、次は僕が風呂入るから。」

「いってらっしゃい。」

 徹郎の一人称が変わってしまっていることにも気づかない吉子。そのまま布団に倒れこみ、これからのことをぼんやり考える。

(ここで一晩明かすわけでしょ…。ほんとに私、何やってんだろ…。)

先ほどから徹郎にしていることもだが、今日一日を振り返り、情けなくなる吉子。

(何にもしてないじゃない、何にも…。今日したことといえば、久しぶりにお父さんに会って、小清水さんに会って…。あぁ、健にも会った。あの派手な子もいたし…。お店のこと、何もできていない…。)

 吉子にとって「棒」は家族の思い出の残る場所なのだ。今まで逃げ続けたにしても、今日帰ってみて、はっきりとわかった。父のためとは言わない。自分のために店を助けたいと。

(でも、どうしたらいいんだろう…。)

 何をしたらいいかわからないまま、今日の疲れからか急激な睡魔に襲われる吉子。そしてそのまま抗わず、眠りに落ちていくのであった…。

 徹郎が脱衣所から出ると、吉子は気持ちよさそうに熟睡している。ほっとしたような、がっかりしたような徹郎は、吉子に布団をかけ、パソコンの前に行く。布団は一組しかないし、たとえ二組あっても吉子が一緒の部屋にいたのでは眠れる気がしなかった。

 いっそこのまま起きていようと思った徹郎はネットサーフィンを始める。どうせ明日は休みをもらった。少しくらい寝なくても大丈夫だろう。

徹郎が開いているのは投稿者が匿名で好き勝手なことを書き込める掲示板。徹郎はそこを眺めるのが好きだった。書き込まず、ただ眺めているならば攻撃されることもないし、そういった喧嘩腰な空間ばかりでなく、きちんとコミュニケーションをとっている人たちもいる。バーチャルとはいえ、人間同士会話している気分になれる、そんな場所が気に入っていた。

「ん…?」

 今日はどこを覗こうかとサイトを見て回っているとき、徹郎は気になるタイトルを目にする。

「なんだこれ…。」

 そこに書かれているタイトルは『田んぼにあるそば屋がひどい件』。

 徹郎は一晩かけて、最初の投稿からすべてを見ていくのだった…。



 吉子は昨晩、何度か目が覚めていた。しかしそのたびにパソコンの前から離れない徹郎に空しさを覚えた。

(手を出せってわけじゃないけど…。一緒に寝るのも嫌なのかなぁ…。)

 そして今朝、徹郎が作った朝ご飯を食べながら昨夜どうしたのか尋ねても、「寝ていた。」と嘘をつく。しかも何か隠している風なのだ。

(一晩中、女の人とチャットとかしていたのかなぁ…。)

 恋する乙女になっている吉子と、「棒」に客が来なくなった理由を知ってしまった徹郎。二人は何も会話しないまま、店へ向かうのであった。

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