2-2 下町のアンナ先生

「先生。お客様です」


 客?アンナは顔を上げる。手早く手を洗うと部屋を出た。


「お待たせしました。……どちら様?」


 待合室に佇んでいる人影は、アンナには見覚えのないものだった。

 長身で均整の取れた体。きっちりと撫でつけられた髪に、仕立ての良い上着。どう見てもこの界隈には似つかわしくない、上流階級の匂いがプンプンとしている。

 灰色の瞳の整った顔立ちの男は、アンナを見て意表を突かれたような顔をした。


「……アンナ・ハンターさんは貴方でよろしいか」

「ええ、そうですけど。……何がご所望ですか」


 男の顔色は悪くない。ここに用事があるようには見えなかった。


「あ、もしかして……強壮剤? 今はストックがないんだけれど」


 口走ってから、失礼だったかもと顔をしかめる。

 男はかすかに首を傾げた。意味が分からなかったようだ。


「先生……」


 笑いをこらえた看護婦の声。

 でも、そうでないのなら、この健康そのものに見える男が、自分の診療所にやってくる意味が分からない。

 男はしばらく逡巡していたが、意を決したように口を開いた。


「私は、ルーカス・イワニカ。アンナ・ハンターさん。……私と、結婚していただきたい」


 その場の全員の口がポカンと開いた。





 それから半月。アンナは、男の生家、イワニカ家の避暑地の別荘にいた。

 避暑地の湿原はきれいに晴れあがり、心地よい風が吹いている。

 湿原には板張りの遊歩道が延々と続いている。遠くに雪を抱いた山々が見え、その手前、見渡す限りの色とりどりの平らな大地の美しさに、アンナは思わず息をつく。


「疲れたかい」


 柔らかい声で、先を歩いていたルーカスが振り向いた。灰色の瞳に優しくのぞき込まれ、アンナはどぎまぎと答える。


「いえ。……なんてきれいなんだろうと思って」

「本当だな。風が心地いいね」


 ルーカスが目を細める。彼女より頭一つ高いその端正な横顔に、アンナはつい見とれる。

 くるりと向き直られ、アンナは目をそらした。


「……あの先の、木陰のベンチまで行って、昼食にしようか」


 ルーカスの左手にはバスケットがある。歩き出す長身の背中を眺めながら、アンナはため息をつく。どうして、自分がここに、この人の隣にいるのだろう。

 木陰のベンチで広げられたサンドイッチは、目を疑う豪華なものだった。

 ふと目を上げると、ルーカスの肩に小さなクモが止まっている。

 ひょいとつまみ上げると、ルーカスの目が見開いた。


「それは、な、な……」


 ずざざざ、と音がしそうなほど身を引いて、顔を強張らせる様子に思わず頬が緩む。

 虫も触れないとか。この人は、本当に生粋のお坊ちゃんなのだ。





 下町の診療所で医師として働くアンナの元に、頓珍漢な申し出を引っ提げてこの人、ルーカス・イワニカが突然やって来た時には、詰めの甘すぎる詐欺かと思ったものだ。自分の実家から連絡があり、相手が10年来の許嫁いいなずけだと言われた時には、冗談ではなく顎が外れそうになった。

 13年前、ルーカスとアンナが9歳の時、アンナは道を歩いていて、飛んできた火の粉で火傷を負った。運悪く着ていた服が燃えやすい素材だったのか、火の回りが早く、火傷は背中から左腕にかけて、かなり広い範囲に及び、一時は命が危ぶまれた。町中まちなかの病院では手に負えず、アンナは王宮の医務所に運ばれた。火元が魔術の名家、イワニカ家であったこともあったのか、破格の対応だった。

 そして、傷の残った彼女に、イワニカ家から、将来傷が結婚の障害となる場合、イワニカ家の男児と結婚させるとの申し出があったという。貴族の口約束。アンナの家族は誰もその申し出を本気にはしていなかったし、アンナには伝えられもしなかった。



 13年後、22歳で独身であったアンナの元に、突然ルーカスが現れた。女独りで生きていくために、死ぬ気で勉強して医師となったアンナには、彼の申し出を受けるいわれはなかったが、何度断っても彼は診療所に通ってきた。美しい大の男が何度もしょんぼりと帰っていく姿に、アンナはだんだん気の毒になって来た。

 とりあえず、彼の気が済むまで少し付き合ってあげようか。そう思ったのは、手袋をはずした自分の左手を見た彼の苦しそうな瞳に気づいた時だった。あまり詳しい話を聞いてはいなかったが、彼があの事件の原因だったのだろう。そして、今でもそれを気に病んでいる。

 夏休みの気晴らしもかねて、アンナはルーカスの避暑地の別荘への誘いを受けた。

 避暑地の日々は意外なくらい楽しかった。

 下町育ちで、娘時代をほとんど勉強に捧げたアンナにとって、避暑地の手入れの行き届いた自然は新鮮だった。幹も枝ぶりも美しいミズナラ、カラマツの林。湿原の花々。

 そして、満天の星。

 読書以外にすることがないから、という言い訳付きで案内された恐ろしい数の蔵書の図書室。ルーカスと二人で朝から夕方まで読書に没頭し、執事に呆れられた日も数知れなかった。

 休みが明けたら博物館の研究員に就職するというルーカスとの会話は知的で楽しいものだった。

 気の休まる暇のない日常から離れ、アンナは休暇を満喫していた。



 ひと月の休暇の終わり、明日で都に帰るという日、二人でミズナラの林を歩いているときに、足を止めたルーカスは真剣なまなざしでアンナに告げた。


「アンナ。私と、結婚してほしい」


 アンナは、木漏れ日に彩られた、彼の整った顔を眺める。

 彼が優しく誠実で、良い人であることは良く分かった。博識で頭の回転も速く、会話はとても楽しい。彼と結婚する人は、きっと幸せになれるだろう。アンナは微笑んで答える。


「ルーカス。あなたは、素晴らしい人です」


 彼の輝く瞳をのぞき込み、言葉をつなぐ。


「13年前の出来事で、あなたは自分の過ちを許せずにいるのかもしれないけれど、私の中では済んだことよ。私の人生は、私が作って行くもの。あなたが背負い込む必要はないのよ」


 彼の表情が強張っていくのを眺めながら、静かに言葉をつなぐ。


「負い目から結婚を決めるのは、お互いにとって不幸なことよ。……ルーカス、もう、自由になってください。私のためにも」


 言葉を失う彼を残して、アンナは日が降り注ぐ林の外へ歩み出した。

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