第3話・場違いな女
吉子が客席から出て行ったあと、清を責める人間が今度は徹郎に変わっていた。
「おじさん、あれはないんじゃない?」
「鮭にぎり作ってくるわ。」
「おにぎりはいいから!吉子ちゃんは、たぶん心配して帰って来てくれたんだよ。それを…」
「徹。飯を食う時は…」
「『黙って食え』でしょ。わかってるけど…」
「そば食えてるんだ。ちょうどいいってことだ。」
「それ、おじさんの口癖だよね。『いつでもそばを食えるってことは生きていくうえでちょうどいい』って。でもね…」
「徹、吉子とはどうなんだ。」
その言葉を聞き、徹郎は息が詰まったような声を出し、ビールが気管に入ったのか、むせて咳込んでいる。
「っ、おじさん!」
ようやく回復した徹郎はそう一言清に言うだけで精いっぱいだった。
「あっはっは。自分の頭のハエも追えねぇのに人の心配してんじゃねぇよ。」
清は笑いながら言い放つ。徹郎が吉子を想うようになったのは小学生のころ。すでにそのころから周囲には隠せていなかった。それでも徹郎自身は本気で悩んでおり、その相談相手が弓子であり、清だった。
(普通、俺に相談するかね。)
好きな相手の父親。そんな相手に相談することをすこしも恥じていない徹郎に直すようには言っているのだが、生まれ持った性格はなかなか変わらないようだ。そんな徹郎の口から出てきたのは次の言葉だった。
「おじさんの口からそれと無く聞いてくれないかな…?」
「情けねぇ…。」
清は厨房に行き、先ほどのカルーアを持ってきて徹郎に返す。
「そんなやつからは、受け取れねぇな。」
「いいよ。あげたんだし…。」
「半人前からは受け取らねぇって言ってんだ。」
もはや笑っていない目で清はカルーアの瓶を徹郎の鼻先に突き付ける。
「半人前なのはわかってるけど…。でも…」
「『でも』なんだ。」
「でも…、稼げなきゃ、一人前じゃないから…。」
絞り出すように言葉を吐き出す徹郎。しかし清は、あからさまなため息とともにそれに答える。
「まだまだわかってねぇなぁ。」
子犬のような目で徹郎が尋ねる。
「教えて…くれないよなぁ。」
「当たり前だ。」
そう吐き捨てる清に、真剣な顔になった徹郎がフロアに座る。両手をつく。
「おじさん。もし俺が一人前になったら、その時には…、その時には…!」
「お父さん、片付けてきたから手伝うよ。…どうしたの、二人とも?」
その時、吉子が住居から降りてきた。徹郎だけでなく清まで固まっている。こんなに間の悪いことがあるのだろうか。
いや、むしろいいタイミングなのかもしれない。
(徹、いっちまえ。)
徹郎は呆然としている。
次にとった徹郎の行動は、ゆっくりと立ち上がり、吉子のいる方…ではなく、ビールとお新香、そしてナンコツの乗ったテーブルに着いた。何となく、うなずいてしまう清。
「…そこで、言えるようにならないとな。」
首を倒し、「はい…。」とだけ答える徹郎。吉子は二人を見比べ首をかしげている。
「なんでもねぇよ。それにお前に手伝ってもらうこともねぇ。」
「私が勝手にやるから良いんです。」
さっきとは打って変わり、言葉からトゲの抜けた吉子は厨房内をうろついている。何かを開ける音。吉子はまた驚きの声を上げる。
「なにこれ!」
「冷蔵庫―。」
「中身の話!」
「食材。」
「…ひょっとしてわざといってない?」
「お、気づいたか。」
いつもなら烈火のごとく怒り出しそうな吉子だが、今回は、はっきりと肩を落とし、諭すように清に告げる。
「あのね、お父さん。冷蔵庫の中にそばつゆが全然ないのはなんでですか?」
「そんなこともわからねぇのか。仕込んでないからだろ。」
「馬鹿じゃないの!」
「落ち込んだり怒ったり忙しいやつだな。」
「なんで仕込まないの。そばつゆがなきゃ、お客さんが来たときにどうするの。まさかしょう油かけて出すわけ?」
「うまいのか、それ。」
「知らないわよ。そんな食べ方なんてしたいとも思わないでしょ!」
冷蔵庫にそばつゆがない。これは普通であれば、そばが客に出せない。つまり営業不能を意味する。
通常、そばつゆの仕込みには最低二日かかる。しょう油、みりん、ザラメなどの調味料を混ぜ温める寸胴と、二時間、様々な魚の削り節を煮込み、出汁をしっかりと取りガラを綺麗にこした寸胴。その二つを合わせ、上部に浮いてくるアクや、こし切れなかったガラを取り除きながら、ゆっくりと冷ます。完全に冷えてから冷蔵庫で丸一日、欲を言えば二日間熟成させる。今そばつゆがないということは、清が少なくても二日前から営業することを考えていないことを意味していた。
そらにもかかわらず清は飄々とした様子で答える。
「客が来ねぇんだから、仕込んでもしょうがねぇだろ。」
その言葉に徹郎は、そろそろと手を挙げながらつぶやく。
「あのー…。俺も一応客なんだけど…。」
「お前は数に入ってねぇんだよ。」
一刀両断である。そんな徹郎を軽くにらむ吉子。
「いくら小清水さんがそばを食べないからって、急にお客さんが来ることもあるでしょう。」
脇で徹郎が「そんな、吉子ちゃんまで!」などと言っているが、気になどしていられなかった。
そんなタイミングで店の入り口が開かれる。そこには見知らぬ女性が立っていた。
「ほぉら。」と言わんばかりに清を見やる吉子。そしてすぐに営業モードに切り替わって「いらっしゃいませ!」と満面の笑みで接客する…が。改めてその女性を見た吉子は固まっていた。
この店を選びそうな人間ではない…と言えば失礼になるであろうが、明らかに場違いなくらいに派手なのだ。髪型や化粧の仕方、手に持っているハンドバックなどから、水商売をしている匂いしかしない。
こちらがそういう客を拒否するのでなく、あちらがここは選ばないでしょう…そんな感覚。
その女性も、ガラガラの店内を見回し、露骨に「大丈夫かしら…。」という顔をする。そして入口に近い席に座ると、メニューも開かずに注文を始める。
「シーザーサラダと…めんたいピザ、それと…焼き鳥の盛り合わせお願いします。」
(何を言っているんだろう、この人は。)
おおよそ、そば屋に対してとは思えない注文ばかりを並べる女性に当惑しつつ、それでも失礼の無いように…気分を害して帰ってしまわぬように、対応する。
「申し訳ありません。今言った商品はご用意してなくて…。」
その言葉の最中、相手は何度か眉をひきつらせていたが、それより途中から怪訝な顔に変わっていくことが気になった。
「…ここ、『棒』であってます?」
「はい!」
「ラストオーダー何時ですか?」
「えぇっと…。」
今の閉店時間がわからない吉子が答えあぐねていると、清が代わりに答える。
「八時半ですよ。九時には閉店です。」
「ここ、居酒屋じゃないんだ…。後からもう一人来ますので、注文はその時に。水も結構です。」
そう言うと女性は、こちらの返事も待たず、携帯電話を打ち始めた。
会話を暗に拒否された吉子は引き下がるしかなかった。清と徹郎のいるテーブル席に戻ると、先ほど客の件で蔑ろにされた徹郎がお新香をポリポリとかじっている。
「そばは食べないけど、毎日来ているのに…。」
たったあれだけの扱いで一人しょぼくれている徹郎。面倒と思いつつも吉子は徹郎の機嫌の回復を図るため、なだめすかす。
「ごめんなさい。別にそういう意味で言ったわけじゃないから…。」
「いいんだけどね、別に…。」
(いいならなんでそんなにへこんでんのよ。)
思わず怒鳴りたくなる気持ちを抑え、徹郎の機嫌取りをする吉子。
わざとらしく携帯電話を閉じる音が店内に響く。
「あのぉ、お手洗いどこですか?」
やや間延びした声で尋ねる女性は、明らかに苛立っていた。
「すみません。こちらになります。」
トイレの方向に手を差し向ける吉子。手の先に一回、目をやるとそのまま吉子に向かって歩いてくる。目を見て。まっすぐに。手を伸ばせば届いてしまうくらいの距離になって女性が立ち止まる。
「あなた、アルバイト?」
一言、それだけを尋ね、質問の答えを待っている。吉子は何と答えたらいいかわからず、「いや…、その…。」と言葉を濁すので精いっぱいだ。
「まぁ、いいけどね…。」
女性は振り返りトイレに向かって歩き出す。扉の前に立つと振り返り、吉子に向かいこう言った。
「客がいないからって身内と、じゃれつくのやめてくれません?目障りなので。」
女性はトイレの中に入って言った。会って間もない他人に、それこそ知り合って十分もたっていない人間に「目障り」とまで言われた吉子は当然、憤慨していた。
「なにあの人の態度!」
「きついなぁ。」
吉子と徹郎は口々に感想を漏らす。しかし、清だけは平然としている。さも当たり前というように。
「しかたねぇだろ。本当のことなんだから。」
「お父さん、いいの?お店のこと、悪く言われたんだよ。」
「お店」というよりも、「自分」が悪く言われたことに腹を立てている吉子は「あの人が戻ってきたら、塩でもまいてやろうかしら」などと、剣呑のことを口にしていた。
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