第4話・塩撒き

 トイレの大きな鏡で化粧直しをしている女性、レイは「なぜ今日に限って、居酒屋でなくこんな店で待ち合わせにしたんだろう…。」と、ぼんやり考えていた。

 普段から待ち合わせは居酒屋で、いつもあのメニューは必ず頼んでいて。だから先に着いた方(ほぼ確実にレイになるのだが)が先ほど頼んだメニューを注文しておくのが最近の通例であった。

 彼とは知り合って半年になるが、まだ何もつかめていない。むしろ掴みにいってないというのが正しいのだが。

(…でも、この店いい店なのかもしれない)

 レイがそんな風に感じるのは、このトイレの綺麗さにあった。

 レイの勤めている店では必ず閉店後にトイレ掃除をする。それも男女、店での立場を関わらず全員で。

オーナーは「客が一番嫌がるのは何か。まずい酒を注ぐことでも、ゆったり過ごせないことでもない。汚い便所に入ることだ。」とまで言っており、いくら売り上げを取ろうが、トイレ掃除をしないものはたとえナンバーワンでもクビにしていた。

 そういう環境にいるレイだからこそ、飲食店にとってトイレは顔…とまではいかないまでも、神経を使っている店には敬意を表していた。

(それにしても、あのおばちゃん嫌だなぁ、勝手そうで…。)

 これも職業柄となるのだが、レイは人を見るとき内面を見ようとする。甘えたい人間、威張りたい人間、ほめてほしい人間、叱られたい人間…。その願望をうめてあげることを生活の糧にしている。

最終的な意味では相手を手玉に取っているのだろうが、相手もそれを望んでいる。すべての人間は何かに寄りかかりたいのだ。それが他人であるし、お金であるし、権力である。

 数の多寡はあれど、みんなみんな、一人で生きている人間なんていないのだ。

 そう思いながら、自分のことには触れないでいる。自分が何に寄りかかっているのか、そのことは自覚していた。

 そんなことより、今しなければならないことは、うっすらと出始めてきている、目じりの小じわに対してどうすれば張りを取り戻せるか、それだけを考えていた。



 吉子が塩をまくなどとつぶやいているとき、再び入口の開く音。

「うぃ~っす!」

 お世辞にも上品とは言えないあいさつをしながら入ってきたのは、髪を金色に染めサングラス、そしてニッカポッカを着た若者だった。清ら三人は唖然としている。それはその人物が誰かわからないからではなく、わかっているからこそ言葉が出ないのだ。

 若者はサングラスを外しながら、店の椅子に腰かける。

「なんだよ。久しぶりに帰ってきたのにあいさつもなしかよ。」

 からりと笑いながら言う。その声を聞き、吉子と徹郎の二人はその若者の名前を口にする。

「健!」

「健君?」

 名前を呼ばれた健は嬉しそうに口元を上げると、明るく悪態をつく。

「相変わらずヒマそうだなぁ、この店。おー!やっぱり徹っちゃんはいたのか!お前ついてんぞ。」

「あんた、今まで何してたのよ!」

 吉子は十年ぶりに会う弟、健に対して、心配、安心、そして十年も連絡がなかったことに対しての怒りがこもった言葉をぶつける。それに対して健は笑いながら答える。

「あれ?なんでねーちゃんがここにいんの。もしかして会社クビになったとか?」

自分の言葉が面白いのか、歯を見せながら手を叩く健。吉子は腹の底から響くような低い声で言い放つ。

「そんなわけないでしょう。それより、なんであんたは十年も連絡しなかったのよ。」

 吉子の怒りをまるで無視するように、徹郎の隣に座る。

「徹っちゃん。俺に会えなくてさみしくなかったか?俺はその情けないツラを見なくて、清々してたけどな。」

年下の健に頭をつかまれながら、ただ「やめろよ…。」と呻くだけであった。

(なんで小清水さんは年下相手に怒れないのよ…。)

 吉子は半ばあきれながらその様子を見ていると、清がぼそりと尋ねる。

「で、なんで帰ってきたんだ?」

「自分ち帰ってくんのに理由もねぇだろ?」

 健は笑いながら答える。が、清の目を見ようとはしていない。清はじっと健の様子をうかがっている。

 そんな時、トイレからレイが出てくる。そして健を見つけるやいなや、飛びつくように健に向かって走り出す。

「健ちゃ~ん!」

健は走ってくるレイを抱き止め、頭を撫でる。

「遅れて悪いな、レイ。でもそんなに待ってないだろ?」

甘えるように健の胸板に頭をこすりつけるレイ。腕をいっぱいに伸ばし、全身で密着する。

「それもそうだね。」

「あんたの知り合いなの?」

 思わずわかりきった質問をしてしまう吉子。その質問にさらに密着しながら二人は答える。

「知り合いっつうか…。なぁ?」

「そうだね。」

 レイと呼ばれた女性は猫なで声まで上げている。

 吉子は頭がくらくらする思いだった。

(つまりは健とこの人は付き合ってて、レイって呼ばれているこの人は健を待ってて、それにも関わらずあんな無礼なことを言って、香水までつけてきて…。香水!)

「あんたの知り合いなら、香水なんかつけて来させないでよ。」

 そばで楽しむものはいろいろあるが、その一つに香りがある。それはほのかな香りであるため、そばつゆに使われているしょう油の香りすら邪魔になってしまうほど、淡い香りである。そばの香りが好きな人は、そばつゆに半分ほどしかそばを浸けない。それくらい微妙なものなのだ。

 赤の他人であれば、気にしなかったであろうが、そば屋の息子として生まれた健の知り合いならば、「香水をつけさせない」ことくらいはエチケットと吉子は考えたのだった。

「香水くらい身だしなみでしょ、おばさん。」

 しかしそんなことを知るよしもないレイは、常識的な範囲でつけた香水に文句を言われて、黙ってなどいなかった。

「そもそも、すっぴんで接客する方が非常識じゃないの?」

「んな…。」

 吉子はまさに開いた口が塞がらないといった様子で、レイをにらむ。

 あまりにもとげとげしい女同士の戦いの間に入ったのは、健だった。と言っても、どちらの肩を持つわけにもいかない。吉子の言い分もわかるし、レイの反応もひどく当然。双方の板挟みとなった健は中途半端な仲裁しかできなかった。

「ねーちゃん、いいじゃねぇか。」

「あんたは黙ってなさい。」

 清はつまらなそうに二人の小競り合いを眺めていた。徹郎はただおろおろしている。心なしかレイの勢いが先ほどとは、比べものにならないほどに落ちてはいる。

 張り合っている二人がお互いに相手をうかがう。そのタイミングを逃さず、健はポケットから一万円札を数枚取り出す。

「まぁ、今日は俺が奢るからさ。みんなでパーっとやろうぜ。」

 金を見せびらかす健に皆の反応は様々だ。吉子は目を白黒させ、レイは納得の表情。

 徹郎はむっつり俯いてつぶやく。

「いらないよ。」

「あ?」

「健君、噂には聞いてるよ。仕事、辞めたんでしょ?そんな人の施しは受けないよ。」

 場の空気が凍る。普段、徹郎がこんなにもはっきりとものを言うことはほぼない。だからこそ吉子だけでなく、久しぶりに会う健もその反応には驚きを隠せなかった。

「言うようになったじゃねぇか…。なぁ!」

 健が徹郎の座っている席のテーブルを殴る。勢いでビールの入ったグラスが倒れる。

「健。」

清が静かに言う。

「お前に食わせるものはねぇ、とっとと帰れ。」

 聞き間違いだと思った。健からしてみたら、そんなこと言われる理由はないのだから。

清は再び言う。

「聞こえなかったのか。とっとと、帰れ。」

 重く、ずっしりと響く声。健は清が本気なことを理解し、そして真意を理解できなかった。

「帰れ」と言われた健の反応は子供じみたものだった。手近にある椅子を蹴り飛ばし、清に向かい言い放つ。

「そうかい…。わかったよ。二度と顔なんか見せねぇよ。こんな店…、さっさと潰れちまえ!」

「ちょっと、健ちゃん!」

 健は出て行きながらも、もう一つ椅子を蹴り飛ばす。健の後を追い、レイも出ていく。出ていく寸前に清と目があったレイは一瞬、清にしかわからない程度ではあるが、会釈をして店を出て行った。

 状況に取り残される吉子と、この喧嘩は自分の責任では…と縮こまる徹郎。それでも自然と口が動く吉子は、先ほどの清の態度を叱責していた。

「お父さん、いきなりどうしたのよ。確かに健も健だけど、あんな言い方はないでしょ。」

「うるせぇ。徹、こいつ連れていけ。」

「話はまだ…」

「吉子ちゃん、行こう。」

 徹郎は吉子の手を取り、店の外に連れ出す。清の性格上、ああ言い出したら絶対話し合いすらできないことはわかりきっていたからだった。

 吉子を送り届けるために、駅の方に向かう徹郎。五分ほど街灯もろくにない田んぼ道を歩く。お互いに無言であったが、吉子から話しかける。

「ねぇ、小清水さん。どこに行くの?」

「駅だよ。おじさんがあんなんじゃ、吉子ちゃん、泊まるところないでしょ?」

「私、財布とか荷物ぜんぶあそこなんだけど…。」

吉子はどうせ泊まるからと、すべての荷物を自分の部屋に置いてきているのだ。もちろん、小銭の持ち合わせもない。

「そうなんだ…。」

(そうなんだ…。じゃないでしょ?これだけ状況が味方しているのに、動かないつもり?)

 吉子は徹郎の様子をじっと窺う。何かを期待するように。何かを待つように。自然と徹郎とつながる吉子の手に力が入る。

 そして徹郎は吉子にこう告げた…。

「電車賃、貸すよ?」

(殴ってやろうかしら。)

 ほんの少しだけの淡い期待が砕かれた。店から今まで繋がっていた手を振りほどく。徹郎の精いっぱいだとは思うが、まさかこれほどの、自分で言うのもおかしくあるが、うってつけのチャンスを不意にするのかこの男は。

(あー…。急に疲れちゃった…。)

「帰るのめんどくさいから、小清水さんの家行っていい?」

「うん、いいよ…。うぇい?」

 徹郎は奇声を上げながら真っ赤になっていた。



 店に一人残った清は肩で息をしていた。まだ鼓動が早い。

「全く…。」

 清は、咳込みながら、倒れた椅子を直していった…。

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