第5話・清の夢
…。
何も見えない…。
それだけではない。何も聞こえない。何も匂わない。何も感じない。
死んでしまったのかと思うほど、すべての感覚がない。目は開いている。しかし見えてくるのは、暗闇。それも奥行きの感じない暗闇。自分の体の存在すら疑ってしまう。
(…そうか、これは夢だ。)
清はそう思い込むことにした。でなければ、本当に死んでいるのだろう。死んでいるか、眠っているか、選ばせてもらえるのなら当然ながら後者を選ぶ。
(それにしても、文字通り色気の無ぇ夢だな…。)
こんな何もないものを夢と呼べるのであれば、悪夢の方がましであろう。悪夢ならば夢の間どれほど恐怖でも、覚めた後の安堵は得られる。こんなただ置いておかれる状態ならば、何も得られない。
(…今の俺にゃぴったりかもな。)
店のこともある。吉子のことも、健のこともある。そして徹も放って置けないだろう。自分だけならいくらでもやっていける。だが、背負ったものを考えると、どうにも動けなくなる。
下らない、傲慢な考えかもしれない。あいつらも子供じゃない、自分で歩けるはずなのに…。
いくら考えていても出ない答えに清は考えを中断させる。すると自分を呼ぶ声が聞こえる。
(…あんた。)
それは二度と聞くことが叶わないと思っていた声。
(あんた。)
それは、確かに弓の…。
「起きろ!」
後頭部をすさまじい衝撃が襲う。清は夢の中で殴られても痛みはあることを知った。
「痛ぇな、何すんだ!」
急にすべての感覚が戻る。顔を上げると便所スリッパを片手に持った弓子が腕を組んで立っている。あたりを見回すと、ここは店の中だった。
「何度起こしても起きないからだろ。」
「なんだ、弓か…。」
ある意味で弓子に助けてもらっているのだが、わざわざそれを伝えることはないだろう。
「なんだじゃないよ、ご挨拶だね。」
弓子は手に持っている便所スリッパを履き直す。それで殴られたことも後で聞くとして、それよりも起こした?それはつまり…。
「寝てたのか、俺は。」
「大いびき掻きながらね。うるさいったらありゃしない。」
「あぁ、そうかい。地獄からわざわざ起こしに来てくれて、ありがとな。」
「あんたならわかるけど、なんであたしが地獄なのさ。あたしゃ天国で毎日トレンディドラマを楽しませてもらってるよ。」
「時間が止まってるやつは遅れてんな。黄門様が終わったのも知らねぇだろ。」
売り言葉に買い言葉…というより、阿吽の呼吸で会話する二人。こんな意味のない会話が今の清には楽しく感じられる。
「で、お前死んでんのになんで家にいんだ。」
「どこに居たってあたしの勝手だろうに。」
「ったく、幽霊なら幽霊らしく頭に三角つけてろ。」
「あー、あれは辛気臭いから嫌だね。あんたも街中歩いてる時にそんな恰好で若いのが歩いてたら嫌だろ?」
「相変わらず口に減らないやつだな。」
「お生憎様。あんたが死んでもその石頭が直らないのと一緒だよ。」
口で絶対に敵わないのはわかっている。清は再び同じ質問をする。
「なんでここにいるんだ。意味もなく帰ってきやしねぇだろ。」
すると急に言いよどむ弓子。何か必死に理由を探す、そんな雰囲気。やがて閃いたように声を上げる。
「あー…。そうだ!あんた、かき揚げ食べさせてくれ。」
「はぁ?何言ってんだ、お前。」
「いいじゃないか。久しぶりに食べたいんだよ。」
「食ったら帰んだろうな。」
清は厨房に向かう。弓子がついてくる。しかしわざわざかき揚げ食いにこんなところまで来なくてもいいだろうに。清は冷蔵庫を開ける。そこには丸のままの食材が転がっている。これでは何も作れない。
「あー…。弓、仕込んでねぇからまた今度な。」
「今からやんな。」
からりと笑いながら清に言い放つ。言い出したら聞かないのはわかっている。
「めんどくせぇなぁ…。」
そう言いながらも、かき揚げの仕込みを始める清。
「そばも食べたいねぇ…。」
「つゆがねぇからそばは無理だ。」
話しながらも、玉ねぎを切る。続いて人参、ごぼう、三つ葉。切った野菜を混ぜ合わせ、すり鉢を持ってくる。すり鉢の中には桜えび。桜えびを丁寧にすり、てんぷらだねに混ぜるのが「棒」のかき揚げの隠し味であった。
「あんた、もっとゆっくりすりな。味がおちるだろう。」
「うるせぇな、だったらお前がやれ。」
そう言いながらもすりこぎを動かすスピードを落とす清。この隠し味を見つけたのは弓子なのだ。
「そうそう、それでいいんだよ。」
厨房内に、すりこぎをこする音だけが響いている。
「あんた。なんで、あんなことをしたんだい?」
「何のことだ。」
「『学生さん』。」
ぴたりと手を止める清。弓子はさらに続ける。
「あんたの気持ちもわかる。だけど、いたずらに人の心を踏みにじっていいと…」
弓子はそこで言葉を切り、清の顔を見る。そこにある旦那の顔は、とても軽はずみな行動をしている人間のそれではなかった。
「ごめん…。」
弓子は一言だけ詫びを入れた。
野菜に粉をふり、てんぷらだねとからませ、かき揚げとして適当な量を高温の油の中に入れる。油のはじける小気味いい音。清は箸でてんぷら鍋のヘリに押し付け、かき揚げの形を整えていく。油の温度が戻ったのを確認すると、一つ、また一つとてんぷら鍋に野菜を入れ、同じ作業を繰り返す。最初に入れたものを油切りの上に上げる。扇形の皿に二つ折りした和紙を置き、その上にかき揚げを三つ乗せる。
「ほら、できたぞ。」
「ありがと。」
弓子と一緒に客席に移動する。
「いただきます。」
天つゆではなく、塩で食べるのが弓子の常である。「せっかくカラッと揚がってるのに汁吸わせたくない。」そう言っていた。いつも通りかき揚げに塩を振り、音を立てながら食べる弓子。無言で食べ進める。弓子は食事のとき一切しゃべらなかった。初めは会話が欲しかった清も次第に慣れていった。「食事の時に話をするな。」これは弓子の口癖だった。
「ごちそうさま。」
「おう。じゃあ弓…」
「あんた、自分のことは考えてんだろうね。」
いつもの口調。いつもの調子。ただそこには普段にはない響きを感じた。ここに来た理由も、きっとそのことを聞きに来たのだろう。
「ん…。あぁ。」
この返事をするとき、清は何も考えていない時だった。弓子は重々承知した上で、この質問の答えを求めなかった。
「さて、皿でも洗うかね。」
そう言いながら弓子は皿を流しに持っていく。
「帰るんじゃねえのかよ。」
「自分で食べたものくらい片付けるよ。あんたは油の始末しちゃいな。」
「わかったよ。誰の店か、わかりゃしねぇ。」
ぼやきながらまんざらでもない様子の清。弓子も弓子で何やら楽しそうだ。二人で店を片付けるなんて何年ぶりのことか。たとえ夢とわかっていても、一番楽しかった時期に戻れた気がする。
「後悔してねぇのか。」
清がぼそりと聞く。
「何をだい。」
「あんな死に方で。」
「してないよ。あれがあたしの寿命だったんだよ。」
弓子はからりと笑う。
「そんなもんかね。」
「そんなもんだよ。」
それきり二人は会話もせずに掃除を始めた。いつもしていた掃除。清はなかなか帰らない弓子を咎めることもせず、黙々と店だけでなく家のすべてを綺麗にしていく。
作業自体は別々だが、必ず同じ部屋にいて、お互いが見える場所にいて。
何を話すわけでもなく、ただ同じことをする。
「ふう…。男だけのわりには綺麗にしてるじゃないのさ。」
すべての部屋を掃除するのにさほど時間はかからなかった。
「弓…。これからどうすればいいんだろうな。」
清の突然の質問に、弓子は呆れながら答える。
「自分で決めてること、人に聞くんじゃないよ。」
清は、自分の中で答えを出している。それは確かに人に言われてどうにかなるものではない。ただ背中を押してほしいのだ。
「あんたがしたいようにやりな。」
冷たく聞こえる弓子の言葉に、清は黙り込む。
「弓。全部終わったら、一緒に暮らさないか?」
静かに、清が尋ねる。
弓子と一緒に暮らす、その意味は当然死を意味する。
「…考えておくよ。」
肯定も否定もしない、弓子の答え。今の清にはそれだけで充分だった。
「そうかい。」
「あんた、そろそろいきな。」
入口を指さす弓子。
「おう。…いってくる。」
「いってらっしゃい。」
ゆっくりと入口に向かう清。そういえば、これは夢だったんだと、いまさらになって思い出す。
振り返るともう弓子の姿はなかった。
入口を出る。そうして清は夢から覚めていくのだった…。
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