追懐

 あれはいつの記憶だったか――。いつもの昼下がり、学園の庭で本を読む彼女に僕は声を掛けた。

「ゾエ、何を読んでいるの?」

 彼女は顔を上げると顔を引きつらせて俯く。そしてそのまま去ってしまった。この時の僕は彼女が気に障ることをしてしまったのかと悩み、隣にいた弟に訊ねてみる。すると弟は困ったように「実は――」と話してくれた。数日前彼女に呼び出されて、本当は弟が好きだったと告げていたことを。

 僕にとっては青天の霹靂だった。幼い頃からお互いだけを見てきたはずの僕たち。けれど、この気持ちは僕だけのものだった。ショックだったけれど、彼女の幸せを考えて僕は身を引くことに決めた。

「ゾエ、僕たちの婚約は破棄した方が良いと思うんだ」

 そう告げた僕は彼女の顔を直視できなかった。

 数週間ぶりに会った彼女はどこかやつれているように見えたけれど、それほど僕に会いたくなかったんだと思った。僕の提案に彼女はどこか清々しい顔で微笑を浮かべる。

「わかりました。貴方がそうおっしゃるのなら、受け入れます。どうかお幸せに」

 この時、僕は生まれて初めて彼女に腹を立てた。受け入れる?お幸せに?僕の幸せは君の隣でなければ成しえないのに。それなのに、君がそれを口にするなんて――と。

 けれども長年受けてきた教育の成果は素晴らしいものだ。僕は彼女に一切気持ちを気取られることなく、穏やかにその場を収めたのだから。

 それから間もなく彼女の――ゾエの裁判が決まった。その頃僕は彼女の名前を聞く勇気が持てず、周囲には彼女の名前を出すなと言っておいた。そのせいで、彼女の裁判の日に初めて話を聞いた。僕は慌ててその場に行ったが、彼女へのヤジが飛び、罵声だけでなくそれぞれが持っていたあらゆる物を投げつけられる異様な空気に足が竦み僕は何もできなかった。

 後から聞いた話だが、ゾエは敵国の内通者で、悪魔に憑りつかれた悪女だったと。そう、弟の婚約者が証言したらしい。兼ねてより、弟に懸想していた彼女は婚約者である自分に陰で様々な嫌がらせを行い、挙句命まで狙われたと。その言葉を否定する者は僕を含めていなかった。僕はこの時も彼女を見ることができなかった。見てしまったら、僕の選択が間違っていたことを認めるみたいで怖かった。

「大丈夫、彼女は侯爵家の娘だ。何があっても侯爵が彼女を救うはず……」

 自らにそう言い聞かせ侯爵を探すもその姿は見当たらない。そうして、彼女の処刑が決まってしまった。

 僕はこんなのは間違っていると言いたかった。けれど、雰囲気にのまれ声を上げる事すらせずに、法廷から去る彼女を見て取り返しのつかないことをしてしまったのだと悟った。

 ふらふらと城に戻り、弟の元へ走る。あいつは何をしていたのかと、腹が立って部屋に乗り込んだ。

「兄さんじゃないかどうしたの?」

「どうしたじゃない!これはどういう事だ‼どうしてゾエが処刑なんて――!」

「どうして?当たり前だろ?僕の婚約者を虐めるスパイ女なんて殺した方が国のためじゃないか」

「なあ?」

 そう声を掛けた先にはゾエを悪女と罵った女が一糸まとわぬ姿で寝ていた。そのおぞましさに胃液がせりあがる。

「ちょっと、僕の婚約者なんだからあんまり見ないで?」

「お前、ゾエが好きだったんじゃないのか?」

「はあ?誰があんな女!兄さんに操を立ててるからとかぬかしやがって、この僕がせっかく可愛がってやろうとしたのに逃げやがって‼」

 そう吐き捨てる弟の言葉が理解できない。弟はそんな僕など眼中にないのか更に自分がしたことを挙げる。

「ふっ、にしても傑作だったなあ!あの女無理矢理してやったら泣き叫んで許さないって喚いてさ、むかつくからエレノーの罪を被ってもらったんだよ」

「……は?ゾエはお前を好きだったんじゃないのか?」

「え?なにそれ初耳!誰から聞いたのそれ?」

 僕は眩暈がして、そこからの事は覚えていない。ただ、気が付けば笑いながら弟の顔を殴っていたらしい。騒ぎを聞きつけて入ってきた兵士たちによれば、僕は拳を真っ赤に染め上げ支離滅裂な事を叫びながら弟を殴り殺していた。弟の身体は既に冷たくなっていたのにもかかわらず僕は殴る手を止めず、逃げようとしたエレノー・ハルフェン令嬢の髪を掴み上げ泣き叫ぶ彼女を壁に叩きつけて笑っていたとか。

 ハルフェン令嬢は一命をとりとめたが身ごもっていた子供は流れ生涯子を望めぬ体になったと後日父に聞かされた。さらに父からは己のしたことの責任を取れと言われ、目の前で処刑されるゾエを見届けろとの命が下った。

 僕はただ自分の愚かさに辟易して、廃嫡を申し出た。父は渋々と言った顔で受け入れてくれたが、僕にはもう限界だったのだ。それから王位は第三王子である弟が継ぎ、僕は遠く離れた辺境の地で余生を過ごした。

 そう、僕はそうして死んだはずなんだ。それなのに、一体どういう事だろうか。僕はもう久しく帰っていなかった王城じっかにて目を覚ました。

「はああああああああああああああああ⁉」

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