第2話・帰郷

 何か、音が聞こえた気がする。ガラガラという音。コツコツという音。

 夢うつつな清には耳に入ってはいても聞こえてはいなかった。コツコツ、ガラガラという音が間近に止まる。次の音ははっきり聞こえる。

「お父さん、久しぶり!」

 寝ぼけ眼をこすりながら、清は顔を上げた。そして一瞬で目が覚める。思わず妻の名前を口走りそうになる。頭の回転が少しずつ戻る。ゆっくりと体をほぐす。

「なんだ、吉子か…。」

どれくらい寝ていたのか、腕と頬にはしっかりと赤い跡がついている。

「なんだじゃないでしょ?心配して帰ってきたら…」

 そう言いながら吉子はちっちゃなスーツケースを引っ張りながら、店を歩き回る。これか、さっきからガラガラいってるのは。

「心配って何のことだ?」

「お店のこと。いつからこんななの?」

「…数えてねぇ。」

 吉子は心底呆れながら厨房近く、納品書などが置いてある棚のファイルをつかむと、パラパラとめくり始めた。徐々に顔が険しくなる。吉子はファイルを清に突き付けて尋ねる。

「なにこれ!」

「帳簿。」

 こともなげに答える清に吉子は顔を赤くしながらさらに声を荒げる。

「そんなことは知ってます。」

「じゃあ、聞くな。」

「物じゃなくて中身を聞いてるの。三週間も前からゼロじゃない。」

 清は目線を吉子から逃がすように窓の外を見やる。

「もうそんなになるのかぁ…。」

 そんな清の態度にますます苛立ったのか、ため息交じりに清を叱る。

「『もうそんなになるのか』じゃないでしょ。どうするの、このままじゃ食べていけないよ。」清はますます吉子に対してそっぽを向き、はぐらかすように答えた。

「そば食ってるよ。」

「それ売り物でしょ…。お父さんどうするの?このままじゃ生活していけないじゃない。」

 娘の口から所帯じみた言葉が続く。正論ではあるが、状況を理解している清には耳障りで神経を逆撫でる吉子の言動に思わずつぶやく。

「母さんに似て、口喧しくなったな。」

 一旦落ち着いていた吉子の怒りに再び油を注ぐ結果になったようだ。吉子の顔はトマトのように赤くなり、唾を飛ばしながら清を怒鳴りつける。

「口喧しくもなります。大体、誰のせいでこうなったと思ってるの。」

本当に弓にそっくりな怒り方をするもんだ、と感心しているところに、入口の引き戸が開かれる音がする。

「おじさん、こんばんは。今日はお土産に…あれぇ!」

入口に突っ立っている、小清水徹郎が素っ頓狂な声を上げる。声に反応した吉子はわざとらしい笑顔と、不自然に強めた名前の呼び方であいさつをした。

「『小清水さん』お久しぶり。」

 女性が時折出す、男を震え上がらせるほほえみ。吉子と徹郎の間に何があったかは知らないが、その笑顔を直接向けられたわけでない清が寒気を感じるほどであった。

 しかしその寒波をもろにくらったはずの徹郎は、何事も無いように頬を朱に染め、吉子に向かって近づいていく。

「久しぶり。吉子ちゃんどうしたの?」

「小清水さんからもらった、わかりやすいメールを見て、お父さんが心配になって。」

 主人を見つけた犬のように体中から出会えた喜びを表現する徹郎。

 そして全身からおおよそ歓迎とは言えない怒気を含んだ言葉を笑顔で発する吉子。

 その中間点にいて、両者の温度差に挟まれている清。そんなあまり体験したくない均衡を崩したのはやはり何も感じていない徹郎だった。

「あ、おじさん。これお土産と、いつものお願いします。」

「あいよ。…タバコ吸ったのか?」

「違うよ、仕事場の同僚。おじさんがタバコ嫌いなの知ってるのに、吸うわけないじゃない。」

 徹郎は慌てながら手に持っていたビニール袋を清に手渡す。吉子に、あらぬ誤解を受けないように、必死で取り繕う。清がビニール袋を確認する。ビニール袋の中にはカルーアの瓶。中身を確認した清は心なしか嬉しそうに「牛乳あったかな…。」と口にしながら、壁で遮られた厨房に入っていった。

 客室スペースには吉子と徹郎、二人だけとなった。

 無言。

 お互いに話しかけようとせず、ただ黙っている。

「ビールとお新香ね。」

「いただきます。」

 清が両手で品物を持ってくる。そしてすぐ厨房に戻って行く。

 再び訪れる沈黙。吉子は窓のそばに座り、ぼんやりと外を眺める。徹郎はいつも座っている、先ほどまで清が寝ていた厨房に近い席に腰を落ち着ける。二人は目線すら合わせようとしない。

 いや、先ほどから徹郎は話しかける機会をうかがっていた。もちろん、吉子もそれに気づいている。そのうえで吉子はこう考えていた。

(なんで話すくらいできないのよ。あなたが来いって言ったんでしょ?)

 徹郎は徹郎でかなり混乱していた。

(なんでここに吉子ちゃんがいるんだろう。いや、もちろんここは吉子ちゃんの家でもあるんだから、おじさんに会いに帰ってきてもおかしくはないけど…。そういえばメール見てくれたって言ってた。だからかぁ。…それにしたらほんとにすぐに帰ってきたなぁ。もしかして何か別の理由で帰ってきたんじゃ…。)

 まさか、自分が送ったメールの真意を問いただすことも理由の一つにあるとは思いもしない徹郎はひたすらビールとお新香に集中するのだった。

「ナンコツね。」

 アツアツのから揚げを持ってくる清。あまりに静かなこの空気に耐えられなくなった徹郎は清に話しかける。

「それにしても、どうしてこんな急にお客さんが来なくなったんだろうね。」

「…さあなぁ。」

 清は一瞬立ち止まると一言返し、厨房に戻ろうとする。吉子は何か思い出したように清を止め、また叱り口調で言う。

「さてはお父さん、お客さんに失礼なことしてないでしょうね。」

「そんなこと、したこともねぇだろ。」

「昔そばに虫が入ってたってお客さんにお湯かけて追い返したじゃない。」

 徹郎は清を助けるため、口をはさむ。

「あぁ、それはその人がわざと虫を入れたんだよ。うちの親父が見てておじさんに教えたんだ。」

「そんなことされてたの?」

 清は口数が少なく、常に眉間にしわを寄せているため、誤解され人と衝突することがよくあった。そのため、そんな嫌がらせを受けたのだろう。

「昔のことだ。」

「それにしたって、そば湯を店の中にまくことはないでしょう。」

 そう。嫌がらせとわかった時の清の対応は、かなり危険なものだった。

 厨房に戻ると手鍋をつかみ、そばを茹でる釜からお湯をすくうと、それをそのまま相手に向けてまいたのだ。幸い距離があったのでお湯は届かず、相手もすぐに逃げて行ったため怪我人は出なかった。

 それでも関係のない客にも迷惑がかかり、弓子がその場にいたすべての客に対して丁重に謝り、すぐにその日の営業をやめ、その後、みんなで店内を綺麗にしたのだった。

 ちなみに、そば湯は温かいうちならば簡単に掃除できるが、冷めてくると打ち粉などが固まり、非常に落ちにくくなる。

「んな昔のことは覚えてねぇよ。」

「その時一番大変だったの、お母さんなんだからね。大体お父さんはいつもいつもお母さんに苦労ばかり…」

「客来てる時にキャンキャンわめくな!さっさとその荷物、片付けて来い。」

 清の怒鳴り声が店内に響く。

「おじさん、客って言っても俺一人なんだし…。」

 清のあまりの反応に徹郎が苦笑いしながら言う。しかし吉子は静かに「いいの」とだけ言うと、キャリーケースを引き厨房の奥、住居へと上がる階段に向かう。古くなった階段を踏み抜くのではないか、という勢いで二階へ上がる吉子。

(なんなのよ、あの言い方。私が何かした?お客さんが来なくなって、お父さん苦労してると思ったから、わざわざこうして帰ってきたのに…。)

 すっかり頭に血が上った吉子はこの家に住んでいたころに使っていた自分の部屋の扉を開けた。キャリーケースを投げるようにベッドに置くと、荷物の整理を始める。

(あ~、こんなにいろいろ持ってこなくてよかったじゃない。)

 吉子はキャリーケースの中から、着替え、替えの下着、化粧品、携帯電話の充電器などを取り出した。ケースの隅、綺麗に折りたたまれたエプロンに触れたとき、手が止まる。そのエプロンは、高校の時に店を手伝っていた時に着けていたものだった。

(まぁ、お父さんが子供なのは今にはじまったことじゃないし…。どうせ休みとっちゃったんだから、一つ私が大人になるとしますか!)

店舗に出る前に化粧を落とす。いつも母がしていたこと。

 吉子はエプロンをつかむと部屋を出て、階段を軽やかに降りて行った。

 吉子は気が付かなかった。八年間、一切使わなかったにしては埃が全くないことに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る