4-2 長い春

 いつの間にこんなことになったのか。メイは嘆息する。2年前。――



――誰かが結界を叩いている。

 閉じていた目を開き、メイは弦の上を滑らせていた弓を止める。宵闇の音楽室。不可侵結界を張ってはいたが、人が来ることは想定外だった。

 結界に打ち付けられる力は、それほど強くはないが執拗だ。ため息をつき、防音のドアを開く。


「……こんな時間に、どうしたの」


 ドアの前に立っていたのは、青年だった。確か、今年5年生。実践授業に入り、驚異的に実力を伸ばしている生徒。


「先生、見学させてください」

 ひどく真剣なまなざしで、青年は彼女を見つめる。


「私は魔音使いよ。あなたに演奏を聴かせることは、できないわ。……ダリオ君」

「構いません。防音結界の外で、演奏を見させてもらいたいんです、後学のために。……魔音がどんな見え方をするか、知りたいんです」


 この生徒、ダリオは、形を持たない魔力でも、可視化できる能力がある。それを見出したのは、新入生当時、彼を指導した、自分だった。術を出す前に体内で変化する魔力を見切れれば、常に相手の先手を打つことが可能となり、実戦では絶大な威力を発揮する。彼自身の魔力や攻撃力に特筆すべきものはないが、この能力を利用し、彼は卒業試験の模擬戦ではこれまで無敗のはずだった。


「分かりました。後日、時間を取ります」


 一応、主任教官の許可を取ろう。そう答えたメイにダリオは食い下がった。


「いいえ。今日、お願いします。僕は今日『卒業試験』に合格しました。明日から師匠の元での修業に入ります。ここにはもう、来られません」


 彼の表情の必死さは、メイの教育者としての良心を刺激した。


「……分かりました、お入りなさい」


 防音結界を3重に張り直し、近くの椅子に座らせる。弓を構えなおしたメイを、ダリオの琥珀色の瞳が見つめる。流れ出した旋律を追うように、彼の瞳がゆらめく。

 その時間は確かに、メイにとっても快楽だった。自分の音を、感じてもらう。久方ぶりに、彼女は他人と自分の音楽を共有していた。そこに、隙があったのは間違いない。

 気が付いたときには、メイの弓は押さえられ、彼女の唇は奪われていた。彼女が反応するより一瞬早く、ダリオはすでに元の椅子に飛び戻っている。


「先生。見学は、口実です。ごめんなさい。僕は、僕の力を見出していただいた日からずっと、あなたが好きでした」

 琥珀色の瞳には、からかう光は全くなかった。


「演奏するあなたの姿が素敵すぎて、どうしても触れたくなってしまった。……怒らないで」


 虚を突かれ、怒りも起きずに、メイは6歳年下の教え子を眺める。


「今の僕では、あなたに釣り合わないのは、分かっています。一人前になったら、もう一度、あなたに会いに参ります。……どうか、僕を、忘れないでください」


 そのまま、青年の姿は掻き消え、弓を持ったまま動けないメイだけが残された。




 ――そして今。

 防音結界の先には、琥珀色の瞳を輝かせた青年の姿がある。自分の弓の動きではなく、音の形を目で追うその視線に、どうしようもなく幸福を感じる自分がいる。二人きりの黄昏の音楽室には、演奏者以外の誰にも聞かれることのない旋律が、鮮やかな色彩でいつまでも漂っている。




「まあ、ダリオに関しては若気の至りと言えなくもない。メイに長年の交際相手がいることなんて、学校の接点だけでは分かりようがないからな」


 ケインはがりがりと頭をかく。


「問題なのは、それを受けたメイと、ロベルトの方さ」

「それでなんで俺を呼び出すんだ」


 東の通り、白煉瓦亭。酒と料理、踊り子で評判のケイン一押しの店である。しかし、隣に座った男は、しかめつらしく薬草茶を飲んでいる。下戸なのだ。


「いやだって、あいつらのいきさつを全部分かってるのは、多分俺とお前だけだし」

「俺に他人の色恋話を分析できるわけもなかろう」


 苦々しくつぶやいたのは、眼鏡の教官、ソシギである。いかにもその方面に興味がなさそうな同僚は、しかし実はしっかりと妻と2人の子供がいることを、ケインは知っている。


「ロベルトが死にかかってから、もう9年だ。あいつらがだらだら付き合っているのは多少気にはなっていたが、まあ俺が口出すことでもないと思っていたんだ。だが、この間の騒ぎの話をロベルトの奴にしたら、どんな返事が返ってきたと思う?」


 ソシギは肩をすくめる。


「お前が俺を呼び出すくらいだ、別れるとでも言ったのか」

 ケインは言葉もなくソシギを眺める。正解だった。


「もう一つ、俺に言えることがあるとすれば、ダリオはメイとロベルトの関係は知っているだろう。あいつは、見た目ほど純朴じゃない。確信犯だぞ」

 ソシギはいつもの淡々とした口調で言い切った。




 王宮魔術師が大量に失われた大禍から9年。

 7年前から、ロベルトは魔術師学校の教職を辞し王宮魔術師となっている。ケインの師である王宮最高位魔術師ナギが魔力を失い王宮を去り、その穴を埋める責務があったケインが教師を辞し王宮での業務に専念しようとしたときに、ロベルトは彼を引き留め、代わりに自分が王宮専属魔術師になると申し出たのだった。


「人には向き不向きがある。俺は、組織の運営は得意だが、物を教えるのはそれほど上手くないからな」


 ケインとしても、自分の天職は教官ではないかという思いが芽生えており、ロベルトの申し出をありがたく受けた。その後も二人は度々飲みに行ってはいたが、ロベルトとメイとの付き合いの近況はことさら話題にはならなかった。あの騒ぎまでは。



「会ってない?」


 二人でくり出した酒場で、ケインは思わず隣に座った友人に身体ごと振り向く。


「何でだ」

「何でと言われてもな」


 一息にグラスを空けるロベルトの微笑みは苦い。


「まあ、自然の成り行きだろう。俺たちをつなげていたのは、音楽、あるいはその喪失の体験だ。出会った頃は、俺たちにはお互いが必要だった。だが所詮、いびつなつながりだ。……若い告白者か。いよいよ潮時かな」

「……お前、彼女を信じられないのか」

「俺が信じられないのは、俺自身さ」

「難しく考えすぎじゃないのか」


 ロベルトは目を閉じ押し黙る。その横顔の硬質さは、ケインが見たことのないものだった。


「……お前は、術を暴走させて人を傷つけたことはあるか」


 しばらくして目を開けたロベルトから放たれた唐突な問いに、ケインは眉をひそめる。


「ないだろうな。お前の術は、奔放そうに見えていつも完璧にコントロールされている。人との距離感も。お前の天職が教職だと思うのは、その点だ」


 ロベルトは、またカパリとグラスを空け淡々という。


「初めてメイと会った日、俺は彼女を、殺しかけた」

 ケインは息をのむ。


「本質としての自分の音楽、そしてその師を失い荒廃していた俺の心の、一番痛いところを突かれた。でもそんなことは、言い訳にはなりはしない。人は」

 ロベルトの目が上がる。


「人は、とっさの時こそ、その本質が出ると俺は思う。あの時、俺は思い知った。怒りで我を忘れて、人を害することができる、それが俺の本質なんだ」

 

 ケインには言うべき言葉が見つからない。ロベルトの自嘲気味な声。


「俺には許されないことさ。また、失えば我を忘れるようなものを求めることも、手に入れることも」

 つぶやいてから、ロベルトはふいに黙りケインに視線をよこした。


「すまんな、酔ったようだ。つまらないことを聞かせた」


 それでも。ケインは思い、グラスに目を落とし話し出す。


「……お前が、毒にやられて死にかけた、あの時。お前は意識を無くしていたので知らないだろうが、初めにお前の毒を引き受けようとしたのは、メイだった」


 同じように空のグラスに目を落としていたロベルトはケインを振り向く。


「そう、メイは解毒はできない。一つ間違えば、あの時死んでいたのはメイだったかもしれない。もしお前が言うように、とっさの時の行動に本質が出る、そこにしか真実がないとしたら、あの時の彼女の行動は」

 そこまで言って、ケインは息をついた。


「……お前は、手放してはいけないもの、もう二度と手に入らないものを、手放そうとしているかもしれないんだぞ」


 ロベルトは再びグラスに視線を落としていた。その横顔は彫像のように動かない。


「……まあ、飲むか」


 二人はこの日、控えめに言ってもべろべろに酔った。ケインは翌日、久しぶりの猛烈な頭痛と後悔に襲われた。

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