2-4 アンナの傷

「それで、博物館の方は無事始まりそうなの」


 退学届けを提出しに教官控室を訪れたルーカスに、ケイン教官は声をかけた。


「おかげさまで、ポストを空けて下さっていました」


 ルーカスの清々しい表情に、ケインもほっと息をつく。


「良かったよ、君の本来の力が出せる場所に戻れて。彼女のおかげだな」


 途端に複雑な笑顔になる教え子に、ケイン教官は苦笑いする。


「仕事は順調でも、そっちはなかなか、か」

「そうですね。……相変わらず、ふられ続けています」


 あきらめないお前も大したもんだよ。ケイン教官の心の声。

 きっぱり彼女に拒絶され、魔術師学校の退学を決め、王宮の医務所を辞してからも、ルーカスはアンナの診療所に日参している。


「ど根性だな」


 色恋でそこまで粘ったことのないケイン教官は、心底感心する。

 ルーカスは自嘲気味に笑うが、その目には変わらず光がある。


「一目ぼれです」


 彼女とのかかわりを彼に聞いたとき、ルーカスは一言、答えた。


 22歳、就職を目前に控え、ルーカスは身上書づくりのため、自分の過去の記録を見直していた。そこで初めて、9歳の時に起こした火事で、少女に負わせた火傷がかなりの重症であったこと、消えない傷跡を残していたことを知った。居ても立ってもいられず訪れた彼女の仕事場で、医師の姿で現れたアンナに、ルーカスは一目で恋に落ちた。彼女のことを知れば知る程、ますます彼女に惹かれていった。

 アンナはいつも優しく接し、楽しそうに話はしてくれる。自分のことを嫌ってはいないと思うが、まったく相手にはされていない。これが現在のルーカスの感触である。

 初対面でプロポーズなどという悪手を打ったのが敗因だ、と、ケインには散々くさされた。仮の許嫁と記録にあったため、先走ってしまった。ルーカスは悔やんでも悔やみきれない。





「先生、いつものお客様です」


 受付からの笑いを含んだ声。もはや、スタッフ全員慣れっこだ。

 待合に出ると、花束を持った見慣れた人影。


「アンナ、おはよう」


 柔らかい笑みで花を差し出す。

 いつもきっかりと同じ時間。時計のように正確に、ルーカスは開所前の診療所にやって来ては、自分の仕事に間に合うように去っていく。休日には馬を駆って、近郊の田舎への遠出を誘いに来る。

 どうしたら良いのだろう。無下にするのも気が咎めるが、彼の人生を浪費している気がして、アンナは悩む。自分は彼の気持ちに応えることはできない。

 あの時きっぱりと断ったつもりだったが、彼は魔術師になることをあきらめただけで、自分のことはあきらめなかった。





 ケイン先生と再会したのは、偶然だった。アンナの行きつけの焼き菓子屋で、彼はなぜかお茶を片手にくつろいでいた。


「これはこれは、アンナ嬢」


 少し人の悪い笑みで、赤毛の青年は彼女を眺める。彼の隣には、まばゆいばかりの美人が座っていた。


「紹介するよ。妻のエリザベス。王宮魔術師だ」


 優雅に一礼される。にこりと微笑まれると、同性でもどきりとしてしまいそうだ。


「この方がその」


 なぜか自分を知っていそうな口ぶりに、ちらりとケインに視線をやる。


「失礼。わたくし、アニサカ家の者なのです。イワニカ家とも縁浅からぬ仲でして。イワニカの長男がご執心の娘さんについてのお噂はかねがね。……狭い世界で、お恥ずかしいです」


 アンナは顔を赤らめる。いったいどんな噂になっているのだ。

 その時ちらりと、美女の目の奥が光った。


「アンナさん。お医者様と伺っていますが」

「そうですが、何か」

「少しお時間いただけるかしら。ちょっと、殿方にはお聞かせできないご相談があるのですが」


 ぐいぐいと引っ張られ、カウンターの中に引き込まれる。


「リア。奥の部屋借りるわよ」


 店主に声をかけ、勝手知ったる素振りで進んでいく。




 連れていかれた奥の寝台のある部屋で、エリザベスは突然言った。


「アンナさん。ルーカスのこと、好きなんでしょう。どうして受け入れてあげないの」


 意表を突かれて、アンナは押し黙る。


「……ごめんなさい。私、油断すると人の精神の波長が見えてしまうの。先ほど、彼の話題を出した時に、見えてしまって」


 エリザベスは申し訳なさそうに頭を下げる。


「普段は、見えても黙って忘れるのだけれど、……あまりにも、辛そうな色だったから」


 魔術師、怖すぎる。でも、そうか。私の心の奥底は、そうなのか。アンナは一人納得する。


「自分では、自分の気持ちは、良く分からないんです。今、教えていただきました」


 全く知らない相手だから、かえって話しやすいのかもしれない。アンナは、自分の胸の内をのぞき込む。


「本当は、傷にとらわれているのは、私なのかもしれません。彼が私の傷を見るたび、自分の過ちを思い出して、辛い思いをしているのは、明らかなんです」


 アンナは無意識に右手で左手を覆う。エリザベスの瞳が痛ましげに光る。


「一緒に過ごせば過ごすほど、彼の中で、その辛さが育ってしまう。私たちは、一緒にいないほうが、いいんです」


 突然自分の双眸が滂沱と涙を流し出し、アンナは途方に暮れる。

 あれほど美しく優しい人から、あれほど激しい告白をされて、毎日花を贈られて、好きにならずにいられるはずはない。自分は、どうすればいいのだろう。



「……アンナさん。傷を、見せてもらえますか」


 彼女の様子に胸が痛み、ベスはつい声をかけた。治療魔術の私的利用はご法度だが、目くらまし程度の手伝いはできるかもしれない。

 アンナの背を見て、ベスは息をのんだ。

 むごい。それにしても、この中途半端な治療の跡は何なのだろう。


「アンナさん、どちらで治療を受けられたの」

「王宮の医務所です。14年前、9歳の時に」


 14年前。ベスは立ち上がる。


「少し、待っていて」


 アンナを残し、ベスは部屋を出た。



 戻って来たベスの後ろには、銀髪碧眼、輝くばかりの美貌の男がいた。この店は一体何なのだ、アンナは呆然と考える。男は、魔術師のナギ、と名乗った。


「……確かにこの治療は怠慢だ。しかし、今この傷に治療魔術を行うことは、生命維持ではなく、整容目的の治療となる。許可はできない」


 アンナの背を観察したのち、ナギは、淡々とした声でベスに告げる。


「でもお兄様、この傷は、14年前に王宮の医務所で治療されたものなのです」

「14年前」


 ナギの声に思案の色が混じった。


「……分かった。彼女の治療は、私が行う」

「お兄様が?」


 驚いたベスの声。


「予定を合わせて、医務所の治療室を一室押さえろ。ケイン、頼めるね」

「はい」


 いつの間にか背後にいたケイン教官が頭を下げる。アンナは事態が呑み込めずに目をまたたいた。

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