第5話:初日から始まる命の綱渡り

 洋館は、その外観から察せられるとおりとてつもなく広い。

 半強制的に三姉妹から連れ出されてからおよそ二時間。一颯は未だ洋館の中についての説明を受けていた。見回った部屋の数はざっと16と、この数字だけでも十分に多い方に部類されるが、三姉妹の説明が終わる兆しは皆無である。


(これ、今日中に終わらないんじゃないか……?)


 一颯がそう不安に思うのも、まぁ無理もなかろう。

 部屋の数は確かに多いが、半日もあれば終わらないことはない。

 なんの問題もなくすんなりと事が進めば、の話であるが。



「――、それで、こちらが書斎となります。世界中にある珍しい書物がたくさんありますので、一颯さんも是非遠慮なく読んでくださいね」

「そーそー! おもしろいホンがいっぱいだよ!」

「あ、ありがとうございます夜魅お嬢様、美涙お嬢様……」

「もう、一颯さんその呼び方はやめてくださいとさっき言ったばかりですよ?」

「いや、しかしですねぇ……」

「……琴葉お姉さまには普通に接するのにですか?」



「そーだそーだ!」と、三女の言葉に激しく便乗した。


 こう言われてしまうと、一颯はぐぅの音も出ない。

 むろん彼に姉妹間でえこひいきするつもりは毛頭ないが、当事者らはそうとは思っていないらしい。

 そして“アタシの特権だから~ぷぷぷ~w”と、わざわざしなくてよいものを、スケッチブックにでかでかと書いて煽る次女に、姉妹の顔に明確な怒りが孕んだのを、一颯は見逃さない。


 一颯は瞬時に予感する――ここで仲裁に入らなければ、きっと血の雨が降るだろう。

 記念すべき最初の仕事が、まさかの仲裁。

 これにはさしもの一颯も困惑を禁じ得なかったが、すでに従者としての仕事はもうとっくに始まっている。


 やるしかない。一颯は大きく深呼吸をして、今にも殴り合いそうな雰囲気をかもし出す三姉妹の中へと身を投じた。



「わ、わかりました……いや、わかった! 二人が本当にそれでも構わないって言うんだったら、俺も普通に接しさせてもらう」

「まぁ、本当ですか!?」

「やったー!」



 噴火する寸前だった火山が、急速に落ち着いていくかのような心境。

 とりあえず難は去った……。

 満面の笑みと共に身体全体を使って喜ぶ二人。家柄や服装、加えて佇まいと令嬢である彼女達だが、一颯の前に披露する姿は年相応のごく普通の少女となんら変わりない。

 外見相応な反応にホッと安堵するが、“ちょっとそれはないんじゃない!?”と、横から上がる猛抗議が一颯の安堵する時間を無慈悲にも剥奪する。

 どうやらこの決定に不服が強くあるらしい……。

 しかしこれ以上にない選択肢だと一颯は頑なに信じているので、琴葉からの講義には半分無関心を装っていた。



「いや、そうは言ってもだな……。それに俺を雇用したのって姉妹全員だって話だろ? だったら三女だろうと長女だろうと、俺の雇用主なんだから言うことを聞くのは当然じゃないか?」



 この一颯の反論に、次女がジッと彼を睨んだ。

 睨む、という表現を用いたものの覇気の類はまったくなくて小動物のような愛くるしささえある。

 要するにまったく威圧感もないので怖くなかった。

 それが琴葉の機嫌を更に悪化させ、ついには地団駄を踏んで“アタシだけの従者になってよ!”と、ワガママっぷりを発揮した。



「いや、それは――」

「まったく、ワガママを言うのもいい加減にしてください琴葉お姉さま」



 一颯が言い切るよりも先に、夜魅が反論した。

 そして――何故突拍子もなくそのような行動をとったか一颯は当然知る由もない。片方の腕に自らの身体をべったりと密着した。

 ドレス越しからでもしかと感じる女性を象徴するソレは、一颯の右腕を優しくも深く挟み込んで離そうとしない。

 大抵の異性であれば、このようなシチュエーションにどきりとしてしまうだろう。鼻の下を伸ばして感触を思う存分堪能することだって十分にあり得る。

 一颯も例外に漏れることはなかった――しかし一秒、たったの一秒だけ味わった幸福は、氷の如くひんやりとした体温によってきれいさっぱり消失した。


(なんでこいつの体温こんなにも低いんだよ……まさか、すでに死んでるとかじゃないだろうな!?)


 不謹慎なのは重々承知で、だが一颯はそうすこぶる本気で夜魅を疑った。



「あ、ヨミだけずるい! わたしだって!」と、反対の腕にヒシッと抱き着く。



 こっちの方は、ただただ冷たいばかりで柔らかさは何もない。神経を研ぎ澄ましてようやく、感じるか否かの際どさには、一颯の表情かおも清々しいぐらい平常であった。

 いずれも長女としての威厳は、どこかに失ったらしい。

 長女と三女、二人が起こした突然の反撃に琴葉はわなわなと肩を震わせる。右手の万年筆――それも見るからに高級品だろうに、ベキリッと嫌な音と共にくの字にへし折れた。スケッチブックも歪な形に変形して、使い物になるまい。



「お、おい琴葉落ち着け……マジでなんかヤバそうだから。割とマジで落ち着いてくれ」

「ひっさしぶりにケンカする!?」

「あらあら……争いごとはわたくしとしても嫌なのですけど――久しぶりに思う存分暴れると言うのも、悪くありませんわね」

「うぉーい! なんで平和的解決しようってしてるのに煽るんだよ!?」



 見た目に反して好戦的である姉妹達に、一颯だけが一人ぽつんと蚊帳の外へと追いやられる。


 一触即発の状況――後ほんの少しでも、なんらかの刺激が触れただけでたちまち大爆発を起こすのは明白だ。

 どうしても、彼女らの喧嘩が普通とは思えない……。

 かわいらしくポカポカと叩き合う程度であれば、さして慌てる必要もなかった。

 むろん、喧嘩なので仲裁に入る。体温の異常な低さはともかく彼女らの肌は傷一つない、とてもきれいな肌をしているのだから。


 壮絶な殴り合いに屋敷の中が半壊する――これはあくまで、一颯が抱いたイメージにすぎない。

 現実で建物が半壊するほどの姉妹喧嘩など、世界中のどこを探したってあるはずがない。普通だったならば、誰しもがこう考えるだろう。

 よって一颯のイメージについても、いくらなんでも誇張のしすぎだ、とこう揶揄する者だってきっと少なからずいる。


 しかし、単なるイメージだと一颯は片付けることができなかった。

 確固たる証拠はない。しいて言うならば己の直感力だった。



「はいはい、本当にマジでストップ。これ以上喧嘩するって言うのなら俺、自分の身がかわいいから今すぐにでもこの仕事降りるからな」



 多額の借金返済の目途がこれで立たなくなるが、背に腹は代えられない。

 命あってこそ労働も趣味嗜好にも人間は味わえる。

 死んでしまっては、それらの苦楽も味わえなくなる。

 それはあまりにも面白くない。一颯はそう思った。



「姉妹喧嘩をするなとは、俺だって言うつもりはまったくないぞ。姉妹なんだ、喧嘩の一つや二つや三つや四つぐらい、して当たり前なんだから。だけど過剰なのはさすがの俺も見過ごすことはできない。これ以上、それこそえげつないぐらいの喧嘩をするって言うのなら……俺はマジで今すぐこの依頼を破棄する」



 一颯は三姉妹をジッと、鋭く見据えた。


(――、つっても、こいつらにどれだけの効果があるのやら)


 自分で宣っておきながら今更になって一颯は、改めてこの状況を如何に打破するか沈思した。

 さっきの言い分には、彼女らを制するだけの抑止力が微塵もない。それは当事者がよくよく理解していることで、だが本心でもあった。

 もっとなにか、うまい方法はないだろうか……。

 沈思するも妙案の一つも出ない一颯は、内心ではひたすらうんうんと頭を悩ませた。



「……お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません一颯さん」



 そう真っ先の謝罪したのは夜魅だった。主人が一介の従者に頭を深々と下げる、この光景は当然あり得ないしあってはならない。

 一颯にとって幸いなのは周辺に住民がいなかったこと、万が一現場を目撃されようものならば即刻重い刑が下されよう。

 それこそ、クビで済めば幸運と思えるような罰だ。

 だからと言って完全に安心できないのも然り。

 いつどこから人がやってくるかわからない中、一颯は慌てて夜魅の説得に入った。



「た、頼むから頭を下げるのだけはマジでやめてくれ! 構図的にかなりやばいから……俺が!」

「一颯さんがそう仰られるのでしたら……」

「マジで頼む……」



 殺伐とした空気は再び、平穏な空気を取り戻して一颯はホッと安堵の息を一人静かにもらした。

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