2-6 再び、自由について(第2話 完)

 午後の診察室には、カーテン越しの日の光が斜めに差し込んでいる。

 休診日の水曜日の午後、ルーカスが診療所を訪れアンナの火傷痕に治療をする習慣ができて、かれこれ1年が経とうとしていた。


 ルーカスの右掌が、慎重にアンナの左手指にかざされる。アンナは自分の左手をじっくりと眺める。ルーカスの掌から、白熱灯のような橙色の温かい光が溢れ出し、それが、アンナの指をじんわりと温めていく。

 いつ見ても、不思議だ。自然の摂理で説明できないからこそ魔法なのだと言われればそれまでだが、医者の自分からしてみれば、この光で自分の瘢痕が少しずつ柔らかくなり小さくなっていく様は、この目で見ても信じられないものだった。


 30分ほどで施術を終えると、二人は薬草茶で一息つく。無言の間も心地よい。治療のはじめの頃に二人の間にあった妙なぎこちなさは、1年近くでさすがに消えていた。


 初めの三月ほどは、治療はなかなかに大変だった。施術は随分と体力を使うものと見え、治療中にルーカスの額に脂汗が浮かび、顔色が真っ青になりアンナは心配になったものだ。手のひらからの光も、不安定だった。徐々に光が安定してきて、はっきりと治療効果が表れ出したのは、半年ほど経ってからのことだ。


 経過を確認してもらいにひと月ごとに訪れるあの菓子店で、アンナの指をためすがめつしてから、ナギは初めて微笑んだ。


「怖くなくなったか」


 笑いを含んだ問いに、なぜかルーカスはぐっと詰まる。


「君は、いい魔術師になりそうだがな」

 

 ルーカスは黙って微笑み返す。

 やり取りの詳細な背景は分からなかったが、これはもしかしたら、ルーカスの治療でもあるのかもしれない、アンナはうっすらと理解する。





「あとひと月で、治療は終了でいいだろう」


 ナギからその言葉をもらったのは、ナギの最初の治療からちょうど1年後のことだった。


 最後の治療の日。ルーカスは、いつもより遅い時間に診療所に現れた。

 アンナが診察室に入ると、ルーカスは自分の右の掌に火の玉を浮かべ、それをぼんやりと眺めていた。

 火の玉などになじみのないアンナは心底ぎょっとする。魔術を扱う人たちと過ごす日常は、時々唐突に心臓に悪い。

 ルーカスは我に返ったように振り向くと、右手を握り火球を潰す。しばらくしてもう一度開いた掌には、穏やかな橙色の光がある。

 アンナはその掌の上に左手をかざす。もう、指の傷痕きずあとはほとんど分からなくなっていた。

 しばらく同じ姿勢で施術が続く。ふいに、ルーカスの右手が丸められ、彼の指がアンナの指に触れた。初めての感触に、アンナはびくりとする。ルーカスははっとしたように掌を開き、顔をゆがめた。


「すまない、……考え事をしていた」


 弱まっていた掌の光が強くなる。そのまま10分ほどで、二人は無言で治療を終えた。




 いつものように薬草茶を飲み、二人は同時に息を吐く。微笑んでから、ルーカスが静かな声で切り出した。


「アンナ。今日で、傷の治療は終わりだね」


 なぜかアンナの胸の奥が泡立つ。


「ここしばらく、考えていたんだ。……自由について」


 またそれだ。アンナの胸の奥のざわつきがひどくなる。


「君の傷がなくなることで、私も君も、自由になる。自由になって、私と君は、まっすぐ向き合える。少し前まで、私はそう信じていた」


 ルーカスの瞳の奥には、くらい光がある。アンナの見たことのない光だ。


「しかし、君の自由は、多分私のものとは少し違う」


 彼の口調は淡々としていたが、その瞳は苦し気にゆがんでいた。彼はそのことに気づいていない。


「君は美しい。傷があったときから、それは変わらない。でも、傷がなくなって、君の可能性は飛躍的に開いた。私の存在は、君の自由を妨げている。……私は、君を真に自由にするよ。仕事場に押しかけたりも、もうしない」


 ルーカスが正面からアンナを見る。すべてを押し殺したような、無表情だった。


「これまで、ありがとう」

 



 アンナの胸がきしむ。きりきりきり。これは、何の病気の症状なのだろう。

 ルーカスが静かに立ち上がる。机に置かれた彼の右手の袖を、とっさにアンナの左手がつかんだ。

 ルーカスの目が見開かれる。


「アンナ?」

「……行かないで」


 か細いつぶやき。

 伏せられて顔の見えない彼女の、真っ赤な耳から首筋までを目にして、ルーカスの顔には信じがたいという色が浮かぶ。その後、その口元にゆっくりと微笑が浮き上がる。


「アンナ。……こっちを向いて」


 ささやくような甘い声に、アンナはますます下を向く。

 腰を下ろしたルーカスの右手の指が、アンナの左手の指に絡む。ルーカスの左手が、優しくアンナの頬に触れる。

 暮れかけた秋の日が、診察室を薄赤く染めている。

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