4-4 音楽室の夜

 「で、お前はなにかの立会人にでもなるのか」


 新月の夜の夜半過ぎ。音楽室に集まった面々を眺め、ケインは小声でソシギに尋ねる。


「俺が提案したのは、俺とロベルトの寝ずの番までだ。メイとダリオは、万に一つ自分たちの活動が原因だったらと、同席を申し出てきた。結果、見事な三角形プラス俺になったまでで、他意はない。というか、さすがに気が重い。ケイン、乗り掛かった舟だ、お前も同席しないか」

「遠慮しとくよ」


 防音結界の中の二人とそれを見つめる亜麻色の髪の後姿を眺めながら、ケインはニヤリとする。


「長い夜になりそうだな」


 赤毛の教官が立ち去ると、音楽室には奇妙な沈黙が落ちる。

 ピアノの前のロベルトが確かめるように座りなおすと、メイの目に緊張が走るのが見て取れた。


 ロベルトがピアノを弾く姿を見るのは、ソシギにとっては初めてのことだった。もちろん防音結界に阻まれて、音は全く聞こえない。そもそも音楽に疎いソシギには、彼の演奏する姿が演奏家として一般的なものなのかは分からない。分かるのは、ほとんど姿勢も表情も変化させず腕から先だけが滑るように動く、彼らしい抑制のきいた演奏スタイル、そこに時折交じる激情に近い瞳の色と結界の震え。そして、彼の音の織りなす波を見ているであろうダリオの、やや呆然とした表情が物語るものだけだ。

 ロベルトの独奏が続く。舞踊を見ているようで意外と飽きないものだ、ソシギは少しおかしくなる。しばらくして彼の手が止まり、メイが振り向き二人は言葉を交わす。


 メイが弓を構えた。

 ロベルトの指が再び鍵盤を滑り出し、メイの弓が引かれた時、それまでほとんど姿勢を変えなかったダリオが何かに打たれたようにビクリとしたのが分かった。

 二人と、二人の織りなす音を見つめるダリオの目が細まり、徐々にその顔がゆがんでいく。絶望、という言葉を具現化して目鼻をつけたらこうなるか、と言った彼の横顔を、ソシギは静かに眺める。


(若者よ、初恋ってのはたいてい、苦いもんだ)


 我ながらじじむさいセリフが浮かび、苦笑する。


(あとは、あの二人か)


 抑制の中に激情をたたえるロベルトのピアノ、普段からは想像しえないほど情熱的な姿のメイのチェロ。音のない演奏会を、ソシギは黙って眺め続ける。


 明けの明星も近いかという頃。

 ふいにピアノの輪郭がぼやけた。黒い側板にさざ波が立ち、鍵盤に向かいうごめいた瞬間、ソシギは鋭い声を放った。


「止めろ」


 ロベルトとメイは目を見開き静止する。

 冥府めいふつかい。新月の夜、漆黒の道を通って現れるというそれが、彼らの前にぼんやりと浮き上がる。黒い小さな人形ひとがた


「ピアノの色と振動に、惹かれてきたか」


 ソシギの言葉に、楽器を物とは見られない音楽家たちは顔を見合わせる。

 ソシギは静かに防御壁を展開しようとする。ふいに、その身体の表面が黒変した。


「ソシギ!?」


 彼の身体を黒い糸が覆っていく。網から繭へ。固まる魔術師たちの耳に彼の声が切れ切れに届いた。


「逃げろ。地の精霊の、芽胞……菌糸、俺の中に、巣食って……逃げろ」


(地の精霊の眷属に寄生されている)


 ロベルトは、ソシギを覆う繭から、すくりと芽が立つさまを見て総毛立った。


(子実体……胞子と瘴気をまき散らされたら)


 少なくとも学校内、下手をすれば半径数キロは全滅だろう。開こうとする萌芽を氷で覆いながら彼は腹を決める。


「ダリオ。メイを連れてここから離脱しろ」


 我に返った様子の亜麻色の髪の青年に短く告げる。


「でも、お二人は」

「逃げろ。4人死ぬか、2人死ぬかだ」


 その時、ロベルトの左手をメイがつかんだ。


「二人だけで、行けるわけ、ないでしょう」


 すもも色の瞳を一瞥し、ロベルトの右手に氷の斧が現れる。


「何を――」


 メイの表情が凍り付く。


「馬鹿が!!」


 がつり。ロベルトが自らの左腕に振り下ろした氷の刃は、赤毛の魔術師のぎらつく稲妻の刃で弾かれた。ケインはそのまま反転し、その手の稲妻の手斧は、流れるようにソシギを絡めとる黒い繭を切り裂く。

 次の瞬間、ソシギの自由になった右手が動き、彼を覆っていた黒い繭と、冥府のつかいの黒い人形ひとがたは掻き消えた。


 音楽室には5人の荒い息遣いだけが響く。


「……ロベルト。底なしの馬鹿だな。腕は生えてはこないんだぞ」

 ケインの低い声。


「ソシギ。ドッキリにしては身体張りすぎだろ」

 うずくまったやせぎすの教官の右手がすまん、というようにひらりと揺れる。言葉を発せられる状態では無いようだ。


「……まずは治療だな。ダリオ、ソシギを救護室に運ぶ、手伝え」

「……はい」


 立ち尽くすメイとロベルトの二人をちらりと横目で見てから、ダリオはケインに従い部屋を出る。



 メイに左手首を握られたまま、ロベルトは半ば呆然と立ち尽くしていた。彼女の手から伝わってくる震えが、胸を苦く甘く満たしていく。


「お願いだから、無茶をしないで。私のそばに居なくてもいいから、……死なないで」


 彼女の声音に、ロベルトの喉がきゅうと締まる。


「生きて、……幸せになって。お願い」

「……俺は馬鹿だな」


 漏れ出た声は、自分でも驚くほど弱弱しかった。


「もともと馬鹿だが、君が絡むと、まるで頭が働かなくなる。挙句に、このざまだ」


 とうの昔に征服されていた聖域を、認められずに逃げ回った。

 この手を離せば、残るのは空っぽのむくろだけなのに。

 ロベルトは、彼の手首を握り続けるメイの右手に、自分の右手を重ね、彼女の前にひざまずく。


「俺は馬鹿で、弱虫の臆病者だ。でも、許してもらえるなら、二度と同じ過ちは犯さない。全身全霊をかけて君を愛し、守ることを誓う。……俺を、君のそばに居させてくれ」


 音楽室の窓から、曙の柔らかな光がうっすらと差し込みはじめる。

 のぞきこむ先の涙にぬれたすもも色の瞳は、あの日と同じく澄み切っていた。

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