第4話:三姉妹(下)
クリーム色のショートボブと、薄紫という非常に稀有な色をした瞳――本物のアメジストがそこにあるみたいに、キラキラとしている――が印象的な彼女は、人形のような愛くるしさのある可憐な少女だ。もっとも、両方の耳をすっぽりと覆う耳当ての存在がどうしても一颯は視線を外すことができなかった。
「おぉ、これは美涙お嬢様。いかがなされましたか?」
執事として第二の来訪者――どうやらこの娘が美涙というらしい――に応対する健之助。
さっきとの相違点は、穏やかで優しい口調と一緒になって身体的動作が著しく増えたこと。
手の形をいくつも変えそこに身振りまで加える。傍から見れば単なる怪しい動作でしかなかろうが、世界中のどこを探してもそう非難する輩は一人もおるまい。
何故ならそれだけ健之助のしているソレは一般的であり、技術こそなくとも知識だけたったら誰しもが知っているものだからだ。
(あれは、手話だ……)
手話――耳が聞こえない相手と会話するためのコミュニケーション技法の一つ。
手の形や身振りでいくつもの単語を表現する。それを見事に使いこなす二人の会話に、当然一颯はついていけない。
「セバスチャン! そこにいるヒトはダレ!? もしかしてだけど、そのヒトが!?」
「えぇ、そうですよ。こちらの方が一颯様です」
「えっ!? ホントにッ!?」と、少女の顔にパッと花が咲いた。
「えぇ、もう少ししたらオリエンテーションの方も終わりますので。ですから後ほんの少しだけお待ちください」
「わかったわセバスチャンッ!」と、少女は大きく頷いた。
満面の笑みをぱっと浮かべる彼女は、なんだか子犬のような愛くるしさがある。
あるはずのない尻尾と耳があるような、そんな気さえしてきた一颯は何気なく少女の頭にそっと触れた。
当たり前であるが彼女に犬耳も尻尾も生えていない。触れた指先はクリーム色の髪へ、指の間をさらさらと流れる質感はどこかクセになる。
やはり、異様なぐらい冷たい……。
ひんやりとした感覚に一颯は一瞬戸惑った、のも束の間。
ジッと見上げる少女の顔がいつの間にか、不服そうに見上げている。
(もっと撫でろってことね……)
一颯が愛撫を再開すると、少女は猫のように目をそっと細めた。
しばらくして、満足したのだろう。手を振りながらパタパタと少女は退室した。
「えっと、今のは――」
「えぇ、先程のお方が長女である美涙お嬢様です」
「えっ!? ちょ、長女なんですか!?」
驚く一颯に「えぇ」と、一言だけ返す健之助の口調は終始穏やかなままだ。
言葉悪くして言えば、彼女には長女としての相応しい雰囲気が皆無だった……。
夜魅の方が身体的な部分はもちろん、大人びた言動から長女として間違ったとしてもなんら違和感がない。
故に一颯は、どこか子供っぽかった美涙が長姉だと言う事実に痛く驚いてしまった。
「あ、先に申しておきますと。美涙お嬢様の前で決して、肉体的なことは言わないでください。あぁ見えても繊細なお方でして、こと胸の話になると我々でさえも手が付けられませんから」
「わ、わかりました……」と、一颯は素直に頷いた。
もちろん、警告されたにも関わらず本人を前にして口にするような愚行を一颯は侵さないし、そんな気さえもない。
人間に何かしらのコンプレックスがあるものだ、それをダシにしてあれこれ言及するのは、せいぜい小学生ぐらいなもの。それと同じように振る舞うことこそ、大人気ないうえにひどくカッコ悪い。
胸の大きさも千差万別。大きいのもあって小さいのもある、だからいいのだ。
「改めまして――美涙お嬢様はお察しの通り、耳に不自由がございましてほとんど聞こえません。あぁ、会話については問題ありません。美涙様は読唇術……つまりは、相手の唇の動きで内容を把握されますので。ただ会話の際は言葉だけではなく手話も一緒によろしくお願いします」
「あの、俺手話とかやったことないんですけど……」
「教えます」と、にこりとする健之助。
果たしてそれらは、いったいどこから取り出したのやら。机の上にズラァッと並べられたのは、何冊もの分厚い本。これがマンガであれば一颯も文句はなかっただが、生憎デカデカと表紙を飾る“猿でもわかるかんたん手話”のタイトルから察せられるとおり、退屈極まりないものだった。
これらが意味するものはたった一つのみ――学生という身分でなくとも、必要に応じてしなくてはならない、勉強。この二文字を前にした途端、一颯の
「俺、勉強とかしたくないんですけど」
「それは認められません。ここの従者として雇われたからには、きちんと学んでいただきます」
「そ、それじゃあ筆談は? 別に紙とペンがなくったって、メールっていう超簡単な方法だってあるし」
あくまでも、自分が勉強したくないため。
どうにかして少しでも回避しようとする魂胆から必死に言い訳をする一颯。
だが、それをこの健之助という男は決して引けを見せない。
深い溜息の後、口調はさっきまでと同じく穏やかなままでありながらしかし、声質は鉛のように重く刃のような鋭さを帯びた。
「わかっておりませんね一颯様。それは現代人の悪いところですよ。なんでもかんでも、便利なものばかりに頼っていては人間堕落の一途を辿るばかりです。とにもかくにも、メールや筆談と言った方法も禁止します」
「うげぇ……マジかよ」
「一週間……いえ、三日もあれば大丈夫ですよ。この健之助がしっかりと責任をもって、一颯様にお教えいたします」
「はぁ……やるしかないのかぁ」
一颯は深い溜息をもらした。
(この歳にもなって勉強かよ……まだ21歳だけどさぁ。もう勉強って気分じゃないんだよなぁ)
余談だが、一颯がもっとも嫌いなものは一位が勉強である。後の二位は努力、三位は金欠だ。
それはさておき。
「それで、最後のお嬢様ですが――」
今度は今までで一番豪快に、その人物は来室した。
扉が壊れそうな……もとい、見るも無残な形になった扉の上をドカドカと踏んで入室する少女に、一颯は唖然とせざるを得ない。
身内ではひょっとするとこれも日常茶飯事な光景なのだろうか……。
対して、健之助はというとさして驚きもせず「あぁ、これは琴葉お嬢様」と、にこりと彼女の来室を快く迎え入れた。
少女は、フリルの付いた漆黒のドレスを見事に着こなしている。スカートから覗く二の足はすらりと細くてきれいな――骨のように真っ白な肌がとてもよく目立つ。真紅のバラを飾った小さな帽子が彼女の藍色の髪にちょこんと鎮座しているのが、なんともかわいらしい。
そして彼女も例外にもれることなく、大きな黒いマスクという異色な特徴があった。
「ご紹介いたします一颯様。こちらが次女の琴葉様です」
「あ、えっと……はじめまして」と、一颯は小さく頭を下げた。
少女は――健之助の時もそうだったけど、いったいどこから出したのだろう――大きなスケッチブックにペンをすらすらと走らせた。
どうやら筆談をするという方法を取るらしい。
「“こんにちは、アタシの名前は琴葉だよ!”――か。はじめまして、琴葉……お嬢様。俺の名前は
一颯は改めて、これより雇用主となる少女に対して今一度、深く丁寧に頭を下げた。すると少女――琴葉は続けてスケッチブックにペンを走らせた。
たださっきまでと違うのは、彼女の
バッと出したスケッチブックには“敬語はやめて、普通に話して、敬語は止めて”と書かれている。
「いや、でも……」と、一颯は大いに困惑した。
主人の命令には、絶対服従であるのが従者としての条件だ。
琴葉は雇い主である、故に命令を拒否する権利は一颯には存在しない。
かといって、言葉のまま従って果たしてよいものなのか。この葛藤が一颯の心に激しく渦巻いた。事情を知っていようと従者が雇用主に対してタメ口で話すなど、前代未聞の光景だ。
しかし「一颯様」と、健之助がゆっくりと首肯する。
「え、えっと……じゃあ、これからよろしくな。琴葉……」
おずおずと普段通りの接し方をする一颯に“よろしくね!”と、文字の共に満面の笑みが彼女の顔にパッと咲いた。
「琴葉お嬢様、もう少しでオリエンテーションの方も終わりますので」
健之助に頷いて琴葉は元気よく部屋から出ていった。
「……琴葉様は声を出すことができません。ですのであぁやって、筆談でコミュニケーションをされます。ですが一颯様は絶対に筆談はしないでください。琴葉お嬢様はお声を聴くのが何よりも大好きなお方ですので」
「は、はぁ……」
「――、お嬢様達のことは以上です。それでは最後にこの屋敷でのルールについてご説明いたします」
「まだ何かあるんですか……?」
「ご安心ください。ルールはたった一つだけですので、内容もそんなに難しいものではありませんから」
明らかに嫌がる一颯に、健之助が静かに笑った。
「一颯様、この屋敷の従者として働く以上、夜遅くの外出は固く禁止しております。また日中でも外に出る時は決して
「え?」
「出掛けるな、とは言いません。誰かが同行していればそれで構いませんから」
健之助からのこの禁止事項に、一颯は内心ではて、と小首をひねった。
規則だから、こういわれれば一颯も拒否する道理は特にない。
郷に入っては郷に従え――規則なのだから従うのは至極当然である。
だが、疑問だけが一颯の胸中に残った。
「どうして、一人で出たらいけないんですか?」と、一颯がそう尋ねるのは無理もない。
「この辺りには以前から恐ろしい怪物が住んでいるのです」
「怪物……ですか?」
「えぇ怪物です――」
「セバスチャン、もう待てませんわ! 一颯さんとのオリエンテーションはまだ終わらないの?」
そう言ってドカドカと入室した夜魅を筆頭に、ついさっき出ていったばかりの琴葉と美涙もやってきた。
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