第9話:執事の朝は早い……。
翌朝、一颯は早速三姉妹の内、長女の美涙に呼び出された。
時刻はまだ午前5時と、極めて速い。
館内ではすでに多くの従者が業務の支度にどたばたと忙しない。
従者の朝はこんなにも早いものなのか……。
のそりと起きてのんびりとした足取りで長い廊下を渡る一颯は、さっきから大きな欠伸が絶えない。空は色鮮やかな
(でも、お嬢様達もわざわざこんな朝早くに起きる必要なんかないだろうに……)
自身で基準にすれば、起床時間はどれだけ早くても午前10時頃は絶対だ。
わざわざ朝早く起きる必要もないし、起きたからと言って大した得もない。
これまでの経験において意味がないから、わざわざ早く起きる必要性の皆無さを知った一颯だからこそ、規則正しい生活リズムを送る美涙が不思議でたまらなかった。
それはさておき。
「――、美涙お嬢様ぁ。言われたとおりきましたよぉ」
ノックの代わりに、ドアホンを押す。
ボタンを押すことで室内の照明が点滅する仕組みだ。
「ハイっていいわよ!」と、時間帯をまったく考慮しない大声量に一颯は苦笑いをふっと浮かべた。
聴覚に不自由がある彼女は、適正な声量の加減がわからない。健常者がすればただただ迷惑極まりない騒音だが、やむを得ない事情がある美涙だからこそ許される。
「失礼しま……す……」
「おはようイブキ! 今日もいいテンキね!」と、にこやかに歓迎する。
美涙の室内は、一颯が想像していたものよりも遥かに質素なものだった。
天幕付きのキングサイズのベッドが一つ。後は小さなテーブルに衣装ケースなどなど。
必要最低限のものこそあるが、この部屋には個性が――彼女らしさを表現するものが驚くほどない。これでは客室と差して変わりはないではないか……。一颯がそう思ってしまうのも無理はなく、ならばそれが彼が唖然とする要因なのか――これも違う。
「いや……いやいやいやいやいやいやいやいやッ!」と、一颯はさっと顔を背けた。
ベッドの上から手招きをする美涙は、薄い薄桃色のネグリジェ姿だった。
ただし、下着の類を彼女は一切着用していない。すなわち裸である。
目を凝らせばネグリジェの下にある乳房が見えてしまう状況に、一颯は唖然としたのだった。
(こいつ……何考えてるんだ!?)
10代後半の未成年者であるとは言っても、一人の異性である事実にはなんら変わりなし。
同時に異性を前にしても恥じらう様子が驚くぐらいない美涙の感性が、一颯には信じ難いものだった。
「おはようイブキ! それじゃあサッソクだけどおキガえ、てつだってくれる!?」
「えぇっ!? き、着替えの手伝い……!?」
「そうだよ! セバスチャンとかホカのメイドもやってくれるわよ!」
「おいおい、マジかよ……」
一颯はすこぶる本気で頭を抱えた。
よもや最初の記念すべき仕事が着替えとは、果たして誰が想像しよう。
付け加えれば彼女は異性だ。いくら従者の仕事の一環であっても、異性がしていいものじゃない。どんな依頼でも完遂する赫鉄の代行人であっても、今回ばかりは人生初の断念を余儀なくされた。
「そ、それだったらメイドとかに交代して――」
「ダメ! イブキにキガえさせてほしいの!」
「い、いやでも……」
「……イブキはさ、わたしにとってのなに!?」
「え、そ、それはもちろん……執事……です、はい」
「じゃあこれはおねがいじゃなくてメイレイだから! はいイマすぐキガえさせて!」
「ぐっ……」
一颯は恐る恐る、美涙へと歩み寄る。
彼の胸中では現在進行形で葛藤が激しく渦巻いていた。
主人からの命令であれば、それに従い遂行するのが従者としての務め。
この立場を利用されてしまえば、一颯にはもう成す術がない。
(昨日はメイドに風呂入れてもらったじゃねーか! なんで今日に限って俺なんだよ!)
「ほーらーはーやーくー!」と、手をパンパンと叩いて催促する美涙を心中で強く恨みながら、一颯はついにネグリジェにそっと手をやった。
「うっ……」
「あっ! もしかしてぇコウフンしちゃったとか!?」
「そんなわけあるか! あ、いえ……ないです。ハイ」
「もう、そのカタクルしいシャベりかたやめてってば!」
「いやぁ、無理ッスね」
昨日、健之助から釘を刺されたばかりで早速破る真似はできない。
美涙は心底不服そうに頬をムッとするが、一颯に彼女の感情をくみ取るだけの余裕は微塵もなかった。異性の素肌に触れる機会が早々なかったため緊張するのは、もちろんそうだがすぐに別の要因が一颯を酷く悩ませる。
(こ、これどうやって着替えさせればいいんだ……?)
彼女らが着用するドレスが思いのほか複雑な構造で、男性である一颯が当然初見でわかるはずもない。悪戦苦闘しながらも奮闘する一颯だが、時間だけがどんどんいたずらにすぎていく。
常識的に考慮すれば、まず間違いなく一颯は即解雇となっていただろう。
今日で二日目となるが更衣さえ満足にできずして何が執事か。
だが、美涙は怒らない。むしろその顔はニヤニヤと悪戯を思いついた子供のようで、一颯の動きを静観していた。
「ねぇ~ま~だ~!? わたしサムくなってきちゃったなぁ!」
「す、すいません……!」
「……じゃあイブキにはわたしをだきしめてアッタめてもらおっかな!」
「はいぃッ!?」
またしてもとんでもない爆弾発言に、一颯は激しく狼狽した。
「いやいや! い、いくらなんでもそれはさすがにまずい!」
もはや敬語を使うという当たり前のことすらも忘れてしまうぐらい、今の一颯の思考はひどく混乱が生じていた。
彼女達からの命令は絶対だ、が何事も限度というものがある。
「み、美涙お嬢様……さすがに今回ばかりはできないですって」
「えー!? どうしてできないのよーただギュウッてするだけじゃない!」
「それがまずいんだっての! あぁ、悪いがもう限界だ……!」
半分逃げるようにして出た部屋の中からは「ちょっとイブキってばー!」と、美涙の声が聞こえたが、一颯はその声に応じることなく館内を駆け回る。
廊下を走らないよう注意を呼び掛けた人物がようやくメイドだったことにホッと安堵して、事の次第を早急に伝えた。
「――、はぁ。マジでどっと疲れた……」
自室にて一颯はベッドに身を投じる。
全体重を預けたベッドからはボフッと音を鳴らして、身体を優しく包み込む。ふわふわとして、とても暖かくて心地良い。
いっそのこと、このまま二度寝してしまおうか……。
しかし、そうは問屋が卸さない。うつら、うつらと漕ぐ船が後少しで睡眠に辿り着こうとしたその直後「一颯さんおはようございます」と、美しい声色と控えめなノック音に、彼の意識は強制的に微睡の海から現実へと強制送還を余儀なくされる。
「おはよございます一颯様」
「あ、よ、夜魅お嬢様……!」
一颯はすぐにベッドから飛び起きた。
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