4-3 単純な男

 音楽室に、幽霊が出る。

 おおよそ魔術師を養成する学校のものとは思えないうわさを引き連れてソシギがケインの教官控室へやって来たのは、それから半年ほど経過した、夏の初めのことだった。


「幽霊ね……」


 ケインは顔をしかめる。学校にありがちな不思議話に、教員が駆り出されるのは心外だ。


「メイ」

「はい。……最近夜に音楽室で演奏をさせていただいています」


 メイの返答はあっさりとしたものだった。最近、非常勤教官として度々学校を訪れる、例のダリオの求めに応じたものだという。


(あいつ。密室で二人きりとか、下心ありありだが大丈夫なのか)


 ケインの考えは顔に出ていたらしく、メイはちらりと微笑む。


「魔音の可視化の研究をしているそうです。私も、聴覚でなくても、自分の音を人に感じてもらえるのが、うれしくて。……つい、過剰に協力的になっていたかもしれません。問題があるようでしたら、今後は控えます」


 彼女の表情に、言葉以上のものを感じ、ケインはやれやれと思う。その後どうなっているのか知らないが、ロベルト、お前、本当に元生徒に負けつつあるぞ。


「ただの他愛ない噂話なら、わざわざ相談などしない。目撃者に状況を確認したが、俺はきな臭さを感じる」


 ソシギの言葉にメイの顔色が変わる。


「演奏は防音結界、不可侵結界を張った中で行っています。万が一にも、外部の生徒には影響があるとは思えません。また、私が感じる範囲では、音楽室内に、おかしな気配はありません」

「……一度、調査を入れる必要があるな」


 自らもすでに音楽室は探索済みであろうソシギの声には、思案の色があった。



 ポーン。結界が張られた音楽室内の独特な反響は、否定しようもなく懐かしい。

 そのままざらりと鍵盤に指を滑らせ、ロベルトは顔をしかめる。


「音の狂いがひどいな」


 彼が去った後、このピアノを演奏しようという者はいなかったと見える。

 ふいに背後に人の立つ気配がした。


「ロベルト師。派遣調査ですか」


 身構えた耳に入った声は、予期していたものではなかった。


「あなたが派遣されるとは。……まあ、適任でしょうが」

「君、どこまで、聞いてるの」


 眉をひそめてロベルトは背後を見やる。振り向いた先の亜麻色の髪の青年は、ひどく挑戦的な目をしていた。王宮魔術師兼魔術師学校非常勤教官、ダリオ。


「『音楽室の幽霊』を見に行った生徒が3人、悪霊と思わしき不審な影を目撃していると」

「過不足ない情報だな。で、君の見立ては」


 ロベルトにとって、7歳下の王宮魔術師はかわいい後輩と言ったところだ。


「この部屋には何の魔力の残滓も見えない。ただの噂でしょう。それよりも、ロベルト師に確認させていただきたいことがあります」


 琥珀色の瞳にまっすぐ見つめられ、ロベルトは苦笑する。


「……僕は、メイ先生が好きです。ロベルト師とメイ先生が、恋人であったことは、色々な方からお聞きしました。お二人の関係は、もう過去のことと考えて、差し支えありませんか」

 あくまで直球勝負の後輩に、ロベルトの苦笑いは深まる。


「……メイはどう、言ってるんだ」

「今はあなたにお聞きしています」


 ロベルトは目を伏せる。彼の指が鍵盤の上を滑り、いびつな音階が紡ぎ出される。


「時間が経てば、どんなピアノでも、こんな風に少しずつ狂っていくものさ」

 ロベルトはため息をつく。


「聞くに堪えないと、思わないか」

「それが答えですか」


 ロベルトは、ピアノの黒い前板に映るダリオの影を眺める。この胸の奥の感触。


(初めて彼女のチェロを聞いたとき以来だな)


 それを自覚できる自分は、あの時から多少は進歩したのだろうか。


「好きにしたらいいさ。君とメイの関係は、君たちの問題であって、俺とは関係ない。君がメイを口説くのに、俺の許可はいらない」

「分かりました。それでは、そうさせてもらいます」

「……君の率直さが、うらやましいね」


 ダリオの瞳の奥が光った。


「ロベルト師。あなたは僕より7歳も年上で、僕とは段違いの力をお持ちです」

 ダリオの声音に、ロベルトは知らず身構える。


「あなたに僕がどう映っているかは、大体想像ができます。でも、僕は、選んで単純明快でいるんです。それは、あなたが思う程簡単なことじゃない。あなたとあの人が、暗い淵を共有していることも、あなたが、あの人との関係を複雑に考えたがっていることも、それによって何かから逃げようとしていることも、僕は分かっているんですよ。僕はあなたとは違う。物事を複雑にしないことの大切さを、知っている」


 ロベルトは表情を変えまいと努めた。この7歳下の後輩に、彼は初めて脅威に近いものを感じていた。今、自分の中の魔力の波は、あの琥珀色の瞳にはどのように映っているのだろう。


「メイ先生の中の埋まらない空虚さにも、苦しみにも、僕の理解力はおよばないかもしれない。それでも、僕は僕の単純さで彼女を救って見せます」

「……」


「修羅場っているところ失礼」

 突然、音楽室に満ちた緊張を破ったのは、淡々とした声だった。


「ソシギ」


 二人はほっとして振り返る。


「ロベルト。手を煩わせて悪いな。この部屋も楽器も、どうにも俺の守備範囲外なんだ」

「少なくとも今見たところでは、音楽室にも、楽器にも悪霊の気配はないが」

「そうか。だがどうも引っかかる。新月の夜、ここで俺とお前の二人で、寝ずの番をしたい」


 ロベルトの眉が上がる。口元には、いつもの面白がる笑み。


「随分と気合が入っているな。分かったよ。……とりあえず、このピアノ、調律してくれ。泊りの計画は、それからだ」

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