1-2 白煉瓦亭のニーナ

 王都の東の通りの目覚めは遅い。気取りのない酒場が多いこの辺りでは、店はたいてい夕方に開く。

 ニーナの踊る店「白煉瓦亭」は、その通りの真ん中にある。麦酒に合う肉料理と、踊り子が評判の店だ。踊り子が酔客に身体を触らせたりして、小銭を稼ぐような店も多いけれど、「白煉瓦亭」は違う。踊り子たちはみな美しく、もちろん踊り上手、そして簡単には客になびかない気位の高さで売っている。


 その男が店にやってきたのは、3か月前のことだった。踊りも音楽もこだわり抜く店長が、いつもは絶対に入れない流しの弾き手を稽古場に連れてきた。彼の瞳を見たとき、その昏い光にニーナはぞくりとした。

 はしばみ色の瞳に、暗い茶色の髪。長身の、黒い服に身を包んだ男だった。


「今日からしばらく、バックで入ってもらう。まずは相性を見るために、弾いてもらうから全員即興で踊れ」


 不思議な形の楽器の弦の上を彼の指が滑ると、踊り子たちの間には陶酔にも似た興奮が広がる。自然と彼女らの身体がうねり、たちまち稽古場は興奮のるつぼと化す。

 旋律は、ほとんどがスタンダードの使いまわしだ。それを巧みにつなぎ重ね、独特のリズムで人を引き回す。考えるより先に身体が動く。経験したことのない興奮に、ニーナも我を忘れて身体をくねらせる。

 ふいに音がやんだ。

 踊り子たちは息を弾ませ、興奮冷めやらぬまま立ち尽くしている。


「……あの子が良い」


 男が指し示したのは、ニーナだった。




「どうしてあたしを。姐さんたちに比べて、まだまだひよっこなのに」


 初めて稽古場で二人になった時、ニーナは思わず尋ねた。自分は、給仕をしながら1年踊り子見習いをし、舞台に立つようになってから、まだ二月しかたっていない。店には、何年も花形を張る評判の踊り子がたくさんいる。


「……君には埋もれた才能がある。自分でも気づいていない、才能だ。それをこれから、開かせるんだよ」


 はしばみ色の瞳を妖しくきらめかせて、男はニーナを見据える。裸にされそうなその視線に、ニーナの身の内が震える。

 その時、漆黒の瞳が頭をよぎった。

 負けるもんか。唇をかみ腹に力を入れる。あたしは、これで生きていくって決めたんだ。


「お願いします」


 ニーナの表情に、男の眼差しが緩んだ。静かに音が流れ出し、ニーナは無我夢中で踊り出す。





「声を出せ」


 稽古を始めてから1週間が過ぎたころ、男は突然ニーナに言った。

 ニーナはうつむく。本来この店では、踊り子という呼称でも歌い手を兼ねるものなのだが、ニーナにはそれができない。

 ニーナは人前で歌えない。幼いころ、自分の歌声を幼馴染に手ひどくこき下ろされてからだ。


 テオは、母親同士が親友で、3月違いで生まれた、ニーナの幼馴染だった。小さなころから小柄で、線が細く色白な男の子だった。この国では珍しい、漆黒の髪と目をしていた。

 無口で物静かで、わがままを言うこともないテオは、ニーナのおままごとの格好の相手だった。他の男の子のように、荒っぽくぐいぐいと優しくしてくれることはなかったけれど、いつも穏やかなテオの言葉に、ニーナは温かい気持ちになった。

 ニーナの歌を退屈せずに聞いてくれて、初めてほめてくれたのもテオだった。テオは異様に耳が良い。幼いころから、大人から気味悪がられるほどだった。そんなテオに歌声を褒められ、ニーナは有頂天になった。

 でも、その関係は突然崩れた。

 ある日、いつものようにニーナが広場でテオに歌を披露していた時だった。


「その歌は歌うな」


 突然、口をふさがれニーナは目を見張る。右手でニーナの口をふさいだテオの顔はいつもの静かな表情ではなく、怒っているように見える。


「お前には、……向いてない」


 冷たい声音に、ニーナの浮き立った心は冷やされる。

 すぐに右手は外され、テオはくるりと背を向ける。


「どうしてよ。私の歌、好きって言ってくれたじゃない」


 その後姿に涙声で問いかけるが、返事はない。


「その歌は、お前が歌っていい歌じゃない」


 確かに、いつもの童謡とはレベルの違う歌だった。恋に破れた女の、切ない歌だ。歌詞の半分も意味が分からず、今のニーナでは、歌いこなせているとはとても言えない。それでも、聞くに堪えないとでもいうようなテオの口調に、ニーナはひどく傷ついた。


「どうしてそんなひどいこと言うの。私の、大切な歌よ」


 おばあちゃんがよく口ずさんでいた歌だった。


「お前はもう、歌は歌うな」


 テオは振り向かずに吐き捨てる。ニーナは泣きながら走り去った。

 それからも、二人は時々一緒に遊んだけれど、ニーナは二度と彼の前で歌えなかった。いや、人前で歌うことはできなくなった。

 それでもニーナは音楽が大好きで、どうしても離れられなかった。踊り手になったのは、そのためだ。




「……歌は、向いていないと言われて」

「君の声は美しいよ。普段の声からもわかる。特別な喉を持っている」


 常にない柔らかい声で、流しの弾き手、アスカは言う。


「初めに客としてこの店に来て、給仕に来た君のその声に惚れたんだ。踊り子の選抜は、口実だよ」


 見つめられ、ニーナはどぎまぎと視線を落とす。


「まずは自由に、歌ってごらん。どんな曲でも合わせてあげるから」


 アスカの声は甘い。ニーナは息を吸い込んだ。




 ああ。気持ちがいい。

 懐かしい童謡を歌い出すと、少し遅れてアスカの弦が歌い出す。自分の声と弦の調べが絡んだ時、背筋をぞくぞくと快感が走る。自分の声がどこまでも伸びていくのを感じる。閉じたニーナの目の奥に、レモン色の光が見える。

 気が付くと、音はやんでいた。


「……素晴らしいな」


 アスカのつぶやき。はしばみ色の瞳がニーナの瞳をのぞき込む。


「その声、特別なものだよ。潰さないように、俺が育てる。明日からは歌い手の特訓だ」


 アスカの言葉に、ニーナの胸は歓喜に満ちた。幼いころからずっと自分を縛ってきた、漆黒の瞳の呪縛を振り切ることが、できる気がした。

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