1-4 西の森

 店で初めて踊り子として舞台に立った日、客席に黒髪の幼馴染の姿を見つけて、ニーナはギクリとした。


(どうして、よりによってこんな日に)


 テオは、3年前に彼女の前から姿を消していた。何かの職人の学校に行くことになったらしいと、ニーナは母親伝手づてに聞いていた。幼馴染ではあったけれど、読み書きを習いに町の学校に行く齢になるころには、二人は遊ぶこともなくなっていた。

 酒場の客席で、一人だけ幼さを残した姿の彼は、ひどく浮いていた。まだ17歳。酒を飲むのもぎりぎりの年齢だ。

 ニーナの脳裏に、どうしても、歌をけなされたあの日のことが浮かぶ。何とか忘れて踊り子としてやっていきたいと、決心して臨んだ初舞台なのに。

 テオは、ほとんど身じろぎもせずひたすらニーナの姿を眺めている。その目はわずかに眇められ、感動や興奮とは程遠い。自分の踊りに没頭しようとすればするほど、その目が気になりニーナの動きは固くなる。


(ひどい出来だった)


 新人には甘い白煉瓦亭では、姐さんも店主もニーナに何かを言うことはなかったけれど、舞台をはけた後、自分の不甲斐なさにニーナの目には涙がにじんだ。


「どうして来たの。踊りなんて、興味ないでしょう」


 舞台終わりの挨拶回り、最後に回ったテーブルで、思わず冷たい声音でニーナは幼馴染に声をかけた。

 テオはほとんど表情を動かさず、ニーナを見上げる。


「……歌わないか心配で来た」


 その言葉に、ニーナは思わずカッとする。


「あんたが、あたしに歌うなって言ったんでしょう。あたしは今でも、震えて人前じゃ歌えない。そんな目で見ないでよ。今度は踊りまで、ダメにしようっていうの。……二度と来ないで」


 周りに聞こえないように、小声で素早くささやくと、さすがにテオの瞳には傷ついた色が走る。

 せっかく来てくれたのに、言い過ぎたかな。ちらりとニーナの胸には後悔がよぎる。でも、あの検分するようなまなざしの前で、また踊ることは耐えられない。黙ってニーナは踵を返し、控室へと駆け戻る。


 それからテオは、店には二度と姿を見せなかった。





 ニーナが踊り子として初舞台を踏んで半年、流しの弾き手のアスカが店にやってきて3か月が経った頃、ニーナは、歌い手として舞台に立つことが決まった。


「初舞台を踏む前に、ゲン担ぎで行く場所があるんだ。君も、来ないかい」


 はしばみ色の瞳を細めて、アスカはニーナを誘い出した。


「この場所は、不思議に音が響くんだよ。ここでのイメージを舞台に持っていければ、うまくいくことは間違いない」


 連れていかれたのは、西の森、と呼ばれる、王都の西に広がる広大な森林の入り口近くだった。森の中にぽっかりと開いた広場のような場所に、不規則に円を描いて、大きな石が並んでいる。


「真ん中に立ってみて」


 いわれるがままに中央に立つと、そよそよと風が吹き抜け、森の良い香りがした。


「落ち着くだろう。そこで歌うと、声の響きがとてもいい。精霊に祝福された場所だと言われているんだ」


 静かにアスカの弦が鳴り始める。今夜初めに歌う予定の曲。深く息を吐いてから吸い込み、ニーナは歌い始める。初めてアスカの伴奏で歌った日と同じ、ぞくぞくとした快感が背筋を突き抜ける。レモン色の光が、閉じた視界いっぱいに広がり出す。

 数曲、今日歌う予定の曲が続いた後、ふいに始まったその曲に、ニーナはぎくりと身を強張らせた。それは、昔、幼馴染のテオに歌うなと言われた曲だった。

 振り向くと、アスカは柔らかく微笑んでニーナを促す。幼いころの祖母の声がよみがえり、ニーナの唇は知らずにメロディーを追い始めていた。


 

 その時。

 ふいに、視界の端を黒いものがよぎった。

 並んだ巨石の一つの影が、徐々に這い上がるように広がっていく。目を移すと、いつの間にか巨石に囲まれた円上に、黒い影がゆらゆらと立ち昇っている。

 ニーナは目を見開いた。逃げなければ、と本能が告げるが、しびれたように体は動かず、自分の口から、勝手に歌は紡がれ続ける。

 黒い影は、這い上り徐々にニーナの頭上までを覆いつくし、ニーナの視界は薄暗くなる。ふいにその影のドームの天井が、竜巻のようにうねりニーナの口元に襲い掛かった。


「ぐっ」


 突然喉元に灼熱を感じ、ニーナはのけぞる。



 次の瞬間。

 ニーナを覆っていた黒いとばりが切り裂かれた。


「左の方向に、まっすぐ逃げろ」


 聞き覚えのある声。

 振り返ると、そこには右手に漆黒の刃の短剣を持ったテオの姿があった。


「テオ」

「早く行け。振り返るな。全力で走るんだ」


 そのまま影のとばりに躍りかかるテオの言葉に、弾かれたようにニーナは走り出す。

 とばりを出て振り返ると、とばりの中で片膝をついたテオの姿が見えた。

 駆け戻ろうとする彼女の腕を、何かが絡めとる。アスカの右手だった。


「行こう。逃げるんだ」


 そのままアスカに抱え上げられ遠ざかりながら、ニーナは影の帳が再び閉じるのを、ただ見つめていた。




 黒い影は、追ってはこないようだった。

 王都の門の内側まで駆け戻り、アスカとニーナは荒い息をつく。


「助けを呼ばないと。テオが、友達が」


 腕を捕えたままのアスカに向かい、ニーナは苦しい息の下で必死に言葉を紡ぐ。

 アスカの顔を見上げて、ニーナは恐怖にすくんだ。

 そこには、憎悪に歪みぎらぎらとした光を放つ、はしばみ色の瞳があった。


「あと一息だったのに」


 忌々しげにつぶやく。アスカの右手が、ぎりぎりとニーナの腕を締め上げる。


「アス、カ……?」


 ニーナの声に、アスカはふいに瞳をやわらげ、優しげな声で告げた。


「いいや、まだ終わりじゃないね。君の喉は生きている。あの小僧はもう、消されただろう。もう一度、彼の方にお前を捧げれば良い。……私と一緒においで」


 次の瞬間、ニーナの視界は暗転した。

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