2-3 自由について

「先生、お客様です」


 受付の声に、薬研やげんに集中していた視線を上げ、アンナはゆっくりと部屋を出る。

 待合室には、見覚えのない赤毛の男が立っていた。男は、魔術師学校の教員と名乗った。教え子のことで確認したいことがある、との用件に、思い当たる患者のいないアンナは首をかしげる。


「生徒の名は、ルーカス・イワニカ」


 1年ぶりに聞く名前に、アンナは目を見開いてケイン教官を眺める。その名はもちろん知っているが、今いる場所は魔術師学校などではないはずだ。


「教員として放置はできない状況なんで、申し訳ないけど、直接話を聞きに来た」


 ただならない言葉に、アンナの胸がざわつく。





 シーツを消毒液に浸け、ルーカスは息をついた。これまであまり身の回りのことをしてこなかったせいで、作業ひとつひとつの手際が悪い。床を掃こうと立ち上がった時、部屋の扉が開いた。

 滑り込んできた人影を見て、驚きで目を見張る。


「……消毒なんかは、普通の病院とかわりないのね」


 ルーカスの後ろの桶を見てつぶやいたのは、アンナだった。


「どうしてここに」

「ケイン先生に、居場所を聞いたの」


 あの人は。ルーカスは唇をかむ。一番知られたくなかった相手に。


「ルーカス。博物館の仕事を断って、魔術師学校に入ったって、本当なの」


 彼女の美しい切れ長の目が、まっすぐに彼を見る。

 ルーカスは覚悟を決めて、その目を見返した。


「そう、そして今は、ここ――王宮の医務所で見習いとして働いている」

「博物館の研究員は、あなたの天職だったのに、どうして」


 彼女の悲しげな瞳は、今でも簡単に自分を傷つける。ルーカスはもう一度唇をかむ。


「……自由に、なるためだよ」


 彼女の目が見開いた。




 病院の狭い用具室は、自分の職場のようでなぜか落ち着く。

 ルーカスに薬草茶のカップを手渡され、一口飲みながらアンナは微笑む。ルーカスは苦しげな表情で彼女を見ている。


「どうして、ここに来たんだ」


 彼の荒れた指先を眺め、アンナは小さく息をつく。


「心配だからよ」

「自分で決めた道だ。心配はいらない」


 聞いたこともない硬い声だった。アンナはじっと彼の目を見る。先に目をそらしたのは、ルーカスだった。


「このままでは、あなたの才が無駄になる。ケイン先生は、そうおっしゃっていたわ」


 ルーカスは黙っている。


「あなたは、それは魔術の才もあるかもしれないけれど、それより何倍も学問が好きで向いている。自分から、脇道にそれるようなことを選ぶ人ではないのに」

「……帰ってくれ」


 アンナはため息をつく。


「私の傷痕きずあとを治すために、治療の魔術を極める。あなた、そう言ったそうね」


 ルーカスは目を閉じる。あの人は。苦々しいつぶやき。


「私の言葉があなたを傷つけたのなら、謝るわ。私はただ、過去の負い目は忘れてほしかっただけなの。あなたがこんな、自棄やけのような選択をするなんて、思いもしなかった」

自棄やけ……」


 ルーカスは小さくつぶやく。


「……分からない」


呻くような声だった。


「貴方は、自由になってほしいと俺に言った。どうすれば自由になれるのか……考え抜いて、俺は、魔術の道に戻ることを決めた」


 彼の灰色の目が、激情をたたえてアンナを見つめる。


「自分の心を差し出しても、何もかも過去の負い目のせいにされるなら、俺は一体どうすればいいんだ。貴方の傷痕きずあとを何とかして治して、ただの男と女になって、もう一度あなたに愛してくれとすがるしか、ないだろう」


 かすれた、ささやくような叫び声。


「俺は貴方を、愛している。どうして分かってくれないんだ」


 アンナは、かすかに口を開いてルーカスの顔をただ見つめていた。

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