3-2 飛べない鳥
目を閉じ首を傾げ、メイは自分の音に集中する。フレーズ最後の長音、運弓の乱れは直に出る。
ぱちぱちぱち。
突然背後から拍手が鳴り、メイははっとして振り返る。
「すごいね。下手なプロより達者だな」
音楽室の防音壁にもたれて立っていたのは、長身の男だった。涼しげな眼もと、柔らかく笑みを含んだ口元には見覚えがある。一つ上の学年でトップを走る青年。
「ロベルト・スワニカだ。君は」
「……メイ・ウッドです」
いつからいたのだろう。この学校の音楽室で夜に人を見たことなどなかったため、不可侵結界までは、張っていなかった。油断した、メイは唇をかむ。
「君、素人じゃないね。どうして普段、弾かないの」
チェロを抱えたままのメイを眺めるロベルトの目には愉快そうな光がある。術にはかかっていないようだ、メイはほっとする。
「……魔力が、抑えきれないからです」
聞いてたらわかるでしょう。言いたいがこらえる。相手は上級生、しかも学校一の人気者だ。
「ふうん?」
ロベルトはピアノの蓋を開け、ポーン、と一音鍵盤を叩いた。
ぎしりと音を立てるピアノの椅子に腰かけると、ひとつ息をつき、おもむろに両手を鍵盤に乗せる。
彼の指が動き出した瞬間、渦巻く音の奔流にメイは息をのむ。音の一つ一つは粒となり、狭い音楽室の空間を満たす。キラキラと輝く無数の光の粒に、メイは思わず見惚れていた。
次の瞬間。
ふいに粒子は無数の氷の刃となり、メイに向かって殺到する。
驚きに凍り付き、身を硬くしたまま目をつぶる。
何も起こらない。目を開けると、何もなくなった静かな音楽室で、ピアノの椅子からこちらを眺めているロベルトの姿がある。
音楽室は静寂に満たされる。
「……こんな風に、使うこともできるのに」
彼の瞳の底には
「音楽への、
少女の口から出た低い声音に、ロベルトの顔には驚いた色が走る。
「あなたのピアノ、少しも美しくない」
ロベルトの眉がピクリと震える。
「まぶしてある魔力を除けば、譜面を追うだけの薄っぺらい音よ。情熱も、情感も、何もない。ただ技術があるだけよ」
「……この」
ロベルトの顔が歪み、右手から放たれた水流がメイの首元を締め上げる。メイの手から取り落とされた弓が立てた乾いた音に、彼ははっと我に返りメイに駆け寄った。
「すまない、……大丈夫か」
メイの首に手を当て治癒魔力を入れながら、ロベルトはおろおろと謝罪を繰り返す。当てられた手がぶるぶる震えているのを、メイはうっすらと感じていた。
しばらくして起き上がったメイに、ロベルトは膝をついて謝罪した。
「謝って済むものではないが、本当に申し訳ないことをした。この件は、学校と魔術師連合に、報告する。裁きは受けるが、それ以外にも、償いをさせてほしい」
蒼白なロベルトの様子に、メイはため息をつく。
「いいえ。……嫌なことを言って、ごめんなさい」
ロベルトの顔が上がる。
「あなたも、そうよね。私も、今、あなたに嫉妬したの」
ロベルトの顔に驚愕が広がる。
ロベルトのピアノには、諦観と、情熱を失ったが故の硬質な透明感があふれていた。
音楽を、魔術の道具として使う。それは、決して禁じられたことではない。しかし、純粋に音楽家としての道を目指していたメイには、その選択は耐えがたいものだった。自分が没頭して演奏すると、制御不能となる魔力で人の精神に害を及ぼす可能性がある。そう宣告された時、メイは、すべてをかけて打ち込んでいた音楽の道をあきらめ魔術師学校への入学を選択した。
でも、今のメイは、どんな形でも音楽と関わって生きていく、その選択をできるロベルトに、どこかでうらやましさを感じてもいる。
「私たち、魔力に羽をもがれた飛べない鳥なのよ。似た者同士ね」
ため息のようなメイの言葉に、ロベルトは言葉を失い呆然としている。
「音を聞いたら、分かるわ。あなたも、音楽に人生をかけて生きてきたんでしょう。今更、他の何にも、夢中になれない。これを手放したら、ただの空っぽな体があるだけ。でも、もう人前で純粋に音を奏でることは、許されない」
時々、内側から何かが暴れ出しそうになるの、分かるわ。
メイのぽつりとしたつぶやきは、静かに防音壁に吸い込まれる。
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